第八話「記録にいない門番」
第一幕 門の外にいる俺
「門を開けるな」
ロウがそう命じたのは、夜明け前のことだった。
黒門砦の主門は、厚さ三十センチを超える鉄板を木材と石材で挟み込んだ、重厚な構造をしている。
通常の魔物なら、体当たりを繰り返しても簡単には破れない。
門の両側には見張り台があり、上部には投石機と弩砲が備えられている。門前の空堀には、侵入者を足止めするための杭が並び、城壁の内側には、緊急時に門を封鎖するための第二の遮断機構が設けられていた。
それだけの備えがあっても、ロウは門を開けるなと命じた。
理由は簡単だった。
門の向こうから、彼自身の声が聞こえたからだ。
「……ロウ・テュユール」
声は一度きりではなかった。
名前を呼んだあと、門の向こう側にいる何者かは、黙って待っていた。
返事を求めているのか。
それとも、こちらが聞いていることを確かめているのか。
ロウには分からなかった。
「隊長。夜間監視の報告です」
門番の兵士が、緊張した顔で近づいてきた。
「話せ」
「午前二時十三分。主門の外側で、人影を確認しました」
「人数は?」
「一人です」
「種族は?」
「確認できませんでした」
「距離は?」
「門から、およそ十歩です」
「武器は?」
「見えませんでした」
ロウは、門の上部を見上げた。
「声を聞いたのは、お前か?」
「はい」
「俺の声だったか?」
兵士は、答えるまでに少し時間をかけた。
「……はい。隊長のお声に聞こえました」
「本人だと思ったか?」
「最初は、そう思いました」
「今は?」
「分かりません」
兵士は、まっすぐにロウを見た。
「ただ、あれが隊長ご本人だったとしても、門を開けてよいとは思いませんでした」
ロウは頷いた。
「正しい判断だ」
兵士の肩から、わずかに力が抜けた。
「人影は、どうなった」
「午前二時十七分、消失しました」
「歩いて去ったのか?」
「いいえ」
「走ったのか?」
「いいえ」
「では?」
兵士は、言いにくそうに口を開いた。
「……見失った、というより、最初からいなかったようになりました」
ロウは黙った。
「足跡は?」
「ありません」
「門の外の地面は?」
「凍っていました。人間が歩けば、跡が残るはずです」
「魔物の可能性は?」
「否定できません。ただ、魔物なら、何らかの痕跡が残るはずです」
ロウは、門の前まで歩いた。
鉄板には傷一つない。
外側の監視窓も閉じている。
閂も、封鎖機構も正常だ。
しかし、門の内側にある石床には、奇妙なものが落ちていた。
小さな金属片。
古い認識票だった。
ロウは拾い上げた。
表面には、何も刻まれていない。
裏面には、文字が一つだけ残っていた。
待。
待つ。
誰かを待っている。
門番が、誰かを。
ロウは認識票を懐にしまった。
「今夜から、門の監視記録を二重に取れ」
「二重、ですか?」
「一人が見たものを、もう一人が記録する。ただし、互いの記録は翌朝まで見せるな」
「承知しました」
「それから、門の外に人影を見ても、名前を呼ぶな。話しかけるな。返事をするな。見たものだけを記録しろ」
兵士は敬礼した。
「了解しました」
ロウは、最後にもう一度、門を見た。
この門は、人間の国を魔物から守るために築かれた。
少なくとも、そう教えられてきた。
だが、門の外にいるものが魔物とは限らない。
そして、門の内側にいるものが人間だとも限らない。
「……門番」
ロウは、低く呟いた。
「お前は、何を待っている?」
返事はなかった。
ただ、門の向こう側から。
ほんの一瞬だけ。
誰かが、笑った気配がした。
第二幕 存在しない兵士
「門番の名簿を確認しました」
朝の記録室で、オスカーが報告した。
机の上には、黒門砦の兵員名簿が年代順に並べられている。
現在の名簿。
十年前の名簿。
五十年前の名簿。
百年前の名簿。
そして、百四十七年前の建設記録。
「結論から言いますと、最初の門番に該当する人物は存在しません」
「名前がないだけか?」
「いいえ。人員番号も、任命記録も、給与の支払い記録もありません」
「死亡記録は?」
「ありません」
「退役記録は?」
「ありません」
「では、最初の門番という記述は、どこから出てきた?」
オスカーは、別の紙を差し出した。
「こちらです」
それは、黒門砦の建設に関する古い記録だった。
百四十七年前。
砦の基礎工事が完了した年。
建設責任者の名は、エリナ・テュユール。
ロウの母と同じ名前だった。
そして、建設記録の末尾には、こう書かれていた。
門番一名、配置済み。
その下には、担当者の署名欄がある。
しかし、署名はなかった。
「……誰が配置した?」
「記録にはありません」
「誰を配置した?」
