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衛兵は眠れない  作者: 神代シン
第一章 眠らない門番

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第十話「世界が二つに分かれた日」



1.門の外には、知らない世界があった

「隊長。出発の準備が整いました」


セラ・ヴォスの報告に、ロウは頷いた。


「人数は?」


「私を含めて六名です。医師のミラ、記録官のオスカー、護衛二名。それから、王都から来たユリウス殿が同行を希望しています」


「ユリウスさんも?」


「本人いわく、記録院の人間として、調査対象を自分の目で確かめる義務があるそうです」


「年齢を考えろと言っても?」


「『年齢を理由に現場から逃げるようになったら、記録院の椅子に座る資格もない』と」


ロウは、思わず苦笑した。


「頑固な老人だな」


「隊長に言われたくないと思います」


「俺はまだ老人じゃない」


「頑固なところの話です」


セラは淡々と答えた。


出発地点は、黒門砦の正門だった。


砦の外へ出るのは、ロウにとって久しぶりのことだった。


王都にいたころは、任務で国境地帯を巡ることもあった。だが、黒門砦に配属されてからは、砦の防衛と内部の事件に追われ、長時間外へ出る機会はほとんどなかった。


今回の目的地は、砦から北東へ半日の距離にある、古い集落だった。


現在の地図には、灰枝村と記されている。


しかし、ユリウスが持参した百四十七年前の地図には、同じ場所に別の名称があった。


境界村。


その名は、建設記録に残る黒門砦の前身施設と結びついていた。


古い記録によれば、境界村は黒門砦が建設される以前から存在していた。


村人たちは、魔物との境界に暮らしながら、人間の王国にも魔王の領域にも完全には属していなかったという。


だが、ある時期を境に、村の記録は途絶える。


その後、同じ土地に、灰枝村という新しい名前が現れる。


人々は、境界村のことを知らない。


そこに暮らしていた人々の名前も、生活も、ほとんど残っていない。


「まずは、この村を調べる」


ロウは、隊員たちに説明した。


「目的は、第四の扉を探すことじゃない。第四の扉が存在する以前、この土地で何が起きていたのかを調べることだ」


オスカーが記録板を構えた。


「具体的には、村の古文書、住民の伝承、古い墓地、建築物の年代を確認する、ということでしょうか」


「そうだ。ただし、村人の記憶が変わる可能性がある。聞き取りをしたら、必ず本人の前で記録を読み上げ、内容が合っているか確認する」


ミラが頷いた。


「聞き取りの前後で、同じ質問をするのも有効ね。記憶が変わるなら、その変化自体が手がかりになる」


「頼む」


ユリウスが、地図を広げた。


「もう一つ、気をつけてほしいことがある」


全員が老人を見た。


「古い地図では、境界村の北に、川が描かれている。だが、現在の地図には川がない」


「川が干上がったんですか?」


護衛の一人が尋ねた。


「その可能性はある。しかし、現在の地形調査では、川が存在した痕跡そのものが見つかっていない」


「百四十七年前の地図が間違っていたのでは?」


「そう考えることもできる」


ユリウスは、地図を折りたたんだ。


「ただし、同じ川は、別の三冊の古文書にも描かれている。それぞれ異なる年代、異なる筆者の記録だ」


ロウは、地図を見つめた。


「川が消えたのか。それとも、川があったという記憶が消えたのか」


「あるいは、私たちが今、川のない世界にいるのかもしれない」


ユリウスの言葉に、誰もすぐには答えられなかった。


世界そのものが変わる。


その可能性を、彼らはもう笑い飛ばせなかった。


「出発する」


ロウは、正門の衛兵に合図した。


巨大な門扉が、ゆっくりと開いていく。


その向こうには、いつもと変わらない荒野が広がっていた。


乾いた土。


低い草。


遠くの森。


雲の流れる空。


どこにも異常は見えない。


ロウは、一歩、砦の外へ踏み出した。


その瞬間。


胸の奥で、アベルが囁いた。


『兄さん』


『どうした』


『……この景色、知っている』


ロウは足を止めた。


『ここに来たことがあるのか?』


『わからない。でも、僕はこの景色を知っている』


アベルの声が、かすかに震えた。


『ここで、誰かが泣いていた』


ロウは、荒野を見渡した。


そこには誰もいない。


だが、彼には、何かが欠けているように感じられた。


景色は正しい。


道も、草も、空も、何もおかしくない。


それなのに、世界の一部分だけが、そこに存在することを許されていない。


ロウは、その感覚を胸に留めた。


「隊長?」


セラが呼んだ。


「何でもない。行こう」


一行は、灰枝村へ向かった。


そして彼らが門を越えた直後、黒門砦の正門に刻まれていた古い文字が、音もなく一つ消えた。


誰も、それに気づかなかった。


2.あなたは、誰ですか

灰枝村は、荒野の中にぽつんと存在していた。


木造の家々。


石造りの井戸。


村の中央に立つ大きな樹木。


家畜を飼う柵。


畑を囲う低い石垣。


どこにでもある、辺境の小さな集落だった。


村人たちは、昼の仕事をしていた。


畑を耕す者。


薪を割る者。


水を運ぶ者。


子供たちは、広場で走り回っている。


ロウたちの姿に気づくと、村人たちは手を止めた。


辺境の兵士が訪れること自体は、珍しくない。


しかし、今回の反応は違った。


村人たちは、ロウを見ていた。


誰もが、彼の顔を見つめていた。


驚き。


困惑。


恐怖。


そして、深い悲しみ。


それらが、ひとつの表情の中で入り混じっていた。


村の入口にいた老人が、ゆっくりと立ち上がった。


「……そんな」


彼は、ロウに近づいた。


「まさか」


ロウは立ち止まった。


「何か?」


老人は、ロウの顔を見たまま、震える手を伸ばしかけた。


しかし、途中で止めた。


「……あなたは」


老人の唇が震えた。


「あなたは、誰ですか?」


ロウは、答えた。


「ロウ・テュユール。黒門砦の隊長だ」


老人の顔から、血の気が引いた。


「……違う」


「何が違う?」


「その名前は……」


老人は、額を押さえた。


「その名前は、ここには存在しない」


村の奥から、別の人間がやってきた。


中年の女性。


若い男。


杖をついた老人。


彼らは、ロウを見ると、次々に立ち止まった。


「どうして……」


「生きていたのか?」


「いや、そんなはずは……」


「また、門が開いたのか?」


言葉が重なり合う。


ロウは、村人たちを見渡した。


「俺のことを知っているのか」


誰も答えなかった。


代わりに、最初の老人が、一歩後ずさった。


「あなたは、死んだはずだ」


ロウの手が、剣の柄に触れた。


「誰が死んだと言った」


老人は、ロウの顔を見つめた。


そして、恐怖に震える声で言った。


「……門番です」


その言葉を聞いた瞬間、村人たちが一斉に後ずさった。


子供たちが、母親の背後へ隠れる。


家畜が騒ぎ始めた。


広場にいた犬が、激しく吠えた。


ロウは、剣から手を離した。


「俺は門番じゃない」


老人は首を振った。


「顔が同じです」


「何?」


「あなたの顔は……あの人と同じだ」


老人の目に、涙が浮かんだ。


「百四十七年前に、死んだはずの門番と」


ロウは、息を呑んだ。


百四十七年前。


門番。


そして、自分と同じ顔。


それは、外壁の上に現れた男と、同じ話だった。


「その門番について、話を聞かせてほしい」


ロウが言うと、老人は首を横に振った。


「いけません」


「なぜだ」


「思い出してはいけないのです」


「何を?」


「門番のことを。境界村のことを。あの日のことを」


老人は、両手で頭を抱えた。


「思い出せば、また世界が分かれてしまう」


その言葉と同時に、村の中央にある大樹が、ざわりと揺れた。


風は吹いていなかった。


枝も、葉も、動く理由はない。


しかし、木の幹に刻まれた古い傷から、黒い液体が一滴、地面へ落ちた。


ロウは、その木を見た。


幹の表面には、何かを削り取った跡があった。


文字が刻まれていたのだろう。


しかし、今は何も残っていない。


「……あの木は?」


老人は、顔を上げた。


「村の守り木です」


「いつからある?」


「わかりません。村ができたときから、ずっとあります」


「村ができたのは、いつだ」


老人は答えようとした。


だが、口を開いたまま、固まった。


「……いつ、だったか」


彼は、困惑した顔で周囲を見た。


「いつから、ここに村があるんだ?」


村人たちは、互いに顔を見合わせた。


誰も答えられなかった。


ロウは、オスカーに目配せした。


オスカーは、すぐに記録を始めた。


「村の成立年代について、住民は回答不能。守り木は村の成立以前から存在するとの伝承があるが、具体的な年代は不明……」


彼は、書き終えた文章を読み返した。


そして、顔を上げた。


「……隊長」


「何だ」


「今、私は何を書いたのでしょう?」


ロウは、彼の記録板を見た。


そこには、文字が残っていた。


しかし、オスカーには、その文字が読めなくなっていた。


「……村の成立年代について、住民は回答不能。守り木は……」


彼は、途中で言葉を切った。


「すみません。読めるのに、意味がわかりません」


ロウは、記録板を受け取った。


文章は、普通に読める。


だが、オスカーは、そこに書かれた内容を理解できない。


「書いた内容が、記憶から切り離されているのか……」


ミラが、オスカーの手首に触れた。


「痛みはある?」


「ありません」


「頭痛は?」


「ありません。ただ、自分が何を調べていたのか、少しずつわからなくなっています」


ミラは、ロウを見た。


「ここは危険よ。村全体が、第四の扉と同じ現象に巻き込まれている可能性がある」


ロウは頷いた。


「全員、二人一組で行動しろ。調査した内容は、必ず別の人間にも確認させる。記録を取ったら、声に出して読み上げる。読み上げた内容を相手が理解できない場合は、そこで調査を中断する」


