第十一話「もう一つの黒門砦」
1.空の向こうの門
「全員、馬を止めろ!」
ロウの声が、夜明け前の街道に響いた。
先頭を進んでいたセラが手綱を引く。
後続の兵士たちも、次々に馬を止めた。
灰枝村を出発してから、まだ半日も経っていない。
それなのに、空はすでに異常な姿を見せていた。
雲の切れ目に、細長い亀裂が走っている。
亀裂は空を横切り、遠くの山脈の上で途切れていた。表面は透明なガラスのように見えるが、その向こうにある景色は、こちら側の景色と微妙に違っている。
山の形が違う。
川の流れが違う。
そして、地平線に見える黒門砦の位置が違う。
「……隊長。あれは、何でしょう」
セラが尋ねた。
「わからない」
ロウは、正直に答えた。
「ただ、幻覚だと片づけることはできない」
「根拠は?」
「さっきから、あの亀裂の向こうにいる兵士が、こちらと同じ動きをしていない」
亀裂の向こう。
もう一つの黒門砦。
その門前に、数人の兵士が立っていた。
彼らは、こちら側の砦とよく似た制服を着ている。
門の左右に掲げられた旗も同じ。
外壁の傷も、塔の配置も、見覚えのあるものばかりだった。
ただし、砦の正面に立っている男だけは、ほかの兵士たちと違っていた。
黒い外套。
腰に吊るした剣。
左肩に残る古傷。
そして、ロウと同じ顔。
男は、こちらを見ていた。
遠く離れているはずなのに、目が合っているとわかった。
男が、右手を上げた。
ロウは動かなかった。
男は、もう一度、手を上げた。
今度は、手のひらをこちらへ向ける。
まるで、近づくなと警告しているようだった。
「隊長?」
セラが声をかけた。
「……見えているか?」
「はい。砦と、兵士たちが」
「男の顔は?」
「距離があるので、はっきりとは」
「俺と同じ顔をしている」
セラは、ロウを見た。
「それは……」
「断定するには、まだ早い。だが、俺にはそう見える」
ロウは馬から降りた。
足元の土は湿っていた。
朝露に濡れた草が、靴に触れる。
世界は、いつもどおり存在している。
少なくとも、こちら側では。
ロウは、地面に落ちていた小石を拾った。
そして、亀裂の向こうに見える砦へ向かって投げた。
石は、空中を飛んだ。
亀裂の手前まで来た瞬間、消えた。
音もなく。
砕けたわけでも、弾かれたわけでもない。
ただ、そこから先へ進めなくなったように、存在を失った。
セラが息を呑んだ。
「……物体が通過できない?」
「そう見えるな」
ロウは、別の小石を拾った。
今度は、亀裂から十分に離れた場所へ投げた。
石は地面に落ちた。
何も起きない。
ロウは、亀裂の向こうを見た。
男が、何かを叫んでいる。
声は届かない。
しかし、男の動きから、言葉を伝えようとしていることはわかった。
男は、地面に膝をついた。
そして、足元の石を拾い上げた。
ロウと同じように。
男は、その石を空へ投げた。
石は、亀裂のこちら側へ飛んできた。
ロウたちは、身構えた。
だが、石は亀裂を越えた瞬間、消失した。
男は、首を振った。
何度も。
そして、両手を広げた。
こちら側へ来ることも、こちら側から向こうへ行くこともできない。
二つの世界は、見えている。
しかし、互いに触れられない。
「……境界か」
ロウは呟いた。
そのとき、胸の奥でアベルが囁いた。
『違うよ、兄さん』
ロウは、目を細めた。
『何が違う?』
『あれは、境界じゃない』
アベルの声は、ひどく不安定だった。
『境界なら、向こう側とこちら側を分ける線がある。でも、あれは……』
『あれは?』
『同じ場所が、二つあるんだ』
ロウは、空を見上げた。
同じ場所が二つある。
それは、境界によって分けられた二つの世界とは、何が違うのか。
『兄さん。あの砦を見て』
『見ている』
『違う。砦そのものじゃなくて、砦の後ろ』
ロウは、視線をずらした。
砦の背後には、山がある。
こちら側にも、同じ山がある。
だが、山の斜面に、奇妙なものが見えた。
こちら側の山には存在しない、巨大な石造建築。
山肌に埋め込まれた、円形の施設。
その中央には、四つの円が刻まれた黒い門があった。
ロウは、息を止めた。
第四の扉。
「……どうして、あそこに」
『あれは、まだ開いていない』
アベルが答えた。
『でも、もう一つの世界では、開こうとしている』
ロウは、男を見た。
男もまた、山の門を見つめていた。
そして、男は口を動かした。
今度は、ロウにも言葉がわかった。
――母さんが待っている。
ロウは、一歩、前へ出た。
その瞬間、空の亀裂が震えた。
男の背後で、黒門砦の門が開いた。
門の向こうから、誰かが歩いてくる。
長い黒髪。
痩せた身体。
白い上着。
見覚えのある横顔。
ロウは、呼吸を忘れた。
「……母さん」
エリナ・テュユールだった。
百四十七年前の記録に名を残す女。
死亡記録には、こう記されていた。
死亡確認、なし。
遺体、なし。
名前、返還済み。
その母親が、もう一つの黒門砦の門をくぐっていた。
彼女は、ロウと同じ顔をした男に何かを告げた。
男は、うなだれた。
そして、エリナがこちらを見た。
彼女の唇が動く。
声は聞こえない。
それでも、ロウにはわかった。
――来てはいけない。
ロウは、足を踏み出した。
セラが、彼の腕をつかんだ。
「隊長、待ってください!」
「離せ」
「向こうへ行く方法がわかりません!」
「だから調べる!」
「今、近づけば何が起きるかわからない!」
ロウは、セラを見た。
その目には、怒りよりも焦りがあった。
「……あそこに、母さんがいる」
セラは、口を閉じた。
ロウが母親について、どれほど多くの疑問を抱えてきたのか。
その答えが、ようやく手の届く場所に現れたのだ。
それでも。
「隊長」
セラは、腕を離さなかった。
「あなたが向こうへ行くことを、私は止めません。ただし、あなたが戻ってこられない可能性を、考えないわけにはいきません」
ロウは、彼女を見つめた。
「……わかっている」
「なら、ひとつだけ約束してください」
「何だ」
「必ず、こちら側へ戻る方法を探すこと。あなた一人の判断で、帰る道を捨てないこと」
ロウは、しばらく黙っていた。
そして、頷いた。
「約束する」
その言葉を聞いてから、セラはようやく腕を離した。
ロウは、再び空を見上げた。
亀裂の向こうでは、エリナがこちらを見ていた。
彼女の表情には、懐かしさも、喜びもなかった。
ただ、深い悲しみがあった。
そして、彼女は口を動かした。
今度は、はっきりとわかった。
――あなたは、私が生んだ子供ではない。
2.記録に存在する、もう一人の隊長
「……いま、何と言いました?」
セラが尋ねた。
ロウは答えなかった。
聞き間違いではない。
母親の唇は、確かにそう動いていた。
あなたは、私が生んだ子供ではない。
百四十七年前の記録に、ロウの名前があった。
アベルが生まれるためには、ロウが生まれなければならなかった。
そして、今。
母親は、ロウが自分の子供ではないと告げた。
「……隊長」
セラが、慎重に声をかける。
「いったん、ここを離れましょう。状況を整理する必要があります」
「いや」
ロウは、空の亀裂を見つめたまま答えた。
「今、離れたら、次にいつ接触できるかわからない」
「ですが……」
「近づく方法を探す。ただし、無理に突破するつもりはない」
ロウは、地面を見た。
さきほど石が消えた地点。
そこには、わずかな変化があった。
草が一本、折れている。
その先端が、こちら側ではなく、亀裂の向こうへ向かって倒れていた。
ロウは、しゃがみ込んだ。
「……セラ。縄を出してくれ」
「縄ですか?」
「ああ。できるだけ長いものを」
セラは兵士に指示を出した。
ロウは、縄の端を地面に固定した。
そして、もう一方の端を持ち、亀裂に向かってゆっくりと近づいた。
一歩。
二歩。
三歩。
亀裂まで、あと数歩。
縄は、ロウの手の中で、わずかに揺れていた。
ロウは、縄の先端に小さな金属片を結びつけた。
それを亀裂の向こうへ投げる。
金属片は、消えた。
縄は、切れなかった。
ただし、金属片が消えた瞬間、縄の先端が、何かに引っかかったように止まった。
ロウは、ゆっくりと縄を引いた。
手応えがある。
金属片は戻ってこない。
しかし、縄は、確かにつながっている。
「……なるほど」
ロウは、縄を引く力を強めた。
縄が震えた。
そして、次の瞬間。
先端が、こちら側へ戻ってきた。
金属片は、消えたままだった。
縄の先端には、見覚えのない文字が刻まれていた。
ロウは、それを見た。
文字は、人間のものだった。
「こちら側へ来るな」
その下に、別の文字があった。
「お前が来れば、こちらのロウが消える」
セラが息を呑んだ。
「……こちらのロウ?」
ロウは、縄を見つめた。
もう一つの黒門砦にいる男。
自分と同じ顔をした男。
彼は、ロウではないのか。
それとも、ロウこそが、もう一人の男の代わりとして存在しているのか。
「……オスカー」
ロウは、記録係を振り返った。
「これまでの記録を整理してくれ。俺の出生記録、母親の死亡記録、門番の記録、ベルン・ハルトの記録。それぞれに、どんな矛盾があるか」
「今、ここでですか?」
「今、ここでだ」
オスカーは、すぐに記録板を取り出した。
「承知しました」
「それから、ユリウスさん。世界の分離について、王国の公式記録以外に、何か残っていませんか」
老人は、首を振った。
「公式記録以外となると、民間の伝承や、古い遺跡の碑文くらいだろう。だが、ひとつだけ気になる話がある」
「何です?」
「百四十七年前、王都の記録院で、大規模な記録の欠落があったらしい」
「記録の欠落?」
「一夜にして、数千人分の戸籍と出生記録が失われた。記録院は火災が原因だと発表したが、火災そのものの記録が残っていない」
ロウは、目を細めた。
「その記録は、どこに?」
「王都の記録院だ。だが、閲覧には許可が必要だろう」
「なら、王都へ行く理由が一つ増えたな」
そのとき、オスカーが声を上げた。
「隊長、見つかりました」
彼は、記録板を差し出した。
そこには、ロウの出生記録が写されていた。
名前。
生年月日。
出生地。
母親の名前。
父親の欄は空白。
そして、記録の最後に、短い一文が記されている。
「出生証明、原本照合済み」
ロウは、その一文を見つめた。
「原本は?」
「記録院に保管されているはずです」
「……そうか」
ロウは、別の記録を手に取った。
母親の死亡記録。
そこには、死亡確認なし、遺体なし、名前返還済み、と記されている。
しかし、その記録には、さらに別の欄があった。
「出生児への影響:確認不能」
ロウは、息を止めた。
「……出生児?」
オスカーが、記録を覗き込む。
「これは、隊長の出生記録と同じ管理番号がついています」
「つまり、母さんの死亡記録と、俺の出生記録が、同じ事件として扱われている?」
「その可能性があります」
ロウは、二つの記録を並べた。
母親の死亡。
ロウの出生。
そして、出生児への影響。
もしも、母親がロウを生んだのではないのなら。
ロウは、どこから来たのか。
誰が、彼を生み出したのか。
そして、なぜ彼の名前が、百四十七年前の記録に存在するのか。
「……もう一つ、調べてくれ」
ロウは、オスカーに言った。
「俺が黒門砦へ配属されたときの人事記録だ」
「はい」
「俺の血筋が発覚したのは、いつだ?」
オスカーは、記録をめくった。
「王都での調査報告が上がったのは、三年前です。その後、軍務局が処分を決定しています」
「処分の理由は?」
「人間と魔物の混血であることが、王国軍の規定に抵触したため……」
「その規定は、いつ制定された?」
オスカーは、別の資料を調べた。
やがて、顔を上げた。
「……百四十七年前です」
ロウは、動かなかった。
百四十七年前。
世界が分かれたとされる時代。
母親の名前が記録された時代。
ロウの名前が、まだ生まれていないはずの時代に登録された時代。
そして、人間と魔物の混血を軍から排除する規定が制定された時代。
「……偶然ではないな」
セラが、静かに言った。
ロウは、空の亀裂を見た。
向こう側の男は、まだそこに立っていた。
彼は、こちらを見つめていた。
まるで、ロウがどこまで真実に近づいたのか、確かめているようだった。
ロウは、男に向かって口を動かした。
――お前は誰だ。
男は、少しだけ目を伏せた。
そして、答えた。
――お前が、忘れた者だ。
3.門の向こうにある記録室
その夜、ロウは眠らなかった。
砦の兵士たちは交代で休息を取り、セラは周囲の警戒を続けていた。
オスカーは記録を整理し、ミラはロウの身体に異常がないか確認した。
しかし、何も見つからなかった。
体温も、脈拍も、血液の状態も、普段と変わらない。
ロウは、いつもどおりのロウだった。
それなのに、世界のどこかに、もう一人のロウが存在している。
そして、母親は、その男を知っている。
「……ミラ」
ロウは、記録板を見ながら尋ねた。
「もしも、同じ人間が二人存在していたら、どちらが本物だと判断する?」
ミラは、すぐには答えなかった。
「何をもって本物とするかによるわ」
「身体か?」
「身体が同じでも、別々の経験を積んでいれば、同じ人間とは言い切れない」
「記憶なら?」
「記憶が同じでも、本人の意思や行動まで同じとは限らない」
「名前なら?」
ミラは、ロウを見た。
「名前は、本人が何者であるかを示す手がかりにはなる。でも、名前だけで本人を決めることはできないわ」
ロウは、ゆっくりと頷いた。
「……そうだな」
「なぜ、そんなことを聞くの?」
ロウは、空の亀裂を見た。
「向こう側の男が、俺を『お前が忘れた者』と言った」
ミラは、眉をひそめた。
「あなたが、彼を忘れた?」
「そう言っているように見えた」
「でも、あなたには、彼の記憶がないのよね?」
「ない」
「それなら、彼があなたの記憶を持っている可能性もある」
「……あるいは、俺が持っていない記憶を、彼が持っている」
