第14話 彼女だけが知る風の道
観測記録箱と負傷者を乗せた第三の輸送竜が、強烈な人工乱流に叩き落とされ、きりもみ状態となって暗い谷底へ落ちていく。
「くそっ……!」
隼人は竜鞍の上で、大腿部に固定した地形図に目を落とし、血の気を引かせた。
第三騎の落下軌道の先。岩肌が複雑に入り組んだその場所は、完全に切り立った『行き止まりの崖』だった。このまま落ち続ければ、避難路に復帰する空間もなく、真っ直ぐに岩壁へ激突する。
(間に合わない。俺たちの速度で追いついても、引き起こすための空域が足りない!)
隼人の頭の中で、元戦闘機乗りとしての冷徹な物理計算が『救出不可能』の答えを弾き出そうとしていた。
だが、その絶望を切り裂くように、急降下で第三騎を追うリュシアから強烈な思念が飛んできた。
『違う、行き止まりじゃない!』
「アルヴェイン!?」
『地形図には載ってないけど、あそこから『上へ流れる風』がある! 岩の隙間から吹き上げる、強くて真っ直ぐな上昇気流よ!』
彼女の翼は、目に見えない大気の流れ――人工風の暴力的な渦の下でひっそりと生きている、自然の風の道を明確に捉えていた。
隼人は一秒も迷わなかった。自分の地図と計算にはない道。だが、彼女の感覚がそう言うのなら、それはそこにあるのだ。
「……分かった! ならばあの気流の底へ、第三騎をすくい上げるように誘導する!」
隼人は計時器と高度計を睨み、即座に頭の中の盤面を塗り替えた。
「アルヴェイン、第三騎の風上へ回れるか! あの子が翼を立て直せるだけ、横からの風を弱めてくれ!」
『やるわ! 第三騎、私の声を聞いて! 翼を閉じきらないで!』
銀色の巨体が、谷底へ向けてダイブする。
リュシアは第三騎の上方から風術を添え、回転を強めている横風を逸らした。傷んだ翼が震えながら開き、第三騎の背中が上を向く。まだ落ちている。だが、その下には、彼女が見つけた上昇気流があった。
『右へ! そこから羽ばたいて!』
第三騎自身の翼が風を掴んだ。急だった落下が鈍り、岩壁の手前で、重い身体がわずかに持ち上がる。
「教官! 道がありました!」
「この谷の岩肌に沿って、上層へ抜ける上昇気流の細道があります! 敵の乱流幕を避けて、全騎でこの風の道を通って上へ抜けます!」
「アルヴェインの風読みか! 分かった、指示を出せ!」
ガルドの即答を受け、隼人は避難隊の状況を頭に思い描いた。
痛んだ翼、疲労しきった観測員、そして激しい揺れに耐える負傷者。
「第一騎と第二騎を先行させます! 一番痛んでいる第三騎は風の抵抗が少ない中間に。教官とマーラが殿を務め、後方からの敵の追撃を警戒してください! 各騎の間隔は三十メートルを厳守!」
隼人は、負傷者の体力と各騎の疲労度を考慮し、侵入順、間隔、そして細道から離脱する順番を論理的に組み上げた。
「俺たちは先頭に立ち、細道のナビゲートをします!」
隊列の再編が完了し、峡谷の底からの急上昇が始まった。
だが、そこは決して平坦な道ではなかった。岩肌に沿って吹き上げる自然の上昇気流と、上空から敵が浴びせかける人工乱流が入り混じる、混沌とした空域。一歩間違えれば、乱気流に巻き込まれて岩壁に叩きつけられる。
目で見て安全な道を選ぶことは、もはや不可能だった。
『みんな、私から絶対に離れないで!』
リュシアが隊列の先頭に立ち、時速百キロ以下の低速でゆっくりと上昇を開始する。
全速の力押しではない。彼女は自身の翼の感覚だけを頼りに、本物の気流と敵の魔法による妨害気流を見分けていた。
