第一話「帰ってきた旅人」
1 通行証
「次の者!」
朝の鐘が鳴ってから、すでに二時間が経過していた。
黒門砦の正門前には、荷車が六台、馬が九頭、徒歩の旅人が二十七人並んでいる。
東の街道から来た塩商人。
南の村から薬草を運ぶ姉妹。
国境沿いの集落へ向かう職人。
そして、王国の許可を得て移動する魔物の使節団が一組。
黒門砦は、今日も忙しかった。
世界の境界がどうなっているのか。
百四十七年前に何があったのか。
第四の扉の向こうに誰がいたのか。
そんなことを考えている余裕など、門番にはない。
荷物を調べ、身分を確認し、危険物の有無を確かめる。
通してよい者は通す。
通せない者は止める。
その判断を誤れば、国境の向こうで誰かが死ぬ。
「荷台の布をめくってください」
「昨日も調べただろう!」
「昨日と今日で荷物が変わっていない証拠はありません」
「商人を信用しないのか!」
「商人を信用しているからこそ、記録を残すんです」
若い衛兵が、疲れた顔で答えた。
ロウ・テュユールは、そのやり取りを少し離れた場所から眺めていた。
「……ずいぶんと板についてきたな」
隣のセラ・ヴォスが言った。
「何がだ」
「あなたの部下が、あなたそっくりの言い方をするようになりました」
「俺は、あんなに愛想が悪くない」
「ご自分ではそう思っているんですね」
「何か問題があるか?」
「いいえ。砦の規律が守られていて何よりです」
セラは手元の通行記録を閉じた。
「ただし、あなたの言い方を真似して商人と喧嘩を始める者が増えたので、そこは改善が必要です」
「……指導しておく」
「お願いします」
ロウは正門の外を見た。
昨日まで、あの場所には地図にない街道があった。
赤い空。
二つの太陽。
名前を失った者たちが暮らす、もう一つの黒門砦。
そして、母エリナ・テュユール。
すべてが消えたわけではない。
ただ、今日は見えない。
それだけだ。
「隊長!」
門番の一人が駆け寄ってきた。
「通行証の確認で、判断に迷う者がいます」
「どんな問題だ」
「国名がありません」
ロウは眉を寄せた。
「国名がない?」
「はい。通行証自体は本物に見えます。王国の印章に似たものもありますが、該当する国が地図にも記録にもありません」
「偽造か?」
「それが……」
兵士は言い淀んだ。
「発行された日付が、百四十七年前なんです」
ロウはセラを見た。
セラはすでに剣帯を確かめていた。
「案内してください」
旅人は、列の最後に立っていた。
年齢は四十代半ばほどに見える。
長い旅で擦り切れた外套。
泥のついた革靴。
肩に担いだ荷物は小さく、武器らしいものは見当たらない。
髪には白いものが混じっていたが、顔には年齢以上の疲れが刻まれていた。
旅人は、衛兵たちに囲まれても落ち着いていた。
「あなたが、この通行証の持ち主か」
ロウが尋ねる。
「はい」
「名前は?」
旅人は答えた。
「イーサン・ヴェイルです」
「出身地は?」
「ヴァルネアです」
ロウは手元の地図を広げた。
「その国は、どこにある」
イーサンは、地図を覗き込んだ。
「……ありませんね」
「ないから聞いている」
「そうでしょうね」
旅人は、困ったように笑った。
「私が出たときには、ありましたから」
「いつ出た?」
「十七年前です」
「それから、どこにいた」
「家に帰っていました」
セラが口を開いた。
「十七年間、ずっと?」
「はい」
「ここまでの道のりは?」
「歩いてきました」
「食事は?」
「食べました」
「どこで?」
「家で」
「宿泊先は?」
「家です」
セラは、ロウを見た。
ロウは旅人を見た。
イーサンは、まったく悪びれずに二人を見返していた。
「……冗談を言っているのか?」
ロウが尋ねる。
「いいえ」
「十七年前に国境を出て、十七年間ずっと家にいて、今朝、ここまで歩いてきたと?」
「はい」
「その国は地図にない」
「はい」
「その国が存在したという記録もない」
「そうでしょうね」
「なのに、通行証は百四十七年前に発行されている」
「はい」
ロウは息を吐いた。
「質問に答えているようで、何も説明していないぞ」
「申し訳ありません」
イーサンは、真面目な顔で頭を下げた。
「私も、どう説明すればいいのかわからないんです」
彼は、胸元の内ポケットから通行証を取り出した。
古い革のケースに収められている。
紙は黄ばんでいたが、破れてはいなかった。
王国の紋章に似た印章。
発行番号。
通行人の氏名。
出身地。
そして、発行日。
ロウは紙面を確認した。
氏名:イーサン・ヴェイル。
出身地:ヴァルネア。
発行日:百四十七年前、王暦三二一年。
現在の王暦は、四百六十八年。
百四十七年前。
第四の扉が発見された年。
門番が名前を失い、世界の境界が変わった年。
ロウは通行証を裏返した。
裏面には、短い文章が記されていた。
『帰還者に対し、出国時と同一の本人確認を実施すること』
その下には、もう一行。
『本人が帰還を否定した場合、通行を許可してはならない』
ロウは顔を上げた。
「イーサン」
「はい」
「この通行証を、誰から受け取った?」
旅人は、少し考えた。
「あなたのお母様です」
正門前の喧騒が、急に遠くなった。
セラの手が剣の柄にかかった。