ミラは、黙った。
ロウは、胸の奥に意識を向けた。
『アベル』
『うん』
『お前は、向こう側の男を知っているか?』
アベルは、長いあいだ答えなかった。
『……知っている』
ロウの指が止まった。
『どんな関係だ?』
『僕の兄さん』
その答えに、ロウは息を呑んだ。
『……俺ではないのか?』
『違う』
アベルの声は、静かだった。
『あの人が、僕の兄さんだった』
『だった?』
『うん。でも、今は……』
アベルは、言葉を切った。
『今は、兄さんが二人いる』
ロウは、目を閉じた。
自分の胸の中にいるアベル。
向こう側にいる、ロウと同じ顔の男。
そして、こちら側にいる自分。
三人の関係は、まだわからない。
だが、アベルは、向こう側の男を兄と呼んだ。
「……アベル」
『うん』
「お前は、あの男のことを、どう思っている?」
アベルは、少しだけ笑ったようだった。
『……会いたい』
ロウは、目を開いた。
『あの人に、会いたい』
その声には、懐かしさと、悲しみが混じっていた。
ロウは、しばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「……わかった」
彼は、立ち上がった。
「セラ。亀裂の周囲に、警戒線を張ってくれ。誰も近づけるな。ただし、向こう側から何かが現れた場合、即座に攻撃するのではなく、まず警告しろ」
「承知しました」
「オスカー。今から、もう一つの黒門砦に関する記録を作る。確認できた事実と、推測を分けて記録してくれ」
「わかりました」
「ミラ。俺の身体に異常が起きた場合、すぐに報告できるようにしておいてくれ」
「……あなた、何をするつもり?」
ロウは、空の亀裂を見た。
「向こう側に、記録室がある」
「どうしてわかるの?」
「俺が、知っているからだ」
ミラは、困惑した。
「あなたは、行ったことがないでしょう?」
「そうだ。だが、向こう側の砦には、俺が知っている記録室がある」
ロウは、自分の記憶を確かめるように言葉を続けた。
「黒門砦の地下。古い建築記録を保管している部屋だ。入口は、兵舎の裏手にある階段を降りた先。扉の右側に、古い傷が三つある」
セラが、眉をひそめた。
「……それは、こちら側の黒門砦にもあります」
ロウは、頷いた。
「そうだ」
「しかし、なぜ、向こう側にもあると?」
「俺には、そうわかる」
それは、記憶だった。
しかし、ロウ自身の経験に基づく記憶ではない。
まるで、別の誰かの記憶が、自分の中に流れ込んできたようだった。
ロウは、胸の奥に意識を向けた。
『アベル。これは、お前の記憶か?』
『……違う』
『では、誰の記憶だ?』
『たぶん、あの人の』
ロウは、空の亀裂を見た。
向こう側の男は、いつの間にか姿を消していた。
代わりに、砦の地下へ続く扉が開いている。
暗闇の中に、灯りが見えた。
まるで、誰かが、ロウを招いているようだった。
「……行く」
ロウは言った。
セラが、すぐに立ち上がった。
「私も行きます」
「いや。お前は、こちら側の警戒を続けてくれ」
「隊長」
「セラ。向こう側へ行く方法がわからない以上、こちら側の砦まで失うわけにはいかない」
ロウは、彼女を見た。
「もしも俺が戻らなかった場合、兵士たちをまとめて、王都へ向かってくれ。軍務局の命令書と、これまでの記録を持ってな」
セラは、表情を硬くした。
「戻らなかった場合、という言い方はやめてください」
「……わかった」
「あなたは戻ってくる。そう約束したでしょう」
ロウは、少しだけ目を伏せた。
「そうだったな」
彼は、空の亀裂に近づいた。
縄をもう一度、地面に固定する。
先端には、今度は金属片ではなく、小さな記録板を結びつけた。
記録板には、短い文章を書いてある。
『こちら側のロウ・テュユール。接触を求める。』
ロウは、記録板を亀裂の向こうへ投げた。
板は消えた。
しかし、縄は切れなかった。
数秒後。
縄が、引かれた。
ロウは、力を込めて引き戻した。
記録板が戻ってきた。
そこには、別の文章が刻まれていた。
『こちら側のロウ・テュユール。接触を拒否する。』
その下に、さらに短い一文があった。
『お前がこちらへ来れば、母さんが二人になる。』
ロウは、動きを止めた。
母親が二人になる。
それは、どういう意味なのか。
同じ母親が、二つの世界に存在しているということなのか。
それとも、母親という存在そのものが、二つに分かれているということなのか。
ロウは、記録板を裏返した。
そこには、さらに別の文章があった。
『母さんは、どちらか一人しか覚えていられない。』
ロウは、目を閉じた。
母親は、どちらか一人しか覚えていられない。
もしも、向こう側のロウが本物の息子であるなら。
こちら側のロウが近づくことで、母親は、どちらか一方を忘れてしまうのか。
あるいは、どちらか一方の存在が消えてしまうのか。
「……アベル」
『うん』
「お前は、何を知っている?」
アベルは、静かに答えた。
『兄さん。僕は、あの人を消したくない』
ロウは、記録板を握りしめた。
『……あの男をか?』
『うん』
『俺も、消したくない』
アベルは、しばらく黙っていた。
そして、言った。
『でも、あの人は、兄さんに会いたがっている』
ロウは、空の亀裂を見た。
向こう側の砦の地下で、灯りが揺れている。
そこには、何かがある。
そして、それは、ロウが自分の出生を知るために、避けて通れないものだった。
「……わかった」
ロウは、セラに向き直った。
「今から、接触を試みる。何か異常が起きた場合、縄を引いてくれ」
「隊長、危険です」
「わかっている」
「本当に、戻ってこられるのですか?」
ロウは、答えなかった。
代わりに、彼女の手を握った。
「……戻る方法を探す。必ず」
セラは、彼を見つめた。
そして、ゆっくりと頷いた。
ロウは、亀裂へ向かって歩き出した。
一歩。
二歩。
三歩。
空気が、変わった。
視界が揺れた。
耳の奥で、何かが軋む音がした。
そして、ロウの身体が、亀裂の向こうへ引き込まれた。
4.もう一つの黒門砦
最初に感じたのは、匂いだった。
濡れた石。
古い木材。
火の消えかけた暖炉。
そして、血の匂い。
ロウは、地面に手をついた。
石畳だった。
顔を上げると、目の前に黒門砦の外壁があった。
見慣れた砦。
見慣れた門。
見慣れた兵舎。
しかし、何かが違う。
砦の壁には、こちら側にはない傷がある。
門の上に掲げられた旗は、王国の紋章ではなく、四つの円を重ねた奇妙な印だった。
そして、門の左右には、兵士たちが並んでいた。
彼らは、ロウを見ていた。
誰も、剣を抜かない。
しかし、誰も、近づいてこない。
「……お前が、ロウ・テュユールか」
兵士の一人が尋ねた。
ロウは、立ち上がった。
「そうだ」
「こちら側のロウ・テュユールか」
「……そうだ」
兵士は、深く息を吐いた。
「やはり、来たか」
その声には、安堵があった。
そして、恐怖も。
「隊長は、どこにいる?」
ロウが尋ねると、兵士は、砦の奥を指さした。
「記録室だ」
「案内してくれ」
兵士は、すぐには動かなかった。
「……その前に、一つだけ確認させてくれ」
「何だ」
「お前は、何をしに来た?」
ロウは、答えた。
「母親に会いに来た」
兵士は、目を伏せた。
「……そうか」
彼は、ゆっくりと頷いた。
「なら、覚悟しておけ」
「何をだ」
兵士は、ロウを見た。
「この砦では、母親に会うことが、最も危険なことなんだ」
ロウは、眉をひそめた。
「どういう意味だ?」
兵士は、答えなかった。
代わりに、砦の門をくぐった。
ロウは、その後を追った。
砦の中は、こちら側とよく似ていた。
兵舎の位置。
食堂の位置。
武器庫の位置。
どれも、ほとんど同じだった。
だが、そこにいる兵士たちは、ロウを見て、次々に動きを止めた。
ある者は、驚いた顔をした。
ある者は、恐怖に顔を歪めた。
ある者は、泣きそうな顔で、ロウから目を逸らした。
そして、誰もが、同じ言葉を口にした。
「……戻ってきた」
ロウは、足を止めた。
「何?」
兵士の一人が、震える声で答えた。
「お前が、戻ってきた」
「俺は、ここへ来たのは初めてだ」
「……そうだな」
兵士は、顔を伏せた。
「お前にとっては、初めてだ」
ロウは、彼を見つめた。
その言葉は、奇妙だった。
お前にとっては、初めて。
それは、つまり。
「……こちら側の俺は、ここに来たことがあるのか?」
兵士は、答えなかった。
ただ、砦の奥を指さした。
「隊長が待っている」
ロウは、歩き出した。
兵舎の裏手に、地下へ続く階段があった。
壁には、古い傷が三つある。
ロウは、その傷を見つめた。
記憶どおりだった。
初めて来た場所のはずなのに、どこに何があるのか、わかる。
階段を降りる。
石壁の角を曲がる。
鉄の扉の前で止まる。
扉の右側には、三つの傷が刻まれていた。
ロウは、扉に手をかけた。
中から、声が聞こえた。
「……入れ」
ロウは、扉を開けた。
そこは、記録室だった。
壁一面に、古い書類が並んでいる。
机の上には、いくつもの記録板。
そして、部屋の中央に、一人の男が立っていた。
ロウと同じ顔。
同じ目。
同じ傷。
同じ立ち姿。
ただし、彼の左手には、指輪があった。
ロウが知らない指輪。
その指輪には、四つの円が刻まれていた。
男は、ロウを見た。
「……ようやく来たか」
ロウは、剣に手をかけた。
「お前は誰だ」
男は、笑わなかった。
「お前が知っている名前で呼ぶなら、ロウ・テュユールだ」
「ふざけるな」
「ふざけていない」
男は、静かに続けた。
「こちら側では、俺がロウ・テュユールだ」
ロウは、動かなかった。
男は、机の上から一枚の記録板を取り上げた。
そこには、ロウの出生記録が記されていた。
名前。
生年月日。
出生地。
母親の名前。
そして、父親の欄。
そこには、名前が記されていた。
ロウ・テュユール。
ロウは、息を止めた。
「……何だ、これは」
男は、記録板を机に置いた。
「お前の出生記録だ」
「父親の欄に、俺の名前がある」
「そうだ」
「俺は、誰も生んでいない」
「お前にとっては、そうだろう」
男は、ロウを見た。
「だが、こちら側では、お前が俺を生んだ」
沈黙が落ちた。
ロウは、男を見つめた。
「……どういう意味だ」
男は、机の引き出しを開けた。
中には、古い書類が入っていた。
男は、その中から一枚を取り出した。
それは、百四十七年前の日付が記された記録だった。
『観測者分離計画』
ロウは、文字を読んだ。
第一観測者:ロウ・テュユール
第二観測者:アベル
分離条件:記憶の非接続
再接続条件:第四の扉
成功条件:双方の存在を、互いに否定しないこと。
ロウは、顔を上げた。
「……観測者分離計画?」
男は、頷いた。
「世界が二つに分かれたとき、同じ存在を、二つの世界に配置する必要があった」
「なぜだ」
「世界を一つに保ったまま、異なる認識を共存させることができなかったからだ」
男は、記録を指さした。
「人間と魔物は、互いを別の存在だと認識するようになった。その認識を無理に一つに戻そうとすれば、どちらかの存在が消える危険があった」
「だから、世界を分けたのか」
「そうだ」
男は、静かに答えた。
「だが、世界を分けるだけでは、問題は解決しなかった」
「……何が足りなかった?」
「世界が二つに分かれたことで、互いの存在を観測できなくなった。観測できない存在は、記録から消え始めた」
ロウは、思い出した。
名前を失った兵士たち。
記録から消えたエドリック・ヴェイン。
存在していたはずなのに、誰も覚えていない者たち。
そして、墓地にいた少女。
「……世界の外に追い出された者たちか」
男は、頷いた。
「世界の分離は、完全ではなかった。どちらの世界にも属さない存在が生まれた。そして、その存在を認識するためには、両方の世界を同時に観測できる者が必要だった」
ロウは、男を見た。
「……それが、俺たちか」
「そうだ」
男は、ゆっくりと続けた。
「お前と俺は、同じ存在ではない。だが、まったく別の存在でもない」
ロウは、眉をひそめた。
「説明しろ」
男は、机の上に、二つの記録板を並べた。
一つは、ロウの出生記録。
もう一つは、男の出生記録。
どちらも、同じ名前が記されている。
ロウ・テュユール。
しかし、生年月日は違っていた。
出生地も違う。
母親の名前も、同じではない。
ロウは、二つの記録を見つめた。
「……母親が違う?」
「そうだ」
男は、答えた。
「こちら側の俺を生んだのは、エリナ・テュユールだ。お前の母親と同じ名前を持つ、別の人間だ」
ロウは、息を呑んだ。
「……別の人間?」
「同じ名前、同じ記憶、同じ役割を持つ者が、二つの世界に存在している」
男は、続けた。
「だが、完全に同じ存在ではない。こちら側のエリナは、こちら側の俺を生んだ。お前の世界のエリナは、お前を生んだ」
「では、なぜ母さんは、俺を生んだ子供ではないと言った?」
男は、しばらく黙っていた。
そして、答えた。
「……それは、エリナ本人に聞け」
ロウは、男を睨んだ。
「お前は、知っているんだろう」
「知っていることはある」
男は、正直に答えた。
「だが、すべてを知っているわけではない」
「何を知っている?」
男は、机の上の記録板を指さした。
「お前が、こちら側に来ることは、以前から記録されていた」
「誰が記録した?」
「エリナだ」
「いつ?」
「百四十七年前」
ロウは、動かなかった。
男は、別の記録板を取り出した。
そこには、短い文章が記されていた。
第一観測者、境界の内側へ配置。
第二観測者、境界の外側へ配置。
双方の記憶を分離する。
再接続まで、互いの存在を認識させない。
ロウは、記録を見つめた。
「……第一観測者が、俺か」
「そうだ」
「第二観測者が、アベル?」
「そうだ」
ロウは、ゆっくりと顔を上げた。
「では、こちら側の俺は何だ?」
男は、目を伏せた。