「記録にはありません」
「いつ配置した?」
「記録にはありません」
ロウは、記録を机に置いた。
「配置済みという結果だけが残っているわけか」
「はい」
「配置された人物がいたという証拠は?」
「この記述だけです」
「その人物が門番として働いた証拠は?」
「……ありません」
ロウは椅子に背を預けた。
「つまり、記録の上では、門番は存在する。しかし、誰がその門番なのかを示す記録はない」
「そのとおりです」
「そして、今も門の外に何者かが現れている」
オスカーは頷いた。
「はい」
ロウは、別の紙を引き寄せた。
そこには、昨夜の監視記録がまとめられていた。
第一の記録。
午前二時十三分、門の外に人影。
第二の記録。
午前二時十三分、門の外に人影なし。
第三の記録。
午前二時十三分、門の外に人影。
第四の記録。
午前二時十三分、門の外に人影なし。
同じ時刻。
同じ門。
同じ監視位置。
証言は、完全に食い違っていた。
「この四人は、互いに話をしたか?」
「していません」
「目の錯覚では?」
「その可能性もあります。ただし、人影を見た二人は、人物の位置まで一致しています」
「見なかった二人は?」
「門の外には、何もなかったと証言しています」
ロウは、四枚の記録を並べた。
人影が見えた者。
人影が見えなかった者。
どちらが正しいのか。
その答えを、今の段階で決めることはできない。
「……オスカー」
「はい」
「一つ仮説を立ててみよう」
「どうぞ」
「人影は、門の外に実際に存在していた。ただし、すべての人間から同じように認識されるわけではない」
オスカーは考え込んだ。
「幻覚を誘発する魔物、あるいは認識に干渉する能力でしょうか」
「その可能性はある」
「しかし、それなら、見えた者と見えなかった者の差を調べる必要があります」
「そうだ」
ロウは記録を指で叩いた。
「夢を見た兵士と、見ていない兵士。名前を失った者と、失っていない者。ベルン・ハルトという名前を持ったことがある者と、そうでない者」
「それらの共通点を調べるのですね」
「そうだ。ただし、最初から同じ原因だと決めつけるな」
ロウは、オスカーを見た。
「関連しているように見える事件ほど、思い込みで一つにまとめたくなる。だが、偶然に同じ場所で起きているだけかもしれない。俺たちは、証拠を集める」
「承知しました」
オスカーは記録をまとめ始めた。
そのとき、ロウは建設記録の端に、小さな注記があることに気づいた。
通常の文字よりも薄い。
後から書き足されたように見える。
門番は交代を必要としない。
その下に、さらに一文。
門番は、門の外側に配置してはならない。
ロウの指が止まった。
「……オスカー」
「はい?」
「この注記を書いた者は分かるか?」
オスカーは紙を覗き込んだ。
「筆跡を調べる必要がありますが……署名はありません」
「インクの年代は?」
「確認します」
ロウは、注記を見つめた。
門番は交代を必要としない。
門番は、門の外側に配置してはならない。
では、昨夜、門の外にいた人影は何なのか。
門番が外側に出てしまったのか。
それとも、門番ではない何かが、門番の場所を奪おうとしているのか。
ロウは、懐の認識票に触れた。
表には名前がない。
裏には「待」の一文字。
そして、門の向こうから聞こえた、自分自身の声。
「……まだ、答えは出せないな」
彼は立ち上がった。
「夢を見た兵士たちの証言を、もう一度調べる。今度は、門の形を重点的に確認する」
オスカーが頷いた。
「承知しました」
ロウは扉へ向かった。
その背後で、オスカーが小さく呟いた。
「……門番は、門の外側に配置してはならない」
ロウは振り返った。
「何か気になるのか?」
オスカーは、首を横に振った。
「いえ。ただ……」
彼は建設記録を見つめていた。
「これを書いた人物は、門番が外側に出ることを、あらかじめ知っていたように思えます」
ロウは、すぐには答えなかった。
やがて、静かに言った。
「……だから、記録を残したのかもしれないな」
誰かが、門番の異常を知っていた。
そして、その人物は、異常を止めるのではなく、後世に記録を残した。
なぜか。
その理由を知るためには、さらに古い記録を探す必要があった。
百四十七年前よりも前の記録。
砦が建てられる前の記録。
門が作られる前の記録。
そして、門番がそこにいたという、最初の証拠。
ロウは、廊下へ出た。
「……母さん。あなたは、何を作ったんだ」
答えは、まだ遠かった。
第三幕 七人の証言
夢を見た七人の兵士は、記録室の隣にある小会議室へ集められた。
ロウは、彼らを一人ずつ別室に呼び、証言を取ることにした。
同じ夢を見たという者たちを最初から一緒に話させれば、記憶が混ざる可能性がある。