ロウは、通行証を持つ指に力を込めた。
「……名前を言え」
「エリナ・テュユールです」
旅人は答えた。
「百四十七年前、黒門砦の建設に携わっていた女性です」
ロウは、しばらく言葉を失った。
目の前の男は、母の名前を知っている。
それだけなら、昨日の記録を見た可能性もある。
しかし、通行証は百四十七年前に発行されたものだ。
紙も、印章も、発行番号も、古い記録と一致している。
それに何より、通行証の裏には、母の名前が記されていた。
ロウは旅人を見つめた。
「……お前は、何者だ」
イーサンは、静かに答えた。
「帰ってきた旅人です」
「どこから?」
旅人は、地図の北側を指さした。
そこには、王国の領土を示す線と、魔物の領域を示す線が引かれている。
その先は、白紙だった。
「この地図の、どちら側でもない場所からです」
2 帰還者の証言
旅人は、尋問室に移された。
拘束はしない。
ただし、武器を持っていないことを確認し、室内にはロウとセラが同席する。
オスカー・ベルンが記録係として呼ばれ、ミラ・セインが健康状態を確認するために待機した。
「では、最初から説明してもらおう」
ロウは椅子に座った。
「あなたがどこから来たのか。どうやってここへ来たのか。十七年間、何をしていたのか」
イーサンは頷いた。
「わかりました」
彼は、手元の通行証を見つめた。
「私は、十七年前にヴァルネアを出ました。妻と娘を残して」
「理由は?」
「仕事です。国境を越えた先に、薬草を売りに行く予定でした。娘が病気だったので、少しでもお金を稼ぎたかった」
「国境を越えた先というのは、どこだ」
「この砦です」
「十七年前の黒門砦か」
「はい」
「そのとき、何があった?」
イーサンは、しばらく黙っていた。
「……門を通ったんです」
「普通の通行手続きで?」
「そうです。身分証を見せ、荷物を調べられ、通行証を受け取りました」
「それから?」
「道を歩いているうちに、家へ帰っていました」
セラが眉を寄せた。
「途中の記憶は?」
「ありません」
「気がついたら家にいた?」
「はい」
「家族は、あなたが十七年間帰ってこなかったことを不思議に思わなかったのですか?」
「思いませんでした」
「……どうして?」
「私が出かけていたのは、三日間だけでしたから」
オスカーのペンが止まった。
ロウは、ゆっくりと聞き返した。
「三日間?」
「はい」
「あなたは、十七年前にこの砦を出て、三日後に家へ帰った。家族にとっては、三日間の旅だった」
「そうです」
「だが、あなた自身は?」
イーサンは、両手を見つめた。
「私にとっても、三日間でした」
「なら、なぜ十七年経っている?」
「わかりません」
彼は顔を上げた。
「家へ帰ってから、十七年間、何も変わりませんでした」
「何も?」
「妻は、毎朝、私のために朝食を作ってくれました。娘は成長しました。近所の人たちと話し、畑を手伝い、仕事をして、季節が巡りました」
イーサンは、少しだけ笑った。
「ごく普通の生活です」
「それが十七年間?」
「はい」
「その間、あなたは自分が十七年間家にいたことを認識していた?」
「もちろんです」
ロウは、思わず黙り込んだ。
十七年間の記憶がある。
家族との生活がある。
仕事があり、日々の出来事がある。
本人にとって、それは現実だった。
しかし、外側の世界では、彼は十七年前に出国したまま、帰還していないことになっている。
「……一つ確認する」
ロウは言った。
「あなたの娘の名前は?」
「マリアです」
「今、何歳だ?」
「十九歳です」
「十七年前に出国したときは?」
「二歳でした」
「あなたが帰宅したとき、娘は何歳だった?」
「五歳です」
ロウは、オスカーを見た。
オスカーは、記録を取りながら頷いた。
「計算上は、三年分の成長が確認されていることになります」
「つまり、イーサンの記憶では三日間だった旅の間に、家族の時間は三年間進んでいた。その後、十七年間の生活を送った、と?」
「はい」
イーサンは答えた。
「ただし、私の感覚では、家に帰ってから十七年が経ったのは事実です。妻も、娘も、近所の人たちも、皆、その時間を共有しています」
「その家族は、今もヴァルネアにいるのか?」
「……わかりません」
イーサンの顔から、初めて笑みが消えた。
「私は、帰ってきたんです」
彼は、通行証を握りしめた。
「家へ帰って、妻と娘と暮らして、年を重ねました。なのに、今朝、目を覚ましたら、家がありませんでした」
「家がない?」
「正確には、家があった場所が、森になっていたんです」
「村は?」
「ありませんでした」
「人は?」
「誰もいません」
イーサンは、唇を噛んだ。
「畑も、井戸も、道も、全部なくなっていました。私が住んでいた家の跡には、大きな木が一本立っていた」
「それで、ここへ来たのか」
「はい」
「なぜ黒門砦へ?」
イーサンは、通行証を見た。
「妻が、そう言ったからです」
「……奥さんが?」
「はい。家がなくなる前の夜、妻が私に言いました」
イーサンは、目を閉じた。
「あなたは、帰らなければならない。帰らなければ、あの子が生まれないから、と」
ロウの胸の奥で、アベルが動いた。
『……兄さん』
ロウは、表情を変えなかった。
『聞いている』
『あの人、僕のことを知っているのかな』