「……お前が忘れた存在だ」
ロウは、息を止めた。
向こう側の男は、ロウが忘れた存在。
それは、単に記憶が失われたという意味ではない。
世界を分離するために、ロウと男は、それぞれ別の世界に配置された。
その際、互いの記憶が切り離された。
しかし、なぜ。
なぜ、同じ存在を二つに分ける必要があったのか。
ロウは、男を見た。
「……お前は、何を守っている?」
男は、静かに答えた。
「お前が、選択を誤らないようにすることだ」
「何の選択だ」
「世界を一つに戻すかどうか」
男は、机の上の最後の記録板を取り上げた。
そこには、こう記されていた。
『第三世界の生成には、二人の観測者の合意が必要』
ロウは、目を細めた。
「……二人の合意?」
「そうだ」
男は、頷いた。
「こちら側の俺と、お前。二人が同じ選択をしなければ、第三の世界は生まれない」
「なぜだ」
「一人だけでは、世界を一つに戻すことはできない。人間の世界しか知らない者が、魔物の世界を選ぶことはできない。魔物の世界しか知らない者が、人間の世界を選ぶこともできない」
男は、ロウを見た。
「両方の世界を知る者が、両方の世界を残すことを選ばなければならない」
ロウは、ゆっくりと息を吐いた。
「……では、俺たちが選択を拒否したら?」
男は、答えた。
「世界分離の維持期限が終わる。境界は崩壊し、二つの世界は、互いを認識できないまま重なり始める」
「その結果は?」
「どちらかが消えるかもしれない。あるいは、両方が消えるかもしれない」
男は、目を伏せた。
「……だから、俺はお前を拒んだ」
ロウは、男を見つめた。
「俺が来れば、何が起きる?」
男は、答えた。
「俺とお前が、同じ存在だと認識される」
「それが、問題なのか?」
「そうだ」
男は、静かに続けた。
「同じ存在が、二つの世界に存在している。もしも二つの世界が重なったとき、どちらの存在が残るのか。世界は、それを決めようとする」
ロウは、息を呑んだ。
「……片方が消える?」
「その可能性がある」
男は、ロウを見た。
「だから、俺はお前を拒んだ。お前をこちらへ招けば、俺が消えるかもしれない。お前が消えるかもしれない。あるいは、母さんが、どちらか一人を忘れるかもしれない」
ロウは、目を閉じた。
「……母さんは、どこにいる?」
男は、部屋の奥にある扉を指さした。
「その先だ」
ロウは、扉を見た。
「会わせてくれ」
男は、首を横に振った。
「今は、まだだ」
「なぜだ」
男は、ロウを見た。
「お前は、まだ自分が何者なのかを知らない」
ロウは、剣の柄を握った。
「……なら、教えろ」
男は、しばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「お前は、エリナが生んだ子供ではない」
ロウは、動かなかった。
男は、続けた。
「エリナが生んだのは、こちら側の俺だ。お前は、世界を分離するために作られた観測者だ」
ロウの胸が、冷たくなった。
「……俺は、人間ではないのか」
男は、すぐには答えなかった。
「人間かどうかは、お前が決めることだ」
その言葉に、ロウは顔を上げた。
男は、静かに続けた。
「お前は、人間として生きてきた。人間として傷つき、人間として誰かを守り、人間として選択してきた。その事実は、誰にも否定できない」
「……だが、俺は作られた存在だ」
「そうだ」
男は、頷いた。
「だが、作られた存在だからといって、選択する権利がないわけではない」
ロウは、黙った。
その言葉は、彼がアベルに伝えたことと、同じだった。
生まれた理由が何であれ。
誰かに名前を与えられたとしても。
誰かのために作られた存在だったとしても。
自分が何者なのかを、他人に決めさせる必要はない。
男は、扉の前に立った。
「……母さんに会いたいなら、一つだけ答えろ」
「何だ」
「お前は、第三の世界を作るつもりか?」
ロウは、すぐには答えなかった。
人間の世界。
魔物の世界。
そして、第三の世界。
それぞれの世界に、暮らしている者たちがいる。
それぞれの世界に、守るべきものがある。
どちらかを消すことはできない。
しかし、第三の世界を作れば、すべてが解決するとも限らない。
「……まだ、決めない」
ロウは答えた。
「俺は、第三の世界が何なのかを知らない。そこで誰が暮らし、誰が犠牲になるのかも知らない。世界を一つに戻すことが、本当に正しいのかもわからない」
彼は、男を見た。
「だから、選択する前に、知る必要がある」
男は、しばらくロウを見つめていた。
そして、ゆっくりと扉を開いた。
「……なら、会わせよう」
扉の向こうには、小さな部屋があった。
窓のない部屋。
壁には、無数の記録板が並んでいる。
そして、その中央に、一人の女性が座っていた。
エリナ・テュユール。
ロウの母親と同じ顔をした女性。
彼女は、ロウを見た。
その目には、懐かしさがあった。
そして、深い悲しみがあった。
「……ロウ」
彼女は、静かに言った。
「あなたは、私が生んだ子供ではない」
ロウは、彼女を見つめた。
「……知っている」
エリナは、首を横に振った。
「いいえ。あなたは、まだ何も知らない」
彼女は、立ち上がった。
「あなたが何者なのか。なぜ、あなたが生まれたのか。そして、あなたが生まれるために、誰が消えたのか」
エリナは、ロウの前に立った。
「……すべて、話しましょう」
5.母親ではない母
「まず、あなたに謝らなければならないことがあります」
エリナは、ロウの前に座った。
彼女の声は、穏やかだった。
だが、その手は震えていた。
「私は、あなたを守るために、あなたの出生に関する記録を隠しました」
ロウは、黙って聞いていた。
「あなたが人間として生きられるように。あなたが、誰かの道具にならないように。そして、あなた自身が、自分の意思で未来を選べるように」
エリナは、目を伏せた。
「そのために、私は、あなたに嘘をつきました」
「……俺の母親ではないと?」
「いいえ」
彼女は、首を横に振った。
「私は、あなたを生んでいません。それは事実です。でも、あなたを育てたのは、私です」
ロウは、息を呑んだ。
「……どういう意味だ」
エリナは、ゆっくりと語り始めた。
百四十七年前。
世界が分離する直前。
人間と魔物は、同じ世界に暮らしていた。
しかし、同じ世界に存在しているからといって、平和だったわけではない。
人間は、魔物の力を恐れた。
魔物は、人間の数と技術を恐れた。
互いの領土を奪い合い、資源を巡って争い、相手を理解できないまま、恐怖を積み重ねていった。
それでも、すべての人間が魔物を憎んでいたわけではない。
すべての魔物が人間を憎んでいたわけでもない。
共に暮らす者たちがいた。
家族になった者たちがいた。
互いの違いを認めながら、同じ場所で生きようとした者たちがいた。
しかし、その共存を困難にする、別の問題があった。
認識の衝突。
人間が、魔物を人間として認識する。
魔物が、人間を魔物として認識する。
そのような現象が、少しずつ増えていった。
同じ人物が、見る者によって異なる姿に見える。
同じ出来事が、人間と魔物で、まったく異なる記憶として残る。
同じ名前が、ある者にとっては存在を証明するものなのに、別の者にとっては、存在を否定するものになる。
最初は、小さな問題だった。
しかし、やがて、その認識の違いが、現実そのものに影響を与えるようになった。
人間の目には、魔物が人間を襲っているように見える。
魔物の目には、人間が魔物を襲っているように見える。
どちらの記録にも、相手が先に攻撃したと記される。
そして、互いに、自分たちこそが被害者だと信じるようになった。
「……それは、誰かが仕組んだことなのか?」
ロウが尋ねると、エリナは首を横に振った。
「最初から、誰かが意図的に起こしたことだったのか。それとも、世界の仕組みが、長い時間をかけて変化した結果だったのか。今でも、完全にはわかっていません」
「では、世界を分けることになった原因は?」
「認識を統一できなかったことです」
エリナは、静かに答えた。
「人間と魔物は、同じ世界に存在していました。しかし、互いが何者なのかについて、共通の認識を持つことができなくなった」
「だから、世界を分けた?」
「ええ。人間の世界と、魔物の世界を分ければ、互いの認識が衝突することを防げる。少なくとも、そう考えられました」
ロウは、眉をひそめた。
「それは、根本的な解決ではない」
「そのとおりです」
エリナは、頷いた。
「世界を分けることは、問題を解決する方法ではありませんでした。問題が起きる場所を、分けただけです」
「では、なぜ実行した?」
エリナは、目を伏せた。
「……それ以外に、間に合う方法がなかったからです」
彼女は、机の上から一枚の記録板を取り上げた。
そこには、古い文章が記されていた。
認識衝突、拡大。
人間側の記録と、魔物側の記録が一致しない。
同一人物の存在証明が、両側で相互に否定される。
境界固定を実行しなければ、世界全体の認識が崩壊する可能性がある。
ロウは、記録を見つめた。
「……世界全体の認識が崩壊する?」
「人間と魔物の区別だけではありません」
エリナは、答えた。
「自分と他人の区別。過去と現在の区別。生者と死者の区別。名前と存在の区別。あらゆる認識が、互いに矛盾し始めていたのです」
ロウは、墓地で出会った少女を思い出した。
どちらの世界にも属さない者。
名前を失い、存在を認識されなくなった者。
「……世界を分けることで、そうした矛盾を止めたのか」
「一時的には」
エリナは、頷いた。
「ですが、世界を分けたことで、新しい問題が生まれました」
「何が起きた?」
「世界を分ける際、すべての存在を、どちらか一方に分類する必要がありました」
エリナは、ロウを見た。
「人間の世界に属する者。魔物の世界に属する者。そして、どちらにも完全には属さない者」
ロウは、息を呑んだ。
「……第三の分類」
「ええ」
エリナは、続けた。
「しかし、当時の仕組みには、第三の分類を受け入れる場所がありませんでした。人間か、魔物か。どちらかに分類できなければ、存在を記録できなかった」
「それで、分類できない者が消えたのか」
「消えた者もいます。記録から外れた者もいます。別の存在として認識されるようになった者もいます」
エリナは、静かに答えた。
「そして、その一部は、世界の外側に取り残されました」
ロウは、目を閉じた。
墓地の少女。
名前を持たない子供。
そして、記録に存在しない門番。
彼らは、世界を分離する際に生まれた、分類の失敗だったのかもしれない。
しかし、失敗という言葉だけで片づけていい存在ではない。
彼らは、それぞれの人生を持っていた。
誰かを愛し、誰かを憎み、誰かを守ろうとしていた。
世界の仕組みに合わなかったからといって、存在する価値がなかったわけではない。
「……俺は、何のために作られた?」
ロウは、尋ねた。
エリナは、目を伏せた。
「あなたは、二つの世界を同時に観測するために作られました」
「人間と魔物の両方を?」
「ええ」
「なぜ、俺なんだ」
エリナは、すぐには答えなかった。
やがて、彼女は、ロウの手を取った。
「あなたには、人間の血と、魔物の血が流れています」
ロウは、黙った。
「それは、単なる混血という意味ではありません。あなたは、人間の世界と魔物の世界、どちらの認識にも完全には固定されない存在として設計されたのです」
「……設計された」
その言葉は、ひどく冷たく聞こえた。
「俺は、最初から、人間でも魔物でもないものとして作られたのか」
「いいえ」
エリナは、はっきりと答えた。
「あなたは、人間でもあり、魔物でもあります。それは、あなたがどちらか一方に分類されなければならない理由にはなりません」
ロウは、彼女を見た。
エリナは、続けた。
「あなたを設計した者たちは、あなたを分類するために作ったのではありません。分類できない存在が、存在し続けられる可能性を確かめるために、あなたを作ったのです」
「……だが、俺は生きてきた。普通の人間として」
「それこそが、あなたを作った理由の一つです」
エリナは、静かに答えた。
「あなたが誰かのために生きる道具にならないように。あなた自身が、自分の名前を持ち、自分の人生を選べるように」
ロウは、彼女の手を離した。
「……それでも、俺は作られた存在だ」
「そうです」
エリナは、否定しなかった。
「あなたが生まれた理由を、私が隠してきたことも事実です。あなたが、自分の人生について、何も知らないまま生きてきたことも」
彼女は、深く頭を下げた。
「……ごめんなさい」
ロウは、彼女を見つめた。
謝罪を受け入れることはできる。
しかし、謝罪だけで、失われた時間が戻るわけではない。
彼は、長いあいだ、自分の血筋を理由に軍から外されたことを恨んでいた。
自分が何者なのか、なぜ生まれたのか、何度も考えてきた。
それでも、彼は自分の名前を捨てなかった。
ロウ・テュユール。
それが、自分の名前だった。
誰かが決めた名前であっても。
誰かが与えた役割があっても。
その名前で生きてきた時間は、確かに自分のものだった。
「……一つ、聞きたい」
ロウは、静かに言った。
「あなたは、俺を愛していたのか?」
エリナは、顔を上げた。
その目に、涙が浮かんでいた。
「……ええ」
彼女は、答えた。
「あなたを生んだわけではありません。でも、あなたが初めて泣いたとき、私はあなたを抱きしめました。あなたが初めて歩いたとき、私はあなたの手を取りました。あなたが熱を出したとき、私は夜通しそばにいました」
エリナは、震える声で続けた。
「あなたが、自分の名前を覚えたとき。初めて、誰かを助けたいと言ったとき。初めて、自分の力で立ち上がったとき。私は、そのすべてを見ていました」
彼女は、ロウの手を握った。
「あなたが何のために作られた存在だったとしても、私にとって、あなたは私の子供でした」