セラが村人たちを見渡した。


「村の外へ出たほうがよいのでは?」


「まだ判断できない。村を離れれば症状が止まるのか、それとも、村を離れることで別の何かが起きるのか、わからない」


ロウは、最初の老人に向き直った。


「あなたの名前を教えてくれ」


老人は、口を開いた。


「私は……」


沈黙。


老人は、自分の胸元を押さえた。


「……私は、誰だった?」


その瞬間、ロウは理解した。


これは、ただの記憶喪失ではない。


名前と記憶の結びつきが、村全体で崩れている。


しかも、第四の扉の記録が消え始めた時期と、何らかの関係がある。


ロウは、老人の肩に手を置いた。


「あなたが自分の名前を思い出せなくても、あなたがここで生きてきた事実は消えない」


老人は、ロウを見つめた。


「……あなたは、誰なのですか」


ロウは、もう一度答えた。


「ロウ・テュユール。黒門砦の隊長だ」


老人は、涙を流した。


「……あの人も、そう名乗っていました」


「誰が?」


老人は、村の中央にある大樹を見た。


「門番です」


そして、彼は呟いた。


「門番は、最後まで自分の名前を思い出せなかった」


3.二つの世界を描いた地図

村長の家には、古い木箱が保管されていた。


村の歴史を記した帳簿や、土地の境界を示す古地図、先祖の名前を記録した家系図などが入っているという。


ロウたちは、村長の許可を得て、それらを調べることにした。


問題は、村長自身が、自分の家系についてほとんど説明できなくなっていたことだった。


「私の祖父は、村の歴史をよく知っていました」


村長は、木箱の蓋を開けた。


「子供のころ、よく聞かされたものです。村は、二つの世界の境目にある。だから、どちらの世界にも属さない。そういう話でした」


「二つの世界とは?」


「人間の世界と、魔物の世界です」


「昔から、そう教わっていたのですか」


「ええ」


村長は、古い帳簿を取り出した。


「ただ、祖父は、いつも最後にこう付け加えていました」


彼は、目を伏せた。


「『昔は、そんなふうに分かれていなかった』と」


ロウは、帳簿を受け取った。


「詳しく話してくれ」


「それ以上は、わかりません。祖父は、その話をすると、いつも泣いていました」


村長は、木箱の底から、一枚の古地図を取り出した。


紙は黄ばんでいた。


端が破れ、ところどころに水の染みがある。


しかし、地図そのものは、驚くほど鮮明だった。


そこには、現在の北部地域とよく似た地形が描かれていた。


山脈。


森。


平原。


河川。


そして、中央を横切る一本の線。


その線の両側に、異なる文字が記されていた。


左側には、人間。


右側には、魔物。


ロウは、地図を見つめた。


「これは、いつの地図だ?」


「わかりません。ただ、村の古い記録では、最も古い地図とされています」


ユリウスが、地図を覗き込んだ。


「……これは、通常の地図ではないな」


「どういうことです?」


「地形の描き方が違う。山や川の位置を示しているようで、実際の距離や方角が正確ではない」


老人は、中央の線を指した。


「この線は、国境ではない。もっと根本的なものだ」


「世界の境界、ということですか」


「そうかもしれない」


ユリウスは、地図を慎重に持ち上げた。


「興味深いのは、この線が、地形に従っていないことだ。山脈を横切り、川を分断し、森の中を直線的に走っている。自然の境界ではない」


ロウは、地図の両側を見比べた。


人間側にも、森がある。


魔物側にも、森がある。


人間側にも、川がある。


魔物側にも、川がある。


そして、両側には、同じ形の村がいくつも描かれていた。


「……同じ場所に、二つの村がある」


ミラが呟いた。


「違う村ではありません」


ロウは、地図を指した。


「この村の位置を見てくれ。左側と右側に、同じ形の建物が描かれている。井戸も、広場も、家の並びも同じだ」


「同じ村を、二つに描いた?」


「そうかもしれない」


ロウは、中央の線を見つめた。


「あるいは、同じ村が二つの世界に存在していた」


その言葉に、全員が沈黙した。


人間と魔物が、同じ場所に存在する。


同じ村に暮らし、同じ井戸を使い、同じ広場で子供たちが遊ぶ。


それは、現在の常識では考えられないことだった。


だが、この地図は、それを示しているように見えた。


ユリウスが、地図の裏側を確認した。


「……文字がある」


そこには、短い文章が記されていた。

世界は、初めから二つだったのではない。


二つであると、定められたのである。


ロウは、その言葉を読み返した。


二つであると、定められた。


人間と魔物が、最初から別々だったのではない。


誰かが、二つに分けた。


「誰が、こんなことをしたんだ?」


セラが言った。


ユリウスは、首を横に振った。


「この地図だけでは、わからない」


「魔王が?」


「可能性はある。王国の創始者かもしれない。あるいは、もっと古い存在かもしれない」


「人間と魔物を分けることで、何を得る?」


ミラが尋ねた。


「支配。安全。資源。あるいは、戦争を終わらせること」


ユリウスは、考えられる可能性を挙げた。


「境界を作れば、互いの領域を分けられる。領域が分かれれば、責任の所在を明確にできる。誰が味方で、誰が敵なのかを決めることもできる」


「しかし、その結果、何が失われたのかはわからない」


ロウは、地図の中央に指を置いた。


「この線が引かれる前に、何があったのか。それを知る必要がある」


村長が、突然、声を上げた。


「……思い出しました」


全員が振り向いた。


村長は、地図を見つめていた。


「祖父が、話してくれたことがあります」


「何を?」


「世界が二つに分かれた日。人間と魔物が、互いを別の存在だと認識した日。その日、村には大きな鐘があったそうです」


「鐘?」


「ええ。村の中央にある守り木のそばに、古い鐘が吊るされていた。人間も魔物も、同じ鐘の音を聞いて暮らしていた」


村長は、顔を上げた。


「そして、ある日、その鐘が鳴った」


「何が起きたんです?」


「祖父は、こう言っていました」


村長の声が、震えた。


「『鐘が鳴った瞬間、隣にいた者が、知らない生き物に見えた』と」


ロウは、息を呑んだ。


「隣にいた者?」


「人間の隣にいた魔物が、突然、恐ろしい怪物に見えた。魔物の隣にいた人間が、得体の知れない侵入者に見えた。お互いが、相手を知らない存在だと思い込んだ」


村長は、両手で顔を覆った。


「祖父は、そのときのことを、何度も語っていました。自分の母親が、目の前で人間ではないものに見えたと」


「……母親?」


「祖父の母親は、人間だったそうです。父親は、魔物だった。二人は一緒に暮らしていた。しかし、鐘が鳴ったあと、祖父の母親は、父親を見て叫んだ」


村長は、泣いていた。


「『怪物がいる』と」


その言葉が、ロウの胸に突き刺さった。


人間と魔物が、互いを別の存在だと認識するようになった。


それは、肉体が変化したからなのか。


記憶が書き換わったからなのか。


あるいは、世界そのものが、二つに分かれたからなのか。


「その鐘は、どこにある?」


ロウは尋ねた。


村長は、村の中央を指した。


「守り木の中に、埋められているそうです」


ロウは、窓の外を見た。


村の中央に立つ大樹。


幹に刻まれた、文字を削り取った跡。


その内側に、鐘がある。


百四十七年前の記録よりも古いもの。


世界が二つに分かれる以前から存在していたかもしれないもの。


「案内してくれ」


ロウは言った。


「その鐘を、見せてほしい」


村長は、震える手で杖を握りしめた。


「……ですが、鐘は鳴らしてはいけない」


「なぜだ」


村長は、ロウを見た。


「祖父は、最後にこう言っていました」


彼は、かすれた声で答えた。


