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衛兵は眠れない  作者: 神代シン
第一章 眠らない門番

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第十二話「扉の向こうにいたもの」

1 門番がいなくなった朝

門番が消えてから、黒門砦では三つの異変が起きていた。


一つ目。


百四十七年前の建設記録から、第四の扉に関する記述が消え始めた。


二つ目。


名前を失っていた三人の兵士――ダレン・コル、エルナ・ヴァイス、ハンス・メルツが、少しずつ自分の名前を取り戻していた。


そして三つ目。


砦の外に、道が増えた。


それは、誰も見たことのない道だった。


黒門砦の正門から北へ伸びる街道は、森の入口で東西に分かれる。東は王都へ、北西は国境の交易都市へ。地図にも、軍用の測量記録にも、その二本以外の道はない。


ところが朝の見張りが交代したとき、門の外には三本目の道があった。


石畳。


朽ちた街灯。


道端に立つ、黒い標識。


その先には、黒門砦が見えた。


もう一つの黒門砦が。


「……隊長」


報告に来たセラ・ヴォスは、いつもより低い声で言った。


「外を見てください」


ロウ・テュユールは、書類から顔を上げた。


「また名前が消えたか?」


「いえ」


「死体が歩いた?」


「いえ」


「俺と同じ顔の男が現れた?」


「……それは、昨日までなら報告しづらかったでしょうね」


「今日は報告しやすいのか」


「実物が二つに増えましたから」


ロウは椅子から立ち上がった。


「説明しろ」


「外に、もう一つ砦があります」


「地形の見間違いじゃないのか」


「そうであってほしいと思って、三人に別々に確認させました。三人とも、同じ場所に、同じ砦を見ています」


「兵士は?」


「門の外へ出した者はいません。道がいつ現れたのかも不明です。ただし――」


セラはそこで言葉を切った。


「外の砦から、こちらの正門を見ている人影が確認されました」


「何人だ」


「数えられません」


「どういう意味だ」


「見るたびに人数が変わるんです」


ロウは腰の剣を確かめた。


「……見に行く」


「でしょうね」


セラはため息をついた。


「先に言っておきます。今度こそ、一人で勝手に消えないでください」


「消えるつもりはない」


「あなたはいつも、消えるつもりがないまま消えるんです」


返す言葉がなかった。


ロウは外套を取り、扉へ向かった。


その背中に、セラが声をかける。


「隊長」


「何だ」


「あなたの声が、昨夜から少し変です」


ロウは足を止めた。


「風邪じゃないか」


「あなたの風邪は、そんなに人を不安にさせません」


「褒め言葉として受け取っておく」


「褒めていません」


彼女は真剣な顔で続けた。


「昨夜、あなたが眠っている間、あなたの部屋から二人分の寝息が聞こえました」


ロウは振り返った。


「……誰か入ったのか」


「扉には鍵がかかっていました。窓も閉まっていた。私が確認しています」


「なら、俺の寝息だろう」


「そう思いました。でも、片方が止まったとき、もう片方が言ったんです」


セラは、記憶をたどるように目を細めた。


「――兄さん。僕、もうすぐ生まれるよ」


ロウは何も言わなかった。


胸の奥で、何かが動いた。


痛みではない。


鼓動でもない。


自分の知らない誰かが、こちらの沈黙を聞いている。


『……聞こえてるよ』


アベルの声だった。


『僕も、あの道が見える』


ロウは胸元に手を当てた。


『中から見えるのか?』


『ううん。見ているのは、僕じゃない』


『誰だ』


『……わからない。でも、あの道の向こうにいる誰かが、僕を見てる』


ロウは正門の方を見た。


「セラ。兵士を集めろ。ただし、誰も門の外へ出すな」


「あなたは?」


「俺が行く」


「さっきから、言っていることが矛盾しています」


「だから、門の内側から見るんだ」


ロウは歩き出した。


「今度は、向こうが何者かを名乗るまで、こちらから勝手に名前をつけない」


それは、百四十七年前から続いていた過ちを、繰り返さないための最初の一歩だった。


そしてロウはまだ知らなかった。


もう一つの黒門砦が、ただの幻でも、別世界の建物でもないことを。


あれは、こちらの世界が忘れたものを、忘れないまま残している場所だった。


門番がいなくなったからこそ、姿を現した場所だった。


そして、そこに立っている者たちは、ロウたちを待っていたのではない。


ロウたちが、ようやく自分たちを見られるようになる日を待っていたのだ。

2 地図に存在しない街道

黒門砦の正門は、朝の鐘が鳴っても開かなかった。


本来なら、夜明けとともに行われる通行検査のため、門は半分だけ開かれる。商人は荷を下ろし、旅人は身分証を提示し、難民は人数と行き先を記録される。


それが黒門砦の日常だった。


人間の領域と魔物の領域を隔てる、国境の仕事。


しかし今朝、門の向こうに現れた道は、いつもの国境を通じては説明できなかった。


「測量記録と一致しません」


記録係のオスカー・ベルンは、砦の古い地図を広げていた。


「この位置に道があるなら、北側の岩盤を貫通しているはずです。ところが、地質調査では、あの場所に岩盤の切れ目はありません」


「地面が変わったんじゃないのか?」


「一晩でですか?」


「この砦じゃ、もう一晩で起きないことを探す方が難しい」


「それはそうですが……」


オスカーは反論しかけて、やめた。


机の上には、昨夜から集められた記録が並んでいる。


百四十七年前の建設記録。


エリナ・テュユールの設計書。


第三の封印門に関する古文書。


名前を失った兵士たちの証言。


そして、門番の金属札。


最後の一枚だけ、どこから見ても普通の金属札だった。


ただし、そこに刻まれている文章は、普通ではない。


『門を守る者は、門の外にいる者を忘れてはならない』


「隊長」


オスカーが言った。


「一つ、気になることがあります」


「何だ」


「建設記録から第四の扉の記述が消えている件です。単に文字が消えたわけではありません」


彼は二冊の帳簿を並べた。


「こちらが昨日、私が確認した写しです。第四の扉について、三か所の記述があります。ところが、今朝の原本では、その部分だけが自然な文章につながるように書き換わっています」