ロウは、目を閉じた。
胸の奥が、痛かった。
それが、怒りなのか。
悲しみなのか。
それとも、ようやく得られた答えへの安堵なのか。
彼には、わからなかった。
「……なら、どうして、俺に真実を話さなかった?」
エリナは、手を離した。
「あなたに、自分で選んでほしかったからです」
「何を?」
「自分が何者なのかを」
エリナは、静かに答えた。
「あなたが、世界を分離するために作られた存在だと知れば、あなたは、自分の人生をその役割に合わせようとするかもしれない。あるいは、誰かが、あなたにその役割を押しつけるかもしれない」
彼女は、ロウを見た。
「私は、それを恐れていました」
「……だから、隠したのか」
「ええ」
ロウは、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「……それは、俺のためだったのかもしれない」
エリナは、顔を上げた。
「だが、俺が自分で選ぶためには、知る権利も必要だった」
彼女は、目を伏せた。
「……そのとおりです」
「俺は、あなたを責めるために、ここへ来たわけじゃない」
ロウは、立ち上がった。
「ただ、知りたかった。自分が何者なのか。なぜ生まれたのか。そして、俺が生まれるために、誰が犠牲になったのか」
エリナは、ゆっくりと頷いた。
「……その答えも、話しましょう」
彼女は、部屋の奥にある、もう一つの扉を開いた。
その先には、小さな部屋があった。
中央に、透明な容器が置かれている。
容器の中には、黒い石があった。
四つの円が刻まれた、黒い石。
ロウは、その石を見た瞬間、胸の奥でアベルが叫ぶのを聞いた。
『兄さん!』
ロウは、容器に近づいた。
石の表面には、細い亀裂が走っている。
そして、その亀裂の奥から、かすかな光が漏れていた。
「……これは、何だ?」
エリナは、答えた。
「あなたの、最初の記録です」
ロウは、息を呑んだ。
「……俺の?」
「ええ」
彼女は、石の表面に手を触れた。
「あなたは、百四十七年前に生まれたわけではありません。ですが、あなたの存在を示す記録は、百四十七年前に作られました」
「なぜ?」
「あなたが生まれるためには、二つの世界が必要だったからです」
ロウは、眉をひそめた。
エリナは、続けた。
「あなたは、人間の世界で生まれました。そして、あなたと同じ存在が、魔物の世界にも生まれました」
「……向こう側の俺か」
「そうです」
エリナは、頷いた。
「二人は、同じ名前を持ち、同じ役割を与えられました。しかし、別々の世界で、別々の経験を積み、別々の人生を生きることになりました」
ロウは、黒い石を見つめた。
「……それが、俺たちなのか」
「ええ」
エリナは、静かに答えた。
「そして、あなたたち二人が、互いの存在を認めることができれば、世界を分離する仕組みを変えることができる」
ロウは、目を細めた。
「……第三の世界を作るために?」
「第三の世界を作ることも、その可能性の一つです」
エリナは、答えた。
「ですが、それだけが目的ではありません」
「では、何が目的だ?」
エリナは、黒い石を見た。
そして、静かに言った。
「世界を、誰かの認識だけで決められないようにすることです。」
ロウは、息を呑んだ。
人間が、人間の認識だけで世界を決める。
魔物が、魔物の認識だけで世界を決める。
どちらか一方が、自分たちの見ているものだけを真実だと決めつければ、もう一方は、存在そのものを否定される。
その仕組みを変えるために、二人の観測者が作られた。
人間の世界に生きるロウ。
魔物の世界に生きる、もう一人のロウ。
二人が互いの存在を認めることで、世界は、どちらか一方の認識だけに固定されなくなる。
「……だが」
ロウは、黒い石を見つめた。
「それなら、なぜ、世界を分けたままにしている?」
エリナは、目を伏せた。
「……それは、私が、失敗したからです」
6.母が隠した失敗
「私は、世界を分離することに反対していました」
エリナは、静かに語り始めた。
「人間と魔物が互いを理解できなくなったからといって、世界を分けることが、正しい解決策だとは思えなかったのです」
彼女は、黒い石を見た。
「けれど、当時の世界は、すでに崩壊の危機にありました。認識の衝突は拡大し、同じ場所に存在する者たちが、互いを認識できなくなっていた」
「……世界を分けなければ、全員が消えていた可能性がある」
「ええ」
エリナは、頷いた。
「だから、私は、世界を分けること自体を止めるのではなく、世界を分けたあとに、再び一つに戻せる仕組みを作ろうとしました」
「それが、観測者分離計画か」
「そうです」
彼女は、記録板を取り出した。
そこには、二人の名前が記されていた。
ロウ・テュユール。
アベル。
「人間の世界と魔物の世界。それぞれに、もう一方の世界を観測できる存在を置く。その二人が、互いの存在を認めることができれば、世界の認識を固定する仕組みを、少しずつ変えることができる」
「……それで、俺たちが作られた」
「ええ」
ロウは、眉をひそめた。
「だが、なぜ、俺とアベルなんだ?」
エリナは、答えなかった。
代わりに、彼女は黒い石を指さした。
「この石は、最初の観測装置です。世界が分離する直前、私たちは、この石を使って、世界の認識を記録しようとしました」
「何が起きた?」
エリナは、目を閉じた。
「……観測に失敗しました」
彼女の声は、震えていた。
「私たちは、世界を二つに分けることはできました。しかし、分離した世界を、同時に観測することはできなかった」
「なぜ?」
「観測者自身も、世界の一部だったからです」
エリナは、静かに答えた。
「人間の世界を観測する者は、人間の世界の認識に固定される。魔物の世界を観測する者は、魔物の世界の認識に固定される。どちらの世界も、外側から観測できる存在が必要だったのです」
ロウは、息を呑んだ。
「……世界の外側にいる存在」
「そうです」
エリナは、黒い石に手を触れた。
「しかし、世界の外側にいる存在は、世界の内側にいる者たちを、完全には理解できません。世界の内側にいる者たちも、外側の存在を、完全には認識できません」
「それで、俺たちが作られたのか」
「ええ」
彼女は、頷いた。
「あなたと、もう一人のロウ。二人は、別々の世界に生まれながら、同じ名前と役割を持つ存在として設計されました」
「だが、俺たちは、互いを認識できなかった」
「そうです」
エリナは、目を伏せた。
「本来なら、二人が互いの存在を認識することで、世界を分離する仕組みを変えることができるはずでした。ですが、二人の記憶を接続するためには、第四の扉を開く必要があった」
「……第四の扉」
「ええ」
彼女は、ロウを見た。
「第四の扉は、世界の内側と外側をつなぐための扉です。人間と魔物を分けるための扉ではありません。世界を分ける仕組みそのものを、観測するための扉です」
ロウは、思い出した。
三つの封印された門。
第一の門は、外側からの侵入を防ぐ。
第二の門は、内側から何かが流れ出ることを防ぐ。
第三の門は、境界そのものを固定する。
そして、第四の扉。
それは、世界の内側と外側をつなぐ扉だった。
「……だが、第四の扉は、開かなかった」
「ええ」
エリナは、頷いた。
「第四の扉を開くには、二人の観測者が、互いの存在を認める必要がありました。しかし、二人は、互いの存在を認識できなかった」
「……なぜだ?」
エリナは、しばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「私が、二人を分けたからです」
ロウは、息を呑んだ。
「……あなたが?」
「ええ」
エリナは、目を伏せた。
「私は、二人が互いの存在を認識する前に、世界の分離が完了してしまうことを恐れました。もしも二人が、互いの存在を認識する前に、世界が完全に固定されてしまえば、二人は、永遠に別々の世界に閉じ込められることになる」
彼女は、黒い石を見た。
「だから、私は、二人の記憶を分離しました」
「……何のために?」
「二人が、それぞれの世界で、自分自身の人生を生きられるようにするためです」
エリナは、静かに答えた。
「互いの存在を知らないまま、別々の人生を生きる。その過程で、二人が、それぞれの世界にいる人間や魔物と出会い、誰かを守り、誰かを失い、誰かを愛する。その経験を通じて、二人が、互いの世界を理解できるようになる」
ロウは、黙った。
「……それは、賭けだったのか」
「そうです」
エリナは、頷いた。
「私は、二人が互いの存在を認めることができると信じました。どちらか一方の世界だけを選ぶのではなく、両方の世界を残す方法を、二人なら見つけられると」
彼女は、ロウを見た。
「ですが、私は、もう一つのことを恐れていました」
「何を?」
エリナは、震える声で答えた。
「……二人が、互いの存在を認めた瞬間、どちらか一方が消えてしまうことです」
ロウは、息を呑んだ。
同じ存在が、二つの世界に存在している。
二人が互いを認識したとき、世界は、どちらか一方を本物として選ぼうとするかもしれない。
それは、世界の仕組みそのものが、存在を一つに固定しようとするからだ。
「……それで、あなたは、第四の扉を閉じたのか」
「ええ」
エリナは、頷いた。
「第四の扉を開くことができれば、二人は互いを認識できる。しかし、二人が互いを認識すれば、どちらか一方が消える可能性がある」
彼女は、目を伏せた。
「私は、その選択を、二人にさせることができませんでした」
ロウは、長いあいだ、何も言わなかった。
母親は、二人を守ろうとした。
しかし、そのために、二人を分離した。
二人が互いを認識すれば、どちらか一方が消えるかもしれない。
だから、認識させないまま、別々の人生を生きさせた。
それは、守るための選択だった。
だが、同時に、二人が自分の人生について知る機会を奪う選択でもあった。
「……あなたは、俺たちを守りたかったんだな」
ロウが言うと、エリナは頷いた。
「ええ」
「だが、守るために、俺たちの選択を奪った」
エリナは、目を伏せた。
「……そのとおりです」
ロウは、ゆっくりと息を吐いた。
「なら、今度は、俺たちに選ばせてくれ」
エリナは、顔を上げた。
「……ロウ」
「俺は、世界を一つに戻すかどうか、まだ決めていない。第三の世界を作ることが、本当に正しいのかもわからない」
彼は、黒い石を見た。
「だが、俺と、もう一人の俺が、互いの存在を認めるかどうか。それを、あなたが決めることはできない」
エリナは、何も言わなかった。
ロウは、続けた。
「俺たちは、あなたが作った存在かもしれない。あなたが、俺たちの記憶を分離したのかもしれない。それでも、俺たちは、それぞれの人生を生きてきた」
彼は、彼女を見た。
「俺たちが、何を選ぶのか。それは、俺たち自身が決める」
エリナの目から、涙がこぼれた。
「……そうですね」
彼女は、静かに答えた。
「あなたは、もう、自分で選べるのですね」
ロウは、頷いた。
その瞬間、部屋の奥から、低い音が響いた。
黒い石が、震えている。
表面の亀裂が、ゆっくりと広がっていく。
エリナは、顔色を変えた。
「……いけない」
「何が起きた?」
「第四の扉が、開き始めています」
ロウは、黒い石を見た。
「……誰が開いている?」
エリナは、震える声で答えた。
「……アベルです」
7.生まれる前の子供
黒い石の亀裂から、光が漏れていた。
光は、ゆっくりと広がり、部屋の壁を照らしている。
エリナは、石から距離を取った。
「……アベルが、こちら側へ近づいている」
ロウは、胸の奥に意識を向けた。
『アベル!』
返事はなかった。
『アベル、聞こえるか!』
沈黙。
ロウの胸が、強く脈打った。
今まで、アベルは、いつでもロウの呼びかけに応えてきた。
怒ったときも。
迷ったときも。
恐怖を感じたときも。
しかし、今は、何も聞こえない。
「……エリナ」
ロウは、彼女を見た。
「アベルは、何者なんだ?」
エリナは、目を伏せた。
「……第二観測者です」
「それは、知っている。だが、なぜ、俺の中にいる?」
エリナは、しばらく黙っていた。
やがて、彼女は答えた。
「アベルは、まだ生まれていない存在だからです」
「……どういう意味だ?」
「あなたの世界には、人間と魔物がいます。そして、世界の外側に取り残された者たちがいる」
彼女は、黒い石を見た。
「ですが、第三の世界には、まだ誰もいません」
ロウは、息を呑んだ。
「……第三の世界そのものが、アベルなのか?」
「いいえ」
エリナは、首を横に振った。
「アベルは、第三の世界を作るために必要な存在です。けれど、第三の世界そのものではありません」
彼女は、続けた。
「世界を一つに戻すためには、二つの世界の認識を、同時に観測する必要があります。しかし、それだけでは足りません」
「何が足りない?」
「どちらの世界にも、完全には属さない存在を、受け入れる場所です」
ロウは、墓地の少女を思い出した。
名前を持たない子供。
世界の外側に残された者。
そして、名前を失った兵士たち。
「……第三の世界は、そうした者たちが存在するための場所なのか」
「その可能性があります」
エリナは、慎重に答えた。
「ただし、それだけではありません。第三の世界が生まれれば、人間と魔物のどちらか一方の認識だけで、世界を決める必要がなくなるかもしれない」
ロウは、黒い石を見た。
「……だが、アベルは、まだ生まれていない」
「ええ」
「それなのに、俺の中にいる」
エリナは、静かに頷いた。
「あなたの世界では、アベルは、まだ生まれていない存在として記録されています。しかし、もう一つの世界では、アベルは、すでに存在している可能性があります」
ロウは、息を呑んだ。
「……向こう側の俺が、アベルを知っていたのは、そのためか」
「そうかもしれません」
エリナは、答えた。