「『あの鐘は、世界を二つに分けた鐘ではない。世界が一つだったことを、忘れさせる鐘だ』と」


4.守り木の中に埋められた鐘

守り木は、村の中央に立っていた。


幹の太さは、大人が六人で手をつないでも囲みきれないほどだった。枝は家々の屋根を越え、村の広場を覆うように伸びている。


葉は深い緑色だった。


季節を考えれば、少し不自然なほどに。


周囲の木々は秋の色に変わり始めているのに、この木だけは、春の盛りにあるかのように青々としていた。


「この木は、何の木なんですか?」


ミラが村長に尋ねた。


「わかりません。祖父も知らなかったそうです。村では守り木と呼んでいますが、本当の名前は伝わっていません」


「いつから、ここにあるんです?」


「村ができる前から、と聞いています」


ロウは、幹の表面を見た。


そこには、いくつもの傷があった。


斧でつけたような傷。


刃物で削ったような傷。


そして、何かを刻み込んだあと、無理やり削り取ったような跡。


ロウは、その一つに手を触れた。


指先に、かすかな振動が伝わった。


木の内部からだ。


「……中に何かある」


セラが剣を抜いた。


「生き物ですか?」


「わからない。だが、ただの木ではない」


ミラが、幹に耳を近づけた。


「音がする」


「どんな音だ?」


「……誰かが、話しているような音」


彼女は目を閉じた。


「声ではないわ。言葉になる直前の、何か。たくさんの人間が、同時に話しているような……」


その瞬間、木の幹に刻まれた傷が、淡く光った。


村長が悲鳴を上げた。


「やめてください!」


ロウたちは振り返った。


「何が起きるんです?」


「木が……」


村長は後ずさった。


「木が、目を覚ましてしまう」


その言葉に応えるように、枝が揺れた。


風は吹いていない。


幹の表面に、細い亀裂が走る。


木の内側から、何かが押し広げようとしている。


「全員、下がれ!」


ロウが叫んだ。


セラが村人たちを遠ざけ、護衛二人が広場の入口を封鎖する。


ミラとオスカーは、ロウの後ろへ下がった。


亀裂は、幹の中央へ向かって伸びていった。


そして、木の表面が、ゆっくりと左右に開いた。


中から現れたのは、金属の鐘だった。


大人の胴体ほどもある、黒ずんだ鐘。


表面には、文字が刻まれている。


しかし、文字は人間のものでも、魔物のものでもなかった。


文字というより、何かを区別するための印。


同じ形が何度も繰り返され、その間に、見たことのない記号が挟まっている。


鐘の表面には、細い亀裂があった。


その亀裂から、黒い液体が滴っている。


ロウは、鐘を見つめた。


「……これが、世界を二つに分けた鐘か」


「違います」


村長が、震える声で答えた。


「祖父は、違うと言っていました」


「なら、何の鐘だ」


村長は、首を振った。


「わかりません。ただ……」


彼は、鐘の表面にある、一つの記号を指した。


「その印だけは、祖父が教えてくれました」


「何と?」


「『最初の名前』と」


ロウは、鐘に近づいた。


その記号を見た瞬間、胸の奥でアベルが叫んだ。


『兄さん、触らないで!』


ロウの手が止まった。


『何がある?』


『……わからない。でも、これは、僕が知っているものだ』


アベルの声は、激しく震えていた。


『僕が生まれる前から、ずっと知っている』


「……アベル」


ロウは、小さく呟いた。


『それは、何なんだ?』


長い沈黙があった。


そして、アベルは答えた。


『僕の名前を、決めたもの』


ロウは、鐘を見つめた。


名前を決めたもの。


それは、誰かが名前を与えたということなのか。


それとも、名前という概念そのものを作ったものなのか。


「ミラ。オスカー。鐘の表面を記録してくれ。文字を解読するのは、まだ待て。まず、見たままを写すんだ」


「わかったわ」


ミラが記録用紙を取り出した。


オスカーは、鐘の表面を写し始めた。


そのとき、村の子供が一人、広場に駆け込んできた。


「お母さん!」


小さな女の子だった。


十歳にも満たない。


彼女は、村長の背後に隠れていた母親へ走り寄った。


「お母さん、どうしたの?」


母親は、女の子を見た。


そして、悲鳴を上げた。


「……怪物!」


母親は、娘を突き飛ばした。


女の子が、地面に倒れた。


「お母さん?」


女の子は、何が起きたのかわからない様子で、母親を見上げていた。


母親は、震える手で、近くにあった棒を拾った。


「来ないで!」


「お母さん、私だよ!」


「化け物! 私の娘をどこへやった!」


女の子は、泣き出した。


ロウは、すぐに二人の間へ入った。


「やめろ!」


母親は、ロウを見た。


その瞬間、彼女の顔がさらに青ざめた。


「……門番」


彼女は棒を落とした。


「門番が来た」


そして、頭を抱えた。


「また、世界が分かれる……!」


広場の空気が変わった。


鐘の表面が、赤黒く光った。


ロウは、鐘から目を離せなかった。


音は鳴っていない。


誰も、鐘を叩いていない。


それなのに、何かが始まっていた。


村人たちが、一人、また一人と、隣にいる人間を見て叫び始めた。


「誰だ、お前は!」


「化け物がいる!」


「逃げろ!」


「私の夫はどこだ!」


「母さん、どうして僕を見てくれないの?」


混乱が広がった。


隣にいる者が、突然、知らない存在に見えている。


家族が、友人が、隣人が。


互いを認識できなくなっている。


そして、その変化は、ロウたちにも及び始めた。


護衛の一人が、もう一人へ剣を向けた。


「お前……いつから、そこにいた?」


「何を言っている。俺だ!」


「違う。お前は、俺の仲間じゃない!」


セラが、二人の間へ割って入った。


「剣を下ろせ!」


「隊長、こいつは……!」


護衛の目が、セラを見た。


その瞬間、彼の顔に恐怖が浮かんだ。


「……狼だ」


彼は、セラを指さした。


「狼が、人間の服を着ている!」


セラは、一瞬、動きを止めた。


ロウは、すぐに彼女の前へ出た。


「セラは人間だ。お前の同僚だ」


「違う!」


護衛は叫んだ。


「違う、違う、違う! そんなものが人間のはずがない!」


彼の目には、セラの姿が別のものに見えているらしかった。


ロウは、彼の肩をつかんだ。


「俺を見ろ!」


護衛が振り向く。


「お前は、何者だ」


ロウは、はっきりと言った。


「ロウ・テュユール。黒門砦の隊長だ」


護衛は、ロウの顔を見つめた。


そして、震える声で呟いた。


「……門番」


ロウの胸が冷たくなった。


彼もまた、ロウを門番と認識している。


そのとき、鐘が鳴った。


誰も触れていない。


誰も、動かしていない。


それでも、鐘は鳴った。


低く、長い音だった。


音は耳から入るのではなかった。


頭蓋の内側から響いてくる。


骨の奥。


記憶の底。


名前を与えられるよりも前の、何もかもが形を持つ前の場所から。


そして、鐘の音が消えた瞬間。


ロウは、自分の手を見た。


指が五本ある。


傷もある。


爪もある。


自分の手だ。


そう思った。


しかし、次の瞬間、別の考えが浮かんだ。


――本当に、これは自分の手なのか。


ロウは息を呑んだ。


それは、疑問というより、世界から押しつけられた認識だった。


自分の身体が、自分のものであるという事実。


目の前の人間が、人間であるという事実。


隣にいる者が、同じ世界に存在するという事実。


その一つひとつが、突然、確かなものではなくなっていた。


鐘の音が、もう一度響いた。


今度は、もっと遠くから。


そして、ロウは見た。


守り木の周囲に、もう一つの村が重なっている。


同じ家。


同じ広場。


同じ井戸。


しかし、そこにいるのは、人間だけではなかった。


