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衛兵は眠れない  作者: 神代シン
第一章 眠らない門番

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第九話「第四の扉の向こう側」

1.消えていく記録

門番が消えた翌朝、黒門砦の記録庫で、最初の異変が起きた。


「隊長。大変です」


記録官オスカー・ベルは、朝食を食べていたロウの前に、羊皮紙の束を叩きつけた。


ロウは黒パンを口に運ぶ手を止めた。


「何が大変なんだ」


「記録が消えています」


「誰かが燃やしたのか」


「燃えていれば、まだ説明がつきます」


オスカーは、いつもの几帳面な口調を維持しようとしていた。


しかし、彼の指先は震えていた。


「記録そのものが、最初から存在しなかったことになっているんです」


ロウは黒パンを皿に戻した。


「順番に話せ」


「百四十七年前の建設記録です。昨日まで存在していた第四の扉に関する記述が、今朝になったら消えていました」


「消えた?」


「はい。削り取られたわけでも、上から塗られたわけでもありません。文章の流れそのものが変わっているんです」


オスカーは羊皮紙を広げた。


古い記録には、砦の基礎構造、外壁の厚さ、地下通路の配置、封印機構の設置位置が、細かい文字で記されていた。


その一節だけが、昨日と違っていた。


昨日まで、そこにはこう書かれていた。

第三封印門の奥に、第四の扉を確認。


扉の向こうに存在するものについては、記述を禁ずる。


門番一名、配置済み。


名前の返還を行う者は、第四の扉に至る前に、自らの名前を確認すること。


ところが、今朝の記録では違っていた。

第三封印門の奥に、保守用の空間を確認。


空間の用途については、記述を禁ずる。


保守要員一名、配置済み。


点検を行う者は、第三封印門の機構を確認すること。


第四の扉が、保守用の空間になっている。


門番が、保守要員になっている。


名前の返還が、点検作業になっている。


文章は自然だった。


百四十七年前の記録官が、最初からそのつもりで書いたとしか思えないほどに。


「昨日、俺たちが読んだ記録の写しは?」


「こちらです」


オスカーは別の紙を取り出した。


そこには、昨日までの文章が残っていた。


「原本だけが変わったのか」


「いいえ。こちらもです」


オスカーが示したのは、昨日作成したばかりの複写だった。


複写の文章も、保守用の空間に変わっている。


さらに、その下には記録庫の閲覧台帳があった。


昨日、ロウとオスカーが閲覧した記録の題名。


それもまた、変わっていた。


『黒門砦地下構造保守記録』


第四の扉という言葉が、どこにもない。


ロウは、しばらく黙っていた。


「オスカー」


「はい」


「昨日、お前は何を見た」


オスカーは眉をひそめた。


「建設記録です」


「何の建設記録だ」


「黒門砦の……」


彼は言葉を切った。


自分の手元の紙を見下ろす。


「黒門砦の地下構造に関する記録です」


「第四の扉は?」


「……」


オスカーの唇がわずかに開いた。


そのまま、閉じた。


「昨日、確かに読みました」


「何を」


「第四の扉という記述を」


「それが今、どうなっている」


「消えています」


オスカーはゆっくりと顔を上げた。


「隊長。記録だけではありません。私の頭の中からも、何かが抜け落ちています」


ロウは立ち上がった。


「具体的に言え」


「昨日、私は第四の扉について、隊長と話をしました。扉の向こうに何があるのか。どうして名前を要求するのか。あの白い部屋に置かれていた本は何だったのか」


オスカーは自分の額を押さえた。


「覚えているんです。覚えているはずなんです。ですが、その扉がどんな形をしていたのか、思い出そうとすると、頭の中に別の光景が浮かんでくる」


「別の光景?」


「石壁です。何もない石壁。保守用の空間を塞ぐ、ただの壁です」


ロウは、窓の外を見た。


黒門砦の外壁。


朝の薄い霧。


門の上を巡回する兵士たち。


そして、砦の地下深くにある第三封印門。


そのさらに奥。


昨日まで存在していた第四の扉。


「全員がそうなっているのか」


「確認できた範囲では、そうです」


「全員?」


「記録庫の職員五名。地下通路の調査に参加した兵士四名。さらに、第三封印門の警備を担当していた二名も、第四の扉についての記憶が曖昧になっています」


「曖昧、というのは?」


「彼らは、昨日までそこに扉があると知っていたことを覚えています。しかし、何のためにそこへ行ったのか、誰と一緒に行ったのか、その理由を説明できない」


ロウは上着を手に取った。


「ミラを呼べ。セラには第三封印門の警備を増やさせろ。地下へ入る者は、俺の許可を取らせる」


「隊長。ひとつ、よろしいですか」


「何だ」


「もしも、記録だけでなく人間の記憶まで書き換わっているのなら……昨日までの私たちの記憶も、正しいとは限らないのではありませんか」


ロウはオスカーを見た。


「その可能性はある」


「では、何を信じればいいのでしょう」


「信じるものを一つに決めるな」


ロウは扉へ向かった。


「記録と記憶と、実際に起きたこと。その三つが一致するか確かめろ。どれか一つだけを正しいと決めた瞬間、俺たちは誰かの都合で作られた世界に閉じ込められる」


オスカーは、すぐには答えなかった。


やがて彼は、机の上の羊皮紙を抱え直した。


「……承知しました」


ロウは部屋を出た。


廊下の窓から、門の外が見えた。


昨日、門番が立っていた場所。


そこには誰もいない。


だが、ロウには奇妙な確信があった。


門番は消えた。


けれど、門番が守っていたものまで消えたわけではない。


むしろ、門番がいなくなったことで、それは初めて動き始めたのかもしれなかった。


そして、その動きは――


ロウたちが、何かを思い出すよりも速かった。

2.三人の名前が戻る朝

医務室では、三人の兵士が同じ机を囲んでいた。


ダレン・コル。


エルナ・ヴァイス。


ハンス・メルツ。


三人とも、身体検査では異常が見つかっていない。


傷も、熱も、魔力反応の乱れもない。


しかし彼らは、ある名前を取り戻すたびに、別の記憶を失っていた。


ミラ・セインは、三人の前に三枚の紙を置いていた。


それぞれの紙には、本人が覚えている事実が書かれている。


ダレンの紙には、母親の顔。


エルナの紙には、家の外に立つ一本の木。


ハンスの紙には、兄の声。


その下には、本人たちがかつて名乗っていたとされる名前が記されていた。


ベルン・ハルト。


「昨日から、変化はあった?」


ミラが尋ねると、ダレンが首を横に振った。


「母親の顔は覚えています。でも、昨日よりもぼやけている気がします」


「どういうふうに?」


「顔は覚えているんです。目の形も、鼻も、笑ったときに頬にできる皺も。けれど、声が思い出せません」


ミラは記録に書き込んだ。


「エルナは?」


「木のことは覚えています。枝の途中に、鳥の巣があったことも。でも、あの木が家のどちら側にあったのか、わからなくなりました」


「ハンスは?」


ハンスは、机の上の紙をじっと見つめていた。


「兄の声は覚えています」


「それ以外は?」


「……兄の名前が、思い出せません」


ミラのペンが止まった。


「名前が?」


「はい。兄がいたことは覚えています。自分より年上で、いつも俺のことを叱っていて……俺が失敗すると、必ず後始末をしてくれました」


ハンスは苦笑した。


「嫌な兄だったんです。俺の分の食事まで勝手に食べるし、俺が気に入ったものは自分も欲しがるし、俺が泣くと笑う。なのに、俺が本当に困ったときには、必ず助けてくれた」


「名前は?」


「わかりません」


「ベルン・ハルトではないの?」


「それは……」


ハンスは紙を見た。


その名前を見つめた瞬間、彼の表情が変わった。


「違う」


「何が違うの?」


「兄の名前です」


ハンスは、自分の胸を押さえた。


「ベルン・ハルトは、兄の名前だった。俺はそれを知っている。でも……」


彼は息を呑んだ。


「俺も、その名前で呼ばれていた気がする」


ミラは立ち上がりかけた。


そのとき、医務室の扉が開いた。


ロウが入ってきた。


「今の話を、もう一度してくれ」


ハンスは隊長を見た。


「俺は、兄の名前を知っています。でも、自分もその名前で呼ばれていた気がするんです」


「どちらが先だ」


「わかりません」


「兄の名前を継いだのか。兄が、お前の名前を継いだのか」


「……わかりません」


ロウは三人の紙を見下ろした。


「ミラ。三人の記憶は、同時に薄れているのか」


「同時ではありません。ダレンは母親の顔に関する記憶が薄れ、エルナは家の位置関係を忘れ始めています。ハンスは兄の名前を失いました」


「名前が戻ると、別の記憶が消える」


「ええ。ただし、完全に失われているわけではないようです。思い出そうとすれば、まだ断片は浮かんできます」


ロウはハンスに向き直った。


「お前は、兄に会いたいか」


ハンスはすぐには答えなかった。


「会いたいです」


「会ったら、何をする」


「わかりません」


「名前を返せと言うのか」


「……それも、わかりません」


ハンスは、膝の上で拳を握った。


「でも、隊長。俺は兄に、ずっと謝りたいことがあった気がするんです」


「何を謝る」


「それが思い出せないんです」


その声は、悔しさでかすれていた。


「兄が何をしてくれたのか、少しずつ思い出せなくなっている。それなのに、謝りたいという気持ちだけが残っているんです」


ロウは、彼を見つめた。


その感覚を、知らないとは言えなかった。


自分の母親が死んだと思っていた。


母親の死体を見た記憶はない。


葬儀の細部も、墓を掘った人間も、誰が最後に母親の顔を見たのかも、説明できなかった。


それでも、母親が死んだという事実だけは、長い年月のあいだ疑わなかった。


そして今、母親は記録の中で名前を返還済みとされている。


死体はない。


死亡確認もない。


死んだという記憶だけがある。


それは、ハンスが兄の名前を忘れていくことと、どこかでつながっているのだろうか。


「ハンス」


「はい」


「謝る相手がいるのなら、相手が見つかるまで謝罪を諦めるな。ただし、思い出せないことを、都合のいい想像で埋めるな」


「……はい」


「お前の兄がどんな人間だったのか、俺は知らない。善人だったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。お前を助けたことも、傷つけたこともあったのかもしれない」