「二つの世界は、完全には分離されていません。互いの記憶が、少しずつ流れ込んでいる。そのため、あなたは、もう一人の自分の記憶を感じることがある」
「……だが、俺の中にいるアベルは、向こう側のアベルと同じ存在なのか?」
エリナは、すぐには答えなかった。
「……それは、わかりません」
ロウは、彼女を見た。
「わからない?」
「ええ。アベルという名前が、二つの世界に存在していることは確かです。しかし、二つの名前が、同じ存在を指しているのか。それとも、別々の存在なのか。私にも、判断できません」
彼女は、黒い石を見つめた。
「だからこそ、あなたたちが互いの存在を認める必要があるのです」
ロウは、目を閉じた。
胸の奥で、かすかな声が聞こえた。
『……兄さん』
ロウは、すぐに意識を向けた。
『アベル!』
『……ごめん』
アベルの声は、ひどく遠かった。
『僕、もう、ここにいられないかもしれない』
ロウは、息を呑んだ。
『どういう意味だ?』
『僕の名前が、向こう側で呼ばれている』
『……誰が?』
『兄さん』
アベルは、震える声で続けた。
『あの人が、僕を呼んでいる』
ロウは、もう一人のロウを思い出した。
アベルが、兄と呼んだ男。
向こう側の世界で生きてきた、もう一人の自分。
『……お前は、そちらへ行きたいのか?』
アベルは、すぐには答えなかった。
『……わからない』
その声は、悲しそうだった。
『僕は、生まれたい。でも、僕が生まれたら、誰かが消えるかもしれない』
ロウは、目を閉じた。
『……そうだな』
『兄さんは、僕を生まれさせたい?』
ロウは、答えなかった。
アベルは、続けた。
『僕が生まれたら、兄さんの中から、僕はいなくなるかもしれない』
『……ああ』
『それでも、僕を生まれさせたい?』
ロウは、胸の奥に意識を向けた。
アベルは、彼の中にいた。
長いあいだ、共に過ごしてきた。
ときには、彼を助けた。
ときには、彼を困らせた。
そして、何度も、彼に問いかけてきた。
自分は、生まれていいのか。
自分は、何者なのか。
自分は、誰かを犠牲にせずに生きられるのか。
ロウは、静かに答えた。
『……お前が、生まれたいと望むなら、俺はその願いを否定しない』
アベルは、黙っていた。
『だが、お前が生まれるために、誰かが消えなければならないというのなら、俺は、その仕組みを変える方法を探す』
『……そんな方法があるの?』
『わからない』
ロウは、正直に答えた。
『だが、わからないからといって、最初から諦める理由にはならない』
アベルは、しばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
『……兄さんは、いつもそうだね』
『何がだ?』
『わからないことを、わからないままにしておけない』
ロウは、少しだけ笑った。
『衛兵の仕事だからな』
アベルは、小さく笑ったようだった。
『……そっか』
その瞬間、黒い石が強く光った。
ロウの胸に、鋭い痛みが走った。
彼は、膝をついた。
「ロウ!」
エリナが駆け寄った。
ロウは、胸を押さえた。
そこに、何かがある。
自分の心臓とは違う、もう一つの鼓動。
それが、ゆっくりと、確かなリズムで動いていた。
そして、ロウの耳元で、アベルが囁いた。
『……兄さん』
『何だ?』
『僕、決めたよ』
ロウは、息を止めた。
『何を?』
『僕は、生まれたい』
アベルは、静かに答えた。
『でも、誰かを消して生まれるんじゃない』
ロウは、胸の奥で、アベルの声を聞いていた。
『僕は、僕の名前で生まれたい』
その言葉と同時に、黒い石の表面に、新しい文字が浮かび上がった。
『第二観測者、自己定義を開始』
エリナは、目を見開いた。
「……そんな」
「何が起きた?」
ロウが尋ねると、エリナは震える声で答えた。
「アベルが……自分の名前を、選び始めたのです」
ロウは、黒い石を見た。
「それは、問題なのか?」
エリナは、首を横に振った。
「いいえ。むしろ、これは……」
彼女は、言葉を切った。
その顔に、驚きと、恐怖と、希望が浮かんでいた。
「……私たちが、百四十七年前から待ち続けていたことです」
ロウは、石を見つめた。
アベルは、自分の名前を選ぼうとしている。
誰かに与えられた名前ではなく。
誰かのために用意された役割でもなく。
自分自身が、何者なのかを決めるために。
そのとき、部屋の外から、警報が鳴った。
一度。
二度。
三度。
エリナが、顔色を変えた。
「……いけない」
ロウは、立ち上がった。
「何が起きた?」
「世界の境界が、崩れ始めています」
彼女は、扉へ向かった。
「あなたがこちら側へ来たことで、二つの世界の観測が始まった。そして、アベルが自分の名前を選び始めたことで、世界の分離を維持する仕組みが、変化し始めたのです」
ロウは、扉を開いた。
廊下の向こうで、兵士たちが走っている。
壁に亀裂が走り、天井の一部が、別の景色に置き換わっていた。
砦の中に、もう一つの砦が重なり始めている。
同じ兵士が、二人いる。
同じ記録が、二冊ある。
そして、同じ名前を持つ者たちが、互いを見て、叫んでいた。
「お前は誰だ!」
「俺が本物だ!」
「違う、俺が本物だ!」
世界の境界が、崩れ始めていた。
ロウは、エリナを見た。
「……止める方法は?」
エリナは、首を横に振った。
「今の私には、ありません」
「なら、どうすればいい?」
エリナは、ロウを見た。
「……あなたが、もう一人の自分と、互いの存在を認めることです」
ロウは、廊下の向こうを見た。
そこに、もう一人のロウが立っていた。
彼は、こちらを見ていた。
そして、静かに言った。
「……ようやく、ここまで来たな」
ロウは、彼を見つめた。
「……何をすればいい?」
男は、答えた。
「俺の名前を呼べ」
ロウは、息を呑んだ。
「……お前の名前は、ロウ・テュユールだろう」
男は、首を横に振った。
「それは、俺が持っている名前だ」
彼は、静かに続けた。
「だが、俺が生まれる前に、俺が持っていた名前がある」
ロウは、彼を見た。
「……それは、何だ?」
男は、目を閉じた。
そして、答えた。
「……まだ、思い出せない」
ロウは、動かなかった。
男は、続けた。
「だから、お前が呼んでくれ」
「……俺が?」
「ああ」
男は、ロウを見た。
「お前は、俺が忘れた存在だ。俺が忘れた名前を、お前が覚えているかもしれない」
ロウは、胸の奥に意識を向けた。
アベルが、何かを伝えようとしている。
『兄さん』
『……何だ』
『あの人の名前は……』
アベルの声が、途切れた。
『……僕が、知っている』
ロウは、息を呑んだ。
『何という名前だ?』
長い沈黙があった。
そして、アベルは答えた。
『……エドリック』
ロウの身体が、凍りついた。
エドリック・ヴェイン。
百四十七年前の記録に残る、王国の技師。
第四の扉を発見し、自分の名前を失った男。
そして、ベルン・ハルトという名前を、何度も継承してきた者たちの記録に関わっていた人物。
ロウは、目の前の男を見た。
「……エドリック」
男の目が、見開かれた。
その瞬間、砦の壁に刻まれた文字が、一斉に光った。
『第一観測者、名前を認識』
『第二観測者、名前を認識』
『再接続条件、一部成立』
男は、震える声で呟いた。
「……そうか」
彼は、ロウを見た。
「俺は……エドリック・ヴェインだった」
その瞬間、世界が揺れた。
8.消える記録、残る名前
砦の揺れは、数秒で収まった。
しかし、壁に刻まれた文字は消えていなかった。
『再接続条件、一部成立』
その下に、新たな文章が浮かび上がっている。
『第一観測者、存在の確認』
『第二観測者、存在の確認』
『第三観測者、未確定』
ロウは、文字を見つめた。
「……第三観測者?」
エドリックは、首を横に振った。
「俺にも、わからない」
「お前は、百四十七年前の技師だったんだろう?」
「ああ」
エドリックは、答えた。
「だが、俺の記憶は完全ではない。自分が何をしたのか、なぜ名前を失ったのか。どこまでが俺自身の記憶で、どこからが、別の誰かの記憶なのか。それすら、はっきりしない」
彼は、自分の手を見た。
「俺は、長いあいだ、ベルン・ハルトという名前を持っていた。だが、その名前を持つたびに、誰かの記憶が流れ込んできた」
「……ベルン・ハルトの名前を継承した者たちか」
「そうだ」
エドリックは、頷いた。
「俺が覚えているのは、誰かの弟だったこと。誰かの兄だったこと。そして、誰かを守るために、名前を捨てたこと」
ロウは、息を呑んだ。
「……お前は、誰を守った?」
エドリックは、しばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「……お前だ」
ロウは、動かなかった。
「俺を?」
「ああ」
エドリックは、ロウを見た。
「お前が生まれるために、俺は名前を捨てた」
ロウは、息を呑んだ。
「……どういう意味だ?」
エドリックは、机の上に、古い記録板を置いた。
そこには、百四十七年前の日付が記されていた。
観測者生成計画、最終段階。
第一観測者、ロウ・テュユール。
第二観測者、アベル。
生成条件:既存の名前を持つ者が、その名前を返還すること。
代償:返還者の記憶と、存在の一部が失われる可能性がある。
ロウは、記録を見つめた。
「……名前を返還する?」
エドリックは、頷いた。
「観測者を作るためには、世界の認識に固定されていない存在が必要だった。だが、完全に新しい存在を作ることはできなかった」
「だから、既存の名前を使ったのか」
「そうだ」
エドリックは、静かに答えた。
「名前は、単なる呼び名ではない。世界が、ある存在を認識するための記録でもある。名前を返還することは、その存在が、世界に固定されていた記録を手放すことでもあった」
ロウは、目を閉じた。
名前を失った者たち。
ベルン・ハルトという名前を何度も継承した者たち。
彼らは、ただ名前を変えられただけではなかった。
世界の認識に固定されていた記録を、少しずつ手放していたのだ。
「……お前は、そのために名前を捨てたのか」
エドリックは、頷いた。
「俺だけではない。多くの者が、名前を返還した。ある者は、自分の人生を失った。ある者は、記憶を失った。ある者は、別の名前を与えられ、別の人生を生きることになった」
彼は、ロウを見た。
「だが、誰も、完全には消えなかった。名前を失っても、その者が生きた時間は、どこかに残った」
ロウは、墓地の少女を思い出した。
彼女は、名前を失っていた。
しかし、彼女の存在は、消えていなかった。
誰にも見えなくても。
誰にも認識されなくても。
彼女は、確かにそこにいた。
「……なら、名前を返せば、存在を取り戻せるのか?」
エドリックは、首を横に振った。
「わからない。名前を返還することと、名前を取り戻すことは、同じではない」
彼は、記録板を見た。
「名前を返還することで、世界の認識から外れることはできる。だが、名前を取り戻すには、その存在が、自分自身を再び定義する必要がある」
ロウは、頷いた。
アベルが、自分の名前を選び始めた。
それは、誰かに与えられた名前を受け入れるのではなく、自分自身を定義しようとしているということだった。
そして、エドリックは、かつて自分の名前を返還した。
その結果、彼は、長いあいだ、別の名前を持つ者として生きてきた。
「……エドリック」
ロウは、彼を見た。
「お前は、今、その名前を取り戻した」
エドリックは、自分の手を見た。
「……ああ」
「それなら、これからどうする?」
エドリックは、すぐには答えなかった。
やがて、彼は静かに言った。
「……わからない」
ロウは、頷いた。
「それでいい」
エドリックは、顔を上げた。
「……何?」
「自分の名前を取り戻したからといって、これから何をするかまで、すぐに決める必要はない」
ロウは、彼を見た。
「お前が、どんな人生を生きるのか。それは、お前自身が決めればいい」
エドリックは、しばらくロウを見つめていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……そうだな」
そのとき、廊下の向こうから、兵士の叫び声が聞こえた。
「隊長! 大変です!」
一人の兵士が、部屋へ駆け込んできた。
「外壁が……外壁が、消え始めています!」
ロウは、すぐに部屋を出た。
砦の外壁には、無数の亀裂が走っていた。
壁の一部が、別の景色に置き換わっている。
その向こうには、こちら側の黒門砦が見えた。
同じ兵舎。
同じ門。
同じ兵士たち。
しかし、そこには、別の人間が立っていた。
こちら側のセラ。
こちら側のオスカー。
こちら側のミラ。
彼らは、こちらを見ていた。
セラが、何かを叫んでいる。
声は届かない。
しかし、彼女の表情から、危険を知らせていることがわかった。
ロウは、壁へ近づいた。
壁の向こうで、セラが手を伸ばしている。
ロウも、手を伸ばした。
指先が、壁に触れた。
その瞬間。
世界が、二つに重なった。
9.同じ人間が、二人いる
「隊長!」
セラの声が、聞こえた。
ロウは、目を開いた。
目の前に、セラがいた。
しかし、彼女は一人ではなかった。
壁の向こうにも、同じセラが立っている。
同じ顔。
同じ制服。
同じ傷。
同じ目。
二人のセラが、互いを見つめていた。
「……あなたは、誰?」
片方のセラが尋ねた。
もう片方のセラが、剣を抜いた。
「そちらこそ、誰ですか!」
ロウは、すぐに二人の間へ入った。
「剣を下ろせ!」
二人のセラが、同時にロウを見た。
そして、同じ言葉を口にした。
「隊長、そいつは偽物です!」
ロウは、息を呑んだ。
二人とも、同じことを言っている。
どちらも、自分が本物だと信じている。
どちらも、相手を偽物だと認識している。
そして、どちらも、ロウを隊長と呼んでいる。
「……二人とも、剣を下ろせ」
ロウは、静かに言った。
二人のセラは、動かなかった。