人間の隣に、獣のような姿をした者がいる。


角を持つ者。


鱗を持つ者。


人間と変わらない姿の者。


彼らは、人間と一緒に暮らしていた。


食事をし、笑い、喧嘩をし、子供たちを叱っていた。


同じ世界にいた。


同じ場所にいた。


そして、その光景の中央に、一人の女性が立っていた。


黒い髪。


疲れた目。


穏やかな顔。


ロウは、その顔を知っていた。


「……母さん?」


女性が、振り向いた。


彼女は、ロウを見た。


そして、悲しそうに微笑んだ。


「ロウ」


母親の声だった。


間違いない。


しかし、その声が聞こえた瞬間、世界が二つに割れた。


人間たちは、隣にいた者を恐れ始めた。


魔物たちは、人間を見て、武器を手に取った。


誰もが、相手を知らない存在だと思い込んでいた。


「怪物だ!」


「人間がいる!」


「どうして、ここにいる!」


「殺される!」


叫び声が広がる。


母親は、ロウへ手を伸ばした。


「見ないで」


その声は、悲痛だった。


「ロウ。お願い。まだ、見ないで」


だが、ロウは見てしまった。


母親の背後に、一人の男が立っている。


ロウと同じ顔。


同じ目。


同じ立ち姿。


ただし、その男は、ロウよりもずっと若かった。


男は、母親の手を握っていた。


そして、ロウへ向かって、口を動かした。


声は聞こえなかった。


それでも、ロウには、何と言ったのかわかった。


――お前は、ここに残れ。


世界が、白く染まった。


ロウは、膝をついた。


鐘の音が止んでいた。


村人たちの叫び声も、遠くなっていた。


セラが、彼の肩をつかんだ。


「隊長!」


ロウは、顔を上げた。


目の前には、守り木がある。


鐘は、再び木の内部へ沈み始めていた。


村人たちは、地面に倒れたり、互いを抱きしめたりしている。


誰もが、何が起きたのかわからない様子だった。


ロウは、母親の姿を探した。


そこには、誰もいなかった。


ただ、守り木の幹に、新しい文字が刻まれていた。


『第一回境界固定、失敗』


その下に、別の文字が浮かび上がった。


『世界分離まで、残り零日』


そして、最後に。


『管理者エリナ・テュユール、観測継続』


ロウは、文字を見つめた。


世界が二つに分かれた日。


それは、過去の出来事ではなかった。


何かが、今もなお、その日を繰り返そうとしている。


そして、母親は、その出来事を観測し続けている。


どこか、境界の外側で。


5.見えるものが、真実とは限らない

「全員、無事か!」


ロウの声に、セラが周囲を確認した。


「護衛二名、無事です。ミラもオスカーも……ユリウス殿は?」


「ここにいる」


老人は、地面に膝をついていた。


顔色は悪い。


しかし、意識ははっきりしているようだった。


「……見たかね?」


ユリウスが尋ねた。


「何を?」


「世界が分かれる前の光景を」


ロウは、答えられなかった。


見た。


確かに見た。


人間と魔物が同じ村で暮らしていた。


そして、何かをきっかけに、互いを別の存在として認識するようになった。


だが、あれは本当に過去の光景だったのか。


鐘が見せた幻覚なのか。


ロウの記憶なのか。


あるいは、世界そのものに刻まれた出来事を、彼らが一時的に観測しただけなのか。


「……ユリウスさん」


「何だね」


「あなたは、あの光景をどう解釈しますか」


老人は、しばらく考えた。


「わからない」


彼は、正直に答えた。


「だが、少なくとも、あれは単純な幻覚ではないと思う」


「なぜです?」


「君たち全員が、同じ光景を見たとは限らないからだ」


ロウは眉をひそめた。


「どういう意味です?」


ユリウスは、地面に落ちていた記録板を拾い上げた。


オスカーが書いた記録だった。


しかし、その内容は、ロウが見たものと一致していなかった。

午後、守り木の内部から鐘を発見。


鐘の音が響いた直後、村人の一部が混乱。


村人同士の争いが発生。


ロウ隊長は、鐘の近くで意識を失った。


その後、守り木の内部から鐘が消失。


「……これは、何だ?」


ロウは、オスカーを見た。


「お前は、何を見た?」


オスカーは困惑していた。


「鐘が鳴ったことは覚えています。村人たちが混乱したことも。しかし……」


彼は、記録板を見た。


「私は、世界が二つに分かれる光景を見ていません」


「母さんの姿は?」


「見ていません」


「同じ村に人間と魔物が暮らしている光景は?」


「……何のことです?」


ロウは、ミラを見た。


彼女は、ゆっくりと首を振った。


「私も、同じ光景は見ていないわ」


「では、何を見た?」


ミラは、言葉を選んだ。


「私は、鐘が鳴った瞬間、村人たちの表情が変わるのを見た。そして、彼らが互いを知らない存在だと認識し始めたことも」


「それだけか」


「いいえ」


ミラは、ロウを見た。


「あなたが、誰かに向かって手を伸ばしているのを見た」


ロウは息を呑んだ。


「誰に?」


「わからない。あなたの目には、誰かが見えていたようだった。でも、私には何も見えなかった」


セラも、頷いた。


「私も同じです。隊長は、誰かに話しかけていました」


「何と言っていた?」


「『母さん』と」


ロウは、目を伏せた。


彼だけが、母親の姿を見た。


彼だけが、世界が二つに分かれる光景を見た。


それは、なぜなのか。


血筋のせいか。


名前の返還に関わっているからか。


それとも、彼が門番と同じ顔を持っているからか。


「……ロウ」


胸の奥で、アベルが囁いた。


『僕も、見たよ』


ロウは、息を止めた。


『お前も?』


『うん』


『何を見た?』


アベルは、少しだけ黙った。


『母さんを』


ロウは、周囲を見た。


誰も、彼の内側の会話には気づいていない。


『お前の母親か?』


『……わからない』


アベルは、静かに答えた。


『でも、僕はあの人を知っている』


『どうして?』


『あの人が、僕に名前をつけたから』


ロウの心臓が、強く脈打った。


『アベルという名前を?』


『違う』


その答えは、はっきりしていた。


『アベルという名前は、あとからつけられたものだ』


ロウは、言葉を失った。


『では、お前の本当の名前は?』


『……思い出せない』


アベルの声が、震えた。


『でも、あの人は僕に、別の名前をくれた。僕が生まれる前に』


ロウは、目を閉じた。


『それが、最初の名前か』


『たぶん』


アベルは、ゆっくりと続けた。


『でも、僕がその名前を持った瞬間、誰かが僕のことを忘れた』


『誰が?』


『わからない。でも、僕はその人のことを知っている』


『どんな人だ』


アベルは、しばらく黙っていた。


そして、小さな声で答えた。


『……兄さんに、似ていた』


ロウは、目を開いた。


門番。


名前を失った兄。


エドリック・ヴェイン。


そして、自分と同じ顔をした男。


それぞれの関係は、まだわからない。


しかし、少なくとも、名前を与えることと、名前を失うことが、誰かの存在を支える仕組みになっているらしい。


誰かが名前を得る。


誰かが名前を失う。


そのたびに、世界の認識が変わる。


そして、世界の認識が変わるたびに、何かが生まれ、何かが消えていく。


「……アベル」


『うん』


「お前は、生まれたいか?」


その問いに、アベルは迷わなかった。


『生まれたい』


ロウは、ゆっくりと頷いた。


「なら、俺はその願いを否定しない」


『……うん』


「だが、お前が生まれるために、誰かが消えなければならないというのなら、俺はその仕組みを疑う」


アベルは、答えなかった。


しかし、ロウの胸の奥に、かすかな温かさが広がった。


ロウは、現実へ意識を戻した。


村人たちは、少しずつ落ち着きを取り戻し始めていた。


