第32話 味方に教える空
「いいか、黒瀬、アルヴェイン。お前たちの感覚だけで飛ぶなよ。俺たちに分かる言葉で飛行計画を説明しろ」
夜の帳が完全に下りた中継基地の作戦室で、ガルド教官は作戦盤を囲む面々を見渡して言った。
半刻前に入った緊急の救難信号について、通信士のカミルが各哨戒所からの情報を照合した結果、状況は当初の混乱した一報よりも整理されていた。
国境付近で発生した分厚い夜霧と暗雲に巻かれた哨戒小隊のうち、本隊は無事に雲を抜けて隣の中継台へ着陸していた。だが、最後尾を飛んでいた若い哨戒竜の一騎だけが方向を見失い、連絡が途絶えているという。
「カミル、該当空域に人工風や所属不明騎の反応はあるか?」
ガルドの問いに、通信魔導具の調整を終えたカミルが首を横に振った。
「いえ、風門塔の出力上昇も、敵騎の接近記録もありません。今回の暗雲と霧は純粋な自然現象です。ただし視界はほぼゼロで、孤立した哨戒竜はパニックになって高度を落としている可能性があります」
「つまり、敵襲も人工乱流もない非交戦条件での夜間捜索というわけだな」
隼人は胸をなでおろしつつ、手元の羊皮紙を作戦盤の上に広げた。先ほどリュシアと一緒に作り上げたばかりの『簡易合図』の一覧表だ。
「教官。俺とリュシアは竜鞍で接触しているため共感回路で感覚を共有できますが、離れた味方とは繋がりません。そこで、今回の捜索ではこの簡易合図と、灯火、そして時刻管理を組み合わせます」
隼人は木炭筆で地図上の渓谷を指し示した。
「まず、俺の竜鞍に固定した方位盤と計時器を使い、哨戒竜が最後に連絡を絶った地点からの経過時間、巡航速度、そして今夜の自然風の風向を積算して現在地を割り出します。これが俺のいた世界の『推測航法』です」
「計算で居場所が分かるというのか?」
「今回は敵の妨害がなく、風の向きが一定だからこそ可能です。もし敵に人工乱流で風向や航跡を乱されていたら、誤差が広がって一つには絞れません。ですが今夜の安定した風なら、最後に伝えられた進路も使えば、先に探すべき区域を一つに絞れます。そこにいなければ広げます」
隼人は過信することなく、現在の条件でできることとできないことの境界を明確に告げた。
「その区域の近くまで行ったら、リュシアが雲の隙間の安全な気流を探します。見つけ次第、時計の針に見立てた方向と、現象の名称、そして到達までの秒数を伝令騎と灯火で教官たちに伝えます」
隼人が視線を向けると、隣に立っていた人型のリュシアが一歩前に出た。
彼女は作戦室の扉のそばで待機していたガルドの相棒――人型の女性羽竜であるマーラに向き直った。
「マーラさん。私が先行して風を読むけれど、私の速度で無理に引っ張ったりはしないわ」
リュシアは自分の銀色の髪を指で軽く払いながら、落ち着いた声で続けた。
「銀翼の私と、マーラさんでは翼の形も得意な飛び方も違うもの。私が直線で強引に抜けるような風は合図に使わない。マーラさんの得意な低速旋回と上昇風術で、無理なく乗れる『下から押し上げる温かい風』だけを拾って合図を送るわね」
「……助かるわ、アルヴェイン。あなたの速度に合わせろと言われたら、ガルドを振り落とすところだったもの」
落ち着いた大人の雰囲気を持つマーラが、わずかに口元を緩めて頷いた。
かつてのリュシアなら、自分が飛べる道は他人も飛べるはずだと無邪気に押しつけていたかもしれない。相手の翼の特性を理解し、再現できない機動を求めないその配慮に、隼人は相棒の確かな頼もしさを感じ取っていた。