『まだわからない』
イーサンは続けた。
「妻は、こう言ったんです」
彼は、ゆっくりと顔を上げた。
「――あなたが帰らなければ、あの子は、ずっと名前を持てないままだから」
沈黙が落ちた。
オスカーは、記録帳を閉じかけて、思い直したように開き直した。
セラは、ロウを見た。
ロウは旅人の目を見つめていた。
「……イーサン」
「はい」
「あなたの娘、マリアについて、もう少し詳しく話してくれ」
旅人は、驚いたように瞬きをした。
「娘ですか?」
「そうだ」
「なぜ?」
「あなたが十七年間暮らした世界が、どのような場所だったのかを知りたい」
ロウは続けた。
「そして、あなたが帰ってきた理由を知りたい」
イーサンは、長い間、何も言わなかった。
やがて、彼は小さく頷いた。
「……わかりました」
彼は、娘について語り始めた。
マリアは、よく笑う子だった。
幼い頃は、父親の後をついて歩き、何をするにも真似をした。
十歳のとき、初めて一人で市場へ買い物に行った。
十二歳のとき、母親と喧嘩をして、三日間、口をきかなかった。
十五歳のとき、村の学校で一番の成績を取った。
そして、十七歳の誕生日に、父親へ手紙を書いた。
『お父さんへ。いつもありがとう。私が大人になったら、あなたの旅の話を聞かせてください』
イーサンは、懐から小さな紙片を取り出した。
何度も折り畳まれ、端が擦り切れている。
そこには、少女の文字で、短い文章が書かれていた。
『お父さん、帰ってきてくれてありがとう』
ロウは、その紙片を見つめた。
「……あなたは、帰ってきたんですね」
「はい」
「家族のもとへ」
「はい」
「それなのに、今度は家族がいなくなった」
イーサンは、頷いた。
「……はい」
彼は、顔を伏せた。
「私は、何を間違えたんでしょうか」
ロウは、すぐには答えなかった。
その問いに、簡単な答えを与えることはできない。
彼は家族を愛していた。
家族も彼を愛していた。
それなのに、世界のどこかで時間が食い違い、帰ってきたはずの場所が消えてしまった。
誰が悪いのか。
誰に責任があるのか。
それすら、まだわからない。
ロウは、机の上に通行証を置いた。
「……今は、あなたが何を間違えたのかを考える必要はない」
イーサンが顔を上げる。
「まず、何が起きたのかを調べる。それから、あなたの家族がどこへ行ったのかを探す」
「……探してくれるんですか?」
「約束はできない」
ロウは正直に答えた。
「だが、調べることはできる」
イーサンは、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
その声を聞いたとき、ロウは一つの違和感に気づいた。
旅人は、家族を失ったと言った。
だが、家族が死んだとは言っていない。
家がなくなった。
村がなくなった。
森になっていた。
しかし、妻も娘も、どこへ行ったのかはわからない。
それなのに、旅人は、彼女たちがもう戻らないかのように話している。
「イーサン」
「はい」
「あなたは、家族が死んだところを見たのか?」
旅人の顔が、凍りついた。
「……いいえ」
「遺体を見たか?」
「いいえ」
「死亡を確認したのか?」
「……いいえ」
ロウは、彼を見つめた。
「なら、まだ死んだと決まったわけじゃない」
イーサンは、震える手で、娘の手紙を握りしめた。
「……そう、ですね」
彼は、初めて、ほんの少しだけ希望のある顔をした。
しかし、その希望は、次の瞬間に崩れた。
尋問室の扉が、勢いよく開いた。
兵士が駆け込んでくる。
「隊長! 正門前で問題が起きました!」
「何だ」
「旅人の身元確認に関する記録が……」
兵士は、息を切らしながら報告した。
「十七年前の出国記録が、書き換わっています!」
ロウは立ち上がった。
「どう書き換わった?」
「イーサン・ヴェイルの名前が、消えていました」
「……何?」
「いえ、正確には――」
兵士は、言葉を詰まらせた。
「最初から、別の名前が記されていたんです」
3 存在しない出国記録
記録庫の空気は、冷たかった。
オスカーが管理する帳簿は、厳重に保管されている。
出国記録は、国境を通過した者の名前、身分、行き先、荷物、通行証番号を記したものだ。
改竄を防ぐため、原本と写しは別々の場所に保管され、定期的に照合される。
それでも、名前は変わる。
記憶が変わる。
紙の上の文字さえ、最初から違うものだったかのように書き換わることがある。
だからこそ、ロウは複数の記録を残すよう命じていた。
「十七年前の記録を出せ」
ロウが言うと、オスカーはすぐに棚から帳簿を取り出した。
「こちらです」
ページを開く。
十七年前。
王暦四百五十一年。
春の終わり。
その日の出国記録には、確かに一人の旅人が記されていた。
氏名:イーサン・ヴェイル。
出身地:ヴァルネア。
目的:薬草の売買。
通行証番号:第七二一四号。
ロウは、目を細めた。
「……まだあるじゃないか」
「はい。こちらは、昨日の時点で確認した写しです」
オスカーは、別の帳簿を開いた。
そこにも、イーサンの名前があった。
「ですが、今朝、原本を確認したところ……」
彼は、同じ日付のページを指さした。
そこに記されていたのは、別の名前だった。
