第16話 撃墜より大事な勝利
灰色の風壁に開いたわずかな隙間。
第一騎、第二騎の輸送竜がそこを抜け、峡谷の出口の向こう側に広がる穏やかな空域へと滑り出ていく。薄暗い視界の先には、目標地点である中継基地の救難台の灯火が、オレンジ色の暖かな光を放っているのが見えた。
「もう少しだ! 諦めるな!」
隼人の叫びが響く。だが、最も重い傷を負った最後尾の第三騎は、出口を目前にして急激に高度を落としていた。
右翼の損傷が限界に達し、風を捉えきれなくなっているのだ。竜鞍に縛り付けられた負傷者のうめき声と、観測記録の入った重い木箱が、痛んだ翼の浮力を情赦なく奪っていく。
「落ちろォッ!」
その致命的な隙を、上空で旋回していた所属不明の妨害騎たちが見逃すはずがなかった。
三騎の黒っぽい偵察竜が、風のトンネルの出口へ向けて猛禽のように急降下してくる。彼らの視線は、第三騎の騎手でも負傷者でもなく、その背に積まれた『観測記録の木箱』に釘付けになっていた。
帝国の越境風害を証明する決定的証拠。あれを奪うか、谷底へ叩き落とせば、彼らの作戦は完了するのだ。
「隼人、来るわ!」
共感回路からリュシアの緊迫した思念が響いた。
さっきまでの隼人であれば、上空から迫る敵機の軌道に自ら飛び込み、ドッグファイトを仕掛けて一騎ずつ撃墜しようとしただろう。あの時、囮の敵を追撃して最後尾を危険に晒したように。
(いや、違う。俺たちの目的は敵の撃墜じゃない)
隼人は竜鞍の上で奥歯を噛み締め、元戦闘機乗りとしての『攻撃本能』に冷や水を浴びせた。
「敵を追いかけるな、リュシア。奴らの動きに振り回される必要はない」
『えっ?』
「奴らの目的は、あくまであの記録箱だ。だったら、奴らが記録箱に触れるために今の降下角から記録箱へ近づくには、後方の狭い範囲へ集まらなければならない」
隼人は敵の降下角度と、第三騎の落下軌道を瞬時に脳内で重ね合わせた。
三次元の空域における、二つの点と線が交差する未来位置。
「……そこだ! 第三騎の斜め後方、十メートルの空間! そこへ先回りして壁を作れ!」
隼人は同時に、後方で遊撃に回っているガルド隊へ向けて手信号を飛ばした。
(教官、俺たちが敵の足を止めます。退路を塞いでください!)
「了解した!」というガルドの声が、風に乗って微かに聞こえた。
『わかった、任せて!』
リュシアは隼人が示した『迎撃のポイント』へと機首を向けた。
しかし、今の彼女には、いつものような暴力的な加速を行う余力は残されていなかった。風壁の突破で気流の盾となり、戦闘に回せる魔力は、帰還分を除けば残りわずかだ。全速での一撃離脱も、高威力の魔法も使えない。
だからこそ、彼女の『判断力』が冴え渡った。
リュシアは自身の残存魔力と風の抵抗を完璧に計算し、無駄な羽ばたきを一切削ぎ落とした『数秒間の短い加速』だけで、目標空間へと機体を滑り込ませた。
直後、記録箱を狙って急降下してきた敵の先頭騎が、想定外の場所に立ち塞がった銀翼の姿にギョッとして目を見開く。
敵は慌てて機首を引き起こそうとしたが、降下の勢いがつきすぎていて間に合わない。
『これで、終わりよ!』
リュシアは帰還に要る分を残して魔力を絞り出し、正面からではなく、敵の飛行軌道を横から叩き落とす最も効果的な角度で『風刃』を放った。
ズガンッ!