ロウは帳簿を見比べた。


確かに、紙が削られた形跡も、墨で塗り潰された跡もない。


昨日まであった文章が、初めから存在しなかったかのように、別の文章へ変わっている。


「誰かが書き換えたのか?」


「筆跡は同じです。インクも、紙の繊維に染み込んだ具合も一致しています」


「つまり、記録を書いた本人が最初から別の文章を書いていたように見える、と」


「はい」


「そんなことが可能なのか」


「普通は不可能です」


「普通じゃないことが起きているのはわかった。問題は、何が原因かだ」


ロウは帳簿を閉じた。


「第四の扉について、まだ記録に残っているものは?」


「今のところ、これだけです」


オスカーが差し出したのは、薄い紙片だった。


紙の端には、何かを剥がしたような跡がある。


そこに残されていた文章は、たった一行。


『門が閉じられた日、門の外にいた者の名前は、記録から除外すること』


「……門が閉じられた日?」


「日付はありません」


「誰が書いた?」


「不明です。ただ、紙の材質は百四十七年前のものではありません」


ロウは紙片を裏返した。


裏面には、かすかに数字が残っていた。


三。


四。


それから、横倒しになった八のような記号。


「何かの番号か?」


「あるいは、日付かもしれません」


「八に見えるが」


「私にもそう見えます。しかし、この国の暦で八日を表す記号とは違います」


「なら、わからないことはわからないままにしておけ。推測を記録に混ぜるな」


「はい」


ロウは紙片を返した。


そのとき、胸の奥からアベルの声がした。


『それ、僕、知ってる』


ロウは目を伏せた。


『何を?』


『その数字。三、四、それから……』


アベルはしばらく黙った。


『ごめん。思い出せない。でも、怖い』


『何が怖い?』


『思い出したら、僕が僕じゃなくなる気がする』


ロウは返事をしなかった。


名前を取り戻した者たちが、名前と引き換えに記憶を失っていった。


名前を引き継いだ者が、誰かの記憶を受け取った。


自分の記憶だと思っていたものが、本当は他人の人生だった。


この砦では、記憶は証拠であると同時に、もっとも信用できない証言者でもあった。


「オスカー」


「はい」


「これからは、記録を一つにまとめるな」


「……と、いいますと?」


「原本、写し、証言記録。それぞれ別々に保管する。誰かの記憶が変わっても、別の人間が書いた記録まで一緒に変わるとは限らない」


「なるほど」


「それから、記録に矛盾が出ても、すぐにどちらかを正しいと決めるな。矛盾そのものが証拠になることもある」


オスカーは頷いた。


「承知しました」


ロウは窓の外を見た。


三本目の道の先。


もう一つの黒門砦。


その正門の上に、こちらと同じ黒い旗が掲げられていた。


ただし、旗の中央には、見慣れない紋章がある。


円を四つ、縦に並べたような紋章。


第一の円は白。


第二の円は黒。


第三の円は赤。


第四の円だけ、何も描かれていなかった。


「……あれは」


ロウは、第三の封印門で見た模様を思い出した。


四つの円。


第四の扉。


名前を与えられていない誰か。


そして、門番が守っていたもの。


もう一つの砦は、こちらの砦を模倣しているのではない。


こちらの砦が、何かを模倣して建てられたのだ。


百四十七年前よりも、もっと古い何かを。

3 名前を取り戻す代償

昼前、医務室から呼び出しがあった。


ダレン・コルが、突然、自分の母親の名前を思い出したという。


ロウが到着したとき、ダレンは寝台の上に座っていた。ミラ・セインが脈を測り、セラがその横で腕を組んでいる。


「隊長」


ダレンはロウを見ると、ぎこちなく敬礼した。


「俺は、ダレン・コルです」


「知っている」


「違います。そうじゃないんです」


ダレンは拳を握りしめた。


「俺は、ダレン・コルとして生きてきました。母親の顔も覚えています。家も、村も、兵士になった理由も。でも……」


彼は言葉を詰まらせた。


「今朝、別の名前を思い出したんです」


「ベルン・ハルトか?」


「はい」


ミラが口を挟んだ。


「問題は、それだけじゃありません」


彼女は記録帳を開いた。


「ダレンは今朝、自分の母親について話しました。名前はエルシア。南部の農村出身で、二年前に亡くなったと」


「それが?」


「その話をした直後、彼は母親の顔を思い出せなくなりました」


ロウはダレンを見た。


「顔だけか?」


「はい。名前も、声も、どんな人だったかも覚えています。ただ、顔を思い出そうとすると、別の女性の顔が浮かぶんです」


「別の女性?」


「……ベルン・ハルトの母親です」


室内が静まり返った。


ダレンは俯いた。


「俺は、誰かの人生を奪ったんでしょうか」


ロウはすぐには答えなかった。


簡単に慰めることも、断定することもできなかった。


「わからない」


ダレンの顔が強張る。


「ただし、今の時点で、お前が誰かの人生を奪ったと判断できる証拠はない」


「でも、俺の記憶の中に、俺じゃない人間がいるんです」


「そうだな」


「俺は、何者なんですか」


ロウは椅子を引き寄せ、寝台の横に座った。


「それを俺が決めたら、また同じことが起きる」


ダレンが顔を上げた。


「名前は、誰かが勝手に押しつけていいものじゃない。お前がダレンとして生きてきた時間は、誰にも消せない。ベルンという名前の記憶があるからといって、今までの人生が嘘になるわけでもない」