しかし、彼らの記憶は混乱していた。


自分の家族を、別の存在だと思い込んだ者。


隣人を、怪物だと認識した者。


自分自身の名前を思い出せなくなった者。


そして、誰かを傷つけたことを覚えているのに、誰を傷つけたのか思い出せない者。


ミラは、村人たちの状態を確認していた。


「今のところ、肉体的な変化はないわ。ただし、認識に異常が出ている。自分と他人の区別はできているのに、相手が何者なのかを判断する基準が変わっている」


「治療できるか?」


「原因がわからない以上、確実な方法はない。ただ、落ち着かせることはできる。本人の記憶を否定せず、実際に起きたことを一つずつ確認するしかないわ」


ロウは、頷いた。


「それでいい。誰かを怪物だと認識したからといって、その人間を怪物として扱うな。逆に、誰かを人間だと認識したからといって、その人間が安全だと決めつけるな」


セラが、彼を見た。


「認識と事実を分ける、ということですね」


「そうだ」


ロウは、守り木を見た。


「見えているものが真実とは限らない。だが、見えたものを最初から嘘だと決めつけるのも間違いだ」


彼は、鐘が消えた場所に近づいた。


木の内部には、空洞が残っていた。


その奥に、何かが刻まれている。


ロウは、手を伸ばした。


そして、木の内側に刻まれた文字を読み取った。

第一境界管理者、記録開始。


観測対象:人間、魔物、未分類存在。


目的:同一世界における共存可能性の確認。


ロウは、息を呑んだ。


人間と魔物を分けるためではない。


同じ世界で共存できるかどうかを確かめるため。


それが、最初の境界管理者の目的だった。


だが、その下に記された文章は、さらに奇妙だった。

観測結果:不一致。


原因:存在の分類が、観測者の認識によって変化する。


対策:認識を固定する。


代償:世界の分離。


ロウは、文字を見つめた。


世界を分けることは、目的ではなかった。


対策だったのだ。


人間と魔物が、同じ世界に存在できない。


そう判断されたから、世界を二つに分けた。


しかし、その判断は正しかったのか。


本当に共存できなかったのか。


それとも、共存できるかどうかを確かめるための条件そのものが、間違っていたのか。


ロウは、最後の一文を読んだ。

管理者エリナ・テュユール、異議申し立て。


世界を分離する前に、観測者を分離すべきではないか。


ロウの手が止まった。


母親は、世界を分けることに反対していた。


少なくとも、無条件に分離することを受け入れてはいなかった。


そして、その異議申し立ては、記録に残されている。


しかし、世界は二つに分かれた。


なぜなのか。


母親は、その決定を覆せなかったのか。


それとも、分離を止めるために、別の何かを選んだのか。


ロウは、木の内側に刻まれた最後の文字を見つけた。


そこには、短い一文があった。


『観測者の分離、開始』


その下に、名前が記されていた。


エリナ・テュユール。


そして、もう一つ。


ロウ・テュユール。


ロウは、息を止めた。


自分の名前が、百四十七年前の記録にある。


彼が生まれるよりも前の記録に。


「……どういうことだ」


彼は、木の内側を見つめた。


名前の横には、別の記述があった。

観測者二名を、同一の記録に登録。


一名は境界の内側へ。


一名は境界の外側へ。


両者の記憶は、相互に接続しない。


再接続条件:第四の扉。


ロウは、ゆっくりと手を引いた。


自分の名前が、百四十七年前の記録にある。


それは、単なる予言ではない。


名前の登録。


観測者の分離。


記憶の非接続。


そして、第四の扉による再接続。


ロウは、自分が何者なのか、ますますわからなくなった。


彼は、母親の子供として生まれた。


そう信じてきた。


しかし、もしも彼の名前が、彼が生まれるより前から記録されていたのなら。


母親は、何を知っていたのか。


そして、彼は本当に、ただの一人の人間として生まれたのだろうか。


それとも、誰かが世界を分けたとき、その境界の内側に配置された存在なのだろうか。


「隊長」


セラが呼んだ。


ロウは、振り返った。


「……何だ」


「何か、わかったのですか」


ロウは、しばらく考えた。


そして、答えた。


「わかったことはある。だが、答えはまだない」


彼は、守り木の内側に刻まれた文字を、もう一度見た。


「俺たちは、世界が二つに分かれた理由を探していた。だが、本当は、世界を二つに分けるという決定が、誰によって、どんな条件で下されたのかを調べなければならない」


セラは、静かに頷いた。


「その決定を下した者が、間違っていた可能性もある」


「そうだ」


ロウは、村の外へ目を向けた。


「だが、正しかった可能性もある。人間と魔物が同じ世界にいたことで、何が起きたのか。誰が傷つき、誰が救われ、誰がその分離を望んだのか。それを知らずに、世界を一つに戻すことだけを目的にするわけにはいかない」


彼は、ゆっくりと続けた。


「共存は、ただ境界をなくせば実現するものじゃない。境界をなくした結果、誰かが再び傷つくのなら、その傷をどう防ぐのかまで考えなければならない」


ミラが、彼の隣に立った。


「それでも、最初から共存できないと決めつける必要はないわ」


「そうだな」


ロウは、頷いた。


「だから、調べるんだ」


そのとき、守り木の内部から、かすかな音がした。


コツン。


誰かが、木の内側を叩いたような音。


ロウたちは、振り向いた。


空洞の奥に、小さな光が浮かんでいた。


それは、文字だった。


新たな記録が、木の内側に刻まれていく。

第一境界管理者、観測を終了。


第二境界管理者、観測を開始。


ロウは、その文字を見た。


そして、その下に、もう一つの名前が浮かび上がった。


アベル。


胸の奥で、アベルが息を呑んだ。


『……僕だ』


ロウは、声を失った。


『兄さん。僕の名前がある』


「……どうしてだ」


『わからない。でも……』


アベルの声が震えた。


『僕は、ここにいたんだ』


その言葉は、ロウの胸に深く沈んだ。


アベルは、まだ生まれていない。


そう言っていた。


しかし、百四十七年前の記録には、彼の名前がある。


世界が分かれる以前から。


境界が作られる過程の中で。


アベルは、すでに観測対象として登録されていた。


そして、その記録の最後には、こう記されていた。


『第二境界管理者、未出生。観測継続。』


ロウは、ゆっくりと目を閉じた。


アベルは、まだ生まれていない。


だが、世界は、彼が生まれることを前提にしている。


その矛盾こそが、第四の扉の向こうにある何かなのかもしれなかった。


6.世界が分かれた理由

日が暮れるまでに、灰枝村の混乱はひとまず収まった。


ミラは村人たちを一人ずつ診察し、名前と記憶の状態を記録した。


完全に自分の名前を忘れた者は三人。


家族を一時的に認識できなくなった者は十一人。


鐘が鳴ったときの記憶が残っている者は、村人の半数にも満たなかった。


そして、奇妙なことに、混乱の最中に誰かを怪物と認識した者ほど、そのときの記憶を鮮明に覚えていた。


「忘れたい出来事ほど、強く残っているように見える」


ミラは、ロウに報告した。


「ただし、これは単純な心理的反応では説明できないわ。本人の認識が変わった瞬間、周囲の人間の記憶まで影響を受けている可能性がある」


「家族を怪物だと思った者が、その家族を傷つけた場合は?」


「その行為自体は現実に起きている。でも、本人が相手を何だと思っていたかという記憶は、あとから変化することがある」


「では、責任はどうなる?」


ミラは、少しだけ黙った。


「認識が変わったからといって、傷つけられた側の被害が消えるわけじゃない。本人が何を認識していたのか、どこまで自分の行動を制御できたのか、それを調べなければ判断できない」