「隊長、そいつは……」
「違う。俺の命令を聞け」
ロウは、声を強めた。
「剣を下ろせ!」
二人のセラが、同時に剣を下ろした。
ロウは、息を吐いた。
「……二人とも、俺を知っているんだな?」
二人は、同時に頷いた。
「なら、俺が何を考えているか、わかるか?」
片方のセラが答えた。
「隊長は、私たちを傷つけたくないと考えています」
もう片方のセラも、答えた。
「隊長は、私たちを傷つけたくないと考えています」
ロウは、目を閉じた。
「……そうだ」
彼は、二人を見た。
「俺は、どちらか一方を偽物だと決めつけるつもりはない」
二人のセラは、困惑した表情を浮かべた。
「ですが……」
「自分が本物だと証明したいのはわかる。だが、今ここで、どちらかを偽物だと決めることはできない」
ロウは、静かに続けた。
「二人とも、俺の知っているセラだ。二人とも、俺を隊長だと認識している。そして、二人とも、自分が本物だと信じている」
彼は、二人の顔を見た。
「なら、まずは、二人が何を経験してきたのかを聞く」
片方のセラが、震える声で尋ねた。
「……それで、どちらが本物だとわかるのですか?」
ロウは、首を横に振った。
「わからないかもしれない」
二人のセラは、黙った。
「だが、わからないからといって、どちらかを消していい理由にはならない」
その言葉に、二人の表情が変わった。
片方のセラが、目を伏せた。
もう片方のセラも、剣から手を離した。
「……隊長」
片方のセラが、静かに言った。
「私は、あなたと一緒に、黒門砦で働いてきました」
もう片方も、頷いた。
「私もです」
二人は、互いを見た。
そして、初めて、相手を敵としてではなく、同じ経験を持つ存在として見つめた。
「……あなたも、隊長を守ってきたのですか?」
片方が尋ねた。
「はい」
もう片方が答えた。
「何度も、命令に逆らってでも」
片方のセラが、少しだけ笑った。
「……私もです」
二人は、しばらく黙っていた。
そして、同時に、ロウを見た。
「隊長。どうすればいいのでしょう」
ロウは、答えなかった。
彼自身も、まだ答えを持っていない。
だが、ひとつだけ、確かなことがあった。
二人のセラは、同じ名前を持っている。
同じ役割を果たしてきた。
しかし、それぞれが生きてきた時間は、完全に同じではない。
彼女たちは、同じ存在でありながら、別々の人生を生きてきた。
そのどちらか一方だけを残すことが、本当に必要なのか。
ロウは、二人を見た。
「……まず、互いの名前を呼べ」
二人のセラは、戸惑った。
「……名前を?」
「ああ。自分の名前を名乗り、相手の名前を聞くんだ」
ロウは、静かに続けた。
「そして、相手が自分と同じ名前を持っていることを認めろ。だが、それだけで、相手が自分と同じ人生を生きてきたと決めつけるな」
二人は、互いを見つめた。
そして、片方が口を開いた。
「……私は、セラ・ヴォスです」
もう片方も、答えた。
「私も、セラ・ヴォスです」
二人は、同じ名前を名乗った。
しかし、今度は、相手を否定しなかった。
「……あなたも、セラ・ヴォスなのですね」
「はい」
二人は、ゆっくりと頷いた。
その瞬間、壁の亀裂が、わずかに縮まった。
ロウは、息を呑んだ。
二人の存在を、互いに認めたことで、世界の重なり方が変わったのか。
それとも、単に、境界が一時的に安定しただけなのか。
まだ、わからない。
しかし、少なくとも、互いを否定しなければ、すぐにどちらかが消えるわけではない。
「……オスカー!」
ロウは、声を上げた。
「記録を取れ! 二人のセラの証言を、それぞれ別に記録するんだ!」
オスカーが駆け寄ってきた。
「承知しました!」
「同じ名前だからといって、記録を一つにまとめるな。二人が経験してきたことを、それぞれ記録しろ!」
「はい!」
ロウは、壁の亀裂を見た。
同じ場所に、二つの世界が重なっている。
同じ人間が、二人いる。
そして、どちらも、自分が本物だと信じている。
それでも、互いの存在を認めることで、共に存在できる可能性がある。
それは、世界を一つに戻すための、最初の手がかりなのかもしれなかった。
しかし、その希望は、すぐに別の声によって打ち砕かれた。
「……隊長」
兵士の一人が、震える声で言った。
「こちら側の砦に、もう一人、ロウ隊長がいます」
ロウは、振り向いた。
廊下の向こうに、もう一人のロウが立っていた。
エドリックではない。
ロウと同じ顔をした、別の男。
彼は、こちらを見ていた。
そして、静かに言った。
「……遅かったな」
ロウは、息を呑んだ。
同じ世界に、ロウが二人いる。
それは、もう一つの世界から来たエドリックとは違う。
こちら側のロウと、向こう側のロウ。
二人の観測者が、同じ場所に存在している。
そして、二人の間に、もう一つの影が立っていた。
その影は、人間の姿をしていた。
しかし、顔がない。
黒い外套。
古い門番の制服。
そして、胸元には、金属の札が吊るされている。
札には、こう記されていた。
『門番の名前:返還済み』
ロウは、息を止めた。
門番。
消えたはずの、門番。
彼は、ロウたちを見た。
そして、静かに言った。
「……選択の時間だ」
10.門番の最後の問い
門番の声は、男とも女ともつかないものだった。
低く、乾いている。
まるで、長いあいだ誰とも話さずにいた者が、久しぶりに言葉を発したような声だった。
「……選択の時間だ」
ロウは、門番を見た。
「何の選択だ」
門番は、答えた。
「世界を残すか。世界を消すか」
「……それは、俺が拒否したはずだ」
「拒否は、記録された」
門番は、淡々と言った。
「しかし、世界の分離は、維持期限を迎えている。選択が行われなければ、世界は、自らの認識を固定しようとする」
「その結果、何が起きる?」
「互いを否定する存在が、同じ場所に存在できなくなる」
ロウは、二人のセラを見た。
そして、壁の亀裂を見た。
「……どちらかが消えるのか」
「そうだ」
門番は、頷いた。
「人間の世界と魔物の世界。どちらかが残り、どちらかが消える。あるいは、両方が消える」
「第三の世界は?」
「未確定」
「なぜだ」
門番は、しばらく黙っていた。
「第三の世界を作るためには、二つの観測者が、互いの存在を認める必要がある」
「……それは、わかっている」
「しかし、第三の観測者が、まだ確定していない」
ロウは、眉をひそめた。
「第三の観測者?」
門番は、胸元の札を指した。
「世界の外側に残された者たち。名前を失った者たち。どちらの世界にも属さない者たち。彼らを、第三の世界の住人として認識できるかどうか」
門番は、ロウを見た。
「その答えが、まだ出ていない」
ロウは、息を吐いた。
「……なら、答えが出るまで、選択を待てばいい」
「待つことはできない」
門番は、答えた。
「維持期限が終了すれば、世界は、自らの認識を固定しようとする」
「それを止める方法は?」
門番は、首を横に振った。
「存在しない」
ロウは、門番を見つめた。
「……本当に?」
「記録上、存在しない」
「なら、記録が間違っている可能性もある」
門番は、動かなかった。
ロウは、続けた。
「お前は、記録を守るために存在しているのか。それとも、世界を守るために存在しているのか」
門番は、長いあいだ黙っていた。
やがて、彼は答えた。
「……わからない」
ロウは、息を呑んだ。
門番が、わからないと答えた。
それは、これまでに聞いたことのない言葉だった。
「俺は、門を守るために存在している」
門番は、静かに続けた。
「しかし、門を守ることが、世界を守ることと同じなのか。今となっては、わからない」
彼は、ロウを見た。
「俺は、長いあいだ、門を守ってきた。人間が外へ出ないように。魔物が内側へ入らないように。そして、世界が二つに分かれたまま、維持されるように」
門番は、胸元の札を見た。
「だが、門を守ることで、世界の外側に取り残された者たちを、忘れてしまった」
ロウは、墓地の少女を思い出した。
名前を持たない子供。
世界の外側に残された者。
そして、門番が最後に残した言葉。
門を守る者は、門の外にいる者を忘れてはならない。
「……お前は、何を望んでいる?」
ロウが尋ねると、門番は、静かに答えた。
「……わからない」
彼は、続けた。
「ただ、もう、誰かの存在を、記録から消すことだけはしたくない」
ロウは、門番を見つめた。
「なら、俺と同じだ」
門番は、顔のない頭を、わずかに傾けた。
「……お前は、何を望む?」
ロウは、答えた。
「俺は、世界を一つに戻すことを、目的にはしない」
彼は、二人のセラを見た。
「同じ名前を持つ者が、二人存在している。それだけで、どちらか一方を消す必要があるとは思わない」
次に、壁の亀裂を見た。
「人間と魔物が、互いを理解できないことがある。それだけで、世界を分ける必要があるとも思わない」
そして、門番を見た。
「だが、互いを認めることができない者たちがいることも、忘れない。共存を望まない者もいる。誰かを傷つける者もいる。世界を一つに戻せば、すべてが解決するわけじゃない」
ロウは、静かに続けた。
「だから、俺は、世界を残す方法を探す。人間の世界も、魔物の世界も。そして、どちらにも属さない者たちが、生きられる場所も」
門番は、動かなかった。
「……それが、第三の世界か」
「まだ、わからない」
ロウは答えた。
「第三の世界を作ることが、本当に可能なのか。そこに誰が暮らすのか。何が失われるのか。それを、確かめる必要がある」
門番は、長いあいだ黙っていた。
そして、静かに言った。
「……なら、第四の扉を開け」
ロウは、息を呑んだ。
「……どうやって?」
門番は、胸元の札を外した。
札の裏には、小さな文字が刻まれていた。
『門番の名前:エドリック・ヴェイン』
ロウは、目を見開いた。
「……お前は、エドリックなのか?」
門番は、首を横に振った。
「違う」
彼は、静かに答えた。
「俺は、エドリックが返還した名前の一部だ」
「……名前の一部?」
「エドリックは、名前を返還した。そのとき、彼の記憶と存在の一部が、世界の外側へ移された」
門番は、札を見た。
「その一部が、門番として残った」
ロウは、息を呑んだ。
エドリックは、名前を返還した。
その結果、彼の記憶と存在の一部が、門番として世界の外側に残された。
そして、もう一つの部分は、ベルン・ハルトという名前を持つ者として、長いあいだ生きてきた。
「……お前は、エドリックの一部なのか」
「そうだ」
門番は、答えた。
「だが、エドリックそのものではない。俺には、エドリックの記憶がある。しかし、彼の人生のすべてを持っているわけではない」
ロウは、静かに頷いた。
「……なら、お前も、自分の名前を選べるはずだ」
門番は、動かなかった。
「俺に、名前はない」
「それは、誰が決めた?」
門番は、答えなかった。
ロウは、続けた。
「お前は、門を守るために存在している。だが、それは、お前が門番以外の何者にもなれないという意味ではない」
門番は、顔のない頭を、わずかに傾けた。
「……俺が、門番でなくなれば、門はどうなる?」
ロウは、答えた。
「わからない」
門番は、動かなかった。
ロウは、続けた。
「だが、お前が門番であり続けることが、世界を守ることと同じなのか。お前自身も、わからないと言ったはずだ」
門番は、長いあいだ黙っていた。
そして、静かに答えた。
「……そうだな」
彼は、札をロウに差し出した。
「これを、第四の扉に返せ」
ロウは、札を受け取った。
その瞬間、胸の奥でアベルが囁いた。
『兄さん』
『……何だ』
『僕、もうすぐ生まれるよ』
ロウは、目を閉じた。
『……ああ』
『でも、僕は、兄さんの代わりにはならない』
ロウは、息を呑んだ。
『……どういう意味だ?』
アベルは、静かに答えた。
『僕は、僕として生まれる』
その言葉と同時に、門番の姿が、わずかに揺らいだ。
顔のない頭に、細い亀裂が走る。
そして、その亀裂の奥から、光が漏れた。
門番は、ロウを見た。
「……行け」
ロウは、彼を見つめた。
「お前は、どうする?」
門番は、静かに答えた。
「……俺も、選ぶ」
その瞬間、門番の身体が、ゆっくりと崩れ始めた。
しかし、消えるわけではなかった。
黒い外套が、細かな光へ変わっていく。
金属の札が、ロウの手の中で震えた。
そして、門番の声が、最後に響いた。
「門を守る者は、門の外にいる者を忘れてはならない」
ロウは、札を握りしめた。
門番の姿が、消えた。
その場所には、誰もいなかった。
ただ、床に、短い文字が残されていた。
『門番の名前:返還済み』
その下に、別の文章が浮かび上がった。
『門番の記録:継承者へ移行』
ロウは、文字を見つめた。
そして、顔を上げた。
第四の扉を開かなければならない。
その向こうに、世界が分かれた理由がある。
そして、アベルが生まれるために必要な、最後の答えがある。
ロウは、エドリックを見た。
「……行こう」
エドリックは、頷いた。
「……ああ」
二人は、砦の奥へ向かって歩き出した。
その背後で、二つの世界が、ゆっくりと重なり始めていた。
11.第四の扉の前で
第四の扉は、砦の地下深くにあった。
百四十七年前の建築記録に残されていた、四つの円を刻んだ黒い門。
しかし、ロウが目の前に立ったとき、その門は、記録に記されていた姿とは違っていた。
四つの円のうち、三つが光っている。
残る一つは、空白だった。
門の中央には、文字が刻まれている。
『第一観測者』
『第二観測者』
そして、その下に、もう一つの文字。
『第三観測者』
ロウは、門を見つめた。
「……第三観測者は、誰なんだ?」
エドリックは、首を横に振った。
「わからない」
「門番は、世界の外側に残された者たちだと言っていた」
「そうだ。だが、それだけでは足りないのかもしれない」
ロウは、札を取り出した。
門番の名前が刻まれた金属の札。