「……両方、本当なんですか」


「その可能性はある」


「そんなことが」


「この砦では、あり得ないことを理由に、目の前の人間を否定するな」


ロウはダレンの目を見た。


「お前が誰かを傷つけたなら、その責任は取らなきゃならない。だが、記憶が混ざっているというだけで、まだ起きていない罪まで背負う必要はない」


ダレンは唇を噛んだ。


やがて、ゆっくりと頷いた。


「……俺は、ダレン・コルです」


「そうだ」


「今は、それでいいんですよね」


「今は、それでいい」


ダレンは深く息を吐いた。


その瞬間、医務室の壁に掛けられた鏡が曇った。


誰も息を吹きかけていない。


窓は閉まっている。


鏡の表面に、文字が浮かび上がった。


『一人分の名前に、二人分の人生は入らない』


セラが剣の柄に手をかける。


ミラがダレンをかばうように立った。


ロウは鏡に近づいた。


文字の下に、もう一行が浮かぶ。


『だから、どちらかを消せ』


「……誰の意思だ」


ロウは鏡に問いかけた。


返事はない。


代わりに、鏡の中に人影が映った。


ロウの後ろに立つ、もう一人のロウ。


同じ顔。


同じ傷。


同じ目。


しかし、鏡の中の男は、こちらのロウよりもずっと疲れた顔をしていた。


男は唇を動かした。


声は聞こえない。


それでも、ロウには読めた。


――もう一度、選べ。


鏡が割れた。


破片が床に散らばる。


誰も怪我はしなかった。


ただ一つ、床に落ちた大きな破片だけが、割れる前と同じ姿を保っていた。


その破片の中に、ロウの姿はなかった。


代わりに映っていたのは、見知らぬ若い兵士だった。


彼は、こちらを見ていた。


そして、口の動きだけで告げた。


――お前は、ここに残れ。

4 門の外にいる兵士

午後、ロウは正門の内側に観測所を設置した。


門を開けずに、向こう側を調べる。


砦の壁に設けられた狭い銃眼から、望遠鏡で街道を観察する。弓兵は矢を番えず、盾兵は防御陣形を維持する。医師と記録係は後方に待機する。


こちらから攻撃はしない。


向こうが攻撃してきた場合には、防御する。


それがロウの命令だった。


「隊長」


見張りの兵士が報告する。


「人影が確認できました」


「何人だ」


「一人です」


「特徴は?」


「こちらの衛兵隊の制服を着ています。武器は剣一本。負傷しているようです」


「顔は見えるか?」


「……はい」


兵士の声が震えた。


「私です」


「何?」


「向こうにいるのは、私です」


ロウは望遠鏡を受け取った。


街道の中央に、兵士が一人立っていた。


制服は黒門砦のもの。


胸の徽章も同じ。


腰には、砦で支給される制式剣。


そして顔は、観測所で報告している兵士と同じだった。


「名前は?」


「……ヨハン・レイスです」


ロウは望遠鏡を下ろした。


ヨハン。


昨夜、門番の夢を見た兵士の一人だ。


「本人確認をする。ヨハン、お前はここで待機しろ。代わりに、別の兵士に観測させる」


「ですが、隊長」


「自分と同じ顔を見た人間は、判断を誤りやすい。お前が弱いからではない。人間の脳は、見慣れたものを正しいと認識しようとするからだ」


ロウは望遠鏡を別の兵士に渡した。


「観測者を交代させろ。報告は見たものだけに限定する。推測は後で聞く」


やがて、交代した兵士が報告した。


「人影は一人です。負傷しています。こちらに向かって歩いています」


「武器は?」


「剣一本。抜いていません」


「何か話しているか?」


「……はい」


「何と言っている?」


兵士は耳を澄ませた。


「聞き取れません。ただ、何度も同じ言葉を繰り返しています」


「何だ」


「……『俺を、ここに残すな』」


ロウは門を見つめた。


「拡声器を用意しろ」


セラが顔をしかめた。


「話しかけるつもりですか」


「向こうが言葉を使っている。こちらも言葉で応じる」


「罠かもしれません」


「そうだな」


「正体不明の存在です」


「そうだ」


「それでも?」


「それでも、話す」


ロウは門の上にある伝声管を使った。


「こちらは黒門砦、衛兵隊長ロウ・テュユールだ。お前は誰だ」


街道の兵士が足を止めた。


彼はゆっくりと顔を上げた。


そして、声が届くはずのない距離から、はっきりと答えた。


「……俺は、ヨハン・レイスだ」


観測所にいたヨハンが息を呑む。


「俺と同じ名前です」


「続けて聞け」


ロウは向こうの兵士に問いかけた。


「お前は、何のためにここへ来た」


「俺を、ここに残さないためだ」


「誰がお前を残した」


向こうの兵士は、困ったように笑った。


その表情まで、こちらのヨハンと同じだった。


「お前だよ、隊長」


ロウの背筋が冷たくなった。


「俺は、お前を知らない」


「そうだろうな」


「なら、なぜ俺の名前を知っている」


「お前が、俺の名前を忘れたからだ」


街道の兵士は剣を抜いた。


刃は血に濡れていた。


だが、彼は誰にも向けず、自分の足元に突き立てた。


「俺は、ここで死んだ」


彼は言った。


「でも、俺が死んだ記録はない」


「いつだ」


「百四十七年前」


観測所にいた全員が、息を止めた。


「……あり得ない」


セラが呟く。


「今のヨハンは二十六歳です。生まれた年も記録されています」


「だから、記録を確認する」


ロウは即座に言った。


「本人の証言だけで結論を出すな」


オスカーが記録帳を開く。


ヨハン・レイス。


出生記録あり。


入隊記録あり。


勤務記録あり。


懲罰記録なし。


死亡記録なし。


記録は整っている。


それなのに、街道の兵士は続けた。


「俺は、第四の扉を閉じた」


「誰の命令で?」


「俺自身の命令で」


「なぜだ」


「向こうから来るものを、こちらへ入れないためだ」


「何が来た?」


兵士は、正門を見た。


「……お前だ」


ロウの胸の奥で、アベルが息を呑んだ。


『違う』


その声は、今までになく明瞭だった。


『兄さん、あれは僕じゃない』


『わかっている』


『違うんだ。あれは、僕たちが生まれる前から、ずっと待っていたものだ』


ロウは門の外を見た。


街道の兵士の背後。


もう一つの黒門砦の正門が、ゆっくりと開いていた。


その奥から、誰かが出てくる。


一人ではない。


二人でもない。


人間、獣人、角を持つ者、鱗を持つ者。


見たこともない姿の者たちが、次々と現れた。


彼らは武器を持っていなかった。


誰も叫ばない。


誰も走らない。


ただ、門の外に立ち並び、こちらを見ていた。


そして、全員が同時に口を開いた。


「――名前を返せ」


声が重なった。


男の声。


女の声。


老人の声。


子供の声。


人間の声。


魔物の声。


それらが一つになって、黒門砦の壁を震わせた。


「名前を返せ」


「名前を返せ」


「名前を返せ」


ロウは剣を抜かなかった。


代わりに、伝声管を握り直した。


「何の名前だ」


群衆は答えた。


「――私たちの名前だ」


その瞬間、砦の中で鐘が鳴った。


誰も鳴らしていないはずの、地下第四層の鐘が。

5 百四十七年前の死者

鐘の音は、三度鳴った。


一度目で、砦の記録庫の扉が開いた。


二度目で、名前を失っていた三人の兵士が、同じ言葉を口にした。


三度目で、黒門砦のすべての時計が止まった。


時刻は午後三時十七分。


ロウは、鐘の音が消えるより先に走り出した。


「セラ、正門を維持しろ! 誰も外へ出すな!」


「あなたは地下へ?」


「そうだ!」


「今度は私も行きます!」


「兵士たちの指揮はどうする!」


「副官に任せます!」


セラはすでに走っていた。


「あなたが一人で地下へ行くのを止める方が、今は重要です!」


「それは職務の優先順位として正しいのか?」


「あなたの行動を見ていると、正しいです!」