「そうだな」


ロウは、広場の向こうを見た。


母親に突き飛ばされた少女は、今、母親の隣に座っていた。


母親は、何度も娘の顔を確かめていた。


「……あなたは、本当に私の娘なの?」


少女は、涙を拭った。


「うん」


「私のことを覚えている?」


「うん」


「私が、あなたを傷つけたことも?」


少女は、母親の手を握った。


「覚えているよ」


母親は顔を覆った。


「ごめんなさい……」


少女は、しばらく黙っていた。


やがて、静かに答えた。


「お母さんが、私を怪物だと思ったことは、なくならないよ」


母親の肩が震えた。


「でも、今、私のことを娘だと思っていることも、本当でしょう?」


母親は、何度も頷いた。


「だったら、これから、どうするかを考えよう」


少女は、母親の手を握り続けた。


ロウは、その姿を見ていた。


境界をなくせば、すべてが解決するわけではない。


認識が変われば、誰かを傷つけることもある。


だが、傷つけたという事実があるからといって、その後の関係まで、最初から決められてしまうわけでもない。


過去をなかったことにはできない。


しかし、過去だけで未来を決める必要もない。


それは、ロウがアベルに伝えたことと、同じだった。


「隊長」


ユリウスが、隣に立った。


「ひとつ、気になることがある」


「何です?」


「木の内部に刻まれていた記録だ。第一境界管理者、第二境界管理者という表現があった」


「はい」


「もし、境界管理者が単なる役職なら、第一、第二という番号がつくのは不自然ではない。しかし、記録の書き方を見る限り、あれは人間の管理者を数えているのではない」


「では、何を数えているんです?」


「世界の状態かもしれない」


ロウは、老人を見た。


「世界の状態?」


「第一境界管理者が観測を終了し、第二境界管理者が観測を開始した。そう記されていた。つまり、世界が分離する過程そのものを、段階ごとに記録している可能性がある」


ユリウスは、守り木を見た。


「第一の状態では、世界は一つだった。第二の状態では、世界が二つに分かれた。あるいは、その逆かもしれない」


「アベルが第二境界管理者として記録されているのは?」


「わからない。ただ、彼がまだ生まれていないという記述がある以上、通常の意味での管理者ではないのだろう」


ロウは、胸の奥に意識を向けた。


『アベル』


『うん』


『お前は、自分が何をするために生まれるのか、知っているか?』


『……わからない』


アベルは、正直に答えた。


『でも、僕は世界を二つに分けるために生まれるんじゃないと思う』


『なぜだ?』


『だって、僕が生まれる前から、世界はもう二つに分かれているんでしょう?』


ロウは、息を止めた。


『……そうだな』


『だったら、僕が生まれることには、別の意味があるはずだ』


アベルの声に、少しだけ力が戻った。


『僕は、その意味を知りたい』


ロウは、静かに頷いた。


「……俺もだ」


「何か?」


ユリウスが尋ねた。


「いえ」


ロウは、胸の奥に手を当てた。


「まだ、わからないことが多すぎるだけです」


ユリウスは、微笑んだ。


「それでいい。わからないことがあると認められる人間のほうが、わかったつもりになっている人間より、よほど信用できる」


そのとき、セラが駆け寄ってきた。


「隊長。村の北側で、妙なものが見つかりました」


「何だ?」


「古い墓地です。村の記録には、存在しないことになっています」


ロウは、顔を上げた。


「案内してくれ」


7.墓地に並ぶ、二つの名前

墓地は、村の北側にある森の入口にあった。


低い石垣に囲まれた、小さな場所だった。


木々に覆われ、長いあいだ人が訪れていないように見える。


墓石は、全部で二十七基。


そのうち、十基ほどは倒れていた。


苔に覆われた石には、古い文字が刻まれている。


村長は、墓地の入口で足を止めた。


「……こんな場所があったとは」


「村の記録にはないのか?」


ロウが尋ねると、村長は首を振った。


「ありません。少なくとも、私が知る限りでは」


「先祖の墓では?」


「そうかもしれません。ですが、誰の墓なのか、わからない」


ロウは、最も近い墓石に近づいた。


そこには、二つの名前が刻まれていた。


一つ目は、人間の文字で書かれていた。


二つ目は、鐘の表面にあった記号とよく似ていた。


そして、二つの名前の間に、短い一文がある。

二つの名を持つ者、同じ場所に眠る。


ロウは、墓石を見つめた。


「……二つの名前?」


ユリウスが、別の墓石を調べた。


「こちらも同じだ」


その墓石には、人間の名前と、魔物の文字らしき記号が刻まれていた。


さらに、別の墓石。


そこにも二つの名前がある。


墓地のすべての墓石に、二つの名前が刻まれていた。


人間の名前と、もう一つの名前。


それは、単なる別名ではなかった。


一つ目の名前が、人間としての名前だとすれば、二つ目の名前は、別の存在としての名前だった。


「……同じ人間が、二つの名前を持っていたのか」


セラが呟いた。


「あるいは、二つの存在が、同じ墓に埋葬されているのかもしれない」


ユリウスは、慎重に答えた。


「どちらにしても、世界が二つに分かれる以前には、現在の分類とは違う形で、人間と魔物が認識されていた可能性がある」


ロウは、墓石の文字を見つめた。


そのとき、墓地の奥から、小さな声が聞こえた。


「……そこに、何をしているの?」


全員が振り向いた。


一人の少女が、木々の間に立っていた。


灰色の髪。


淡い色の瞳。


年齢は、十歳前後に見える。


少女は、ロウたちを警戒するように見つめていた。


「この墓地は、村の人間が入ってはいけない場所よ」


ロウは、剣から手を離した。


「君は、誰だ?」


少女は、少しだけ首を傾げた。


「……誰?」


「名前を教えてくれ」


少女は、困ったように笑った。


「名前は、ないわ」


その答えに、ロウは息を呑んだ。


名前のない少女。


彼女は、墓地の奥へ歩いていった。


そして、一つの墓石の前で立ち止まった。


「ここは、私のお墓」


彼女は、そう言った。


ロウは、墓石を見た。


そこには、二つの名前が刻まれていた。


一つ目の名前は、削り取られている。


二つ目の名前は、まだ残っていた。


その記号は、鐘の表面に刻まれていたものと同じだった。


少女は、墓石に手を触れた。


「私は、ここで死んだの」


「……いつ?」


「わからない」


「どうして?」


少女は、ロウを見た。


「私が死んだとき、世界が二つに分かれたから」


ロウは、少女を見つめた。


「君は、世界が二つに分かれた日を覚えているのか?」


「ええ」


「何があった?」


少女は、少しだけ考えた。


「人間が、魔物を怖がったの」


「それだけか?」


「魔物も、人間を怖がったわ」


少女は、墓石に頬を寄せた。


「みんな、怖かったの。自分が知らないものを見たから。昨日まで隣にいた人が、突然、知らない生き物に見えたから」


「なぜ、そんなことが起きた?」


少女は、首を振った。


「わからない」


その声は、ひどく静かだった。


「でも、みんな、自分が正しいと思っていた。自分が見たものが本当だと信じていた」


少女は、ロウを見た。


「あなたも、そうでしょう?」


ロウは、答えなかった。


少女は、微笑んだ。


「あなたは、私が見えるのね」


その言葉に、セラが反応した。


「どういう意味?」


少女は、セラを見た。


「あなたには、私は見えていない」


「……何?」


「あなたには、ここに誰もいないように見えているはず」


セラは、少女の立っている場所を見た。


そして、顔をしかめた。


「……何もいない」


ロウは、少女を見た。


確かに、セラには見えていない。


ミラも、オスカーも、ユリウスも、少女の存在を認識できていないようだった。


彼らの目には、墓地の奥に、ただ古い墓石があるだけに見えている。


少女は、ロウにだけ見えている。


それは、母親の姿を見たときと同じだった。


「君は、何者なんだ?」


ロウが尋ねると、少女は答えた。


