46. 推しの前で冷静でいられない
またコロシアムの続きからです。
黄色い歓声は、なかなか鳴り止まない。コロシアムが震えているのか、耳がおかしくなっているのか。歓声は大きいまま。
手の甲に落とされたレオの唇の熱、呼吸。
それを感じてしまえば、頰のほてりは、全く引いてくれない。
目立ちたくないのに。目立ちたくないのに……!
と――ざわめく観客席の一角から、一人の生徒が、ひらり、と闘技場の砂の上へ降り立った。
そのまま、まっすぐこちらのほうへ歩いてくる。
緑の髪。緑の瞳。そのあいだに鎮座する、銀縁の眼鏡。
その三点セットを至近距離で拝んだ瞬間、私の脳内で盛大にファンファーレが鳴り響いた。
推しィィィィッ……!!
三十歳の私が絶叫していた。前世、私がこの乙女ゲームに三千円もの大枚をはたいた、たったひとつの理由。
数百人のモブと数人の攻略対象がひしめくこのゲームで、ただ一人、私の心臓を的確に撃ち抜いた男――エーリヒ・グラーフ、その人。
「エーリヒ」
レオが、少し警戒する声色で彼の名を呼んだ。
お兄様達は自然と彼を迎え入れる。
お兄様が言うには……。彼はお兄様達と同じ立ち位置、レオの『ご学友』。
将来、レオを支えるための友人。
できるだけ、私が接触を避けていた、その人。
だって、推しだから。
表情は自然と『無』になった。
十歳の私は今、公衆の面前――しかもなぜかコロシアムでたった今、土魔法で塹壕を盛大に披露し終えたばかり。
おまけに、王太子殿下であるレオに手の甲に口づけをされて、注目の的なのである。
挙動不審など、許される立場ではないのです。
ここはひとつ、完璧なる貴族令嬢ムーブで乗り切らねば……。
エーリヒは私に微笑んだ。
「素晴らしい土魔法ですね。感銘を受けました」
「ありがとうございます」
声もいい。めちゃくちゃいい。素晴らしいかよ……と昔の言葉が頭に浮かびました。
それらをぐっと押し込んで、ふ、と口角を持ち上げ、淑女の微笑みにとどめる。
目はかりそめの笑みを浮かべて……完璧。百点満点中の百二十点。
我ながら、非の打ちどころのない微笑み。
にやぁとか、ニタァとかにはなっていないはず。
レオンハルトは私の手を離して、エーリヒとの間に立った。
頭の上で、幼獣が「ぴよ」と鳴く。
え? 修羅場? ウケる。
……と聞こえるのは、私の自意識過剰でしょう。
エーリヒは銀縁の奥で、すっと目を細めた。すい、と彼の視線が、コロシアムの地面――さっきまで私が掘った塹壕の跡へと流れる。
「土魔法で、あれを。しかも新入生で。……面白いですね」
「シリィはすごいんだよ」
私の代わりに、レオが答える。
「ただの穴掘りですわ。お恥ずかしいところをお見せしました」
私も答えると、レオは肩を強張らせた。
推しは心臓に悪い。
逃げの一手。
そわそわしてしまいます。
そんな私の目の前の立つレオの拳に、ぐっと力がこもった。
でも、もう付き合いも長いものでして……。
これは、よくわかりませんが機嫌が悪い時の癖です。
「レオ、どうかしましたか? 魔力の使い方……、戦い方が美しくありませんでした?」
レオはこれでいて、魔法の使い方にとてもうるさいもので……。
「戦い方に美しいかどうかなんて、命や怪我の前では些末なことだよ」
レオは振り向いた。
淡い茶の髪。澄んだ深い蒼の瞳。
その奥で、金色の花が、今日はやけにチカチカと明滅している。
どっきーん。
心臓がまた大きく跳ねました。
相変わらず、綺麗です。
「君が無事で、本当に良かった」
ここにはもういない先生方を探すように、怒った顔であたりを見渡した。
レオは時々王族の特権を使って、人を追い詰めようとするので要注意です。
私はレオの袖を掴んだ。
「駄目ですよ、殿下。これは私が赤点を取った、そのテストなのですから」
ちょっとおかしなテストではあったみたいだけれど。
自然と上目遣いになって伝えると、すい、とレオの手が伸びてきた。
私の頭上のヒヨコを――ではなく、その脇にこぼれた後れ毛を、ひと房、指に絡めとった。
どっきーん。心臓、本日二度目の跳躍。
もう何度目かの大歓声。
それにかき消されるような、レオの小さな囁き。
「私は、心の狭い男なんだ。前にも、言ったでしょう。君を危ない目に遭わせる輩は、全員排除したい」
澄んだ蒼が、まっすぐに私を射抜く。奥の金色の花が、ふ、と綻ぶように咲いた。
美しい。
それなのに、なんて治安の悪いお言葉なのでしょうか……。
――トゥクン。
あれ、またちょっと心臓が……。
これは、ちょっとまたこそばゆい感じで……。
「なるほど。噂以上に、お二人は仲が良いのですね」
エーリヒが興味深そうに言うと、レオは「そうだけど?」と喧嘩腰に言った。
ちょっと今日は機嫌が悪いですわ……。
そんな中、頭の上で幼獣が鳴いた。
「ぴよ!」
「……本当に、フェイ・ドラゴンの幼獣ですの? あなたの名前はもうピヨにしますわ」
「ピヨ――――ッ!」
空気を一切読まないヒヨコが、高らかに鳴いた。
金色の羽毛。片目はヘーゼル、片目は蒼。――くしくも、私と、殿下の、瞳の色。
危ない、と聞こえた気がしますが……ついに頭がおかしくなってしまったようです。
お母様からはお父様の脳筋を受け継いだのだからとコンコンとお説教を頂いたことを思い出します。
「ピヨ!!!」
今日はよく鳴きますこと……。
……そんなことより。
私はスンスンと鼻をならした。
さっきから、いいにおいが……。
そう、学園の食堂の方角から、良い匂いがします。
ああ、食事をするのを忘れていましたわ!
私の全神経が、一瞬で、そちらへ持っていかれた。
まさに、花より団子。
私は、きり、と顔を上げた。淑女の微笑み、再装填。
「シリィ?」
「私、食事がまだでしたの」
なにより、食い意地を優先します。
その時、レオが鋭く早い動きで腕を上げた。
カキン、と金属と金属がぶつかった音がして、地面に片腕ほどの長さの剣が刺さった。
キィィィンと刺さって揺れる、長剣。
「え?」
私はレオの腕の中に抱かれ、その周りをお兄様達、アレク、エーリヒが囲む。
「誰かに攻撃された」
レオは静かな声で、私にそう言った。
「ピヨォォ」
だから、言ったじゃん。と聞こえた気がしました。
……。
食事が、遠いようです。




