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衛兵は眠れない  作者: 神代シン
第一章 眠らない門番

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第六話「母の死体は眠らない」

第一幕 母の墓には、息子が埋まっていた

黒門砦の朝は、いつもより早く始まった。


正確には、朝が来る前から誰も眠れていなかった。


記録室では徹夜の兵士たちが、名前の消えた三人の記録を机いっぱいに広げていた。医務室ではミラが、ダレン・コル、エルナ・ヴァイス、ハンス・メルツの三人を別々の部屋に隔離している。


三人とも、身体には異常がない。


熱もない。出血もない。記憶障害を引き起こすような外傷もない。


それなのに、自分の名前だけが分からない。


名前を呼べば振り向く。


しかし、本人に「お前の名前は何だ」と尋ねると、答えられない。


まるで、自分の名前という概念だけが、頭の中から切り取られてしまったかのようだった。


そして何より、三人には共通点があった。


かつて全員が、ベルン・ハルトという名前を持っていた。


「隊長」


記録室の扉が開いた。


セラが立っていた。鎧の留め具は締め直され、腰の剣も抜きやすい位置にある。眠っていないのだろう。目の下に薄い隈ができていた。


「墓地の準備ができました」


「墓地?」


「エリナ・テュユールの墓です」


ロウは書類から顔を上げた。


「誰に聞いた」


「オスカーです。百四十七年前の建設記録に記載されている墓地と、現在の共同墓地を照合しました。古い墓地の位置は、砦の北側。現在の防壁の外です」


「誰かが先回りしていた可能性は?」


「あります。だから私が同行します」


「砦の守備は」


「ベルンが指揮しています」


ロウは黙った。


セラが一歩近づく。


「隊長。昨日、あなたは私に言いましたね。自分の名前を呼んでも振り向かない人間を探せ、と」


「ああ」


「今朝、私は自分の名前を呼ばれて振り向きました」


「……何が言いたい」


「あなたが名前を失って戻ってきた場合、私はどうすればいいのかと考えました」


ロウは返事をしなかった。


セラは怒っている。


昨日の件だけではない。


ロウはいつも、危険な場所へ一人で入ろうとする。何かを知るたびに、自分だけがその責任を負おうとする。


自分が傷つけば済むと思っている。


だが、彼がいなくなれば、残された者たちは彼を探すことになる。


彼が自分の名前を忘れれば、誰かが彼の名前を守らなければならない。


彼が死ねば、誰かが彼の死を背負う。


「私は、あなたが何を見つけるかを止めるつもりはありません」


セラは言った。


「ただし、帰ってきてください。自分の名前を覚えたまま」


「努力する」


「それは約束とは言いません」


「なら、約束する」


セラはしばらくロウを見ていた。


「……よろしい」


「ところで、なぜそんなに怒っている」


「まだ分かりませんか?」


「いや、分かっている。確認しただけだ」


「次に同じことをしたら、確認では済ませません」


セラは踵を返した。


扉が閉まる寸前、彼女は振り返らずに言った。


「それから、隊長」


「何だ」


「昨日、あなたが壁の向こうから聞いた声。あれが本当にお母様だったとしても、あなたが聞いた言葉を、そのまま真実だと思わないでください」


ロウの指が止まった。


「……どういう意味だ」


「死者は嘘をつかない。そう思いたい気持ちは分かります」


セラの声が少しだけ低くなる。


「でも、死者の声を使う者が、嘘をつかないとは限りません」


扉が閉じた。


ロウは、机の上の母の死亡記録を見つめた。


名前:返還済み。


彼はその一行を、紙が破れそうになるほど強く指で押さえた。


「……そうだな」


母の声を聞いた。


だが、母がそこにいた証拠はない。


母の言葉を聞いた。


だが、その言葉が母の意思だった証拠もない。


それでも。


「あの声は、俺を知っていた」


ロウは記録を懐にしまった。


「なら、確かめるしかない」


彼は立ち上がった。


北の墓地へ向かうために。


そして、百四十七年前に死んだはずの母親が、なぜ自分を産んだのかを知るために。


第二幕 死者のいない墓地

黒門砦の北側には、古い墓地があった。


現在の共同墓地が整備される以前、砦の建設に携わった兵士や技師、境界地帯で命を落とした者たちが埋葬された場所だ。


砦の防壁から離れた丘の斜面にあり、草木が墓石を覆っている。


墓地の周囲には、古い石柱が等間隔で並んでいた。


セラはその石柱を見て、眉をひそめた。


「墓地を囲む柵ではありませんね」


「境界標だ」


ロウは石柱の刻印を指でなぞった。


「砦の古い設計図にあった。第三の封印門と同じ意匠だ」


「つまり、ここも封印施設の一部だと?」


「その可能性がある」


「墓地に封印を?」


「逆かもしれない」


ロウは石柱の向こうを見た。


「何かを封じた場所に、墓地を作ったんだ」


セラは剣の柄に手を置いた。


「……最悪の場所選びですね」