ロウは反論を諦めた。


二人は地下へ降りた。


第三の封印門を通り、白い部屋へ向かう。


そこには、以前と同じように、白紙の本が置かれていた。


『名前を返す者の記録』


だが、表紙に変化があった。


昨日までは何も書かれていなかった表紙の下部に、新しい文字が浮かんでいる。


『最初の門番の記録』


ロウが本を開く。


最初のページには、見覚えのある名前があった。


エドリック・ヴェイン。


百四十七年前、黒門砦の建設に関わった王国技師。


第四の扉を発見し、その先へ進んだ人物。


名前を手放し、ベルン・ハルトと名乗ることになった人物。


しかし、今回はその先に、新しい記述があった。


『エドリック・ヴェインは、第四の扉の向こう側で、最初の門番と出会った』


『門番は、名を持たなかった』


『門番は、死者ではなかった』


『門番は、生者でもなかった』


ロウは眉を寄せた。


「生者でも死者でもない……?」


セラが本を覗き込む。


「魔物でしょうか」


「わからない」


ページをめくる。


『門番は、世界が分かれる前から存在していた』


『世界が分かれた後、門番は境界に取り残された』


『境界を守る者が必要だったからである』


「世界が分かれる前……」


セラが呟いた。


「人間と魔物が、分かれる前ということですか?」


「おそらく」


ロウはさらにページをめくった。


『最初の門番は、世界を分けた者ではない』


『世界を分けた者たちが、境界の向こう側に置き去りにした者である』


「置き去り……?」


ロウの声が掠れた。


次の行には、名前があった。


『エリナ・テュユール』


ロウは息を止めた。


母の名前。


その下に、彼女の記録が続いている。


『エリナ・テュユールは、境界の管理者として生まれた』


『彼女は、境界の向こう側を知っていた』


『彼女は、門番を殺さなかった』


『彼女は、門番に名前を返した』


ロウの指が止まった。


「……母さんが?」


セラは何も言わなかった。


本の文字は続く。


『名前を返された門番は、初めて自分の意思で門を開けることができた』


『門番は、門の向こうにいた者をこちらへ通した』


『その結果、世界は二つに分かれた』


ロウはページを見つめた。


人間と魔物が分かれた日。


それは、誰かが戦争を始めた日ではなかった。


誰かが世界を支配した日でもなかった。


名前を取り戻した門番が、初めて自分の意思で門を開いた日だった。


しかし、その先の記録は、そこで途切れていた。


ページの下部に、黒い染みがある。


何度こすっても落ちない。


その染みの中から、かすかな声が聞こえた。


「……兄さん」


ロウは本を閉じた。


「アベル?」


返事はなかった。


代わりに、背後から声がした。


「違うよ」


振り返る。


白い部屋の入口に、少年が立っていた。


旅装束。


黒い髪。


少しだけ大きな外套。


顔は、ロウの幼い頃に似ていた。


そして、その目は、母エリナの目と同じ色をしていた。


少年はロウを見て、微笑んだ。


「僕は、アベルじゃない」


「……お前は誰だ」


「まだ、名前がないんだ」


少年は言った。


「でも、君のことは知っているよ」


「なぜだ」


「君が生まれる前から、ずっと君を待っていたから」


ロウは剣の柄に手をかけた。


少年は、その動きを見ても怯えなかった。


「怖がらなくていいよ。僕は君を殺しに来たんじゃない」


「なら、何をしに来た」


少年は、白い本を指さした。


「その記録を、最後まで読んでほしいんだ」


「最後のページはない」


「あるよ」


少年は静かに答えた。


「君が、まだ開いていないだけだ」


ロウは本を見下ろした。


ページは、すべて白紙になっていた。


いや、正確には違う。


紙の繊維の奥に、文字が沈んでいる。


インクが乾いているのではない。


文字そのものが、紙の中に隠れている。


ロウはページの端を持ち上げた。


その瞬間、少年が言った。


「読む前に、一つだけ約束して」


「何だ」


「僕の名前を、勝手に決めないで」


ロウは少年を見た。


「……わかった」


「それから」


少年は、少しだけ悲しそうに笑った。


「僕を、君の弟だと決めつけないで」


胸の奥で、アベルが動いた。


『兄さん……』


ロウは目を閉じた。


『大丈夫だ。お前の名前も、こいつの名前も、俺が勝手に決めたりしない』


少年は、ほっとしたように息を吐いた。


「ありがとう」


その言葉を聞いたとき、ロウは初めて気づいた。


この少年は、門の向こうから来たのではない。


ずっと、この部屋にいたのだ。


ただ、誰にも見えなかった。


門番がいた間は。


名前を返すことができる者がいなかった間は。


そして今、門番がいなくなったからこそ、彼は姿を現すことができた。


ロウは、本の最後のページを開いた。


そこには、たった一行だけ書かれていた。


『世界を分けた者の名前は、まだ返されていない』


その下に、名前があった。


エリナ・テュユール。


そして、もう一つ。


ロウ・テュユール。


ロウは本を落としかけた。


セラが慌てて支える。


「隊長!」


ロウはページから目を離せなかった。


母の名前と、自分の名前。


その二つが、同じ文章の中に並んでいる。


『世界を分けた者の名前は、まだ返されていない』


「……俺が、世界を分けた?」


少年は首を横に振った。


「違うよ」


「なら、なぜ俺の名前がある」


「君が、世界を分けた者の名前を引き継いだからだ」


「誰から?」


少年は、ロウの胸元を見た。


「君の中にいる、アベルから」


ロウの胸の奥で、アベルが叫んだ。


『違う!』


その声は、これまでにないほど強かった。


『僕は、世界を分けていない!』


少年は悲しそうに目を伏せた。


「……うん」


彼は静かに答えた。


「君は、まだね」

6 母の声が残したもの

白い部屋の空気が変わった。


本のページから、細い光が立ち上がる。


光は床を這い、壁を登り、天井へ広がった。


やがて部屋全体が、別の場所の風景へと変わっていく。


ロウは、そこが黒門砦の地下ではないことに気づいた。


石造りの廊下。


古い研究室。


壁一面に並ぶ書棚。


床には、四つの円を組み合わせた紋章。


そして、その中央に立つ一人の女性。


「……母さん」


エリナ・テュユールだった。


ロウが十二歳のときに亡くなったと聞かされていた母。


病に倒れ、静かに息を引き取ったと、父から説明された母。


その姿は、記憶の中と同じだった。


穏やかな顔。


少し疲れた目。


何かを心配するとき、無意識に指先を握る癖。


母は、目の前にいるロウを見ていなかった。


彼女の視線は、部屋の中央にある装置に向けられている。


その装置の中には、少年が一人、眠っていた。


ロウに似た少年。


ただし、髪の色は違う。


瞳の色も違う。


胸には、名前の代わりに四つの円が刻まれていた。


「……これは、過去なのか」


ロウが呟くと、セラが答えた。


「記録でしょうね。実際に起きたことか、誰かが残した記憶かはわかりません」


母の声が聞こえた。


「この子を、門の向こうへ返してはならない」


別の声が答える。


「しかし、境界は維持できません。門番はすでに限界です」


「なら、私が代わりになります」


「エリナ。それがどういう意味かわかっているのか」


「ええ」


母は迷わず答えた。


「名前を差し出せば、境界の管理者としての記憶は失われる。私の人生は、別の名前に置き換えられる」


「それだけではない」


声は厳しかった。


「あなたの存在そのものが、記録から外れる可能性がある」


「それでも、この子を消させるわけにはいきません」


母は、眠っている少年を見た。


「この子は、まだ何も選んでいない」


ロウは息を呑んだ。


