第28話 全速を使わない作戦
中継基地の作戦室の机の上に、数枚の真新しい羊皮紙が広げられていた。
「……字が汚いのは勘弁してくれ。まだ習い始めたばかりだからな」
隼人は少しバツが悪そうに言いながら、自筆で書き上げた作戦書を指差した。これまではカミルやリュシアに代筆を頼んでいたが、戦術の機微を直接伝えるためには、不格好でも自分で書く必要があった。
そこには、簡潔な図解と共に、現地の文字でいくつかの絶対条件が記されている。
それを覗き込んだリュシアの青い瞳が、ある一文に留まった。
『全速は道中の囮には一切使わず、出口の封鎖解除のために一回分を確実に温存する』
「あっ……!」
リュシアの顔がパッと輝いた。彼女は作戦書から顔を上げ、隼人を真っ直ぐに見つめた。
「走る場所は、残ってるのね!」
「ああ」
隼人は頷いた。
「道中を低速で進むのは、決して君の翼の価値を否定しているわけじゃない。敵の主力は必ず峡谷の出口を塞いでいる。一番分厚い壁をぶち抜いて、輸送隊の血路を開くためには、世界最速である君の『全速』という槍がどうしても必要なんだ」
「……うんっ!」
リュシアは嬉しそうに、弾んだ声で答えた。
自分の力を抑え込まれるのではなく、最も重要で決定的な瞬間のために信じて託されたのだと、彼女は理解したのだ。
そのやり取りを見ていたガルド教官が、腕を組みながら口を開いた。
「黒瀬、アルヴェイン。お前たちの戦術案は合理的だ。輸送隊を中央に置き、俺とマーラが最後尾と側面の遊撃を担当して敵の牽制を引き受ける。お前たちは先頭で低速のナビゲートに徹し、いざという時の突破力として全速を温存しろ」
ガルドは一枚の許可証を作戦盤の上に置いた。
「今回の任務の重要性と特異性を鑑み、俺の現場指揮官としての権限で、お前たち二人限定の『指定空域外での全速使用』を出撃前に正式に承認する。事後審査の心配はいらん。必要な時には、迷わず翼を広げろ」
「ありがとうございます、教官」
隼人は許可証を受け取り、再び作戦書へ視線を戻した。
「敵がこちらの全速の限界――一出撃につき原則二回までという制限を知っているなら、道中で二度、あるいはそれ以上、囮を出して消耗を誘う可能性があります。それに釣られて全速を浪費すれば、出口で詰みます」
隼人は鉛筆で、囮を想定したポイントにバツ印を書き込んだ。
「だから、道中での戦闘は全て回避、または教官たちに任せます。どんなに隙を見せられても、俺とリュシアは絶対に囮には反応しない。……アルヴェイン、いいな?」
「分かってるわ。絶対に釣られない」
さらに隼人は、急な風向変更時の『条件変更』の手順と、被害が一定を超えた場合の撤退条件を明文化し、その場にいる全員で読み合わせて承認を取った。
出撃前に考え得る限りの失敗要因を徹底的に潰す。それが、彼が元いた世界から持ち込んだ、命を守るための流儀だった。
その日の午後。
隼人とリュシアは、明日の本番を想定した低速飛行の訓練を行っていた。
治療薬の入った木箱と同じ重量の重りを背負った輸送用の羽竜に伴走し、時速百数十キロという低速で空域を飛ぶ。
銀翼のリュシアにとって、低速そのものが難しいわけではない。重い輸送竜の小さな揺れに合わせて位置を保つことが、速く飛ぶのとは違う集中を要求する。
『……輸送竜の右翼、少し風に押されてるわ。私が少しだけ前に入って、風の抵抗を削ぐから』
共感回路から伝わってくるリュシアの声は、驚くほど落ち着いていた。
彼女は文句一つ言わず、鈍重な輸送竜の乱れた羽ばたきを庇うように、自分の翼の角度を微調整し続けている。
「無理はするなよ。風護膜の魔力消費はどうだ」
『大丈夫。低速だから魔力はほとんど使ってないわ。これならずっと寄り添っていられる』
隼人は加圧鞍のコンソールを眺めながら、彼女の精神的な成長に静かに感嘆していた。自分の速さを誇示することしか知らなかった少女が、今は自分の全ての技術を「一番遅い味方を守ること」へ注ぎ込んでいる。
