第02話 俺は戦闘機に乗っていた
石造りの無骨な執務室には、重苦しい沈黙が漂っていた。
長机の向こう側に座る王国教官ガルドは、腕を組んだまま鋭い眼光で隼人を睨みつけている。手元の羊皮紙には、昨日隼人が犯したとされる『搭乗全速禁止規則違反』の報告書が置かれていた。
「――つまり、貴様は『ニホン』という国から来た『戦闘機』と呼ばれる鋼鉄の竜に乗る操縦士であり、空を飛んでいたらいつの間にかこのアルティア大陸の上空に落ちてきた、と主張するのだな」
ガルドの低い声には、明らかな疑念が混じっていた。
「はい。信じられないでしょうが、事実です」
隼人は背筋を伸ばし、真っ直ぐに教官の目を見返した。
昨晩はろくに眠れなかった。異世界転移という非現実的な事態。航空自衛隊の最新鋭機は影も形もなく、通信機器もすべて沈黙している。帰還の手段はおろか、自分がなぜここにいるのかすら不明だ。故郷に残してきた家族の顔がよぎり、何度も胸が締め付けられた。
だが、絶望していても始まらない。元戦闘機乗りとして、想定外の事態に直面した時こそ冷静に現状を分析し、生き残るための最善手を打つよう訓練されている。
「鋼鉄が飛ぶなどというおとぎ話はさておき、問題は無許可の全速飛行だ。騎手を乗せた羽竜の全速飛行は、いかなる理由があろうと固く禁じられている。急機動時の負荷と風護膜の限界が騎手の命を奪うからだ」
「待ってください!」
隼人の隣に立っていたリュシアが、机に身を乗り出して口を挟んだ。
「あの時は、魔獣に追われた救難隊を助けるための緊急事態でした! それに、黒瀬さんは無理な旋回をさせず、直線だけで敵に割り込んだんです。双方合意の上での飛行でした!」
「合意があれば規則を破っていいわけではない、アルヴェイン」
ガルドの冷ややかな一瞥に、リュシアは悔しそうに唇を噛んだ。
隼人は小さく息を吐き、リュシアを片手で制してから口を開いた。
「教官のおっしゃる通り、高速度域での急な機動が騎手の命を危険に晒すことは、俺のいた世界の航空力学でも常識です。搭乗状態での全速が禁止されている理由も理解できます。……だからこそ、検証をさせてほしいのです」
「検証だと?」
「昨日、俺は彼女の翼で空を飛びました。羽竜の飛行特性は、俺が知る航空機とはまったく異なる未知のものです。あの全速飛行が本当に騎手にとって致死的限界を超えるものだったのか。俺の身体がどこまで彼女の速度に耐えられるのか、段階的な再現飛行で数値を計測したい」
隼人の提案に、ガルドは眉をひそめた。
「体感の武勇伝など信用できんぞ」
「体感ではなく、客観的な数値と疲労度で申告します。教官の立ち会いのもと、指定された安全な空域で。……俺が使い物になるかどうかの判断は、その結果を見てからでも遅くないはずです」
隼人の目には、恐怖や見栄ではなく、空の専門家としての理知的な光が宿っていた。ガルドはしばらくその目を見つめ返したあと、鼻を鳴らした。
「……よかろう。指定試験空域での限界測定を許可する。少しでも危険と見なせば、即座に中止させるからな」
一時間後。鞍の点検を終えた隼人は、再び銀翼の背にまたがっていた。
「仮契約は、この検証の間も続けていいか?」
『ええ。止める合図も、さっきの低速飛行と同じね』
「ああ。どちらが言っても、すぐ止める」
場所は国境の峡谷から少し離れた、乱気流の少ない広大な指定試験空域。少し離れた空域には、ガルドが相棒の焦茶色の羽竜マーラに騎乗し、監視の目を光らせている。
隼人は腰と太ももの固定具を限界まで締め上げ、ヘルメットのあご紐を確認した。
『黒瀬さん、準備はいい?』
竜鞍を通じた接触により、共感回路が起動する。頭の中に響くリュシアの声は少し上ずり、返事を待つ翼の先が小刻みに動いていた。
「問題ない。まずは俺の指示に合わせて、低速から段階的に加速してくれ。絶対に急旋回はするな。いいな?」
『わかったわ!』
リュシアが大きく羽ばたき、指定空域の端から直進を始めた。
隼人の周囲を淡い魔力の膜――風護膜が覆い、高高度の冷気と風圧を遮断する。
「対気速度、およそ百五十キロ。まずは低速だな。直進中の身体への負荷は落ち着いている、風護膜の揺らぎもなし」
速度計はない。コース沿いの測距標識と貸与された計時器で区間の速さを測り、地上からの風向・風速の報告と照らす。負荷も体感による概算にすぎない。隼人はその区別を声に出し、ガルドに記録を求めた。
「一段階加速。二百五十キロへ」
『いくわよ!』
リュシアの翼の羽ばたきが力強くなり、背中から押し出されるような加速感が隼人を包む。
「到達。通常の巡航速度域か。加速中の負荷はさっきより増した。背中を押す重さはあったが、今は楽だ。風護膜の魔力消費はどうだ?」
『全然平気。これくらいが、普段の巡航よ!』
リュシアの弾むような思念が伝わってくる。彼女にとっては、まだ準備運動にも満たないのだろう。
「よし。ここからが未知の領域だ。四百キロまで引っ張ってくれ」
風切り音が一段と高くなり、轟音へと変わっていく。隼人は背を鞍へ預け、息を詰めないよう呼吸を整えた。