ロウは、机の上の紙を指で叩いた。


「それでも、お前が実際に生きてきた時間まで、誰かに決めさせるな」


ハンスは唇を噛んだ。


「俺は、兄を忘れたくありません」


「なら、忘れないために何をする」


「……書きます」


ハンスはペンを手に取った。


「思い出せることを、全部」


彼は紙の余白に文字を書き始めた。


兄は食事を勝手に食べた。


兄は俺を叱った。


兄は俺が困ると助けた。


兄は――。


そこで、ハンスの手が止まった。


彼は、しばらく紙を見つめたあと、震える文字で続きを書いた。


兄は、俺を置いていかなかった。


書き終えた瞬間、ハンスは顔を上げた。


「隊長」


「何だ」


「俺、兄の名前を思い出しました」


ミラが息を呑んだ。


ロウは慎重に尋ねた。


「ベルン・ハルトか」


「違います」


ハンスは、泣きそうな顔で笑った。


「俺の兄は、ベルン・ハルトじゃない」


「では、何という名前だ」


ハンスの唇が動いた。


音にならなかった。


彼はもう一度、名前を口にしようとした。


しかし、喉から出たのは、かすれた息だけだった。


「……言えない」


ミラが駆け寄る。


「ハンス、無理をしないで」


「違うんです。思い出せないんじゃない。名前は、ここにあるんです」


ハンスは自分の胸を叩いた。


「でも、その名前を口にしたら、兄がいなくなる気がする」


ロウの背筋を、冷たいものが走った。


名前を返せば、世界が一つ消える。


あの言葉が、脳裏をよぎった。


ハンスは、今まさにその境界に立っているのではないか。


名前を取り戻せば、誰かが消える。


あるいは、名前を返さなければ、誰かが消える。


どちらが正しいのか。


まだわからない。


「ハンス」


ロウは、彼の手を取った。


「今は言わなくていい」


「ですが……」


「名前を口にしないことと、兄を忘れることは同じじゃない。お前が兄を覚えているのなら、その記憶を守る方法を探す」


ハンスは、何度も頷いた。


そのときだった。


医務室の壁に掛けられた古い時計が、音を立てて止まった。


秒針が、十二の位置で固まっている。


ミラが振り向いた。


「……今、何時ですか?」


ロウは自分の懐中時計を開いた。


針は午前九時十七分を示していた。


時計は動いている。


しかし、壁の時計は止まったままだった。


そして、三人の前に置かれた紙の上で、奇妙なことが起きた。


ハンスが書いた文字。


兄は、俺を置いていかなかった。


その文章の下に、見覚えのない文字が浮かび上がってきた。


まるで、紙の裏側から誰かが書き込んでいるかのように。


――お前は、ここに残れ。


ロウは、その文字を見た。


ハンスも見た。


ミラも見た。


三人とも、同じ言葉を読んだ。


だが、誰もが同じものを見たとは限らない。


文字の最後に、もう一行が浮かび上がった。


――兄は、まだ門の向こうにいる。


ロウは、紙をつかんだ。


文字は消えなかった。


その代わり、紙の一番下に、小さな数字が現れた。


零。


「……零番目の記録」


ロウが呟いた。


その瞬間、胸の奥でアベルが囁いた。


『兄さん』


『今の文字、見えた?』


ロウは目を閉じた。


『見えた』


『あれは、僕の記憶じゃない』


アベルの声は、いつになく真剣だった。


『でも、僕が生まれる前から、ずっと知っていた気がする』


ロウは目を開けた。


「ミラ。三人をここから動かすな。誰かが名前を口にしようとしたら、止めろ。ただし、無理やり口を塞ぐな。本人が何を覚えているのか、記録し続けろ」


「わかったわ」


「オスカーを呼んでくれ。俺は地下へ行く」


ミラは一瞬だけ迷った。


「また一人で?」


「セラを連れていく」


「そういう問題じゃないわ」


彼女はロウの顔を見つめた。


「あなた自身の記憶も、変わり始めているんでしょう?」


ロウは答えなかった。


その沈黙だけで、ミラには十分だった。


「なら、せめて私も行く。記録を取る人間が必要でしょう」


「医務室は?」


「セラに交代の医師を手配してもらうわ。あなたが地下で何かを見つけても、医療的に確認する人間がいなければ、結局はあなたの記憶に頼ることになる」


ロウは、少しだけ笑った。


「相変わらず、容赦がないな」


「あなたが無茶をするからよ」


彼女は紙を慎重に持ち上げ、別の記録用紙に写し始めた。


「それに、あなたの記憶が正しい保証はないもの」


その言葉は正しかった。


正しいからこそ、ロウは反論できなかった。


彼は、止まった時計をもう一度見た。


午前九時十七分。


その時刻に、何かがある。


そう感じた。


しかし、その理由を思い出すことはできなかった。


いや。


もしかすると、思い出すべきではないのかもしれなかった。


3.第四の扉は、最初から存在しなかった

地下へ続く階段の前には、セラ・ヴォスが待っていた。


「隊長。話は聞きました」


「どこまで聞いた」


「第四の扉が消えたこと。記録が書き換わったこと。兵士たちの記憶がおかしくなっていること。それから、あなたがまた地下へ行こうとしていること」


「最後の情報だけ、妙に早いな」


「あなたの行動は予測しやすいんです」


セラは剣帯を締め直した。


「危険な場所を見つけたら、自分で確認しに行く。誰かが止めても、結局は行く。だから最初から同行することにしました」


「俺は止めていないぞ」


「止めるつもりもありません」


セラは、階段の奥を見た。


「ただし、今回は戻る時間を決めます。一定時間、連絡がなければ私が救援を呼ぶ。あなたが何と言おうと、これは譲りません」


「わかった」


ロウは素直に頷いた。


セラは、少しだけ不審そうな顔をした。


「……本当に?」


「何だ」


「いえ。もっと揉めると思っていました」


「俺も成長する」


「それなら、昨日のうちに成長してほしかったですね」


「昨日は門番が消えるので忙しかった」


「言い訳としては最低です」


二人は階段を下り始めた。


ミラが後ろからついてくる。


オスカーは、記録用の板と紙束を抱えていた。


地下へ近づくにつれ、空気が冷たくなっていく。


壁に埋め込まれた照明石は、昨日と変わらず青白い光を放っていた。


第一封印門。


外部からの侵入を防ぐ門。


第二封印門。


何かが外へ流れ出ることを防ぐ門。


第三封印門。


境界そのものを固定する門。


それぞれの前に、警備兵が二名ずつ配置されていた。


彼らはロウたちを見ると敬礼した。


「異常は?」


「ありません、隊長」


「誰かが通ったか」


「いえ。規定どおり、誰も通しておりません」


「門の向こうから音は?」


「ありません」


ロウは、第三封印門の前で立ち止まった。


黒い石の表面に、四つの円が刻まれている。


そのうち三つには、薄い光が宿っていた。


残る一つは、何も映していない。


以前、ここを通ったとき、ロウは門に名前を告げた。


自分の名前を。


ロウ・テュユール。


その名に応じて、門は開いた。


だが、今はどうだろう。


「ロウ・テュユール」


彼は、自分の名前を口にした。


門は沈黙していた。


「……反応がありませんね」


オスカーが記録した。


ロウは、もう一度名乗った。


「ロウ・テュユール。黒門砦所属、王国辺境警備隊隊長」


何も起こらない。


セラが眉をひそめた。


「故障ですか?」


「そう考えるのは早い」


ロウは門の表面に手を置いた。


石は冷たかった。


その奥に、何かがある。


以前にも感じた気配だ。


しかし、今回は違った。


以前は、門の向こうに何かが待っているように感じた。


今は、門そのものが、ロウを知らないふりをしている。


「名前を変えてみるか」


ロウは呟いた。


「ベルン・ハルト」


門は反応しない。


「エドリック・ヴェイン」


反応しない。


「エリナ・テュユール」


その瞬間。


四つの円のうち、最も下にある円が、一度だけ光った。


全員が息を呑んだ。


光はすぐに消えた。


「今のを見たか」


「はい」


セラが答えた。


「確かに光りました」


オスカーは、震える手で記録した。


「エリナ・テュユール。名前を告げた際、第四円が一度点灯……」


「もう一度だ」


ロウは、再び母親の名前を告げた。


「エリナ・テュユール」


沈黙。


何も起こらない。


「……なぜだ?」


ミラが近づいた。


「名前そのものに反応したのではなく、最初に名前を告げたときの条件に反応したのかもしれない」


「条件?」


「あなたが、母親の名前を口にした瞬間に何を考えていたか。どんな記憶を思い出していたか。そういうことよ」


ロウは、目を閉じた。


母親の名前。


エリナ・テュユール。


自分が十二歳のとき、病気で亡くなったと聞かされた母親。


彼女は、どんな顔をしていたか。


どんな声で、自分を呼んでいたか。


何を最後に言ったか。


ロウは、ひとつずつ思い出そうとした。


だが、母親の顔を思い浮かべるたび、その輪郭がぼやけていく。


代わりに、壁の向こうから聞こえた声が蘇った。


――あの子を、殺さないで。


――あなた自身を。


ロウは目を開いた。


「……違う」


「何が?」


「母親の名前に反応したんじゃない」


彼は門の四つの円を見つめた。


「俺が、母親を思い出そうとしたことに反応したんだ」


「どういうことですか?」


オスカーが尋ねる。


ロウは、まだ確信を持てなかった。


「名前は、ただの識別記号じゃない。記憶と結びついている。門が俺の名前を認識できなくなったのは、俺が名前を忘れたからじゃない」


「では?」


「俺が、自分の名前をどういう意味で使っているのか、門に伝わらなくなった」


彼は自分の胸に手を置いた。


「名前が、その人間の記憶や人生と結びついているのなら、名前を変えることは、記録の見出しを書き換えるだけじゃ済まない」


ミラが小さく頷いた。


「記憶そのものの結びつきが変わってしまう……」


「そうだ」


ロウは、門にもう一度触れた。


「そして、第四の扉は、その仕組みの中心にあった」


「でしたら、なぜ消えたのでしょう?」


セラの問いに、ロウは答えられなかった。


門番が消えたからか。


門番が何かを選んだからか。


あるいは、門番が守っていたものが、もう門番を必要としなくなったからか。


どれも可能性にすぎない。


だが、ひとつだけ確かなことがあった。


「第四の扉が消えたんじゃない」


ロウは言った。


「俺たちが、第四の扉を認識できなくなっているんだ」


その言葉を聞いた瞬間、オスカーの顔色が変わった。


「隊長……それでは、もしも私たちが第四の扉の存在を完全に忘れてしまったら?」


「そのとき、どうなるかはわからない」


「記録がすべて書き換わるのでは?」


「可能性はある」


「では、もしも世界中の人間が忘れてしまったら?」


ロウは、答えなかった。


世界中の人間が、第四の扉を忘れる。


扉の存在を知る者がいなくなる。


扉に関わる記録が消える。


扉を開いた人間が、その事実を思い出せなくなる。


そして、扉の向こうにあったものが、存在しなかったことになる。


それは単なる記憶喪失ではない。


世界そのものから、ある事実を取り除く行為だ。


「……オスカー」


「はい」


「昨日の記録を覚えている人間を探せ。完全に思い出せなくてもいい。第四の扉を見たことがある、という感覚だけでも残っている人間を全員集めろ」


「承知しました」


「それから、建設記録だけじゃない。砦が建てられる前の土地の記録、周辺の村の古文書、王都の公文書、何でもいい。第四の扉という名前がなくても、似た構造や、同じ役割を持つものが記されている可能性がある」