一人が「男は黒い外套を着ていた」と言えば、別の者も同じ服を見たように感じるかもしれない。
記憶は、記録よりも扱いが難しい。
特に、この砦では。
「第一の証言者を呼べ」
入ってきたのは、二十代半ばの兵士だった。
「名前を述べろ」
「ガレス・ノインです」
「夢を見たのは、いつだ」
「昨夜です。午前二時ごろだったと思います」
「何を見た?」
ガレスは、しばらく考えてから答えた。
「古い門です。黒い石でできていて、中央に四つの円がありました」
「門の前には?」
「男がいました」
「顔は?」
「見えませんでした」
「なぜ見えなかった?」
「……顔の部分だけ、暗かったんです。頭がなかったわけではありません。顔があるはずの場所が、ただ暗い」
「男は何をしていた?」
「門を見ていました」
「誰かを待っていたのか?」
「そう思いました」
「男は何と言った?」
ガレスは、はっきりと答えた。
「お前は、ここに残れ」
「誰に向けた言葉だと思う?」
「……俺に、ではないと思います」
「では、誰に?」
「分かりません」
ロウは、彼の証言を記録した。
次の兵士も、同じ門を見ていた。
四つの円。
顔の見えない男。
「お前は、ここに残れ」
三人目も。
四人目も。
五人目も。
細部には違いがあった。
男の立ち位置。
門の大きさ。
足元の地面。
周囲の明るさ。
だが、奇妙なことに、全員が一つの点で一致していた。
夢の中の門は、黒門砦の門よりも小さかった。
そして、門の向こう側には何もなかった。
何もないのに、誰もが、そこに何かがいると感じていた。
六人目の証言を終えたとき、ロウは一つの質問を加えた。
「夢の中の男は、お前たちに何かを求めていたか?」
兵士は首を横に振った。
「何も求めていませんでした」
「助けを求めていた?」
「いいえ」
「門を開けろと言った?」
「いいえ」
「では、なぜ、お前は男が誰かを待っていると思った?」
兵士は困った顔をした。
「……分かりません。ただ、そう感じたんです」
ロウは頷いた。
「分かった。戻っていい」
兵士が退室する。
残るは、七人目。
ヨハン・レイス。
彼は今、医務室で保護されている。
自分の名前を取り戻したあと、再び名前を失った兵士。
ロウは、ミラに付き添われたヨハンを会議室へ呼んだ。
「ヨハン。今からいくつか質問する」
「はい」
「答えられないことは、答えられないと言っていい」
「分かりました」
「夢の中で、男を見たか?」
「はい」
「男は何をしていた?」
「門の前に立っていました」
「男は、お前に何と言った?」
ヨハンは、唇を噛んだ。
「……名前を呼ぶな、と」
「それは、夢の中で聞いた言葉か?」
「はい」
「誰に向けて言った?」
「分かりません」
「男の顔は見えたか?」
「……いいえ」
「男の声は、誰かに似ていたか?」
ヨハンは、長い沈黙のあとで答えた。
「……隊長の声に似ていました」
ロウは頷いた。
「では、男の身体は?」
「え?」
「顔以外だ。身長、体格、服装。何か覚えているか?」
ヨハンは目を閉じた。
「……背は、隊長と同じくらいでした」
「服装は?」
「古い衛兵の制服でした」
「武器は?」
「持っていませんでした」
「右手に、何か特徴は?」
ヨハンの表情が変わった。
「……右手?」
「何か見たか?」
ヨハンは、自分の右手を見つめた。
「……指が」
「指?」
「一本だけ、曲がっていました」
ロウは、息を止めた。
ベルンの右手。
古い怪我で曲がった、人差し指。
ヨハンは続けた。
「でも、曲がっていたのは、右手の人差し指ではありません」
「では、どの指だ?」
「……分かりません」
ヨハンは頭を抱えた。
「すみません。思い出せません。ただ、男の手を見たとき、俺は……」
「何だ?」
「……あの人は、何度も誰かを助けようとしたんだと思いました」
ロウは、ヨハンを見つめた。
「どうして、そう思った?」
ヨハンは、苦しそうに顔を歪めた。
「……手が、何かを掴もうとしていたんです」
「何を?」
「分かりません」
ヨハンは目を閉じた。
「何かを掴もうとして、何度も失敗した。そんな手でした」
会議室に沈黙が落ちた。
ロウは、質問を変えた。
「ヨハン。お前は、自分の名前を失ったとき、何を感じた?」
ヨハンは、ゆっくりと顔を上げた。
「……自分が消えると思いました」
「身体が消えると?」
「いいえ」
彼は、自分の胸に手を当てた。
「身体はありました。考えることもできました。話すこともできました。ですが、俺が俺である理由が、なくなってしまったんです」
ロウは、黙って聞いていた。
「自分の名前が分からないだけじゃない。自分のことを知っている人が、みんな自分を知らなくなってしまう気がしたんです」
