角度の世界
「蔵岡さん、あなたさあ。」
薄暗く、広漠とした空間のただ中。
薬師丸クイナはその人相の悪い細面をタイトに歪ませて呟く。
「悪い女だね。」
彼女は周りをぐるりと、一望した。
そして沈黙する。
「………。」
家々が歪み交差する。
道々が歪み交差する。
木々が歪み交差する。
…あの時、がま口を開く様に裂けた、神薙透子の父親の顔。
その奥の、黒いタールを思わせる漆黒の闇の中に引き込まれた。
そうして、囚われている。
邪神と神話的存在がうごめく、魔の空間へ。
ありとあらゆる物が歪み、互いに交わっていた。
デジタルゲームのバグマップを思わせる、でたらめさ。
右もなく左もなく。
ただ、自分自身の視界のみが“前後”というベクトルを決定し、踏みしめたその両足に伝わる感触のみが辛うじて、“上下”の概念を彼女自身に与えた。
奇っ怪かつ矛盾に満ちた、狂った角度の世界が、二人の女を自らの内に閉じ込めていた。
クイナは上方を見上げる。
道路と木々が混在してひしめき合う“空”の下で、蔵岡瑞羽は闘っていた。
出現したかと思うと発砲し、すぐさま影の如くに消え去る。
歪んだ角度の世界の中で、落下と転移を繰り返しながら彼女は化け物の姿を追っていた。
「蔵岡さん!もっと上!」
電撃の様なクイナの怒声に反応したのか、彼女は一瞬下方を見おろし、瞬時に姿をかき消した。
クイナは、遥か上空を駆ける、不穏な怪物の姿を下から見上げる。
「……無明の檮杌……!」
…遠い視線の先に、それは存在していた。
妖しげな蛍光塗料で出鱈目に塗られたかの様な体表。
更にそこから、無数の魚のヒレの様な器官が伸びる。
大きさは大型バス程。
四本脚で虚空を駆け、既に数発の弾丸を撃ち込まれてもなお、外道な程の生命力を示すかの様に活動を止めなかった。
…そして瑞羽もまた、少なからぬ手傷を負いながらも闘うのを止めはしなかった。
格好の獲物を得たと言わんばかりに、無我夢中に。
標的の周りで転移と攻撃を繰り返す。
仄暗い空間に、乾いた発砲音が何度も響き渡る。
そんな光景を遠目に眺めながら、クイナはボソッと呟き声を漏らした。
「一匹、ネズミが逃げたって、言ったろ?助けに行かないの?あなたの能力なら余裕でしょ…?」
目下に広がる光景を眺めながらそう言う。
…青いセーラー服を着た少女が、何人も積み重なっている。
グズグズに溶けた、無数の目玉模様で覆われた黒色の粘液に包まれて。
他ならぬ蔵岡瑞羽そのものの顔をした人型が、放棄されたマネキンの如くに手足を、ありえない角度で曲げながらそこに群がって横たわっていた。
クイナはうめき声を上げる。
「まいったねぇ…」