『右は駄目、吸い込まれる! 左へ少し寄って!』
『次は真っ直ぐ! 風の勢いが弱まるから、少しだけ自分で羽ばたいて!』
彼女は風のほころびを一つ一つ縫い合わせるように、見えない細道を的確に先導していく。
隼人は竜鞍の上で、ただ彼女の背中を見守っていた。
自分がやるべきは、彼女の邪魔をしないこと。そして、彼女の導きに後続が遅れないよう、計時器を見ながら細かな速度指示をガルドたちに飛ばし続けることだ。
(……見事だ)
隼人は息を呑んだ。
速度だけが彼女の価値ではない。大気と対話し、風の機微を誰よりも正確に読み取る力。それこそが、彼女が『世界一の翼』たるゆえんなのだ。
リュシアの気流判断が、絶望的な谷底から部隊全体を確実に引っ張り上げていく。
やがて、頭上を覆っていた灰色の人工乱流の層が薄くなり、眩しい光が差し込んできた。
『抜けるわよ!』
リュシアの合図と共に、一行は乱気流の層を突き破り、峡谷の中腹にせり出した岩棚の待機ポイント――救難台へと飛び出した。
全騎が岩棚に無事着陸したことを確認し、隼人は大きく息を吐き出した。
救難台の端で竜鞍を下ろし、観測員たちが震える手で負傷者の無事を確かめ合っている。最後尾の記録箱も、無事に岩棚の上にあった。
「……助かった。黒瀬、アルヴェイン。お前たちの連携がなければ、全滅していたぞ」
ガルドがマーラから降り、険しい顔をわずかに和らげて言った。
「俺の計算だけでは、あの崖に激突していました」
隼人はそう答えると、荒い息を吐きながら翼を休めている銀色の竜の首筋を、そっと撫でた。
「俺の知らない空を、君は知っている。……君の判断が、俺たち全員を救ったんだ。ありがとう、アルヴェイン」
心からの敬意を込めた隼人の言葉に、リュシアは『きゅるる』と嬉しそうに喉を鳴らした。
隼人は地上に降り、鞍の留め具を一つずつ外した。最後の帯を解く時、彼女の翼が小刻みに震えているのが見えた。
鞍を降ろすと、ふわりと光が溢れ、彼女は人型の姿へと戻った。
「えへへ……。私、ちゃんとみんなを守れたわね」
照れくさそうに笑いながら、リュシアが降ろした竜鞍の固定具をまとめようと手を伸ばす。
その時だった。
隼人は、その手まで震えていることに気づいた。
人型に戻った彼女の顔色も、どこか青白い。額には脂汗が浮かび、息も絶え絶えだった。
(……しまった)
隼人は己の鈍感さを呪った。
昨日の夜営で、彼女は自分の補給食を惜しげもなく負傷者たちに分け与えていた。カロリーが圧倒的に不足している状態で、先ほどの連続する精密な気流操作。
それは彼女の魔力を極限まで絞り出し、致命的な疲労を蓄積させていたのだ。
「アルヴェイン、お前……限界近いんじゃないか」
「だ、大丈夫よ。これくらい、一休みすればすぐに……」
強がって立ち上がろうとしたリュシアの足元がふらつき、隼人が慌ててその肩を抱き留めた。
休ませなければならない。だが、過酷な現実はそれを許してはくれなかった。
「休んでいる暇はないぞ」
前方の空域を警戒していたガルドが、岩棚の端から振り返り、厳しい声を上げた。
「峡谷の出口を見てみろ。敵の撹乱編隊が、完全に帰還の道を塞いでいる」
ガルドの指差す先、峡谷を抜けた先の空域には、十数騎の所属不明騎が陣形を組み、待ち構えるように旋回していた。
疲労困憊の避難隊を連れて、あの包囲網を突破しなければならない。帰還路を開けるための最後の試練が、二人の前に立ちはだかっていた。