母の言葉は、今の自分が何度も繰り返してきた言葉と同じだった。


名前を与えられる前の人間に、罪を押しつけてはならない。


まだ選んでいない者に、未来を決めてはならない。


母は、その考えを誰よりも早く理解していたのかもしれない。


しかし、次の瞬間。


研究室の壁が、内側から膨らんだ。


壁の向こうから、何かが叩いている。


一度。


二度。


三度。


そのたびに、四つの円のうち、最後の円が黒く染まっていく。


母は振り返った。


「……もう、時間がない」


「エリナ!」


「この子の名前を、誰にも渡さないで」


母は装置に手をかざした。


「この子が自分で選ぶまで、誰にも」


光が溢れた。


眠っていた少年が目を開ける。


その瞳は、ロウと同じ色だった。


少年は母を見た。


そして、口を動かした。


――兄さん。


ロウの胸の奥で、アベルが震えた。


『……あれは、僕だ』


ロウは動けなかった。


『でも、僕じゃない』


アベルの声が、途切れ途切れに続く。


『僕が生まれる前に、僕と同じ名前を与えられた誰かがいた。僕は、その記憶を持っている。けれど、僕はその人じゃない』


「なら、あの少年は……」


『わからない』


アベルは答えた。


『ただ、僕たちは同じ場所から来たんだと思う』


研究室の映像が揺れた。


母の姿が薄れていく。


ロウは思わず手を伸ばした。


「母さん!」


その声に、母が振り返った。


映像の中の母と、今のロウの目が合った。


彼女は、初めてロウを認識したかのように、驚いた顔をした。


そして微笑んだ。


「……ロウ」


その声は、記録の中の音声ではなかった。


ロウ自身に向けられた声だった。


「大きくなったのね」


ロウの喉が詰まった。


「母さん……生きているのか?」


母は答えなかった。


代わりに、ロウの顔をじっと見つめた。


「あなたは、まだ自分の名前を持っている?」


「……持っている」


「本当に?」


ロウは言葉を失った。


母は悲しそうに目を細めた。


「ごめんなさい。あなたに、そんなことを聞かせたくなかった」


「何が起きたんだ。どうして母さんの死体がない? どうして名前が返還済みなんだ? どうして俺の名前が、世界を分けた者の名前と並んでいる?」


「一度に全部を知ろうとしないで」


母は、ゆっくりと首を横に振った。


「真実は、知った人を自由にするとは限らないの。ときには、知った人を別の檻に閉じ込めてしまう」


「それでも、知りたい」


「そうね」


母は、ほんの少し笑った。


「あなたは、昔からそうだった」


その表情を見た瞬間、ロウの中で十二歳の記憶が蘇った。


熱を出して寝込んだ夜。


母が額に手を当ててくれたこと。


眠れない自分に、母が昔話をしてくれたこと。


その話の中で、母はいつも同じ言葉を繰り返していた。


――名前は、誰かに与えられるもの。でも、誰かのものになる必要はない。


ロウは、その言葉を覚えていた。


けれど、なぜ母がそんなことを言っていたのか、今まで考えたことがなかった。


母は、目の前のロウに向かって言った。


「あなたが守るべきなのは、世界ではないの」


「……何?」


「世界を守ろうとすると、誰かを犠牲にする理由が必要になる。国を守るため。人間を守るため。魔物を封じるため。境界を維持するため」


母の声が震えた。


「私は、その理由を何度も聞いた。そして、そのたびに、誰かが名前を失っていった」


「母さんは、何をしたんだ」


「私は、門番に名前を返した」


「それで、世界が二つに分かれた」


「そう」


母は頷いた。


「門番は、初めて自分の意思で門を開けた。けれど、その先にいた者たちを、こちらの世界は受け入れられなかった」


「なぜだ」


「彼らを受け入れるには、こちらの世界が、自分たちだけで世界を作っているという思い込みを捨てなければならなかったから」


母は、装置の中で眠る少年を見た。


「人間も、魔物も、同じ世界の一部だった。けれど、世界が一つのままでは、誰かが誰かを自分のものにしようとする。名前を奪い、記憶を奪い、存在を決めてしまう」


「だから、分けたのか」


「違う」


母は、強く首を振った。


「私は、分けたくなかった」


その言葉は、ロウの胸に深く突き刺さった。


「私は、門を開けたかった。誰もが自分の名前を持ち、自分の意思で生きられる世界にしたかった。でも、私にはできなかった」


母の輪郭が薄くなっていく。


「だから、あなたに託したの」


「何を?」


「私ができなかったことを」


「……俺に、世界を元に戻せというのか」


「いいえ」


母は、静かに答えた。


「世界を元に戻すことが、正しいとは限らない」


ロウは、息を止めた。


「あなたが考えて。人間も、魔物も、名前を失った者も、まだ生まれていない者も。誰かが勝手に決めた正解ではなく、みんなが自分で選べる道を」


「そんなことができるのか」


「わからない」


母は、かつてのロウと同じように答えた。


「でも、わからないからといって、誰かの代わりに決めてしまうことはできないでしょう?」


映像が崩れ始めた。


研究室の壁が消え、床が消え、装置の光が遠ざかる。


ロウは手を伸ばした。


「母さん! どこにいるんだ!」


母は最後に、こう言った。


「ロウ。もし、私がまだどこかにいるのなら――」


声が途切れた。


それでも、最後の言葉だけは聞こえた。


「――私の名前を、探さないで」


映像が消えた。


白い部屋が戻ってきた。


ロウは、その場に立ち尽くしていた。


母は生きているのか。


死んでいるのか。


名前を返されたということは、彼女は誰かに名前を渡したのか。


それとも、彼女自身が名前を失ったのか。


答えはない。


しかし、一つだけ確かなことがあった。


母は、ロウに世界を救えとは言わなかった。


世界を元に戻せとも言わなかった。


ただ、自分で考えろと言った。


誰かの名前を奪わずに済む道を。


誰かの未来を勝手に決めずに済む道を。


ロウは、ゆっくりと息を吐いた。


「……セラ」


「はい」


「俺たちは、門の向こうへ行く」


セラは驚かなかった。


ただ、剣を握り直した。


「ようやく言いましたね」


「止めないのか」


「止めても行くでしょう」


「……否定できない」


「なら、私も行きます。今度は、あなたが帰ってくるまで、私が名前を呼び続けます」


ロウは彼女を見た。


「もし、俺が自分の名前を忘れたら?」


「何度でも呼びます」


セラは、迷いなく答えた。


「あなたが返事をするまで」


その言葉を聞いたとき、ロウは初めて、自分が一人ではないことを実感した。


名前を守るというのは、記録に刻むことだけではない。


誰かが自分の名前を忘れてしまったとき、その人を呼び続けることでもあるのだ。


そして、それは一人ではできない。


だからこそ、彼は仲間を連れていくことにした。

7 もう一つの黒門砦

正門を開けるという決定に、砦の幹部たちは反対した。


当然だった。


向こう側には、正体不明の集団がいる。


こちらと同じ顔を持つ兵士がいる。


百四十七年前に死んだと主張する者がいる。


そして、名前を返せと要求する者たちがいる。


それだけで、十分すぎるほど危険だった。


「門を開ければ、敵が入ってくる可能性があります」


副官の一人が言った。


「こちらから出ていくのも同じです。門の向こうが何なのか、わかっていない」


別の兵士が続ける。


「砦の安全を優先すべきです。少なくとも、相手の正体を確認するまでは――」


「その確認をするために、門を開ける必要がある」


ロウは机の上に、外の街道を描いた簡単な地図を置いた。


「今、俺たちが知っていることは三つだ。第一に、あの道は昨夜まで地図になかった。第二に、向こうの砦には、こちらと同じ構造の建物がある。第三に、向こうの兵士たちは、こちらの兵士と同じ名前を持っている」