「わかりました」


「門番についても調べろ。名前のない門番が、ほかの場所に存在していなかったか」


オスカーは頷き、階段へ戻ろうとした。


しかし、その途中で立ち止まった。


「隊長」


「何だ」


「……私は、今、どこへ行こうとしていたのでしょう?」


ロウは振り向いた。


オスカーは、自分の持つ記録板を見つめていた。


「第四の扉を調べるために、記録庫へ戻ろうとしていたのです。それは覚えています。しかし、第四の扉が何なのか、どうして調べなければならないのか……」


彼は顔を上げた。


「隊長。私は今、あなたの言葉を聞いていたはずなのに、あなたが何を説明したのか、少しずつわからなくなっています」


ロウは、すぐに彼の記録板を受け取った。


「全員、第三封印門から離れろ」


セラが剣に手をかける。


「隊長?」


「今すぐだ。ここで調査を続けるな」


ロウは、記録板の上に紙を置いた。


そこには、オスカーが先ほど書いた文章が残っていた。

エリナ・テュユール。名前を告げた際、第四円が一度点灯。


その下に、オスカーの手ではない文字が浮かんでいた。

第四の扉を探す者は、第四の扉を忘れる。


そして、そのさらに下に。

第四の扉を忘れた者は、第四の扉の向こう側にいたものを、最初から知らなかったことになる。


ロウは紙を握りつぶしかけ、思いとどまった。


燃やすべきではない。


破るべきでもない。


この記録がどこから来たのか、確かめる必要がある。


「オスカー。今の文字を書いたか?」


「いいえ」


「見覚えは?」


「……ありません」


「なら、覚えておけ。お前が書いたものではない。俺たちが見つけたものだ」


オスカーは、ゆっくりと頷いた。


ロウは、第三封印門を見た。


四つの円のうち、ひとつだけが空白になっている。


それは、欠けているのではない。


そこに何かが存在しているのに、認識できないような空白だった。


ロウは背を向けた。


今は、第四の扉を探すべきではない。


第四の扉を探すこと自体が、記憶を失う条件になっているのなら、調査の方法を変える必要がある。


扉を探すのではなく。


扉が存在したことによって、世界に何が起きたのかを探す。


そうすれば、扉そのものを思い出さなくても、その痕跡を見つけられるかもしれない。


ロウは階段を上がり始めた。


そのとき、背後から声が聞こえた。


「……隊長」


振り返ると、第三封印門の前に立っていた警備兵の一人が、こちらを見ていた。


「何だ」


「ひとつ、思い出したことがあります」


「何を?」


兵士は、困惑した顔で頭を掻いた。


「昨日、ここで隊長たちを見送ったあと……門の向こうから、誰かが話しかけてきたんです」


ロウは足を止めた。


「何と言った?」


「よく覚えていません。ただ……」


兵士は、ゆっくりと口を開いた。


「『門番は、もういない』と」


「それだけか」


「いえ」


兵士の顔から、血の気が引いていった。


「そのあと、こう言われました」


彼は、まるで自分自身の口から出る言葉を恐れているかのように、震える声で続けた。


「『だから、次はお前たちが選べ』と」


沈黙が落ちた。


ロウは、第三封印門を見た。


門は、何も答えなかった。


けれど、門の向こうから聞こえた声は、昨日の門番のものでも、ロウ自身のものでもなかった。


それは、もっと古い声だった。


何百年も前から、ずっとそこにいたものの声だった。


そして、その声は、確かに言ったのだ。


――次は、お前たちが選べ。


4.百四十七年前の証人

その日の午後、黒門砦に一人の老人がやってきた。


老人は、砦の門前で荷車を止め、衛兵に身分証を差し出した。


「王都の記録院から来た。古文書の照会について、こちらの隊長に話がある」


衛兵は身分証を確認した。


王国記録院所属。


氏名、ユリウス・フェルン。


年齢、六十八歳。


職務、古代文書および地方建設記録の調査。


書類に不審な点はなかった。


しかし、衛兵が老人を詰所へ案内しようとしたとき、老人は砦の門を見上げて、奇妙なことを言った。


「まだ、ここにあるのか」


「何がです?」


「門だよ」


老人は、黒門砦の門扉を見つめていた。


「ずいぶん長いあいだ、ここにある」


衛兵は笑った。


「当たり前でしょう。黒門砦の門なんですから」


「そうか」


老人は、寂しそうに笑った。


「君たちは、そう教わっているのだな」


その言葉は、すぐにロウの耳に届いた。


老人は応接室へ通された。


ロウ、セラ、ミラ、オスカーが席につく。


ユリウスは、持参した革鞄から一冊の古い帳簿を取り出した。


「まず、これを見てもらいたい」


帳簿の表紙には、王国記録院の印章が押されていた。


その題名は、こうだった。


『王国北部・境界施設調査録』


「百四十七年前、黒門砦の建設に関わった記録を探していると聞いた。私は王都で、古い境界施設の記録を調べている」


ロウは、帳簿を見た。


「どうして、こちらの調査を知った」


「照会状が届いた」


オスカーが首を傾げた。


「私たちは、そのような照会状を出していません」


「そうかね?」


ユリウスは鞄から、一枚の書状を取り出した。


確かに、黒門砦の公印が押されている。


差出人は、記録官オスカー・ベル。


日付は、三日前。


オスカーは、書状を受け取ると、顔色を変えた。


「……これは、私の署名です」


「書いた覚えは?」


「ありません」


「では、偽造かね」


「印章は本物です。筆跡も……私のものに見えます」


オスカーは、書状を何度も見返した。


「ですが、私はこの文章を書いていない」


ロウは、老人に尋ねた。


「書状には、何と?」


ユリウスは答えた。


「黒門砦の地下構造について、古い記録との照合を求める、と。特に、境界の固定機構と、名前の返還に関する記述を調査してほしい、とね」


室内の空気が変わった。


名前の返還。


この老人は、その言葉を知っている。


しかも、王都の記録院で扱われるような古い資料に、それが残っているということだ。


