一匹の狼が立ち上がる時
「悠。」
優しげな短髪の顔が、壁際に背中を預けて座り込んだ彼女の、沈痛な面持ちを覗き込んでいた。
焦点の合わない呆然とした眼をどんよりと、心ここにあらずと言った様子で、焦げ付いた床に落としている。
彼はゆっくりと、しかしハッキリとした強い口調で続けた。
「悠。立ち上がるんだ。立ち上がらなければ、きっと見捨てられるよ。クイナさんにも、そして瑞羽さんにも。」
「……。」
悠はぼんやりとした表情を気だるげに持ち上げ、向かい合う王洪健の肩越しに視線を伸ばした。
…焼け焦げた、ボコボコと破裂したかの如くに転がる、いくつもの首。
生々しくただれ、未だくすぶる焼け焦げた表面を晒す、人一人の焼死体。
全てが完膚なきまでに、叩き壊されていた。
愛、安心、幸福。
それら彼女がかつて抱えていた、大事なもの達が全て打ち壊され、その無惨な残滓を、薄暮の薄暗がりの中に晒していた。
悠は甲高い雄叫びを上げた。
「嫌ぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「……。」
冷静な二つの瞳が、彼女をそっと見た。
そして言った。
「悠。神様に会って来たんだろう。君の神様、いや、女神様に。」
言葉を聞いた彼女は仰け反って、叫ぶ。
「血は赤々と川を逆流する!疫病は三日間の暗黒をもたらす!火を崇めよ!」
引きつけの発作を起こしたかの如く、痙攣しながらそう唱える。
フッと、周囲の空気が重くなった。
悠を中心として、紅蓮の色をした炎の円陣が広がり、洪健の身体を直撃した。
その直後、凄まじい勢いで蒸気が噴き上がる。
白いモヤが二人の周りを覆った。
彼は少し頷いて、低い声で語りかけた。
「火が湿気を嫌い、乾かそうとするなら、好きなだけ水を食べさせよう。川も海も、尽きる事はないのだから。」
「……。」
悠は、完全にうなだれている。
洪健は永遠にも近いその時を、彼女の前に佇んで過ごした。
やがて、ツインテールの小さな少女、祝原悠は立ち上がり、言った。
「火が私と共にある。」
右手を掲げる。
それは優しく広がり、彼女の手を焼く事なく燃え上がった。
温かな黄金色の光が、周囲を照らした。
「……。」
洪健も合わせて立ち上がり、言った。
「行こう。瑞羽さん達が闘っている。」
火をまとった少女は微笑み、そして苦悩を脱した哲学者の如く、軽く頷いた。




