第29話 速度を捨てた銀翼
「敵の風壁の作動が予定より早い! 使える通路が狭まっています!」
カミルの血相を変えた報告が、夜明け前の滑走路に響き渡った。
帝国軍は、リュシアが共同偵察で見つけ出していた夜明けの『通過帯』に気づき、強制的に人工風の出力を上げて気圧配置を歪め、安全な細道を物理的に潰しにかかってきたのだ。
「……黒瀬。どうする」
ガルド教官が、輸送用の羽竜の手綱を握りながら隼人を見た。
「出発を遅らせることはできません。薬の発送期限は今日です。今を逃せば、セレナの患者たちは助からない」
隼人は加圧鞍の上で、コンソールの計器を素早く叩き、地形図と風向データを睨みつけた。
「通路が半分に狭まっても、完全に塞がったわけじゃない。リュシアの風読みで、残された安全な高度帯を縫って進みます。……全騎、予定通り出撃!」
隼人の号令と共に、十箱の治療薬を背負った三騎の輸送竜が、重々しい羽音を立てて空へ舞い上がった。
ガルドとマーラが最後尾につき、隼人とリュシアは隊列の先頭に立つ。
国境の峡谷へ進入した途端、凄まじい風切り音がヘルメット越しに響いてきた。昨日までとは比較にならないほど、大気が荒れ狂っている。
『……ひどい風。右側の岩肌に沿っていた安全なルートが、人工風の渦でズタズタにされてるわ』
リュシアが忌々しげに思念を伝えてきた。
「だが、微かに風が抜けている道があるはずだ。頼むぞ、リュシア」
『ええ。私の翼に任せて』
リュシアは輸送隊の先頭で、時速百数十キロという低速を維持した。低速で飛ぶこと自体はできる。だが、荒れた風の中で輸送竜の揺れに合わせ続けるには、細かな翼の調整が要る。それでも、彼女は不満一つ漏らさず、一番遅い輸送竜に合わせて気流の抵抗を身体で受け止め、後続が飛びやすいように風除けの役割を果たし続けた。
峡谷の中盤に差し掛かった頃だった。
前方の上空、暗い雲海の切れ間から、軍の標識を外した所属不明の迎撃隊が姿を現した。
『隼人、敵よ!』
「距離二千。……来るぞ」
敵の編隊から一騎が分離し、リュシアたちの正面へと急降下してきた。
だが、その機動はどこか不自然だった。攻撃の意思を見せるように突っ込んできながら、リュシアの魔法の射程外で大きく翼を翻し、無防備な腹を見せるようにして旋回したのだ。
それは、あからさまな『隙』だった。
「一度目の囮だ。追うな、リュシア。そのままの速度と高度を維持しろ」
『わかってるわ。あんな見え透いた挑発に乗るもんですか』
リュシアは、かつてなら「速く行けるから」と反射的に飛び出していた本能を完璧に抑え込み、輸送隊の横にピタリと寄り添い続けた。
銀翼が動かないのを見て焦ったのか、敵はすぐに二度目の囮を出してきた。
今度は二騎が連れ立って、輸送隊の進行方向のすぐ斜め前まで接近してきた。そして、攻撃を仕掛けるでもなく、リュシアの目の前でわざと急減速し、「追いかけてこい」と言わんばかりの挑発的な動きを見せた。
銀翼の『全速』を使えば、一瞬で距離を詰めて撃墜できる距離だ。
だが、隼人の思考は、目の前でチラつく囮の先にある『真の脅威』へと向かっていた。
(……敵の指揮官は、俺たちが全速を二回しか使えないことを知っている。こんな露骨な囮に二度も釣られれば、全速を完全に浪費することになる。……そして何より、囮が前に出ているということは、本命は別にあるということだ)
隼人はコンソールの高度計と方位盤を睨みつけ、峡谷の地形図と風のデータを頭の中で結びつけた。
「……カミルさん、聞こえますか!」
隼人は竜鞍に備え付けられた通信魔導具に向かって叫んだ。