氏名:エリアス・ヴェルン。
出身地:不明。
目的:帰還。
通行証番号:第七二一四号。
「……帰還?」
セラが眉を寄せた。
「出国記録なのに、目的が帰還になっています」
「そうです」
オスカーは頷いた。
「しかも、エリアス・ヴェルンという名前は、出国記録のどこにもありません。入国記録にも、死亡記録にも、出生記録にも存在しません」
「通行証番号は?」
「イーサンのものと一致します」
「つまり、同じ通行証番号を持つ、別の人間が記録されている」
「はい」
ロウは、帳簿の文字を見つめた。
「……このエリアスという人物について、何かわかるか?」
「現時点では何も。ただし、奇妙なことがあります」
オスカーは、ページの下部を指さした。
「この記録、筆跡がイーサンの出国記録と一致しています」
「同じ記録係が書いた?」
「いいえ。当時の記録係は、別の人物です。筆跡の特徴も、署名も違います」
「なら、なぜ一致する」
「わかりません」
ロウは、ページをめくった。
同じ日付の記録は、全部で三つあった。
一つ目は、イーサン・ヴェイル。
二つ目は、エリアス・ヴェルン。
三つ目は、空欄。
空欄の横には、短い注釈が記されていた。
『本人確認未完了。帰還を保留』
ロウは、その文章を見つめた。
「……帰還を保留?」
「はい」
オスカーが答えた。
「この記録は、十七年前の出国時点で書かれています」
「十七年前から、帰還が保留されていた?」
「そう読めます」
ロウは、椅子に座った。
旅人は、十七年前に出国した。
三日後には家へ帰った。
それから十七年間、家族と暮らした。
そして今朝、家族のいる場所が消えた。
その一方で、砦の記録には、十七年前から「帰還を保留」と記されていた。
まるで、誰かが、彼の帰還を待っていたかのように。
「……オスカー」
「はい」
「この通行証の番号を調べろ。ほかに同じ番号を持つ記録がないか、すべて確認してくれ」
「承知しました」
「それから、エリアス・ヴェルンという名前も調べる。出生記録、死亡記録、入隊記録、商人の登録簿。どこかに痕跡があるはずだ」
「わかりました」
「セラ」
「はい」
「旅人を監視下に置く。ただし、拘束はしない。食事と寝床を用意して、体調を確認する」
「逃亡する可能性は?」
「ある」
「それでも?」
「彼は、十七年間家族と暮らしてきたと言っている。今のところ、彼が自分の意思で何かを企んでいる証拠はない」
ロウは、記録帳を閉じた。
「わからないことを理由に、罪人として扱うな」
セラは頷いた。
「承知しました」
そのとき、記録庫の扉が叩かれた。
「隊長」
別の兵士だった。
「イーサン・ヴェイルが、面会を求めています」
「何かあったのか?」
「……娘のことです」
ロウは、すぐに立ち上がった。
尋問室へ戻ると、イーサンは椅子に座っていた。
机の上には、娘の手紙が置かれている。
その隣に、もう一枚の紙があった。
ロウは、それを見た瞬間、足を止めた。
紙には、見慣れた文字が書かれていた。
『マリア・ヴェイル』
その下に、短い記録が続いている。
『出生確認:済』
『名前の登録:未完了』
『帰還予定:父親の帰還後』
『記録保管場所:第四の扉』
ロウは、紙を手に取った。
「……これはどこで見つけた?」
イーサンは、震える声で答えた。
「娘の手紙の裏です」
「最初から書かれていたのか?」
「いいえ」
彼は首を振った。
「今朝、家がなくなったあと、手紙を開いたんです。そうしたら、裏に文字が浮かび上がっていました」
ロウは紙を裏返した。
確かに、表面には、別の文章を書いた跡がある。
インクの染み方も、紙の傷み方も、娘の手紙と一致していた。
「……第四の扉」
ロウは呟いた。
第一章で見つけた白い部屋。
名前を返す者の記録。
世界が分かれた日の記録。
そして、名前を与えられていない者たち。
マリア・ヴェイルという名前が、そこに記されている。
「イーサン」
ロウは、旅人の目を見た。
「あなたの娘は、どこで生まれた?」
「ヴァルネアです」
「ヴァルネアは、どこにある?」
「……わかりません」
「自分の出身地なのに?」
「はい」
イーサンは、苦しそうに答えた。
「私は、ヴァルネアで生まれました。そこで育ち、そこで結婚し、娘を授かりました。なのに、今、どこにあるのかと聞かれても、答えられないんです」
彼は、頭を抱えた。
「地図を見れば、場所がわかるはずなんです。道を歩けば、帰れるはずなんです。でも、どこにもない。誰に聞いても、そんな国は知らないと言う」
ロウは、静かに言った。
「……それでも、あなたが生きてきた時間は、消えない」
イーサンは顔を上げた。
「あなたが家族と過ごした十七年間は、あなたにとって現実だった。娘の手紙も、あなたの記憶も、あなたが見てきたものだ」
ロウは、紙を机に置いた。
「それが何を意味するのかは、まだわからない。だが、記録がないからといって、あなたの人生が存在しなかったことにはならない」
イーサンの目に、涙が浮かんだ。
「……ありがとうございます」
ロウは、頷いた。
しかし、彼の頭の中では、別の疑問が渦巻いていた。
マリアは、名前を登録されていない。
帰還予定は、父親の帰還後。
つまり、娘は父親の帰還を待っていた。
だが、なぜ?
