第34話 私が好きなのは、あなた
第五か月の末。夜祭の翌日、夏の熱気がまだ残る昼下がり、隼人は格納庫の隅で定期哨戒に向けた出撃前の装備点検を行っていた。
目の前の作業台には、すっかり手に馴染んだ計器付きの加圧補助竜鞍が置かれている。方位盤の針の動きよし、高度計の気圧調整よし、魔力回路の伝達繊維にほつれなし。
いつもなら流れるような手つきで五分もかからずに終わらせる日常のルーチンワークだ。
だが今日の隼人は、さっきから同じメインバックルの金具を三回も締め直しては外すという、らしくない動作を繰り返していた。
(……落ち着け、俺。ただの定期点検だろうが)
心の中で自分に言い聞かせるが、どうしても意識が隣に立つ人型のリュシアへと向いてしまう。
昨夜の夜祭の帰り道、石橋の上で彼女の柔らかな手に自分の手を重ねられた時の熱が、まだ右手のひらに鮮明に残っていた。『明日こそ、自分の言葉で好きだと伝える』。そう固く決意して眠りについたものの、いざ明るい太陽の光の下で彼女の顔を見ると、戦闘機で敵の防空網に突っ込む時とはまったく別の種類の緊張が心臓を早鐘のように打っていた。
「……ねえ、隼人」
不意に横から声をかけられ、隼人は肩を揺らして振り返った。
「な、なんだ。魔力回路の接続部に違和感でもあったか?」
「ううん、鞍はどこも悪くないわ。ただ、隼人がさっきから同じ革帯ばっかり引っ張ってるから、ちぎれちゃわないか心配になっただけよ」
リュシアは腕を組み、小首を傾げて隼人の手元を覗き込んだ。その青い瞳には、どこか悪戯っぽい光が浮かんでいる。
「空の上ではあんなに落ち着いてて、乱気流の中でもちっとも動じないのに……地上では案外、怖がりなのね」
「こ、怖がりとは心外だな。俺はただ、安全確認に万全を期しているだけで……」
「ふふっ、顔が赤いわよ、元戦闘機乗りさん」
くすくすと笑うリュシアに指摘され、隼人は思わず片手で自分の頬を押さえた。昨日の今日で、自分が何を言おうとして緊張しているのか、彼女にはお見通しなのかもしれない。
そう思うと、妙な体裁を繕おうとしていた肩の力が、ふっと抜けていくのを感じた。
隼人は深く息を吐き出し、持っていた点検用の布を作業台の上に置いた。
昼下がりの格納庫には、他の隊員の姿はない。開け放たれた大扉の向こうには真っ青な夏の空が広がり、遠くで羽竜たちの鳴き声が響いているだけだった。
隼人が向き直ると、リュシアもまた、からかうような笑みをすっと引っ込めた。
彼女の表情が、空に出る前とはまた違う、凛とした真剣な色へと変わる。銀色の髪が格納庫を吹き抜ける風に揺れ、真っ直ぐな視線が隼人を射抜いた。
「隼人。点検が終わったなら、出撃前に一つだけ、ちゃんと聞いておきたいことがあるの」
「……ああ。なんでも聞いてくれ」
リュシアは一歩前に踏み出し、隼人のすぐ目の前で足を止めた。手を伸ばせばすぐに触れられるほどの距離。彼女は自分の胸の前で両手をきゅっと握りしめ、はっきりとした声で尋ねた。
「あなたが大切に思っているのは、誰よりも速く飛べる『銀翼』としての私なの? それとも……速度なんて関係ない、ただの私自身を好きなの?」
逃げ場のない、真正面からの問いかけだった。
リュシアの瞳がわずかに揺れる。誇り高い彼女が、自分の弱さをさらけ出すように言葉を続けた。
「もしもね、私が怪我をしたり、魔力が枯渇したりして、もう二度と時速七百キロの全速を出せなくなったとしても……ただの遅い羽竜になったとしても、あなたは私の隣を選んでくれる?」
かつてカミルに怪我を負わせ、自分の価値は突出した速度にしかないと思い詰めていた彼女。隼人と組んで遅い翼を守る喜びを知った今でも、心の奥底には「速さを失ったら見捨てられるのではないか」という小さな恐怖が残っていたのだ。
「なぜそんなことを聞くかといえばね」
リュシアは頬を朱に染めながらも、視線を一ミリも逸らさずに言った。
「私は……頼もしい騎手だからとか、全速を受け止めてくれるからっていう理由だけじゃなく、黒瀬隼人という一人の人が、好きになったからよ」
静かな格納庫に、彼女の澄んだ声が落ちた。
昨日の夜祭で「飛ばない日にも一緒にいたい」と遠回しに示した想いを、彼女は今日、一切の曖昧さを捨てて自分の言葉でぶつけてきたのだ。
彼女がここまで勇気を出して踏み込んできたのに、騎手と羽竜という立場や、契約上のルールを盾にして曖昧に濁すことなど、隼人にはできるはずがなかった。
隼人は背筋を伸ばし、彼女の青い瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「リュシア。俺が初めて君の背中に乗った日、君の速度に魅了されたのは事実だ。君の翼は間違いなく世界一美しいと思っている」
隼人は一歩近づき、言葉を区切ってから、力強く続けた。
「だが、今の俺が惹かれているのは、その速度じゃない。たとえ君が全速を出せなくなっても、仮に空を飛べなくなる日が来たとしても、俺の気持ちは変わらない。……俺も、君が好きだ。銀翼の性能ではなく、リュシア・アルヴェインという一人の女性が、どうしようもなく好きなんだ」
喉の奥にずっと引っかかっていた言葉を、ようやく真っ直ぐな形で解き放つことができた。
リュシアの目が大きく見開かれ、その瞳にじんわりと歓喜の光が宿る。
