↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
衛兵は眠れない  作者: 神代シン
第二章「境界の外にいる者たち」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

14/14

第二話「魔物を殺した兵士」

第一幕 血のついた剣

 死体が運び込まれたのは、朝の鐘が三度鳴った直後だった。


 黒門砦の東門。


 夜明け前まで降り続いていた雨が止み、石畳の隙間には濁った水が溜まっていた。門の向こうでは、濡れた針葉樹林から白い霧が立ち上っている。


 その霧の中から、二人の兵士が一人の男を抱えるようにして戻ってきた。


 男は兵士の制服を着ていた。


 肩章には、黒門砦の守備兵を示す黒い縁取りがある。


 腰には剣。


 顔色は青白く、右手は震えていた。


 そして、その剣には血がついていた。


「隊長を呼んでくれ!」


 先頭を歩いていた兵士が叫んだ。


「森で魔物を仕留めました! こちらに向かってきたので、やむを得ず!」


 門番たちが顔を見合わせる。


 魔物。


 森の向こう側に棲む、人間とは異なる生き物。


 その言葉だけで、兵士たちの態度は変わった。


 槍を握る手に力が入る。


 誰かが「よくやった」と口にしかけ、別の誰かが死体のないことに気づいて黙った。


 ロウ・テュユールは、門楼の階段を下りてきた。


「魔物の死体は?」


「後ろです。二人が運んでいます」


「殺したのは誰だ」


 抱えられていた兵士が顔を上げた。


「俺です」


 声はかすれていた。


「俺が殺しました。あれは……あれは、間違いなく人間を襲う魔物でした」


「名前は」


「ダレン・コル。黒門砦の第三警備班所属です」


 ロウはダレンの顔を見た。


 彼の目は、ロウを見ていなかった。


 ロウの肩越しに、門の向こうを見ていた。


 まるで、まだ森の中に何かがいるかのように。


「話はあとで聞く」


 ロウは言った。


「まず、死体を見せろ」


 その言葉に、ダレンの肩が大きく跳ねた。


「……死体?」


「ああ」


「魔物の死体を、ですか」


「お前が殺したと言ったんだろう」


「はい。でも、あれは……」


 ダレンは口を閉ざした。


 言葉を探しているようだった。


 あるいは、何かを思い出そうとしているのか。


 ロウはそれ以上問い詰めず、死体が運び込まれるのを待った。


 やがて、濡れた毛布に包まれたものが、門の内側に置かれた。


 毛布の端から、灰色の手が覗いていた。


 人間よりも長い指。


 関節の位置がわずかに異なる手。


 爪は黒く、先端が鉤のように曲がっている。


 その手には、何も握られていなかった。


「開けろ」


 ロウが命じた。


 兵士が毛布をめくる。


 現れたのは、狼に似た頭部を持つ魔物だった。


 全身を灰色の体毛が覆っている。耳は長く、鼻先は人間よりも前に突き出ていた。二本足で歩くために発達した胴体は細く、肩から腕にかけての筋肉は人間の兵士に匹敵する。


 衣服は粗末だった。


 胸には革の胴当て。


 腰には布袋。


 背中には、小さな荷物が括りつけられている。


 そして、胸の左側に深い傷があった。


 ロウは膝をついた。


「医師を呼べ」


「ですが、もう死んでいます」


「死体を調べる医師だ。生きている者だけを診るのが医師の仕事だと思うな」


 兵士が慌てて走っていく。


 ロウは傷口を観察した。


 刃物による傷。


 深さは十分だった。


 これなら、出血によって死に至った可能性が高い。


 しかし。


「……妙だな」


 ロウが呟いた。


 傷口は胸の左側にある。


 正面から剣を突き込んだのなら、十分にあり得る位置だ。


 だが、傷口の周囲にある毛並みが、わずかに逆立っていた。


 抵抗した痕跡ではない。


 毛が、傷口から外側へ向かって押し広げられている。


 まるで、剣を突き立てられたとき、魔物が身を引いたかのように。


 いや。


 それだけではない。


 ロウは魔物の右手を持ち上げた。


 爪の先には、乾きかけた泥がついている。


 しかし、血はなかった。


 魔物の腕にも、肩にも、顔にも、兵士と争った痕跡がほとんど見当たらない。


 ダレンの制服には泥がついていた。


 左の袖は裂け、頬には擦り傷がある。


 それなのに、魔物の側には抵抗した形跡がない。


「ダレン」


「はい」


「こいつは、どうやって襲ってきた?」


「森の中で、突然です。道を塞いで、こちらに向かってきました」


「武器は?」


「持っていました」


「どんな武器だ」


「短い剣です」


 ロウは魔物の腰に目を向けた。


 そこには、革製の鞘があった。


 柄が覗いている。


 ロウは手袋をした指で、鞘の口を確かめた。


 封じるための革紐が残っていた。


 切られていない。


 ほどかれてもいない。


 剣は、鞘に収まったままだった。


「……こいつは剣を抜いていない」


 ダレンの顔から、血の気が引いた。


「そんなはずはありません」


「鞘の紐が残っている」


「抜いたんです。確かに、抜きました」


「誰が?」


「こいつが!」


 ダレンは死体を指さした。


「こいつが剣を抜いたんです! 俺に向かってきた。だから俺も抜いた。それだけです!」


 ロウは、ゆっくりと立ち上がった。


「死体を調べるまで、何も決めるな」


「でも、隊長!」


「お前が正当防衛をしたのなら、それを証明すればいい」


 ロウはダレンを見た。


「だが、魔物を殺したという理由だけで、お前を英雄にするつもりもない」


 門の周囲が静まり返った。


 ダレンは唇を噛んだ。


 その表情には、怒りよりも、別の感情があった。


 恐怖。


 そして、その恐怖を誰にも知られたくないという、必死の抵抗。


 ロウはその顔を覚えておくことにした。


 恐怖は、嘘をつく。


 だが、ときには真実よりも正確に、何かが起きたことを教えてくれる。


 問題は。


 何を恐れているのか、ということだった。


第二幕 正当防衛の証明

「まず、全員を別々に話させろ」