ヨハンの声が震えた。
「俺がいなくなっても、誰も気づかない。俺が誰だったか、誰も覚えていない。そう思ったら、怖くて……」
彼は言葉を切った。
「……でも、隊長が俺を呼んでくれたとき、少しだけ安心しました」
ロウは、ゆっくりと答えた。
「俺は、お前を忘れない」
ヨハンが顔を上げた。
「……本当ですか?」
「少なくとも、今ここにいるヨハン・レイスのことは、俺が覚えている」
ロウは、彼の目を見た。
「だが、お前が誰であるかを、俺が全部決めることはできない。お前自身が、自分の人生を生きる必要がある」
ヨハンは、しばらく黙っていた。
やがて、頷いた。
「……はい」
ロウは、最後の質問をした。
「夢の中の男は、門の向こうに何があると言っていた?」
ヨハンの顔から、血の気が引いた。
「……何も、言っていません」
「そうか」
「ですが……」
「何だ?」
ヨハンは、ゆっくりと顔を上げた。
「男は、門の向こうにいる誰かに、ずっと謝っていたんです」
ロウは、身を乗り出した。
「何と謝っていた?」
ヨハンは、震える声で答えた。
「……ごめんなさい。もう少しだけ、待ってくれ」
ロウは、ペンを止めた。
「誰に向けた言葉だ?」
ヨハンは首を横に振った。
「分かりません」
「男は、何を待たせていた?」
「分かりません」
「何を、もう少しだけ待ってくれと言った?」
ヨハンは、唇を震わせた。
そして、最後にこう言った。
「……生まれることを、です」
ロウは、顔を上げた。
ヨハンは泣いていた。
自分でも理由が分からないまま、涙を流していた。
「……すみません。どうして泣いているのか、俺にも分かりません」
ロウは、しばらく彼を見つめていた。
それから、静かに言った。
「謝る必要はない」
ヨハンが退室したあと、ロウは七人分の証言を並べた。
同じ門。
同じ男。
同じ言葉。
だが、ヨハンだけが、男の謝罪を聞いていた。
そして、その謝罪は、ロウの中にいるアベルの存在と、奇妙なほど重なっていた。
生まれることを待つ者。
生まれることを恐れる者。
誰かを生まれさせるために、名前を渡した者。
「……母さん」
ロウは、窓の外を見た。
「あなたは、誰を待っていたんだ」
そのとき、会議室の扉が開いた。
セラが立っていた。
「隊長。門の外で、動きがありました」
ロウは立ち上がった。
「……今度は何だ」
セラは、緊張した表情で答えた。
「人影が現れました。ですが、今度は一人ではありません」
「何人だ」
「……二人です」
ロウは、剣を取った。
「行くぞ」
第四幕 門の外に立つ二人
主門の上では、兵士たちが弩砲を構えていた。
門前の空堀には霧が溜まり、外側の監視路は白く霞んでいる。
セラが望遠鏡をロウに渡した。
「門から十歩ほど離れた場所です」
ロウは望遠鏡を覗いた。
霧の中に、人影が二つ立っていた。
一人は、古い衛兵の制服を着ている。
もう一人は、粗末な旅装束を身につけた、若い男のように見えた。
二人とも、こちらを向いていた。
「……顔は見えるか?」
「見えません。二人とも、顔の部分だけが暗くなっています」
「武器は?」
「見当たりません」
ロウは、二人の姿を観察した。
衛兵服の男は、まっすぐ立っている。
旅装束の男は、少し俯いていた。
そして、二人の間には、奇妙な距離があった。
近づこうとすれば届く。
だが、互いに一歩も動こうとしない。
まるで、二人の間に見えない壁があるかのようだった。
「……セラ」
「はい」
「門の外にいる二人を、別々に観察しろ。どちらかが動いたら、動いた時刻と方向を記録する」
「分かりました」
ロウは、拡声用の筒を受け取った。
「門の外にいる者に告げる!」
声が、霧の中へ響いた。
「ここは黒門砦だ。お前たちの所属と目的を述べろ!」
二人は動かなかった。
「聞こえているはずだ。返答しろ!」
沈黙。
ロウは、もう一度呼びかけようとした。
そのとき。
衛兵服の男が、ゆっくりと顔を上げた。
そして、口を開いた。
声は、門の上まで届かなかった。
だが、ロウには分かった。
男は、こう言ったのだ。
――お前は、ここに残れ。
次の瞬間、旅装束の男が動いた。
一歩。
たった一歩だけ、衛兵服の男に近づいた。
衛兵服の男は、首を横に振った。
旅装束の男が、もう一歩近づく。
衛兵服の男は、後ずさった。
その動きを見た瞬間、ロウは気づいた。
衛兵服の男は、旅装束の男を恐れている。
いや。
恐れているというよりも。
旅装束の男が近づくことを、必死に止めようとしている。
ロウは拡声筒を握りしめた。
「旅装束の男! 止まれ!」
旅装束の男は、足を止めた。
ロウは続けた。
「お前は、何者だ!」