「その記録を見せてもらえますか」


ロウが言うと、ユリウスは帳簿を開いた。


最初の数ページには、北部の古い砦や遺跡の位置が記されていた。


次のページには、建設年代。


その次には、境界施設の機能。


そして、ある頁で、ユリウスの指が止まった。


「ここだ」


そこには、古い図面が描かれていた。


円形の構造物。


その内側に、四つの門。


門と門をつなぐ線。


中央には、黒く塗りつぶされた空間があった。


図面の下には、文字が記されていた。

第一門は、外から来るものを拒む。


第二門は、内から出るものを拒む。


第三門は、境界を固定する。


第四門は、境界を定義する。


ロウは息を呑んだ。


第四の扉。


その名が、ここにも残っている。


「この記録は、どこから?」


「王国が成立する前の文書を写したものだ。原本は失われている。だが、写本がいくつか残っていてね」


「第四の門について、ほかに記述は?」


「ある」


ユリウスは、次の頁を開いた。


そこには、四つの門の役割が、もう少し詳しく書かれていた。


第一門は、外から来るものを拒む。


第二門は、内から出るものを拒む。


第三門は、境界を固定する。


そして第四門は――。

人間と人間でないものを分けるために、存在するのではない。


人間と人間でないものを、同じ世界に存在させるために、存在する。


ロウは、文字を見つめた。


「……どういう意味です?」


セラが尋ねた。


ユリウスは、すぐには答えなかった。


「私にも、完全にはわからない」


老人は正直に言った。


「ただ、この記録を読む限り、第四門は単なる防御機構ではない。世界の分類そのものに関係しているようだ」


「分類?」


「人間、魔物、獣、死者、生者。そうしたものを、何によって区別するのか。肉体か、記憶か、名前か。それとも、誰かがそれをそう呼んだという事実なのか」


ミラが呟いた。


「名前を返すと、記憶が変わる。記憶が変わると、その人間が誰だったのかが曖昧になる……」


「そうだ」


ユリウスは頷いた。


「この記録では、名前は単なる呼称ではない。名前とは、世界がある存在を認識するための接点だとされている」


ロウは、椅子の背にもたれた。


「では、名前を返還するとは?」


「世界が、その存在を認識する方法を変えることなのかもしれない」


「それで、世界から人間が消える?」


「必ずしもそうとは限らない。認識の仕方が変わるだけなら、存在そのものが消えるとは限らない」


ユリウスは、少し考えてから続けた。


「だが、もしその存在が、ほかの存在の記憶や名前に依存しているのなら……その接点を失ったとき、何が起こるかはわからない」


ロウは、胸の奥を意識した。


アベル。


自分の中にいる、名前を持つ少年。


彼は、ロウの弟なのか。


ロウが失った記憶の一部なのか。


それとも、ロウとは別の存在が、ロウという人間の記憶を足場にしているのか。


答えはまだない。


だが、第四の扉が世界の認識そのものに関わっているのなら、アベルの存在も、その仕組みと無関係ではないはずだ。


「ユリウスさん」


ロウは尋ねた。


「この記録には、誰が書いたのか残っていますか」


「残っているものもある」


老人は帳簿の最後のほうを開いた。


そこには、何人もの名前が並んでいた。


建築技師。


王国の役人。


境界施設の管理者。


魔術師。


そして、最後に一人。


エリナ・テュユール。


ロウは、息を止めた。


「……母の名前だ」


ユリウスは、ロウの顔を見た。


「君の母親か」


「そうです」


「そうか」


老人は、何かを確かめるように、ロウの顔を見つめた。


「君は、彼女が亡くなったと聞かされて育ったのだね」


「……なぜ、それを?」


「記録にある」


ユリウスは、別の頁を開いた。


そこには、エリナ・テュユールの名が記されていた。


ただし、彼女の名前の横に書かれていたのは、死亡年月日ではなかった。


境界管理者。


その下に、短い文章が添えられていた。

管理者は、境界の外側へ移行。


肉体の所在、確認できず。


記憶の所在、確認できず。


名前の返還、未完了。


ロウは、文字を見つめた。


母親は死んだのではない。


少なくとも、この記録では、死んだことになっていない。


彼女は境界の外側へ移行した。


肉体も、記憶も、どこにあるのかわからない。


名前の返還は、未完了。


「この記録は、いつ書かれたものですか」


「百四十七年前の記録を、後世の記録官が写したものだ。だが、最後の追記だけは、年代が違う」


「いつです?」


ユリウスは、文字の下にある小さな日付を示した。


ロウの手が止まった。


それは、ロウの母親が亡くなったとされる年だった。


彼が十二歳だった年。


「……誰が追記したんです」


「名前はない」


「また、名前がないのか」


「そうだ」


ユリウスは、帳簿を閉じた。


「この記録を追記した人物は、自分の名前を残していない。だが、筆跡の特徴から、同じ人物がほかの文書も書いていることがわかっている」


「誰です?」


老人は、ロウを見た。


「君の母親だ」


室内が静まり返った。


ロウは、すぐには言葉を返せなかった。


母親が亡くなったとされる年に、母親自身が記録を書き残している。


その記録には、名前の返還が未完了とある。


そして、彼女は境界の外側へ移行した。


ロウは、自分の記憶を探った。


母親の葬儀。


墓。


泣いていた父親。


周囲の人間が、自分にかけた慰めの言葉。


どれも、確かに覚えている。


しかし、母親の遺体を見た記憶だけがない。


彼女の死を確認した人間が、誰だったのかもわからない。


「……母は、何をしようとしていたんですか」


ユリウスは、ゆっくりと首を横に振った。


「それを知るために、私はここへ来た」


老人は、ロウの前に帳簿を置いた。


「君の母親は、百四十七年前の境界施設について調べていた。だが、その研究は途中で途切れている。彼女が何を発見し、なぜ境界の外側へ移行したのか。記録院にも、答えはない」