 黒門砦の詰所。


 ロウの命令に、セラが頷いた。


「ダレン、同行していた兵士二名、それから死体を運んだ者たちですね」


「目撃者がほかにいれば、そいつもだ。証言をすり合わせる前に聞きたい」


「わかりました」


 セラは書類を抱え、詰所を出ていった。


 残されたロウは、机の上に置かれた現場の略図を見下ろした。


 東門から森に入る道。


 その先にある古い交易路。


 さらに進むと、昔の見張り小屋がある。


 今回の巡回経路は、その交易路の手前までだった。


 ダレンたちは三人一組で巡回していた。


 その途中で魔物に遭遇したという。


 同行していた兵士は二人。


 ひとりは若い兵士のハンス・メルツ。


 もうひとりは、長年砦に勤めるヨハン・レイスだった。


 先に呼ばれたハンスは、椅子に座るなり、何度も帽子を握り直した。


「本当に、魔物が襲ってきたんです」


「どこから?」


「道の右側です。木の陰から出てきました」


「何をしていた?」


「最初は、こちらを見ていました。それから、ダレンが声をかけたんです」


「何と言った」


「止まれ、と。武器を捨てろ、とも言いました」


「魔物は従わなかった?」


「……はい」


 返事が遅れた。


 ロウは、わざと何も言わずに待った。


 ハンスは帽子を握りしめたまま、視線を落とした。


「魔物は、何か言っていました」


「何を?」


「わかりません。俺たちの言葉じゃなかった」


「それで、ダレンが剣を抜いた?」


「はい」


「魔物は?」


「……わかりません」


「わからない?」


「そのとき、俺は後ろを見ていたんです。森の中で、音がしたから」


「何の音だ」


「子供の声のような……」


 ハンスは言葉を切った。


「いえ。たぶん、鳥です。鳥の声だったと思います」


「そのとき、ダレンは何をしていた?」


「剣を抜いていました」


「魔物は?」


「……」


「ハンス」


「見ていませんでした」


 ロウは椅子の背にもたれた。


「では、お前は魔物が襲ってきたところを見ていない」


「でも、ダレンが殺したのは確かです!」


「それは知っている。お前が見たことと、見ていないことを分けているだけだ」


「俺たちは兵士です。魔物が出たら戦うのが仕事でしょう」


「そうだ」


 ロウは頷いた。


「だからこそ、何が起きたかを正確に知る必要がある」


 ハンスは、何か言いたそうに口を開きかけた。


 だが、結局、何も言わなかった。


 次に呼ばれたヨハンは、ハンスよりも落ち着いていた。


 椅子に腰を下ろし、帽子を膝に置く。


「隊長。先に言っておきますが、ダレンは臆病者ではありません」


「そんな話はしていない」


「ええ。ですが、あいつは魔物を見たら逃げるような男じゃない」


「それは知っているのか?」


「三年前、東の林道で仲間を助けています。魔物に襲われた荷馬車から、負傷者を二人運び出した。あのときの働きは本物でした」


「それでも、今回の件は別だ」


「わかっています」


 ヨハンは少しだけ目を伏せた。


「俺も、あの場にいましたから」


「何を見た?」


「魔物が立っていました。道の真ん中に。ダレンが止まれと叫んだ。魔物は何かを言った。ダレンが剣を抜いた。それから……」


「それから?」


「ダレンが斬りました」


「魔物は攻撃したか?」


「……わかりません」


「見ていなかったのか」


「見ていました」


 ヨハンは答えた。


「ですが、攻撃したように見えたんです」


「ように?」


「腕を上げた。ダレンの方へ、一歩踏み出した。それで、俺は攻撃すると思った」


「実際に攻撃したのか」


「……いいえ」


 沈黙が落ちた。


 ヨハンは膝の上で帽子を握った。


「隊長。あのとき、俺は止めるべきだったんでしょうか」


 ロウは答えなかった。


「魔物が何を考えていたかなんて、わかりません。人間の言葉も話せない相手です。武器を持っている。こちらへ近づいてくる。そんな相手を、信じろというんですか」


「信じろとは言っていない」


「なら、どうすればよかったんです」


「わからないことを、わからないままにしておくな」


 ロウは机の上の略図を指で叩いた。


「お前が見たのは、魔物が腕を上げたこと。ダレンが剣を抜いたこと。そして、ダレンが斬ったことだ。そこまでは事実だ」


「……はい」


「だが、お前は魔物が攻撃したところを見ていない。それも事実だ」


 ヨハンは顔を上げた。


「その二つを混ぜるな。そうすれば、少なくとも何が起きたのかは見失わずに済む」


 ヨハンは長い間、黙っていた。


 やがて、彼は低い声で言った。


「魔物が腕を上げたとき、俺は、あいつが何かを差し出そうとしているようにも見えました」


「何を?」


「わかりません。手には何も持っていなかった」


「それを、なぜ最初に言わなかった」


「……そんなことを言えば、俺まで魔物の味方だと思われる」


 ロウは目を細めた。


 それは、ダレンが何を恐れているのかを探るための、ひとつの手掛かりになった。


 この砦では、魔物を恐れることは罪ではない。


 だが、魔物に同情することは、しばしば人間への裏切りと見なされる。


 ましてや、魔物が殺されたときに、その死に疑問を抱くことは。


 人間側の正義を疑うことに等しい。


 ロウは、その空気を知っていた。


 自分自身が、人間と魔物の境界に立たされた存在だからだ。


「ヨハン」


「はい」


「お前が見たものを、そのまま証言しろ。魔物の味方をする必要も、ダレンを守る必要もない」


「……わかりました」


「それから、もうひとつ」


 ロウは声を落とした。


「その場で、子供の声を聞かなかったか?」


 ヨハンの表情が変わった。


 ほんの一瞬だった。


 しかし、ロウは見逃さなかった。


「……聞きました」


「どこから?」


「森の奥からです。子供が、誰かを呼んでいるような声でした」


「何と?」


 ヨハンは首を振った。


「聞き取れませんでした。ただ……」


「ただ?」


「ダレンは、その声を聞いた瞬間に剣を抜いたんです」


 ロウは、略図から指を離した。


