第18話 速く飛ぶより、隣を歩く
ピーッ! ピーッ! ピーッ!
初夏を感じさせる陽気の中、イーラの工房の中庭に、耳障りな甲高い警告音が何度も響き渡った。
「あーもう! また鳴った! ちょっと魔力を込めただけなのに、これじゃ全然飛べないじゃない!」
竜の姿のリュシアが、苛立ちに任せて銀色の翼をバタバタとさせた。
その背の竜鞍にまたがっている隼人は、下半身を締め付ける革帯の圧迫感に顔をしかめながら、コンソールパネルの魔導具を手動で停止させた。
「落ち着け、アルヴェイン。これは失敗じゃない」
「でも、私が少し力を入れようとするたびに警報が鳴って、加圧が止まっちゃうわよ? これじゃ、いざって時に加速できないわ」
「だから、それがこの装置の正しい働きなんだ。この『負荷警報』は、加圧回路に無理がかかる前に止めるためのものだ。まず俺の身体を過剰に締め付けないための『命を守る装置』だ」
隼人は竜鞍から降り、イーラと鞍を外してから、人型へと戻ったリュシアに淡々と説明した。
「理屈はわかるけど……イーラの設定が敏感すぎるのよ。私がくしゃみしただけでも鳴りそうなんだから」
「全くだ。いくら安全第一とはいえ、実用性に欠けるピーキーさだね。調整のやり直しだ」
工房から出てきたイーラが、工具箱を手にため息をついた。
「黒瀬、あんたの耐Gデータをもう一度見直す。警報の基準は保ったまま、回路が急に締めすぎないよう設計を直すから、少し時間をくれ」
「了解した。俺にできることがあれば手伝うが」
「素人はすっこんでな。それより、加圧革帯の裏側に当てる緩衝材が足りない。悪いが、市場の裏通りにある革問屋までお使いを頼めないか。アルヴェイン、あんた場所を知ってるだろ」
「あ、うん。知ってるけど」
「じゃあ、行ってきな。昼飯代くらいは出してやるから」
イーラは銀貨を数枚、隼人の手のひらに押し付けると、さっさと工房の奥へ引っ込んでしまった。
残された二人は顔を見合わせた。
「……ということらしい。道案内、頼めるか?」
「しょうがないわね」
リュシアはまだ少しむくれていたが、それでも「こっちよ」と隼人の腕を引いて、市場の方向へ歩き出した。
騎士団駐屯地に隣接する街の市場は、初夏の明るい日差しを浴びて活気に満ちていた。
色とりどりの果物、香辛料の匂い、活気ある商人たちの声。
空の上での張り詰めた生死のやり取りとは無縁の、穏やかな地上の光景だった。
「ねえ隼人、あそこの串焼き、すごくいい匂いしない?」
「昼飯にはまだ早いだろ。まずはイーラに頼まれた緩衝材を……おい、引っ張るな」
人型のリュシアは、先ほどの苛立ちなどすっかり忘れたように、年相応の女性らしい無邪気さで店から店へと渡り歩いていく。
隼人は革問屋で無事に指定された素材を買い込んだ後、リュシアの強い要望に押し切られる形で、市場の屋台で買った軽食を手に川辺のベンチへと腰を下ろした。
川のせせらぎが、初夏の心地よい風を運んでくる。
「……美味しい!」
肉を挟んだパンを頬張りながら、リュシアが満面の笑みを浮かべる。
隼人は自分の分のパンをかじりながら、隣で幸せそうにしている相棒の横顔を見つめた。
(空ではあんなに苛烈なのに、地上では本当にただの女の子だな)
ふと、そんな場違いな感想が頭をよぎる。
「……何よ。私の顔に何かついてる?」
視線に気づいたリュシアが、パンを持ったまま首を傾げた。
「いや。君は地上では随分と表情が豊かだと思ってな」
「なにそれ。私がいつも空で怒ってるみたいじゃない」
リュシアは少し口を尖らせたが、すぐに視線を川面へと落とした。
「……隼人こそ、いつも難しそうな顔で、空のことか装備のことしか考えてないじゃない」
「そう見えるか?」
「見えるわよ。ノートにはいつもよく分からない数字ばっかり書いてるし、休みの時だって、どうやったら私を安全に飛ばせるかって、そればっかり」
彼女の言葉に、隼人は苦笑した。
「俺は元戦闘機乗りだからな。飛行士にとって、機体の安全と戦術は命そのものだ。それを考えるのは息をするのと同じなんだよ」
「それだけじゃないでしょ」
リュシアの青い瞳が、まっすぐに隼人を射抜いた。
「隼人は……元の世界に、帰りたいんでしょ?」
その直球の問いに、隼人はパンを持つ手を止めた。
「家族や、待っている人がいるって言ってたじゃない。だから……そんなに生き急ぐみたいに、完璧な鞍を作って、危ない任務も全部こなして、早く自分のいた空に近づこうとしてるんじゃないの?」
彼女の声には、非難の色はなかった。ただ、彼の焦りを感じ取り、それを寂しく思っているような、静かな響きがあった。
隼人はゆっくりと息を吐き出し、隠すことなく頷いた。
「……ああ。俺には故郷に家族がいる。元いた部隊の仲間もいる。あちらの空へ帰れるものなら、帰りたいと思っている」
リュシアの肩が、微かに揺れた。
「だがな」
隼人は川面から視線を外し、隣に座る銀髪の相棒を真っ直ぐに見返した。