なぜ、名前を登録するために、父親の帰還が必要なのか。
そして、なぜ、その記録が第四の扉に保管されているのか。
ロウは、紙を見つめた。
『帰還予定:父親の帰還後』
その一文の下に、もう一行、薄い文字が浮かび上がった。
『父親が帰還しない場合、娘は出生しない』
ロウは、息を止めた。
イーサンは、その文字を見ていなかった。
セラも、オスカーも、まだ見ていない。
その文章は、ロウにだけ読めるように浮かび上がっていた。
そして、胸の奥でアベルが囁いた。
『兄さん……』
『ああ』
『その子、僕と同じだ』
ロウは、目を閉じた。
『……どういう意味だ』
アベルは、しばらく黙っていた。
『生まれる前から、誰かの帰りを待っている』
4 地図にない国
その日の午後、ロウは砦の書庫にこもっていた。
イーサン・ヴェイルの証言。
百四十七年前の通行証。
十七年前の出国記録。
そして、マリア・ヴェイルの出生記録。
それらを並べると、奇妙な構図が浮かび上がる。
イーサンは、十七年前に黒門砦を通過した。
彼の通行証には、百四十七年前の日付が記されていた。
その後、彼は家へ帰り、十七年間、家族と暮らした。
だが、今朝、家族の住んでいた場所が消えた。
そして、彼の娘マリアは、出生確認済みであるにもかかわらず、名前の登録が未完了だった。
「……おかしい」
ロウは呟いた。
「何がですか?」
セラが、机の向かいに座った。
「記録が、時間の順序に従っていない」
「どういうことです?」
ロウは、通行証を指さした。
「これが本物なら、イーサンは百四十七年前に発行された通行証を持っている。だが、彼は十七年前に出国したと言っている」
「通行証が再利用された可能性は?」
「ある。だが、その場合、なぜ発行日が書き換わっていない?」
「古い通行証を使い続けていた?」
「なら、十七年前の記録に、その通行証番号が残っているのはおかしい」
セラは考え込んだ。
「つまり、通行証が百四十七年前に発行されたという記録と、十七年前に使用されたという記録が、同時に正しい可能性がある?」
「そうだ」
ロウは、紙片を二枚並べた。
「問題は、どちらかが間違っているのではなく、二つの時間が重なっている可能性だ」
「……時間そのものが、重なっている?」
「あるいは、記録が重なっている」
ロウは、第四の扉で見た星空を思い出した。
世界が分かれる前の記録。
生と死、過去と未来、名前と記憶が、今ほど切り離されていなかった時代。
もし、その仕組みの一部が今も残っているなら。
百四十七年前に発行された通行証が、十七年前に使われることもあり得るのかもしれない。
しかし、それだけでは説明できない。
なぜ、イーサンは十七年間の生活を送ったのか。
なぜ、彼の家族が暮らした国は地図から消えたのか。
そして、なぜ、マリアの出生記録が第四の扉に保管されているのか。
「……オスカーの調査結果は?」
「まだです」
セラは、机の上の別の資料を見た。
「ただ、気になることがあります」
「何だ」
「ヴァルネアという国名について、古い商人の記録に一件だけ記載がありました」
ロウは顔を上げた。
「どこに?」
「百四十七年前の交易記録です」
セラは、薄い帳簿を差し出した。
「黒門砦が建設される直前、王国の商人が、ヴァルネアという国から薬草を輸入したと記録しています」
「取引相手の名前は?」
「記載されていません。ただし、品目は、現在では絶滅したとされる植物です」
「絶滅した植物?」
「はい。『月喰い草』と呼ばれています。夜間だけ花を開き、周囲の生物の夢に影響を与えると伝えられています」
ロウは、帳簿を見つめた。
「……夢に影響を与える?」
「伝承です。科学的な証拠はありません」
「その植物は、どこに生えていた?」
「ヴァルネアです」
ロウは、椅子から立ち上がった。
「イーサンを呼んでくれ」
旅人は、書庫に入ると、古い帳簿を見て驚いた。
「……これは」
「見覚えがあるか?」
ロウが尋ねる。
「はい。ヴァルネアの商人が使っていた帳簿に似ています」
「この植物を知っているか?」
「月喰い草ですね」
イーサンは、記録を見つめた。
「子供の頃、母が教えてくれました。夜にこの花を摘んではいけない。夢を食べられてしまうから、と」
「実際に、夢を食べるのか?」
「わかりません。ただ、村では、花の咲く夜に眠ると、誰かの記憶を見ることがあると言われていました」
ロウは、セラを見た。
セラは黙って頷いた。
夢。
記憶。
名前。
境界。
それらは、すべて同じ場所につながっている。
「イーサン。あなたの家の周りに、その植物はあったか?」
「はい。村の北側に、月喰い草の群生地がありました」
「家がなくなった場所にも?」
「……はい」
イーサンは、少し考えた。
「今朝、森になっていた場所を見たとき、月喰い草が咲いていました」
ロウは息を止めた。
「今も?」
「はい。小さな白い花が、地面いっぱいに」
「……そうか」
ロウは、机に手を置いた。
「セラ。明朝、調査隊を編成する」
「行き先は?」
「イーサンが帰ってきた場所だ」
「危険性は?」
「わからない」
「……でしょうね」
セラは、ため息をついた。