だが、隼人はそこで言葉を止めなかった。大人として、彼女に対して誠実であるために、自分の抱えている現実もすべてテーブルの上に乗せる必要があった。
「ただし、隠さずに言っておく。昨日も話した通り、俺には元の世界に残してきた家族がいて、今でも帰還の手段がどうなっているのか分からないままだ。故郷を想う気持ちや、いつか道が見つかるかもしれないという可能性を、今ここで完全にゼロにすることはできない」
「……うん。知ってるわ」
リュシアは静かに頷いた。
「俺は、未来の保証を軽く口にして君を縛るような真似はしたくない。だが、いつ現れるかも分からない帰還の道を理由にして、今目の前にいる君への気持ちから逃げるつもりもない」
隼人ははっきりと言葉を結んだ。
「俺は今、この場所で、君と一緒に生きることを選ぶ。……こんな中途半端な立場にある俺でよければ、契約上の相棒としてだけじゃなく、一人の男として君の隣に立たせてくれ」
故郷への未練を無理に押し殺すのでもなく、かといって今の恋を諦めるのでもない。今の自分にできる最大限の誠実さを込めた告白だった。
リュシアはふわりと微笑み、ふるふると首を横に振った。
「中途半端なんかじゃないわ。隼人が故郷のご家族を大事に想っているところも、嘘をつかないで全部話してくれるところも、私が好きになったあなたの全部だもの」
彼女は嬉しそうに目を細めた。
「あなたが元の世界を忘れなくてもいいの。今ここで、私を選んでくれた。それだけで私は十分幸せよ」
二人の間に、温かく穏やかな空気が満ちていく。
隼人は少しだけ表情を引き締め、確認するように付け加えた。
「……それともう一つだけ、約束しておこう。俺たちが恋人になることと、双翼契約の任務は別だ」
「ええ。空の上での飛行判断権は、今まで通り対等のままね」
リュシアもすぐに意図を察し、いたずらっぽく人差し指を立てた。
「恋人になったからって、あの時みたいに私を甘やかして、危ない任務から勝手に外したりするのは絶対禁止よ。『中止』はどちらからでも。条件を変えて再開する時は、二人で確かめる。そこも同じよ」
「ああ、もちろんだ。空の上では、俺たちは互いの専門性を信頼し合う対等なバディであり続ける」
恋愛感情によって戦場の判断を鈍らせたり、再び過保護な支配に陥ったりはしない。二人の大人が、仕事と私生活の境界線を明確に引き直した瞬間だった。
「じゃあ……今はまだ地上だし、出撃前の点検も終わったから、恋人の時間ってことでいいのよね?」
リュシアが少し照れくさそうに上目遣いで尋ね、小さく両腕を広げた。
隼人は苦笑交じりに頷き、一歩踏み出して彼女の華奢な身体をそっと腕の中に抱き寄せた。
「……ああ。これからよろしく頼む、リュシア」
「うん……っ。よろしくね、隼人」
リュシアの腕が隼人の背中に回り、ぎゅっと服の布地を掴む。
飛行形態の彼女の背中に跨り、加圧鞍を介して密着するのとはまるで違う。人型の彼女自身の柔らかさと、直接伝わってくる体温、そして微かな髪の香り。自分たちの意思で選び取ったその親密さに、隼人は胸が満たされていくのを感じた。
しばらくの間、二人は格納庫の静寂の中でただ互いの温もりを確かめ合うように抱きしめ合っていた。それ以上の触れ合い――唇を重ねるような一歩は、まだこれからの二人の時間のために自然と残されていた。
やがてゆっくりと身体を離すと、リュシアは真っ赤になった顔を隠すように軽く咳払いをした。
「えっと……その、恋人になったんだから、次の非番の日は、ちゃんとお出かけしましょ」
「お出かけって、昨日の夜祭みたいなものか?」
「昨日は『防寒材と鞍の油を見るついで』だったでしょ! そうじゃなくて、最初から最後まで装備の話も訓練の話もなしの、ちゃんとした『初デート』よ!」
ぷりぷりと主張する彼女の可愛らしさに、隼人は声を上げて笑った。
「分かったよ。次の休日は、最初から最後まで二人きりの初デートにしよう。行きたい場所を考えておいてくれ」
「約束よ! 絶対に忘れちゃ駄目だからね!」
リュシアが満面の笑みを浮かべた、まさにその直後だった。
カン、カン、カンッ!
駐屯地の中央管制塔から、緊急事態を知らせる甲高い鐘の音が格納庫の空気を切り裂いて鳴り響いた。
二人の表情から一瞬で甘い空気が消え去り、戦士の顔へと切り替わる。
「黒瀬! アルヴェイン! いるか!」
格納庫の入り口から、通信紙を握りしめたカミルが息を切らして駆け込んできた。
「カミルさん、何があったんですか!」
「緊急の救難待機要請だ! 先遣隊が現地で対応している。こちらも今すぐ準備してくれ!」
カミルは膝に手をついて荒い息を整えると、厳しい顔で告げた。
「国境の南側――先日、夜戦専門の黒翼騎が観測されたあの空域の近くで、天候が急変して分厚い暗雲が発生している。そこを飛んでいた友軍の救難竜が、風裏の岩棚へ一時退避している。入口が弱まるのは日没頃の見込みだ。その時に合流して連れ戻す!」
「暗雲の中での救難信号……!?」
隼人とリュシアは鋭く視線を交わした。
ようやく約束したばかりの初デートは、当然ながら無期限の延期となった。先日の非交戦の夜間捜索とは訳が違う、敵の乱流と黒翼が待ち受ける本物の『夜の戦場』が、恋人となったばかりの二人を待ち構えていた。