「では、俺の母親について、何もわからないということですか」


「いいや」


ユリウスは、帳簿の最後の頁を開いた。


そこには、短い一文が記されていた。

境界の外側へ移行した者を、内側の記録だけで追ってはならない。


その下に、別の筆跡で追記があった。

彼女が残した子供を、第四の扉へ近づけてはならない。


ロウは、その文章を読んだ。


一度。


二度。


三度。


そして、顔を上げた。


「……俺のことか」


ユリウスは答えなかった。


答える必要がなかった。


「母は、俺が第四の扉へ行くことを知っていたんですか」


「この記録が正しければ、そういうことになる」


「俺が生まれる前から?」


「その可能性もある」


ロウは、ゆっくりと息を吐いた。


母親は、彼が生まれることを知っていたのか。


彼が第四の扉へ近づくことを恐れていたのか。


それとも、彼が第四の扉を開けることを望んでいたのか。


まだわからない。


だが、彼女が何かを残していたことだけは確かだった。


その何かは、ロウが母親を思い出そうとするたびに、記憶の奥から逃げていく。


そして、第四の扉は、彼が母親の名前を口にしたときに反応した。


偶然とは思えなかった。


「ユリウスさん」


「何だね」


「この帳簿を、しばらく預からせてください」


老人は、頷いた。


「構わない。ただし、一つ約束してほしい」


「何です?」


「第四の扉を見つけても、すぐに開けようとしないことだ」


ロウは、ユリウスを見た。


老人は、穏やかな顔をしていた。


しかし、その目には、長いあいだ何かを恐れてきた人間の影があった。


「私は、若いころに一度だけ、第四の扉を見たことがある」


「……何ですって?」


「君が生まれる前のことだ。私は記録院の見習いとして、北部の遺跡調査に参加した。そのとき、地下の石室で、四つの円が刻まれた扉を見た」


ロウは、身を乗り出した。


「何があったんです」


ユリウスは、少しだけ目を伏せた。


「調査隊の一人が、扉の向こうへ入った。彼は、自分の名前を名乗った」


「それで?」


「彼は戻ってきた」


老人は、そこで言葉を切った。


「ただし、私たちの誰も、彼の名前を思い出せなくなっていた」


ロウの背筋が冷たくなった。


「彼は、どうなったんです」


「しばらくは一緒に調査を続けた。食事もした。会話もした。彼がそこにいることは、誰も疑わなかった」


「しかし?」


「彼が何者だったのか、誰も説明できなかった。調査記録に彼の名前を書こうとしても、筆が止まる。彼の顔を描こうとしても、輪郭が定まらない」


ユリウスは、自分の手を見つめた。


「最後には、彼自身が、自分の名前を思い出せなくなった」


「……その人は、今どこに?」


「わからない」


「行方不明になったんですか」


「いや」


老人は、静かに答えた。


「彼は、最後まで私たちと一緒にいた。だが、調査が終わって帰還したとき、報告書には最初から四人しかいなかった」


ロウは、言葉を失った。


「調査隊は五人だったはずだ。しかし、報告書には四人しか記録されていない。宿泊記録も、食料の配給記録も、最初から四人分しかなかったことになっていた」


「では、あなたの記憶だけが残っている?」


「そうだ」


「なぜ?」


「わからない」


ユリウスは、苦笑した。


「ただ、最後に彼が私へ言ったことだけは、覚えている」


「何と言ったんです」


老人は、ロウを見た。


「『忘れてもいい。だが、いなかったことにしないでくれ』」


その言葉は、ロウの胸に深く突き刺さった。


存在を忘れること。


存在しなかったことにすること。


その二つは、同じではない。


名前を失っても、記憶を失っても、誰かがその存在を忘れても。


その存在が生きた時間まで、なかったことにしていい理由にはならない。


ロウは、机の上の帳簿を閉じた。


「……わかりました」


彼は言った。


「扉を見つけても、すぐには開けません」


ユリウスは、安心したように頷いた。


だが、その直後。


老人の顔から、表情が消えた。


「……ところで」


彼は、ロウを見た。


「私は、なぜここへ来たのだったかな?」


誰も答えなかった。


ユリウスは、自分の手元にある書状を見つめた。


そこには、オスカーの署名がある。


第四の扉について調査を求める文章がある。


黒門砦の公印が押されている。


それでも、老人は困惑していた。


「私は、何を調べていた?」


彼は、帳簿を開いた。


四つの門が描かれた図面。


境界管理者、エリナ・テュユールの記録。


名前の返還。


第四の扉。


老人は、その頁を見た。


そして、首を傾げた。


「……これは、何の図だ?」


ロウは立ち上がった。


「ユリウスさん」


「はい?」


「あなたは、今、何を忘れましたか」


老人は、しばらく考えた。


「……わからない」


彼は、困ったように笑った。


「ただ、大切な人を忘れたような気がする」


その瞬間、ロウは理解した。


第四の扉を調べること自体が、危険なのではない。


第四の扉を、世界が認識し続けること。


そのために必要な何かが、今、失われ始めているのだ。


扉を見つけるたびに、誰かが忘れる。


忘れるたびに、扉の記録が変わる。


そして、記録が変わるたびに、扉を知る者が減っていく。


これは、単なる隠蔽ではない。


誰かが意図的に記録を消しているのだとしても、その仕組みは人間の手を離れている。


まるで、世界そのものが、第四の扉を忘れようとしているかのようだった。


そして、その世界の中で、ロウだけがまだ、扉の存在を覚えている。


本当にそうなのか。


それすら、確かではなかった。


5.名前のない兄

夕方、ロウは自室に戻った。


ユリウスは医務室で休んでいる。


ミラが彼の記憶の状態を記録し、オスカーが書状と帳簿の複写を保管していた。


セラは警備を増やし、地下へ続く階段を封鎖した。


砦の中では、第四の扉について話すことを禁じるべきだという意見まで出始めていた。


名前を口にすると忘れる。


記録を調べると記憶が変わる。


ならば、調査をやめればいい。


それは、理解できる考えだった。


しかし、ロウには別の疑問があった。


もしも第四の扉を忘れることが、誰かにとって都合のいい結果なのだとしたら。


忘れることは、本当に安全なのだろうか。


ロウは、椅子に座り、母親の古い記録を広げた。


境界管理者。


名前の返還、未完了。


境界の外側へ移行。


そして、自分を第四の扉へ近づけてはならないという記述。


彼は何度も、その文字を読み返した。


やがて、胸の奥から声が聞こえた。


『兄さん』


アベルだった。


『起きているか』


『うん』


『今日、何かを思い出した?』


『……少し』


『何を?』


ロウは、正直に答えた。


『母さんのことだ』


胸の奥が、かすかに温かくなった。


『僕も、何かを思い出した気がする』


『どんなことだ』


アベルは、しばらく黙っていた。


『誰かが、僕の名前を呼んでいた』


『誰が?』


『わからない。でも、僕の名前を知っていた』


ロウは目を閉じた。


『アベルという名前か?』


『違うと思う』


その答えに、ロウは目を開いた。


『違う?』


『うん。アベルという名前を呼ばれたこともある。でも、もっと前に、別の名前を呼ばれた気がするんだ』


『その名前は?』


『……思い出せない』


アベルの声は、少しだけ寂しそうだった。


『でも、ひとつだけ覚えている』


『何だ』


『その人は、僕を呼んだあと、泣いていた』


ロウは、胸の奥に手を当てた。


アベルは、ロウの中にいる。


だが、ロウの記憶をそのまま共有しているわけではない。


アベルには、アベル自身の記憶がある。


ロウが知らない記憶。


ロウが持っていない記憶。


それは、アベルがロウとは別の存在であることを示しているのかもしれない。


しかし、それだけではない可能性もある。


「……お前は、何者なんだろうな」


ロウが呟くと、アベルは少しだけ笑った。


『僕にもわからないよ』


『怖くないのか』


『怖いよ』


アベルは、はっきり答えた。


『自分が何者なのかわからないのは、怖い。でも、わからないからって、兄さんに僕のことを決めてほしくない』


ロウは、目を伏せた。