「では、装備を整えます。医師、記録係、護衛を含めて編成します」
「頼む」
「ただし、隊長」
「何だ」
「今度は、あなたが勝手に消えないよう、私が隣を歩きます」
ロウは、少しだけ笑った。
「……頼もしいな」
「ええ。自覚しています」
イーサンは、二人のやり取りを聞いていた。
そして、静かに口を開いた。
「私も、連れていってください」
ロウは彼を見た。
「危険かもしれない」
「わかっています」
「家族がいる保証もない」
「それでも、行きたいんです」
イーサンは、娘の手紙を握りしめた。
「私は、帰ってきました。今度は、妻と娘を探したい」
ロウは、しばらく彼を見つめていた。
「……わかった」
そして、はっきりと告げた。
「ただし、現地で何が起きても、俺たちの指示に従ってもらう。危険な場所へ一人で入らないこと。見つけたものを勝手に触らないこと。異変があれば、すぐに報告すること」
「はい」
「約束できるか?」
「約束します」
ロウは頷いた。
「なら、一緒に行こう」
イーサンは、深く頭を下げた。
その表情には、希望と不安が同時に浮かんでいた。
彼は、十七年間、家族と暮らしてきた。
その時間が、本当に存在したのか。
彼の記憶は、誰かの人生を引き継いだものではないのか。
彼が帰ってきた場所は、本当に彼の故郷なのか。
まだ何もわからない。
だが、確かなことが一つあった。
彼は、家族を探している。
そして、その家族の記録は、第四の扉につながっていた。
5 夜に咲く花
その夜、黒門砦の外で、月喰い草が咲いた。
誰も植えていない。
誰も種をまいていない。
それなのに、正門の外側、石畳の隙間から、小さな白い花が顔を出していた。
一輪。
二輪。
十輪。
やがて、門の周囲一帯が、白い花で覆われていった。
見張りの兵士が、異変に気づいた。
「……何だ、これは」
彼はしゃがみ込み、花を観察した。
花弁は薄く、月明かりを受けて淡く光っている。
中央には、黒い点が一つ。
まるで、小さな瞳のようだった。
兵士は、思わず目を近づけた。
その瞬間。
花の中央に、文字が浮かび上がった。
『おかえりなさい』
兵士は、息を呑んだ。
次の瞬間、花が一斉に閉じた。
そして、門の外から、子供の笑い声が聞こえた。
「……お父さん」
兵士は立ち上がった。
「誰だ!」
返事はない。
ただ、門の向こうに、小さな人影が立っていた。
少女だった。
白い服。
長い髪。
顔は、月明かりに隠れてよく見えない。
少女は、正門を見上げた。
そして、静かに言った。
「……お父さん、帰ってきたよ」
その声は、イーサン・ヴェイルが語った娘の声と、同じだった。
6 娘の声
翌朝、ロウは見張りの報告で叩き起こされた。
「隊長! 正門の外に、人影が現れました!」
「何者だ」
「少女です。年齢は十代後半ほどに見えます」
ロウは、すぐに外套を羽織った。
「セラを呼べ。オスカーとミラもだ」
「はい!」
正門へ向かう途中、ロウは尋ねた。
「その少女は、何をしている?」
「門の外に立っているだけです。武器は持っていません」
「何か話したか?」
兵士は、ためらった。
「……はい」
「何と言った?」
「自分の名前を、マリア・ヴェイルだと言いました」
ロウは足を止めた。
イーサンの娘。
出生記録に、名前の登録が未完了と記されていた少女。
父親の帰還を待っていた者。
「……イーサンは?」
「尋問室にいます」
「連れてこい。ただし、少女には近づけるな。本人確認が済むまで、距離を保つ」
「承知しました」
正門前には、白い花が咲いていた。
昨日まで、ここには何もなかった。
花は石畳の隙間から伸び、門の周囲を覆っている。
そして、その中央に、少女が立っていた。
彼女は、ロウを見ると微笑んだ。
「おはようございます」
「……君が、マリア・ヴェイルか」
「はい」
「出身地は?」
「ヴァルネアです」
「父親の名前は?」
「イーサン・ヴェイル」
「母親は?」
少女は、少しだけ首を傾げた。
「……母さんの名前は、どうしても思い出せないんです」
ロウは、目を細めた。
「君は、どこから来た?」
「家からです」
「その家は、どこにある?」
「……ここから、少し歩いたところです」
「地図にない場所か?」
少女は、困ったように笑った。
「そうみたいですね」
「君は、何歳だ?」
「十九歳です」
「昨日まで、どこにいた?」
「家にいました」
「昨日、何をしていた?」
「母さんと、夕食を作っていました」
ロウは、セラを見た。
セラは、少女を観察している。
ミラは、遠くから少女の様子を確認していた。
オスカーは、記録帳を開いている。
「……マリア」
ロウは、少女に尋ねた。
「君は、父親を知っているか?」
少女の表情が変わった。
「もちろんです」
「どんな人だ?」
「優しい人です」
「どこが?」
少女は、少し考えた。
「私が小さい頃、転んで怪我をしたとき、父は仕事を放り出して駆けつけてくれました。母と喧嘩したときも、いつも私の話を聞いてくれました」
彼女は、微笑んだ。
「父は、約束を守る人です」
ロウは、言葉を失った。
昨日、イーサンが語った娘の記憶と一致している。
しかし、それだけでは本人だと断定できない。
