第35話 恋人同士の出撃前点検
開け放たれた格納庫の扉の向こうで、夕陽が完全に稜線の裏へと沈み、空が濃い群青色へと塗り替えられていく。
数時間前、まさにこの場所で互いの思いを伝え合い、「次の休日に初デートをしよう」と約束したばかりの計画は、直後に鳴り響いた緊急招集の鐘によってあえなく延期となった。
だが、今の二人にそれを惜しむような浮ついた空気はない。短いブリーフィングを終えて格納庫へと戻ってきた隼人と人型のリュシアは、夜間救難任務に向けた出撃前の最終点検に取りかかっていた。
「……方位盤の夜光表示、異常なし。計時器のゼンマイも巻き上げた。高度計の基準気圧、よし」
隼人はコンソールパネルの計器を一つずつ指差し、声に出して確認していく。
その隣で、リュシアが加圧補助竜鞍の革帯と、騎手の身体を固定する金属製の締め具を手に取り、摩耗や歪みがないかを確かめていた。
「魔力回路の接続部もきれいよ。加圧用の金属繊維の張りも問題ないわ。……はい、隼人、右側のメインバックル」
「ああ、ありがとう」
何十回、何百回と繰り返してきた、ごくありふれた出撃前の手順だ。
隼人は計器から視線を外さずに右手を伸ばし、リュシアから真鍮のバックルを受け取ろうとした。
その時、革帯を支える彼女の白く細い指先に、グローブをはめる前の隼人の素手がふっと触れた。
「あっ……」
リュシアが小さく息を呑み、ぴくりと肩を揺らした。
隼人もまた、指先に伝わった柔らかな熱に心臓が跳ね、反射的に手を引っ込めそうになった。
ただ金具を受け渡すだけの動作なのに、昼間に抱きしめ合った時の彼女の体温や、石橋の上で握りしめた手の感触が一気に蘇ってくる。
顔を上げると、リュシアも耳の先端までほんのりと赤く染め、気まずそうに視線を泳がせていた。
「……えっと、ごめんなさい。なんだか、変に意識しちゃって」
「いや……俺の方こそ、手元が留守になっていた」
隼人は軽く咳払いをし、受け取ったバックルの噛み合わせを確かめた。
どれほど「任務と交際は別だ」と頭で割り切ったつもりでも、ついさっき恋人になったばかりの二人が、何事もなかったかのように振る舞うには少しばかり無理があった。いつもの点検作業が、急に特別な意味を持った距離感に思えてしまう。
「……駄目だな。このまま空に出たら、計器の数字を読み間違えそうだ」
隼人が自嘲気味に苦笑すると、リュシアも「まったくだわ」と小さく吹き出し、それから自分の両頬を両手でパチンと軽く叩いた。
「よし。リュシア、少しだけいいか」
隼人はバックルを作業台に置き、居住まいを正して彼女の正面に向き直った。ぎこちない甘さを一度脇へ置き、元戦闘機乗りとしての真剣な眼差しを向ける。
「空に出る前に、もう一度だけ二人で確認しておきたい規則がある」
「規則? 『続行』『中止』『条件変更』の三つの合図のことなら、昼間も今まで通りって約束したじゃない」
「ああ、判断の権限についてはその通りだ。だが、俺たちが恋人同士になったことで、これまでにはなかった新しい危険が生まれる可能性がある」
隼人の硬い口調に、リュシアは首を傾げた。
「新しい危険?」
「『危険の隠蔽』だ」
隼人ははっきりとその言葉を口にした。
「好きな相手だからこそ、格好悪いところを見せたくなかったり、相手に余計な心配をかけたくないと思ったりする。その結果、魔力の消耗や翼の痛み、あるいは自分だけが感じた小さな風の違和感を『これくらいなら我慢できる』と黙って隠してしまうことだ」
その指摘に、リュシアはハッとして目を見開いた。
かつて峡谷の観測所から三騎を護衛した際、彼女は補給も休息も乏しい中で消耗を軽く見せ、翼が震えるほど消耗するまで強がってみせたことがあった。
「俺も同じだ。君の隣で頼りになる男でいたいと気負うあまり、自分の耐G限界や視界の異常を申告し遅れるかもしれない。……だが、これから向かうのは視界の利かない夜の暗雲だ。ほんのわずかな我慢や隠し事が、二人の命を奪う結果に直結する」
隼人は公務中の曖昧さを一切排し、ストイックなまでに現実的な言葉を並べた。
「だから約束しよう。俺たちがどれだけ互いを大切に想っていようと、空の上では絶対に強がらない。少しでも危ないと感じたら、相手の顔色を窺わずに即座に『中止』か『条件変更』を宣言する。……それが、恋人になった俺たちの最初のルールだ」