「俺がどんなに望んでも、帰還の手段は全く見つかっていない。どこに空の裂け目があるのかも、どうやったら元の世界に繋がるのかも、見当もつかない」
「隼人……」
「だからこそ、だ」
隼人は真摯な声で続けた。
「俺は今、このアルティアの空で、君の騎手として生きている。君の背中を守り、君と一緒に任務から生きて帰る。それが今の俺の全てだ。未来の帰還を夢見て今の命を粗末にするような真似は、絶対にしない」
生き急いでいるわけではない。今この瞬間の命を繋ぐために、最善を尽くしているだけだ。
隼人の嘘偽りのない言葉に、リュシアは少しだけ目を丸くし、やがてふっと柔らかく微笑んだ。
「……そう。なら、いいわ」
彼女は安心したように息をつき、それから少しだけ悪戯っぽく目を細めた。
「でもね、隼人」
「なんだ?」
「いくら私の翼の安全が大事だからって、飛んでる時の私のことばっかり気にしないでよね」
リュシアはベンチの上で少しだけ距離を詰め、隼人の肩に自分の肩を軽くぶつけた。
「地上にいて、飛んでいない時の私にも……もう少し関心を持ってほしいな」
それは、ただの任務の相棒に対する言葉ではなかった。
遠回しだが、明確な好意の匂わせ。
隼人は一瞬言葉に詰まり、どう答えるべきか迷った。階級も契約も関係ない、ただの一人の女性からの不器用なサイン。
「……善処しよう」
なんとかひねり出した答えに、リュシアはクスクスと笑った。
「あ、そうだ。はい、これ」
彼女は自分のポケットから、小さな革紐で編まれた飾りを取り出し、隼人の手のひらに乗せた。
「なんだ、これは?」
「さっき、市場の裏の方で見つけたの。風の神様に加護を祈る『護符(お守り)』だって。……新しい鞍に結んでおいて。どんなに速く飛んでも、私があなたを落とさないように守ってあげるから」
少し顔を赤らめながら視線を逸らすリュシア。
隼人は手のひらの護符をじっと見つめ、それを大切にポケットへしまった。
「ありがとう。必ず結んでおく」
空を速く飛ぶための装備ではなく、無事に隣に帰ってくるための約束。
二人は川辺のベンチで、言葉少なに、だが確かな温もりを感じながら、初夏の風に吹かれていた。
市場から戻った夕方。
イーラの工房へ戻った二人は、改良された加圧鞍の段階試験を再開した。
『……魔力、流すわよ』
「ああ。いつでも来い」
リュシアが鞍の基部へ魔力を送り込む。
隼人の下半身を、革帯が適度な圧力で締め付ける。イーラが魔力回路の伝達速度を微調整したことで、先ほどのような急激な圧迫感はなく、隼人の筋肉の動きに合わせて自然に保持力が高まっていく。
「圧力よし。そのまま出力を上げてくれ」
低負荷、中負荷と段階的に魔力を強めていく。
やがて、隼人の身体が強烈なGを想定した圧力でシートに押し付けられ、呼吸が苦しくなる限界のラインに達した瞬間。
ピーッ!
コンソールパネルの警報が、正確なタイミングで警告音を発した。
「……完璧だ」
隼人が手動で魔力をカットし、深く息を吐き出した。
「警報の作動タイミング、加圧の保持力、ともに問題なし。風護膜への余分な魔力流出も抑えられている。段階試験、合格だ」
「ふん。魔法工学の専門家を舐めるんじゃないよ」
イーラが誇らしげに鼻を鳴らした。
翌日から、指定空域で低速、中速、短い高負荷の順に試した。異常時の中断と解除も確かめ、数日の飛行記録を見たイーラがようやく頷いた。
これで、高G機動における隼人の落下の危険性は飛躍的に低下した。だが、それはリュシアが無限に全速を出せるようになったことを意味しない。彼女の魔力総量や、一回の全速維持が最大十二秒という物理的限界そのものは、何も変わっていないのだ。
あくまで『安全に限界を引き出すための命綱』が完成したに過ぎない。
「ありがとう、イーラ。これで安心して空に出られる」
隼人は竜鞍の側面に、リュシアからもらった小さな革の護符をしっかりと結びつけた。
飛行試験を終えた翌日の夕方。完成の喜びに浸る二人のもとへ、呼出しが来た。
工房を後にし、騎士団駐屯地へと戻った二人の前に、険しい顔をしたガルド教官が待ち構えていた。
「戻ったか。装備の調整は終わったようだな」
「はい。いつでも飛べます。……何かあったんですか?」
隼人の問いに、ガルドは重々しく頷いた。
「たった今、国境護衛空域の哨戒隊から急報が入った。帝国軍の軍章を伏せた黒翼の指揮騎が、部隊を率いて越境し、我々の測風施設へ向かっている」
黒翼の指揮騎。
その単語に、隼人は以前ガルドが語っていた、帝国軍の竜騎士隊長ヴァルターと、その相棒である黒翼竜グレンの存在を思い出した。
「奴らの狙いは、越境風害の証拠記録の破棄だ。我々ガルド隊と、お前たちで迎撃に出る。すぐに出撃準備にかかれ!」
「了解!」
ついに姿を現した敵の指揮官。
隼人は完成したばかりの竜鞍を背負い、リュシアと共に夕闇が迫る空へと走り出した。