その表面には、すでに文字が変化していた。
『門を守る者は、門の外にいる者を忘れてはならない』
ロウは、札を門の中央へ近づけた。
すると、門の表面が、かすかに光った。
四つの円が、順番に明滅する。
そして、門の中央に、新しい文章が浮かび上がった。
『第三観測者、候補を提示せよ』
ロウは、息を呑んだ。
「……候補?」
門の表面に、いくつもの名前が浮かび上がった。
ダレン・コル。
エルナ・ヴァイス。
ハンス・メルツ。
ベルン・ハルト。
エドリック・ヴェイン。
そして、名前のない子供。
ロウは、墓地の少女を思い出した。
彼女は、自分の名前を持っていなかった。
しかし、彼女は、名前を持たないことを、自分の存在がないことと同じだとは考えていなかった。
彼女は、名前を選ぶことができる。
その選択を、誰かに委ねる必要はない。
ロウは、門を見た。
「……第三観測者は、名前を持たない者たちだ」
門が、かすかに震えた。
『候補、複数』
ロウは、頷いた。
「そうだ。名前を失った者たち。世界の外側に残された者たち。人間でも魔物でもないと分類された者たち。彼らは、一人ではない」
門の表面に、無数の文字が浮かび上がった。
それは、名前だった。
知らない名前。
忘れられた名前。
記録から消された名前。
そして、まだ一度も呼ばれたことのない名前。
「……この全員を、第三観測者として認めることはできないのか?」
ロウが尋ねると、門は答えた。
『観測者は、一名でなければならない』
ロウは、目を細めた。
「……なぜだ?」
『記録上、観測者は一名である』
「記録が間違っている可能性は?」
沈黙。
ロウは、続けた。
「一人しか観測者になれないという記録があるからといって、本当に一人しか観測者になれないとは限らない」
門の表面が、揺らいだ。
『記録を変更する権限がない』
ロウは、息を吐いた。
「なら、権限を変える」
エドリックが、ロウを見た。
「……どうやって?」
ロウは、門を見つめた。
「記録を、記録として扱うんだ」
彼は、門の表面に手を触れた。
「記録は、過去に何が起きたかを残すものだ。だが、未来に何が起きるかを、すべて決めるものではない」
門の表面に、亀裂が走った。
「これまで、世界は、人間か魔物か、どちらかに分類されなければならなかった。名前を持つ者は、名前を与えられた者として記録されなければならなかった。観測者は、一人でなければならなかった」
ロウは、静かに続けた。
「だが、それは、世界の仕組みがそう決めていただけだ。そこに存在する者たちが、必ずしも、その分類を受け入れなければならないわけじゃない」
門が、強く震えた。
『記録の変更は、世界の認識を変化させる』
「そうだ」
ロウは、答えた。
「だから、変更する必要がある」
『変更の結果は、予測不能』
「わかっている」
『存在の消失が発生する可能性がある』
「それでも、誰かを消すことを前提にした記録を、永遠に守り続けるわけにはいかない」
ロウは、手を離さなかった。
「俺は、世界を一つに戻すために、誰かを消すつもりはない。人間の世界を残すために、魔物の世界を消すつもりもない。魔物の世界を残すために、人間の世界を消すつもりもない」
彼は、門の中央を見つめた。
「そして、第三の世界を作るために、名前を持たない者たちの中から、誰か一人を選んで、残りを消すつもりもない」
エドリックが、静かに言った。
「……なら、どうする?」
ロウは、答えた。
「第三観測者という役割そのものを、変える」
門が、強く光った。
『記録変更、要求』
ロウは、頷いた。
「第三観測者は、一人ではない」
彼は、はっきりと言った。
「世界の外側に残された者たち、名前を失った者たち、どちらの世界にも属さない者たち。その全員が、自分自身を観測する権利を持つ」
門の表面に、無数の文字が浮かび上がった。
それぞれの名前が、少しずつ形を変えていく。
ある名前は、元の形に戻った。
ある名前は、別の名前へ変わった。
ある名前は、初めて、文字として刻まれた。
そして、門の中央に、新しい文章が浮かび上がった。
『第三観測者、複数登録を開始』
ロウは、息を呑んだ。
エドリックも、目を見開いた。
「……成功したのか?」
「まだ、わからない」
ロウは、答えた。
そのとき、門の奥から、声が聞こえた。
「……兄さん」
ロウは、振り向いた。
そこに、アベルが立っていた。
小さな身体。
淡い色の瞳。
見覚えのある顔。
だが、ロウの胸の中には、まだ、アベルの声が残っていた。
「……アベル?」
アベルは、頷いた。
「うん」
ロウは、彼を見つめた。
「……お前は、外に出てきたのか?」
アベルは、少しだけ笑った。
「まだ、完全には」
彼は、自分の手を見た。
「僕は、まだ生まれていない。でも、僕が何者なのかを、自分で決め始めた」
ロウは、頷いた。
「……そうか」
アベルは、門を見た。
「兄さん。僕は、僕の名前で生まれたい」
ロウは、彼を見た。
「……ああ」
「でも、僕が生まれることで、誰かが消えるのは嫌だ」
「……俺もだ」
アベルは、静かに続けた。
「だから、僕は、第三観測者になりたい」
ロウは、息を呑んだ。
「……第三観測者?」
アベルは、頷いた。
「僕は、人間の世界にも、魔物の世界にも、完全には属していない。まだ生まれていないから。でも、僕は、どちらの世界も知っている」
彼は、ロウを見た。
「兄さんの世界を知っている。もう一人の兄さんの世界も知っている。そして、世界の外側に残された者たちのことも、少しだけ知っている」
アベルは、門の表面に手を触れた。
「だから、僕は、誰かを消さずに世界を変える方法を、探したい」
ロウは、彼を見つめた。
「……お前が、それを望むなら、俺は否定しない」
アベルは、頷いた。
その瞬間、門の四つの円が、すべて光った。
そして、第四の扉が、ゆっくりと開き始めた。
12.扉の向こうにいたもの
第四の扉の向こうには、部屋があった。
いや、部屋と呼ぶには、あまりにも広すぎた。
天井は見えない。
壁もない。
床だけが、どこまでも続いている。
その床には、無数の文字が刻まれていた。
人間の名前。
魔物の名前。
名前を失った者たちの記録。
そして、まだ生まれていない者たちの名前。
ロウは、ゆっくりと歩き出した。
足元の文字が、淡く光る。
一歩進むごとに、遠くの文字が、少しずつ浮かび上がっていく。
そこには、百四十七年前の出来事が記録されていた。
人間と魔物が、同じ世界に暮らしていた時代。
認識の衝突が拡大した時代。
世界を分離することが決定された時代。
そして、世界の外側に取り残された者たちの記録。
ロウは、その一つを見た。
墓地の少女。
名前を持たない子供。
彼女の記録には、こう記されていた。
分類不能。
世界分離時、所属先なし。
名前、未確定。
存在、継続。
ロウは、息を吐いた。
彼女は、存在している。
世界の仕組みに分類されなくても。
名前を持っていなくても。
誰にも認識されなくても。
存在そのものが、消えたわけではない。
ロウは、別の記録を見た。
ベルン・ハルト。
その名前を持った者たちの記録が、無数に並んでいる。
それぞれの人生。
それぞれの記憶。
それぞれの選択。
そして、その中に、エドリック・ヴェインの記録があった。
彼は、百四十七年前、世界の分離に反対していた。
しかし、世界の崩壊を防ぐために、名前を返還することを選んだ。
その結果、彼の存在は、複数の記録に分かれた。
一部は、ベルン・ハルトとして生きた。
一部は、門番として残った。
そして、一部は、世界の外側に取り残された。
ロウは、エドリックを見た。
「……お前は、これを知っていたのか?」
エドリックは、首を横に振った。
「知らなかった」
彼は、自分の記録を見つめた。
「俺は、自分の名前を失ったと思っていた。だが、実際には、名前だけではなく、存在そのものが分かれていたんだな」
ロウは、頷いた。
「……そうらしい」
そのとき、床の文字が、強く光った。
ロウは、振り向いた。
そこに、一人の女性が立っていた。
エリナ・テュユール。
彼女は、部屋の中央に立ち、ロウたちを見つめていた。
「……ここが、第四の扉の向こう側です」
ロウは、彼女を見た。
「……ここは、何なんだ?」
エリナは、静かに答えた。
「世界の記録が、世界そのものから分離されずに残っている場所です」
「……記録?」
「ええ」
彼女は、床を見た。
「世界の内側では、認識が衝突するたびに、記録が変化します。人間の記録と魔物の記録が一致しないとき、世界は、どちらか一方の認識に固定されようとする」
エリナは、ロウを見た。
「しかし、ここでは、矛盾する記録を、矛盾したまま残すことができます」
ロウは、息を呑んだ。
「……どちらか一方を選ばなくてもいいのか」
「ええ」
エリナは、頷いた。
「人間が見た世界と、魔物が見た世界。二つの記録が食い違っていても、どちらか一方を消す必要はありません」
ロウは、床の文字を見つめた。
「……なら、ここにある記録を、世界へ戻せばいい」
エリナは、首を横に振った。
「それだけでは、足りません」
「なぜ?」
「記録が戻っても、世界の認識が変わらなければ、同じことが繰り返されます」
エリナは、静かに続けた。
「人間と魔物が、互いを理解できないまま、相手を否定し続けるのなら、世界は、再び、どちらか一方の認識に固定されようとするでしょう」
ロウは、頷いた。
「……だから、観測者が必要なのか」
「そうです」
エリナは、ロウとアベルを見た。
「二人の観測者が、互いの存在を認める。そして、第三の観測者たちが、自分自身の存在を定義する。そのとき初めて、世界は、誰か一人の認識だけで決められるものではなくなります」
ロウは、床を見た。
そこには、まだ空白の場所があった。
無数の名前の中に、一つだけ、何も刻まれていない場所がある。
その空白は、部屋の中央にあった。
ロウは、ゆっくりと近づいた。
「……これは、何だ?」
エリナは、答えた。
「第三の世界の記録です」
ロウは、息を呑んだ。
「……まだ、何もないのか」
「ええ」
エリナは、頷いた。
「第三の世界は、まだ生まれていません。そこに何が存在するのか。どんな名前があり、どんな記憶が残るのか。誰が暮らし、誰が生きるのか。それは、まだ決まっていないのです」
ロウは、空白を見つめた。
第三の世界。
それは、人間の世界でも、魔物の世界でもない。
どちらにも属さない者たちが、生きられる場所。
しかし、その世界を作ることが、本当に正しいのか。
誰かを犠牲にせずに、作ることができるのか。
まだ、わからない。
ロウは、アベルを見た。
「……お前は、どう思う?」
アベルは、空白を見つめた。
「……僕は、ここに、誰かが生きられる場所を作りたい」
「誰のために?」
「世界の外側に残された者たちのために。名前を失った者たちのために。人間でも、魔物でもないと分類された者たちのために」
アベルは、ロウを見た。
「でも、それだけじゃない」
「……何だ?」
「人間も、魔物も、ここに来られるようにしたい」
ロウは、息を呑んだ。
アベルは、続けた。
「人間の世界で生きることが苦しい人もいる。魔物の世界で生きることが苦しい人もいる。どちらの世界にも、居場所がない人がいる」
彼は、空白を見た。
「だから、第三の世界は、どちらかの世界から逃げてきた者たちが、もう一度、自分の人生を選べる場所になってほしい」
ロウは、静かに頷いた。
「……だが、そこへ来た者が、誰かを傷つけたら?」
アベルは、すぐには答えなかった。
やがて、静かに言った。
「……そのときは、責任を取ってもらう」
ロウは、彼を見た。
「どうやって?」
「傷つけられた人を守る。被害を受けた人が、安心して生きられるようにする。そして、傷つけた人が、自分のしたことを認めて、責任を取れるようにする」
アベルは、言葉を選びながら続けた。
「ただ、第三の世界に来たからといって、過去のことを全部なかったことにするわけじゃない。人間の世界で何をしたのか。魔物の世界で何をしたのか。それは、ちゃんと記録する」
ロウは、少しだけ目を細めた。
「……そうだな」
アベルは、頷いた。
「共存することと、何をしても許されることは、違うから」
ロウは、彼の言葉を聞いていた。
それは、ロウがアベルに伝えてきたことだった。
誰かを傷つけたなら、その責任を取る。
自分の名前を選ぶなら、その名前で生きる責任を持つ。
そして、誰かと共に生きるなら、相手の存在を認めるだけではなく、相手を傷つけないための仕組みも考える。
アベルは、少しずつ、自分自身の考えを持ち始めていた。
「……アベル」
ロウは、彼を見た。
「お前は、もう、自分の名前を選んだのか?」
アベルは、頷いた。
「うん」
「……その名前で、生まれるつもりか?」
「うん」
ロウは、静かに尋ねた。
「……何という名前だ?」
アベルは、少しだけ笑った。
「アベル」
ロウは、息を吐いた。
「……それが、お前の選んだ名前か」
「うん」
アベルは、頷いた。
「この名前が、誰かに与えられた名前だったとしても、僕は、この名前で生きたい」
彼は、ロウを見た。
「僕は、アベルとして生まれる。そして、アベルとして、自分の人生を選ぶ」
ロウは、静かに頷いた。
「……わかった」
その瞬間、空白の床に、文字が浮かび上がった。
『第三観測者、自己定義を確認』
『名前:アベル』
『存在:継続』
ロウは、息を呑んだ。
アベルの名前が、記録された。
誰かに与えられた名前としてではなく。
自分自身が選んだ名前として。
そして、床の空白に、もう一つの文字が浮かび上がった。
『第三世界、生成条件を確認』
エリナは、目を見開いた。
「……そんな」
ロウは、彼女を見た。
「……何が起きた?」
エリナは、震える声で答えた。
「第三の世界を生成するための条件が、満たされ始めています」
「……始められるのか?」