 事件の形が、少しずつ変わり始めていた。


 魔物が襲ってきたから、兵士が剣を抜いた。


 それが、ダレンの主張だった。


 だが、目撃者の話を集めるほど、その順序が疑わしくなる。


 子供の声。


 魔物の差し出した腕。


 そして、抜かれていない剣。


 ロウは立ち上がった。


「現場に戻る」


「隊長、ご自身で?」


「俺が行く。お前たちも来い」


「魔物がまだいるかもしれません」


「だから行くんだ」


 ロウは外套を手に取った。


「生きているものがいるなら、話を聞く。死んでいるものがいるなら、何が起きたか調べる。それが門番の仕事だ」


第三幕 鞘の中の剣

 事件現場は、砦から歩いて四十分ほどの場所にあった。


 雨に濡れた木々が、頭上で枝を交差させている。


 森の中は薄暗かった。


 地面には、兵士たちの足跡が残っている。


 ロウは現場に到着すると、すぐにしゃがみ込んだ。


 最初に見つかったのは、ダレンの足跡だった。


 次に、ハンスとヨハン。


 そして、魔物の足跡。


 魔物のものと思われる足跡は、交易路の北側から続いていた。


 途中で何度か立ち止まり、やがて道の中央へ出ている。


「ここだな」


 ロウは地面に手をかざした。


 足跡の周囲には、泥が大きく跳ねた痕跡がある。


 その先には、ダレンのものと思われる足跡が深く刻まれていた。


 踏み込んだ跡。


 剣を振るう際に、体重を前へ移した跡だ。


「魔物が突進してきたというより、ダレンが踏み込んでいる」


 ロウが呟くと、セラが隣にしゃがんだ。


「正当防衛ではなかった、と?」


「まだ決めない」


 ロウは地面を見つめた。


「魔物が先に動いた可能性はある。だが、少なくとも、ここに残った足跡だけではそう判断できない」


「では、何を探すんです?」


「魔物が、どこから来たのか」


 ロウは北側の木々を指した。


「こっちへ続いている。だが、途中から足跡が乱れている」


「雨のせいでしょうか」


「それだけじゃない」


 ロウは、地面に残った浅い溝を示した。


「何かを引きずった跡だ」


 溝は木々の間へ続いていた。


 ロウは兵士たちに警戒を命じ、その跡を追った。


 やがて、倒れた木の陰に、小さな空間が現れた。


 そこには、焚き火の跡があった。


 灰は湿っていたが、完全には流されていない。


 火を起こしてから、まだそれほど時間は経っていないようだった。


 周囲には、粗末な寝床。


 水を汲むための革袋。


 そして、何かを包んでいたらしい布切れが落ちていた。


「ここに、魔物がいたのか」


 セラが呟いた。


「ひとりとは限らない」


 ロウは周囲を見回した。


 焚き火の跡は一つ。


 しかし、寝床は二つあった。


 片方は大人の体格に合わせたもの。


 もう片方は、明らかに小さい。


 子供が使うためのものだった。


 ロウは膝をつき、寝床の脇に落ちていたものを拾った。


 木製の小さな玩具だった。


 車輪が二つ。


 胴体は魚のような形をしている。


 尾の部分には、青い糸が巻きつけられていた。


 人間の子供が遊ぶ玩具としても、魔物の子供が遊ぶ玩具としても、不思議ではない。


 だが、奇妙なことがあった。


 玩具の裏側に、小さな文字が刻まれていた。


 ――トトへ。


「名前か?」


 セラが覗き込む。


「おそらくな」


 ロウは玩具を布に包んだ。


 そのとき、少し離れた場所から、オスカーの声がした。


「隊長! こちらを!」


 記録係のオスカーは、木の根元にしゃがみ込んでいた。


 その手には、泥に半分埋まった紙片がある。


 ロウが近づくと、オスカーは紙片を慎重に持ち上げた。


「破れていますが、文字が残っています」


 紙片には、人間の文字が書かれていた。


 ところどころが擦れていたが、いくつかの単語は読める。


 ――受け渡し。


 ――名前。


 ――確認。


 そして、最後に。


 ――第四の扉。


 ロウの表情が変わった。


「……何だって?」


 オスカーは、紙片を持つ手を止めた。


「隊長。これ、例の記録と関係があるのでは?」


 第四の扉。


 イーサンの通行証。


 マリアの出生記録。


 エリナ・テュユールの名前。


 それらをつないでいる、正体不明の記録保管場所。


 なぜ、その言葉がここにあるのか。


 ロウは紙片を見つめた。


「持ち帰る。鑑定してくれ」


「承知しました」


「ただし、誰にも内容を話すな。特に、イーサンとマリアには」


 オスカーは頷いた。


 セラが周囲を見回した。


「隊長。ここは、魔物が身を隠すための場所だったのでしょうか」


「そうかもしれない」


「子供がいた可能性も?」


「……ああ」


 ロウは、小さな寝床を見つめた。


 もし、ここに子供がいたのなら。


 魔物は、なぜ人間の巡回路に近い場所で暮らしていたのか。


 なぜ、子供の玩具を持っていたのか。


 そして、なぜ兵士に殺されたのか。


 その答えを見つけるためには、ひとつだけ、どうしても確認しなければならないことがあった。


「セラ」


「はい」


「魔物の荷物を調べたか?」


「医師が確認しています。衣服と食料、それから、いくつかの記録らしきものがありました」


「記録?」


「文字が読めるかどうか、オスカーに見てもらっています」


「すぐに確認しよう」


 ロウは踵を返した。


 そのときだった。


 森の奥から、かすかな音が聞こえた。


 子供の声。


 誰かを呼ぶような声だった。


 兵士たちが一斉に武器を構えた。


「隊長!」


「待て」


 ロウは手を上げた。


 声は、もう一度聞こえた。


 今度は、はっきりしていた。


「……トト?」


 誰かが、名前を呼んでいる。


 ロウは森の奥を見つめた。


 そこには、何も見えなかった。


 ただ、濡れた木々と、白い霧があるだけだった。


 だが、ロウの鼻は、風に混じった匂いを捉えていた。


 血の匂いではない。


 魔物の匂いでもない。


 甘い、薬草の匂い。


 そして、その奥にある、微かな腐敗臭。


「全員、警戒を続けろ。勝手に動くな」


