第24話 飛ばない日の判断
喧嘩の翌日。気まずい空気が流れる作戦室で、隼人はカミルが持ってきた二年前の事故記録と、自身が口述し、カミルに清書してもらった直近の飛行計画書を机に並べて見比べていた。
「……俺の書いた計画書には、『即時危険停止(中止)』の欄はある。だが、状況が変わった際にどうするかという『条件変更』や、相手の意見を確認するプロセスがすっぽりと抜け落ちている」
隼人が苦渋に満ちた声で呟くと、向かいに座るカミルが小さく頷いた。
「俺とリュシアの事故も同じだった。危険を感じて俺が『速く抜けろ』と指示を出した時、あいつが今の風の状態を俺に伝える余裕も、俺があいつの意見を聞く手順もなかったんだ。……危険回避の権限と、事前計画を変更する権限。この二つが曖昧なまま飛べば、いずれ必ず破綻する」
カミルの指摘は、元戦闘機乗りの隼人にとって耳の痛い正論だった。
戦闘機であれば、操縦桿を握る隼人の意思一つで即座に機体は動く。だが、羽竜は機械ではない。
(俺は、危険停止と計画変更を混同し、その両方を自分が独占しようとしていた。……だから彼女は『私を抜きに決めないで』と怒ったんだ)
中止を告げたことではない。止めたあとに彼女の見たものを聞かず、次の試みまで消そうとしたことが問題だった。
隼人が己の驕りを噛み締めていた、その時だった。
「緊急事態だ!」
作戦室の扉が乱暴に開かれ、ガルド教官が飛び込んできた。
「中立空域を飛んでいた味方の伝令竜が、人工風の突発的な張り出しに巻き込まれた。現在、デッドゾーンの境界付近で立ち往生している!」
「デッドゾーン……昨日、俺たちが反転した空域か!」
隼人が立ち上がりかけた瞬間、窓の外で凄まじい羽音が響いた。
見上げると、待機所にいたリュシアが、巨大な銀翼を広げて空へ飛び出していくところだった。ガルドが通信機を上げた。
「単独救援を許可した。境界の外側から誘導し、奥へは入らない。駄目なら俺たちが交代する」
隼人を待つより早く着ける。そう判断した彼女自身の救援だった。
「アルヴェイン!」
隼人は作戦室を飛び出し、中継基地の屋上にある管制塔へと駆け上がった。
双眼鏡を構え、遠く国境の空域を睨みつける。
灰色の雲海の上で、人工乱流の渦に捕まり、高度を落としかけている伝令竜の小さな姿が見えた。そして、そこへ一直線に突き進んでいく銀翼の機影。
『リュシア、聞こえるか!』
隼人は無意識に共感回路を開こうとしたが、頭の中には何の反応も返ってこない。
当然だ。双翼契約における共感回路は、竜形態の羽竜と騎手が『竜鞍を介して物理的に接触している間』だけ起動する。地上から目視で彼女を見上げている今の隼人には、彼女の緊張も、翼が感じる風の感触も、一切共有できないのだ。
(……これが、彼女の感覚が分からないということか)
今までどれだけ自分が、彼女の翼がもたらす情報に助けられていたかを、隼人は身をもって知った。
遠隔からの音声通信魔導具は繋がっている。隼人はマイクを握りしめ、「右から突風が来るぞ」と指示を飛ばそうとして、ハッと口をつぐんだ。
(俺には翼の感触が分からない。だが、見えている風まで黙る理由はない)
「リュシア、地上から見て右の雲が流れ始めた。そちらの感触を優先してくれ」
『受け取ったわ。境界に沿って回る!』
進路を奪うのでなく、判断に使える情報を渡す。
隼人はマイクを置き、傍らにある方位盤と計時器、そしてガルドが持ってきた広域の気流データに目を落とした。
「カミルさん、伝令竜の現在の高度と風速は?」
「高度二千、東南東の風、秒速二十メートル! 少しずつ谷側へ流されている!」
「教官、アルヴェインの速度と伝令竜の落下率から計算しました。彼女が伝令竜を捕まえ、安全空域へ離脱してくる通過予測時刻は、今から四分前後と見込みます。風が変わればずれます。救難台の受け入れ準備と、もしもの時のガルド隊の支援配置をお願いします!」
「よし、分かった!」
隼人は己の不安をねじ伏せ、数字と論理で彼女の帰還地点を整えることに集中した。
双眼鏡の中で、銀翼が速度を落とした。乱流の奥へは入らず、外縁をなぞるように伝令竜の風上へ回る。
