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衛兵は眠れない  作者: 神代シン
第一章 眠らない門番

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第七話「名前を持たない兄」

第一幕 兄のいない朝

「隊長。ハンスが消えました」


朝一番に聞く報告としては、最悪の部類だった。


ロウは書きかけの報告書から顔を上げた。


「……もう一度言え」


報告に来た兵士は、緊張した面持ちで背筋を伸ばした。


「ハンス・メルツが、医務室から消えました」


「昨夜の当直は誰だ」


「私と、ヨハンです」


「部屋の鍵は」


「内側から掛かっていました」


「窓は?」


「鉄格子が残っています。破られた形跡はありません」


「床、天井、壁。隠し通路の可能性は?」


「確認しました。人が通れる隙間はありません」


ロウはペンを置いた。


「本人が出ていったのか、それとも、本人がいたという事実そのものが消えたのか」


兵士は、答えられなかった。


「……すみません」


「謝るな。分からないなら、分からないと言え」


ロウは立ち上がった。


「医務室へ案内しろ」


黒門砦の廊下は、朝から騒がしかった。


兵士たちは普段どおりに歩いている。炊事場からは食事の匂いが流れ、門番交代の鐘が鳴り、荷車の車輪が石畳を軋ませていた。


一見すれば、何も変わらない朝だった。


だが、ロウには分かった。


兵士たちが、互いの顔を確かめている。


名前を呼ばれた者は、呼んだ者を見つめ返す。


そして、ときどき。


誰かが自分の胸元を押さえて、何かを確かめるような仕草をしていた。


自分が、自分であることを。


「隊長」


先導する兵士が、小さく言った。


「昨夜から、妙なことが起きています」


「ハンスの失踪以外にも?」


「はい」


「話せ」


「……兵士たちが、同じ夢を見たと言っているんです」


ロウは足を止めた。


「どんな夢だ」


「黒い門の前に、男が一人立っている夢です」


「顔は?」


「覚えていないそうです」


「服装は?」


「古い衛兵の制服だった、と」


「武器は?」


「持っていなかったそうです」


ロウは再び歩き始めた。


「それで?」


兵士は、ためらった。


「夢の中で、その男が言ったそうです」


「何と」


「――お前は、ここに残れ」


ロウの足音が止まった。


その言葉は、すでに何度も聞いている。


半年前、地下修繕に参加したベルンが、自分と同じ顔の男から聞いた言葉。


ハンスが兄の記憶として語った言葉。


そして、ロウ自身の知らない記憶に現れた、もう一人の自分が口にした言葉。


「……夢を見た兵士は何人だ」


「今のところ、七人です」


「全員、同じ夢か?」


「細部は違います。ただ、男の言葉だけは全員一致しています」


ロウは考え込んだ。


七人が同じ夢を見た。


偶然ではない。


しかし、夢を共有させる魔物がいる可能性もある。


夢を見せる能力。


記憶を操作する能力。


あるいは、砦の古い仕組みが、兵士たちの意識に何かを送り込んでいるのか。


「夢を見た兵士を全員集めろ。ただし、互いに話をさせるな」


「承知しました」


「証言は一人ずつ取る。夢の内容を絵に描かせろ。男の身長、立ち位置、門の形、周囲の景色。覚えているものはすべて記録する」


「はい」


「それから、誰にも夢の内容を教えるな」


兵士が敬礼して走り去る。


ロウは医務室へ向かった。


廊下の窓から、黒門砦の外壁が見えた。


その向こうには、魔物の領域が広がっている。


人間の国を守るために築かれた砦。


人間と魔物の境界を隔てる門。


だが、百四十七年前の記録によれば、この砦には、もう一つの役割があった。


世界の境界を固定すること。


ロウは、母の墓で見た四本の石柱を思い出した。


四つの名前。


そのうち、一つは削り取られていた。


名前を失った者は、どこへ行くのか。


名前を返された者は、何になるのか。


そして、名前を持たない者は。


「……お前は、誰なんだ」


ロウは、誰にも聞こえない声で呟いた。


その問いに答える者は、まだいなかった。


第二幕 空になったベッド

医務室に着くと、ミラが腕を組んで待っていた。


「遅いです」


「失踪の報告を受けたばかりだ」


「分かっています。だから、あなたが来る前に調べられることは調べました」


ミラは、ハンスが使っていたベッドを指した。


シーツは乱れていない。


枕も、毛布も、昨夜のままだ。


「彼は眠っていたんですか?」


「当直の証言では、眠っていました。深夜に一度、目を覚ましたそうです」


「何か言った?」


「『兄さん』と呼んだそうです」


ロウはベッドのそばに立った。


「そのあと、どうなった」


「兵士が声を掛けると、ハンスは『ここにいる』と答えたそうです。それから再び横になり、朝まで何も起きなかった」


「それで、朝になったら消えていた」


「はい」


ロウは床を見た。


足跡はない。


窓の鉄格子にも異常はない。