男は、ゆっくりと顔を上げた。
そして、口を開いた。
今度は、声が聞こえた。
「……兄さん」
ロウの心臓が、強く打った。
その声は、アベルの声だった。
『……兄さん』
胸の奥で、アベルが囁いた。
『あれは……僕だ』
ロウは、息を呑んだ。
門の外に立っているのは、アベルなのか。
それとも、アベルと同じ記憶を持つ別の存在なのか。
「……アベル」
ロウは、思わず呟いた。
その瞬間、衛兵服の男が、こちらを向いた。
そして、初めてはっきりと声を発した。
「名前を呼ぶな!」
門の上にいた兵士たちが、息を呑む。
衛兵服の男は、ロウを指さした。
「お前が名前を呼べば、あの子は生まれてしまう!」
ロウは、望遠鏡を下ろした。
「……何?」
「名前を呼ぶな!」
男は、再び叫んだ。
「まだ、早い!」
旅装束の男が、ゆっくりと顔を上げた。
そして、ロウを見つめた。
「……兄さん」
その声には、懐かしさがあった。
悲しみがあった。
そして、長い時間をかけて、ようやく会えた者の安堵があった。
「……僕、ここにいるよ」
ロウは、門の上で立ち尽くした。
胸の奥で、アベルが震えている。
『……兄さん』
「……アベル?」
『……僕、あそこにいる』
ロウは、答えられなかった。
門の外にいる男が、アベル本人なのか。
それとも、アベルが生まれる前の記憶を形にしたものなのか。
今のロウには、判断できない。
ただ、一つだけ分かることがあった。
門の外にいる衛兵服の男は、アベルが生まれることを恐れている。
そして、旅装束の男は、ロウに会いたがっている。
二人は、同じ場所に立っている。
しかし、同じ未来を望んでいるわけではない。
ロウは、ゆっくりと拡声筒を下ろした。
「……セラ」
「はい」
「門は開けるな」
「了解しました」
「弩砲も撃つな。二人を刺激するな」
「分かりました」
ロウは、門の外にいる二人を見つめた。
「俺が、直接話す」
セラが目を見開いた。
「隊長!」
「門は開けない。俺は上から話すだけだ」
「ですが、相手が何者か分かりません!」
「だから、話を聞く」
ロウは、もう一度、旅装束の男を見た。
「……お前は、何を望んでいる?」
旅装束の男は、静かに答えた。
「……名前を、返してほしい」
その瞬間、衛兵服の男が、両手で顔を覆った。
「……また、同じことを繰り返すのか」
その声は、泣いているように聞こえた。
「……何度、同じことを繰り返せば、気が済むんだ」
ロウは、衛兵服の男を見た。
「お前は、誰だ」
男は、顔を覆ったまま答えた。
「……俺は、門番だ」
「名前は?」
「ない」
「いつから、そこにいる?」
男は、ゆっくりと顔を上げた。
「……門が作られる前から」
ロウは、息を止めた。
地下の記録にあった言葉。
門番は、門が作られる前からそこにいた。
それは、単なる伝承ではなかった。
今、門の外にいる男が、同じことを語っている。
「……お前は、何を守っている?」
門番は、旅装束の男を見た。
そして、静かに答えた。
「……生まれてはいけないものを」
第五幕 生まれてはいけないもの
「生まれてはいけないもの、だと?」
ロウは、門番を見つめた。
「それは魔物か」
「違う」
「人間か」
「違う」
「では、何だ」
門番は答えなかった。
その代わり、旅装束の男が口を開いた。
「……僕だよ」
ロウは、旅装束の男を見た。
男の姿は、少しずつ変化していた。
最初は、十代半ばほどの少年に見えた。
次の瞬間には、ロウよりも少し年下の青年に見えた。
そして、また少年に戻る。
姿が安定しない。
まるで、まだ何者になるのか決まっていない存在のようだった。
「僕は、生まれてはいけないんだって」
男は、淡々と語った。
「僕が生まれたら、誰かが消えてしまうから」
ロウは、胸の奥に手を当てた。
アベルは、何も言わなかった。
「……誰が消える?」
旅装束の男は、少しだけ首を傾けた。
「分からない」
「自分が消えるのか?」
「分からない」
「門番が消えるのか?」
「分からない」
「俺が消えるのか?」
その問いに、旅装束の男は初めて顔を歪めた。
「……それは、嫌だ」
ロウは、黙った。
男は、続けた。
「兄さんが消えるのは、嫌だ」
その声は、アベルの声だった。
間違いなく、ロウの中にいるアベルと同じ声だった。
だが、ロウは、目の前の存在をアベルだと認めなかった。
まだ、認めるわけにはいかなかった。
「……お前の名前は?」
男は答えた。
「アベル」
ロウの胸の奥で、アベルが息を呑んだ。
『……僕と同じ名前』
「ああ」
『……でも、僕じゃない』
ロウは、目を細めた。
(なぜ、そう思う?)
『……分からない。でも、僕は、あそこにいる自分を知らない』
(記憶は?)
