第33話 飛んでいないときも
非交戦下での夜間捜索を終えてから、数日が過ぎていた。
国境の南側で観測されたという夜戦専門の黒翼騎に関する続報はまだなく、中立都市からの新たな夜間救難の要請も届いていない。束の間の平穏が訪れた駐屯地では、哨戒の当番を外れた隊員たちに短い夕方の非番が与えられていた。
隼人は隊舎の廊下で、自分の部屋の扉の前を行ったり来たりしていた。
(……よし。今日こそ、飛行の話抜きで食事に誘うぞ)
先日、治療薬十箱をセレナへ送り届ける前夜に、帰還したら市場で一番大きな肉の串焼きと甘い菓子をごちそうすると約束していた。帰還後にも串焼きは買った。だが、二人で落ち着いて町を歩く時間は、断続的な護衛任務で何度も流れていた。今夜こそ、その続きを楽しむつもりだった。
何より、このところ空の戦術や合図のすり合わせばかりに付き合わせてしまっている彼女と、仕事抜きでゆっくり時間を過ごしたいという思いが、隼人の中で日増しに強くなっていた。
意を決して隣室の扉をノックしようとした瞬間、ガチャリと内側から扉が開いた。
「あっ、隼人。どうかしたの?」
そこに立っていたのは、騎士団の制服ではなく、淡い水色の軽やかな街着に身を包んだ人型のリュシアだった。いつもは機能性を重視してまとめている銀髪が柔らかく肩に落ちており、隼人は思わず息を呑んだ。
「いや、その……今夜、非番だろう? もし時間があるなら、一緒に町へ出ないかと思ってな」
「町へ? うん、いいわよ!」
リュシアの青い瞳がぱっと明るく輝く。
そのまま素直に「食事に行こう」と続ければよかったのだが、普段と違う彼女の可憐な装いを間近で見たせいで、隼人の思考回路は不意に空転した。
「ああ。……実は、これからの季節は夜間の高高度飛行で気温が下がるから、市場の革問屋で風護膜の負担を減らすための防寒裏地を見ておきたくてな。ついでに加圧鞍の予備金具の摩耗具合に合う油も探したいんだが……」
無意識のうちに口から滑り出たのは、いつもの徹底した装備管理の話題だった。
途端に、リュシアの笑顔がぴたりと凍りつき、やがてジトッとした半眼へと変わった。
「……隼人」
「な、なんだ」
「この前の薬の輸送の前日に、私と何て約束したか覚えてる?」
「えっ? ああ、もちろん覚えている。一番大きな串焼きと甘いお菓子をごちそうするって話だろう。防寒材を見るのはそのついでというか、口実で……」
しどろもどろになりながら言い訳をする隼人を見て、リュシアは小さく吹き出した。
「ふふっ、なーんだ。普通に『ご飯に行こう』って言えばいいのに、照れ隠しに鞍の話を持ち出すなんて、相変わらず不器用ね」
「……悪かったな」
隼人がバツが悪そうに頬を掻くと、リュシアは一歩前に出て、彼の袖をキュッと引っ張った。
「いいわ、付き合ってあげる。でも、今夜は今から基地に帰るまで、装備の話も飛行計画の話も一切禁止よ。破ったらお菓子をもう一つ追加してもらうからね!」
悪戯っぽく笑う彼女に手を引かれ、隼人は苦笑しながら夕暮れの駐屯地を後にした。
麓の町へ降りると、通りはいつも以上の活気と華やかな熱気に包まれていた。
街道沿いの軒先には色とりどりのガラスに入った魔力灯が吊るされ、夕闇が迫る石畳を琥珀色に照らし出している。夏の実りを祝う小さな夜祭が開かれているらしかった。
「わあ、きれい……! 見て、隼人、あっちに屋台がたくさん出てるわ!」
リュシアが弾んだ声を上げる。
二人は人の波に並んで歩きながら、香ばしい匂いを漂わせる屋台を巡った。隼人は約束通り、香辛料を効かせて炭火で焼き上げた特大の肉の串焼きと、濃厚な蜂蜜とバターを練り込んだ焼き菓子を買い求め、リュシアの手に渡した。
「んーっ、美味しい! お肉が柔らかくて、中から汁がじゅわって出てくるわ!」
リュシアは幸せそうに目を細め、大きな串焼きを頬張っている。
時速七百キロで大気を切り裂き、敵の乱流幕を真正面から受け止める誇り高き銀翼。その彼女が、一人の若い女性として無邪気に夜祭の食事を楽しんでいる姿を、隼人は隣で静かに見守っていた。
「隼人も食べないの? 冷めちゃうわよ」
「ああ、食べているさ。……ただ、そんなに美味しそうに食べるなら、連れてきた甲斐があったと思ってな」
「もちろんよ! 一人で食べるより、こうやって隼人と並んで食べる方がずっと美味しいもの」
屈託のないその笑顔に、隼人の胸の奥がじんわりと温かくなる。
ひとしきり屋台を巡った後、二人は賑わう大通りから少し外れた、街を流れる水路に架かる古い石橋の上で足を止めた。
川面には遠くの魔力灯の光が揺らめき、心地よい夜風が熱を持った頬を撫でていく。橋の向こうの広場では、音楽に合わせて踊る恋人たちや、子供の手を引いて歩く家族連れの姿が見えた。
隼人は石造りの欄干に肘をつき、その光景をしばらく無言で見つめていた。
「……隼人のいた世界にも、こういうお祭りはあったの?」
隣に並んだリュシアが、焼き菓子の包み紙をたたみながら静かに尋ねた。
「ああ、あったよ。夏祭りといってな、夜店が並んで、最後には空に大きな光の花を打ち上げるんだ」
隼人は懐かしむように目を細めた。