 ロウは剣の柄に手をかけた。


 森の奥に何かがいる。


 それは確かだった。


 だが、こちらへ襲いかかってくる気配はない。


 むしろ。


 何かを待っているようだった。


 ロウは、その場を離れる前に、もう一度だけ振り返った。


 小さな寝床。


 木製の玩具。


 そして、誰もいない森。


 魔物は、ここでひとり暮らしをしていたのではない。


 誰かと暮らしていた。


 その誰かは、今どこにいるのか。


 ロウには、まだわからなかった。


第四幕 魔物の持ち物

 黒門砦に戻ったロウを待っていたのは、医師のミラだった。


「死因は、胸部への刺創による大量出血です」


 医務室の机には、魔物の所持品が並べられていた。


「剣の傷は一か所。防御創はほとんどありません。少なくとも、正面から長時間争った形跡はないですね」


「抵抗する間もなかった可能性は?」


「あります。ただし、それだけで相手が無抵抗だったとは言えません」


 ミラは、ロウの言葉を先回りするように付け加えた。


「魔物の身体構造は人間と異なります。腕や肩の損傷だけで戦闘の有無を断定することはできません。ただ、今回の傷は……」


 ミラは記録を見た。


「かなり正確に、急所を狙っています」


「偶然ではない?」


「剣術の訓練を受けた兵士なら、狙える場所です」


 ロウは黙って頷いた。


 ダレンは、訓練を受けた兵士だった。


 だからこそ、剣を抜いた瞬間に何を考えていたのかが重要になる。


「ほかには?」


「魔物の胃には、ほとんど食べ物が残っていませんでした。脱水もあります。しばらく十分な食事を取っていなかった可能性があります」


「森で暮らしていたのか」


「そのようですね。衣服にも、長期間の野外生活を示す汚れがありました」


 ミラは、所持品の一つを持ち上げた。


 布袋だった。


 中には、乾燥した草の束が入っている。


「薬草です。砦の薬師が使うものと似ています」


「売り物か?」


「その可能性はあります。ですが、こちらを見てください」


 ミラは草の束を分けた。


 中から、小さな包みが出てきた。


 包みの中には、白い粉末が入っていた。


「これは?」


「薬草を砕いたものです。子供の熱を下げるために使われる処方に似ています」


 ロウは顔を上げた。


「子供用か」


「ええ。魔物の子供にも効果があるかどうかはわかりませんが」


 ミラは別の包みを開いた。


 中には、細く裂かれた布が入っていた。


 その布には、小さな血痕がついている。


「こちらは止血に使ったものだと思います。血液の種類までは、まだ判別できていません」


 ロウは、布を見つめた。


 薬草。


 子供用の処方。


 小さな寝床。


 木製の玩具。


 それらは、ひとつの可能性を示していた。


 死んだ魔物には、守るべき誰かがいたのではないか。


 だが、それだけで、彼が善良だったとは言えない。


 子供を守る親が、他者を傷つけることはある。


 誰かを愛する者が、別の誰かを殺すこともある。


 人間ならば、誰もが知っていることだ。


 魔物だけに、違う基準を当てはめる理由はない。


「オスカーを呼んでくれ」


 ロウは言った。


 ほどなくして、オスカーが医務室にやってきた。


「所持品の記録を確認しました」


「何かわかったか?」


「いくつかの紙片は、商人が使う取引記録の形式に似ています。ただし、日付の書き方が違う。王国の暦ではありません」


「別の国のものか?」


「それはまだわかりません。ただ、一枚だけ、かなり古い記録が混じっていました」


 オスカーは、机の上に一枚の紙を置いた。


 紙は何度も折り畳まれ、端が擦り切れていた。


 中央には、二つの名前が書かれている。


 ひとつは、判読できなかった。


 もうひとつは、かろうじて読めた。


 ――トト。


 その下には、短い文章があった。


 ――名前の登録が完了するまで、帰還を認めない。


 ロウは、紙を見つめた。


「……帰還?」


「はい。イーサンの通行証に書かれていた言葉と、似ています」


「この紙の持ち主は?」


「魔物です。ですが、書いたのが魔物本人かどうかはわかりません」


 オスカーは慎重に答えた。


「人間が書いたものを、魔物が持っていた可能性もあります」


「第四の扉との関係は?」


「今のところ、これ以上はわかりません。ただ、記録の様式が似ている部分があります」


 ロウは紙を机に置いた。


 帰還。


 名前。


 登録。


 出生。


 第四の扉。


 ばらばらだった言葉が、少しずつ同じ方向を向き始めている。


 だが、その方向がどこへ続いているのかは、まだわからない。


「この紙は、保管しておけ。ほかの所持品も、ひとつずつ記録しろ」


「承知しました」


「それから、子供の玩具についても調べてくれ。誰が作ったのか、どこで売られているのか」


 オスカーは頷いた。


 そのとき、医務室の扉が開いた。


 セラが入ってくる。


「隊長。ダレンの取り調べを再開しましたが、ひとつ、奇妙なことがわかりました」


「何だ」


「彼は、魔物の名前を知りませんでした」


「……それが?」


「いえ。問題は、彼が魔物の名前を知らないことではありません」


 セラは手に持った書類を差し出した。


「彼は、魔物と遭遇する前から、その魔物を知っていた可能性があります」


 ロウは書類を受け取った。


 そこには、ダレンの巡回記録が記されていた。


 事件の三日前。


 東の交易路で、不審な人物を見かけたという報告。


 その翌日。


 同じ場所で、子供の声を聞いたという記録。


 そして、事件当日の朝。


 ダレンは巡回経路を変更するよう申請していた。


 理由は、森の中に危険な魔物が潜んでいる可能性があるため。


「……なぜ、これを最初に言わなかった?」


「本人は、以前から危険を感じていたと説明しています。ですが、記録に残っているのは今回が初めてです」


「巡回経路の変更は認められたのか?」


「いいえ。変更理由が曖昧だったため、却下されています」


 ロウは書類を見つめた。


 ダレンは、事件当日に突然、魔物と遭遇したのではない。


