第21話 空路が細くなっていく
夏の日差しが強まる、第三か月の初め。
アルティア大陸の空には、季節の変わり目特有の湿った風が吹き始めていた。だが、国境周辺の空域を支配しているのは、自然の風ではない。
「……また道が狭くなっているな」
加圧鞍のコンソールパネルに固定された高度計と地形図を見比べながら、隼人は竜鞍の上で重い溜息をついた。
眼下に広がるのは、中立都市連合と王国を結ぶ主要な協定空路だ。ほんの数週間前までは、大型の輸送竜が何騎も並んで飛べるほど広々とした空の道だった。
しかし今、その航路の半分以上が、目に見えない巨大な壁によって塞がれていた。
『うん。右側の気流、完全に死んでるわ。ただの強風じゃない、人工的に捻じ曲げられた風の渦がびっしり詰まってる』
銀翼のリュシアが、不快そうに首を振って思念を返してきた。
帝国領内に新設、あるいは増築された大型の風門塔。そこから越境して流し込まれる人工風は、日を追うごとにその張り出しを強めていた。帝国はこれを「自然災害」と強弁し、中立都市セレナへの補給を物理的に遮断することで、自国の管理航路への経済的従属を強要しようとしている。
塔そのものを破壊すれば残留風が暴走して都市に被害が出るため、王国軍として越境攻撃はできない。我々にできるのは、細くなった空路を必死に行き来する救援便を、ただ防衛することだけだ。
「中立都市セレナでは、すでに食糧と医薬品の配給が滞り始めているらしい。通れる道が狭くなれば、当然、敵の妨害部隊も待ち伏せがしやすくなる」
『……分かってるわ』
リュシアの応答は、どこか事務的だった。
数日前の測風施設防衛任務での一件。隼人が彼女の意見を途中で切り捨て、独断で防衛への帰還を決めたことによるしこりは、まだ二人の間に見えない風の壁となって横たわっていた。
空の上での連携に支障はない。だが、かつてのように何気ない会話で笑い合うような余裕は、今の二人には欠けていた。
「……レーダーもないこの世界で、敵の接近を事前に察知するには君の風読みだけが頼りだ。異常があればすぐに言ってくれ」
『言われなくても、私の翼は世界一よ』
少しトゲのある言葉が返ってきた直後、リュシアの翼が空中でピクリと反応した。
『隼人、前方の雲の下! 中立都市に向かう救援便よ。でも、その後ろの気流が乱れてる!』
隼人が風防眼鏡の奥で目を凝らすと、灰色の雲海の切れ間を這うようにして飛ぶ、一騎の輸送竜の姿が見えた。大きな荷を背負い、不自然な人工風の張り出しを避けるようにして、残された細い空路を必死に進んでいる。
そして、その輸送竜の死角となる斜め後方の上空。不自然に固まった雲の影から、所属標識を持たない黒っぽい偵察騎が二騎、滑るように降下してくるのが見えた。
「所属不明の妨害騎か! 救援便が通行不能帯に押し込まれるぞ!」
隼人は即座に頭の中で盤面を構築した。
敵は救援便の背後を取っているが、彼らとてこの複雑な人工風の影響を完全に無視できるわけではない。攻撃を仕掛けるためには、必ず通らなければならない『風の安定した角度』が存在するはずだ。
「アルヴェイン、敵は救援便を右側から追い込もうとしている。進路予測、右下四十五度。奴らが攻撃姿勢に入る前に、我々がその角度へ先回りして迎撃位置を取る!」
『了解!』
リュシアが銀翼を翻し、隼人の指示した空間へと機体を滑らせる。
加圧鞍の革帯がキュインと微かな音を立てて収縮し、降下に伴うGから隼人の下半身をしっかりと保持した。
だが、目標空間へ到達しようとしたその時、リュシアが短く警告を発した。
『駄目、隼人の計算した位置は少しずれてる! あそこには敵が隠した風の境目があるわ!』
「なんだと?」
『敵はもっと鋭い角度で入り込んでくる気よ。私に任せて!』
リュシアは隼人の指示した座標からわずかに機動を逸らし、彼女の翼だけが感じ取ることのできる『目に見えない人工乱流の断層』の縁へと、ぴたりと機体を這わせた。
その直後だった。
リュシアが予測した通りの断層の死角から、妨害騎の一騎が猛スピードで飛び出してきたのだ。隼人の計算よりもさらに鋭角な、風の壁をギリギリで掠めるような変則的な侵入角だった。
『もらった!』
リュシアは速度を抑えた安定姿勢のまま、敵が姿を現したその瞬間の鼻先へ向けて、自らの意思で『風刃』を放った。
ズドォォン!