「私は、世界が二つに分かれたとき、どちらの世界にも残れなかった者」


「……死者なのか?」


「そう呼ぶ人もいるわ」


「魔物なのか?」


「そう呼ぶ人もいる」


「人間なのか?」


少女は、少しだけ笑った。


「そう呼んでくれた人もいたわ」


ロウは、息を呑んだ。


少女は、墓石に刻まれた二つの名前を指した。


「名前は、誰かが決めるものよ。でも、名前を決めたからといって、その人が何者なのか、すべてが決まるわけじゃない」


彼女は、ロウを見た。


「あなたは、私を何と呼ぶの?」


ロウは、しばらく考えた。


彼女は、自分の名前を持っていないという。


だが、それは、彼女に名前が必要ないという意味ではない。


彼女が名前を失った理由も、まだわからない。


「……君が望む名前を教えてくれ」


ロウは言った。


「俺が勝手に決めることはできない」


少女は、目を見開いた。


そして、ゆっくりと笑った。


「……そう」


彼女は、墓石に刻まれた二つの名前を見つめた。


「なら、もう少しだけ考えるわ」


その瞬間、彼女の姿が揺らいだ。


ロウは、手を伸ばした。


「待て!」


少女は、最後に一言だけ残した。


「門番に伝えて」


「何を?」


「世界が二つに分かれたのは、誰かを守るためだった。でも、誰かを守るために、別の誰かを世界の外へ追い出していい理由にはならない」


彼女の姿が、消えた。


墓地には、誰もいなかった。


セラが、ロウの肩に手を置いた。


「隊長。今、誰と話していたのですか?」


ロウは、墓石を見つめた。


「……わからない」


「見えていたのですか?」


「そうだ」


「どんな姿でした?」


ロウは、言葉を選んだ。


「子供だった。名前のない子供だ」


ミラが、墓石を調べた。


「ここに、誰かがいた痕跡はあるわ。地面に、足跡のようなものが残っている。でも……」


彼女は、困惑した顔で続けた。


「足跡が、途中で消えている」


ロウは、墓石を見た。


そこには、まだ二つの名前が残っていた。


一つ目は、削り取られている。


二つ目は、読むことができない。


しかし、ロウには、なぜかその文字の意味がわかる気がした。


それは、名前ではなかった。


『境界の外に残された者』


ロウは、ゆっくりと目を閉じた。


世界が二つに分かれた日。


誰かが、世界の外へ追い出された。


その存在は、人間でも魔物でもなくなった。


そして、誰もが、その存在を忘れた。


だが、忘れられたからといって、存在しなくなったわけではない。


少女は、まだどこかにいる。


名前を失い、墓石に刻まれた自分の存在さえ、誰にも認識されないまま。


ロウは、彼女が消えた場所を見つめた。


そして、静かに呟いた。


「……俺は、忘れない」


その言葉に応えるように、墓石の表面が、かすかに光った。


削り取られた名前の跡に、一文字だけ、浮かび上がった。


「エ」


ロウは、息を呑んだ。


母親の名前の、最初の文字だった。


エリナ。


彼女は、世界が分かれた日から、ずっと何かを守ろうとしていた。


その何かは、まだ世界の外に残されている。


そして、ロウは、その存在を見つけなければならない。


だが、そのためには、第四の扉を開く必要があるのかもしれない。


あるいは、第四の扉を開かずに、そこへ至る方法を見つける必要があるのかもしれない。


ロウは、墓地を後にした。


その背後で、誰もいないはずの墓地から、小さな声が聞こえた。


「……ありがとう」


8.世界の外側から届いた手紙

夜、灰枝村の村長宅。


ロウたちは、守り木と古い墓地で得た情報を整理していた。


机の上には、三つの資料が並んでいる。


百四十七年前の境界施設の記録。


守り木の内部に刻まれていた境界管理者の記録。


そして、墓地にあった、二つの名前を持つ者たちの墓碑。


三つの資料は、異なる時代に作られたものだ。


しかし、そこには共通する言葉があった。


境界。名前。観測。


そして、第四の扉。


「まず、確認できた事実を整理しよう」


ロウは、机に両手をついた。


「一つ。人間と魔物が、かつて同じ場所で暮らしていたことを示す記録がある」


オスカーが頷いた。


「二つ。何らかの出来事を境に、人間と魔物が互いを別の存在として認識するようになった可能性が高い」


ミラが続けた。


「三つ。その認識の変化は、単なる偏見や恐怖では説明できない。実際に、記憶や認識に異常が生じている」


「四つ。世界を分離する仕組みには、名前と記憶が関係している」


ユリウスが言った。


ロウは、最後に、守り木の記録を指した。


「五つ。母さんは、世界の分離に異議を申し立てていた。そして、俺の名前は、俺が生まれる前の記録に存在している」


沈黙が落ちた。


それぞれの事実は、単独なら説明できるかもしれない。


しかし、すべてをつなげると、奇妙な結論にたどり着く。


ロウの存在そのものが、世界の分離に関係している。


彼は、ただの傍観者ではない。


「隊長」


セラが、机の上の資料を見た。


「ひとつ、疑問があります」


「何だ」


「世界を二つに分けることが、誰かを守るためだったとしましょう。それなら、なぜ今になって、その仕組みが崩れ始めているのでしょう?」


ロウは、答えなかった。


セラは続けた。


「門番が消えたことが原因なのか。第四の扉が消えたことが原因なのか。それとも、世界の分離そのものが、最初から長く維持できるものではなかったのか」


「どれも可能性はある」


「では、もう一つ」


セラは、ロウを見た。


「もしも世界を二つに分けたことで、何かを守ることができたのなら、今、その境界を壊すことによって、何が失われるのでしょう?」


その問いは、ロウが最も考えなければならないことだった。


世界を一つに戻す。


それは、一見すると、救いに見える。


人間と魔物が、互いを別の存在だと認識しなくなる。


境界の外に追い出された者たちが、再び世界に戻ってくる。


名前を失った者たちが、自分の名前を取り戻す。


しかし、それだけではない。


世界を分離することで防がれていた何かがあるのなら。


境界を失うことによって、それが再び起こるかもしれない。


人間と魔物が共存できなかったのは、単なる誤解だったのか。


それとも、共存を困難にする本当の理由があったのか。


ロウは、答えを急がなかった。


「世界を一つに戻すことを、目的にするつもりはない」


彼は言った。


「俺が知りたいのは、誰が、何のために、世界を分けたのか。そして、その決定によって、誰が守られ、誰が犠牲になったのかだ」


ミラが頷いた。


「その答えを知らなければ、同じことを繰り返す可能性があるわね」


「そうだ」


ロウは、資料をまとめた。


「世界を分けた理由が、正当なものだった可能性もある。誰かを守るために、避けられない選択だったのかもしれない」


彼は、墓地で出会った少女を思い出した。


名前のない子供。


世界の外側に残された者。


「だが、たとえ当時の選択に理由があったとしても、その結果として苦しんでいる者たちを、永遠に忘れていい理由にはならない」


その言葉に、誰も反論しなかった。


そのときだった。


窓の外から、羽ばたきの音が聞こえた。


一羽の黒い鳥が、窓枠に止まっていた。


鳥の脚には、小さな筒が結びつけられている。


王国の伝令鳥だった。


セラが窓を開け、鳥を保護した。


「王都からの伝令です」


ロウは筒を受け取った。


封印には、王国の軍務局の印章が押されている。


しかし、宛名を見た瞬間、ロウは眉をひそめた。


そこには、こう記されていた。


宛先:黒門砦・門番殿


差出人は、王国軍務局。


ロウは、封印を切った。


中には、一枚の手紙が入っていた。

黒門砦の門番殿。


貴殿が長年にわたり境界の維持に尽力してきたことについて、王国は深く感謝している。


しかし、境界固定機構の異常により、貴殿の役割が終了したことを確認した。


ついては、直ちに王都へ帰還し、後任者への引き継ぎを行われたい。


なお、後任者の選定はすでに完了している。


後任者:ロウ・テュユール。


ロウは、手紙を握りしめた。


「……何だ、これは」


セラが、手紙を覗き込んだ。


「軍務局からですか?」


「ああ」


