第22話 傷つけたくない翼
第三か月も終わりに近づいていた。狭まり続ける空路の記録を集めても、まだ輸送隊を通す道は決まらない。
作戦室の重苦しい空気は、新しい作戦担当としてカミル・レーンが加わってからも晴れることはなかった。
日が落ち、ガルドとユーノが中立都市への補給路再編の調整に向かった後。薄暗い室内には、隼人とリュシア、そしてカミルの三人だけが残されていた。
カミルは作戦盤の上に羊皮紙を広げ、過去の救援便の交信記録を整理している。その作業の合間、彼がふと視線を上げて作戦室の隅に座るリュシアを見ると、無意識のうちに己の右肩――制服の下にある古傷を、右手でそっと押さえるのだ。
リュシアもその視線に気づくたび、痛みをこらえるように目を伏せ、身を縮こまらせている。
(……このままでは駄目だ)
隼人は手元のノートを閉じ、小さく息を吐いた。
空路が細くなり、敵の妨害が激化している今の状況下で、作戦の中枢を担うチーム内にしこりを残したままにしておくのは致命的だ。空の上での一瞬の躊躇いが、命取りになる。
「カミルさん」
隼人は立ち上がり、カミルの向かいの席に座った。
「今後の作戦を連携して進めるためにも、聞いておきたいことがあります。……あなたが過去に、リュシアの騎手候補だった時の事故についてです」
その言葉に、リュシアの肩がビクッと跳ねた。
「黒瀬さん、それは……!」
「急に聞いてすまない。二人とも、今話せる範囲で構わない。記録だけでは分からないことを、確かめたいんだ」
リュシアはしばらく唇を噛んでいたが、やがて小さく頷いた。カミルも椅子を引き寄せる。
カミルは整理していた羊皮紙から手を離し、苦笑いを浮かべた。
「……ガルド教官から、少しは聞いているんじゃないのか? 彼女の速度に俺が耐えられず、怪我をして騎手を降りたって」
「急回避と、中止合図の不備については聞きました。……その時、カミルさんが何を怖いと感じたのか。今も困っていることがあるのか、それを聞かせてもらえませんか」
隼人の真剣な眼差しを受け、カミルは少しだけ考え込み、やがてゆっくりと語り始めた。
「……あれは二年ほど前、俺がまだ正式な騎手になる前の訓練中のことだった」
カミルは右肩を軽く回しながら、記憶をたぐるように天井を見上げた。
「俺たちは、国境の山岳地帯の少し手前で、回避機動の訓練をしていた。その時、予期せぬ突発的な乱気流――今思えば、あれも帝国の人工風の走りだったのかもしれない――に巻き込まれたんだ。機体が大きく煽られ、俺はパニックになった」
「止まる余裕もないように、感じたんですね」
「ああ、その通りだ。俺は恐怖から逃れるため、リュシアに『早くこの空域を抜けろ! もっと速く!』と指示を出してしまったんだ」
「止めてくれ、と言えばよかった。だが、あの時は速く抜けさえすれば助かると思っていた。俺が急かしたんだ」
カミルは机の上の右手を見下ろした。
「彼女がその声に応えて急回避を重ねた。七百キロなんて出していない。それでも、俺の肩はもたなかった」
その瞬間、旧式の標準竜鞍では支えきれないほどの強烈な横Gがカミルの身体を襲った。
「俺の身体は鞍の上で大きく振られ、右肩の関節と筋肉が悲鳴を上げて……そのまま意識が飛んだ。気がついた時には基地の医務室で、俺の右肩は二度と重い固定具を引けない身体になっていたというわけさ」
カミルは自嘲気味に息を吐いた。
「今でも、通信盤の上の棚に腕を伸ばすと痛む。地上へ移れば元通り、とはいかなかったよ。だが、手元で扱えるよう並べ替えれば、俺にもできる仕事はある」
カミルは左手で羊皮紙を引き寄せた。隼人は、その何気ない動作を見た。書類には残らない、事故の続きだった。
「鞍の保持力も、中止の合図も足りなかった。だから誰か一人を責めて終わりにはできない。……そう考えたのは、審査の時から変わりません」
「……お前、面白い捉え方をするんだな」
カミルは驚いたように目を丸くした後、肩の力が抜けたように笑った。
「リュシア。黒瀬の言う通りだ。俺はあんたを恨んじゃいない。むしろ、あのまま墜落せずに基地まで運んでくれたことに感謝してるくらいだ。だから、もう俺の顔を見るたびにそんな悲しい顔をするな」