高圧縮の大気の刃が、妨害騎の進行方向の少し先で炸裂した。
直撃は免れたものの、至近距離での炸裂とそれに伴う気流の乱れに煽られ、敵騎は大きく体勢を崩してスピンに陥った。もう一騎も、予想外の迎撃位置にいた銀翼の存在に驚き、慌てて機首を引き起こして上昇退避していく。
「よし、追撃は不要だ! 救援便の護衛位置に戻れ!」
隼人の指示に従い、リュシアは深追いをせずに輸送竜の側方へと機体を寄せた。
妨害部隊の襲撃を退けられた救援便の騎手が、こちらに向けて何度も感謝の手信号を送ってくるのが見えた。
そのまま安全空域の境界まで並走し、輸送竜が中立都市セレナの防衛圏内へと入り込んでいくのを見届ける。
「……防衛成功。民間便の通行を確認した。見事な迎撃だったな、リュシア」
隼人は竜鞍の上で短く息を吐き出し、相棒を労った。
塔そのものを攻撃することなく、敵騎だけを排除して物資を通す。この状況下においては最善と言える『小勝利』だった。
『私の風読みが当たったでしょ。敵の動きは、計算だけじゃ測れないわ』
共感回路から伝わってくる彼女の思念は、誇らしげではあったが、やはりどこか冷めていた。
「ああ。君の言う通りだ。俺の予測を、君の感覚が補ってくれたおかげで助かった」
隼人は率直に彼女の判断を認めた。
「だが、根本的な問題は何も解決していない」
隼人はコンソールの地形図を見つめたまま、重い事実を口にした。
「俺たちの機動力があれば、敵を退けてあの救援便一便を通すことはできる。だが、重い荷物を背負った輸送竜が通れる『物理的な安全な道』は、確実に減っているんだ。このまま風門塔の影響が強まれば、いずれどんな護衛をつけても物資を通せなくなる」
『そんなことないわ!』
リュシアが強い思念で反論した。
『今日だって、私が風の境目を見つけたじゃない! あの風の細道なら、まだ輸送竜だって飛べるわ。私が先頭に立って見えない道を見つけるから、もっと奥の、危険な空域まで護衛に入りましょうよ!』
「それは危険すぎる。君の感覚に全ての命を預けるような博打は打てない。不確実な風の細道に大部隊を突っ込ませて、もし途中で風向が変われば全滅だ」
隼人の論理的な否定に、リュシアの翼が怒ったようにバタバタと音を立てた。
『博打じゃないわ! 私の翼を信じてよ! ここで私たちが危険を避けて引っ込んじゃったら、セレナの人たちはどうなるのよ!』
「俺だって彼らを救いたいと思っている。だからこそ、確実に勝てる――確実に生き残れる防衛ラインを維持しなければならないんだ」
二人の間に、冷たい風が吹き抜けた。
救いたいという目的は同じはずなのに。
自分の突出した能力を信じ、危険な細道へ踏み込んででも状況を打開しようとするリュシア。
不確実性を排除し、全体の生存確率を優先して黙って危険を避けさせようとする隼人。
どちらも間違っていないからこそ、二人の価値観の違いは明確な『温度差』となって表れていた。
『……隼人は、本当に臆病ね』
ぽつりと落とされたその思念を最後に、リュシアは基地へ帰還するまで、一言も口を利かなかった。
騎士団駐屯地へ帰還した午後。
作戦会議室では、ガルド教官を中心に、細りゆく中立協定空路への対策会議が開かれていた。
「状況は理解した。黒瀬、アルヴェイン。お前たちの小勝利には価値がある。だが、黒瀬の言う通り、輸送ルートの確保はすでに個人の技量でどうにかなる段階を越えつつあるな」
ガルドは腕を組み、作戦盤の上に散らばった交信記録の羊皮紙を見下ろした。
「敵の妨害騎の襲撃パターンと、人工風の強弱には何らかの関連性があるはずだ。救援便の過去の交信記録と被害報告を全て洗い出し、相対的に安全な時間帯と空路を特定する。……これより、地上通信士を一名、専属で作戦担当に加える」
ガルドがそう言うと、作戦室の扉が開き、一人の青年が入ってきた。
「通信士のカミル・レーンです。過去の記録解析と、前線への情報伝達を担当します」
少し癖のある茶色の髪をした青年は、背筋を伸ばして敬礼した。隼人がこの青年と顔を合わせるのは、これが初めてだった。
「カミルか。記録の照合と分析なら、彼の右に出る者はいない。黒瀬、お前も彼のデータを航法計算に役立ててくれ」
「了解しました。よろしくお願いします、カミルさん」
隼人が頭を下げると、カミルは人懐っこい笑顔で頷き返した。
「こちらこそ、よろしく頼むよ。異世界から来た腕利きの飛行士さん」
カミルは隼人と握手を交わした後、作戦室の隅で無言のまま立っているリュシアの方を見た。
その瞬間、カミルの表情がわずかに強張り、彼は反射的に自分の右肩を――制服の上から、古傷を庇うように――手で押さえた。
リュシアもまた、カミルと目が合うと、痛いところを突かれたようにさっと視線を逸らし、うつむいてしまった。
二人の間の、明らかに不自然な空気。
「……お知り合いですか?」
隼人が何気なく尋ねると、カミルは苦笑いを浮かべて肩から手を下ろした。
「ああ。……俺は昔、リュシアの『騎手候補』だったんだよ」
その言葉に、隼人は目を見開いた。
リュシアがかつて、自身の速度を制御できずに騎手を負傷させ、任務契約を白紙に戻されたという過去の事故。
「カミルさんが、あの時の……」
「別に、彼女を恨んでるわけじゃないさ。ただ、俺があの速度についていけなかっただけの話だ」
カミルは自嘲気味に笑ったが、リュシアは居たたまれないようにギュッと拳を握りしめていた。
自分が誰かを傷つけてしまうという、リュシアの心の底にある一番の恐怖。
その当事者が、これからの過酷な作戦において、チームの中枢に加わることになったのだ。
細くなっていく空路と、すれ違う相棒との心。隼人は手元のノートの真っ白なページを見つめながら、これからの空の戦いが一筋縄ではいかないことを痛感していた。




