第17話 命綱を作る仕事
国境の峡谷観測所に取り残されていた撤収隊と証拠記録を救出し、騎士団駐屯地へと帰還してから五日が経過していた。
春の日差しが降り注ぐ中、隼人とリュシアは駐屯地の外れにある竜鞍技師イーラ・フェンの工房を訪れていた。
「……よく生きて帰ってきたね、あんたたち」
油と金属の匂いが漂う工房の中で、イーラは作業台の上に置かれた革と金属の塊を呆れたような顔で見下ろした。
それは、五日前の過酷な護衛任務でリュシアが身につけていた『標準竜鞍』だった。
「ここを見てみな」
イーラがペンチの先で指し示したのは、鞍と騎手の大腿部を固定するためのメインバックルだった。分厚い鉄製の金具が、飴細工のようにひしゃげ、リベットの根元からは革が千切れかかっている。
「人工乱流の直撃で、補強帯の根元まで傷んでいる。出撃前の点検ではなかった亀裂だ。あと一回でも強いGがかかっていれば、固定具は吹き飛び、あんたは空に放り出されてミンチになっていたよ」
イーラの容赦のない宣告に、人型のリュシアがさっと顔を青ざめさせた。
「隼人、そんな状態で飛んでたの……? 言ってくれれば、もっと減速の角度を緩くしたのに!」
「損傷に気づかなかった。握りがずれる感覚はあったんだ。次はその時点で伝える」
隼人は、まだ皮が再生しきっていない右手の指先をさすりながら首を振った。
「それに、いくら俺が耐G呼吸で血流をコントロールしようと、物理的に身体を鞍に縛り付ける『保持力』がなければどうしようもない。……イーラ、根本的な解決策が必要だ」
隼人は背負っていたずだ袋から、丁寧に畳まれた緑色の衣服を取り出し、作業台の上に広げた。
「これは……?」
「俺がこの世界に落ちてきた時、着ていたものだ。俺の故郷の言葉で『Gスーツ』という」
それは航空自衛隊で支給されている耐圧服だった。
イーラは興味深そうに目を細め、特殊なナイロン繊維でできたGスーツの表面を撫で、下腹部から脚部にかけて配置された空気袋の構造を調べ始めた。
「へえ、面白い造りだね。この管みたいなところから何かを送り込んで、脚を締め付けるのかい?」
「その通りだ。航空機が急旋回や急上昇を行って強いプラスの重力加速度(G)がかかると、血液が下半身に下がって脳が虚血状態になり、視界が奪われる(ブラックアウト)。それを防ぐために、機体から圧縮空気を送り込んで下半身を強く圧迫し、血液の降下を物理的に防ぐんだ」
隼人は元戦闘機乗りとして、現代航空医学に基づく耐G訓練の考え方をイーラに説明した。
「……だが、見ての通り、この服は機体のコンプレッサーから送気を受けなければ作動しない。この世界にはそんな設備はないから、今の俺にとってはただの分厚いズボンでしかないんだが」
「なるほどね。あんたのいた世界の『工学』の理屈は分かったよ」
イーラは腕を組み、不敵な笑みを浮かべた。
「圧縮空気を送り込む機械がないなら、代わりに『魔力』を使って鞍側から術式で圧迫してやればいい。魔法工学なら私の専門領域だ」
イーラはすぐさま作業台の端にあった羊皮紙を引き寄せ、木炭筆で素早く新たな竜鞍のスケッチを描き始めた。
「腹部と大腿部を覆うように硬質の革帯を配置し、そこに魔力で収縮する特殊な金属繊維を編み込む。搭乗者が強烈なGを受けた瞬間、鞍に組み込んだ魔力回路が反応して自動で繊維を収縮させ、あんたの下半身を加圧・保持する仕組みだ」
次々と描かれる複雑な魔法陣と機構図面。隼人は異世界の魔法工学について口を挟むことはせず、完全に専門家としての彼女の領域を尊重した。
「加圧機構については任せる。……それともう一つ、追加してほしいものがある」
隼人はリュックの中から、以前に調達した方位盤、計時器、そして高度を測るための気圧計を取り出した。
「これらを、竜鞍の正面に固定できるコンソールパネルを作ってほしい。夜間や暗雲の中など、視界が完全に奪われた状況で推測航法を行うためには、いちいち懐からこれらを取り出している暇はないんだ」
「計器盤の固定化だね、容易い御用さ」
イーラが快諾し、設計図がどんどん具体化していく。
だが、そのやり取りの横で、リュシアは少しだけ唇を尖らせていた。
「じゃあ、リュシア。ちょっと表へ出て、竜の姿になっておくれ。新しい鞍の土台を合わせるからね」
工房の裏手にある広い中庭で、リュシアは巨大な銀翼の羽毛竜へと姿を変えた。
イーラは脚立に登り、メジャーのような革紐を使って、リュシアの背中から翼の付け根にかけての寸法を測り始めた。
『……ねえ、これ本当に大丈夫なの? なんだか、私に重い鎧を着せようとしてない?』
共感回路を通さず、リュシアが直接不満げな声を上げる。
「我慢しな。あんたの非常識な速度に合わせて、絶対にあんたの騎手を振り落とさないための命綱を作ってるんだ」