壁にも穴はない。


扉の鍵は内側から掛かっていた。


まるで、ハンスは最初からこの部屋にいなかったかのようだった。


「……ベッドの下は?」


「確認しました」


「壁の中は?」


「確認しました」


「天井裏は?」


「確認しました」


「排水路は?」


「確認しました」


「それでも見つからない?」


ミラは頷いた。


「それどころか、もっと奇妙なことがあります」


彼女は、机の上に置かれた診療記録を差し出した。


「これを見てください」


記録には、ハンスの名前が書かれている。


年齢、出身地、身体的特徴、既往歴。


しかし、名前の欄だけが、何度も書き直されていた。


ハンス・メルツ。


ベルン・ハルト。


ハンス・メルツ。


ベルン・ハルト。


そして、最後の行。


氏名:該当者なし。


「……誰が書いた?」


「私です」


ミラは、苦い顔をした。


「朝、記録を確認しようとしたら、ハンスの名前が読めなくなっていたんです。最初はインクが滲んだのかと思いました。でも、違いました」


彼女は別の紙を取り出した。


「私の手で書き直したんです。ハンス・メルツと。ところが、数分後に確認すると、名前が変わっていました」


「ベルン・ハルトに?」


「はい。それから、またハンス・メルツに戻り、最後には、誰の名前でもなくなった」


ロウは紙を受け取った。


インクに異常はない。


文字も正常だ。


しかし、氏名の欄だけ、何かが書かれていた痕跡が薄く残っている。


「……記録そのものが、名前を維持できなくなっている」


「そう考えています」


ミラは声を落とした。


「隊長。私は医師です。患者の身体を診て、病気を調べ、治療する。それが私の仕事です」


「知っている」


「ですが、今の現象は、身体の問題ではありません。記憶だけでもない。記録だけでもない」


彼女はロウを見つめた。


「この世界が、ハンスという人間を認識できなくなっているように見えるんです」


ロウは、記録を机に置いた。


「……世界が、人間を認識できなくなる?」


「言い方が悪いのは分かっています。でも、ほかに説明がつかないんです」


ロウはベッドに目を戻した。


昨夜、ハンスはここにいた。


兄の記憶を取り戻した。


名前を思い出した。


そして、ロウの中にいる存在について語った。


その直後に、消えた。


「ミラ。ハンスが最後に言ったことを、正確に教えてくれ」


ミラは記録を確認した。


「『兄さん』と呼んだあと、当直兵が声を掛けると、『ここにいる』と答えました」


「それ以外は?」


「……もう一つあります」


「何だ」


「当直兵が、ハンスに名前を尋ねたそうです」


「それで?」


「ハンスは、こう答えたそうです」


ミラは一度、目を閉じた。


「『名前を呼ばないで。兄さんが、僕を見つけてしまう』」


ロウは、ゆっくりと顔を上げた。


「……誰が、ハンスを見つけるんだ」


ミラは答えなかった。


その瞬間、医務室の奥で、金属が落ちる音がした。


二人が振り向く。


誰もいない。


だが、机の上に置かれていた水差しが、床に落ちていた。


そして、床にこぼれた水の中に。


文字が浮かび上がっていた。


兄を探すな。


次の瞬間、水が染み込むように消えた。


第三幕 ベルン・ハルトという名前

ロウは、ベルンを記録室に呼び出した。


ベルンは、昨夜からほとんど眠っていないらしい。目の下には隈があり、右手の人差し指は、古い怪我のためにわずかに曲がっていた。


ロウは、机の上に三枚の記録を並べた。


ハンス・メルツ。


ダレン・コル。


エルナ・ヴァイス。


「三人とも、名前を失った」


ベルンは頷いた。


「はい」


「そして、三人とも、過去にベルン・ハルトという名前を持っていた」


「……はい」


「お前は、どう思う」


ベルンはすぐに答えなかった。


自分の指を見つめ、しばらくしてから口を開いた。


「最初は、俺の名前を誰かが奪ったんだと思いました」


「今は?」


「分かりません」


ベルンは、少しだけ笑った。


「名前を奪われたのか、名前を与えられたのか。俺がベルン・ハルトだったのか、それとも、ベルン・ハルトという名前を持っただけなのか」


彼は指を曲げた。


古傷が引きつる。


「隊長。俺には、覚えていることがあります」


「話せ」


「半年前、地下の修繕に参加しました。そこで、自分と同じ顔の男を見た」


「エドリック・ヴェインか?」


「そう呼ばれていた男かもしれません。ただ、俺には、名前が分かりませんでした」


ベルンは目を閉じた。


「男は、俺に言いました。『お前は、ここに残れ』と」


「その言葉の前後は?」


「……思い出せません」


「男は、何をしていた?」


「扉を見ていました」


「どの扉だ」


「第三の封印門です」


ロウは頷いた。


「その男は、扉を開こうとしていたのか?」


「違います」


ベルンは、はっきりと答えた。


「閉じようとしていたんです」


ロウの目が細くなった。


「……閉じようとしていた?」