「よし、手順は理解した。カミルは基地から広域通信の支援と時刻の基準信号を送れ。伝令騎を一騎同行させる。……全騎、出撃だ!」
夜の空は、墨を流したように暗かった。
地上から見上げていた時以上に、上空の雲は分厚く、月明かりすら完全に遮られている。
隼人は改良された加圧鞍の上で、夜光塗料に似た微弱な魔力光を放つコンソールパネルの計器を睨みつけていた。方位盤の針と、規則正しく秒を刻む計時器、そして高度計。
「高度千八百、方位三一〇。北西からの定常風、風速はおおよそ秒速八メートル」
隼人は風防眼鏡の奥で目を細め、頭の中で数字を組み立てていく。
行方不明になった哨戒竜の最終通信時刻は四十分前。当時の対気速度と、視界を失った騎手が本能的に取るであろう回避行動の癖、そしてこの一帯を流れる安定した北西の風。
それらを掛け合わせれば、哨戒竜が風に流されて辿り着く座標は、地図上の『枯れ木の谷』と呼ばれる窪地の上空以外に考えられなかった。
「リュシア。目標空域は前方三キロ、方位三〇〇の『枯れ木の谷』だ。雲が厚くて目視はできないが、計算上はあそこに吹き溜まりができている」
『了解。速度を時速二百二十に落として、雲の縁の風を探るわ』
リュシアが銀翼を滑らかに傾け、漆黒の雲海の縁へと高度を下げていく。
その後方、数百メートル離れた位置を、伝令騎とガルド隊の灯火がゆっくりと追従してきているのが見えた。
雲の層に近づくと、湿った冷たい空気が頬を撫でた。
リュシアは突入せず、雲の外周をなぞるように飛びながら、翼の先端に神経を集中させている。共感回路を通じて、彼女が慎重に大気の手触りを選別している静かな集中力が隼人にも伝わってきた。
『……あったわ、隼人』
十数秒後、リュシアの明確な思念が響いた。
『正面から少し右、雲が切れて谷底から緩やかな上昇気流が吹き上げている場所がある。乱れはないわ。これならマーラさんたちも安全に降りられる』
「よし、翻訳して伝えるぞ。灯火合図、用意!」
隼人は竜鞍の側面にある信号用の魔力灯を手動で操作し、青色の光を二回、短く点滅させた。『進路発見・条件変更なし(続行)』を示す事前合意のサインだ。
同時に、すぐ後ろを飛んでいた伝令騎へ向けて、リュシアが澄んだ声で叫んだ。
『伝令! ガルド教官とマーラさんに伝えて! 二時方向、穏やかな上昇気流! 私たちの現在位置から十秒後に進入できるわ!』
「二時方向、上昇気流、十秒後! 了解しました!」
伝令騎が復唱し、即座に反転して後方のガルド隊へと急行する。さらに地上からのカミルの通信中継が、ガルド隊との時刻のズレを補正する。
余計な形容詞を削ぎ落とした、方向と現象、そして時間だけの短い言葉。
しばらくすると、後方の闇の中でガルド隊の赤い灯火が二つ点滅し、『了解』の合図が返ってきた。
リュシアが速度をさらに落とし、マーラたちの巡航速度に合わせて二時方向の雲の切れ間へと滑り込む。
そこは、彼女の風読み通り、分厚い暗雲にぽっかりと開いた穏やかな風の回廊だった。
隼人たちが上空で旋回しながら灯火で目印を作っていると、その風の回廊を通って、ガルドとマーラが滑るように高度を下げていった。
それから数分後。
谷底に近い雲の下層から、緑色の魔力光――『要救助者発見』を示す信号弾が打ち上がった。
『こちらガルド! 黒瀬の計算通り、枯れ木の谷の風溜まりで哨戒竜を発見した! 騎手も竜も無事だ、これより伴走して帰還する!』
通信魔導具から響いたガルドの力強い声に、隼人は大きく息を吐き出した。
