第23話 勝手に決めないで
眼下には、帝国が流し込んだ人工風が作り出す、凶悪な乱気流の海が広がっていた。
峡谷周辺のデッドゾーン。観測記録と目の前の気流からは、大型の輸送竜を進ませられる見込みが立たない。二人は境界の手前、安全な待機帯に留まっていた。
だが、リュシアの鋭敏な翼は、その乱気流の底に微かな『抜け道』を見出していた。
『あそこ……乱気流の隙間を縫って、向こう側の空域に抜けられるかもしれない。試してみたい!』
共感回路から伝わってくる彼女の思念は、新しい空路を見つけた高揚感に満ちていた。
『進入速度を時速二百キロ以下に抑えて、私の風護膜の出力を前方に集中させれば、まず入口だけ測って、駄目なら戻る条件を――』
「――教官、こちら黒瀬」
隼人は、リュシアが安全検証のための条件を言い終わる前に、通信魔導具のスイッチを入れた。
「前方の空域は完全にデッドゾーンと判定。本日の進入は中止します。加えて、この候補路の検証計画そのものを取り下げます。今後の試験対象から外してください」
『えっ……? ちょっと、隼人!?』
リュシアの戸惑う声が響く。だが隼人は構わず、手動で加圧鞍の固定具を締め直した。
「反転しろ、リュシア。基地へ帰還するぞ」
『待ってよ! 私の話、最後まで聞いてないじゃない! あそこなら通れるって私の翼が――』
「俺の計算では、あの空域に突入した場合の不確定要素が多すぎる。今ある記録だけでは、帰還を見込めない」
隼人は冷徹な声で言い放った。
昨夜、彼女は涙を流して「速く飛ぶのが怖い」と告白した。そして、一緒に限界を確かめてほしいと頼んだ。なのに隼人は、その怖さを取り除くことばかり考えていた。
ならば、相棒である俺が、彼女を全ての危険から遠ざけるのは当然の義務だ。彼女の翼を絶対に傷つけさせない。その強固なエゴ――保護欲求が、隼人の視界から『リュシア自身の意思』を見えなくさせていた。
「これは俺の判断だ。帰るぞ」
隼人の強い制止に、リュシアは押し黙った。
銀翼が強張り、回路には短い緊張だけが残った。
『今日の進入は止めるわ。でも、明日以降の調査まで消すことに、同意した覚えはない』
低く絞った声に、隼人は返せなかった。
銀翼が重々しく反転し、部隊は基地への帰路についた。
帰投中、隼人の通信魔導具にガルド教官から直接回線が開かれた。
「黒瀬。先ほどの試験中止の判断についてだが」
ガルドの声は、いつも以上に低く、底冷えがした。
「はい。前方の乱気流が激しく、これ以上の進行はアルヴェインの機体……いや、翼に致命的な損傷を与えかねないと判断しました。即時危険停止は、搭乗者の義務のはずです」
隼人がよどみなく答えると、通信の向こうでガルドが短く鼻を鳴らす音がした。
「差し迫った危機に対する『即時危険停止』と、事前計画の『独断変更』を一緒にするな。以前、安全案を同意署名なしで持ってきた時にも、話したはずだ」
「……え?」
「進入の中止は受け付けた。危険を感じたなら、戦闘でも検証でも止めていい。だが、今は安全な待機帯にいた。今後どう調べるか聞く余裕までなかったのか。調査計画の取り下げは保留する。帰還後、二人の意見を聞く」
ガルドの厳しい叱責に、隼人は言葉に詰まった。
「お前は彼女を危険から守っているつもりだろう。だが、相棒の意思を無視して安全な箱に閉じ込めるのは、保護ではない。『支配』だ」
「俺は、彼女を支配するつもりなど……!」
「ならば、地上に戻ったら彼女の目を見て、自分のやったことをよく考えてみろ」
通信が一方的に切れる。
隼人は竜鞍の上で、コンソールの計器を見つめたまま、動けなくなった。
支配。俺が、リュシアを?