「しかし、宛名が……」


「門番殿、だ」


ロウは、手紙の最後を見つめた。


後任者。


ロウ・テュユール。


彼が生まれる前の記録に、名前が存在していた。


母親は、彼が第四の扉へ近づくことを警告していた。


そして今、王国の軍務局は、ロウを門番の後任者として指名している。


それは偶然なのか。


それとも、王国そのものが、世界の分離に関係しているのか。


「……オスカー」


「はい」


「この手紙が、本当に王都から送られたものか確認しろ。印章、紙、筆跡、伝令鳥の記録。すべてだ」


「承知しました」


「ユリウスさん。王国記録院の記録で、門番という役職が正式に存在したことはありますか?」


老人は首を横に振った。


「少なくとも、現在の制度にはない」


「百四十七年前は?」


「その時代の記録にも、正式な役職としては存在していない」


ロウは、手紙を見つめた。


「では、なぜ軍務局が、門番の後任者を指名できる?」


ユリウスは、答えなかった。


その代わり、彼は手紙を裏返した。


そして、顔色を変えた。


「……これは」


裏面には、短い文章が記されていた。

世界分離の維持期限、終了。


境界管理者は、後任者に選択を委ねる。


人間の世界を残すか。魔物の世界を残すか。


両方を残す場合、第三の世界が生まれる。


ロウは、息を止めた。


第三の世界。


それは、何を意味するのか。


人間と魔物が、同じ世界に存在する世界なのか。


それとも、人間でも魔物でもない存在だけが暮らす世界なのか。


あるいは、現在の世界そのものが、まったく別の形に変わるということなのか。


「……選択を委ねる、だと?」


ロウは、手紙を机に置いた。


「誰が、そんな選択をする権利を与えた」


その瞬間、胸の奥でアベルが囁いた。


『兄さん』


『何だ』


『僕、思い出した』


ロウは、目を閉じた。


『何を?』


アベルは、静かに答えた。


『世界が二つに分かれた日、僕は、第三の世界を作ろうとしたんだ』


ロウの呼吸が止まった。


『……お前が?』


『うん』


アベルの声は、ひどく寂しそうだった。


『でも、僕は失敗した』


『なぜだ?』


長い沈黙があった。


そして、アベルは言った。


『僕が生まれるためには、兄さんが生まれなければならなかったから』


ロウは、目を開いた。


『……どういう意味だ』


アベルは、答えなかった。


その代わり、ロウの脳裏に、ひとつの光景が浮かんだ。


守り木の前に立つ、母親。


その隣にいる、若い門番。


そして、その二人の前に立つ、小さな子供。


子供は、二人を見上げていた。


その手には、黒い石が握られている。


四つの円が刻まれた石。


子供は、母親に向かって言った。


「お母さん。僕が生まれたら、兄さんはどうなるの?」


母親は、泣いていた。


門番は、答えなかった。


そして、母親は、子供を抱きしめた。


「……ごめんなさい」


その声が、ロウの記憶の奥で響いた。


「あなたを、まだ生まれさせてあげられない」


子供は、母親の胸に顔を埋めた。


「……わかった」


彼は、静かに答えた。


「じゃあ、僕は、もう少しだけ待つよ」


光景が消えた。


ロウは、椅子の背に手をついた。


胸の奥で、アベルが泣いていた。


『兄さん』


『……何だ』


『僕は、兄さんを生まれさせるために、世界を二つに分けたんだ』


ロウは、動けなかった。


『でも、世界を二つに分けたせいで、僕は生まれられなくなった』


アベルは、震える声で続けた。


『だから、僕は第三の世界を作ろうとした』


『……それで、失敗したのか』


『うん』


アベルは答えた。


『そして、兄さんは生まれた』


ロウは、目を閉じた。


自分が生まれるために、世界が二つに分かれた。


アベルが生まれるために、第三の世界が必要だった。


その二つの事実が、どのようにつながっているのか。


まだ、わからない。


しかし、少なくとも、世界の分離は、遠い昔に終わった出来事ではなかった。


ロウ自身の存在と、今もつながっている。


そして、今。


その境界を維持する役割が、終わろうとしている。


ロウは、ゆっくりと立ち上がった。


「……セラ」


「はい」


「明朝、黒門砦へ戻る」


「わかりました」


「そのあと、王都へ向かう」


セラは、驚いた顔をした。


「王都へ?」


「軍務局が、俺を門番の後任者として指名した。なら、誰がその指示を出したのか、確かめる必要がある」


ロウは、手紙を懐にしまった。


「それから、第三の世界についても調べる」


「……隊長」


セラは、少しだけ言葉をためらった。


「もしも、その選択が、本当にあなたに委ねられているのだとしたら?」


ロウは、彼女を見た。


「人間の世界を残すか。魔物の世界を残すか。両方を残して、第三の世界を作るか」


セラは、静かに続けた。


「あなたなら、どうしますか?」


ロウは、すぐには答えなかった。


人間の世界を残せば、魔物の世界が失われる。


魔物の世界を残せば、人間の世界が失われる。


両方を残せば、第三の世界が生まれる。


だが、その第三の世界がどんな世界なのか、誰も知らない。


何が生まれ、何が失われるのか。


誰が生き残り、誰が消えるのか。


その答えは、どこにも記されていない。


それでも、ロウは、ひとつだけ決めていた。


「……俺は、誰かを消すことを前提にした選択を、最初から正しいとは認めない」


彼は、窓の外を見た。


夜空には、星が輝いていた。


「もしも第三の世界を作ることができるのなら、その世界で何が起きるのか、確かめる。そこで暮らす者たちが、どうすれば互いを傷つけずに生きられるのか、考える」


ロウは、静かに続けた。


「だが、もしも第三の世界を作ることが、別の誰かを犠牲にすることになるのなら、その方法を見直す。選択肢が三つしかないと、誰が決めたのかを調べる」


セラは、ロウを見つめた。


「……それが、あなたの答えですか」


「まだ答えじゃない」


ロウは、首を横に振った。


「これは、俺が調べるべきことだ」


そのとき、窓の外で、鐘の音が響いた。


灰枝村の鐘ではない。


黒門砦の鐘でもない。


もっと遠く。


もっと深い場所から。


世界の外側から、響いてくるような音だった。


そして、その音とともに、村長宅の壁に、文字が浮かび上がった。


『世界分離、最終段階』


『境界管理者、選択せよ』


『残す世界を、一つ選べ』


ロウは、その文字を見た。


そして、静かに言った。


「……断る」


文字が、一瞬、揺らいだ。


ロウは、続けた。


「俺は、まだ何も知らない。世界が二つに分かれた理由も、第三の世界が何なのかも、誰がこの仕組みを作ったのかも」


彼は、壁に手を触れた。


「そんな状態で、誰かの世界を消す選択なんかできるものか」


壁の文字が、ゆっくりと消えていった。


その代わりに、別の文章が浮かび上がった。


『選択の拒否を確認』


『代替管理者、選定を開始』


そして、最後に。


『対象:アベル』


ロウの胸が、強く脈打った。


「……アベル?」


胸の奥から、返事があった。


『兄さん』


その声は、今まで聞いたことがないほど、はっきりしていた。


『僕、もうすぐ生まれるよ』


ロウは、息を呑んだ。


世界が二つに分かれた日。


第三の世界が生まれようとした日。


そして、アベルが生まれる日。


それらは、すべて同じ出来事の別の側面なのかもしれない。


ロウは、窓の外を見た。


灰枝村の向こう。


遠くに、黒門砦の方向が見える。


その空の一部が、まるで薄いガラスのように、ひび割れていた。


ひびの向こうには、別の空があった。


同じ星が輝いている。


しかし、その星の配置は、わずかに違っていた。


そして、その空の下に、もう一つの黒門砦が見えた。


そこには、ロウと同じ顔をした男が立っていた。


男は、こちらを見ていた。


そして、口を動かした。


声は聞こえなかった。


それでも、ロウには、何と言ったのかわかった。


――今度こそ、選べ。

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