第03話 最速なのに、届かない
騎士団駐屯地に隣接する広大な訓練空域の地上には、非番の隊員たちが三々五々集まり、出撃を待つ二騎を見上げていた。
彼らの視線の先には、離陸場で翼を休める巨大な銀翼の竜と、その向かいの焦茶色の羽竜の姿がある。
「おい、本当にやるのか? あの『ニホン』とかいう国から来た流れ者、教官を相手に」
「昨日の検証飛行を見たか? アルヴェインの奴、冗談みたいな速度出してたぞ。いくら教官のマーラでも、あのスピードに追いつけるわけがない」
「いや、教官が素直に追いかけっこをするかね」
地上で囁く若い隊員たちの予想は割れていた。速度差は大きい。それだけで教官に勝てるかどうかを、皆が見たがっていた。
だが、竜鞍の上で固定具の最終確認を行っていた隼人の表情は、決して明るくはなかった。
出撃前のブリーフィングでのことだ。
『教官。模擬戦の前に、マーラの機動特性――最高速度、旋回半径、上昇力などの基本データを教えていただけませんか』
そう尋ねた隼人に対し、ガルド教官は鼻で笑ってこう返した。
『ふん。実戦で対峙した所属不明機が、ご丁寧に自分の性能を教えてくれるとでも思っているのか? 敵の能力は飛びながら読め。それができん奴から空で死ぬ』
風術で急に進路を変えられることは、リュシアからも聞いた。ただ、彼女もマーラの全力の機動を近くで見たことはないという。どれほどの速さで、どこまで動けるかは、実際に確かめるしかなかった。
『黒瀬さん、緊張してる?』
共感回路を通じて、リュシアの弾むような声が響いた。銀翼の先が、待ちきれないように浮き上がっていた。
「いや、少し考え事をしていただけだ。……いいかアルヴェイン、今回のルールは背面の標識に訓練用の魔法弾を当てること。相手の性能が分からない以上、格闘戦での旋回勝負は避ける」
『じゃあ、どうするの?』
「一撃離脱(ヒット&アウェイ)だ。お前の圧倒的な速度と上昇力を活かして、高高度で待機する。教官が仕掛けてきたら、位置エネルギーを使って一気にダイブし、後ろから撃ち抜いてそのまま離脱する。これなら旋回勝負に持ち込まれず、離脱の余地も残せる」
『わかったわ。任せて!』
上空から見下ろす隼人の視界に、低空を一定の速度で巡航するガルドとマーラの姿が捉えられた。
高度差はおよそ千メートル。絶対的な有利位置だ。
「――仕掛けるぞ。俺の合図でダイブだ」
『了解!』
隼人の指示と同時に、リュシアが翼をすぼめ、機首を真下へと向けた。
重力と彼女自身の推進力が合わさり、対気速度が跳ね上がる。風護膜の外で風が甲高く悲鳴を上げ、隼人の身体が前方へ投げ出されそうになるのを固定具が引き留める。
速い。戦闘機の急降下に匹敵する突進だ。
下方にいるガルド機が急速に迫ってくる。速度差は歴然。教官が今から回避行動を取ったとしても、絶対に間に合わない。
「そのまま……よし、射撃角に入った! 速度を落として撃て!」
隼人が確信を持って叫んだ。
だが、次の瞬間、隼人の常識(航空力学)を根底から覆す事態が起きた。
逃げ切れないと踏んだはずのマーラが、機首を上げることも、速度を落とすこともなく――文字通り『真上』へと瞬間移動したように跳ね上がったのだ。
「なっ……!?」
前進する運動エネルギーを上昇(位置エネルギー)に変換するプロセスを完全にすっ飛ばした、物理法則無視の不自然な挙動。
リュシアの射撃照準から、マーラの姿が完全に消え失せた。
『上よ!』
リュシアの切羽詰まった思念が響く。
隼人は反射的に「引き起こして追え!」と叫びかけた。しかし、現在の降下速度は時速四百キロを超えている。この速度域で上方へ急激に機首を引き起せば、猛烈なGがリュシアの翼と隼人の身体を圧壊させる。
一瞬の葛藤。隼人は自らの反射を理知でねじ伏せた。
「追うな! そのまま直進して離脱しろ!」
隼人の悲痛な指示に、リュシアは強引な引き起こしを諦め、翼を広げて前方への緩やかな離脱経路を取った。
直後。
隼人たちの頭上から、魔力で編まれた緑色のペイント弾が降ってきて、リュシアの背面標識に見事な着弾音を響かせた。
『被弾判定! そこまでだ!』
ガルドの容赦のない通信が、空域に響き渡った。
地上へと帰還し、隼人が鞍を外すと、リュシアは人型に戻るなり悔しそうに地団駄を踏んだ。
「あーっ、もう! 私のほうが絶対に速かったのに! なんで当てられなかったのよ!」
銀糸の髪を振り乱して不満を爆発させるリュシアの傍らで、隼人は降ろした竜鞍の横で、自身のノートに先ほどの航跡図を書き込んでいた。
「……あれが、羽竜の『風術』か」
隼人は唇を噛んだ。
戦闘機は、速度(運動エネルギー)と高度(位置エネルギー)を交換しながら飛ぶ。だが、マーラが見せたのは、魔力という第三のエネルギーを消費することで、速度を殺さずに無理矢理高度を稼ぐという魔法由来の機動だった。
「私のほうが速いのに、全然追いつけなかった……」
落ち込むリュシアの言葉に、隼人はノートから顔を上げた。
「気にするな。お前の速度が負けたわけじゃない。あれは俺の責任だ。……俺の組み立てが悪かった」
隼人は自責の念を込めて言った。
「未知の機動に対する想定が甘すぎた。戦闘機の常識にとらわれて、あの不自然な上昇を予測できなかった。俺がもっと早く離脱の判断を下していれば、背面を取られることはなかったんだ」
それを聞いたリュシアは、はっとしたように顔を上げた。
「ち、違うわ、黒瀬さん! あのね、マーラのあれは『上昇風術』って言って、魔力をすごくたくさん消費するの! だから連続では絶対に使えないし、上がった後は必ず隙ができるはずなの。私の感覚だと、風が――」
「いや、いい」
隼人はリュシアの言葉を手で制した。
「あれ以上追尾すれば、君に危険なGがかかっていた。負けるにしても、君の翼を壊すわけにはいかない。……今回は、俺の指示ミスだ。君に責任はない」
隼人は己の非を認めることで、彼女をかばおうとした。元戦闘機乗りとして、相棒の安全を守ることは絶対の義務だという自負があった。
しかし、リュシアは口を半開きにしたまま、何とも言えない複雑な表情を浮かべた。
「……そう。あなたがそう言うなら、いいわ」
彼女はぽつりと呟き、少しだけ視線を逸らした。
リュシアの視線が、開いたノートに落ちた。その口がもう一度動きかけ、閉じる。
隼人はその沈黙を、敗北を消化するための時間だと思った。自分が次の案を用意すればいい。そう考えて、新しい矢印を描き込んだ。
「上昇風術による速度損失の補填。そして魔力消費に伴う次の機動の遅れ。退避方向のデータは取れた。……次は相手も手を変えてくる。その先まで読もう」
一人で思考の世界に没入していく隼人の横顔を見つめながら、リュシアは小さくため息をついた。