「ぐっ……加速がきつい。もう少し緩めてくれ。風護膜に風圧のシワが寄っているな。お前自身の魔力消費は?」
『少し……集中が要るようになってきたわ。でも、まだ加速できる!』
「よし。俺もまだ意識はクリアだ。……加速を緩めたまま、次の標識まで進めよう。少しでもおかしければ中止だ」
リュシアが鳴き声を上げ、銀色の翼が空気を切り裂く。
景色が後方へと弾け飛ぶ。隼人の身体は竜鞍に強烈に押し付けられ、胸の上に重い岩を乗せられたような圧迫感が襲った。
「んッ……!」
隼人は胸を押す重さに息を整え、背もたれと固定具へ身体を預けた。今受けているのは、主に胸から背へかかる加速の負荷だ。旋回で頭から足へ血が引かれる時とは、耐え方が違う。異世界への転移時に着ていたGスーツも、機体からの送気設備がない今は加圧できない。無理な機動を避けるしかなかった。
(五百……六百……。加速を急がなければ、身体はついていける)
最高速に近づき、背中を押す力が弱まった。だが、風護膜の揺らぎは大きくなっている。
『ここからは長くもたないわ。私一人ならともかく、人を守る膜には十二秒が限界。今日は、もう余裕が減ってる』
速さを保つ負担と、加速や旋回で身体にかかる負担は別だ。どちらかが尽きれば終わりだった。
「――そこまでだ! 検証終了、減速しろ!」
隼人の明確な中止指示。
リュシアは一瞬不満げな思念を漏らしたが、すぐに翼を広げて空気抵抗を作り、緩やかに速度を落としていった。
地上の騎士団駐屯地に戻った二人は、待機していたガルドに報告を行った。
「指定試験空域での検証、完了しました。測距記録では最高速付近に達したのは数秒。初日の急減速より負荷は抑えられました。加速中は身体に重さがかかりますが、一定速度の直進では軽くなります。次は加速をさらに緩め、風護膜の残量を優先して測る必要があります」
荒い息を整えながら、隼人は淡々と結果を述べた。
ガルドは記録用の羊皮紙に目を落とし、それから隼人を見た。
「自らの限界を悟り、命知らずな真似をする前に引き返したか。……ふん。口先だけの阿呆ではないようだな。速度域における限界の申告、正式な検証記録として受理する」
ガルドの言葉に、隼人は内心で安堵の息をついた。
「黒瀬さん、すごかったわ!」
地上係が鞍を外したあと、人型に戻ったリュシアが、目を輝かせて隼人に駆け寄ってきた。
「あんな速度を出しても、途中で気絶しなかった人間は初めてよ! それに、危なくなる前にちゃんと止めてくれた。……見栄を張って無理をされるのが、一番怖いもの」
リュシアの青い瞳には、隼人の冷静な安全判断に対する確かな好感と信頼が浮かんでいた。
検証飛行のあと、二人は騎士団の食堂へと向かった。
木製の長机が並ぶ薄暗い食堂には、他の隊員たちの姿もあったが、彼らは遠巻きにこちらを見るだけで近づいてこようとはしなかった。
「はい、これ。あなたの分も頼んでおいたわよ」
リュシアが木盆に山盛りの肉料理と固いパン、そして温かいスープを乗せて運んできた。
「助かる。この世界の文字は、まださっぱり読めないからな」
壁に掛けられた献立表の文字は、隼人には意味をなさない模様にしか見えない。言葉は通じるのに文字が読めないという奇妙な状況下では、彼女のサポートが必須だった。
「空の上ではあなたの指示に従うけど、地上では私が先輩なんだから、遠慮しないでよね」
リュシアはふふっと笑い、自分の分の――隼人の倍はあろうかという――巨大な肉の塊に噛みついた。
「見事な食いっぷりだな……。しかし、他の連中はなぜこっちを見ているんだ?」
「ああ、あれね」
リュシアは肉を飲み込み、少しだけ寂しそうに視線を落とした。
「私の速度が非常識すぎるからよ。何人かとは訓練で組んだけど、長くは続かなくて……一人には、急な回避で大怪我をさせてしまったの。だから、私はいつも一人で飛んでた」
速すぎることが自身の価値だと信じる一方で、その速さが相棒を遠ざけてしまう。彼女もまた、この広大な空の部隊で孤独を抱えていたのだ。
「そうか」
隼人は手元のスープを見つめた。機体という手足を奪われ、見知らぬ世界にたった一人で放り出された自分。帰るべき場所は空の彼方にあるのに、道筋はまったく見えない。
「俺も、独りぼっちだ。……だから、君が助けてくれるのは本当にありがたい」
隼人の偽らざる本音に、リュシアは少し驚いたように目を丸くし、それから優しく微笑んだ。
「私が拾ってあげたんだから、責任は持つわよ。……あ、お肉食べる?」
「いや、俺の胃袋の限界は超えさせないでくれ」
二人の間に、小さな笑い声が響いた。互いの痛みを少しだけ共有できたような、温かい時間だった。
だが、その穏やかな空気を断ち切るように、軍靴の音が食堂に響いた。
入り口に立っていたのは、ガルド教官だった。彼は食堂の喧騒を睥睨し、まっすぐに隼人たちの席へと歩み寄ってきた。
「限界を知っているのは結構なことだ。だがな、異世界の戦闘機乗りとやら」
ガルドは隼人を見下ろし、冷酷な宣告を下した。
「負荷に耐えられることと、実戦で空戦に勝てることはまったく違う。明日、俺とマーラが貴様らの模擬戦の相手をしてやる。耐えられるだけで勝てると思うなよ」