中継基地へ着陸し、隼人が降りて鞍を外した直後だった。
人型に戻ったリュシアが、彼の袖を掴んだ。振り向いた顔を見ると、その手をすぐに離す。
「どうして!」
彼女の青い瞳からは、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「どうして、私の話を最後まで聞いてくれないの! 私が無茶をするから? 私の翼の感覚が、そんなに信じられないの!?」
「違う、リュシア! 俺は君を信じている。だが、あの空域は危険すぎたんだ!」
隼人は足を止め、必死に弁明した。
「昨夜、君は言ったじゃないか。速く飛ぶのが怖いと。誰かを傷つけるのが怖いと! だから俺は、君を過去の事故のような目に遭わせたくないんだ。確実な安全マージンの中でだけ、君に飛んでほしいんだよ!」
「それが、私の話を途中で切り捨てて、勝手に決めていい理由になるの!?」
リュシアの叫びが、格納庫に響き渡った。
「私は、あなたが限界を決めてくれたことが嬉しかった。でもね、それはあなたが私を『道具』みたいに扱う免罪符じゃないわ!」
彼女は離した手を胸の前で握りしめた。指先が白くなっていた。
「怖いなら、今日は帰ろう。それはいいの。でも、調べ直すことまで諦める前に、私にも話させて。対等な相棒でいたいのよ!」
「俺だって、君を対等な相棒だと思っている。だからこそ――」
「だったら!」
リュシアは隼人の言葉を遮り、涙でぐしゃぐしゃになった顔を歪めて、腹の底から絞り出すように言った。
「守られたくないんじゃない。私を抜きに決めないで!」
その言葉は、隼人の胸の最も柔らかい部分を、鋭利な刃で抉るように突き刺さった。
ハッとして、隼人は自分のエゴの正体に気づいた。
彼女を危険から遠ざけるという大義名分のもとに、自分は『彼女が自分で選び、自分で判断する権利』を奪っていたのだ。かつて彼女が「ただの乗り物じゃない」と訴えたにも関わらず、自分はまたしても彼女を、意思を持たない『機体』として扱ってしまっていた。
「……対等でいられないなら、私……」
その先の言葉は続かなかった。隼人は息を詰めた。任務の契約まで失うかもしれないという考えが、初めて現実の重さを持った。
リュシアは顔を背け、乱暴に涙を拭った。
「……もう、知らない」
彼女は背を向け、足早に格納庫から走り去っていった。
残された隼人は、壁に寄りかかったまま、冷たい石の床を見つめ続けた。
自分の過保護が、一番守りたかったはずの彼女の心を、誰よりも深く傷つけてしまったのだ。
その日の午後から、二人の共同飛行は一時中断となった。
隊舎の自室――リュシアの部屋の隣室――で、隼人は薄暗いランプの灯りの下、机の上に広げた航路図を見つめていた。
隣の部屋からは、物音一つ聞こえてこない。
ただの口論ではない。これは、命を預け合う飛行士と羽竜としての、根源的な価値観の衝突だった。
「俺は、どうすればよかったんだ……」
隼人は両手で頭を抱えた。
危険と分かっている空域に、相棒を突っ込ませるのが正解だったのか。いや、そうではないはずだ。問題は、決定のプロセスにあった。
(相手の意見を聞き、情報を共有し、その上で一緒に結論を出す。……航空自衛隊でも、クルー・リソース・マネジメントとして叩き込まれたはずの基本じゃないか)
異世界という極限状況下で、全てを一人で背負わなければならないという思い込みが、隼人の視野を著しく狭めていた。
翌朝。
どんよりとした重い空気が漂う作戦室で、隼人は一人、これまでの飛行記録を整理していた。
そこへ、軽いノックの音と共に通信士のカミルが入ってきた。
「……やあ。お互い、居心地の悪い朝だな」
カミルは苦笑いを浮かべながら、隼人の向かいの席に腰を下ろした。彼の手には、数枚の羊皮紙の束が握られている。
「カミルさん。これは……」
「二年前に、俺とリュシアが起こした事故。あの時の、詳しい交信記録の写しだよ」
カミルは羊皮紙を机の上に滑らせた。
「あんたが昨日の検証飛行で、リュシアの提案を無視して今後の検証計画まで勝手に取り下げたって話、教官から聞いたよ」
隼人は視線を落とした。
「……彼女を、傷つけたくなかったんです」
「だろうな。あんたの気持ちは痛いほど分かるよ。大事な相棒が無理をしようとしてるなら、力ずくでも止めたくなる」
カミルは懐から煙草(のような嗜好品)を取り出し、火をつけずに口にくわえた。
「でもな、黒瀬。あんたも、少し頭を冷やせ」
カミルは机の上の交信記録を、トントンと指で叩いた。
「俺の時は、止める合図が曖昧で、お互いに相手の判断を確かめないまま動いた。今度は止めることはできた。その先を、二人で話す手順がなかったんだな。……あんたたちの今の問題も、根っこは同じじゃないのか?」
その言葉に、隼人はハッと顔を上げた。
過去の失敗の記録が、すれ違った二人の関係を修復するための、ある決定的な『ヒント』を提示しようとしていた。