『……そうだな』


『兄さんも、そうなんでしょう?』


『何がだ』


『自分が何者なのか、誰かに決められたくないんでしょう?』


ロウは答えなかった。


人間と狼の血を引く者。


王国の兵士。


黒門砦の隊長。


母親の子供。


誰かの兄。


誰かに名前を与えられた者。


誰かから名前を奪った者。


自分を説明する言葉はいくらでもある。


しかし、それらの言葉のどれか一つが、ロウのすべてを決めるわけではない。


『……そうだ』


彼は、静かに答えた。


『俺は、俺が何者なのか、自分で考えたい』


『うん』


アベルは、満足したようだった。


『じゃあ、僕もそうする』


その言葉のあと、胸の奥が静かになった。


ロウは、机の上の記録に目を戻した。


そのとき、窓の外で音がした。


コツン。


石を叩くような音。


ロウは立ち上がり、窓を開けた。


中庭には、誰もいない。


ただ、窓の下に、小さな石が落ちていた。


黒い石だった。


表面に、四つの円が刻まれている。


ロウはそれを拾い上げた。


石は、冷たくなかった。


むしろ、誰かの手の温度が残っているようだった。


裏返すと、文字が刻まれていた。


『兄さんへ』


その下に、もう一行。


『僕は、まだ生まれていない』


ロウの指が止まった。


それは、アベルの言葉だった。


しかし、石を置いた者がアベルだとは限らない。


ロウは中庭を見回した。


そのとき、砦の外壁の上に、人影が立っているのが見えた。


人影は、ロウと同じ背丈だった。


同じ肩幅。


同じ立ち姿。


顔までは見えない。


だが、ロウにはわかった。


あれは、自分に似た誰かだ。


人影は、こちらを見ていた。


そして、ゆっくりと片手を上げた。


ロウは窓を閉め、部屋を飛び出した。


階段を駆け下り、中庭へ向かう。


衛兵が驚いて敬礼した。


「隊長、どうされました!」


「外壁の上に人影がいた。誰か確認したか?」


「いえ、誰も……」


「今すぐ外壁の上を調べろ。砦の外へは出るな。誰かを見つけても、勝手に接触するな」


「了解!」


ロウは外壁へ続く階段を駆け上がった。


上には、誰もいなかった。


風が吹いている。


遠くに、黒い森が見える。


門の外には、広い荒野が広がっていた。


そして、外壁の石の上に、一枚の紙が置かれていた。


ロウは、それを拾い上げた。


紙には、名前が書かれていた。


ロウ・テュユール。


その下に、もう一つの名前。


ロウ・テュユール。


同じ名前が、二度。


その二つの名前の間に、細い線が引かれていた。


さらに、その下に短い文章があった。

お前が忘れたのは、俺の名前だ。


お前が覚えているのは、俺の人生だ。


だから、俺たちはまだ、同じ人間ではない。


ロウは紙を見つめた。


その筆跡は、自分のものに似ていた。


いや。


似ているというより、同じだった。


自分が書いた文字と、区別がつかない。


だが、ロウには書いた覚えがない。


「……お前は、誰だ」


彼は、誰もいない外壁に向かって問いかけた。


風が吹いた。


紙の端が揺れた。


その瞬間、背後から声がした。


「それを、俺に聞くのか」


ロウは振り返った。


そこにいたのは、一人の男だった。


ロウと同じ顔。


ロウと同じ目。


しかし、その表情には、ロウが知らない疲労が刻まれていた。


男は、ゆっくりと口を開いた。


「俺は、お前の兄だ」


ロウは、剣に手をかけた。


「……また、その言葉か」


男は苦笑した。


「そうだな。お前は、何度も聞いている」


「何度も?」


「お前が覚えていないだけだ」


「証拠は?」


男は、自分の胸元を指した。


そこには、古い金属札が吊るされていた。


ロウが持つものと同じ形。


しかし、刻まれている文字は違った。


『名前を返す者』


ロウは、息を止めた。


男は言った。


「第四の扉を探すな」


「なぜだ」


「お前が探せば、俺が消える」


「それは、お前が第四の扉に関係しているからか?」


「そうだ」


「お前は、何者だ」


男は、しばらく黙っていた。


やがて、静かに答えた。


「俺は、最初に名前を失った人間だ」


ロウは、男を見つめた。


「……エドリック・ヴェインか?」


男の表情が変わった。


「その名前を、どこで知った」


「百四十七年前の記録にあった。第四の扉を開けるために、自分の名前を渡した人間だ」


男は目を伏せた。


「そうか。まだ、その記録が残っていたのか」


「お前は、エドリックなのか」


「その名前を、俺が名乗ることはできない」


「なぜだ」


「その名前を名乗れば、俺はエドリック・ヴェインだった人間として、世界に認識される。だが、俺はもう、その人間ではない」


「名前を失ったからか」


「名前だけじゃない。俺は、あのとき、自分の人生の一部を渡した」


男は、外壁の向こうを見た。


「記憶も、時間も、誰かを愛したという事実も。何を渡したのか、正確には覚えていない。だが、俺が誰かを愛していたことだけは、まだ覚えている」


「誰を?」


男は、目を閉じた。


「……それを思い出すために、俺はここにいる」


ロウは、剣から手を離さなかった。


「お前は、俺の兄だと言った」


「そうだ」


「だが、俺には兄がいたという記憶がない」


「それでいい」


男は、あっさりと言った。


「お前が俺を兄だと認める必要はない」


「なら、なぜそう名乗る」


「お前が、俺を忘れたまま生きているからだ」


ロウは眉をひそめた。


「意味がわからない」


「お前は、自分が何者なのかを知りたい。母親が何をしたのかを知りたい。第四の扉の向こうに何があるのかを知りたい」


男は、ロウを見た。


「だが、お前は、最も重要なことを知らない」


「何だ」


「お前が生まれるために、誰が生まれることを諦めたのか」


ロウの胸の奥で、アベルが反応した。


『兄さん……』


男は、その反応を感じ取ったかのように、ロウの胸を見た。


「……まだ、そこにいるのか」


ロウは一歩踏み出した。


「アベルを知っているのか」


男は答えなかった。


「答えろ」


「知っている」


「何者なんだ」


「お前が生まれる前から、お前の中にいたものだ」


ロウの胸が、強く脈打った。


「それは、どういう意味だ」


「言葉どおりだ」


男は、静かに答えた。


「お前が生まれる前から、アベルは存在していた。だが、彼はまだ、この世界に生まれていない」


「なら、なぜ俺の中にいる」


「お前が生まれるためだ」


ロウは、息を呑んだ。


男は続けた。


「お前が生まれるために、アベルは名前を渡した。お前が生まれるために、誰かが記憶を渡した。お前が生まれるために、誰かが境界の向こう側に残った」


「……誰が?」


「それを知るために、第四の扉を開けるな」


ロウは、男の胸元の金属札を見た。


名前を返す者。


彼は、かつて第四の扉を開けた。


そして、名前を失った。


だが、その代償は名前だけではなかった。


彼は、自分の人生の一部を渡した。


誰かを愛したという事実。


誰かと過ごした時間。


それらを失いながらも、彼はまだ、何かを守ろうとしている。


「……お前は、何を守っているんだ」


男は、しばらく黙っていた。


やがて、答えた。


「お前が、誰かを犠牲にしなければ生きられない世界を、当たり前だと思わないように」


ロウは、言葉を失った。


男は続けた。


「お前は、誰かを救うためなら、自分を犠牲にすることを選ぶ。お前は、そういう人間だ」


「……何を知ったようなことを」


「知っているからだ」


男の目が、わずかに揺れた。


「俺も、そうだった」


その言葉には、嘘がなかった。


「俺は、誰かを救うために名前を渡した。誰かを守るために、自分の記憶を渡した。誰かを生かすために、自分が生きていたという事実を渡した」


男は、苦しそうに笑った。


「そして、俺が何を守ろうとしたのか、忘れた」


ロウは、何も言えなかった。


「だから、お前には同じことをしてほしくない」


男は、一歩下がった。


「第四の扉を開ければ、何かがわかるかもしれない。だが、その答えを得るために、お前が誰かを失うことになるのなら……その答えを得ること自体が、本当に正しいのか、考えてほしい」