 少なくとも三日前から、何かを警戒していた。


 それが、魔物だったのか。


 子供の声だったのか。


 それとも、別の何かだったのか。


 ロウは、机の上に並ぶ証拠を見渡した。


 そして、ひとつの可能性に気づいた。


「……ダレンは、魔物を恐れていたんじゃない」


 セラが顔を上げた。


「では、何を?」


「魔物が、何かを連れていることを恐れていたのかもしれない」


 小さな寝床。


 子供の玩具。


 熱を下げる薬。


 そして、森の奥から聞こえた声。


 それらは、魔物が誰かを守ろうとしていたことを示している。


 だが、ダレンはそれを知られたくなかったのかもしれない。


 なぜなら。


 魔物が子供を守っていたのなら。


 魔物を殺した自分は、何を殺したことになるのか。


 その問いから逃げるために、彼は「襲われた」と言ったのではないか。


 ロウは、まだその結論を口にしなかった。


 推測は、証拠ではない。


 だが、推測を捨ててしまえば、証拠が何を意味するのかさえ見えなくなる。


「セラ。ダレンを連れてこい」


「はい」


「今度は、魔物を殺した理由だけじゃない。三日前から何を見ていたのかを聞く」


第五幕 忘れた恐怖

 ダレンは、詰所の椅子に座っていた。


 両手は膝の上。


 血のついた剣は、すでに回収されている。


 彼はロウが入ってきても、顔を上げなかった。


「ダレン」


「……はい」


「三日前、東の交易路で何を見た?」


 ダレンの指が動いた。


「何も」


「巡回記録には、危険な魔物を見たと書いてある」


「……勘違いです」


「昨日は、子供の声を聞いたと報告している」


「聞き間違いです」


「では、今日、魔物を殺したのは何だ?」


 ダレンは顔を上げた。


「正当防衛です」


「お前は、魔物が剣を抜いたと言った」


「はい」


「だが、剣は鞘に収まったままだった」


「……」


「魔物が先に攻撃したところを見た者はいない」


「俺は見ました」


「お前以外には、誰も見ていない」


 ダレンは立ち上がりかけた。


「俺が嘘をついていると?」


「まだ、そうは言っていない」


「なら、信じてください!」


 声が詰所に響いた。


 ダレンは、自分の声に驚いたように口を閉じた。


 ロウは、しばらく彼を見つめていた。


「信じるかどうかは、俺が決めることじゃない」


「……何?」


「証拠を見て、判断する。お前の言葉も、目撃者の証言も、現場に残った痕跡もな」


 ロウは一歩近づいた。


「だが、ひとつだけ聞きたい」


 ダレンの喉が動いた。


「お前は、何を恐れている?」


 沈黙。


「魔物か?」


 ダレンは答えなかった。


「子供か?」


 その瞬間、ダレンの目が見開かれた。


 ロウは、確信した。


「……いたんだな」


「違う!」


「森に子供がいた」


「違います!」


「魔物は、その子供を守っていた」


「違う!」


 ダレンは椅子を蹴るようにして立ち上がった。


「俺は、あいつが何をするかわからなかったんだ! 魔物が子供を連れているなんて、そんなもの……」


 そこで、彼は言葉を失った。


 自分が何を口にしたのか、気づいたのだ。


 ロウは、声を荒らげなかった。


「子供を連れていたんだな」


 ダレンは、両手で顔を覆った。


「……俺は」


 その声は、ひどく小さかった。


「俺は、子供の声を聞いたんです」


「何と?」


「助けて、と」


 ロウは黙って聞いていた。


「森の中で、子供が泣いていた。魔物がそばにいた。俺たちが近づくと、魔物は腕を上げた。だから、俺は……」


「剣を抜いた」


「はい」


「魔物は攻撃してきたか?」


「……わかりません」


 ダレンは顔を覆ったまま、首を振った。


「俺は、あいつが子供を人質にしているんだと思ったんです。魔物が人間の子供をさらう話は、何度も聞いていました。子供を食べる魔物もいる。人間を騙して、巣に連れ込む魔物もいる。だから……」


「だから、先に斬った?」


「……はい」


 ロウは、深く息を吐いた。


 正当防衛ではなかった。


 少なくとも、今の証言が正しければ、ダレンは攻撃される前に剣を抜いたことになる。


 だが、それで事件のすべてが明らかになったわけではない。


「子供は、どこにいる?」


 ダレンは答えなかった。


「ダレン」


「わかりません」


「魔物を殺したとき、子供はどこにいた?」


「……いなかった」


「見ていないのか?」


「いませんでした」


 ダレンは顔を上げた。


 目が赤くなっていた。


「俺が剣を抜いたときには、もう、いなかったんです」


「どういうことだ」


「子供の声が聞こえた。魔物がいた。俺たちが近づいた。そこで、子供の声が消えたんです」


「魔物が子供を連れていった?」


「わかりません」


「では、なぜ魔物を殺した?」


 ダレンは答えられなかった。


 その沈黙は、先ほどまでの沈黙とは違っていた。


 彼は、自分が何をしたのかを、ようやく考え始めていた。


「……俺は、怖かったんです」


 ダレンは言った。


「魔物が何をするかわからなかった。子供がどこにいるのかもわからなかった。もし、あいつが子供を傷つけていたら。もし、あいつが俺たちを襲ってきたら。もし……」


「もし、を並べても、起きたことは変わらない」


 ロウは静かに言った。


「お前は、魔物が攻撃する前に剣を抜いた。そして、殺した」


 ダレンは俯いた。


「その事実は変わらない」


「……俺は、どうすればよかったんですか」


 それは、先ほどのヨハンと同じ問いだった。


 ロウは、すぐには答えなかった。


 魔物が人間を襲うことはある。


 人間が魔物を襲うこともある。


 そして、恐怖に駆られた者が、何もしていない相手を危険と決めつけることもある。


 そのすべてを、ロウは知っていた。


「わからない」


 彼は答えた。


 ダレンが顔を上げる。


「……え?」


「その場で何が最善だったのか、俺にはまだわからない。魔物が何をしようとしていたのか、子供がどこにいたのか。それがわからない限り、正解だったかどうかは決められない」