「まだ、わかりません」
エリナは、空白を見つめた。
「ですが、これまで、第三の世界を生成するためには、二つの観測者が、互いの存在を認める必要がありました。そして、第三の観測者が、自分自身の存在を定義する必要があった」
彼女は、ロウとアベルを見た。
「今、その二つの条件が、初めて、同時に満たされようとしています」
ロウは、空白を見つめた。
第三の世界が、生まれようとしている。
しかし、その瞬間。
床に刻まれた無数の文字が、一斉に明滅した。
そして、部屋全体に、低い声が響いた。
「……第三世界の生成を、拒否する」
ロウは、顔を上げた。
声は、どこから聞こえているのかわからない。
人間の声でも、魔物の声でもない。
それは、世界そのものが、言葉を発しているようだった。
「……誰だ?」
ロウが尋ねると、声は答えた。
「世界分離機構、最終管理記録」
エリナが、顔色を変えた。
「……まさか」
声は、続けた。
「第三世界の生成は、許可されない」
「なぜだ!」
ロウが叫んだ。
声は、淡々と答えた。
「第三世界の生成は、既存世界の認識を不安定化させる。人間の世界、魔物の世界、双方の存続が保証されない」
ロウは、空白を見た。
「……だから、誰かを消すのか?」
「既存の記録に従い、選択を実行する」
「……選択するのは、誰だ?」
沈黙。
そして、声は答えた。
「最終管理者、ロウ・テュユール」
ロウは、動かなかった。
第三の世界を作ることを拒否する、世界の仕組み。
その仕組みが、最後の選択を、ロウ自身に委ねている。
人間の世界を残すか。
魔物の世界を残すか。
第三の世界を作るか。
しかし、第三の世界を作ることは、既存世界を不安定化させる可能性がある。
それでも、ロウは、選択を拒否した。
誰かの世界を消すことを、前提にしないために。
そして今、世界の仕組みそのものが、彼に選択を迫っている。
ロウは、空白を見た。
そこには、まだ何もない。
しかし、何もないからといって、何も生まれないと決まったわけではない。
ロウは、静かに答えた。
「……俺は、選ばない」
声が、響いた。
「選択を拒否した場合、世界の分離は維持されない」
「わかっている」
「世界の崩壊が発生する可能性がある」
「わかっている」
「既存の存在が、消失する可能性がある」
ロウは、目を閉じた。
「……それでも、俺は、誰かを消すことを前提にした選択をしない」
彼は、目を開いた。
「俺は、第三の世界を作る方法を探す。人間の世界も、魔物の世界も、どちらにも属さない者たちも、すべてが存在できる方法を」
声は、答えた。
「その方法は、記録されていない」
ロウは、静かに言った。
「なら、これから記録する」
その瞬間、空白の床が、強く光った。
13.第一章の終わりへ
光が消えたとき、第四の扉の向こう側には、静寂が戻っていた。
床に刻まれた文字は、消えていない。
しかし、その一部が、少しずつ変化していた。
人間の世界。
魔物の世界。
第三の世界。
それぞれの名前が、互いに重なり始めている。
ロウは、ゆっくりと立ち上がった。
「……何が起きた?」
エリナは、床を見つめていた。
「わかりません」
彼女は、静かに答えた。
「ですが、世界の分離機構が、あなたの選択を記録しました」
「……それで、何が変わった?」
「これまで、世界の仕組みは、既存の記録に従って、世界を分離し続けていました。しかし、あなたが選択を拒否したことで、記録そのものが、変更され始めています」
ロウは、息を吐いた。
「……つまり、まだ、何も解決していない」
「ええ」
エリナは、頷いた。
「世界の境界は、まだ崩れています。人間と魔物の認識が、互いに衝突する危険も残っています。第三の世界が、本当に生成できるのかも、わかりません」
ロウは、床の空白を見た。
「……だが、可能性は生まれた」
エリナは、彼を見た。
「はい」
ロウは、アベルを見た。
「……お前は、どうする?」
アベルは、空白を見つめた。
「……僕は、ここに残る」
ロウは、息を呑んだ。
「……何?」
アベルは、静かに答えた。
「僕は、第三の世界が生まれるかどうか、見届けたい」
「だが、お前は、まだ生まれていない」
「うん」
アベルは、頷いた。
「だから、ここに残ることが、僕にとって、生まれることなのかもしれない」
ロウは、彼を見つめた。
「……それは、どういう意味だ?」
アベルは、少しだけ笑った。
「僕は、兄さんの中にいるとき、ずっと、生まれることを待っていた。でも、今は、少し違う」
彼は、床の空白を見た。
「僕は、ここに、自分の名前を持っている。自分の意思で、何をするのかを決められる。まだ、完全には生まれていないけれど、僕は、僕として存在している」
ロウは、黙って聞いていた。
アベルは、続けた。
「だから、僕は、ここで、第三の世界が生まれるのを待つ」
ロウは、息を吐いた。
「……わかった」
彼は、アベルの肩に手を置いた。
「だが、忘れるな。お前が、ここに残ることを選んだとしても、いつか、外へ出たいと思ったなら、そのときは、また考えればいい」
アベルは、頷いた。
「うん」
ロウは、彼を見た。
「お前の人生は、これからだ」
アベルは、静かに笑った。
「……ありがとう、兄さん」
その声は、少しだけ遠くなっていた。
アベルの姿が、光に包まれ始める。
ロウは、手を伸ばした。
「……アベル!」
アベルは、振り返った。
「大丈夫」
彼は、静かに答えた。
「僕は、消えるわけじゃない」
その言葉とともに、アベルの姿が、床の文字へと溶け込んでいった。
最後に残ったのは、名前だった。
アベル。
その名前は、空白の床に刻まれている。
ロウは、長いあいだ、その文字を見つめていた。
胸の奥が、静かになっている。
アベルの声は、もう聞こえない。
しかし、彼の存在が消えたわけではない。
アベルは、自分の名前を選んだ。
そして、自分の意思で、ここに残ることを選んだ。
ロウは、ゆっくりと息を吐いた。
「……そうか」
エドリックが、隣に立った。
「……寂しいか?」
ロウは、少しだけ考えた。
「……ああ」
彼は、正直に答えた。
「だが、あいつが自分で選んだことなら、俺は否定しない」
エドリックは、頷いた。
「……そうだな」
二人は、第四の扉の向こうを見つめた。
そこには、まだ、無数の記録が残されている。
人間の世界。
魔物の世界。
そして、世界の外側に残された者たち。
すべての記録が、互いに重なり始めている。
ロウは、エリナを見た。
「……母さん」
エリナは、顔を上げた。
「はい」
「俺は、まだ、あなたを許したわけじゃない」
エリナは、目を伏せた。
「……わかっています」
「あなたが、俺たちを守ろうとしていたことは、理解した。だが、俺たちが何を選ぶのかを、あなたが決めることはできない」
「……そのとおりです」
ロウは、静かに続けた。
「これから、俺は、世界を分離した理由を調べる。人間と魔物が、互いを理解できなくなった理由も。世界の外側に残された者たちのことも。そして、第三の世界が、本当に必要なのかも」
エリナは、頷いた。
「……はい」
「その過程で、あなたのしたことが、正しかったのかどうかも、調べる」
エリナは、静かに答えた。
「……それで、構いません」
ロウは、彼女を見た。
「あなたも、知っていることを、すべて話してくれ」
エリナは、深く頭を下げた。
「……約束します」
ロウは、ゆっくりと扉へ向かった。
そのとき、床の文字が、再び光った。
第四の扉の向こうに、短い文章が浮かび上がっている。
『第一章、境界記録終了』
ロウは、足を止めた。
「……第一章?」
その言葉を口にした瞬間、床の文字が変化した。
『第一記録群、完了』
『第二記録群、開始』
そして、その下に、新しい文字が浮かび上がった。
『次の観測対象:黒門砦』
ロウは、目を細めた。
「……まだ、終わっていないのか」
エドリックは、静かに答えた。
「世界の分離は、百四十七年前に始まった。だが、その結果は、今も続いている」
彼は、ロウを見た。
「お前が生きてきた世界は、まだ、すべてが明らかになったわけではない」
ロウは、頷いた。
「……そうだな」
彼は、第四の扉を振り返った。
その向こうには、無数の記録が残されている。
そして、その中には、まだ名前を持たない者たちの記録もある。
ロウは、静かに言った。
「……行こう」
エドリックが頷いた。
二人は、第四の扉を後にした。
14.帰還
ロウが、こちら側の黒門砦へ戻ったとき、空の亀裂は、まだ残っていた。
しかし、亀裂の形は、少しだけ変わっていた。
二つの砦が、完全に重なっているわけではない。
互いの姿が、薄く透けて見える。
その向こうには、もう一つの黒門砦がある。
そして、そこには、もう一人のロウが立っていた。
ロウは、彼を見た。
男も、こちらを見ていた。
二人は、しばらく黙っていた。
やがて、男が、口を動かした。
――また会おう。
ロウは、頷いた。
――ああ。
声は聞こえない。
しかし、言葉は伝わった。
二人は、同じ存在ではない。
それぞれが、別々の人生を生きてきた。
そして、これからも、別々の人生を生きていくのかもしれない。
だが、互いの存在を認めることはできる。
それだけで、世界の仕組みは、少しずつ変わり始めていた。
「隊長!」
セラが、駆け寄ってきた。
彼女は、ロウの顔を見た。
「……戻ってきたんですね」
「約束したからな」
セラは、深く息を吐いた。
「……本当に、心配しました」
ロウは、少しだけ目を伏せた。
「……すまない」
「謝罪は、あとで聞きます」
セラは、彼の肩をつかんだ。
「まず、何が起きたのか、全部説明してください」
ロウは、頷いた。
「ああ。すべて話す」
彼は、砦の中を見た。
兵士たちは、まだ混乱している。
同じ名前を持つ者が、二人いる。
同じ記録が、二冊ある。
そして、世界の境界が、崩れ始めている。
しかし、今は、誰もが互いを否定しているわけではなかった。
二人のセラは、別々の場所に立っていた。
互いの存在を認めたまま、それぞれの記録を作成している。
オスカーは、二人のセラの証言を、別々の記録板に残していた。
ミラは、二人の身体を調べ、それぞれが独立した生命活動を行っていることを確認していた。
そして、兵士たちは、互いの名前を呼び、互いの記憶を聞き始めていた。
ロウは、その光景を見ていた。
「……これが、最初の一歩か」
セラが、隣に立った。
「何のです?」
「世界を、誰か一人の認識だけで決めないための一歩だ」
セラは、静かに頷いた。
「……まだ、危険は残っています」
「わかっている」
「人間と魔物が、互いを認識できなくなる可能性も」
「わかっている」
「第三の世界が、本当に作れるのかも」
「わかっている」
ロウは、空の亀裂を見た。
「……だが、何もわからないからこそ、調べる必要がある」
そのとき、オスカーが駆け寄ってきた。
「隊長! こちらを見てください!」
彼は、一枚の記録板を差し出した。
そこには、ロウの出生記録が記されていた。
しかし、記録の内容が変わっていた。
名前。
生年月日。
出生地。
母親の名前。
そして、父親の欄。
そこには、今まで空白だった場所に、新しい文字が浮かび上がっていた。
『父親:記録なし』
その下に、別の一文がある。
『出生の定義:本人による選択』
ロウは、記録を見つめた。
「……本人による選択?」
オスカーが、頷いた。
「記録が、変化したようです。以前は、出生証明の原本照合済みと記されていました。しかし、今は……」
彼は、記録板を見た。
「隊長が、何者であるかを、本人が選択するものとして記録し直されています」
ロウは、目を閉じた。
世界の仕組みが、少しずつ変わり始めている。
名前を持つこと。
存在すること。
誰かに分類されること。
そして、自分が何者であるかを選ぶこと。
それらが、少しずつ、切り離され始めている。
ロウは、記録板を返した。
「……その記録を保存してくれ」
「承知しました」
「古い記録も、新しい記録も、両方残すんだ。どちらか一方を消すな」
オスカーは、頷いた。
「はい」
ロウは、空の亀裂を見た。
向こう側には、もう一人のロウが立っていた。
そして、その背後に、エリナの姿が見える。
彼女は、こちらを見ていた。
ロウは、彼女に向かって、静かに頭を下げた。
エリナも、頭を下げた。
二人は、まだ、すべてを理解し合えたわけではない。
だが、互いの存在を認めることはできた。
それは、世界が分離した日には、できなかったことだった。
ロウは、ゆっくりと振り返った。
黒門砦の門が、そこにある。
人間の世界と魔物の世界を分ける門。
そして、世界の外側に残された者たちを、忘れないための門。
ロウは、その門を見つめた。
「……セラ」
「はい」
「明日から、砦の記録をすべて見直す」
セラは、驚いた顔をした。
「すべて、ですか?」
「ああ。名前を失った者たち。記録から消えた者たち。人間と魔物の間で、認識が食い違っている者たち。そのすべてを調べる」
「……どれほどの時間がかかるかわかりません」
「わかっている」
ロウは、静かに答えた。
「だが、記録から消えた者たちが、どこへ行ったのか。誰が、彼らを忘れたのか。それを調べなければ、世界の分離を変えることはできない」
セラは、頷いた。
「……承知しました」
ロウは、砦の門に手を触れた。
冷たい石の感触。
その向こうに、世界がある。
人間の世界。
魔物の世界。
そして、まだ生まれていない第三の世界。
ロウは、目を閉じた。
胸の奥から、アベルの声が聞こえた気がした。
――兄さん。
ロウは、静かに答えた。
「……ああ」
その声は、誰にも聞こえなかった。
だが、ロウには、確かに聞こえていた。
――僕は、ここにいるよ。
ロウは、目を開いた。
そして、黒門砦の門を見つめた。
世界が二つに分かれた日。
その日から、百四十七年。
ようやく、世界は、もう一度、変わり始めた。