「はい。扉の前に立って、何かを押さえていました。まるで、扉の向こうから誰かが出てこないように」


「そのあと、お前はどうなった」


「気がついたら、排水路のそばにいました」


ベルンは自分の手を見た。


「そのとき、俺は自分の名前を忘れていました」


「ベルン・ハルトという名前をか?」


「いいえ」


ベルンは、ロウを見た。


「自分の名前を忘れたのではありません。自分に名前があることを、忘れていたんです」


記録室が静まり返った。


ロウは、ゆっくりと問いかけた。


「それで、どうやって名前を思い出した?」


「隊長が呼んでくれました」


「……俺が?」


「はい。あなたは俺を見つけて、『ベルン』と呼んだ」


ベルンは、苦しそうに笑った。


「その瞬間、俺は自分が誰なのか分かった気がしました」


「気がした?」


「はい。今でも、本当に俺の名前がベルン・ハルトなのかは分かりません」


彼は、机の上の記録を見つめた。


「ただ、隊長がそう呼んでくれたから、俺はベルンとしてここにいるんです」


ロウは、返事をしなかった。


名前とは、誰かが呼ぶためのもの。


だが、この砦では、名前はそれ以上の意味を持っている。


名前を持つことで、世界に存在を認められる。


名前を失えば、自分が誰なのか分からなくなる。


そして、誰かが名前を返すことで、別の誰かがその名前を失うかもしれない。


「ベルン」


「はい」


「お前は、自分が誰なのか知りたいか?」


ベルンは迷わなかった。


「知りたいです」


「たとえ、今までの記憶が全部、別人のものだったとしても?」


「……はい」


「たとえ、お前がベルン・ハルトではなかったとしても?」


ベルンは、しばらく考えた。


「それでも、知りたいです」


彼は、右手の人差し指を見た。


「俺が誰だったのかを知ることと、今の俺が誰なのかを決めることは、別だと思うからです」


ロウは、その言葉を心に留めた。


それは、第四の扉で自分が答えたことと、どこか似ていた。


名前を持つ者は誰か。


その答えは、過去の記録だけでは決まらない。


自分が何者であるかを選ぶこと。


そして、その選択の結果に責任を持つこと。


「……分かった」


ロウは、記録をまとめた。


「お前の名前を、俺が勝手に決めることはしない」


ベルンは顔を上げた。


「隊長……」


「ただし、今のお前がベルンと呼ばれることを望むなら、俺はそう呼ぶ」


ベルンは、ゆっくりと頷いた。


「ありがとうございます」


そのとき、ロウの懐に入れていた古い出生記録が、かすかに震えた。


ロウは書類を取り出した。


紙の表面に、見覚えのない文字が浮かび上がっている。


ベルン・ハルト。


その下に、新たな一文。


継承者の確認を開始します。


ベルンが、息を呑んだ。


「……隊長」


「分かっている」


ロウは書類を裏返した。


文字は、紙の裏側にも浮かび上がっていた。


次の継承者:ロウ・テュユール。


その瞬間、ベルンが膝をついた。


「……あ、ああ……」


彼は頭を抱えた。


「兄さん……!」


ロウが駆け寄る。


「ベルン!」


「兄さん、やめてくれ……!」


ベルンは、ロウを見ていなかった。


彼の視線は、ロウの背後に向けられていた。


「俺を、置いていかないでくれ……!」


ロウが振り返る。


誰もいない。


ただ、記録室の奥にある古い扉が、わずかに開いていた。


その向こうから、誰かが囁いた。


「……お前は、ここに残れ」


第四幕 記録にない男

古い扉の向こうには、廊下があった。


ロウはその廊下を知っていた。


正確には、知っているはずがなかった。


黒門砦の地下には、封鎖された区画がいくつもある。建設当時の構造を保ったまま埋め戻された通路、崩落した地下室、地図から抹消された保管庫。


しかし、この廊下は違う。


石壁の高さ。


床の継ぎ目。


天井に等間隔で並ぶ鉄の輪。


壁に設置された古い灯火台。


そのすべてが、ロウの知らない記憶を刺激していた。


まるで、以前にもここを歩いたことがあるかのように。


「隊長、待ってください!」


ベルンの声が背後から聞こえた。


彼はまだ顔色が悪かったが、どうにか立ち上がっていた。


「お前はここに残れ」


ロウは言った。


ベルンが顔を上げる。


「……それは、俺が聞いた言葉です」


「だからこそだ。今のお前は、何かに反応している。無理をするな」


「ですが……」


「これは命令だ」


ベルンは唇を噛んだ。


その表情を見て、ロウは言い直した。


「いや。命令ではない。俺の判断だ。お前がここに来るかどうかは、自分で決めろ」


ベルンは、しばらくロウを見つめていた。


やがて、ゆっくりと首を横に振った。


「……行きます」


「理由は?」


「俺が誰なのか、知りたいからです」


ロウは頷いた。


「分かった。だが、何か異常が起きたら、すぐに引き返せ」


二人は廊下に足を踏み入れた。


一歩。


二歩。


三歩。


そのたびに、壁の灯火台へ青白い光が灯っていく。


火ではない。


煙もない。


ただ、石の表面に刻まれた文字が光り、周囲を照らしている。


