第26話 二人で決める、三つの言葉
「……もう一度、最初から確認するぞ」
朝の冷気が残る中継基地の滑走路で、隼人はコンソールパネルを備えた手入れした加圧鞍をポンと叩いた。
「俺たちの命を繋ぐ言葉は三つだ。『続行』『中止』、そして『条件変更』」
「分かってるわ」
人型のリュシアは、真剣な顔つきで頷いた。
「『中止』は、どちらか一人でも危険を感じたら即座に宣言する。宣言されたら、もう一方はまず危険な進入をやめて安全圏へ退避する。……でしょ?」
「ああ。そして、一度中止した計画の『再開』や、状況が変わった時の『条件変更』は、必ず二人の合意を得てから実行する。決して、どちらか一人の独断で勝手に計画を書き換えたり、消し去ったりしない」
それは、隼人が自身の『保護という名の支配』を戒めるためのルールでもあった。
「これを、危ない時にも使えるようにしないとね」
リュシアが少しだけ表情を和らげた時、二人の背後から足音が近づいてきた。
「よお。朝から熱心なことだな」
やって来たのは、大きな通信魔導具の機材を抱えたカミルだった。
「カミルさん。通信機材の調整ですか」
「ああ、お前たちの今日の試験飛行のモニター用にな。ガルド教官はすでに上空で待機しているぞ」
カミルが機材を降ろしながら言うと、リュシアはふっと視線を落とし、彼に向き直った。
「……カミル」
「ん?」
「あの時は……ごめんなさい」
リュシアは両手を体の前で組み、深く頭を下げた。
「私が急に動けば抜けられると思って、あなたの状態を確かめなかったから。……あなたの肩を、奪ってしまった」
ずっと胸の奥に抱えていた罪悪感。それを真正面から言葉にしたリュシアに対し、カミルは驚いたように目を丸くし、やがて優しく笑った。
「俺も、怖くて急かした。すまなかった。肩が元に戻るわけじゃないし、悔しくないと言えば嘘になる。でも、あんただけのせいにして終わりたくはない。今は地上から、止める言葉をちゃんと届けたい」
カミルは隼人とリュシアを交互に見やり、ポンとリュシアの銀髪を撫でた。
「今度はちゃんとお互いの声を聞き合えよ。俺の分まで、高く飛んでくれ」
「……うんっ!」
リュシアは顔を上げ、涙を堪えるように強く頷いた。
リュシアは何度も頷いた。傷が消えたわけではない。それでも、カミルの目を見て返事ができていた。
「さて、行くか」
隼人の言葉に、リュシアは銀色の光に包まれ、美しい羽毛竜へと姿を変えた。
地上係と隼人が鞍を取り付け、リュシアが翼の動きを確かめる。隼人が竜鞍に跨り、固定具を締め上げる。新しい『三つの言葉』を携え、二人は空へと飛び立った。
本日の任務は、中立都市セレナへの補給路を想定した疑似訓練だ。
指定空域には、ガルドとマーラが待機しており、彼らが帝国軍の『人工風』を模した強烈な乱流幕を局地的に発生させている。
隼人たちの目的は、その乱気流の網を掻き潜り、制限時間内に三つの安全標識を通過することだった。
「高度千五百。第一標識まで残り三キロ。対気速度三百、順調だ」
『風の乱れもないわ。『続行』ね』
「ああ、『続行』だ」
共感回路を通じた二人の意思疎通は、かつてないほどスムーズだった。
隼人の推測航法で最短ルートを割り出し、リュシアが細かい風の抵抗を翼でいなして速度を維持する。第一、第二の標識を、流れるような鮮やかさで通過していく。
だが、ガルド教官が用意した訓練が、計算通りの平坦な道で終わるはずがなかった。
第三標識――最終目的地まで残り二キロに迫った、その時である。
前方の空気が陽炎のように歪み、隼人が事前に計算して引いていた『安全な航路』のど真ん中に、巨大な乱流幕が突如として展開されたのだ。
『甘いぞ、黒瀬! 敵が大人しく予定通りの道を開けておいてくれると思うな!』
ガルドの通信が響く。予告なしの、強烈な妨害魔法の切り替えだった。
「くっ……!」
隼人が方位盤と高度計を睨みつける。
あの乱流幕に突っ込めば、姿勢を崩されて大幅なタイムロスになる。制限時間内での標識到達は不可能だ。
(迂回ルートを探すには時間が……いや、最悪の場合、ここで試験中止を――)
隼人の脳裏に、『いったん中止する』という選択肢がよぎった。
だが、彼が口を開くよりも早く、鞍越しにリュシアの力強い思念が飛んできた。
『――条件変更!』
それは、ただ隼人の指示を待つだけの乗り物ではない、戦場の状況を自ら判断した対等な相棒としての、はっきりとした宣言だった。
リュシアは翼で前方の乱気流を感知し、真っ直ぐ突っ込むのは危険だと自発的に判断したのだ。