『……ある気がする。でも、思い出せない』
ロウは、ゆっくりと息を吐いた。
同じ名前。
同じ声。
似た記憶。
だが、本人ではない。
あるいは、本人でありながら、まだ同じ存在ではない。
名前を持つことと、存在することが、必ずしも同じではない世界。
その矛盾が、今、門の外に立っている。
「……門番」
ロウは呼びかけた。
「お前は、あのアベルを門の向こうに閉じ込めているのか」
門番は、首を横に振った。
「閉じ込めているのではない」
「では、何をしている」
「待っている」
「何を?」
「お前が、決めるのを」
ロウは、言葉を失った。
「……俺が?」
「そうだ」
門番は、まっすぐにロウを見た。
「お前が、あの子を生まれさせるのか。それとも、生まれさせないのか」
「そんなことを、俺が決めるのか」
「お前にしか、決められない」
「なぜだ」
門番は、少しだけ顔を伏せた。
「……お前が、あの子の名前を持っているからだ」
ロウの胸が、強く脈打った。
「俺は、ロウ・テュユールだ」
「そうだ」
「俺はアベルじゃない」
「そうだ」
「なら、なぜ俺が、あの子の出生を決める必要がある?」
門番は、答えなかった。
ロウは、さらに問い詰めた。
「お前は、何度も同じことを繰り返していると言ったな」
「……ああ」
「何を繰り返している?」
門番は、旅装束の男を見た。
「名前を渡すことだ」
「誰が、誰に?」
「兄が、弟に」
その瞬間、ロウの中で、いくつもの記憶がつながりかけた。
ハンスの兄。
ベルン・ハルトという名前を受け継いだ者たち。
百四十七年前に第四の扉を発見したエドリック・ヴェイン。
名前を返すたびに、別の人生が流れ込む仕組み。
そして、ロウの中にいるアベル。
「……お前は、何人もの兄を見てきたのか」
門番は頷いた。
「何人も」
「何人もの弟が生まれるのを見てきたのか」
「そうだ」
「そのたびに、誰かが消えたのか」
門番は、目を閉じた。
「……そうだ」
ロウは、剣の柄を握りしめた。
「誰が消えた?」
門番は答えた。
「名前を渡した者だ」
「名前を渡した者は、必ず消えるのか?」
「必ずではない」
「なら、消えない者もいたのか」
「……ああ」
「何が違った?」
門番は、長い沈黙のあとで答えた。
「弟が、兄の名前を受け取らなかったときだ」
ロウは、息を呑んだ。
「……受け取らなかった?」
「弟が、自分の名前を選んだとき。兄が、兄の名前を選んだとき。二人が、互いの人生を奪わずに生きる道を選んだとき」
門番は、旅装束の男を見た。
「そのときだけ、誰も消えなかった」
ロウは、胸の奥でアベルが動くのを感じた。
『……兄さん』
(何だ)
『僕、自分の名前を選んでいいの?』
ロウは、目を閉じた。
(ああ)
『……兄さんの名前をもらわなくても?』
(ああ)
『……兄さんの中から出ても?』
ロウは、すぐには答えられなかった。
自分の中にいるアベルが、どのような存在なのか。
彼が生まれたとき、ロウがどうなるのか。
その答えは、まだ見つかっていない。
だが、だからこそ。
(お前が、自分で選べるようにする)
ロウは心の中で答えた。
(俺は、そのためにできることを探す)
アベルは、しばらく黙っていた。
やがて、囁いた。
『……うん』
門の外では、旅装束の男が、じっとロウを見つめていた。
「……兄さん」
男が言った。
「僕も、自分の名前を選んでいいの?」
ロウは、門の上から答えた。
「ああ」
「……僕が、アベルじゃなくても?」
「ああ」
「……僕が、誰でもなくても?」
ロウは、しばらく考えた。
そして、答えた。
「誰でもないままでいたいなら、それもお前の選択だ」
男の身体が、かすかに震えた。
「……本当に?」
「ああ。ただし、誰かを傷つけたなら、その責任は引き受けろ。自分の名前を選ぶことは、何をしても許されるという意味じゃない」
男は、ゆっくりと頷いた。
「……分かった」
その瞬間、門番が叫んだ。
「駄目だ!」
ロウは、門番を見た。
「何が駄目なんだ」
「お前は、まだ何も知らない!」
門番は、初めて激しい感情を露わにした。
「名前を選べば、それで解決すると思っているのか!」
「そんなことは言っていない」
「お前は、名前を選ぶことの意味を知らない!」
門番の声が、門の上まで響いた。
「名前を選ぶということは、他の名前を選ばないということだ!」
ロウは、黙って聞いていた。
「お前がロウ・テュユールであることを選べば、アベルとしての人生は失われるかもしれない。あの子がアベルとして生まれれば、お前の人生が失われるかもしれない。どちらも選ばなければ、二人とも永遠に生まれないかもしれない!」
門番は、旅装束の男を指さした。