ロウは、男を見つめた。


「なら、どうすればいい」


「選べ」


男は言った。


「お前自身で」


その瞬間、外壁の上を風が吹き抜けた。


ロウが目を細めた、ほんの一瞬。


男の姿が消えていた。


足音もない。


気配もない。


ただ、石の上に、金属札が落ちていた。


ロウは、それを拾い上げた。


表面には、先ほどと同じ文字が刻まれていた。


『名前を返す者』


裏返すと、別の文字があった。


『零番目の記録』


ロウは、札を握りしめた。


そして、胸の奥から聞こえる声に、静かに答えた。


「……アベル」


『うん』


「お前は、俺が生まれるために名前を渡したのか?」


長い沈黙があった。


やがて、アベルは答えた。


『……わからない』


「本当に?」


『わからないんだ、兄さん』


その声は、泣きそうだった。


『でも、もしそうだったとしても……僕は、兄さんに生まれてほしかったのかもしれない』


ロウは、目を閉じた。


『僕は、まだ生まれていない』


アベルは、そう言った。


『でも、僕が生まれることを望んでいるのは、本当だよ』


ロウは、胸の奥に手を当てた。


「……わかった」


彼は、静かに答えた。


「なら、俺はお前を犠牲にして生きることも、お前を犠牲にして真実を知ることもしない」


『兄さん……』


「お前が生まれるかどうかは、お前が決めろ。俺は、そのために誰かを消すことを当たり前だとは思わない」


ロウは、外壁の向こうを見た。


「それができる方法を探す」


アベルは、しばらく黙っていた。


やがて、小さな声で言った。


『……うん』


その返事を聞いたとき、ロウは初めて気づいた。


自分が何をしようとしているのか。


彼は、第四の扉を開けようとしているのではない。


第四の扉を開けなければ、誰かを救えない世界そのものを、疑おうとしているのだ。


それが可能かどうかは、わからない。


しかし、可能かどうかを確かめる前に諦めるつもりはなかった。


ロウは金属札を懐にしまい、外壁を下りた。


砦の中では、夕食の鐘が鳴っていた。


いつもと変わらない音。


いつもと変わらない一日。


けれど、その鐘の音が、今日は少し違って聞こえた。


まるで、誰かが遠い場所から、帰ってくる者を待っているような音だった。


6.記録に存在しない五人目

夜。


記録庫の明かりは、まだ消えていなかった。


オスカーは、ユリウスが持参した帳簿と、黒門砦に残された古文書を照合していた。


第四の扉という言葉を直接探すのはやめた。


代わりに、建設当時の人員配置、食料の配給、給金の支払い、宿泊記録、死亡記録を調べていた。


扉を忘れても、その扉のために働いた人間がいたのなら、何かが残るはずだ。


名前が消えても、誰かが食事を用意した事実まで、簡単に消せるとは限らない。


そう考えたのだ。


「……妙ですね」


オスカーは、三冊の帳簿を並べた。


百四十七年前の建設記録。


建設に参加した職人への食料配給記録。


そして、王国から支給された資材の受領記録。


どれも同じ期間のものだった。


建設記録には、職人が四十二名とある。


食料配給記録には、四十三人分の食事が用意されたとある。


資材受領記録には、四十三名の署名がある。


ところが、どの帳簿にも、四十三人目の名前がない。


「……またか」


オスカーは額を押さえた。


四十三人目。


第四の扉。


名前のない門番。


数字の一致は、偶然かもしれない。


しかし、彼はすでに知っていた。


この砦では、偶然に見えるものを偶然として処理すると、取り返しのつかない何かを見落とす。


彼は、四十三人目の食料配給記録を調べた。


配給されたのは、黒パン一個、干し肉一切れ、水一杯。


それだけだった。


ところが、翌日の記録では、黒パンが二個になっている。


干し肉は二切れ。


水も二杯。


さらに翌日には、黒パンが三個。


干し肉が三切れ。


水が三杯。


人数が増えている。


しかし、建設記録に記載された職人の人数は変わらない。


オスカーは、帳簿をめくる手を止めた。


食料は、毎日一人分ずつ増えている。


誰かが、人数を増やしている。


あるいは、同じ人間が、毎日少しずつ増えている。


そんなことがあるはずはない。


だが、帳簿は嘘をついていない。


少なくとも、書かれた数字は正確だった。


オスカーは、別の帳簿を開いた。


そこには、建設現場で使用された寝台の数が記されていた。


四十二台。


四十二人の職人が、それぞれ寝台を使っていた。


では、四十三人目はどこで寝ていたのか。


彼は、寝台の修理記録を探した。


そして、見つけた。

寝台四十三号。


修理理由:使用者がいないにもかかわらず、毎朝、寝具が乱れている。


対応:寝具を交換。


翌日、同じ状態を確認。


対応:寝台を撤去。


翌日、寝台四十三号が元の位置に戻っていることを確認。


オスカーは、椅子から立ち上がった。


そのとき、記録庫の扉が開いた。


ロウが入ってきた。


「何か見つかったか」


「隊長。これを見てください」


オスカーは、食料配給記録と寝台の修理記録を差し出した。


ロウは、目を通した。


「四十三人目……」


「はい。建設に参加した人数は四十二人です。しかし、食料は四十三人分用意されている。そして、誰も使っていない寝台が一つ、毎朝、使用された状態になっていた」


「誰も使っていないと、どうしてわかった」


「寝台の使用者が、名簿に記載されていないからです」


ロウは、オスカーを見た。


「それは、理由にならない」


オスカーは言葉に詰まった。


「……確かに、そうです」


「名前がないことと、人間がいないことは同じじゃない。名簿に載っていなくても、そこにいた可能性はある」


ロウは、帳簿を机に置いた。


「この四十三人目が、門番だったのかもしれない」


「ですが、門番の記録には、配置済みとしか書かれていません。四十三人目との関連は……」


「まだわからない。だから調べる」


ロウは、食料配給記録の最後の頁を開いた。


そこには、建設終了日の記録があった。

建設人員、全員帰還。


寝台、四十二台を撤去。


食料配給、終了。


余剰一人分については、返還不要。


理由:受領者は、今後もここに残るため。


ロウは、その文章を何度も読み返した。


受領者は、今後もここに残るため。


それは、門番のことなのだろうか。


建設が終わったあとも、砦に残る者。


名前を持たず、所属もなく、給金も支給されない者。


門番は、交代を必要としない。


そして、門番は、門の外側に配置してはならない。


ロウは、最後の一文を指でなぞった。


「……待て」


「はい?」


「門番は、門の外側に配置してはならない」


「建設記録にあった文言ですね」


「そうだ。だが、昨日、俺たちが見た門番は、門の外にいた」


オスカーは、顔を上げた。


「……つまり?」


「門番が外にいたのは、本来の配置から外れていたからかもしれない」


ロウは、記録を見つめた。


「門番が、門の外側へ移動した。あるいは、門番が守っていたものが、門の外側へ移動した。その結果、門番は、門を守るという役割を果たせなくなった」


「それで、消えたのですか?」


「わからない」


ロウは正直に答えた。


「だが、門番が消えたあとに記録が変わり始めたのなら、門番が何かを維持していた可能性はある」


オスカーは、別の記録を差し出した。


「もう一つあります」


それは、建設終了後の砦の維持管理記録だった。


そこには、定期的な点検の項目が並んでいた。


外壁の補修。


門扉の点検。


地下通路の清掃。


照明石の交換。


そして、最後に。

門番への報告。


その項目には、毎月、確認印が押されていた。


しかし、報告の内容はない。


誰が報告したのかも、誰が確認したのかも記録されていない。


ただ、確認印だけが、百年以上にわたって押され続けていた。


「この印は?」


ロウが尋ねた。


「王国の公印に似ていますが、正式なものではありません。記録院にも、この印章の登録はありませんでした」


「誰が押していた?」


「わかりません」


「いつまで?」


オスカーは、記録の最後を示した。


建設終了から百四十六年目。