記憶を引き継いだ別人かもしれない。
誰かが娘の姿を模倣しているのかもしれない。
「……お父さんに、会いたいか?」
ロウが尋ねると、少女は頷いた。
「はい」
「なぜ?」
少女は、まるで当たり前のことを聞かれたかのように答えた。
「帰ってきたからです」
「……誰が?」
「お父さんが」
その瞬間、背後から足音がした。
「……マリア?」
イーサンだった。
兵士たちが止めようとしたが、彼は立ち止まった。
少女が振り返る。
二人の視線が重なった。
「……お父さん」
少女の声が震えた。
イーサンは、口元を押さえた。
「……マリア」
彼は、一歩前へ出ようとした。
ロウが腕を伸ばして止める。
「待て。まだ確認が済んでいない」
「ですが……!」
「わかっている」
ロウは、イーサンを見た。
「君の娘かもしれない。だが、もし違ったら、君も彼女も危険にさらされる」
イーサンは、拳を握りしめた。
少女は、二人を見ていた。
そして、静かに言った。
「……お父さん」
「マリア……」
「帰ってきてくれて、ありがとう」
イーサンの顔が歪んだ。
彼は、もう一歩も動けなかった。
その言葉は、昨日、ロウに見せた手紙に書かれていたものと同じだった。
『お父さん、帰ってきてくれてありがとう』
同じ言葉。
同じ声。
同じ記憶。
それなのに、ロウは違和感を覚えた。
少女は、なぜ父親が帰ってきたことを知っているのか。
昨日まで、イーサンは砦にいた。
彼女がいた場所は、地図にない国だ。
二人は、十七年間、別々の場所で生活していたはずだ。
それなのに、少女は、まるで昨日まで父親と一緒にいたかのように話している。
「……マリア」
ロウは、慎重に尋ねた。
「君は、昨日、お父さんと会ったか?」
少女は、少しだけ目を見開いた。
「はい」
「どこで?」
「家で」
「何時ごろ?」
「夕食の前です」
「何を話した?」
少女は、微笑んだ。
「お父さんが、明日、帰ってくるって」
ロウの背筋が冷たくなった。
イーサンは、昨日の朝、黒門砦に現れた。
それまで、娘と会っていたはずはない。
「……誰が、そう言ったんだ?」
少女は、首を傾げた。
「お父さんです」
「……君のお父さんは、昨日、ここにいた」
「はい」
「君の家に帰ったのか?」
「はい」
「どうやって?」
少女は、少し考えた。
そして、ゆっくりと答えた。
「……門を通って」
ロウは、セラを見た。
セラも、同じことを考えていた。
少女は、父親が帰ってきたことを知っている。
しかし、その父親は、昨日まで砦にいた。
つまり。
この少女が語る「昨日」は、ロウたちの知っている昨日とは違う。
あるいは、彼女の記憶の中では、イーサンはすでに帰還していた。
そして、彼女自身も、父親が帰還する前から、父親の帰還を知っていた。
「……マリア」
ロウは、少女に尋ねた。
「君は、いつ生まれた?」
少女は、すぐには答えなかった。
彼女は、自分の手を見つめた。
それから、困ったように笑った。
「……わからないんです」
「わからない?」
「はい。母さんは、私が十九歳だと言います。でも、私は、自分が生まれた日のことを覚えていません」
「それは、普通だ」
「そうですね」
少女は頷いた。
「でも、私は、自分が生まれる前のことを覚えているんです」
ロウは、息を止めた。
少女は、正門の上を見上げた。
「私は、ずっと門の向こうにいました」
「……門の向こう?」
「はい」
彼女は、ロウを見た。
「お父さんが帰ってくるまで、ずっと」
その瞬間、正門の金具が鳴った。
第一の門。
第二の門。
第三の門。
そして、第四の門。
存在しないはずの四つ目の門が、正門の表面に浮かび上がった。
四つの円が光る。
白。
黒。
赤。
そして、空白。
その空白に、文字が刻まれた。
『マリア・ヴェイル』
続いて、別の文字が浮かぶ。
『出生確認:未完了』
そして、最後に。
『父親の帰還を確認』
ロウは、息を呑んだ。
少女は、静かに微笑んだ。
「……これで、私も生まれることができるんですね」
その言葉を聞いた瞬間、ロウの胸の奥で、アベルが囁いた。
『兄さん』
『ああ』
『僕たち、同じ場所にいたんだ』
ロウは、正門を見つめた。
第四の扉は、閉じていた。
しかし、確かにそこにあった。
そして、その向こう側から、誰かがこちらを見ている。
名前を持たない者たちが。
まだ生まれていない者たちが。
誰かの帰りを待っている者たちが。
ロウは、少女を見た。
「……マリア」
「はい」
「君は、今ここにいる」
少女は、頷いた。
「はい」
「なら、君の話を聞かせてくれ」
ロウは、はっきりと言った。
「君がどこから来たのか。何を覚えているのか。何を望んでいるのか。そして、何をしたいのか」
少女は、目を見開いた。
やがて、彼女は、初めて自分の意思で笑った。
「……はい」
その笑顔を見て、ロウは思った。
彼女が本当にイーサンの娘なのか。
それとも、娘の記憶を持つ別の存在なのか。
それは、まだわからない。
しかし、彼女が今ここにいて、自分の意思で何かを望んでいることは確かだった。
ならば、まずは話を聞く。
それから、考える。
それが、ロウの選んだ道だった。
7 帰ってきた者、帰れなかった者
