饗宴
静寂が家の中を支配していた。
慣れ親しんだ自宅の匂いが、立ちすくむ透子の鼻腔をくすぐる。
古びた家屋の、落ち着いた雰囲気を含んだ空気の中。
そこに、完全に異質な何かが紛れていた。
古びた愛読書のページの上に、いつの間にか湧いている紙虫の様な、異質な何か。
…ヒトの匂いがする。
汗や、息の匂いではない。
ヒトの、中身の匂い。
生々しく、まるで意思を持ったチューブの様な血管が、脈打つ様を想起させる…
皮膚と筋肉の下、普段誰の目にも触れぬまま隠されて存在している生命の、あるがままのはっきりとした匂いを、透子の鼻は嗅ぎ取った。
彼女は下駄箱の横で立ちすくんだまま、廊下の奥を凝視する。
刻一刻と、不明瞭になっていく視界の奥で、何らかの物質が床にぶちまけられているのが分かった。
二階への階段の手前、真っ黒な粘液が飛び散ってこびり付き、そして蠢いている。
それを見下ろす様にして、彼女の父親が、床に視線を落として一人で立っている。
透子は悲鳴じみた甲高い声で叫ぶ。
「お父さん!」
「透子…」
父親は驚いた様にハッとして、声のした方を向いた。
「大変だよ、透子…」
彼はゆっくりと、一歩一歩彼女の方へ近づきつつ話しかける。
「これ、毎日ヒトを食べさせなければいけないんだって。毎日一人ずつ…。黒仏さんが今日教えてくれたんだ。黒仏さん?太歳を売ってくれた人だよ。その人が言ったんだ。ヒトを食べさせ続けなきゃ死んじゃうんだって。酷いよね。そんな大事な事、売る前に教えてくれたら良かったのに。」
異様な雰囲気が、寒々しい廊下を端から端まで舐め尽くす。
聞きながら透子は目を細め、かろうじて残っている視力を振り絞って、父親の背後、廊下の一番奥を埋め尽くす漆黒の汚れに目を凝らす。
すぐ横の、脱衣所の窓から射し込む夕日を受けて虹色にギラつく表面に、五本の指が突き出している。
透子は更に目を細め、それを見つめ続けた。
おぼろげな視界の中、日常の一ページに不意に挿し込まれた、奇異なる栞の表面を集中して観察する。
…ある一点に焦点が結ばれた。
五本の指の一箇所だけ、ある部分がキラリとした冷たい輝きを放っている。
それがまさに、他ならぬ自分の母親の、薬指の結婚指輪なのだと気付くのに、さほどの時は要さなかった。
透子は全身のチカラが抜けるのを感じて、へなへなと、崩れ落ちた。
そして叫んだ。
「嫌ぁぁぁぁぁぁ!」
目の前の光景がぐにゃぐにゃに歪んで、波打つ海面の様に、揺らいだ。
「また田舎の方のお家に帰らないといけないね。」
暗い廊下の壁に、虚ろな声が響く。
「お母さんの次、田舎のおじいちゃんと、それからおばあちゃん。それからもう二人の、おじいちゃんと、おばあちゃん。その後は…どうしよう。」
父親は続ける。
「太歳を生かし続けなきゃ。」
彼は自らの娘の目の前で語る。
「太歳を死なせちゃ、駄目だ。」
そう語る彼の両目から、黒いタール状の粘液が溢れて、零れ落ちた。




