第19話 敵も、空を知っている
国境周辺に位置する王国の測風施設。
越境風害の観測データを集積するその要衝の空域に到達した時、すでに空は夕闇に包まれつつあった。
隼人とリュシア、そしてガルド隊の視界の先、施設を見下ろす上空には、軍の標識を外した所属不明の羽竜編隊が陣形を組んで待ち構えていた。
「……教官、敵の先頭」
竜鞍のコンソールパネルに固定された高度計を確認しながら、隼人が通信を飛ばす。
敵編隊の最前線に浮かんでいるのは、一回り大きな体躯を持つ漆黒の羽竜だった。翼の表面には独特の波打つような羽紋が刻まれており、そこに乗る大柄な騎手からは、遠目からでも只者ではない威圧感が漂っている。
「ああ、間違いない」
並走するマーラの背で、ガルドが忌々しげに舌打ちをした。
「あの黒翼の羽紋、そして峡谷の乱気流をまるで平地のように乗りこなす重厚な飛行挙動。……以前、国境協議の護衛で見たことがある。帝国の竜騎士隊長、ヴァルター・クロイツとその相棒グレンだ」
「帝国の正規軍の指揮官ですか。それがなぜ、標識を外してこんなところに」
「決まっている。測風施設にある越境風害の観測記録を破棄するためだ。ただ、個人を見分けただけでは、帝国がこの襲撃を命じた証明にはならん。国としての関与は完全に否認する腹積もりだろう」
ガルドの言葉に、隼人は竜鞍の上で身を固くした。
相手は帝国の精鋭部隊のトップ。これまでのただの偵察騎や妨害部隊とは、格が違う。
「黒瀬、アルヴェイン。奴らはお前たちの速度を警戒しているはずだ。我々が前衛に出て敵の意識を引く。お前たちは遊撃に回り、隙を見て側面から崩せ!」
「了解!」
ガルドとマーラが低速機動で敵編隊の正面へと進み出る。
隼人は完成したばかりの『加圧補助竜鞍』の革帯の締まり具合を確認した。魔力回路は正常に作動し、隼人の下半身を適度な圧力で保持している。
「行くぞ、リュシア。まずは様子見だ。全速は使わず、中速域から加速して敵の右側面へ回り込む」
『ええ、任せて!』
リュシアが銀翼を翻し、空を滑るように加速を開始する。
加圧鞍の効果は絶大だった。時速四百キロ近くまでの加速の中でも、隼人の身体は鞍にしっかりと固定され、以前のように後ろへ持っていかれる感覚は全くない。隼人は完全に安定した姿勢で、敵の動きに集中することができた。
だが、彼らが右側面へ回り込もうとしたその時、黒翼のグレンが滑らかな旋回で進路を塞ぐように立ち塞がった。
「……速さは大したことないが、旋回の無駄がないな。だが、この速度なら射程に捉えられる」
隼人は敵の軌道を読み、指示を飛ばす。
「リュシア、速度を落とせ。減速して射撃姿勢へ。風刃、撃て!」
以前の民間竜救助の際に見せた、高速移動からの急減速、そして安定した姿勢からの精密射撃。隼人たちが確立した必勝の基本戦術だった。
リュシアが翼を広げて強烈な空気抵抗を生み出し、速度を時速三百キロほどへと減速させる。
その直後。
リュシアが魔法を編み上げようとしたまさに『その瞬間』を狙いすましたかのように、ヴァルターとグレンが動いた。
黒翼から放たれたのは、攻撃のための魔法弾ではない。リュシアの顔面を覆い尽くすほどの、高密度に圧縮された『乱流幕』だった。
『きゃっ……!』
突然の視界不良と、機体を煽る不規則な気流。リュシアの射撃体勢が大きく崩れ、放たれた風刃はヴァルターの遥か頭上を虚しく通過していった。
「なんだと……!?」
隼人は驚愕した。
偶然ではない。敵は、リュシアが「減速して撃つ」その一瞬の隙を、コンマ一秒の狂いもなく正確に狙い撃ってきたのだ。
「体勢を立て直せ、距離を取るぞ!」
隼人の指示で、リュシアは慌てて風の層を抜け出し、敵から大きく距離を取った。
『隼人、ごめんなさい! 撃つ瞬間に、いきなり風が乱れて……!』
「気にするな。……そういうことか。奴ら、空を知り尽くしている」
隼人は竜鞍の上で、冷や汗が背中を伝うのを感じた。
敵は、以前の交戦記録からリュシアの特性を完全に分析していたのだ。
どれだけ最高速度が速くても、時速七百キロのままでは急旋回も精密照準もできない。攻撃を当てるためには、必ず人間と鞍の限界に合わせて『減速する瞬間』が存在する。
ヴァルターは、その『絶対に発生する硬直時間』にのみ乱流幕を重ねることで、銀翼の絶対的なアドバンテージを無力化する戦術を構築していた。
「……厄介だな。減速した瞬間を狙われるなら、迂闊に攻撃態勢に入れない」
『待って、隼人』
再び機首を向けようとした隼人を、リュシアの思念が制止した。
彼女の翼は、遠く離れたヴァルターの周辺の大気が、微かに歪み始めているのを感じ取っていた。