「でも……」


「ただし」


 ロウは、ダレンの目を見た。


「わからなかったことを、わかったことにしてはいけない」


 ダレンは動かなかった。


「お前は、魔物が襲ってきたと言った。だが、本当は、襲ってくるかもしれないと思ったんだろう」


「……はい」


「その違いを、二度と忘れるな」


 ロウは扉へ向かった。


「お前は当面、武器を預けて待機だ。処分は、調査が終わってから決める」


「隊長」


 ダレンの声が背中に届いた。


「俺は……人間を守りたかったんです」


 ロウは立ち止まった。


「それは、嘘じゃないんだと思います」


「……」


「でも、人間を守りたいという気持ちだけで、何をしても許されるわけじゃない」


 ロウは振り返らなかった。


「お前が守ろうとしたものが何だったのか。何を傷つけたのか。それを確かめてから、もう一度、自分の言葉で話せ」


 扉が閉じた。


 詰所には、ダレンひとりが残された。


 彼はしばらく椅子に座っていた。


 やがて、両手を見下ろした。


 剣を握っていた手だった。


 その手が、何を守ったのか。


 何を奪ったのか。


 彼には、まだ答えられなかった。


第六幕 名前のない子供

 夕刻。


 ロウは、魔物の荷物をもう一度調べていた。


 机の上には、薬草、布切れ、古い紙片、そして木製の玩具が並んでいる。


 玩具の裏には、確かに「トトへ」と刻まれていた。


 ロウはそれを指でなぞった。


「トト、か」


「名前でしょうか」


 セラが尋ねた。


「愛称かもしれない。子供の名前なのか、別の何かなのかはわからない」


「魔物の名前という可能性は?」


「ある」


 ロウは玩具を置いた。


「だが、名前を知ることと、正体を知ることは違う」


 セラは少し考えた。


「隊長は、魔物が子供を守っていたと考えているんですね」


「そう考える理由はある。だが、まだ確定ではない」


「もし、子供が魔物の仲間だったら?」


「それでも、子供がいた可能性は変わらない」


「もし、子供が人間だったら?」


「それでも、魔物が何をしていたのかを調べる必要がある」


 ロウは、窓の外を見た。


 夕日が黒門砦の石壁を赤く染めている。


「問題は、子供が人間か魔物かということだけじゃない」


「では、何です?」


「子供が、なぜここにいたのか。そして、今どこにいるのかだ」


 セラは頷いた。


 そのとき、扉がノックされた。


 入ってきたのはオスカーだった。


「隊長。記録の照合が終わりました」


「何かわかったか?」


「玩具の製造元は、まだ特定できていません。ただ、魔物の所持品から見つかった紙片について、ひとつ、気になることが」


 オスカーは紙を差し出した。


「この文字列です。最初は名前のように見えたのですが、正確には名前ではないかもしれません」


 紙には、細い文字で何かが記されていた。


 オスカーは指で一か所を示した。


「ここに、登録番号らしきものがあります。そして、その下に……」


 ロウは目を細めた。


 そこには、こう書かれていた。


 ――出生確認:未完了。


 ロウの脳裏に、マリアの記録が蘇った。


 出生確認:未完了。


 父親の帰還を確認。


 第四の扉。


「……同じだ」


 セラが顔を上げた。


「何がです?」


「マリアの記録と同じ形式だ」


 ロウは紙片を机に置いた。


「オスカー。イーサンとマリアの記録をもう一度確認してくれ。この紙片と共通する記号がないか、徹底的に調べるんだ」


「承知しました」


「ただし、まだ二人には知らせるな」


 オスカーが退出すると、セラはしばらく紙片を見つめていた。


「隊長。もし、この魔物が、マリアと同じ仕組みで記録されていたとしたら……」


「考えたくない可能性があるな」


「名前を持たない存在、ということですか?」


「それだけじゃない」


 ロウは紙片を裏返した。


 裏側には、別の文字があった。


 薄く、かすれている。


 今まで気づかなかった。


 ロウは紙片を窓辺に持っていき、光に透かした。


 そこに記されていたのは、たった一行だった。


 ――保護対象が帰還しない場合、登録者は出生しない。


 ロウは息を止めた。


 マリアの記録にあった言葉。


 父親が帰還しない場合、娘は出生しない。


 そして、ここにも。


 誰かが帰還しなければ、別の誰かは生まれない。


 あるいは、生まれたことにならない。


「……そんなことが、あるのか」


 ロウは呟いた。


 セラは何も答えなかった。


 答えられるはずがなかった。


 そのとき、廊下の向こうから足音が聞こえた。


 急いでいる。


 誰かが扉を開けた。


 若い兵士が、息を切らして立っていた。


「隊長! 東門の外で、子供が見つかりました!」


 ロウは振り返った。


「子供?」


「はい! 森の入り口です。ひとりで立っていて……」


「人間か、魔物か」


 兵士は答えに詰まった。


「……わかりません」


 ロウは外套を掴んだ。


「案内しろ」


第七幕 帰ってきた子供

 子供は、東門の外に立っていた。


 年齢は、十歳前後に見えた。


 痩せた身体。


 濡れた衣服。


 裸足の足には、泥がこびりついている。


 髪は黒く、目は大きかった。


 遠目には、人間の子供に見える。


 だが、ロウが近づくと、その違いがわかった。


 耳が、ほんの少し長い。


 瞳の奥には、獣のような光がある。


 人間ではない。


 しかし、完全に魔物とも言い切れない。


 子供は門を見上げていた。


 まるで、初めて見る建物に驚いているかのように。


「君」


 ロウは、ゆっくりと声をかけた。


「名前は?」


 子供はロウを見た。


 そして、口を開いた。


「……トト」


 ロウの胸の奥が冷えた。


