第20話 勝ったのに、届かない背中
空はすでに深い藍色に沈み、国境の測風施設周辺は不気味なほどの静寂に包まれていた。
だが、その静寂は上空で繰り広げられる激しい機動戦によって容易に切り裂かれる。
記録の撤収路を狙ってわざと背中を見せた敵の指揮騎――ヴァルターとグレンを追い、隼人たちとガルド隊は夜の空域を駆け抜けていた。
「アルヴェイン、距離を保て! 奴の狙いは俺たちを引き離すことだ!」
『わかってる!』
リュシアは加圧鞍に守られた隼人の指示に従い、時速三百キロ前後の中速域を維持しながら黒翼の竜を追尾する。
グレンの飛行は、巨大な体躯に似合わず驚くほど滑らかだった。複雑な気流が絡み合う峡谷の空を、まるで自分の庭であるかのように最短のラインで泳いでいく。速度こそリュシアには及ばないものの、乱気流の制御と低速時の旋回性能は明らかにこちらを上回っていた。
(……老練な動きだ。無駄な魔力消費を抑えつつ、いつでも反撃できる余力を残している)
隼人は竜鞍の上で計時器を睨み、頭の中で戦況の盤面を動かしていた。
ヴァルターの動きはあからさまな囮だ。彼がこうして時間を稼いでいる間に、先ほど退けたはずの別働隊が再び記録の撤収路へ回り込んでいる可能性は極めて高い。
その時だった。
前方を飛んでいたグレンの右翼が、一瞬だけ不自然に下がり、その高度が僅かに落ちた。
『隼人!』
共感回路から、リュシアの弾むような思念が伝わってくる。
『今の風の揺れ、あいつ一瞬だけ姿勢制御が遅れたわ! 右斜め下へ回り込んで一気に加速すれば、今なら確実に追い詰められる!』
彼女の鋭敏な気流感覚が、敵のわずかな隙を捉えたのだ。
確かに、リュシアの言う通りに動けば、ヴァルターの背後を完全に取ることができるかもしれない。この鬱陶しい指揮騎を撃墜できれば、敵部隊への精神的なダメージは計り知れないだろう。
だが、隼人の思考は冷徹なままだった。
(いや、別働隊が動いているはずだ。ここで時間をかければ、撤収路が危ない)
隼人は、リュシアが提案の根拠を言い終わるよりも早く、短く強い口調で告げた。
「追うな! 反転して防衛配置に戻るぞ!」
『えっ……? 待って、右へ抜ければ帰還側も――』
「時間がない! 左へ機首を返せ!」
隼人は彼女の言葉を最後まで聞かず、一方的に防衛目標への帰還を指示した。
リュシアは戸惑い、一瞬だけ動作が遅れた。彼女が見ていた右側の風と、隼人が警戒していた撤収路とで、見ている危険の場所が食い違っていた。
不満と疑問が混じったまま、リュシアは強引に左の翼を畳んで旋回機動に入った。
その『一拍の連携の隙』が、命取りになりかけた。
「黒瀬、アルヴェイン! 下だ!」
ガルドの怒声が響いた。
リュシアが旋回した直下、雲海の切れ間から、別働隊の二騎が猛スピードで浮上してきていたのだ。彼らは隼人の読み通り、ヴァルターが引き付けた隙を突いて、撤収路へと回り込んでいた。
リュシアの旋回が隼人の説明不足で一拍遅れたため、敵の進路を塞ぐはずの迎撃位置に穴が空いてしまった。
「しまっ……!」
敵の一騎が、撤収路を進む輸送竜へ向けて風刃の構えを取る。
リュシアが慌てて機体を捻り、防風壁を展開しようとするが、間に合わない。
ズドォォン!