風刃は敵騎の右側面を直撃した。撃墜に至るほどの威力はない。だが、高速降下中に横からの衝撃を受けた敵騎は、体勢を大きく崩してスピンに陥り、記録箱から大きく逸れて谷底の方へ流されていった。
「よし、攻撃を無効化した!」
隼人が叫ぶ。
先頭を潰された残りの二騎は、それでも記録箱へ爪を立てようと強引に突っ込んできた。
だが、彼らが失速したその背後には、すでにガルドとマーラが完全に退路を塞ぐ形で陣取っていた。
「そこまでだ、ネズミ共」
ガルドの低い声と共に、マーラの放った牽制の風術が敵二騎の頭上をかすめる。
前方を銀翼に阻まれ、後方をベテランの編隊長に塞がれた。記録箱を奪う隙は完全に潰され、これ以上の交戦は撃墜のリスクしかない。
それを悟った所属不明の妨害騎たちは、悔しげに一度だけこちらを睨みつけると、強引に機体を反転させ、人工風の吹き荒れる帝国の空域へと逃げ去っていった。
「……敵部隊、撤退していきます」
隼人が双眼鏡で敵の機影が消えるのを確認し、深く息を吐き出した。
「追撃は不要だ。全騎、このまま救難台へ着陸するぞ!」
ガルドの号令のもと、第三騎を含む避難隊の全騎が、ついに峡谷の出口を抜け、中継基地の救難台へと滑り込むように着陸した。
岩の地面に竜鞍の脚が触れた瞬間、観測員たちからどっと安堵の声が上がった。
「た、助かった……!」
「記録箱も無事です! 破損はありません!」
駆け寄ってきた基地の衛生兵たちが、負傷者を慎重に竜鞍から降ろしていく。
その光景を竜鞍の上から見下ろしながら、隼人はヘルメットを脱ぎ、汗に濡れた前髪をかき上げた。
「……三騎と負傷者の生還。観測記録の保全。目標達成だな」
誰一人欠けることなく、守るべきものをすべて守り抜いた。
「誰も失わず、敵の目的も挫いた。……俺たちの完全勝利だ」
隼人がそう呟くと、隼人を乗せた銀色の竜が、疲れ切った様子で『きゅるる……』と喉を鳴らした。
隼人が降り、地上係と一緒に鞍を外す。ふわりと光が溢れ、リュシアが人型の姿へと戻る。
彼女の銀髪は乱れ、頬には汚れがついていた。立っているのもやっとというほどの疲労困憊ぶりだったが、その青い瞳には、達成感に満ちた強い光が宿っていた。
「隼人」
リュシアがふらつく足取りで歩み寄り、鞍の横にいた隼人の前に立った。
「……私たち、勝てたわね。一番遅いあの子を、ちゃんと守れた」
「ああ。君の風読みと、あの最後の絶妙な迎撃のおかげだ。……本当によくやってくれた」
隼人が微笑んで答えようとした時、リュシアの視線が、隼人の右手に下りた。
「……黒瀬さん、その手」
「えっ?」
隼人が自分の手を見ると、グローブから露出した指の関節から、じわじわと赤い血が滲み出していた。
風壁の突破や、敵の猛攻を気流の盾となって受け止めていた間、隼人は凄まじい衝撃から振り落とされないよう、旧式の標準竜鞍の固定具(金属の取っ手)を死に物狂いで握りしめ続けていたのだ。その摩擦と圧力で、指の皮が破れてしまっていた。
戦闘中はアドレナリンが出ていて気づかなかったが、言われてみるとジンジンと熱をもった痛みが走る。
「大した傷じゃない。ちょっと皮が擦り剥けただけだ」
隼人が手を引っ込めようとすると、リュシアは自分の疲労もそっちのけで、その血の滲んだ手を両手でそっと包み込んだ。
「駄目よ、ちゃんと洗って薬を塗らないと。……私のために、こんなになるまで耐えてくれてたのね」
リュシアは痛む指先を労わるように、自分の持っていた清潔な布で優しく血を拭い始めた。
至近距離にある彼女の顔。真剣な横顔に、隼人はなぜか胸の奥が少しだけ高鳴るのを感じた。
風壁の中で、互いの命を繋ぐために名前を叫び合った瞬間。あの時から、彼らの中の『任務の相棒』という境界線が、少しだけ内側へと踏み込んだような気がしていた。
「……ありがとう、リュシア」
隼人が静かにそう言うと、彼女は布を巻く手を止めずに、嬉しそうに微笑んだ。
数日後。
国境での過酷な任務を終え、騎士団駐屯地へと帰還した二人は、再び竜鞍技師イーラ・フェンの工房を訪れていた。
作業台の上に置かれた標準竜鞍を点検していたイーラは、深くため息をつき、首を横に振った。
「……駄目だね、こりゃあ」
イーラは歪みきった固定具のバックルと、風護膜の発生装置の基部をペンチで叩いた。
「補強しても、この乱流の直撃までは持たなかったか。よく空中で空中分解しなかったものだよ。この鞍はもう限界だ。このままじゃあ、とても次の任務には出せないね」
その容赦のない宣告に、隼人とリュシアは顔を見合わせた。
「だが、峡谷観測所の記録が持ち帰られたことで、中立都市連盟は帝国への抗議声明を出すはずだ。空の情勢はこれからさらに荒れる。俺たちには、飛べる装備が必要なんだ」
隼人の言葉に、イーラはニヤリと挑戦的な笑みを浮かべた。
「分かってるよ。あんたが持ってきた耐G加圧の理論と、私の魔力工学のノウハウ。すでに図面は引いてある。……世界最速の翼に乗るための、あんた専用の『命綱』を作ってやるよ」
新たな戦いへの準備が、工房の炉の炎と共に静かに燃え上がっていた。