「それは、敵がこちらの情報を盗んだ可能性を示しているのでは?」


「その可能性はある」


ロウは否定しなかった。


「だが、百四十七年前の記録まで一致している。こちらの砦が建設される前の記録だ。情報を盗んだだけでは説明できない」


「ならば、なおさら危険です」


「そうだ。危険だから、準備する」


ロウは指を三本立てた。


「一つ。門を開けるのは五分間だけ。二つ。向こう側へ出るのは俺とセラ、それに記録係のオスカー、医師のミラの四人。三つ。俺たちが戻らなかった場合、門を閉じる権限は副官に委ねる」


「隊長が戻らなかった場合、ですか」


セラが口を挟んだ。


「まるで戻らないことを前提にしているように聞こえます」


「戻るつもりだ」


「なら、戻ると書いてください」


「命令書に?」


「ええ」


「……そんな文言を命令書に書く必要があるのか?」


「あります」


セラは真顔だった。


「あなたは、戻るつもりがあると言いながら、戻らなくても仕方がないと思っているときがある。今回は、それを許しません」


ロウは彼女を見つめた。


やがて、紙を引き寄せた。


命令書の末尾に、一文を付け加える。


『衛兵隊長ロウ・テュユールは、調査終了後、必ず黒門砦へ帰還する』


「これでいいか」


「はい」


「満足したか」


「まったく」


「……そうか」


「ですが、約束はできました」


ロウはペンを置いた。


その一言が、妙に重かった。


これまで、彼は何度も自分の命を秤にかけてきた。


自分が犠牲になれば済むのなら。


自分が消えれば誰かが助かるのなら。


自分が名前を失えば、他の誰かが自分の人生を取り戻せるのなら。


そう考えてしまうことがあった。


しかし、母は言った。


世界を守るために、誰かを犠牲にする理由を探してはいけない。


セラは言った。


返事をするまで、名前を呼び続けると。


ロウは、自分が戻ることを、初めて他人との約束として書き残した。


それは、これまでのどんな命令よりも、彼を縛るものだった。


そして、彼が必要としていたものでもあった。


正門が開いた。


重い鎖が動き、歯車が軋み、何百人もの兵士が支えてきた門が、ゆっくりと左右へ開いていく。


向こう側には、街道がある。


石畳。


朽ちた街灯。


黒い標識。


そして、もう一つの黒門砦。


門の外に並んでいた者たちは、誰も動かなかった。


彼らはロウたちが歩いてくるのを、静かに見守っていた。


ロウは門の敷居を越えた。


その瞬間、音が消えた。


風の音。


鳥の声。


鎖の軋み。


後ろから聞こえる兵士たちの足音。


すべてが消えた。


ロウは振り返った。


黒門砦が見える。


門の内側には、セラが立っている。


オスカーも、ミラもいる。


彼らの姿は、はっきりと見えていた。


それなのに、声が届かない。


ロウは手を上げた。


セラも手を上げた。


彼女の口が動いた。


何を言っているのかはわからない。


それでも、ロウにはわかった。


――帰ってきてください。


ロウは頷いた。


そして、前を向いた。


街道の先に立つ兵士が、一歩前へ出た。


先ほどのヨハン・レイスと同じ顔を持つ男だった。


「来たな」


男は言った。


今度は、声が聞こえた。


「お前は誰だ」


ロウが問いかける。


男は少し考えた。


「俺は、ヨハン・レイスだった」


「今は?」


「わからない」


「なら、どう呼べばいい」


男は目を見開いた。


その質問をされるとは、思っていなかったらしい。


やがて、彼は笑った。


「……そうだな。俺も、考えたことがなかった」


ロウは頷いた。


「なら、考えればいい」


男は、長い間ロウを見つめていた。


そして、ようやく口を開いた。


「俺は、門を守っていた」


「いつから?」


「世界が分かれた日から」


「何を守っていた?」


男は、背後の砦を見た。


「こちら側へ来てはいけない者を」


「なぜ、来てはいけない?」


「こちら側の人間が、その者たちを受け入れられなかったからだ」


「受け入れられないことと、来てはいけないことは同じじゃない」


ロウが言うと、男は静かに頷いた。


「……ああ。今なら、わかる」


「何があった」


男は、街道の先を見た。


「来い。見せたいものがある」


ロウは剣の柄から手を離した。


男について歩き始める。


街道の両脇には、人々が立っていた。


人間。


獣人。


角を持つ者。


鱗を持つ者。


ロウが見たことのない種族もいた。


彼らの中には、こちらの砦で見た兵士と同じ顔の者もいた。


同じ名前を持つ者もいた。


そして、顔も名前もまったく違うのに、同じ記憶を持っていると語る者もいた。


「お前たちは、何者なんだ」


ロウは尋ねた。


男は答えた。


「こちら側で、名前を失った者たちだ」


「全員が?」


「全員ではない」


男は首を振った。


「名前を失った者もいる。名前を与えられなかった者もいる。誰かの名前を引き継いだ者もいる。そして、自分の名前を持っているのに、誰にも呼ばれなくなった者もいる」


「……それで、こちらに名前を返せと?」


「違う」


男は立ち止まった。


「返してほしいのは、名前だけではない」


彼はロウを見た。


「自分が生きていたことを、認めてほしいんだ」


その言葉に、ロウは返事ができなかった。


名前を失う。


記録から消える。


誰かの記憶の中にだけ残る。


それでも、そこに生きていた人間がいる。


彼らは、何をしたのか。


誰を愛し、誰を憎み、何を望み、何を失ったのか。


それを知る前に、存在そのものを否定してしまうことが、どれほど残酷なのか。


ロウは、黒門砦で見てきた。


それでも、彼はまだ、彼らが何を望んでいるのかを理解していなかった。


「お前たちは、こちら側へ戻りたいのか」


男は答えるまでに、時間をかけた。


「戻りたい者もいる」


「戻りたくない者も?」


「いる」


「なら、どうすればいい」


男は微笑んだ。


「それを、こちらに決めさせないでくれ」


ロウは、ゆっくりと頷いた。


「……わかった」


男は歩き始めた。


「なら、最初に見せるべきものがある」


街道の先。


もう一つの黒門砦の正門が、開いていた。


その奥には、こちらの砦と同じ形の建物が並んでいる。


ただし、壁は黒くない。


門も黒くない。


空は赤く、太陽は二つあった。


そして、砦の中央には、巨大な樹木が立っていた。


根は地面を割り、枝は空を覆い、幹には無数の名前が刻まれている。


人間の名前。


魔物の名前。


知らない文字で書かれた名前。


まだ生まれていない者の名前。


そして、ロウが知っている名前。


エリナ・テュユール。


ベルン・ハルト。


アベル。


ロウ・テュユール。


その根元に、一人の女性が立っていた。


ロウは、息を止めた。


「……母さん?」


女性が振り返った。


その顔は、記憶の中の母と同じだった。


彼女はロウを見て、微笑んだ。


「おかえりなさい」


その声を聞いた瞬間、ロウは自分がどこに来たのかを理解した。


ここは、別の世界ではない。


世界から切り離された場所でもない。


世界が分かれるとき、こちら側に残されたものを、誰かが忘れないように守り続けてきた場所だった。


そして、ここにいる母は、ロウが知っている母と同じなのか。


それとも、母の記憶を受け継いだ別の誰かなのか。


まだ、わからなかった。


ロウは一歩前へ出た。


「……母さん。あなたは、本当に母さんなのか」


女性は、悲しそうに微笑んだ。


「それを決めるのは、私ではないわ」


そして彼女は、ロウの名前を呼んだ。


「ロウ・テュユール」


その声は、確かに母の声だった。


けれど、その呼び方には、ロウが知らない響きが混じっていた。


まるで、彼女がその名前を、何百年も前から知っていたかのように。


「あなたに、話さなければならないことがあるの」


彼女は、樹木の根元に置かれた扉を指さした。


そこには、四つの円が刻まれていた。


第一の円は白。


第二の円は黒。


第三の円は赤。


第四の円だけ、何も描かれていなかった。


「この扉の向こうに、あなたの兄がいる」


ロウの胸の奥で、アベルが息を呑んだ。


女性は続けた。


「そして、あなた自身も」


8 四つ目の名前

扉の前に立つと、ロウは奇妙な感覚に襲われた。


懐かしい。


恐ろしい。


そして、腹立たしいほどに、自分の居場所だと感じた。


「ここは何だ」


女性は答えた。


「世界が分かれる前の記録を保管している場所よ」


「世界が分かれる前?」


「ええ」


彼女は、幹に刻まれた無数の名前を見上げた。


「人間と魔物が、まだ別々の種族として定義されていなかった時代。生と死、過去と未来、名前と記憶が、今のように切り離されていなかった時代」


「そんな時代が、本当にあったのか」


「あなたは、今まで自分が見てきたものを、すべて信じられる?」


ロウは答えなかった。


死者の記録。


生きている者の記憶。


同じ顔を持つ二人の兵士。


名前を失い、別の人生を受け取った者たち。


この砦で起きたことは、常識では説明できなかった。


それでも、目の前の女性の言葉を、そのまま信じるわけにはいかない。


「証拠が必要だ」


ロウは言った。


女性は頷いた。


「そうね」


彼女は扉の表面に手を当てた。


四つの円が光り始める。


「だから、あなた自身の記録を見せるわ」


扉が開いた。


その向こうに広がっていたのは、部屋ではなかった。


星空だった。


無数の星が、足元にも、頭上にも、壁にも浮かんでいる。


その中央に、一つの光があった。


光の中には、人影が立っていた。


ロウに似た男。


ただし、年齢はわからない。


顔には無数の傷があり、髪は白く、目は黒かった。


男はロウを見ると、深く頭を下げた。


「……ようやく来たか」


「お前は誰だ」


男は答えた。


「お前が、まだ生まれていなかった頃の、お前だ」


「……何を言っている」


「正確には、お前の名前を引き継ぐ前の、お前だ」


ロウは剣を抜いた。


男は動かなかった。


「疑うのは正しい。俺だって、お前を信じない」


「なら、なぜ俺を待っていた」


「お前が来なければ、俺は永遠にここから出られない」


「どうしてだ」


男は、自分の胸を指さした。


そこには、四つの円が刻まれていた。


「俺は、世界が分かれたときに、こちら側に残った」


「こちら側?」


「人間の世界でも、魔物の世界でもない。二つに分かれる前の世界だ」


男は、星空を見上げた。


「俺は、その世界の最後の門番だった」


ロウは息を呑んだ。


「……最初の門番ではないのか」


「違う。最初の門番は、俺の兄だ」


男は答えた。


「お前の中にいるアベルは、俺の兄の名前を引き継いでいる」


胸の奥で、アベルが叫んだ。


『違う!』


男は目を伏せた。


「……そうだな。お前は、兄ではない」


「なら、なぜ同じ名前を持っている」


ロウが問いかけると、男は静かに答えた。


「名前を返すことができなかったからだ」


彼は、四つの円を見つめた。


「世界が分かれた日、最初の門番は、自分の名前を取り戻した。そして、自分の意思で門を開いた。門の向こうにいた者たちが、こちらへ渡った」


「その結果、世界が分かれた」


「そうだ」


「なぜだ」


男は、長い間黙っていた。


そして、ようやく口を開いた。


「人間と魔物が争ったからではない」


ロウは眉を寄せた。


「……何?」


「世界を分けたのは、戦争ではない。恐怖でもない。誰かが世界を支配するためにやったことでもない」


男は、ロウを見た。


「世界を分けたのは、誰もが、自分の名前を自分だけのものにしたいと願ったからだ。」


ロウは、言葉を失った。


男は続けた。


「名前は、誰かを区別するために生まれた。記憶は、誰かの人生を保存するために生まれた。境界は、誰かと誰かが違う存在であることを守るために生まれた」


「それが、なぜ世界を分けることになる」


「違いを守ることと、違いを隔てることは、同じではないからだ」


男は、星々を指さした。


「最初の世界では、誰もが他者の記憶に触れることができた。人間は魔物の夢を見ることができた。魔物は人間の死を知ることができた。生まれる前の者が、過去の者の声を聞くこともあった」


「それは……」


「便利なことばかりではなかった」


男は、はっきりと言った。


「他者の記憶を自分のものだと思い込む者がいた。誰かの名前を奪い、その人生を自分のものにしようとする者がいた。自分が望まない記憶を押しつけられ、誰かの罪を背負わされた者もいた」


ロウは、黒門砦で見てきたことを思い出した。


名前を引き継いだ者たち。


ベルン・ハルトの名を持った兵士たち。


自分の人生と他人の人生を区別できなくなった者たち。


「だから、世界を分けたのか」


「そうだ」


男は頷いた。


「人間と魔物を分けたのは、互いを憎んでいたからではない。互いの存在を、勝手に自分のものにしてしまわないためだった」


「……だが、世界が分かれた後、人間と魔物は争い始めた」


「そうだ」


男は、否定しなかった。


「境界を守るために作られた仕組みは、やがて境界そのものを正しいものとして扱い始めた。違いを守るための仕組みが、違う者を排除するための仕組みに変わった」


ロウは、唇を噛んだ。


「それなら、世界を一つに戻せばいい」


「戻すことが正しいと思うか?」


男の問いに、ロウは答えられなかった。


「世界を一つに戻せば、失われた記憶は戻るかもしれない。離れた者たちが再び会えるかもしれない。だが、同時に、他者の記憶が再び流れ込み、誰かが誰かの名前を奪うことも起きるだろう」


「……」


「境界を閉じたままにすれば、今の世界は維持される。人間は人間として、魔物は魔物として、それぞれの人生を生きられる。だが、境界の向こう側に取り残された者たちは、永遠に名前を返してもらえない」