「カミル……」
リュシアは顔を上げ、潤んだ瞳で元相棒の顔を見つめ返した。
「俺は地上から、通信士としてあんたたちの空を支援する。……頼んだぜ、世界最速の銀翼」
カミルはそう言うと、残りの羊皮紙を束ねて「少し外の空気を吸ってくる」と作戦室を出て行った。
扉が閉まり、室内に再び静寂が降りた。
隼人は自分の席に戻り、ノートを開いて明日の風向予測の計算を始めようとした。
「……黒瀬さん」
背後から、細い声がした。
振り返ると、リュシアが両手で自分自身の腕を抱きしめながら、ポツリポツリと話し始めた。
「私ね……ずっと、怖かったの」
彼女の青い瞳は、普段の勝ち気な光を失い、深い恐怖の色に染まっていた。
「銀翼種に生まれた私にとって、誰よりも速く飛べることは、たった一つの誇りだったわ。世界最速。それが私の唯一の価値だと思っていた」
彼女は一歩だけ、隼人の方へ近づいた。
「でも、私がその価値を証明しようとして速さを出せば出すほど、一緒に飛んでくれる大事な相棒を傷つけてしまう。カミルの肩を壊した時、私は……自分が一番誇りに思っているものが、大好きな空で誰かを壊す凶器になるんだって、思い知らされたの」
それが、彼女が自分の速度に誇りを持ちながらも、本能の奥底で全速を出すことを恐れていた理由だった。
「だから……黒瀬さんが初めて私の背中に乗ってくれた時、本当に嬉しかった。私の全力に耐えてくれただけじゃない。その後の試験では『十二秒』の上限だけじゃなくて、途中でも止めていいって確かめてくれた」
リュシアの目から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「限界を一緒に確かめてくれたおかげで、前より怖くなくなった。でも、また焦って間違えないかは、まだ怖いの。……だから、これからも一緒に確かめて。隼人」
それは、誇り高い竜少女の、あまりにも痛ましい本音だった。
隼人はノートから手を離し、泣いている彼女を見つめた。
限界を一緒に確かめる。彼女が求めたのは、その約束だった。だが隼人の耳には、震える声の「怖い」が強く残っていた。
(……俺は、彼女を本当に理解できていたのだろうか)
隼人の胸の奥で、何かが強く軋んだ。
彼女の翼は、世界一美しい。その翼が、今も過去の恐怖に縛られている。平気になったと、勝手に思っていた。
(俺が、守らなければ)
隼人は強く拳を握りしめた。
このアルティアの空で、彼女をこれ以上絶対に傷つけさせない。過去のトラウマからも、敵の攻撃からも、彼女の身と心を守り抜く。
その思いに重なって、故郷の家族の顔がよぎった。ここで墜ちれば、もう二度と会えない。隼人はその怖さを振り払うように、ノートへ目を落とした。
隼人は翌日の航路図に、危険を避ける線を引き足した。いつの間にか、彼女に確かめる前に、その線の外側を塗り潰していた。
翌日。
中立都市セレナへの補給路再編に向けた、国境峡谷周辺での新たな空路開拓の共同飛行。
改良された加圧鞍に乗る隼人と、銀翼を広げるリュシアは、狭まりつつある中立協定空路の境界線を飛んでいた。
眼下には、帝国が流し込む人工風によって生じた、巨大で凶悪な乱気流の海が広がっている。隼人の計算と地形図では、この先は完全に飛行不能な『デッドゾーン』だった。
「……駄目だな。この空域は完全に死んでいる。迂回ルートを探すぞ」
隼人が引き返すよう指示を出そうとした、その時だった。
『待って、隼人!』
リュシアの思念が、共感回路を通じて飛び込んできた。
彼女の翼の先端が、暴力的な乱気流の海の中に、かすかな大気のほころびを感じ取っていた。
『あそこ……乱気流の底の方に、細く風が抜けている場所があるわ!』
「なんだと?」
『私の翼なら、あの乱気流の隙間を縫って、向こう側の空域に抜けられるかもしれない。……試してみたい!』
それは、過去の恐怖を乗り越え、自らの意思で新しい風の道を開拓しようとする、彼女の積極的な提案だった。
だが、隼人の脳裏には、昨夜の彼女の涙と、「絶対に傷つけない」という自身の誓いが重くのしかかっていた。