ベルンが足を止めた。


「……隊長」


「何だ」


「この文字、読めますか?」


ロウは壁を見た。


見たことのない文字だった。


しかし、不思議なことに意味だけは理解できた。


通過者の名前を確認せよ。


その下には、別の文章。


名前を持たない者は、記録に触れるな。


さらに奥には、こう刻まれていた。


記録に触れた者は、記録の一部となる。


ロウは目を細めた。


「……記録に触れた者は、記録の一部となる、か」


「どういう意味でしょう」


「分からない。だが、ここが単なる通路ではないことは確かだ」


ロウは壁に触れようとして、手を止めた。


名前を持たない者は、記録に触れるな。


その警告が、妙に気になった。


ベルンは、すでに壁を見つめていた。


「……俺は、名前を持っているんでしょうか」


ロウは彼を見た。


「今のお前は、ベルンと呼ばれることを望んでいる」


「はい」


「なら、俺はお前をベルンと呼ぶ」


「それだけで、いいんでしょうか」


「それだけで十分だとは言わない。だが、少なくとも、誰かが勝手にお前の名前を決める理由にはならない」


ベルンは、少しだけ表情を和らげた。


「……ありがとうございます」


二人は、さらに奥へ進んだ。


廊下の突き当たりには、扉があった。


黒い石でできた扉。


表面には、何も刻まれていない。


ただ、扉の中央に小さなくぼみがあり、その周囲に四つの円が描かれていた。


ロウは、四つの円を見つめた。


母の墓を囲んでいた四本の石柱。


第四の扉に刻まれていた四つの名前。


そして、削り取られていた四つ目の名前。


「……ここにも、四つある」


ベルンが扉に近づいた。


その瞬間、扉の表面に文字が浮かび上がった。


名前を述べよ。


ベルンは、反射的に答えた。


「ベルン・ハルト」


扉は沈黙した。


文字が変わる。


その名前は、誰のものか。


ベルンは口を開きかけ、閉じた。


ロウが代わりに答えた。


「今ここにいるベルンのものだ」


扉は沈黙した。


その証明は。


「本人がそう名乗った」


沈黙。


本人とは何か。


ロウは、わずかに目を細めた。


「自分が誰であるかを考え、選び、その結果を引き受ける者だ」


扉の文字が揺れた。


長い沈黙の後、中央のくぼみが淡く光った。


しかし、扉は開かない。


新たな文字が浮かび上がった。


もう一人の名を述べよ。


ベルンが、ロウを見た。


「……隊長?」


ロウは、扉の前に立った。


「ロウ・テュユール」


その瞬間、廊下全体が震えた。


壁の灯火が、一斉に消える。


扉の表面に、無数の文字が現れた。


名前。


名前。


名前。


何百もの名前が、石の上を流れていく。


その中に、ロウは一つの名前を見つけた。


エリナ・テュユール。


そして、その隣に。


アベル。


さらに、その下に。


名を持たない兄。


扉が開いた。


向こう側には、小さな部屋があった。


中央に机が一つ。


椅子が二つ。


そして、机の上には、一冊の本が置かれていた。


表紙には、何も書かれていない。


ロウが近づくと、本の表紙に文字が浮かび上がった。


門番の記録。


その下に、さらに一行。


最初の門番は、名前を持たなかった。


第五幕 最初の門番

部屋には、窓がなかった。


扉以外に出口もない。


壁は黒い石で造られているが、表面には無数の細い線が走っていた。


文字のようにも見える。


地図のようにも見える。


あるいは、誰かの記憶を図形にしたものなのかもしれない。


ロウは机の前に立った。


「……最初の門番」


ベルンが本を見つめる。


「記録には、そんな人物は存在しません」


「だから、ここに記録があるんだろう」


ロウは本を開いた。


最初のページには、何も書かれていなかった。


二ページ目も。


三ページ目も。


十ページ目まで、すべて白紙だった。


しかし、十一ページ目を開いた瞬間、文字が浮かび上がった。


門番は、門が作られる前からそこにいた。


ロウは続きを読む。


彼は、門を守るために選ばれたのではない。


彼がそこにいたため、門が作られた。


ベルンが息を呑む。


「……順序が逆です」


「ああ」


普通なら、門があり、門を守る者がいる。


だが、この記録では、門番が先に存在し、その後に門が作られたことになっている。


ロウはページをめくった。


門番は、誰の名前も持たなかった。


誰の子でもなく、誰の兄でもなく、誰の敵でもなかった。


彼は、世界の境界が生まれる前から、境界の外にいた。


その下には、短い記述が続いていた。


人間は彼を魔物と呼んだ。


魔物は彼を人間と呼んだ。


神々は彼を道具と呼んだ。


彼自身は、何も名乗らなかった。


ベルンは、顔を青ざめさせた。


「……隊長。これでは、まるで……」


「人間でも魔物でもない存在、ということか」


「はい」


ロウはページをめくった。


次の記録は、短かった。


ある日、門番は一人の子供を見つけた。


子供は名前を持っていた。