 木製の玩具に刻まれていた名前。


 魔物の荷物から見つかった名前。


 この子供が、トトなのか。


「ここで何をしている?」


 トトは答えなかった。


 代わりに、門の向こうを指さした。


「お父さんは?」


 ロウは目を細めた。


「お父さん?」


「お父さん、ここにいる?」


「君のお父さんは、どんな人だ?」


 トトは考え込んだ。


 それから、ぽつりと言った。


「……わからない」


 その答えに、セラが眉を寄せた。


「わからないの?」


 トトは頷いた。


「でも、帰ってくるって言った」


「誰が?」


「お父さん」


「どこから帰ってくるの?」


 トトは、門の向こうを指さした。


「向こうから」


 その言葉に、ロウは動きを止めた。


 門の向こう。


 この場合、森のことを指しているのか。


 それとも、黒門砦の向こう側。


 あるいは、もっと別の何か。


「トト。君は、森の中にいたのか?」


 子供は頷いた。


「誰と?」


「……おじさん」


「どんなおじさんだ?」


 トトは、胸の前で両手を動かした。


 剣を持つ仕草ではない。


 何かを抱えるような仕草だった。


「おじさんは、いつも、これを持ってた」


「何を?」


「お薬」


 ロウは、ミラの言葉を思い出した。


 魔物の荷物にあった、子供用の薬。


「おじさんは、君のために薬を持っていたのか?」


 トトは頷いた。


「お熱が出るから」


「おじさんは、どこにいる?」


 子供は黙った。


 小さな手が、ぎゅっと握られる。


「……いない」


 ロウは、膝をついた。


「いない、というのは?」


「おじさん、いなくなった」


「いつ?」


「……わからない」


「何があった?」


 トトは、ロウの顔を見つめた。


 その瞳には、恐怖があった。


 だが、それだけではなかった。


 長い間、誰かを待っていた者の目だった。


「おじさんが、ぼくを隠したんだ」


「誰から?」


「……わからない」


「なぜ?」


 トトは、小さな声で答えた。


「ぼくが、生まれちゃいけないから」


 ロウは息を呑んだ。


 セラが、思わず一歩前へ出た。


「どういう意味?」


 トトは、彼女を見た。


「ぼくが生まれたら、おじさんが帰れなくなるって」


 ロウの頭の中で、あらゆる記録がつながりかけた。


 出生確認。


 名前の登録。


 帰還。


 帰還しない場合、出生しない。


 そして、目の前にいる子供。


 生まれてはいけないと言われた子供。


「トト」


 ロウは慎重に尋ねた。


「君のおじさんは、どんな名前だった?」


 子供は首を傾げた。


「……わからない」


「名前を忘れたのか?」


「ちがう」


 トトは、自分の胸に手を当てた。


「おじさん、名前がなかったんだ」


 風が吹いた。


 門の上で、鎖が鳴った。


 ロウは、言葉を失っていた。


 名前がない。


 その言葉は、黒門砦の記録に何度も現れている。


 名前の登録が未完了。


 出生確認が未完了。


 帰還を保留。


 そして、今。


 名前のないおじさんが、子供を守っていた。


 そのおじさんは、魔物だった。


 ロウは、トトの肩に手を置こうとして、止めた。


 子供は怯えていた。


 無理に触れるべきではない。


「トト。君を傷つけるつもりはない」


 ロウは、できる限り穏やかな声で言った。


「君が何者なのか、今すぐ決めるつもりもない」


 トトは、じっとロウを見ていた。


「でも、ひとつだけ約束してほしい」


「……なに?」


「君が知っていることを、少しずつでいいから教えてくれ。誰かを守るために、嘘をつく必要はない」


 トトは俯いた。


「……おじさんは、嘘をついたよ」


「どんな嘘だ?」


「おじさんは、ぼくのお父さんじゃないって」


 ロウの胸が、強く締めつけられた。


「……そうか」


「でも、おじさんは、ぼくを守ってくれた」


 トトは顔を上げた。


「おじさんは、ぼくのお父さんじゃない。でも、ぼくのお父さんだったんだ」


 その言葉を、ロウは否定できなかった。


 血のつながりがなくても、親になる者はいる。


 血のつながりがあっても、子供を傷つける者はいる。


 それは、人間でも魔物でも変わらない。


 だが、目の前の子供が、何者なのか。


 誰の子供なのか。


 そして、なぜ生まれてはいけないとされたのか。


 その答えは、まだ見つかっていなかった。


 ロウはトトを砦の中へ案内した。


 その背後で、東門の石壁に、かすかな光が走った。


 四つの円。


 第四の扉に刻まれていたものと、同じ形だった。


 兵士たちは気づかなかった。


 セラも、オスカーも気づかなかった。


 ただ、ロウだけが振り返った。


 四つの円の中央に、一行の文字が浮かび上がっていた。


 ――帰還者、第二号。


 その下に、新たな文字が刻まれる。


 ――出生確認:未完了。


 そして、最後に。


 ――登録者:エリナ・テュユール。


 ロウは、門を見つめたまま動けなかった。


 母の名前。


 また、母の名前だ。


 なぜ、死んだ魔物の持ち物に第四の扉の記録があったのか。


 なぜ、名前のない魔物が子供を守っていたのか。


 なぜ、その子供が「生まれてはいけない」と言われたのか。


 そして、なぜ。


 母の名前が、ここに刻まれているのか。


 ロウは、拳を握りしめた。


 まだ、何も終わっていない。


 事件は解決していない。


 ダレンが犯したことの責任も、死んだ魔物が何をしようとしていたのかも、トトの出生の謎も。


 すべてが、これからだった。


 だが、ひとつだけ確かなことがある。


 魔物を殺した兵士は、恐怖から剣を抜いた。