「俺は、何度も見てきた! 兄が弟を生まれさせるために、自分の名前を渡すところを! 弟が兄の名前を受け取って、兄の記憶を背負うところを! そして、二人のどちらが本当の人間なのか、誰にも分からなくなるところを!」
門番の声が、かすれた。
「……俺は、もう見たくないんだ」
その言葉には、怒りよりも、疲労があった。
何度も繰り返された選択。
何度も繰り返された別れ。
何度も、誰かが誰かを救おうとして、別の誰かを失ってきた。
門番は、そのすべてを見てきたのかもしれない。
「……なら、教えてくれ」
ロウは言った。
「どうすれば、誰も消えずに済む?」
門番は答えなかった。
「お前は、ずっとそこにいたんだろう。何度も同じことを見てきたんだろう。なら、教えてくれ。何が間違っていた?」
門番は、長い沈黙のあとで答えた。
「……俺が、門番であり続けたことだ」
ロウは、目を見開いた。
「俺は、門を守ることしかできなかった」
門番は、自分の手を見つめた。
「門を開ければ、何かが消える。門を閉じれば、何かが生まれない。俺は、どちらも選べなかった」
彼は、ゆっくりと顔を上げた。
「だから、ずっと門の前に立っていた」
ロウは、門番を見つめた。
「……お前は、門を守るために、何もしなかったのか」
門番は、首を横に振った。
「違う」
その声は、静かだった。
「何もしないことを、何度も選んだんだ」
ロウは、言葉を失った。
それは、逃げだったのか。
それとも、誰かを守るための選択だったのか。
まだ、分からない。
ただ、門番が一つだけ確かなことを語った。
「……俺は、もう一度だけ、選び直したい」
その瞬間、門の外の霧が動いた。
旅装束の男が、一歩前へ進んだ。
門番は、止めなかった。
男は、門の上にいるロウを見上げた。
「……兄さん」
「何だ」
「僕、もう待つのは嫌だ」
ロウは、静かに答えた。
「……そうか」
「でも、誰かを消したくない」
「……ああ」
「どうすればいい?」
ロウは、すぐには答えなかった。
そして、今まで自分が出した答えの中で、最も確信の持てない言葉を口にした。
「……一緒に考えよう」
門の外の男が、顔を上げた。
門番は、何も言わなかった。
その沈黙は、これまでのどの沈黙とも違っていた。
拒絶ではない。
諦めでもない。
ほんの少しだけ。
何かを、待っているような沈黙だった。
第六幕 門番の名前
その夜、黒門砦では、誰も眠らなかった。
ロウは門の上に残り、セラは守備隊を指揮して警戒態勢を維持した。ミラはヨハンを医務室へ戻し、オスカーは記録室で古い資料を洗い直していた。
門の外に立つ二人は、動かなかった。
門番は、時折、旅装束の男に何かを話しかけていた。
男は頷くこともあれば、首を横に振ることもあった。
しかし、二人の声は、門の内側には届かない。
ロウは、彼らを見つめていた。
「隊長」
隣に立つセラが、静かに呼びかけた。
「何だ」
「本当に、門を開けないんですか」
「開けない」
「話を聞くために、門を開ける必要はない?」
「ああ」
セラは、門の外を見た。
「……あの二人は、敵なのでしょうか」
「分からない」
「味方でしょうか」
「それも分からない」
「では、どうして、あの二人を撃たないんですか」
ロウは、少しだけ考えた。
「撃つ理由がないからだ」
セラは、彼を見た。
「ですが、危険かもしれません」
「危険かもしれない、という理由だけで攻撃するなら、俺たちはいつか、何もかも敵にしてしまう」
ロウは、門の外にいる二人を見つめた。
「だからといって、何もしないわけじゃない。門は閉じたままにする。監視を続ける。情報を集める。危険が確認されたら、そのときは対処する」
「……なるほど」
セラは頷いた。
「隊長らしい判断です」
「褒めているのか?」
「半分は」
「残り半分は?」
「また面倒な事件を抱え込んだな、と思っています」
ロウは、小さく笑った。
そのとき。
門の外で、門番が動いた。
男は、旅装束の少年の前に立ち、ゆっくりと膝をついた。
そして、少年の頭に手を置いた。
「……もう、行け」
ロウには、声が聞こえなかった。
だが、口の動きは読めた。
少年は、首を横に振った。
門番は、もう一度、何かを言った。
少年は、しばらく黙っていた。
やがて、門番の手を取った。
そして。
門番の胸に、額を押し当てた。
その瞬間、霧が大きく揺れた。
門番の身体が、光の粒となって崩れ始めた。
「……っ!」
ロウは、思わず手すりを掴んだ。
門番の輪郭が薄れていく。
腕が消え、肩が消え、胸元の制服が霧に溶けていく。
それでも、門番は少年の頭に手を置いたままだった。
少年は、泣いていた。
声は聞こえない。
だが、泣いていることだけは分かった。
やがて、門番の身体は、ほとんど消えた。
残されたのは、顔だけだった。
