第31話 見えないものの伝え方
「左のざらつく風を避けて! もう少し下よ!」
日没が迫る茜色の空で、リュシアの声が風に乗って響いた。
中立都市セレナへ治療薬十箱を送り届けるという奇跡的な輸送作戦から、およそ一か月半。季節は第五か月の後半へと差し掛かっていた。
あの突破劇によって中立空路は完全に安全になったわけではない。帝国の風門塔から流し込まれる人工風は依然として空路を狭めており、所属不明騎による散発的な妨害も続いている。だが、あの一勝を契機として、セレナへの補給便は断続的ではあるものの確実に通るようになっていた。
今日の任務は、敵襲の報告がない空域での実任務。前線基地へ向かう友軍の伝令竜を、入り組んだ気流の細道を通して安全に誘導することだった。
「違う、そっちじゃない! 羽の先がピリピリする方に行っちゃ駄目!」
先頭を飛ぶリュシアが、背後を付いてくる伝令竜に向かって懸命に叫ぶ。
だが、後続の伝令竜の騎手は戸惑うばかりで、機体はフラフラと左右に揺れ、かえって危険な乱気流の淵へと近づいてしまっていた。
(……無理もない。共感回路が繋がっていない相手には、彼女の感覚は伝わらない)
竜鞍の上で、隼人は冷静に状況を分析していた。
リュシアの翼は、目に見えない大気の摩擦や気圧の壁を『ざらつく』『ピリピリする』という肌感覚として捉えている。隼人自身は共感回路を通じてその緊張と方向を直感的に共有できるため、瞬時に意図を理解して計器と照らし合わせることができる。だが、ただ声だけを聞かされた一般の騎手にとっては「ざらつく風」と言われても、どちらへどう回避すればいいのか全く分からないのだ。
伝令竜が突風に煽られ、大きく高度を落として隼人の視界から外れかけた。
「うわぁっ!」という騎手の悲鳴が聞こえる。
「リュシア、そのまま直進して気流の盾を作れ!」
隼人は慌てず、加圧鞍のコンソールパネルに視線を落とした。
方位盤、高度計、そして計時器。伝令竜が視界から消えても、これまでの飛行経路、速度、風向から、伝令竜が現在どの座標へ流されているかを瞬時に推定(推測航法)する。
「伝令機! 現在地から方位二七〇へ機首を向け、高度を十メートル下げろ! 三秒後に気流が安定する!」
隼人の具体的で数値化された指示が、通信魔導具を通じて伝令竜の騎手へ飛ぶ。
『ほ、方位二七〇……了解!』
騎手が指示通りに手綱を引いた直後、伝令竜はフワリと乱気流の底を抜け、リュシアが切り開いていた安全な風の道へと復帰した。
「……よし、航路に戻った。このまま基地へ向かうぞ」
隼人が短く息を吐き出すと、リュシアが少しだけしょんぼりとした思念を送ってきた。
『ごめんね、隼人。私がもっと上手く教えられればよかったんだけど……』
「気にするな。君の風読みは完璧だった」
隼人は銀色の首筋を軽く叩き、夕闇の迫る空を滑るように進んでいった。
中継基地に帰還し、伝令竜の騎手から平謝りと深い感謝を受けた後。
夜の作戦室で、隼人と人型に戻ったリュシアは、小さなランプの灯りを挟んで机に向かい合っていた。
「私の言葉、全然通じてなかったわね……」
リュシアは机の上に突っ伏し、銀髪を揺らしてため息をついた。
「『ざらつく』とか『重い』って言えば、風の危なさが分かると思ったのに」
「君の翼の感覚は特別だからな。それを言葉だけで他人に伝えるのは、俺たちが思っている以上に難しいということだ」
隼人は、竜鞍から取り外してきた方位盤と計時器を机の上に並べた。
「これから先、今日のように味方を誘導したり、護衛したりする任務は増える。その度に俺が推測航法でカバーできればいいが、敵の妨害が激しくなればそれも限界が来る。……俺たちにしか分からない感覚を、味方にも伝わる『共通の言葉』に置き換える必要がある」
「共通の言葉?」
リュシアが顔を上げる。
「ああ。君の感覚を、短く、誤解の余地がない言葉に翻訳するんだ」
隼人は羊皮紙を一枚引き寄せ、鉛筆を持った。
「例えば、今日君が言った『左のざらつく風』。あれは航空力学で言えば、不規則な風の渦の集合体――乱流だ。そして『左』というのも、相手の向いている方向によっては伝わりにくい。だから、時計の文字盤に見立てた方位指示を使う」
隼人は羊皮紙に円を描き、中心に竜の絵を描いた。