『こっちよ! 私の後ろについてきて!』
通信機から届く声に、隼人は双眼鏡を握り直した。彼女が何を感じているかは分からない。見えるのは、その声に応じて伝令竜の高度が下げ止まったことだった。
二騎が細い上昇気流に沿って、ゆっくりと近づいてくる。隼人は位置の変化をカミルに伝え、受け入れ時刻を修正した。
四分を少し過ぎた頃、安全空域に戻った二騎を見て、基地の隊員たちから歓声が上がった。
「……見事だ」
双眼鏡を下ろし、隼人は深く息を吐き出した。
俺の判断がなくても、彼女は飛べる。そして、誰かを救うことができる。
その当たり前の事実を、隼人は心から受け入れていた。
救助を終え、人型に戻ったリュシアが隊舎の廊下を歩いていると、作戦室から出てきた隼人と出くわした。
二人はピタリと足を止め、気まずい沈黙が流れた。
「……怪我は、なかったか」
「うん。大丈夫。ちゃんと助けられたわ」
リュシアは少しだけ視線を逸らしながら答えた。
「あのさ、黒瀬さん」
「アルヴェイン」
二人の声が重なる。
「あっ……先に、どうぞ」
リュシアが譲ると、隼人は少し居住まいを正し、彼女の青い瞳を真っ直ぐに見つめた。
「昨日、君の意見を聞かずに今後の検証計画まで独断で取り下げたこと。本当にすまなかった。俺は君を守りたいあまり、君の意思を軽んじていた」
隼人の率直な謝罪に、リュシアは驚いたように目を丸くした。
「君はただの乗り物じゃない。世界一の感覚を持った、俺の対等な相棒だ。……俺の指示がなくても、君は一人で立派に飛べることを、今日見せてもらった」
「……隼人」
リュシアはギュッと両手を握りしめ、ふるふると首を横に振った。
「私も、怒って言葉をぶつけすぎたわ。でも、止めたことに怒ったんじゃない。今日も奥には入れなかったし、風の道は動いていた。だからこそ、調べ直す話をしたかったの」
お互いが、離れて飛んだことで相手の力量と正しさを認め合っていた。
隼人は作戦室の机から、一枚の羊皮紙を取り出して彼女に見せた。
「カミルさんの記録を見て、俺たちの連携には明確な『言葉』が足りていなかったことに気づいたんだ。だから、まず君が何を伝えたかったか、聞かせてほしい」
リュシアの話を聞き、隼人は空いていた欄に言葉を書き足した。三つの合図の草案が、ようやく並んだ。
一つ、差し迫った危険を避けるための、どちらか一人の判断で即発動する『中止』。
二つ、計画通りに飛ぶための『続行』。
三つ、状況が変わった際、二人で相談して新たなルートを決めるための『条件変更』。
「……まだ草案だ。これをどう運用するか、君の提案を聞いてから、二人で完成させたい」
隼人がそう言うと、リュシアの顔にようやく、張り詰めていた表情が少しだけ緩んだ。
「……うん。使い方まで、一緒に決めよう」
二人が歩み寄ろうとした、まさにその時だった。
廊下の奥から、中立都市連盟の救援官ユーノが血相を変えて走ってきた。
「黒瀬殿、アルヴェイン殿! 一大事です!」
「どうしたんですか、ユーノ殿」
ユーノの手には、先ほどリュシアが救助した伝令竜が運んできた書簡が握られていた。
「中立都市セレナの診療所からです。人工風の封鎖が長引いているせいで、備蓄していた感染症の治療薬が、ついに尽きかけていると……!」
「なんだって……」
「次の定期便を待っていては、間に合わない患者が出ます。なんとかして、至急薬を届ける方法はないでしょうか!」
悲痛なユーノの訴えに、隼人とリュシアは顔を見合わせた。
正規の空路は、帝国が張り出した人工風のデッドゾーンで完全に塞がれている。
「……昨日と今日、私が見つけた『風の抜け道』なら、通れるかもしれない」
リュシアが真剣な顔で言った。
「ですが、あの細道は人工風の干渉を受けて常に形を変えています。安全に通れる時間帯には制限があるはずだ」
隼人が続けると、リュシアは力強く頷いた。
「ええ。だから、まず明日、合図を訓練で確かめよう。それから二人で、具体的な時間帯を測定しましょう。私たちの、新しい『三つの言葉』を使って」
治療薬の輸送という新たな命の期限が、二人の関係修復と次なる共同飛行の舞台を用意していた。




