第30話 遅い翼が、全員帰る
灰色の乱気流の海を抜け、ようやく見えた中立都市セレナの外縁。
だが、その出口の空域は、絶望的なまでに分厚い壁によって塞がれていた。
十数騎の所属不明騎が幾重にも重なり合い、強固な『封鎖編隊』を構築している。彼らが展開する重層的な人工乱流は、鈍重な輸送竜が触れれば一瞬で空の藻屑となるであろう暴風の結界となっていた。
『黒瀬! 後方の別働隊が追いついてきたぞ!』
最後尾で警戒に当たっていたガルド教官からの通信が、緊迫感を帯びて響いた。
「教官、後方の敵の足止めをお願いします! 俺たちで前方の封鎖をこじ開けます!」
『任せろ。後背の憂いは俺とマーラが完全に断ち切る。出口が開くまでの猶予は稼いでやるから、必ず道を作れ!』
ガルドの頼もしい声と共に、後方で凄まじい魔力の衝突音が連続して轟いた。ガルド隊が命懸けで防衛線を張り、敵の囮や別働隊を食い止めているのだ。
残された時間はわずか。今この瞬間に前方の壁を破れなければ、輸送隊の逃げ場はなくなる。
「リュシア」
隼人は竜鞍の上で、コンソールの計器と目前の封鎖編隊を睨みつけた。
「ここまで、道中のあらゆる誘惑を退けてきた。全ては、この一番分厚い壁を俺たちの『槍』でぶち抜くためだ」
『ええ、分かってるわ!』
銀翼の竜が、闘志に満ちた声で応える。
「だが、正面からの力押しはしない。敵の陣形を分析した。あいつらは中央の防御を固めているが、その分、側面にわずかな死角――進入角が空いている」
隼人は地形図と方位盤から逆算し、輸送隊の進路から斜め外側へと逸れる安全な直線進路を導き出した。
「輸送隊のルートから右斜め外側へ直線で飛び出し、敵編隊の側面の死角へ先回りする。……全速は、そこで使う」
その提案に対し、リュシアは自らの翼で周囲の風の流れと、敵編隊のわずかな間隔のブレを読み取った。
『隼人のルート、いけるわ。私が直線の入口と、減速するポイントを風に合わせて決める』
自らの意思で勝負所を選定し、彼女は高らかに宣言した。
『――十二秒、任せて!』
二人の合意が完全に結ばれた瞬間。
リュシアは輸送隊の横から滑り出るようにして、右斜め外側の空域へと飛び出した。そして、これまで厳しく制限してきた魔力のリミッターを、ついに解放した。
ドンッ、という大気の爆発音と共に、銀翼が時速七百キロ近い『搭乗全速』へと到達する。
固定具と背もたれが隼人の身体を支え、胸を押す加速の重さを受け止める。風護膜が悲鳴のような音を立てて風を切り裂く。
十二秒。距離にして約二・三キロ。
リュシアは急旋回や複雑な回避機動は一切行わず、ただ真っ直ぐな直線の動きだけで、封鎖編隊の側方へと一瞬で先回りしてみせた。
敵の外側の二騎が銀翼へ向き直る。気づいてはいた。だが、封鎖の要がこちらへ向けば、正面を押すガルド隊の僚騎へ壁の継ぎ目を晒す。敵が壁を組み替える、その数秒の遅れを銀翼が追い越した。
「全速、終了。限界時間の十二秒だ」
隼人の冷静なカウントと共に、リュシアは翼を大きく広げて強烈な空気抵抗を生み出し、一気に減速を開始した。
時速七百キロから、精密射撃が可能な時速四百キロ以下へ。
十分に速度を殺しきった後、リュシアは急な百八十度反転などという無謀な真似はせず、大きな弧を描くような浅い方向修正を行い、敵の封鎖編隊の真横――隼人が予測した死角に、ピタリと位置を合わせた。
隼人の推測航法による先読みが、敵の配置を完全に読み勝ったのだ。
「射線クリア。……やれ、リュシア!」
安定した姿勢を整えたリュシアは、隼人の言葉を待つまでもなく、すでに魔力を翼に集束させていた。
『そこよっ!』
彼女の自発的な意思によって放たれた、渾身の『風刃』。
高圧縮された風の刃は、封鎖の要となっていた敵騎の横っ腹に、完璧なタイミングと角度で突き刺さった。
ズガァァァンッ!