言葉を飾り立てず、ただ二人が生き残るために必要な規律を突きつける隼人を、リュシアは真っ直ぐに見つめ返した。
やがて彼女の顔から緊張のこわばりが消え、誇らしげな、とても柔らかい微笑みが浮かんだ。
「……ええ、異議なしよ。やっぱり隼人は、そういうところが一番素敵だわ」
リュシアは一歩前に出て、真顔で頷いた。
「約束する。空の上では、見栄も遠慮もなし。少しでも羽が重くなったらすぐに言うし、危ない風を感じたら私が先に『中止』って叫ぶわ」
そこまで言ってから、彼女は隼人の肩口をじっと見つめ、ふっと優しい声色に変わった。
「でもね、隼人。そんなに一人で全部を背負うみたいに、肩に力を入れないで」
「……力が入っているように見えるか?」
「ええ、少しね。夜戦の黒翼がいるかもしれないって聞いてから、私を絶対に傷つけないようにって、また少しだけ気負ってる顔をしてるわ」
図星を指され、隼人はわずかに言葉を詰まらせた。ルールを口にしながらも、心のどこかでは「恋人になった彼女を危険な夜空へ連れ出す」ことへの強い緊張があったのだ。
リュシアはそんな隼人の胸元にそっと視線をやり、凛とした声で告げた。
「忘れないで、隼人。あなたが私を守ってくれるのと同じように……空の上では、私もあなたを守れるのよ」
その一言が、すっと隼人の胸の奥へと染み渡った。
そうだ。彼女は俺が守らなければならないか弱い存在ではない。世界最速の翼と、誰よりも鋭敏な気流感覚を持ち、幾度もの死線を共に乗り越えてきた最強の相棒だ。
「……そうだったな。俺の相棒は、世界一頼もしいんだった」
隼人が深く息を吐き出して笑うと、格納庫の張り詰めた空気が心地よく和らいだ。
「そろそろ時間ね。竜の姿になるわ」
「ああ」
変身のために数歩下がろうとしたリュシアが、ふと足を止め、自分の右手を腰の高さでわずかに差し出した。
昼間のように強く抱きしめ合う時間はもうない。それに、これから戦場へ向かう前には、これくらいがちょうどよかった。
隼人はグローブをはめる前の右手を伸ばし、彼女の細い人差し指と中指の先に、自分の指先だけをそっと重ね合わせた。
ほんの一秒にも満たない、かすかな接触。
けれど、その指先から伝わった確かな温度が、言葉以上に多くの約束を二人の間に交わらせていた。
「行くわよ、騎手さん」
「頼むぞ、アルヴェイン」
指先が離れると同時に、リュシアの身体が眩い銀色の光に包まれた。
光が収まると、そこには翼幅十四メートルを誇る、白銀の美しい羽毛竜が立っていた。
隼人は切り替えられた思考のまま、手早く加圧補助竜鞍を彼女の背へと持ち上げ、先ほど点検したばかりの金具を寸分の狂いもなく固定していく。自らの身体を鞍へと滑り込ませ、大腿部の加圧革帯を締め上げ、最後に側面に結ばれた革の護符に軽く触れた。
竜鞍を介して物理的な接触が成立した瞬間、共感回路が開き、リュシアの落ち着いた鼓動と「いつでも飛べる」という澄み切った飛行意図が流れ込んでくる。
タラップを外し、夜の闇が広がる滑走路へと進み出た時だった。
「黒瀬! アルヴェイン!」
管制塔の方から、通信士のカミルと、マーラに跨ったガルド教官が険しい表情で駆け寄ってきた。
「カミルさん。救難空域の状況に変化が?」
竜鞍の上から尋ねる隼人に、カミルは息を弾ませながら危機を告げた。
「たった今、国境南部の監視哨から連絡が入った! 暗雲の縁で点滅していた友軍救難竜の救難灯火が……突然、完全に途切れた!」
「灯火が消えただと……!?」
「それだけじゃないぞ、黒瀬」
並んだマーラの背から、ガルドが低く唸るように続けた。
「灯火が途切れる直前、救難竜からの微弱な通信の最後に、風刃が炸裂する音が混じっていた。自然の悪天候で迷ったんじゃない。暗雲の中で、所属不明騎による追撃を受けている!」
共感回路を通じて、リュシアの全身の羽毛が戦闘態勢へと引き締まるのが伝わってきた。
先日の非交戦の捜索とは根本から条件が違う。視界を奪う夜の暗雲と雨、そして気流をかき乱しながら友軍を狩ろうとする夜戦の敵。
「俺とマーラも後から続く。お前たちは速度を活かして先行し、救難竜の現在地を割り出せ!」
「了解しました! 行くぞ、リュシア!」
『ええっ!』
銀色の巨翼が大きく夜の空気を叩き、二人は救難灯火の消えた漆黒の空へと力強く舞い上がった。