その顔が、初めてはっきりと見えた。
ロウは、息を呑んだ。
そこにいたのは、ロウと同じ顔の男だった。
ただし、今まで見たどの顔よりも、穏やかな表情をしていた。
男は、少年に何かを囁いた。
そして、最後に。
自分の胸元を指さした。
少年が、首を横に振る。
男は、微笑んだ。
その口が、動いた。
ロウには、言葉が聞こえた。
「……名前は、お前が選べ」
次の瞬間、門番は消えた。
霧の中に、誰もいなくなった。
旅装束の少年だけが、門の外に立っていた。
ロウは、すぐに叫んだ。
「全員、警戒を維持しろ! 門は開けるな!」
兵士たちが動く。
弩砲は構えられたまま。
見張り台の兵士たちは、少年から目を離さない。
だが、少年は動かなかった。
ただ、門を見上げていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……兄さん」
その声は、今度こそ、ロウの胸の奥から聞こえた。
『……兄さん』
二つの声が、重なった。
門の外にいる少年。
ロウの中にいるアベル。
同じ声。
同じ呼び方。
しかし、違う存在。
「……僕、もう待たなくていいの?」
少年が、問いかけた。
ロウは、すぐには答えなかった。
門番は消えた。
何を守っていたのか。
なぜ、門が作られる前からそこにいたのか。
そして、なぜ、最後に自分の名前を持たなかったのか。
その答えは、まだ分からない。
ただ、一つだけ、ロウには分かったことがある。
門番は、少年を閉じ込めていたのではない。
少年が生まれることで、何かが失われるのを恐れていた。
そして、その恐れを抱えたまま、何度も同じ場所に立ち続けていた。
「……待たなくていい」
ロウは、門の上から答えた。
「だが、今すぐ門を開けることもできない」
少年は、静かに頷いた。
「……うん」
「俺たちは、まだ何も知らない。お前が誰なのかも。お前が生まれたら、何が起きるのかも」
「……うん」
「だから、調べる。お前のことも、門番のことも。誰かが消えなければならないという仕組みが、本当に変えられないものなのかも」
少年は、顔を上げた。
「……兄さんが、僕を忘れなければ」
ロウは、胸の奥が痛むのを感じた。
「忘れない」
少年は、少しだけ笑った。
その笑顔は、アベルの笑顔に似ていた。
しかし、完全には同じではなかった。
「……じゃあ、僕も、兄さんを忘れない」
その言葉を最後に、少年の姿が霧に溶けた。
門の外には、何も残らなかった。
足跡もない。
衣服の切れ端もない。
認識票もない。
ただ、門の前の地面に、小さな文字が刻まれていた。
ロウは、望遠鏡でその文字を確認した。
門番の名前:返還済み。
その下に、さらに一行。
門番の記録:継承者へ移行。
ロウは、懐から認識票を取り出した。
先ほど拾った金属片。
表面には、相変わらず名前がない。
しかし、裏面の文字が変わっていた。
待。
その一文字が、消えていた。
代わりに、短い文章が刻まれている。
門を守る者は、門の外にいる者を忘れてはならない。
ロウは、認識票を握りしめた。
門番は消えた。
少年も消えた。
だが、事件が終わったとは思えなかった。
むしろ、何かが始まったように感じた。
「……セラ」
「はい」
「今夜の記録をすべて保管しろ。門の外にいた二人の姿、消えた瞬間、最後に残された文字。見た者全員から、個別に証言を取れ」
「承知しました」
「それから、門番の記録を探す。百四十七年前より前のものも含めてだ」
セラは頷いた。
「分かりました」
ロウは、門の外を見つめた。
「……あいつは、何者だったんだろうな」
セラは、すぐには答えなかった。
やがて、静かに言った。
「少なくとも、最後には、自分で選んだんだと思います」
ロウは、彼女を見た。
「何を?」
「門番であり続けることをやめることを」
その言葉を聞き、ロウは目を閉じた。
門番は、最後に名前を持った。
その名前は、ロウ・テュユール。
だが、門番が消える瞬間、ロウの名前が認識票に刻まれることはなかった。
つまり、門番はロウの名前を奪わなかった。
ロウを自分の代わりにしなかった。
それは、今までの継承とは違う結果だった。
「……まだ、分からないことばかりだな」
ロウは呟いた。
胸の奥で、アベルが囁いた。
『……兄さん』
「何だ」
『あの人、最後に笑っていたね』
「ああ」
『……どうしてだろう』
ロウは、門の向こうを見つめた。
「……分からない」
それから、少しだけ考えて、続けた。
「だが、いつか分かるかもしれない」
アベルは、静かに頷いた。
『……うん』
黒門砦の夜は、まだ終わらない。
門番は消えた。
だが、門は閉じたままだ。
そして、門の向こうには、まだ何かが残っている。