その年の最後の月。


そこを境に、確認印は途絶えていた。


そして、その翌年から、記録の文言が変わり始めている。


門番への報告。


その項目が、保守用空間の点検へと書き換えられている。


門番という存在が、少しずつ記録から消えていったのだ。


「……門番がいなくなったのは、昨日じゃない」


ロウは言った。


「俺たちが門番を見たのは昨日だ。だが、門番の役割が失われ始めたのは、もっと前からだったのかもしれない」


「では、昨日の門番は何だったのでしょう」


「残されたものかもしれない。あるいは、最後まで役割を果たそうとしていた存在かもしれない」


ロウは、記録の余白を見た。


そこに、小さな文字があった。


ほかの記録と同じ筆跡。


しかし、インクの色が違う。

門番は、門を閉じるために存在するのではない。


門を開けるために存在するのでもない。


門の向こうにいる者が、門のこちら側にいる者と同じ世界に存在することを、忘れないために存在する。


ロウは、しばらくその文章を見つめた。


それは、金属札に刻まれていた言葉と、どこかでつながっていた。


門を守る者は、門の外側にいる者を忘れてはならない。


門番は、何かを閉じ込めていたのではない。


誰かが、門の向こうにいることを忘れないために、そこにいたのだ。


しかし、何を忘れないためだったのか。


人間と魔物の境界か。


生者と死者の境界か。


あるいは、まだ生まれていない者と、すでに生きている者の境界か。


ロウは、記録を閉じた。


「オスカー。四十三人目の記録を探し続けろ」


「承知しました」


「ただし、四十三人目の名前を無理に探すな。名前がないこと自体に意味があるかもしれない」


「……わかりました」


ロウは扉へ向かった。


そのとき、オスカーが呼び止めた。


「隊長」


「何だ」


「もし、四十三人目が門番だったとしたら……その人物は、百四十七年前からずっと、ここにいたことになります」


「そうだな」


「人間だったのでしょうか」


ロウは、足を止めた。


「わからない」


「魔物だったのでしょうか」


「それもわからない」


「では、何だったのでしょう」


ロウは振り返った。


「それを決めるのは、俺たちじゃない」


オスカーは、黙って彼を見つめた。


「人間だったのか、魔物だったのか。それを調べることは必要だ。だが、最初からどちらかだと決めてしまえば、調べる前に答えを作ることになる」


ロウは、静かに続けた。


「俺たちは、まず、そこに誰かがいたという事実を確かめる。そいつが何者だったのかは、そのあとで考えればいい」


オスカーは、ゆっくりと頷いた。


「……はい」


ロウは記録庫を出た。


廊下の向こうで、セラが待っていた。


「隊長。少し、よろしいですか」


「何だ」


「今夜、地下へ行く予定はありますか」


「ない」


「本当ですか」


「今夜はない」


セラは、ロウの顔を見た。


「では、明日は?」


「……まだ決めていない」


「でしょうね」


彼女は、ため息をついた。


「ひとつ、報告があります」


「何だ」


「第三封印門の警備兵から、追加の証言がありました。昨日、門の向こうから聞こえた声についてです」


「何と言っていた?」


「門番がいなくなった。次はお前たちが選べ。それ以外にも、声が聞こえていたそうです」


セラは、一枚の紙を差し出した。


そこには、警備兵が聞いた言葉が書かれていた。

お前たちは、門の向こうに何がいると思っている。


敵か。


怪物か。


死者か。


それとも、まだ生まれていない者か。


ロウは、紙を見つめた。


その下に、もう一行あった。

その答えを決めたのは、誰だ。


ロウは、ゆっくりと紙を折りたたんだ。


門の向こうに何がいるのか。


彼らは、ずっとその答えを探してきた。


だが、もしかすると、問いそのものが間違っていたのかもしれない。


門の向こうにいるものを、敵と呼ぶのか。


怪物と呼ぶのか。


死者と呼ぶのか。


まだ生まれていない者と呼ぶのか。


それによって、彼らの存在そのものが変わるのだとしたら。


誰が、その分類を決めたのだろう。


そして、その分類を決める権利は、誰にあるのだろう。


ロウは、懐の金属札に触れた。


『名前を返す者』。


その裏に刻まれた、『零番目の記録』。


零番目とは、何を意味するのか。


最初の記録より前。


名前を与えられるより前。


人間と魔物が分けられるより前。


あるいは、世界が世界として定義されるより前。


ロウは、廊下の窓から夜空を見上げた。


星が見えた。


いつもと変わらない星空。


しかし、彼には今、その星空さえ、誰かが何かを決めた結果のように感じられた。


世界には、名前がある。


境界がある。


分類がある。


人間と魔物がいる。


生者と死者がいる。


生まれた者と、まだ生まれていない者がいる。


だが、それらは本当に、最初から分かれていたのだろうか。


それとも、誰かが分けたのだろうか。


そして、もし誰かが分けたのなら。


その境界を、もう一度問い直すことはできるのだろうか。


ロウは、歩き出した。


今夜は、地下へ行かない。


その代わり、調べるべきことができた。


第四の扉が何を守っていたのか。


門番が、なぜ百四十七年間もそこにいたのか。


そして、零番目の記録とは何なのか。


彼は、真実を知るために誰かを犠牲にするつもりはなかった。


しかし、真実を知らないまま、誰かが犠牲になり続ける世界を受け入れるつもりもなかった。


その二つの間に、道があるのか。


まだわからない。


だからこそ、探すのだ。


ロウは、自室へ戻る前に、一度だけ第三封印門のある地下への階段を振り返った。


階段の奥は暗かった。


その暗闇の中から、声が聞こえた気がした。


『……兄さん』


アベルの声ではない。


門番の声でもない。


もっと遠く。


もっと深い場所から。


『……忘れないで』


ロウは、立ち止まった。


何を、と問い返そうとした。


しかし、声はもう聞こえなかった。


代わりに、胸の奥でアベルが囁いた。


『兄さん』


『……何だ』


『僕、少しだけ思い出した』


ロウは、息を止めた。


『何を?』


アベルは、長い沈黙のあとに答えた。


『僕が生まれる前、誰かが僕に言ったんだ』


『何と?』


『君が生まれたら、世界は二つになる』


ロウは、動けなくなった。


『でも、君が生まれなければ、世界は一つのままだ』


アベルの声が震えた。


『その人は、どちらが正しいのか、ずっと悩んでいた』


『……誰なんだ、その人は』


『わからない』


アベルは答えた。


『でも、最後にこう言った』


胸の奥が、ひどく冷たくなった。


『どちらを選んでも、誰かがいなくなるのなら――』


アベルは、言葉を切った。


『せめて、選ぶことだけは、誰かに押しつけないでほしい』


ロウは、目を閉じた。


その言葉は、門番が最後に少年へ告げた言葉と、どこかで重なっていた。


名前は、お前が選べ。


門を開くか、閉じるか。


生まれるか、生まれないか。


名前を継ぐか、自分の名前を選ぶか。


誰かを守るために、自分を犠牲にするか。


それとも、犠牲を前提とする仕組みそのものを疑うか。


選択肢は、いくらでもある。


だが、その選択肢を誰が用意したのか。


そのことを、誰も知らない。


ロウは、ゆっくりと目を開けた。


「……アベル」


『うん』


「お前が生まれることを、俺は否定しない」


胸の奥が、かすかに温かくなった。


「だが、お前が生まれるために、誰かが消えなければならないというのなら、その仕組みを疑う」


『……うん』


「お前が何者なのか、まだわからない。俺が何者なのかも、まだわからない。だが、それを理由に、お前の未来を誰かに決めさせるつもりはない」


ロウは、静かに歩き出した。


「一緒に考えよう」


アベルは、答えなかった。


ただ、胸の奥で、小さな鼓動のようなものが響いた。


それは、まだ生まれていない者の鼓動だったのか。


あるいは、ずっと昔に失われた誰かの記憶だったのか。


ロウには、まだわからなかった。

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