リュシアは進入を止め、安全な手前側へ機首をずらしていた。ここなら、次の進路を相談する余裕がある。
「……了解。条件変更を受理する」
隼人は中止の選択肢も残したまま、即座にコンソールの計器と地形図に意識を集中させた。
「現在の限界魔力から逆算して、迂回に使える猶予はあと一分だ。最終標識までの残存距離は一・五キロ」
隼人は現状の限界を明確な数字でリュシアに提示し、頭の中で瞬時に二つの迂回ルートを計算して、その軌道を共感回路に乗せた。
「新経路の案は二つ。右へ旋回して雲の上へ出るか、左へ降下して谷沿いの狭い空域を抜けるかだ。……リュシア、どっちの風なら行ける?」
勝手に計画を消さず、相手に選択肢を示して意見を尋ねる。
リュシアは自身の感覚を翼の先端まで張り巡らせ、二つの空間の大気を味わった。
『……右の上空は、教官の乱流の余波がまだ残ってる。左の谷沿いなら、気流が安定しているわ。私なら抜けられる!』
「よし。左の谷沿いルートで『再開』する。俺が岩肌の距離を読む、君は風を読め!」
『任せて!』
二人の合意が完全に形成された。
リュシアは左の翼を深く畳み、岩壁が迫る谷間の空域へと滑り込むように降下した。
加圧鞍が隼人の身体を確実に保持し、急な降下機動でも彼の視線は計器からブレない。
「右十度、岩のせり出しあり! そのまま高度を維持しろ!」
『分かってる。ここの風、すごく素直よ!』
隼人の地形と空間の先読みがリュシアに安全な道筋を示し、リュシアの天性の風読みが、その道筋の上の微細な空気の抵抗を完璧に削ぎ落としていく。
視界を遮る岩壁を縫うように抜け、谷を抜けた先に、目印となる第三標識が浮かび上がった。
「制限時間まであと十秒……届くぞ!」
『いっけえぇぇっ!』
リュシアが最後の加速をかけ、銀色の閃光となって第三標識の真横を駆け抜けた。
『第三標識通過。……タイムクリアだ。よくやった、お前たち』
上空から見下ろしていたガルドの通信が、二人の勝利を告げた。
中継基地の滑走路へ帰還し、竜鞍から降り、鞍を外した隼人は、心地よい疲労感の中でヘルメットを脱いだ。
ふわりと光が散り、人型に戻ったリュシアが、少し息を切らしながらも満面の笑みでこちらを振り返った。
「やったわね、隼人!」
「ああ。君の素早い『条件変更』の宣言と、あの谷間の風読みのおかげだ」
隼人が鞍を台に置くと、リュシアが駆け寄ってきた。
彼女は、何も言わずにすっと右手を差し出した。
それは、ただの訓練の成功を祝うものではない。互いの命を預け合い、意思を尊重し合い、本当の意味での『対等な相棒』になれたことの証明だった。
隼人は微笑み、厚手のグローブを外して、彼女の少し冷たい、けれど柔らかな手をしっかりと握り返した。
「……これからも、俺の指示が間違っていると思ったら、遠慮なく声を上げてくれ」
「ええ、もちろんよ。隼人が変な方向に過保護になったら、私がちゃんと止めてあげる」
二人は繋いだ手を通して、確かな信頼の手触りを確かめ合った。
怖さも、独断へ傾く癖も、すぐには消えない。だが今日、気づいた時に立ち止まることはできた。繋いだ手が、その一回を確かめていた。
だが、彼らが作戦室へ戻ると、そこにはすでに本番の重圧が待ち構えていた。
作戦盤の前に立つユーノの顔は、朝よりもさらに切迫していた。
「お疲れ様です、お二人とも。……連携の試験は無事に済んだようですね」
「ええ。いつでも飛べます。セレナへの輸送作戦の詳細を」
隼人が尋ねると、ユーノは重々しく頷き、十個の木箱を示す駒を作戦盤の上に置いた。
「今朝の報告をさらに具体化しました。セレナの診療所の感染症の進行は早く、備蓄されている治療薬の残りは、持ってあと『五日分』です」
ユーノは作戦盤の上の帝国領――巨大な人工風を発生させている風門塔の周辺を指差した。
「つまり、輸送の途中で不測の事態が起こる可能性も考慮すれば、治療薬十箱を積んだ輸送隊が出発できる猶予は、あと『三日』しかありません」
三日。
その短い数字が、隼人とリュシアの背筋に冷たい緊張を走らせた。
「輸送する薬は全部で十箱。一箱でも失われれば、助からない命が出ます」
ガルドが腕を組み、隼人たちを見た。
「敵は所属不明の妨害騎を多数展開し、我々の空路を完全に塞ぎに来るだろう。……黒瀬、アルヴェイン。お前たちの新しい『三つの言葉』で、この絶望的な封鎖を突破できるか?」
隼人は隣に立つリュシアと視線を交わした。
彼女の青い瞳に、迷いはなかった。
「行けます。俺の戦術と、彼女の風読みがあれば、必ず道は開けます」
三日後。中立都市セレナの命運を賭けた、大規模輸送作戦の火蓋が切られようとしていた。




