第25話 帰れない空、帰りたい場所
夜明け前の冷たい空気が、騎士団駐屯地を包み込んでいた。
東の空が白み始めた頃、隼人は一人、兵舎の裏手にある見晴らしの良い高台に立っていた。
見上げると、淡い藍色から薄紅に染まりつつある空に、細かい波のような雲が広がっていた。アルティア大陸特有の分厚い雲海とは違う、高い空に浮かぶその雲は、隼人が元いた世界の秋の空によく見られた鱗雲に酷似していた。
「……親父たちは、元気だろうか」
ふと、口からこぼれた呟きは、冷たい風にさらわれて消えた。
自分が航空自衛隊の戦闘機ごと異常な発光雲に呑み込まれ、この異世界に落ちてきてから、もう三か月近くが経つ。
故郷の家族は、機体と共に消えた自分をどう思っているだろうか。殉職扱いになり、葬儀が行われているかもしれない。残された両親の悲しむ顔を想像すると、胸の奥をギリギリと締め付けられるような痛みが走った。
(帰らなければならない。俺には、帰るべき場所がある)
だが、現実は残酷だ。どれだけ空を飛ぼうとも、元の世界へ繋がる空間の裂け目も、帰還するための魔術的な手がかりも、未だ何一つ見つかっていない。
帰還手段が分からないという圧倒的な不安。
その不安を押し殺し、今この空で生き残るためだけに、自分は冷徹な戦術家として振る舞い続けてきた。
「……黒瀬殿。こんなところにいましたか」
背後から足音がして、中立都市連盟の救援官ユーノが歩み寄ってきた。彼の手には、昨日届いたばかりの書簡が握られている。
「ユーノ殿。セレナからの手紙の解析は終わりましたか」
「ええ。……状況は、思っていたよりも遥かに深刻です」
ユーノの顔には、濃い疲労と焦燥が浮かんでいた。
「昨日は『治療薬が尽きかけている』とだけお伝えしましたが、手紙の詳細はもっと悲惨です。セレナの都市下層部で、以前にも流行した感染症が蔓延し始めています。高熱と呼吸器の異常を引き起こすもので、特効薬の在庫はあと数日分しかありません」
ユーノは書簡の文面をなぞりながら、震える声で続けた。
「このまま帝国による人工風の封鎖が長引き、次の定期便まで薬が届かなければ……小さな子供や老人たちから、命を落としていくことになります。彼らは、次の便を待てないのです」
その言葉の重みに、隼人は押し黙った。
ただの物資不足ではない。これは明確な『時間との戦い』だった。
「……猶予は、どのくらいですか」
「感染の拡大速度から逆算して、治療薬を積んだ輸送隊が出発できるリミットは……あと三日です。それまでに、安全な空路を確保しなければなりません」
「三日……」
帝国が張り巡らせた人工乱流のデッドゾーン。その中に、輸送隊が安全に通れる時間帯と抜け道を見つけ出し、実証するための猶予としては、あまりにも短すぎる。
「必ず、道を開きます」
隼人はユーノへ向かって深く頷き、格納庫の方角へと歩き出した。
格納庫では、すでに人型のリュシアが、完成したばかりの加圧鞍の留め具を一つ一つ丁寧に点検していた。
隼人の足音に気づくと、彼女は顔を上げ、少しだけぎこちない笑みを浮かべた。
「おはよう、黒瀬さん。鞍の魔力回路、異常なしよ。いつでも飛べるわ」
「……おはよう、アルヴェイン」
隼人は鞍の前に立ち、その革の表面をそっと撫でた。
昨日、彼女が伝令竜を単独で救助して帰ってきた後、二人は謝罪を交わし、新しい合図を作ることを約束した。だが、まだ互いの心の深い部分には触れていない。
隼人は、先ほど高台で鱗雲を見上げた時の己の弱さを、そして本当の気持ちを、彼女に伝えなければならないと思った。
「アルヴェイン。……いや、リュシア」