空を揺るがす轟音。
しかし、撃たれたのは味方の輸送竜ではなかった。別働隊の真横から、ガルドの相棒マーラが放った高密度の風圧弾が直撃し、敵の機動を大きく弾き飛ばしたのだ。
「陣形を崩すな! 抜かせるなよ!」
ガルド隊の完璧なフォロー。
隼人は冷や汗をかきながら、すぐさま防衛の陣形を立て直した。
「リュシア、撤収路の側面を押さえろ! 撃ち落とさなくていい、射線を塞げ!」
『……了解!』
リュシアは短い返事と共に、自身の魔力を風護膜に回し、別働隊の前に立ち塞がる。
奇襲を読まれ、さらにガルド隊の強力な支援を受けた別働隊は、これ以上の突破は不可能と悟ったのか、忌々しげに高度を下げて退避していった。
遠く離れた空域から、ヴァルターの乗るグレンが一度だけこちらを振り返り、やがて夜の闇の中へ完全に姿を消した。
「……敵編隊、完全撤退。防衛目標、クリア」
隼人は竜鞍の上で深く息を吐き出し、通信魔導具に向けて報告した。
数時間後、完全に日が昇る前の薄暗い中継基地。
測風施設から撤収した観測員と記録箱は、無事に王国の安全圏へと運び込まれていた。
任務としては完全な勝利だ。犠牲者はゼロ、越境風害の証拠も守り抜いた。
だが、竜鞍を下ろす隼人とリュシアの間に流れる空気は、ひどく重苦しかった。
「……あの時、どうして私の話を聞いてくれなかったの?」
人型に戻ったリュシアが、俯いたまま静かに口を開いた。
「あの指揮騎は、本当に隙を見せていたわ。私の風読みは間違っていなかったはずよ。ただ、落とすことに固執したかったんじゃない。右へ抜けてあいつを牽制しながら、戻れる風があったの」
「君の感覚を疑ったわけじゃない」
隼人は加圧鞍の留め具を調整しながら、振り返らずに答えた。
「だが、あの時の最優先事項は『記録の撤収を守ること』だ。敵将を撃ち落とす確証よりも、別働隊に背後を突かれるリスクを排除する方が、防衛任務においては圧倒的に理にかなっている」
隼人は振り向き、真っ直ぐにリュシアを見た。
「結果として、俺の読み通り別働隊は撤収路に迫っていた。俺たちは施設と記録を守り切った。これがこの任務の正解だ」
「それは……頭では分かってるわよ」
リュシアは悔しそうに唇を噛んだ。
「私が言いたいのは、そういうことじゃないの! 黒瀬さんは、私が意見を言う前に『追うな』って自分の判断だけで切り捨てた。『別働隊が来る、戻る』だけでも伝えて。そうすれば、私の見ている風も帰り道に使えるのに!」
「説明を待っていたら遅れると思った。……だが、俺の見ていたものを、君も見ているつもりでいたんだな」
「だからって……!」
リュシアの青い瞳が、わずかに潤んでいるように見えた。
「あなたはいつもそう。危ない時ほど、私を蚊帳の外に置いて、自分一人で盤面を動かそうとする。……私はあなたの乗り物じゃないって、あんなに約束したのに」
彼女の悲痛な訴えに、隼人は言葉に詰まった。
任務の合理性で言えば、隼人の判断は間違っていない。だが、相棒としての信頼関係において、彼は再び彼女の意思を『不要なもの』として切り捨ててしまったのだ。
「……すまない。戻る判断は変わらない。だが、理由も方向も伝えずに動かそうとしたのは、俺の落ち度だ」
「戻ることが嫌だったんじゃない。一緒に判断できるようにしてほしかったのよ」
リュシアはそれだけを言うと、身を翻して自分の個室へと足早に去ってしまった。
取り残された隼人は、自分の右手に残る痛みを無意識にさすりながら、重い溜息をついた。
現場では勝利した。だが、ヴァルターとの個人的な勝敗は持ち越され、何より、最も守るべき相棒との心の距離を、再び見失ってしまった。
二人の間に気まずい沈黙が落ちたまま、数日が過ぎた。
初夏を感じさせる風が吹き始めた頃、中立都市連盟の救援官であるユーノ・レインと、記録担当の通信士が、険しい顔で騎士団の作戦室を訪れた。
「ユーノ殿、事態はどう動いた?」
ガルドの問いに、ユーノは重苦しい口調で口を開いた。
「……悪い報せです。観測記録を提出し、帝国に対して越境風害の是正要求を突きつけましたが、彼らはまたしても『自然災害』だと主張し、完全否認を貫いています」
「所属不明騎との交戦記録はどうなった?」
「それも『我が軍の関知するところではない』の一点張りです。……さらに、最悪の報告があります」
ユーノの隣で、通信士が分厚い羊皮紙の束を広げた。
「国境の偵察隊からの報告です。帝国領内の旧型風門塔周辺にて、大規模な資材搬入が観測されました。塔の増築、あるいは新型の気流制御装置の設置が進められている可能性が高いです」
「なんだと……?」
隼人は眉をひそめた。
「ただの嫌がらせじゃない。帝国は本格的に、中立都市への通商路を力業で変えようとしているのか」
「ええ。このまま人工風の影響が強まれば、中立都市セレナへの補給路は完全に絶たれます」
ユーノの言葉が、作戦室に重くのしかかる。
それは、空の状況がこれまでの小競り合いから、明確な生存戦略のフェーズへと移行したことを意味していた。
隼人はちらりと、作戦室の隅で黙って話を聞いているリュシアを見た。
彼女の視線は伏せられたままで、一度もこちらを見ようとしなかった。
空路が細くなっていく。そして、二人の間にも、見えない風の壁が立ちはだかろうとしていた。