「……目標発見。よくやったな、リュシア」
『ふふっ、私たちの言葉、ちゃんとみんなに届いたわね!』
二人の突出した速度で強引に解決したのではない。隼人の推測航法と、リュシアの気流感覚を、誰もが使える共通の言葉と手順に落とし込み、カミルやガルド隊とのチームワークで成し遂げた確かな勝利だった。
基地へ帰還した時には、すでに深夜を回っていた。
救出された若い哨戒騎手がガルドに厳しくも温かい叱責を受けているのを横目に、隼人は格納庫の隅で加圧鞍の点検と飛行記録の記入を終えた。
肩の凝りをほぐしながら立ち上がると、後ろからトコトコと軽い足音が近づいてきた。
「お疲れ様、隼人。まだ起きてたの?」
振り向くと、人型に戻って普段着に着替えたリュシアが、湯気の立つ木製のボウルと、焼いたばかりの丸パンが乗った皿を両手に持って立っていた。
「ああ、記録の整理をしていてな。……それは?」
「夜食よ。夜間飛行でお腹が空いたでしょ? 食堂のおばさんに無理を言って、温かい野菜スープをもらってきたの。半分こしましょ」
リュシアは悪戯っぽく笑うと、近くの木箱の上に皿を置き、隼人の隣にちょこんと腰を下ろした。
以前の彼女なら、自分の補給食として一人でぺろりと平らげていたはずだ。その彼女が、半分に割ったパンの大きい方を、当然のように隼人の手へと押し付けてきた。
「いいのか? 君の魔力回復の分だろう」
「今夜は全速も使ってないし、ほとんど滑空してただけだもの。それより、頭をいっぱい使って計算してくれた隼人の方が、燃料切れになっちゃうわ」
リュシアは自分の分のパンをかじりながら、幸せそうに目を細めた。
静まり返った深夜の格納庫で、二人きりで温かいスープをすする。
肩が触れ合うほどの近い距離。ランタンの淡い光に照らされた彼女の横顔を見ていると、戦場にいることを忘れてしまいそうなほど穏やかな時間が流れていた。
「……今日のマーラへの伝え方、すごく良かったぞ」
隼人がぽつりと言うと、リュシアは少し照れたようにスープの器を両手で包み込んだ。
「だって、隼人が教えてくれたじゃない。相手に合わせて言葉を揃えるのが、チームで飛ぶってことなんでしょ?」
「ああ。君は本当に、教えた以上のことをすぐに自分のものにするな」
「えへへ、もっと褒めてもいいわよ」
屈託なく笑う彼女につられて、隼人も自然と笑みをこぼした。空の上での信頼関係が、地上での心地よい親密さへと確実に変わっているのを感じていた。
しかし、その穏やかな余韻は、翌朝もたらされた一報によって引き締められることになる。
朝のブリーフィングルームに集まった隼人たちの前で、通信士のカミルが険しい表情で最新の偵察報告を読み上げた。
「……昨夜、我々が哨戒竜を捜索していたのとほぼ同じ時間帯です。国境の南側空域で、所属不明の黒翼騎が複数、夜間飛行を行っているのが観測されました」
「黒翼の夜間飛行だと?」
ガルドが眉をひそめる。
「はい。通常の羽竜は視界の利かない夜間の乱気流を嫌いますが、連中は暗闇と人工風を苦にせず、明らかに夜戦専門の編隊機動を行っていたとのことです」
隼人はリュシアと視線を交わした。
昨夜の捜索がうまくいったのは、あくまで敵の妨害も人工乱流もない、非交戦の安定した空だったからだ。もしあの暗闇の中で、黒翼の部隊に気流と視界を同時にかき乱されれば、推測航法の難易度は跳ね上がる。
夜の空を巡る戦いが、新たな段階へと足を踏み入れようとしていた。