要の騎が体勢を崩して弾き飛ばされたことで、互いの魔法を重ね合わせていた人工乱流の網に、連鎖的な崩壊が起きた。
強固だった封鎖編隊の中央に、ポッカリと大きな『風のトンネル』が開く。
「道が開いた! 輸送隊、今だ!」
隼人の絶叫に呼応するように、待機していた三騎の輸送竜が、その重い身体を揺らしてトンネルへと突入していく。
側面から急襲された所属不明騎の編隊は混乱に陥り、すぐには網を修復できない。
「俺たちも抜けるぞ!」
最後尾で追撃を凌いでいたガルド隊が、輸送隊の背中を守るようにしてトンネルへ滑り込む。
リュシアもまた、開いた血路の脇を固めながら、輸送隊をセレナの空域へと押し出していった。
十箱の薬。
誰一人欠けることなく、たった一つの荷物も落とすことなく。
彼らはついに、帝国の封鎖網を完全に突破したのだ。
眼下には、中立都市セレナの美しい街並みが広がっていた。
都市の防衛部隊が彼らを迎え入れ、輸送竜たちが無事に中央広場へと着陸していく。
リュシアと隼人も、少し離れた駐機場へと舞い降りた。
竜鞍から降りて地上係と鞍を外し、ヘルメットを脱いだ隼人は、心地よい疲労感の中で大きく息を吸い込んだ。
ふわりと光が散り、人型に戻ったリュシアが、弾むような足取りで駆け寄ってくる。
「やったわ! 全部、届けられた!」
「ああ。一番大事な局面で、君が完璧に決めてくれたからだ。最速で敵を出し抜いて……最後は、あんなに遅い輸送竜たちと一緒に帰ってきたな」
隼人が微笑みながら言うと、リュシアは少し照れくさそうに笑い、ごく自然な動作で隼人の右手を両手で握りしめた。
「うん。……私ね、分かったの」
彼女の青い瞳が、夏の陽光を受けてキラキラと輝いている。
「速く飛んで敵をびっくりさせるのも好きだけど……誰かを守って、ゆっくり並んで飛ぶのも、同じくらい好き」
それは、自分の価値を『速度』だけに縛り付けていた彼女が、新しい空の喜びを見つけた瞬間だった。
その時、隼人の腰の通信魔導具から、ユーノの弾んだ声が響いた。
『黒瀬殿、アルヴェイン殿! セレナの診療所から第一報が入りました! 薬はすぐに投与が開始され、待っていた患者たちへの治療が間に合ったとのことです!』
救命の知らせ。
それこそが、彼らにとって何よりの勲章だった。隼人は握られたリュシアの手を、力強く握り返した。
空荷になった輸送竜は、セレナ防衛隊の援護を受け、風の弱まる時間を待って戻った。行きより軽くなっても、隼人たちは隊列を急がせなかった。
しかし、中継基地への帰還後。
作戦室で彼らを出迎えたユーノの表情は、手放しで喜べるものではなかった。
「……今回の作戦成功は、お二人の連携とガルド隊の奮闘による、奇跡に近いものです」
ユーノは作戦盤の上の、帝国領にある巨大な風門塔を指差した。
「ですが、一度薬を届けただけでは根本的な解決にはなりません。敵はすでに、塔の増設と気流の強化を進めています。継続的に救援便を通すためには……」
ユーノの言葉に、隼人もガルドも険しい顔つきになった。
「大元の原因であるあの『塔』を、物理的に止める必要があるのですね」
隼人の問いに、ユーノは深く頷いた。
対症療法は終わった。次なる、そして最大の作戦へのカウントダウンが、静かに始まろうとしていた。




