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速すぎて騎手が続かない竜少女と、元戦闘機乗りの異世界空戦記~全速は十二秒、帰還は二人で~  作者: 他力本願寺


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第36話 夜の空は誰のもの

バラバラバラッ! と、大粒の雨が風護膜の表面を激しく叩きつけていた。


 国境南部の山岳地帯に垂れ込めた巨大な暗雲。その内部へと突入した瞬間、地上のかすかな灯りも、雲の上を照らしていたはずの月明かりも、まるで黒い布で覆われたかのようにぷつりと消え失せた。


 耳を支配するのは、膜の上で弾ける豪雨の轟音と、重く湿った大気が唸る低い風音だけだ。


「……視界ゼロか。すごい雨だな」


 隼人は加圧補助竜鞍の上で身を低くし、風防眼鏡に付着した水滴をグローブの甲で拭った。


 地上の中継基地を出撃する直前、監視哨からは「救難竜の灯火が途切れた」と報告があった。だが、それは雲の外から見た場合の話だ。分厚い雨雲の内部でまだ友軍が飛んでいるのなら、至近距離まで近づけば微弱な魔力光を視認できる可能性は残されている。


 そのためには、後から追いついてくるガルドとマーラの本隊を待つよりも、速度に優れる隼人たちが先行して暗雲の内部を探る必要があった。


「リュシア、対気速度は時速二百五十を維持しろ。この視界でこれ以上速く飛べば、岩峰や敵の乱流幕に気づいた時には回避が間に合わない」


『了解。風護膜の出力は前方に厚くしてあるわ。……でも、変ね』


 共感回路を通じて伝わってくるリュシアの思念に、ぴりりとした警戒の色が混じった。


 彼女は暗闇の中で首をわずかに巡らせ、翼の先端に当たる大気の感触を確かめるように滑空の角度を変えた。


『雨の音で羽音は聞こえないけど……今、右上を誰かが横切ったわ』


「右上だと?」


 隼人は反射的に頭上の闇を見上げた。


 もちろん、人間の目には黒い雲の塊しか見えない。稲妻すら走らない不気味な暗雲の中では、数十メートル先の景色すら闇に溶けている。


 だが、リュシアの銀翼は、雨粒を含んだ重たい空気の中に刻まれた『生き物の翼が水を切る微かな渦』を正確に捉えていた。


『間違いないわ。すごく重たくて、でも無駄のない羽ばたきの跡……。自然の鳥や魔獣じゃない。それに、かなり近いわよ』


「軍章を外した、あの黒翼か」


 隼人は奥歯を噛み締めた。


 帝国の竜騎士隊長ヴァルター・クロイツと、その相棒である黒翼竜グレン。係争空域では所属不明騎として振る舞う彼らは、昼間の直線速度ではリュシアに及ばないことを熟知している。


 だからこそ、視覚が封じられ、最高速を出しにくいこの悪天候の夜空を狩場に選んだのだ。帝国領の風門塔から越境してくる人工風と、この分厚い雨雲を組み合わせ、孤立した王国の救難竜をじわじわと袋の鼠に追い込んでいるに違いなかった。


 その時、下方の谷間から吹き上げてきた不規則な突風が、リュシアの左翼を下から強く突き上げた。


『っ、乱気流よ!』


 リュシアが姿勢を保つために右翼を深く踏み込み、機体を滑らせて風を受け流す。


 加圧鞍の革帯がキュッと収縮して隼人の腰を固定したが、暗闇の中で連続して上下左右に揺さぶられた瞬間、隼人の脳裏に奇妙な感覚が走った。


(……待て。今、機体が右へ大きく傾いたままになっていないか?)


 自分の身体が真横を向いて落ちていくような、あるいは背面飛行に近い角度で雲の中へ吸い込まれているような、強烈な平衡感覚の狂い。


 手綱を握る手に無意識に力が入り、「左へ戻せ」と指示を飛ばしかけて、隼人はハッと息を呑んだ。


(落ち着け! これは空間識失調だ!)