「子供の頃は親父や母親に連れられてよく行ったし、パイロットになってからも、休暇が合えば家族に土産を買って帰ったものだ」
そこまで言って、隼人は小さく息を吐いた。
「……正直に言えば、今でもふとした瞬間に思い出す。あっちの世界に残してきた家族のことや、自分が乗っていた機体のことをな。帰還の手がかりすら見つからないのに、未練がないと言えば嘘になる」
以前に川辺で話した時よりも、さらに踏み込んだ弱音に近い本音だった。
リュシアは何も否定せず、ただ青い瞳でじっと隼人の横顔を見つめていた。
「だが、最近はそれだけじゃなくなった」
隼人は欄干から身を起こし、リュシアの方へ向き直った。
「俺の話ばかりで悪かった。……リュシア、君はどうなんだ?」
「私?」
「ああ。世界最速の銀翼としてどう飛ぶか、じゃない。この戦いが終わって、中立空路が完全に安全になったその先で……一人の女性として、君はどんな暮らしをしたいと思っている?」
機動性能でも戦術的な役割でもなく、彼女自身の『個人の希望』を問う言葉。
リュシアは不意を突かれたように目を丸くし、少しだけ考え込むように視線を川面へと落とした。
「……私ね、今までそんなこと、ちゃんと考えたことがなかったかもしれない」
夜風に揺れる銀色の前髪を指で押さえながら、彼女はぽつりぽつりと語り始めた。
「銀翼種として生まれてからずっと、私の価値は『どれだけ速く飛べるか』だけだと思ってた。前の騎手に怪我をさせてからは、騎士団の中で孤立して、自分が空を飛ぶ意味を証明することばかりに必死だったから」
彼女は橋の向こうに見える、明かりの灯った街の家々を見やった。
「でも……隼人と組んで、一緒に市場を歩いたり、夜食を分け合ったりするようになってから、少しずつ思うようになったの。いつか騎士団の任務から離れる日が来たら、私もあんなふうに、普通の暮らしをしてみたいって」
「普通の暮らし、か」
「うん。誰かと速さを競うのでも、人工風の壁と戦うのでもなくて。朝起きたら窓を開けて今日の風の匂いを嗅いで、市場で美味しい食材を買ってきて、温かいご飯を作って……帰ってくる誰かに『おかえり』って言えるような、そんな生活」
そこまで口にしてから、リュシアはハッとしたように頬を赤らめ、ゆっくりと顔を上げて隼人を見つめた。
琥珀色の灯火を映す彼女の瞳が、まっすぐに隼人を捉えている。
「私、あなたと空を飛ぶのが大好きよ。私の翼を信じて、一緒に戦ってくれる隼人が一番頼もしいと思ってる。……でもね」
彼女の声が、夜風の音に溶けるほど優しく、けれどはっきりとした響きを帯びた。
「空を飛んでいる時だけじゃなくて……こうして飛ばない日にも、私はあなたと一緒にいたいの」
それは、双翼契約の相棒としてではない、一人の女性からの遠回しで、しかしこれ以上ないほど切実な想いの吐露だった。
隼人は息を詰めた。
共感回路は繋がっていない。竜鞍を介した感覚の共有などなくても、彼女の震える声と、熱を帯びた瞳が、その胸の内を痛いほど明確に伝えていた。
(……そうか。俺が帰還への未練を抱えながらも、この世界で生きる時間をこんなにも愛おしいと感じていたのは――)
自分の中にある感情の名前を、隼人ははっきりと自覚した。
彼女の卓越した飛行技術への尊敬から始まり、傷ついた過去を知って守りたいと願い、衝突を経て対等な相棒となった。そのすべての時間の積み重ねが、いつの間にか彼女自身を求める確かな『恋』へと変わっていたのだ。
隼人は何も言わず、欄干の上に置かれていたリュシアの小さな手へ、自分の右手をそっと差し出しかけた。
だが、隼人の指先が触れるよりも一瞬早く、リュシアの手が動いた。
彼女の温かく柔らかな指が、ためらう隼人の手を先回りするように包み込み、ぎゅっと握りしめたのだ。
「……隼人」
見上げてくる彼女の頬は、祭りの灯りのせいだけではなく朱に染まっていた。
訓練の達成を祝って交わした握手とも、戦闘の後に傷を手当てされた時の感触とも違う。ただ相手に触れたいという意思だけで繋がれた手のひらの熱が、二人の間を行き交っていた。
言葉にしなくとも、お互いの胸にあるものが同じであると、二人はほぼ理解していた。
駐屯地へと戻る夜道も、二人は手を繋いだまま歩いた。
隊舎の入り口が見えてきたところで、リュシアが名残惜しそうに手を離し、「今日はありがとう。すごく楽しかった」と微笑んだ。
その笑顔を見つめた瞬間、隼人の喉元まで『好きだ』という一言がせり上がってきた。
だが、隼人はグッと奥歯を噛み締め、その言葉を飲み込んだ。
(いや……今夜の祭りの雰囲気に流されて、曖昧に伝えるべきじゃない)
自分は帰還手段の分からない異世界の人間であり、彼女はこれからも命懸けの空を飛ぶ相棒だ。だからこそ、一時の感傷ではなく、素面の昼間に、すべての現実を受け止めた上で正面から想いを告げなければならない。
「……おやすみ、リュシア。また明日な」
「うん。おやすみなさい、隼人」
自分の部屋へと戻っていく彼女の背中を見送りながら、隼人はまだ温もりの残る自分の右手を強く握りしめた。
明日こそ、この想いをちゃんと言葉にして伝えよう。そう心に決めた夜だった。