隼人が名前を呼ぶと、リュシアは少し驚いたように目を瞬かせた。口論のあと、互いに姓へ戻るたび、隼人はその間に距離を感じていた。
「一昨日、俺が君の意見を聞かずに、今後の検証計画まで取り下げた時、言えなかった怖さについて、話しておきたい」
「……私が無茶をして、過去の事故みたいになるのを防ぐため、でしょ?」
「それだけじゃない。自分のことも、怖かった」
隼人は自嘲気味に首を振った。
「俺には、帰りたい場所がある。元の世界に家族がいて、どうしても生きて帰らなければならない理由がある。だから、生存確率の低い危険な空域には、絶対に踏み込みたくなかった。俺は、死ぬのが怖かったんだ」
リュシアの目が、大きく見開かれた。
常に冷静沈着で、どんな危機的状況でも感情を波立たせないように見えた彼が、初めて口にした『死への恐怖』。
「……でも、それだけじゃない」
隼人は一歩近づき、真っ直ぐに彼女の青い瞳を見つめた。
「俺が一番怖かったのは、俺の指示で、俺の相棒である君が傷つくことだ。……君のその美しい翼が、俺の判断ミスのせいで折れてしまうことが、何よりも恐ろしかった」
「隼人……」
「だから俺は、君の意思を無視してでも、絶対に安全な箱の中に君を閉じ込めておきたかった。君の判断を奪って、俺の管理下に置けば、君を失わずに済むと錯覚していた」
それは、相手を大切に思うあまりに生じた、極めて身勝手なエゴだった。
「俺は、君の『自分で選んで飛ぶ権利』を奪った。本当にすまなかった」
隼人は深く頭を下げた。
格納庫の冷たい空気の中、しばらくの間、静寂が続いた。
やがて、リュシアの小さなため息が聞こえた。
「……隼人って、本当に不器用ね」
隼人が顔を上げると、リュシアは少し怒ったような、でもどこか安堵したような、複雑な表情を浮かべていた。
「あなたがそこまで私のことを考えてくれていたのは、分かったわ。でもね、だからって『じゃあ許してあげる』とは言わない」
彼女は一歩踏み出し、隼人の胸元を指でトンと突いた。
「言葉で謝るだけなら、誰にだってできるわ。私は、あなたの乗り物じゃなくて、命を預け合う相棒なの。だから……本当に私を信じてくれるなら、これからの空で、行動で示して」
「行動で……」
「そう。危ない時こそ、私を蚊帳の外に置かないで。私の風読みを信じて、ちゃんと二人で判断を共有して。それができるまで、完全に許してはあげないんだから」
それは、対等な関係を築くための、彼女からの厳しいけれど温かい要求だった。
「ああ。約束する」
隼人は、彼女のその真っ直ぐな意思を正面から受け止めた。
「絶対に、君を置き去りにして一人で決めたりはしない。俺たちの命は、二人で一つの盤面に乗っているんだからな」
「ふふっ、そうよ。その意気よ」
リュシアは満足そうに微笑み、それから真剣な表情に戻った。
「ユーノさんから、手紙の話は聞いたわ。セレナの診療所、かなり危ない状況なんでしょ」
「ああ。治療薬の輸送が出発できるリミットは、あと三日だ。それまでに、あの人工乱流の海の中に、輸送竜が安全に通れる時間帯と抜け道を確定させなければならない」
隼人は竜鞍のコンソールパネルを指差した。
「今日の飛行は、昨日話し合った新しい『三つの言葉』を使う実地試験になる。続行、中止、条件変更。……この合図が機能しなければ、三日後の本番は乗り切れない」
「望むところよ。私の翼と、隼人の計算。どっちがより正確に風を読めるか、勝負ね」
リュシアは不敵に笑い、加圧鞍を二人の間に置いた。
帰れない空への未練と、帰りたい場所への思い。それらを抱えたまま、まずは飛ぶ前の確認から始める。隼人は草案を開き、彼女と並んで三つの言葉を読み直した。