 背筋に冷たい汗が流れる。


 空間識失調――パイロットの間で『バーティゴ』と呼ばれる恐ろしい現象だ。地平線も地面の灯りも見えない暗闇や雲の中で、加減速や旋回による重力の変化を連続して受けると、人間の耳の奥にある三半規管が狂い、実際の姿勢とは全く違う傾きを「正しい」と錯覚してしまう。


 かつて元の世界で戦闘機に乗っていた頃、計器飛行の訓練で何度も叩き込まれた鉄則が頭の中に蘇った。


 ――視界を失った空で、人間の感覚ほど当てにならないものはない。自分の身体の感覚を信じるな。計器だけを信じろ。


「……ふうっ」


 隼人は短く強い息を吐き出し、自分の三半規管が訴えてくる「右に傾いている」という偽の警報を意志の力でねじ伏せた。


 そして、竜鞍の正面コンソールに固定された三つの計器――微弱な夜光を発する方位盤、計時器、そして気圧式の高度計へと視線を集中させた。


 高度計は千九百メートル付近、方位の変化も小さい。ただし、この三つの計器だけで傾きを直接測れるわけではない。


「リュシア、姿勢はどうだ。俺には右に傾いているように感じる」


『今は戻して、水平を保ってる。翼の左右に当たる風も揃ってるわ』


 彼女の報告と高度・方位の推移は食い違わない。隼人は、自分の体感だけで反対へ傾けさせるのをやめた。


「……危なかった。地平線が見えないせいで、俺の感覚が少し狂いかけていた」


『えっ? 隼人、大丈夫なの?』


 出撃前に「危険や異常は絶対に隠さない」と約束した通り、隼人が正直に申告すると、リュシアが心配そうな思念を返してきた。


「姿勢の指示を体感で出すのはやめる。計器の変化と君の報告を照合する。……人間の目は暗闇に弱いからな。ここからは俺の体感ではなく、数字で現在地を詰める」


 隼人は計時器の秒針と、大腿部に固定した防水加工の航路図を交互に見比べた。


 友軍の救難竜が最後に救難灯火を確認された地点の座標。そこから現在までの経過時間は十八分。救難竜の標準的な巡航速度と、この空域に北西から吹き込んでいるはずの風門塔の人工風の風速。


 それらを頭の中で積算していくと、暗雲の中を漂う救難竜が流されていく先は、自ずと一つの方向へと収束していくはずだった。


「計算は出たぞ、リュシア。救難竜が最後に灯火を上げた位置から、北西の人工風に押されて移動した距離を積算すると……現在位置はここから方位一四〇、南東の『深霧の渓谷』の上空付近だ。そこへ機首を向けてくれ」


 先日、非交戦の夜間捜索で行方不明の哨戒竜を見つけた時と同じ、理論に基づいた推測航法だった。


 だが、隼人の指示を受けたリュシアは、すぐには機首を南東へ向けようとしなかった。


『……待って、隼人』


 雨音に閉ざされた暗闇の中で、リュシアの真剣な声が共感回路に響いた。


『方位一四〇……南東へ行くのはおかしいわ』


「おかしい? だが、出撃前にカミルさんから受け取った広域風向データでは、風門塔の人工風は北西から南東へ向かって吹いている。計器の気圧変化から見ても、風下に流されたなら南東のはずだぞ」


 隼人が論理的に説明すると、リュシアは銀翼をわずかに上下させ、周囲の湿った空気を撫でるようにして首を横に振った。


『違うの。隼人の計器が間違ってるんじゃなくて、前提の風が変えられてるのよ』


「前提の風が変えられている……?」


『ええ。今、私の翼に当たっている風は、北西の風門塔から真っ直ぐ流れてきている定常的な人工風じゃないわ。……もっと近くて、生々しい魔力の匂いがする。さっき右上を横切った黒翼の敵たちが、雲の中でわざと乱流幕を幾つも重ねて、風の流れを『南西』の方角へ無理やり曲げているの!』


 リュシアの指摘に、隼人はハッと目を見開いた。


 計器が示すのは、あくまで現在の自分たちの高度と方位、そして時間だけだ。遠くの友軍がどのような風に吹かれているかまでは、鞍の上の計器では測れない。


 ヴァルターとグレンは、王国側が風門塔の風向を基準にして救難竜の捜索ルートを計算することまで読んでいたのだ。だからこそ、暗雲の内部で局地的な乱流幕を壁のように配置し、人工風の流れを途中でせき止めて別方向へと誘導する『風の迷路』を作り上げていた。