しかし、名前の持ち主は、すでに死んでいた。


門番は子供に名前を返そうとした。


だが、名前を返せば、子供は消える。


名前を返さなければ、子供は永遠に生まれない。


ロウの指が止まった。


「……生まれない?」


その言葉は、母の墓で見た帳簿と同じだった。


ロウ・テュユールは、まだ出生していない。


ロウは、ページの続きを読んだ。


門番は、選択を迫られた。


子供を生まれさせるか。


それとも、名前を持たないまま、子供を存在させ続けるか。


その先は、破り取られていた。


ロウは本を閉じた。


「……この記録を書いた者は、結末を隠している」


「なぜでしょう」


「分からない。だが、記録が破られているということは、誰かが結末を知っていた。そして、残したくなかった」


ベルンは、机の周囲を調べていた。


「隊長。椅子の下に、何かあります」


ロウが近づくと、床に小さな金属片が落ちていた。


古い認識票だった。


表面には、名前を刻むための空欄がある。


しかし、名前はない。


裏側には、短い文章が刻まれていた。


門番は、最後に名前を持った。


その下に、もう一行。


その名前は、ロウ・テュユール。


ロウは、認識票を握りしめた。


「……俺が、最初の門番だったのか?」


ベルンは答えなかった。


そのとき、部屋の奥から声がした。


「違う」


二人が振り向く。


椅子の一つに、男が座っていた。


いつからそこにいたのか分からない。


黒い衛兵服。


古びた外套。


武器は持っていない。


顔は、影に隠れている。


ただ、その姿を見た瞬間、ロウは確信した。


この男を、知っている。


いや、知っているはずがない。


男は、ゆっくりと顔を上げた。


その顔は。


ロウと、同じだった。


ただし、目が違う。


ハンスが語ったとおり、ひどく疲れ切った目だった。


男はロウを見て、静かに言った。


「お前は、俺じゃない」


ロウは、剣の柄に手を掛けた。


「……お前は誰だ」


男は答えた。


「俺は、お前の兄だ」


第六幕 兄は弟を覚えていない

ロウは剣を抜かなかった。


目の前の男は、ロウと同じ顔をしている。


背格好も、肩の幅も、鼻筋も、顎の形も同じだ。


ただ、目だけが違った。


ロウの目には、まだ怒りがあった。


疑いがあった。


知りたいという欲求があった。


だが、男の目には、何もなかった。


正確には、何も残っていないように見えた。


長い年月の果てに、喜びも、悲しみも、怒りも、すべてを使い果たしてしまった者の目だった。


「……俺の兄だと?」


ロウは尋ねた。


「そうだ」


「名前は」


男は答えなかった。


「お前は、名前を持たない兄なのか」


「そう呼ばれているのか」


「記録にそう書かれていた」


「なら、記録がそう決めたんだろう」


男は、机の上の本を見た。


「記録は、いつだって遅い。人が生きたあとに名前を付け、死んだあとに理由を付ける。誰かが泣いたあとに、その涙を記録する」


男はロウを見た。


「だが、記録は泣かない」


ロウは、男の言葉を聞いていた。


この男は、何かを知っている。


しかし、その言葉をそのまま信じるわけにはいかない。


母の声も、ベルンと同じ顔をした者も、記録から再現された人格である可能性がある。


この男も同じかもしれない。


「お前が本当に俺の兄なら、証拠を見せろ」


男は頷いた。


「何を知りたい」


「俺の母の名前」


「エリナ・テュユール」


「俺が十二歳になるまで、母と暮らしていた村の名前」


男は答えた。


ロウが知っている名前だった。


「母が死んだとき、俺が最後に聞いた言葉は?」


男は、しばらく黙った。


「……覚えていない」


ロウの指が、剣の柄を握り直した。


「覚えていない?」


「俺は、お前のすべてを知っているわけじゃない」


「兄だと言っただろう」


「兄だからといって、弟の人生をすべて知っているわけじゃない」


男は目を伏せた。


「それに、俺は……お前の兄だったかどうかも、確信がない」


ロウは言葉を失った。


男は続けた。


「お前の中にいるアベル。あれは、お前の弟だ」


「……なぜ分かる」


「俺が、そう願ったからだ」


「願った?」


「弟が生まれてほしいと願った。名前を持ってほしいと願った。自分の人生を、自分のものとして生きてほしいと願った」


男は、自分の手を見つめた。


「だが、俺は弟に名前を渡した」


ロウは、母の墓にあった帳簿を思い出した。


第一の名。


第二の名。


第三の名。


第四の名。


名前を返すたびに、誰かが別の誰かになる。


名前を受け継ぐことで、別の人間の記憶が流れ込む。


「……お前が、俺に名前を渡したのか」


「そうかもしれない」


「なぜ、そうかもしれない、なんだ」


男は、苦しそうに笑った。


「俺は、自分の名前を忘れたんだ」


ロウは、何も言わなかった。


「自分の名前を失った者は、別の名前を受け取ることができる。だが、名前を受け取った者は、その名前に紐づく記憶も受け取る」


男は、胸に手を当てた。