 そして、剣を抜かれた魔物は、子供を守ろうとしていた。


 その二つの事実は、同時に成立する。


 片方を正しいことにするために、もう片方をなかったことにしてはいけない。


 ロウは門から目を離し、砦の中へ歩き出した。


「セラ」


「はい」


「ダレンの処分は、調査が終わるまで保留だ。だが、正当防衛の主張は認めない」


「わかりました」


「ヨハンとハンスの証言も、正式な記録に残せ。見たことと、見ていないことを分けてな」


「はい」


「それから、トトの保護を最優先にする。身元がわかるまでは、誰にも引き渡さない」


 セラは頷いた。


「隊長。トトは、魔物の子供なのでしょうか」


 ロウは少しだけ考えた。


「わからない」


「……そうですか」


「だが、少なくとも、あの子が誰かに守られていたことは確かだ」


 ロウは、歩みを止めずに言った。


「そして、その誰かは、もういない」


 セラは何も言わなかった。


 黒門砦の中では、夕刻の鐘が鳴り始めていた。


 その音を聞きながら、ロウは思った。


 帰還できない者たち。


 生まれることを許されない者たち。


 名前を持たない者たち。


 それらは、同じひとつの問題の、異なる側面なのかもしれない。


 そして、その問題の中心には。


 母がいる。


 エリナ・テュユール。


 彼女は何を知っていたのか。


 何を守ろうとしていたのか。


 そして、何を帰還させようとしていたのか。


 ロウは、まだ知らない。


 だが、もう、知らないままではいられなかった。


終幕 罪をなかったことにはできない

 夜。


 ダレンは、詰所の一室で待機していた。


 窓の外には、黒門砦の石壁が見える。


 彼は、何度も自分の手を見下ろしていた。


 あのとき。


 森の中で、子供の声を聞いたとき。


 魔物が腕を上げたとき。


 剣を抜いたとき。


 自分は、何を考えていたのだろう。


 魔物が人間を襲うかもしれない。


 子供を傷つけるかもしれない。


 自分が迷っている間に、誰かが死ぬかもしれない。


 それらは、嘘ではなかった。


 だが、実際に起きたことでもなかった。


 彼は、起きていないことを恐れた。


 そして、その恐怖を理由に、起きてしまったことを正当化しようとした。


 扉が開いた。


 ロウが入ってきた。


「……隊長」


「少し、話をしに来た」


 ロウは向かいの椅子に座った。


「魔物の荷物から、子供の玩具が見つかった」


 ダレンは目を伏せた。


「それから、薬草もな。子供の熱を下げるために使うものだった」


「……はい」


「今日、トトという子供が見つかった」


 ダレンの顔が上がった。


「トト……?」


「お前が聞いた声の主かどうかは、まだわからない。だが、あの魔物が守っていた可能性は高い」


 ダレンは、唇を震わせた。


「……俺は」


「まだ、何も言うな」


 ロウは静かに制した。


「これから、トトの証言を聞く。魔物が何をしていたのか、なぜあの場所にいたのか、何が起きたのか。それを確かめる」


「俺は、どうなるんですか」


「調査結果に基づいて処分を決める。正当防衛だったという主張は、現時点では認められない」


 ダレンは目を閉じた。


「……そう、ですか」


「ただし、お前が恐れていたことまで、嘘だったとは思っていない」


 ダレンが顔を上げた。


「恐怖は、本物だったんだろう。だが、恐怖が本物であることと、お前の判断が正しかったことは別だ」


 ロウは、机の上に手を置いた。


「お前は、自分が何をしたのかを認めなければならない。それから、何を償えるのかを考えろ」


「……償えるんでしょうか」


「わからない」


 ロウは正直に答えた。


「死んだ者を生き返らせることはできない。奪った時間を返すこともできない。謝れば、すべてが元に戻るわけでもない」


 ダレンの目に涙が浮かんだ。


「では……」


「だからといって、何もしなくていいことにはならない」


 ロウは立ち上がった。


「罪をなかったことにはできない。だが、罪を認めた者が、その後どう生きるかまで、俺が今ここで決めることもできない」


 ダレンは、長い間、何も言わなかった。


 やがて、かすれた声で尋ねた。


「隊長は……魔物が怖くないんですか」


 ロウは扉の前で立ち止まった。


「怖いさ」


「……え?」


「人間も怖い。魔物も怖い。何を考えているかわからない相手は、誰だって怖いだろう」


 ロウは振り返った。


「だが、怖いからといって、相手が何をするのかを決めつけることはできない」


 それだけ言って、彼は部屋を出た。


 廊下を歩きながら、ロウは自分の手を見下ろした。


 自分は、人間なのか。


 魔物なのか。


 その問いを突きつけられたとき、彼は何度も答えを求めた。


 どちらかであれば、もっと簡単に生きられるのではないかと考えたこともある。


 だが、今ならわかる。


 どちらかの名前を与えられたからといって、その者が何をするのかまで決まるわけではない。


 人間だから正しいとは限らない。


 魔物だから悪いとも限らない。


 それでも、誰かが誰かを傷つけたのなら、その事実から目を逸らしてはいけない。


 名前を返すことと、罪をなかったことにすることは違う。


 その違いを、忘れてはいけない。


 ロウは歩き続けた。


 砦の奥では、保護されたトトが眠っているはずだった。


 そして、どこかに、まだ名前を持たない者がいる。


 帰還を待っている者。


 帰還できない者。


 生まれることを許されない者。


 彼らをつないでいるものは、何なのか。


 その答えを探すために、ロウは明日も門を守る。


 眠れない夜は、まだ続く。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。