男は、ロウを見つめた。


「どちらを選んでも、誰かが苦しむ」


ロウは、剣を下ろした。


それは、彼が最も聞きたくなかった答えだった。


どちらかを選べば、すべてが解決する。


そんな簡単な話ではなかった。


境界を開けば、誰かが傷つく。


閉じたままにすれば、誰かが取り残される。


世界を一つに戻すことも、二つのまま維持することも、それだけでは正義にならない。


「……なら、第三の道を探す」


ロウは言った。


男は、少しだけ目を見開いた。


「簡単ではないぞ」


「知っている」


「お前一人ではできない」


「それも知っている」


「失敗すれば、今より多くの者が傷つくかもしれない」


「それでも、最初から誰かを犠牲にすることを前提にしたくない」


ロウは、男を見た。


「俺は、門番になるためにここへ来たんじゃない」


男は黙っていた。


「誰かの名前を守るために、別の誰かの名前を奪う。誰かの人生を救うために、別の誰かを記録から消す。そういうやり方を、もう終わりにしたい」


ロウは、胸元に手を当てた。


「俺の中にいるアベルも、ここにいるお前も、俺が勝手に決めることはしない。お前たちが何者なのか、何を望んでいるのか、それを聞いてから考える」


男は、長い間ロウを見つめていた。


そして、初めて笑った。


「……やはり、お前は俺とは違う」


「どういう意味だ」


「俺は、誰も傷つけないために、何もしないことを選んだ」


男は、静かに答えた。


「お前は、誰かが傷つく可能性を知りながら、それでも別の道を探そうとしている」


彼は、ロウの前に片手を差し出した。


「俺は、その道を見たかった」


ロウは、その手を見つめた。


「お前の名前は?」


男は答えなかった。


「……まだ、ないのか」


「ある」


男は言った。


「だが、俺はそれを使わない」


「なぜだ」


「その名前を使えば、俺はまた門番になる。世界を分けた日の責任を、永遠に背負い続けることになる」


男は、差し出した手を下ろした。


「俺は、もうそれを望んでいない」


ロウは頷いた。


「なら、無理に名乗る必要はない」


「……お前は、名前を与えないのか」


「お前が望んでいないならな」


男は、深く息を吐いた。


「ありがとう」


その言葉を聞いた瞬間、星空の中で、四つの円が光った。


第一の円。


第二の円。


第三の円。


そして、第四の円。


第四の円には、何も描かれていなかった。


しかし、その空白の中央に、小さな文字が浮かんだ。


『選択』


ロウは、その文字を見つめた。


門番が守っていたものは、世界ではなかった。


境界そのものでもなかった。


誰かが、自分の名前と生き方を、自分で選べる可能性だった。


その可能性を守るために、門番は百四十七年もの間、門の前に立ち続けた。


けれど、彼は最後まで、門を開けるべきか閉じるべきかを決められなかった。


そして今、ロウは同じ場所に立っている。


ただし、彼には仲間がいる。


自分を呼び続けてくれる者がいる。


自分の中で生まれようとしている者がいる。


そして、自分とは違う道を選びたいと願う者たちがいる。


ロウは、男の手を取った。


「……一緒に考えよう」


男は、驚いたように目を見開いた。


それから、ゆっくりと頷いた。


「そうだな」


その瞬間、星空が崩れた。


無数の光が流れ、四つの円が一つになり、ロウの足元に巨大な扉が現れた。


扉の表面には、二つの名前が刻まれていた。


エリナ・テュユール。


ロウ・テュユール。


その間に、空白がある。


まだ、誰の名前も刻まれていない場所。


ロウは、その空白に触れた。


何も起きなかった。


それでよかった。


誰かが名前を与えるのではなく、いつか誰かが自分で選ぶための場所なのだから。

9 帰還

ロウが目を開けたとき、彼は黒門砦の正門前に立っていた。


門は開いている。


街道は消えていた。


もう一つの黒門砦も、赤い空も、巨大な樹木もない。


ただ、いつもの国境の風景が広がっていた。


セラが、ロウの腕を掴んでいた。


「……隊長!」


彼女の声が、やけに遠く聞こえた。


「戻ってきましたね」


「……ああ」


「本当に戻ってきましたね?」


「二度も確認する必要があるか?」


「あります!」


セラはロウの肩を掴んだまま、顔を覗き込んだ。


「名前は?」


「ロウ・テュユール」


「所属は?」


「黒門砦、衛兵隊長」


「私の名前は?」


「セラ・ヴォス」


「……よし」


彼女はようやく手を離した。


その後ろでは、オスカーが記録帳を抱え、ミラがロウの顔色を確認している。


「隊長、何があったんですか?」


オスカーが尋ねた。


ロウは、正門の外を見た。


街道はない。


しかし、地面には足跡が残っていた。


ロウの足跡。


セラの足跡。


オスカーの足跡。


ミラの足跡。


そして、もう一つ。


ロウと同じ靴底の形をした足跡が、門の内側から外へ向かって伸びていた。


「……話すことは山ほどある」


ロウは言った。


「ただし、今は記録を優先する。俺たちが見たものを、それぞれ別々に書き残してくれ」


「記憶が変わる可能性があるからですか?」


「そうだ」


「……承知しました」


オスカーは、すぐに記録を始めた。


ミラはロウの脈を取りながら、何かを考えていた。


セラだけが、ロウの顔を見つめていた。


「隊長」


「何だ」


「お母様に、会えましたか」


ロウは、しばらく黙っていた。


「……会えた」


「生きていたんですか?」


「わからない」


セラは、何も言わなかった。


「母さんは、俺に世界を元に戻せとは言わなかった」


ロウは続けた。


「ただ、自分で考えろと言った」


「何を?」


「誰かの名前を奪わずに済む道を」


セラは、ゆっくりと頷いた。


「……隊長らしいですね」


「そうか?」


「ええ。面倒で、遠回りで、時間がかかる。でも、誰かを簡単に切り捨てない道です」


ロウは苦笑した。


「褒めているのか?」


「半分は」


「残り半分は?」


「そういうところが、心配なんです」


ロウは返事をしなかった。


そのとき、胸の奥からアベルの声がした。


『兄さん』


『何だ』


『僕、少しだけわかった気がする』


『何が?』


『僕は、誰かの記憶から生まれたのかもしれない。でも、それだけじゃない』


アベルは、ゆっくりと言葉を選んだ。


『僕が何者なのかは、僕がこれから何を選ぶかで決まるんだと思う』


ロウは目を閉じた。


『……そうだな』


『僕、いつか生まれたい』


『ああ』


『でも、誰かの代わりになるためじゃなくて』


『ああ』


『僕自身として、生まれたい』


ロウは、静かに答えた。


『なら、そのときは一緒に考えよう』


胸の奥が、温かくなった。


痛みはない。


何かが奪われる感覚もない。


ただ、そこに誰かがいる。


自分とは違う意思を持つ誰かが。


それだけで、今は十分だった。


その夜、黒門砦では臨時の評議が開かれた。


もう一つの砦について、ロウたちが見たものを報告する。


だが、記録を照合している最中、奇妙なことが判明した。


ロウたちが見た街道の長さ。


向こうの砦の構造。


巨大な樹木の位置。


それらは、百四十七年前の建設図面に、確かに記されていた。


ただし、その図面では、街道も砦も樹木も、すべて黒い線で消されていた。


線の上には、短い注釈がある。


『観測禁止』


『接触禁止』


『名前の持ち出し禁止』


そして、一番下に。


『境界が開いた場合、門番は帰還しない』


ロウは、その文章を長い間見つめていた。


門番は帰還しなかった。


彼は、自分の意思で門番であることをやめた。


だからこそ、向こう側にいた者たちは、ようやく姿を現すことができたのかもしれない。


だが、最後のページには、さらに一行があった。


『門番が帰還しない場合、継承者がその役割を引き継ぐ』


ロウの名前が、その下に浮かび上がった。


『継承者:ロウ・テュユール』


セラが、机を叩いた。


「……ふざけないでください」


オスカーが顔を上げる。


「セラ副官?」


「本人が引き受けると言っていないのに、勝手に継承者にするなという話です」


「しかし、記録には……」


「記録が何ですか」


セラは、ロウを見た。


「隊長。どうしますか」


ロウは、ゆっくりと紙を引き寄せた。


そして、記録の末尾に書き込んだ。


『本人の同意なしに、継承を成立させることはできない』


その下に、自分の名前を書く。


ロウ・テュユール。


そして、もう一行。


『この記録は、命令ではない。選択肢の一つとして保管する』


書き終えた瞬間、紙の文字が揺れた。


継承者という文字が消えた。


代わりに、別の文字が浮かび上がる。


『候補者』


それだけだった。


ロウは、紙を机に置いた。


「……よし」


セラは、ようやく息を吐いた。


「本当に、心臓に悪い人ですね」


「俺は何もしていない」


「記録に反論したでしょう」


「記録に反論するのは、衛兵隊長の仕事ではないのか?」


「少なくとも、あなたの仕事はそれだけではありません」


彼女は、ロウの前に新しい書類を置いた。


「こちらは、通常の勤務報告です。明日の見張り配置も決めてください」


ロウは書類を見た。


「……今、この状況で?」


「今、この状況だからです」


セラはきっぱりと言った。


「世界の境界がどうなろうと、明日の朝には商人が来ます。怪我人も来ます。通行証をなくした旅人も来ます。門番がいなくなったからといって、黒門砦の仕事がなくなるわけではありません」