「同じ向きに飛ぶ隊列の正面を十二時、右を三時、左を九時に揃える。向きが違う相手には方位盤の数字で伝える。基準を決めておくんだ」
「なるほど……。じゃあ、『左のざらつく風』は、『九時方向、乱流』って言えばいいの?」
「その通りだ。さらに、それがいつ来るかを計時器で予測して『三秒後』と付け加えれば、味方は確実に心の準備ができる」
「九時方向、乱流。三秒後……うん、なんだかすごく賢くなった気分!」
リュシアはパァッと顔を輝かせ、机から身を乗り出した。
「じゃあね、『急に下から引っ張られるみたいに重くなる風』は?」
「それは下降気流だ。高度を急激に奪われる危険な風だな」
「『横からドーンって突き飛ばされるみたいな風』は?」
「そのまま、突風を伴う横風だ。機体を風上へ傾けてやり過ごす」
二人は机を挟んで、顔を突き合わせながら言葉のすり合わせを行った。
魔法を使って共感回路の仕様を無理やり改造するような、超常的な解決策ではない。互いの見ている世界を理解し、歩み寄るための地道な作業。
リュシアが身振りを交えて風の感触を語り、隼人がそれを的確な名詞へと落とし込んでいく。
「――つまり、こういうことね。前方の風がピリピリして重くなったら、『十二時方向、下降気流』って叫べばいいのね!」
「そうだ。その一言があれば、味方の編隊は全員で対処できる」
「ふふっ、なんだか楽しいわ、これ」
リュシアが笑いながら机の上の図面を指差した時、彼女の細い指先が、方位盤を押さえていた隼人の手に触れた。
ほんの一瞬の接触。だが、二人とも手を引っ込めることはなく、ごく自然にその温もりを受け入れていた。
あの一か月半前の決死の輸送作戦を乗り越え、互いの命と意思を尊重し合う対等な相棒となったことで、二人の距離は劇的に縮まっていた。出撃前の張り詰めた緊張だけでなく、こうした穏やかな時間の中で、自然な笑い合いが生まれるようになっている。
「……できたな。俺たちの辞書が」
隼人が完成した簡易合図の一覧表を眺めながら言うと、リュシアは満足げに頷いた。
「ええ。これなら、ガルド教官やマーラにも、私の言いたいことがすぐに伝わるわ」
作業がひと段落し、隼人が淹れた温かい茶を二人ですする。
静かな夜の作戦室。話題はいつしか、飛行のことから離れていった。
「そういえば隼人。次の休暇、前に約束してた市場の串焼き屋さん、本当に行けるの?」
「ああ。俺の財布の許す限りはな」
「やった! それとね、この前カミルが貸してくれた王都の騎士物語の本があるんだけど、それがすっごく面白くて……」
身を乗り出して語る彼女の横顔を、隼人は穏やかな目で見つめていた。
空を飛ぶこと、強くなることだけが全てだった彼女が、こうして地上の生活や、本の世界について目を輝かせている。その変化が、隼人にはたまらなく愛おしく思えた。
空の上だけでなく、地上の生活においても、二人は確実に互いの欠かせない一部となりつつあった。
だが、その穏やかな時間は、唐突に破られた。
バンッ! と乱暴な音を立てて作戦室の扉が開き、ガルド教官が険しい顔で飛び込んできたのだ。
「黒瀬、アルヴェイン。休んでいるところをすまん」
「教官? どうしました、そんな血相を変えて」
隼人が立ち上がると、ガルドは手の中の通信紙を握りしめ、眉間を深く寄せた。
「夜間哨戒に出ていた友軍の小隊から、緊急の救難信号が入った。……帝国領の境界付近で急激に発生した『暗雲』に巻き込まれ、完全に位置を見失ったそうだ」
「暗雲……ただの天候不良ですか?」
「まだ分からん。混乱した通信では追われているとも言っていたが、敵影の確認は取れていない。まず各哨戒所へ照会している」
ガルドの言葉に、隼人とリュシアは顔を見合わせた。
視界を封じる暗雲。人工乱流なのか、味方の影を敵と見誤ったのかも、まだ分からない。救難信号の主へ早く近づく必要があった。
「……俺たちが作ったこの合図を、さっそく隊全体に共有する必要がありそうですね」
隼人は机の上の『簡易合図一覧』を掴み上げた。
「ええ。どんなに見えない空でも、私たちが導いてみせるわ」
リュシアも力強く立ち上がる。
視界を奪う暗雲と、途切れた連絡。
新たな、そしてこれまでで最も困難な夜間救難の任務が、二人の前に立ちはだかろうとしていた。




