第15話 名前を叫んだ瞬間
峡谷の出口に立ち塞がる敵の数は、およそ十数騎。
彼らは軍の標識こそ外していたが、その統率の取れた陣形は紛れもなく正規訓練を受けた竜騎士部隊のものだった。彼らは峡谷の出口の空域に散開し、複数の風術を重ね合わせて巨大な『人工乱流の網』を形成していた。
「教官、あの数は異常です。ただの遊撃部隊じゃない」
救難台の端からその光景を睨みつけ、隼人が言った。
「ああ。奴らの狙いが『観測記録の完全な隠滅』である以上、最後尾の第三騎を谷底へ落とすまで何度でも仕掛けてくるだろう」
ガルドは忌々しげに舌打ちをした。
「俺とマーラが先頭に立ち、強行突破で風壁をこじ開ける。お前たちは後方から避難隊を押し上げてくれ」
「待ってください。それは悪手です」
隼人は即座に否定した。
「教官たちが前衛で敵と切り結べば、その魔法の余波と乱気流が後続の避難隊を直撃します。ただでさえ満身創痍の輸送竜たちです。特に翼を痛めている第三騎は、少しでも横風を受ければ再び墜落の危機に瀕します」
「ならばどうする。このままここで夜を明かすわけにはいかんぞ」
隼人は口を閉ざした。
避難隊を無傷で通すための論理的な答えは一つしかない。圧倒的な推進力と強靭な風護膜を持つ者が輸送隊の『風上』に張り付き、乱気流を真正面から切り裂いて一時的な『気流の盾(防風壁)』になることだ。
だが、今のこの部隊でそれを為し得る力を持つのは、世界最速の銀翼を持つリュシアしかいない。
隼人は傍らで肩で息をしているリュシアを見た。昨夜の乏しい補給と休息、今朝の谷底への急降下と細道のナビゲート。彼女の魔力と体力は確実に削られている。気流の盾になれば、敵の攻撃を一身に受けることになる。それは彼女にあまりにも大きな負担を強いることだった。
(駄目だ。これ以上、彼女に無理はさせられない)
隼人が別の戦術を考えようとノートを開きかけた、その時だった。
「私が行くわ」
凛とした声が響いた。
顔を上げると、リュシアが一歩前に出ていた。彼女の青い瞳には、疲労をねじ伏せるような強い意志の光が宿っていた。
「私が輸送隊の前に出て、気流の盾になる。風の網を切り裂いて、みんなが通れるだけの隙間を維持するわ」
「アルヴェイン、お前……自分の魔力の残量が分かっているのか。風護膜を最大展開して敵の乱気流を正面から受ければ、最悪の場合、お前自身が空に放り出されるぞ」
隼人が止めようとすると、リュシアは首を横に振った。
「分かってる。でも、私の翼ならできる。……ううん、私にしかできないのよ」
彼女は自分自身の魔力残量と体力を冷静に確認した上で、自発的に志願していた。かつてのように「自分は速いから」という盲目的な驕りではない。一番遅い彼らを守るために、自分の翼をどう使うべきかを、彼女自身が考え、決断したのだ。
隼人は彼女の瞳の奥にある決意を見て、自分がこれ以上口を挟むべきではないと悟った。
(……俺はまた、彼女の意思を無視して、安全な箱に閉じ込めようとしていたのか)
「どこまでなら保つ?」
「出口まで全部は無理。でも、最初の十秒なら。風刃を正面から受けるのは避けたい」
「十秒で交代だ。魔力が予定より減れば、その前でも中止する」
ガルドが、前進した輸送隊の側へマーラを回して引き継ぐ位置を示した。他の護衛騎も側面の敵を押さえる。
「……分かった。教官、役割を交代します」
隼人はガルドに向き直った。
「俺たちが先頭に立ち、敵の妨害気流を斜めに逸らす防風壁になります。教官とマーラは殿と側面の遊撃に回り、敵が俺たちの横合いから避難隊を撃つルートを牽制してください」
「黒瀬、本気か。アルヴェインが押し負ければ、お前たちは真っ先に墜ちるぞ」
「押し負けさせません。俺が、彼女の風護膜が破綻しない角度を計算します」
隼人の揺るぎない眼差しを受け、ガルドは短く頷いた。
「……よし。フォーメーション変更だ。全騎、出撃するぞ!」
再び空へ舞い上がった一行は、陣形を入れ替えて峡谷の出口へと突き進んだ。
先頭を飛ぶリュシアの背中で、隼人は共感回路を深く繋いだ。
「いいか、真正面からまともに風を受け止めるな。俺が敵の乱流の入射角を読む。指示に合わせて翼を傾け、風を斜め後方へ『受け流す』んだ。限界が来たらすぐに言え、絶対に一人で抱え込むな」
『分かってる。お願いね、黒瀬さん!』
リュシアは銀翼を大きく広げ、風護膜の出力を一気に引き上げた。
透明な魔力のドームがリュシアと隼人を覆い、さらにその後方へ扇状に広がる。まるで巨大な傘のように、後ろに続く三騎の輸送竜を乱気流から匿う形だ。
峡谷の出口に到達した瞬間。
待ち構えていた十数騎の敵編隊から、無数の風の刃と、ねじれた人工乱流の塊が一斉に放たれた。
ドババババッ!