「俺は、何度も名前を受け取った。何度も名前を返した。そのたびに、俺の記憶は変わっていった」


「……」


「気がついたとき、俺には兄の記憶があった。弟の記憶もあった。だが、どちらが俺の人生だったのか、分からなくなっていた」


男はロウを見つめた。


「俺は、お前を弟だと思っている。だが、それが本当に俺の記憶なのか、誰かから受け取った記憶なのか、もう分からない」


「それでも、お前は俺の兄だと言うのか」


「そうだ」


男は迷わなかった。


「俺がそう思うからだ」


その答えは、ロウが第四の扉に答えたものと似ていた。


名前を持つ者は誰か。


自分が誰であるかを選び、その選択に責任を持つ者。


だが、男の言葉には、もう一つの意味があった。


記憶が本物かどうか分からなくても、その記憶に基づいて誰かを愛することはできる。


自分の過去を証明できなくても、誰かを兄と呼ぶことはできる。


そして、誰かに兄と呼ばれたからといって、その人間が本当に兄であるとは限らない。


「……お前は、俺に何を求めている」


ロウは尋ねた。


男は答えた。


「何も」


「嘘をつくな」


「本当だ」


「なら、なぜ現れた」


男は、長い沈黙のあとで言った。


「お前が、俺を探しているからだ」


「俺は、お前のことを知らなかった」


「だが、お前は俺の名前を探している」


「お前には名前がないんだろう」


男は頷いた。


「だから、お前が俺に名前を付けることを恐れている」


ロウは眉をひそめた。


「……何?」


「お前が俺を兄だと認めれば、俺は兄という名前を持つ。お前が俺を敵だと認めれば、俺は敵という名前を持つ。お前が俺を死者だと認めれば、俺は死者になる」


男は、ゆっくりと立ち上がった。


「そして、お前が俺を自分自身だと認めれば……」


その先は、言わなかった。


だが、ロウには分かった。


自分の中にいるアベル。


自分の出生記録。


母の墓。


名前を返す者の記録。


そして、目の前の男。


それらは、すべて「誰が誰なのか」という問いに結びついている。


「……俺は、お前に名前を付けない」


ロウは言った。


「お前が自分で名乗れ」


男は、初めて驚いた顔をした。


「俺に、名前を?」


「ああ」


「俺が、自分で?」


「ああ」


男は、しばらく黙っていた。


やがて、口を開いた。


「……俺は」


声が震えた。


「俺は、弟を守りたかった」


それは、名前ではなかった。


ただの願いだった。


「弟が生まれてほしかった。俺と同じように、誰かに名前を呼ばれてほしかった。誰かに、そこにいていいと言われてほしかった」


男は顔を伏せた。


「だが、弟が生まれるには、俺の名前が必要だった」


ロウの胸が痛んだ。


「だから、名前を渡したのか」


「そうだ」


「それで、お前はどうなった」


男は、ゆっくりと首を横に振った。


「……分からない」


「……」


「俺が消えたのか。俺が生まれ直したのか。俺が弟になったのか。それとも、弟が俺になったのか」


男は、ロウを見つめた。


「もう、分からないんだ」


ロウは、剣から手を離した。


「……なら、これから調べる」


男は、目を見開いた。


「俺が誰なのか。お前が誰なのか。アベルが何者なのか。母が何をしたのか」


ロウは一つずつ、言葉にした。


「全部、調べる。誰かの記憶を正解だと決めつけずに。記録を真実だと決めつけずに。お前の願いも、母の願いも、アベルの願いも、全部聞いたうえで決める」


男は、何かを言おうとした。


だが、その前に、部屋の壁が鳴った。


――ごうん。


床が揺れた。


机の上の本が、勝手に開く。


ページがめくられ、文字が浮かび上がる。


名前を持たない兄が、名を求めた。


名を求めた者は、継承者となる。


継承者は、第四の名を受け取る。


第四の名が返されるとき、最初の名は消える。


ロウは、男を見た。


男は、悲しそうに笑った。


「……やはり、お前は俺を見つけてしまった」


その身体が、少しずつ透け始めた。


「待て!」


ロウが手を伸ばす。


男は後ずさった。


「俺の名前を呼ぶな」


「お前には名前がないんだろう!」


「だからだ!」


男の声が、部屋に響いた。


「名前を呼ばれたら、俺は何かになってしまう!」


彼は、ロウを見つめた。


「頼む。今は、俺を何者にもするな」


そして、消えた。


椅子だけが残った。


机の上の本は、最後のページを開いていた。


そこには、こう記されていた。


名前を持たない兄は、弟を守るために、弟の中へ入った。


その下に、さらに一行。


だが、弟はまだ、生まれていない。


ロウは、本を閉じた。


「……アベル」


胸の奥から、声がした。


『……うん』


「お前は、あの男を知っているのか」


長い沈黙。


『……知っている気がする』


「どんな記憶だ」


『……僕が生まれる前の記憶』


「お前は、生まれる前のことを覚えているのか?」


『ううん』


アベルは、少しだけ迷ってから答えた。


『でも、僕が生まれる前に、誰かが僕を守ってくれたことだけは、分かるんだ』