訓練の終盤、ガルドの合図でマーラが発生させた擬似的な乱気流が、突然彼らの進路を塞いだ。
隼人が状況を把握して指示を出そうとした、その時だった。
『――中止! 輸送竜、そのまま左下へ退避して!』
リュシアが自らの意思で明確な合図を叫び、輸送竜の盾になるようにして乱気流の余波を風護膜で受け止めた。
輸送竜が安全な高度へ退避したのを確認し、リュシアも緩やかに機体を下げる。
「……完璧だ。見事な判断だったぞ、リュシア」
隼人が竜鞍の上で称賛すると、彼女は嬉しそうに『きゅるる』と喉を鳴らした。
危険を察知した時、隼人の計算や指示を待つのではなく、自らの気流感覚を信じて即座に『中止』を宣言し、部隊の安全を確保する。
夕暮れ時。
出撃前夜の格納庫には、オレンジ色の柔らかい光が差し込んでいた。
隼人は加圧鞍の各部を入念に点検し、イーラが調整した魔力回路の接合部に異常がないかを確認していた。
隣では、人型に戻ったリュシアが、明日のための身支度を整えている。
張り詰めた緊張感の底に、どこか穏やかな空気が流れていた。
「……準備はいいか」
隼人が声をかけると、リュシアはふわりと微笑んだ。
「ええ。いつでも飛べるわ」
彼女は少しだけ歩み寄り、加圧鞍の側面に結び付けられた小さな革の護符をそっと指先で撫でた。
「ねえ、隼人」
「なんだ?」
「明日の任務が終わって、十箱の薬を全部届けて……無事に帰ってきたらさ」
リュシアは少しだけ頬を染め、上目遣いで隼人を見た。
「街の市場で、一番大きなお肉の串焼きと、あっま〜いお菓子、私にごちそうしてね」
それは、死地に赴く前の悲壮な決意ではなく、ごく自然な明日への期待だった。
「……また食うのか。俺の財布が空になるぞ」
「いいじゃない! 隼人と一緒に美味しいものを食べられたら、それだけで、すっごく元気が出る気がするから」
照れ隠しのように笑う彼女の言葉には、戦闘の相棒として以上の、ささやかで純粋な恋愛の感情が滲んでいた。
「……ああ。約束だ」
隼人は優しく微笑み、彼女の頭を軽く撫でた。
「市場の屋台を買い占めてでも、ごちそうしてやる。だから、絶対に一緒に帰るぞ」
「うんっ!」
死を覚悟するのではなく、生きるための約束を交わす。
それが、明日への何よりの原動力だった。
そして翌朝。
夜明けの出発時刻。薄暗い滑走路に、重い木箱を背負った三騎の輸送竜と、それを護衛する隼人たちが整列していた。
リュシアが事前に見つけた『夜明けの低速の通過帯』を利用するため、空の気流が最も安定するこの時間帯を狙っての出発だ。
だが、離陸の合図を出そうとしたガルドの元へ、通信機材を抱えたカミルが血相を変えて飛び出してきた。
「教官! 黒瀬! 待ってください!」
「どうした、カミル。何があった」
隼人が加圧鞍の上から身を乗り出すと、カミルは絶望的な顔で首を振った。
「たった今、国境の観測データが更新されました。……敵が、予定より早く風門塔の人工風を作動させています!」
「なんだと……!?」
「本来なら夜明け前後は気流が弱まるはずですが、敵は出力を無理やり上げて、私たちが狙っていた『通過帯』に乱気流を流し込み始めています! 使える通路が、想定の半分以下に狭まっています!」
カミルの悲痛な報告が、朝の冷気に凍りつく。
敵もこちらの動きを完全に読み切っていたのだ。安全に飛べるはずの細道を物理的に狭め、輸送隊を極限のプレッシャーの中に追い込もうとしている。
「……薬の発送期限は、今日だ。延期はできない」
隼人は風防眼鏡を下ろし、前方の暗い空を睨みつけた。
「まず待機点まで出る。実測して、輸送竜の翼幅と退避路が確保できなければ進入は中止だ。教官、それでお願いします」
ガルドは頷き、各騎へ条件を復唱させた。期限が迫っていても、薬ごと墜ちては届けられない。
刻一刻と状況が悪化する中、十箱の命を乗せた過酷な輸送作戦が、いよいよ幕を開けた。