その日の夕方、マリアは黒門砦の一室に保護された。
イーサンは、隣の部屋に滞在することになった。
二人は、まだ直接会っていない。
ロウがそう判断したからだ。
親子である可能性は高い。
だが、同時に、二人の記憶には食い違いがある。
イーサンは、十七年間、家族と暮らしていた。
マリアも、十七年間、父親と暮らしていたと語っている。
しかし、イーサンが出国した時点で、二人は別々の場所にいたはずだ。
どちらかが嘘をついているのか。
それとも、二人の記憶が、別々の時間を生きているのか。
ロウには、まだ判断できなかった。
「……隊長」
セラが、報告書を机に置いた。
「マリアの身体検査の結果が出ました」
「異常は?」
「ありません。怪我も、病気も、外傷も確認されていません」
「年齢は?」
「身体的には、十代後半から二十歳前後と推定されます」
「イーサンとの血縁関係は?」
「ミラが検査を進めています。ただし、現時点では確定できません」
ロウは、報告書を読んだ。
「……ほかに、何かあるか?」
セラは、少しだけ言い淀んだ。
「マリアの部屋で、奇妙なものが見つかりました」
「何だ」
「窓の外に、白い花が咲いています」
「月喰い草か?」
「はい。ただし、普通の花とは違います」
セラは、紙片を差し出した。
そこには、花の中央に浮かび上がった文字が記録されていた。
『名前を返して』
その下に、もう一行。
『帰ってきた者だけが、帰還者ではない』
ロウは、目を細めた。
「……どういう意味だ」
「わかりません」
セラは答えた。
「ただ、花はマリアの部屋の窓の外にだけ咲いています。他の場所にはありません」
ロウは、窓の外を見た。
夜の帳が降り始めていた。
正門の外には、いつもの街道がある。
しかし、彼には、もう一つの風景が見えていた。
赤い空。
巨大な樹木。
名前が刻まれた幹。
そして、門の向こう側に取り残された者たち。
彼らは、何を望んでいるのか。
名前を返してほしいのか。
帰りたいのか。
それとも、こちら側に何かを伝えようとしているのか。
「……セラ」
「はい」
「今夜は、正門の警備を強化する。月喰い草の観察も続けろ。ただし、花を勝手に摘むな」
「理由は?」
「わからないからだ」
セラは、少しだけ笑った。
「……あなたらしいですね」
「褒めているのか?」
「半分は」
「残り半分は?」
「心配しています」
ロウは苦笑した。
「……そうか」
彼は、報告書を閉じた。
「明朝、イーサンとマリアを、別々に尋問する。二人の証言を照合して、食い違いを確認する」
「はい」
「それから、第四の扉に関する記録を調べる。マリアの出生記録が、なぜそこに保管されていたのか」
「承知しました」
セラは、扉へ向かった。
その背中に、ロウは声をかけた。
「セラ」
「何ですか?」
「……ありがとう」
セラは、振り返った。
「何のことです?」
「一人で背負うなと言ってくれたことだ」
彼女は、少しだけ驚いた顔をした。
そして、静かに頷いた。
「……忘れないでくださいね」
「忘れない」
セラは、部屋を出ていった。
ロウは、一人になった。
机の上には、イーサンの通行証がある。
百四十七年前の日付。
十七年前の出国記録。
そして、今日、帰ってきた旅人。
ロウは、通行証を手に取った。
裏面の文章を、もう一度読む。
『本人が帰還を否定した場合、通行を許可してはならない』
その下に、新しい文字が浮かび上がっていた。
『帰還者は、必ずしも帰る者ではない』
ロウは、目を細めた。
「……帰還者は、必ずしも帰る者ではない?」
それは、どういう意味なのか。
帰還した者が、別の場所へ行こうとしているのか。
それとも、帰還者とは、帰ってきた者ではなく、帰ることを許されなかった者なのか。
ロウは、通行証を机に置いた。
そのとき、胸の奥で、アベルが囁いた。
『兄さん』
『何だ』
『僕、少しだけ思い出した』
『何を?』
『僕たちが、最初に待っていたもの』
ロウは、息を止めた。
『……誰を待っていたんだ?』
アベルは、ゆっくりと答えた。
『帰ってくる人』
『それは、イーサンか?』
『違う』
アベルの声が震えた。
『もっと前から。もっと、ずっと前から』
ロウは、目を閉じた。
『……誰だ』
アベルは、しばらく黙っていた。
やがて、かすかな声で答えた。
『世界が分かれる前に、帰れなくなった人』
その瞬間、机の上の通行証が、ひとりでに裏返った。
紙面に、最後の文字が浮かび上がる。
『帰還者、第一号』
その下に、名前が記されていた。
エリナ・テュユール。
ロウは、立ち上がった。
母の名前。
百四十七年前の通行証。
帰ってきた旅人。
そして、名前を持たない少女。
すべてが、一本の道につながり始めていた。
しかし、その道の先に母がいるのか。
母の記憶を持つ別の誰かがいるのか。
それとも、母自身が、まだ帰還できずにいるのか。
答えは、まだない。
ただ一つ、確かなことがある。
イーサン・ヴェイルは、帰ってきた。
そして、彼の帰還によって、もう一人の存在が、生まれることを許された。
黒門砦の夜は、静かだった。
だが、門の向こうでは、誰かが待っていた。
今度は、ロウが帰ってくるのを。