『こちらカミル! 風向データ、受信してるぜ!』
「前方の敵は囮です。俺たちが囮に気を取られている間に、補給路の右側面、乱気流の裏側を通って別働隊が仕掛けてきます。進入角度、右下三十度。教官に伝達を!」
『了解! ガルド教官、右舷後方から別働隊の接近予測!』
カミルの迅速な中継を受け、最後尾で警戒していたガルドとマーラが即座に動いた。
「読み通りだ黒瀬! 側面は俺たちに任せろ!」
ガルド隊が輸送隊の右側面へと急上昇し、巨大な風の防壁を展開する。その直後、雲の裏側から奇襲をかけようとしていた敵の別働隊が、ガルドの張った網に真正面からぶつかった。
「抜かせるかよ!」
マーラの放った牽制の風術が別働隊の鼻先を掠め、奇襲を完全に封じ込める。目論見を外された別働隊は、舌打ちをするようにして退いていった。
別働隊への対応はガルド隊に任せ、隼人とリュシアはただひたすらに前を向き、輸送隊の隊列維持に専念していた。
前方の二騎の囮は、なおもリュシアの周囲を飛び回り、執拗に挑発を繰り返している。
「別働隊は退いた。……どうする、リュシア。あいつら、まだ目の前を飛んでいるぞ」
隼人はあえて、彼女に意見を求めた。
リュシアは翼で気流の流れを感じ取り、敵の配置と魔力の気配を正確に測った。
『ううん、行かない。あいつら、私が飛び出すのを待ってるだけだわ。ここで私たちが陣形を崩したら、また別のところから輸送隊が狙われる』
彼女の声には、一ミリの迷いもなかった。
『ここで全速を使う必要なんてないわ。私の一番速い一回は、出口の壁をぶち抜くために取っておくの』
「ああ。同感だ」
隼人の口元に、微かな笑みが浮かんだ。
これは、隼人が「全速を使うな」と命令して彼女が「我慢している」のではない。二人が戦況を俯瞰し、敵の意図を読み切った上で、「全速を使う必要がない」と共同で判断した明確な成果だった。
撃墜のスコアよりも、敵の射線遮断と隊列の維持を最優先する。味方と協調し、ただ十箱の薬を届けるという任務目標だけを追求する。
彼らは囮の挑発を完全に無視し、安定した低速で輸送竜を導き続けた。
やがて、荒れ狂う人工風の海が少しずつ穏やかになり、峡谷の出口の光が見えてきた。
中立都市セレナの外縁。その空域に到達すれば、任務は完了する。
だが、その出口の光を遮るように、絶望的な黒い影の群れが立ちはだかっていた。
「……やはり、待っていたか」
隼人はコンソールの計器から顔を上げ、双眼鏡を構えた。
峡谷の出口を完全に塞ぐように、所属不明騎の主力部隊が分厚い『封鎖編隊』を構築していた。その数は、道中で相手をした囮や別働隊とは比較にならない。彼らは幾重にも重なった風術の壁を展開し、蟻の這い出る隙間もないほど強固な陣形を敷いている。
『黒瀬、前方の封鎖編隊を視認した!』
通信魔導具から、ガルドの切迫した声が響いた。
『後方から、先ほどの囮と別働隊も追いついてきている。挟み撃ちにされるぞ!』
「教官たちは、後方の敵の牽制をお願いします! 俺とリュシアで、前方の突破口を作ります!」
隼人は迷いなく答えた。
道中のあらゆる誘惑を退け、敵の狡猾な罠を潜り抜けてきた。全ては、この最後の瞬間のためだ。
「全速を使うぞ、リュシア。限界まで温存してきた俺たちの槍で、あの分厚い壁に穴を開ける」
『ええ。……走る場所は、残してあるものね!』
リュシアの思念が、歓喜に震えた。
抑え込んでいた本能を、今こそ完全に解放する時だ。
最後尾の防衛をガルド隊に託し、二人は温存していたただ一度の『全速』を使うため、出口の側面へ向けて深く身を沈めた。