ロウは目を閉じた。


「……そうか」


『兄さん』


「何だ」


『僕が生まれたら、あの人はどうなるの?』


ロウは答えられなかった。


その問いに答えられる者は、まだ誰もいない。


第七幕 名前を呼ぶな

ロウが記録室へ戻ると、セラが待っていた。


「隊長。どこへ行っていたんですか」


「地下の記録区画だ」


「……また、一人で?」


「ベルンと一緒だった」


「それで、ベルンは?」


「後ろにいる」


振り返ると、ベルンが廊下の向こうから歩いてきた。


顔色はまだ悪いが、足取りはしっかりしている。


セラは二人を交互に見た。


「説明してください」


ロウは、地下で見つけた記録と、名前を持たない男について話した。


セラは途中で何度か質問したが、最後まで遮らなかった。


話を聞き終えると、彼女は深く息を吐いた。


「……つまり、隊長には、顔が同じ兄がいるかもしれない」


「ああ」


「その兄は、自分の名前を忘れている」


「ああ」


「そして、隊長の中にいるアベルは、その兄の記憶を持っているかもしれない」


「そうだ」


「……普通の事件を一つくらい担当していただけませんか」


ロウは、少しだけ笑った。


「俺もそうしたい」


「本当にそう思っていますか?」


「思っている」


「では、次の調査には私を同行させてください」


「分かった」


セラは、意外そうにロウを見た。


「……今回は、すぐに了承するんですね」


「お前が正しいからな」


「……そうですか」


彼女は少しだけ視線を逸らした。


「それなら、最初からそう言ってください」


ロウは机に向かい、調査記録を開いた。


「まず、地下区画の構造を再調査する。次に、夢を見た七人の証言を照合する。それから、名前を失った三人の記憶を、互いに影響しないように確認する」


「ハンスは、まだ見つかっていません」


「ああ」


「……あの人は、戻ってくるでしょうか」


ロウは、少し考えた。


「戻ってくる可能性はある」


「根拠は?」


「名前を失った者が、必ず消えるわけではない。ベルンも、一度は名前を失っている」


「ですが、ハンスは『兄が自分を見つけてしまう』と言っていました」


「ああ」


ロウは、窓の外を見た。


「ハンスは、兄に見つかることを恐れていた。なら、兄がハンスを探している可能性がある」


「その兄が、隊長の中にいる?」


「……そうかもしれない」


セラは、黙り込んだ。


やがて、彼女は小さく尋ねた。


「隊長は、怖くないんですか」


ロウは振り返った。


「何がだ」


「自分の中に、別の誰かがいるかもしれないことが」


ロウは答えなかった。


怖くないわけがない。


自分の記憶が、自分のものではないかもしれない。


自分の名前が、誰かから受け継いだものかもしれない。


母の愛情さえ、誰かの記憶から作られたものかもしれない。


それでも。


「……怖いさ」


ロウは、正直に答えた。


「だが、怖いからといって、確かめない理由にはならない」


セラは、静かに頷いた。


「……そうですね」


そのとき、廊下の向こうから、兵士が駆けてきた。


「隊長! 夢を見た兵士たちの証言が揃いました!」


「何が分かった」


兵士は、息を整えてから答えた。


「七人全員が、同じ門を見たと言っています」


「黒門砦の門か?」


「いいえ」


兵士は、首を横に振った。


「砦の門ではありません。もっと古い門です。石でできていて、中央に四つの円が刻まれていたそうです」


ロウは、セラを見た。


四つの円。


地下の黒い扉と同じだった。


「それから?」


兵士は、手にしていた紙を差し出した。


「夢の中の男について、全員が同じことを言っています」


ロウは紙を受け取った。


そこには、兵士たちの証言が記されていた。


男は、門の前に立っていた。


男は、武器を持っていなかった。


男は、誰かを待っていた。


そして、最後の一文。


男は、自分の名前を呼ばれることを恐れていた。


ロウは紙を置いた。


「……そうか」


兵士は、さらに言葉を続けた。


「もう一つあります」


「何だ」


「夢を見た兵士のうち、一人が、今朝になって自分の名前を忘れました」


ロウは立ち上がった。


「誰だ」


「ヨハン・レイスです」


「今、どこにいる」


「兵舎です」


「すぐに保護しろ。誰にも名前を呼ばせるな。本人が自分の名前を名乗るまで、記録の照合も止めろ」


兵士は敬礼して走り去った。


セラが剣を取った。


「隊長、私も行きます」


「ああ」


ロウは、机の上の記録をまとめた。


名前を持たない兄。


記録にない門番。


夢の中の男。


そして、名前を失い始めた兵士。


それらは、同じ事件の一部なのか。


それとも、別々の事件が、同じ仕組みによって引き起こされているのか。


ロウには、まだ分からなかった。


だが、一つだけ確かなことがある。


この砦では、誰かの名前を呼ぶことそのものが、危険になり始めている。


第八幕 門番は、眠らない

ヨハン・レイスは、兵舎の隅に座っていた。


両膝を抱え、壁に背を預けている。