風護膜に目に見えない質量が叩きつけられ、雷鳴のような轟音が響き渡る。
「ぐっ……!」
凄まじい衝撃。隼人の身体が竜鞍に激しく打ち付けられる。全速へ加速する際の負荷とは全く異質の、あらゆる方向から圧壊させようとする大気の暴力だった。
『くうぅぅっ……!』
共感回路から、リュシアの苦痛に満ちた呻き声が伝わってくる。彼女は巨大な壁となって、敵の魔法をその身一つで受け止めているのだ。
「左から強風! 右翼を下げて左へ二十度スリップしろ!」
隼人は必死に風の入射角を読み、リュシアへ指示を飛ばす。リュシアが機体を傾けることで、直撃するはずだった風の塊が膜の表面を滑るようにして輸送隊から離れた斜め後方へ逸れていく。
だが、敵の数は多すぎた。
防いでも防いでも、次から次へと新たな乱流が襲いかかってくる。リュシアの魔力が急速に削り取られ、風護膜が限界を知らせるようにバチバチと赤黒い火花を散らし始めた。
(もってくれ……っ!)
隼人が祈るように竜鞍を握りしめた、その時。
敵の編隊から一騎がふっと離脱し、リュシアの傘の死角――真上からの急降下軌道に入った。
その敵の手には、他の風術とは比べ物にならないほど高密度に圧縮された、凶悪な乱流の塊が握られていた。
(直撃する!)
あの威力で今の弱った風護膜を打たれれば、膜は確実に破られ、リュシアもろとも背後の第三騎まで吹き飛ばされる。
だが、リュシアの意識は前方の風を受け流すことに集中しきっており、頭上からの奇襲に気づいていない。
回避指示を出す余裕も、進入角を計算する時間もない。
竜鞍の上で体勢を崩しかけていた隼人は、階級も、契約上の相棒という建前も全て忘れ、ただ反射的にその名を叫んだ。
「リュシア!」
耳を劈く風の音の中で、隼人は頭上の危険と、右へ逃れる方向だけを共感回路へ押し出した。
銀翼の先端が震え、右へ傾く。
『――隼人!』
激しい疲労の中、彼女もまた、初めて彼の名前を絶叫して応えた。
考えるよりも早く、リュシアは右翼を下げ、斜め右へ短く滑った。同時にマーラが前へ出て、途切れかけた風の傘を引き継いだ。
ドンッ!
直後、リュシアがコンマ数秒前までいた空間を、巨大な乱流の塊が通り抜けていった。風護膜の端をかすめ、膜がガラスのように一部砕け散るが、致命傷には至らない。
隼人の直感的な警告と、リュシアの天性の気流感覚。咄嗟の方向の共有を、リュシアが翼で確かめて応じた回避だった。
「……今だ、前が開いた!」
敵の強力な一撃が外れたことで、強固だった人工乱流の網に、一瞬だけほころびが生じた。
『行くわよ!』
リュシアはその『風の隙間』を見逃さなかった。
残る魔力を振り絞り、風護膜の傘を維持したまま、そのほころびへ向けて強引に機体を押し込む。
バリバリバリッ! と大気を引き裂く音と共に、リュシアの巨体が敵の妨害線を突き破った。
「抜けろ! 止まるな!」
隼人が後続へ向けて叫ぶ。
リュシアが切り開いた風のトンネルを通って、第一騎、そして第二騎の輸送竜が、次々と峡谷の出口の向こう側――風の穏やかな空域へと滑り出していく。
さらに後方からは、ガルドとマーラが敵の追撃を牽制する魔法を放ちながら、見事な殿を務め上げている。
「……やったか!」
隼人は激しい息を吐き出しながら、ヘルメットの奥で汗を拭った。
自分と彼女の命を預け合い、ただの道具や乗り物としてではなく、お互いを一人の存在として信頼し合ったからこそ開けた道だった。
「黒瀬さん」ではなく、「隼人」。その呼び名が、彼の胸の奥に確かな熱を灯していた。
だが、彼らが安堵の息をついたのも束の間だった。
『……隼人、後ろ!』
息も絶え絶えなリュシアの思念が、再び危機を告げた。
振り返った隼人の目に映ったのは、絶望的な光景だった。
第一騎、第二騎に続き、最後に風のトンネルを抜けようとしていた第三騎――右翼を痛め、観測記録と負傷者を乗せた最も遅い翼が、出口の直前でついに限界を迎え、大きく失速したのだ。
「しまっ……!」
閉ざされかけた風の隙間に第三騎が捕まり、機体が激しく横転する。
そして、その一瞬の遅れを、体勢を立て直した所属不明の妨害編隊が見逃すはずがなかった。
「落ちろォ!」という敵の咆哮と共に、数騎の黒い影が、孤立した第三騎へ向けて殺到してくる。
再び、最も守るべきものが死地に取り残されようとしていた。