『敵の騎手、また周りの風を集めてるわ。さっきの乱流幕と同じ……私が撃つタイミングを待ってる。わざと前に出て、私に撃たせようと誘ってるのよ!』
自分の限界――減速時の無防備さ――を突かれていると理解しながらも、リュシアは自身の気流感覚を信じ、その予兆を的確に隼人に伝えてきた。
「射撃へ誘っている……?」
隼人はハッとして、戦況全体を俯瞰し直した。
帝国の竜騎士隊長であるヴァルターが、なぜ自らを危険に晒してまで、執拗に自分たち『銀翼』の相手をしているのか。
彼らの本来の目的は、自分たちの撃墜ではない。『測風施設の記録の破棄』だ。
「……囮か!」
隼人はコンソールの高度計と方位盤を睨みつけ、測風施設の建屋の方角を確認した。
ヴァルターが自分たちとガルド隊を上空に釘付けにしている間、施設の裏側に広がる暗い雲海の下から、二つの黒い機影が這い上がるようにして施設の記録保管室へ向かっているのが見えた。別働隊だ。
「リュシア、前方の指揮騎への攻撃は中止だ! 敵の本命は下だ!」
『えっ?』
「指揮騎はただの囮だ。右下へ急降下! 施設に近づく別働隊の進路を塞ぐ!」
隼人は同時に、後方のガルド隊へ通信魔導具で信号を送った。
「教官! 施設裏手に別働隊が二騎! 俺たちが上から押さえます、下からの退路を塞いでください!」
「読めたか、黒瀬! マーラ、行くぞ!」
リュシアが銀翼を翻し、一気に降下する。加圧鞍が隼人の下半身をしっかりと締め付け、強烈なGから身体を守る。
記録保管室の窓へ向かって接近していた別働隊は、上空から猛スピードで迫り来る銀翼と、下から退路を塞ぐように上昇してきたガルド隊に挟み撃ちにされる形となった。
「射線クリア。牽制でいい、撃て!」
『いっけえぇぇっ!』
リュシアの放った風刃が、別働隊の鼻先を掠めて人のいない斜面に炸裂した。
侵入を完全に読まれた別働隊は、舌打ちをするような挙動を見せると、たまらず反転して上空のヴァルターのもとへ逃げ帰っていった。
別働隊の奇襲を防ぎ、空域は一時的な膠着状態となった。
測風施設の上空で、隼人たちとヴァルターの部隊が一定の距離を保って睨み合っている。
『……防げたわね。でも、なんだかスッキリしないわ』
共感回路から、リュシアの不満げな声が聞こえてきた。
『あの指揮騎のおじさん、私のこと全然怖がってなかった。減速を狙われるのは分かった。でも、入り方を変えれば速さを使えないかしら』
最高速のポテンシャルを完全に封じ込められたような感覚。自分の翼の価値を否定されたようで、彼女のプライドは傷ついていた。
「アルヴェイン。よく聞いてくれ」
隼人は竜鞍の上で、静かに語りかけた。
「君の翼は間違いなく世界最速だ。だが、どんなに速く飛べたとしても、戦闘機……いや、航空戦力というものは、それだけで無敵になれるわけじゃない」
『ええ。教官との模擬戦でも、それは分かったわ』
「攻撃を当てるためには、必ず減速して姿勢を安定させる必要がある。さっきの敵将は、俺たちの『限界』を利用したんだ。時速七百キロから四百キロへ減速する、その数秒間。そこだけを狙って乱流をぶつければ、速度の優位は完全に死ぬ」
隼人は、容赦のない現実を突きつけた。
「だから俺は、君の速度と旋回を厳しく制限している。全速は必要な時の『位置取り』のためだけに使えと口酸っぱく言っているのは、このためだ。……敵も、空を、航空力学を知っているんだよ」
『…………』
リュシアは黙り込んだ。
『制限は守るわ。でも、使える場所も、一緒に探してほしいの』
隼人は答えかけた。制限の説明ばかり繰り返し、その先の案を返していないことに気づいた時だった。
その時、上空で待機していたヴァルターの黒翼竜グレンが、ゆっくりと高度を下げ始めた。
彼らが向かう先は、測風施設そのものではなく、施設から内陸の安全地帯へと続く『記録の撤収路』だった。
「……教官、敵が動きました。施設の裏手、撤収路の方角です」
「別働隊の侵入を諦め、今度は撤収中の輸送部隊を直接狙う気か」
ガルドの言葉通り、ヴァルターはあからさまに背中を見せ、こちらの追撃を強烈に誘うようにゆっくりと撤収路の方向へ飛行を開始した。
「……また囮の匂いがするな。だが、あのまま放置すれば撤収部隊がやられる」
罠だと分かっていても、進路を塞がれれば追わざるを得ない。敵の老練な指揮官は、盤面を完全にコントロールしようとしていた。
「黒瀬、アルヴェイン。俺と奴の足止めに行くぞ。残りは施設と撤収隊から離れるな」
ガルドの号令に、隼人は竜鞍のコンソールを睨みつけ、リュシアと共に夜の闇が迫る空へと再び加速していった。