周囲には、三人の兵士が立っていた。


誰も、彼に話しかけようとしない。


ロウが到着すると、当直兵が駆け寄ってきた。


「隊長。ヨハンは、自分の名前を思い出せません」


「いつからだ」


「今朝、夢から覚めた直後です。本人は、夢の中で誰かに名前を呼ばれたと言っています」


ロウはヨハンの前にしゃがんだ。


「……俺の声が聞こえるか」


ヨハンが顔を上げる。


「はい」


「自分の名前は分かるか」


「……分かりません」


「自分が誰なのかは?」


「兵士です」


「どこの兵士だ」


「黒門砦の兵士です」


「何を守っている」


「門です」


「誰から守っている」


ヨハンは、しばらく考えた。


「……分かりません」


ロウは、彼の目を見た。


恐怖はある。


混乱もある。


だが、意識は正常に見える。


「夢の中で、何を見た?」


ヨハンは唇を震わせた。


「門の前に、男がいました」


「どんな男だ」


「分かりません。顔が……」


「顔がどうした」


「顔が、見えないんです」


ロウは、静かに頷いた。


「その男は、何と言った?」


ヨハンは、両手で耳を塞いだ。


「……名前を呼ぶな、と」


「誰に向けて言った?」


「分かりません」


「そのあと、どうなった」


ヨハンの呼吸が速くなる。


「男が……門を開けたんです」


「どちら側から?」


「……内側から」


ロウは目を細めた。


「門の向こうには、何があった?」


ヨハンは、震える声で答えた。


「……何も」


「何も?」


「真っ暗でした。何も見えない。何も聞こえない。でも……」


彼は、ロウの袖を掴んだ。


「そこに、誰かがいるんです」


ロウは、その手を振り払わなかった。


「誰がいる?」


ヨハンは、涙を浮かべた目でロウを見つめた。


「……俺です」


その瞬間、兵舎の鐘が鳴った。


一度。


二度。


三度。


本来、今の時刻に鳴るはずのない鐘だった。


当直兵たちが顔を見合わせる。


ロウは立ち上がった。


「鐘楼を確認しろ!」


兵士たちが走り出す。


だが、四度目の鐘が鳴る前に、ヨハンが口を開いた。


「……隊長」


「何だ」


「俺、思い出しました」


ロウは振り返った。


ヨハンは、ゆっくりと立ち上がっていた。


先ほどまでの怯えた表情は消えている。


その目には、奇妙な落ち着きがあった。


「俺の名前は、ヨハン・レイスです」


ロウは慎重に答えた。


「……そうか」


「俺は、黒門砦の兵士です」


「そうだ」


「俺は、門を守っています」


「ああ」


ヨハンは微笑んだ。


「それから、隊長」


「何だ」


「あなたのお兄さんに、伝言があります」


ロウの背筋が冷たくなった。


「……何を伝える」


ヨハンは、ゆっくりと首を傾けた。


「『もう、眠っていていい』と」


鐘が、四度目の音を響かせた。


その瞬間、ヨハンの身体から力が抜けた。


ロウが支える。


意識はある。


呼吸も正常だ。


しかし、ヨハンはもう一度、自分の名前を尋ねられると、答えられなくなっていた。


「……俺は、誰ですか?」


ロウは、彼を支えたまま、目を閉じた。


また一人。


名前を失った。


そして、初めて、兄への伝言が届いた。


ロウの胸の奥で、アベルが囁いた。


『……兄さん』


「何だ」


『あの人、ずっと眠れなかったんだね』


ロウは、答えなかった。


『誰かが、自分の名前を呼んでくれるまで』


アベルの声が、かすかに震えた。


『ずっと、門の前で待っていたんだ』


ロウは、ヨハンを兵士たちに預けた。


それから、窓の外を見た。


黒門砦の門は閉じている。


その門を守る兵士たちは、今もそこにいる。


だが、ロウは思った。


もしかすると、この砦で最も長く門を守っている者は、兵士たちの誰でもないのかもしれない。


人間でも、魔物でもない。


名前を持たない者。


兄と呼ばれた者。


誰かが名前を呼んでくれるのを、ずっと待っていた者。


そして、誰かが自分の名前を呼んだ瞬間に、自分が何者なのかを決められてしまうことを恐れていた者。


ロウは、懐から古い認識票を取り出した。


裏面に刻まれた文字を見つめる。


門番は、最後に名前を持った。


その名前は、ロウ・テュユール。


ロウは認識票を握りしめた。


「……俺は、お前じゃない」


静かな声だった。


「だが、お前が誰だったのかは、必ず突き止める」


その言葉に応えるように、遠くの地下から、微かな音が響いた。


――こつん。


誰かが、扉を叩いている。


そして、聞き覚えのある声がした。


「……お前は、ここに残れ」


ロウは、顔を上げた。


今度の声は、地下からではなかった。


砦の門の向こうから聞こえていた。


閉じられた門の外側。


魔物の領域が広がる、暗闇の向こうから。


誰かが、ロウの名前を呼んだ。


「……ロウ・テュユール」


その声は、ロウ自身の声だった。



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