『塔が作る大きな風は、一定の周期で重たく押してくるだけ。でも、羽竜が翼と風術で作った乱流には、羽毛が空気を掻く独特の細かい脈動があるの』


 リュシアは確信に満ちた声で続けた。


『この脈動の向きを辿れば、敵が救難竜をどっちへ追い込んでいるかが分かる。南東じゃない、方位二一〇の南西側よ!』


 隼人はコンソールの方位盤を見つめたまま、一瞬だけ息を呑んだ。


 これまでなら、空の上での大局的な位置取りや進路の決定は、常に元戦闘機乗りである隼人の計算が主導してきた。リュシアの感覚を信じるといっても、最終的には隼人の戦術案の中に彼女の力を当てはめる形が多かったのだ。


 しかし今、視覚が完全に奪われ、敵の欺瞞によって推測航法の前提データが狂わされたこの夜の空で、状況の真実を正確に把握しているのは隼人ではなくリュシアだった。


(……出撃前に彼女が言った通りだな。『私もあなたを守れる』、か)


 隼人の胸の奥に、驚きと共に深い敬意が湧き上がった。


 昼間に抱きしめた時には、あんなに華奢で可愛らしく見えた恋人の少女。だが、今の彼女は、暗闇と嵐の中で誰よりも冷静に大気の構造を解き明かす、超一流の専門飛行士だった。


 専門家としての役割が、この夜の戦場では明確に逆転しつつあった。


「……ありがとう、リュシア。俺の計器読みの前提が間違っていた。君の風読みの方が圧倒的に正確だ」


 隼人は一点のプライドも挟まず、即座に自分の計算を破棄して彼女の専門判断を受け入れた。恋人だから甘やかすのでも、盲目的に従うのでもない。彼女の持つ固有の能力が、今の状況において最も信頼に足るデータだと認めたからだ。


「君の指摘通り、敵が乱流幕で風向を南西へ曲げているなら、救難竜が追い込まれた先も計算し直せる。……方位二一〇、高度を百メートル下げて敵の作った風の壁の裏側を探るぞ!」


『ええ、任せて!』


 隼人が即座に軌道を修正したことで、リュシアの翼が力強く水を弾いて旋回した。


 二人は敵が仕掛けた偽の風の流れを読み解きながら、南西の暗い雲の底へと滑り降りていった。


 リュシアが羽竜特有の乱流の脈動を正確にトレースし、隼人が計時器と高度計で岩山との衝突危険高度を管理する。互いの専門性が、夜の嵐の中で一つの鋭い刃となって暗雲を切り裂いていく。


 やがて、前方の分厚い雲の層がわずかに薄くなった場所で、リュシアが短く声を上げた。


『隼人、下を見て!』


 隼人が風防眼鏡の奥で目を凝らすと、斜め下方、およそ八百メートル先の雲の切れ間に、緑色の淡い光がチカチカと不規則に点滅しているのが見えた。


「救難灯火だ! まだ生きて飛んでいるぞ!」


 発見の喜びに隼人が声を上げた、まさにその直後だった。


 救難灯火のすぐ上空の闇が、不自然にぐにゃりと歪んだ。


『――来るわ! 敵の乱流幕よ!』


 リュシアの警告と同時に、黒翼の部隊が放ったと思われる超高密度の人工乱流が、周囲の黒い雨雲を巻き込みながら巨大な渦となって炸裂した。


 ゴォォォォッ! と大気が咆哮を上げ、せっかく見つけたばかりの緑色の救難灯火が、墨汁をぶちまけたような黒雲の渦の中へと一瞬で呑み込まれて消え失せた。


 それだけではない。膨れ上がった黒雲と乱気流の塊は、隼人たちの周囲の空間までも完全に埋め尽くし、わずかに残っていた雲の濃淡すら奪い去ったのだ。


「くっ……! 灯火が消えた!」


『周り中から人工風がぶつかってきてるわ! 前も後ろも、全部真っ暗よ!』


 手がかりだった光は完全に途絶え、一寸先すら見えない絶対的な闇が二人を包み込む。


 視覚を完全に閉ざされ、荒れ狂う人工乱流の檻の中へと閉じ込められた二人に、夜の空の本当の牙が剥かれようとしていた。

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