ロウは、思わず笑った。


確かに、その通りだった。


世界の謎を解き明かしても、明日の勤務表は必要だ。


人間と魔物の起源を知っても、怪我人には手当てが必要だ。


世界が二つに分かれた理由を理解しても、門の前で困っている旅人を追い返していい理由にはならない。


ロウはペンを取った。


「……わかった。明日の配置を決めよう」


セラは頷いた。


「それでいいんです」


そして、少しだけ声を柔らかくした。


「おかえりなさい、隊長」


ロウは、顔を上げた。


「……ただいま」


その言葉を聞いたとき、胸の奥でアベルが笑った。


小さな、かすかな笑い声だった。


それは、誰かの記憶に残された笑い声ではなかった。


誰かに命令されたものでもなかった。


アベル自身が、今、笑ったのだ。


そのことに気づいたロウは、ペンを握り直した。


まだ、何も解決していない。


母の行方はわからない。


世界を分けた者の正体も、すべては明らかになっていない。


門番が残した役割は、今もロウの前にある。


それでも。


今夜、黒門砦は燃えていない。


兵士たちは生きている。


セラは隣にいる。


オスカーは記録をつけている。


ミラは怪我人を診ている。


そして、名前を持たない誰かが、自分の名前を選ぶ日を待っている。


ロウは、勤務表の最後に署名した。


それは、世界の運命を決める名前ではなかった。


ただ、明日もここにいるという約束の名前だった。


10 扉の向こうにいたもの

深夜。


ロウは一人で正門の上に立っていた。


門の外には、いつもの街道がある。


森があり、遠くに山があり、星が瞬いている。


もう一つの黒門砦は見えない。


赤い空も、巨大な樹木もない。


それでも、ロウにはわかっていた。


向こう側は、消えたわけではない。


ただ、今は見えなくなっただけだ。


門番がいなくなったことで、境界は少しだけ変わった。


世界が一つに戻ったわけではない。


しかし、完全に閉じたままでもなくなった。


その変化が何をもたらすのか、まだ誰にもわからない。


「……隊長」


振り返ると、セラが立っていた。


「眠らないんですか」


「お前こそ」


「見張りです」


「俺も見張りだ」


「あなたは勤務表に名前を書いたばかりでしょう」


「だから、責任を持って見張っている」


「その理屈は、明日から禁止します」


ロウは苦笑した。


セラは隣に立ち、街道を見た。


「向こう側の人たちは、また現れると思いますか」


「わからない」


「現れたら、どうします?」


「話を聞く」


「それだけですか」


「まずはな」


ロウは、門の向こうを見つめた。


「彼らが何を望んでいるのかを知らずに、こちらの都合で決めるわけにはいかない」


「……そうですね」


二人はしばらく黙っていた。


やがて、セラが尋ねた。


「隊長は、怖くないんですか」


「何が?」


「自分が何者なのか、わからなくなることです」


ロウは、すぐには答えなかった。


名前を失う。


記憶を失う。


誰かの人生を引き継ぐ。


自分の中に、自分ではない誰かがいる。


それは、恐ろしいことだった。


自分が自分であるという、当たり前の感覚が崩れていく。


昨日まで信じていたものが、今日には疑わしくなる。


誰かが呼ぶ名前が、自分のものなのかさえわからなくなる。


ロウは、そうした恐怖を知っていた。


「……怖いさ」


彼は答えた。


「自分が自分じゃなくなることも。誰かを傷つけることも。自分の選択が、間違っているかもしれないことも」


セラは、静かに聞いていた。


「でも、怖いからといって、何も選ばなければいいわけじゃない」


ロウは続けた。


「門番は、長い間、開けることも閉じることもできなかった。何もしないことを選び続けた。その結果、門の向こうにいた者たちは、名前を返してもらえないまま残された」


「……はい」


「俺は、ああなりたくない」


ロウは、正門の金具に手を置いた。


「間違えるかもしれない。失敗するかもしれない。それでも、誰かに決めてもらうんじゃなくて、自分で考えて、自分で選びたい」


セラは、少しだけ微笑んだ。


「なら、私もそうします」


「何を?」


「私も、自分で選びます。あなたを支えるかどうかも、あなたを止めるかどうかも、私が決めます」


「……それは頼もしいな」


「ええ。ですから、勝手に一人で背負わないでください」


「努力する」


「努力ではなく、約束してください」


ロウは彼女を見た。


そして、頷いた。


「……約束する」


その瞬間、正門の金具が小さく鳴った。


風は吹いていない。


門も動いていない。


それでも、金属の奥から、誰かが指先で叩いたような音がした。


一度。


二度。


三度。


ロウとセラは同時に門を見た。


金具の表面に、文字が浮かび上がっていた。


『第一の門は、外からの侵入を防ぐ』


『第二の門は、内からの流出を防ぐ』


『第三の門は、境界そのものを固定する』


そして、最後の一行。


『第四の門は、選択を記録する』


セラが息を呑んだ。


「……第四の扉は、まだ存在しているんですね」


「そうらしい」


ロウは、文字を見つめた。


最後の行が、ゆっくりと書き換わっていく。


『第四の門は、選択を記録する』


『ただし、選択を強制することはできない』


ロウは、静かに息を吐いた。


門番は消えた。


しかし、門の役割そのものがなくなったわけではない。


門は、まだここにある。


世界を分けるためではなく。


誰かを閉じ込めるためでもなく。


誰かが自分で選んだことを、忘れないために。


ロウは、門に手を置いた。


「……聞こえているか」


返事はなかった。


それでも、彼は続けた。


「俺は、まだ答えを出せていない」


夜風が吹いた。


「世界を一つに戻すべきなのか。二つのままにするべきなのか。それとも、別の道があるのか」


ロウは、目を閉じた。


「だが、少なくとも、誰かの名前を勝手に奪うことだけは、もうしない」


門は沈黙していた。


それでよかった。


返事を強制する必要はない。


誰かが自分の名前を選ぶまで、待つこともできる。


ただし、待つことと、何もしないことは違う。


ロウは、門から手を離した。


「明日から、調査を再開する」


セラが頷いた。


「はい」


「向こう側の記録を探す。母さんの行方を調べる。門番の正体も、世界を分けた者のことも、もっと詳しく知る」


「はい」


「そして、境界の向こうにいる者たちと、話をする」


セラは、剣の柄に手を置いた。


「そのときは、私も一緒に」


ロウは、夜空を見上げた。


星は、いつもと同じように輝いていた。


けれど、もう同じには見えなかった。


この空の向こうには、別の空がある。


この世界の外側には、別の世界がある。


そして、そのどちらにも、名前を持つ者がいる。


名前を失った者がいる。


まだ名前を選んでいない者がいる。


彼らは、敵かもしれない。


味方かもしれない。


あるいは、そのどちらでもないのかもしれない。


だからこそ、ロウは明日も門の前に立つ。


誰かが来たら、まず名前を聞く。


名前がなければ、勝手に与えない。


相手が何を望むのか、何をしてきたのか、誰を傷つけたのかを確かめる。


罪があれば、その責任を問う。


だが、生まれる前から罪人だと決めつけることはしない。


それが、彼の選んだ道だった。


そのとき、胸の奥で、アベルが小さく呟いた。


『兄さん』


『何だ』


『僕、いつか生まれたら、何をしたいか決めたよ』


ロウは、目を閉じた。


『……何がしたい?』


アベルは、少しだけ恥ずかしそうに答えた。


『自分の名前で、誰かを呼びたい』


ロウは、静かに笑った。


『いい願いだ』


『うん』


『なら、いつか自分で選んだ名前で、そうしろ』


アベルは答えなかった。


ただ、胸の奥で、小さな鼓動が一つだけ響いた。


それは、まだ生まれていない者の鼓動だった。


そして、その鼓動は、誰かの記憶に記されたものではなかった。


誰かの命令によって与えられたものでもなかった。


アベル自身が、ここにいることを選んだ証だった。


ロウは、正門の上から砦を見渡した。


見張り台には兵士がいる。


医務室には灯りがある。


記録庫ではオスカーが、きっとまだ帳簿を整理している。


セラは隣に立っている。


明日の朝になれば、商人が来る。


旅人が来る。


怪我をした者が来る。


助けを求める者が来る。


そして、いつか。


門の向こうから、名前を返してほしいと願う者が来るだろう。


そのとき、ロウはもう一度、話を聞く。


彼らが何者なのか。


何を失ったのか。


何を望んでいるのか。


それを聞いたうえで、共に考える。


世界を一つに戻すためではない。


世界を二つのまま守るためでもない。


誰かが誰かの名前を奪わずに済む道を、探すために。


ロウは、剣を鞘に収めた。


そして、門の向こうへ向けて、静かに言った。


「……明日も、ここにいる」


返事はなかった。


だが、門の金具に浮かんだ文字が、ゆっくりと変わった。


『門を守る者は、門の外にいる者を忘れてはならない』


その下に、新しい一文が刻まれる。


『門の内にいる者も、門の外にいる者も、まだ世界のすべてを知らない』


ロウは、その文字を見つめた。


「……そうだな」


彼は、初めてその言葉を、命令ではなく約束として受け取った。


門番がいなくなった夜。


第四の扉の向こうにいたものを知った夜。


そして、世界の謎が、ようやく本当の意味で始まった夜。


黒門砦の鐘が、静かに鳴った。


今度は、誰も鳴らしていない鐘ではなかった。


見張りの交代を知らせる、いつもの鐘だった。


夜はまだ明けない。


衛兵は、まだ眠れない。


だが、彼らはもう、ただ恐怖に耐えるために夜を過ごしているのではなかった。


明日、誰かに出会うために。


誰かの名前を聞くために。


そして、誰かが自分自身を選ぶ瞬間を、見届けるために。


第一章、完。

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