『それは分かってるけど……私、乗り物じゃないもの。あちこち固定具で締め付けられたら、うまく飛べなくなっちゃうわ』
彼女の不満の根底には、自分の身体がまるで機械の戦闘機のように扱われ、改造されることへの本能的な抵抗があった。
「イーラ。俺からも頼む」
下から見上げていた隼人が、真剣な声で口を挟んだ。
「俺の身体を固定するための強度は妥協できない。だが、それと同じくらい、リュシアの翼の自由度を最優先してやってくれ」
『隼人……』
「彼女の最大の武器は、速度じゃない。大気の微細な流れを翼の先端で捉え、風のほころびを読み取る『感覚』だ。固定用の革帯が少しでも彼女の翼の付け根や肩甲骨の動きを阻害すれば、その繊細な風読みができなくなる。それは、俺たちの最大の強みを殺すことになる」
隼人はイーラを見上げ、はっきりと告げた。
「彼女の翼の可動域を絶対に邪魔しないこと。これが新しい鞍の絶対条件だ。俺の保持はその次でいい」
自分を『機体』ではなく、唯一無二の能力を持った『相棒』として尊重してくれる隼人の言葉に、リュシアの不満はふっと霧散した。
『……隼人の保持が次なんて駄目よ。ちゃんと両立させるわ』
リュシアは機嫌を直したように喉を鳴らし、バサリと巨大な銀翼を広げた。
『イーラ、その革帯の位置だと、私が羽ばたきを下に振り抜く時に筋肉が干渉するわ。もう少し後ろ……そう、そこ。そこなら、どんなに翼をひねっても邪魔にならない』
「ここかい? よし、分かった」
自らの気流感覚と筋肉の動きを知り尽くしたリュシアの直感。
魔法と工学を結びつけるイーラの技術。
そして、空戦における計器と耐Gの理論を持ち込んだ隼人。
三人の専門性が、パズルのピースのように完璧に噛み合っていく。誰も欠けることなく、互いの領域を尊重し合うことで、世界最速の翼を御するための全く新しい竜鞍の姿が形作られていった。
「……よし、基本設計はこれでいけるだろう」
図面をまとめ上げたイーラが、満足げに額の汗を拭った。
「だが、一つ言っておくよ、黒瀬」
イーラは真顔に戻り、隼人に向き直った。
「魔力による搭乗者の自動加圧なんて、王国騎士団の歴史上、前例がない代物だ。理屈の上ではあんたを守れるはずだが、実際に時速七百キロの空でどう機能するかは未知数だよ。いきなり実戦で全速を出すような真似は絶対にやめな」
「分かっている。現代の戦闘機の開発でも、新しい装備のテストには慎重な段階試験が不可欠だ」
隼人は深く頷いた。
「俺の命も、リュシアの翼も、ギャンブルに晒す気はない。地上での加圧テストから始めて、低速、中速と、確実に安全のデータを積み上げていく」
「話が分かる奴で助かるよ。よし、数日待ってな。寝る間を惜しんで組み上げてやる」
それから数週間。模型と荷重用の重りで試験を重ね、第二か月の末、ようやく搭乗試験の日が来た。
イーラの工房の中庭には、新しい革と真鍮の匂いを漂わせる真新しい竜鞍――『計器付き加圧補助竜鞍』が完成し、リュシアの背中に取り付けられていた。
隼人の正面には、高度計、方位盤、計時器が綺麗に埋め込まれたコンソールパネルが配置され、下半身は特殊な金属繊維が編み込まれた分厚い革帯でしっかりと固定されている。
「さあ、今日は地上での搭乗試験だ。加圧の上限と自動解除は、重りを使って確認してある。リュシア、軽く鞍へ魔力を流してごらん」
イーラの指示に従い、リュシアが鞍の基部へ魔力を送り込む。
キュイン、というかすかな作動音と共に、隼人の太ももと下腹部を覆う革帯が、自動的にギュッと締まり、確かな圧迫感をもたらした。
「……すごいな。送気管なしで、まるでGスーツが膨らんだ時と同じような圧力がかかる」
隼人が感嘆の声を上げた、その直後だった。
ピーッ! ピーッ!
突然、鞍のコンソールパネルの横に取り付けられた小さな魔導具が、けたたましい警告音を鳴らした。
「なっ、なんだ!?」
『ひゃっ!? 私、何もしてないわよ!』
驚く二人に対し、イーラが舌打ちをして手元の魔力計を叩いた。
「ちっ……やっぱりか。私が安全装置として組み込んでおいた『負荷警報』だよ。鞍の魔力回路に規定以上の魔力負荷がかかると鳴るようになっているんだが……」
イーラは顔をしかめ、腕を組んだ。
「まだ地上で少し加圧しただけなのに、警報が鳴っちまった。加圧の出力調整がピーキーすぎるんだ。安全装置が止めてくれたが、必要な加圧まで途切れる。これじゃ空へ出せない」
「必要な時に、加圧が切れるのか……」
隼人は青ざめ、慌てて手動で固定具を外した。
「参ったね。理論上は完璧だったんだが、実機での調整が必要だ。このままじゃあ、とても次の任務には出せないね」
イーラが頭を掻き毟る。
世界最速の翼を乗りこなすための命綱の完成には、まだ越えなければならない壁が残されていた。