「墓地を作った人間に言ってくれ」


「百四十七年前の人間に文句を言えるなら、ぜひ言いたいものです」


「俺もだ」


ロウは苦笑しかけて、やめた。


墓地の奥に、一つだけ異様な墓があった。


他の墓石は風化し、文字の大半が消えている。


だが、その墓だけは違った。


黒い石で造られ、周囲の草が不自然なほど短い。墓石の表面には苔も生えていない。


刻まれている文字は、はっきり読めた。


エリナ・テュユール。


その下に、短い一文。


この名を、二度と呼び戻すな。


セラが息を呑んだ。


「……墓碑銘ではありませんね」


「命令だ」


「誰に向けた?」


「後世の人間か。墓を開けようとする者か。それとも……」


ロウは墓石に手を伸ばした。


指先が触れた瞬間、頭の奥で小さな音がした。


――こつん。


硬いものが、内側から叩かれたような音。


ロウは手を離した。


「隊長?」


「今、何か聞こえなかったか」


「何も」


「……そうか」


もう一度、墓石に触れる。


――こつん。


今度は、はっきり聞こえた。


石の向こうから。


内側から。


誰かが、墓石を叩いている。


セラが剣を抜いた。


「下がってください」


「待て」


――こつん。


三度目。


続いて、声がした。


「……ロウ?」


ロウの呼吸が止まった。


母の声だった。


昨日、壁の向こうから聞こえた声と同じ。


少し掠れていて、疲れていて、それでも、彼が十二歳になるまで聞いていた声と同じだった。


「……母さん?」


セラがロウの腕を掴んだ。


「答えないでください」


「だが」


「名前を呼ばれたら答える。昨日から続いている事件と同じです」


その通りだった。


名前を呼ばれたら振り向く。


自分の名前を失った者たち。


名前を受け継いだ者たち。


名前を返すなという警告。


ロウは唇を噛んだ。


墓石の向こうから、もう一度声がした。


「……ロウ。そこにいるの?」


ロウは答えなかった。


代わりに、墓石を観察した。


文字の彫りは古い。


だが、墓石そのものには傷が少ない。周囲の地面も不自然に沈んでいない。


この墓が作られてから百四十七年が経過したというなら、少なくとも何度か補修されているはずだ。


なのに、補修の跡がない。


「セラ。墓石の裏を見てくれ」


「分かりました」


セラが慎重に回り込む。


「……隊長」


「何だ」


「裏側にも文字があります」


ロウは墓の裏に回った。


そこには、小さな文字が刻まれていた。


埋葬品:一名分。


その下に、別の文字。


遺体:なし。


そして、最後の一行。


代替埋葬物:出生記録。


ロウは動けなくなった。


「出生……記録?」


「隊長?」


「母の墓の中に、俺の出生記録が埋められている」


セラが墓石を見つめた。


「なぜ、そんなことを」


「分からない」


ロウは初めて、はっきりとそう答えた。


「だが、俺の出生記録がここにあるなら、母の死と俺の誕生は、何らかの形で結びついている」


「掘り起こしますか」


「いや」


ロウは墓石から手を離した。


「まず、周囲を調べる。封印を壊したら何が起きるか分からない」


「賢明です」


「……今のは褒めているのか」


「はい。珍しいので」


「余計な一言だ」


セラは、ほんの少しだけ笑った。


その笑顔が消えるまで、二秒もかからなかった。


墓石の下から、音がした。


――こつん。


今度は、叩く音ではなかった。


爪で石を引っかくような音。


そして、声。


「……出して」


ロウは目を閉じた。


母の声だった。


「……お願い。ここから、出して」


第三幕 母は、いつ死んだのか

墓地から砦へ戻ったロウは、まずオスカーを呼び出した。


「百四十七年前の記録を全部出してくれ」


「全部、ですか?」


「エリナ・テュユールに関係するもの。建設記録、死亡記録、出生記録、給与台帳、出入りの記録。名前が載っているものはすべてだ」


オスカーは眼鏡を押し上げた。


「……隊長。昨日の段階で、かなりの量を調べています」


「知っている」


「今から追加で調べるとなると、今日中には終わりません」


「終わらせなくていい。まず、見つかったものから出してくれ」


「分かりました」


オスカーは少し迷ってから、声を潜めた。


「一つ、先にお伝えしておきたいことがあります」


「何だ」


「エリナ・テュユールという名前は、百四十七年前の記録に一度だけ現れたわけではありません」


ロウの視線が鋭くなった。


「何度も出てくるのか」


「はい。建設記録に一度。補修記録に二度。封印施設の管理記録に三度。それから、死亡記録に一度」


「同じ人間か?」


「記録上は、同一人物です」


「年齢は」


「記載がありません」


「生年月日は」


「ありません」


「顔の特徴は」


「残されていません」


ロウは黙った。


「名前だけが、何度も現れるのか」


「そうです」


オスカーは書類を机に並べた。


「ただし、記録の筆跡がすべて同じというわけではありません。少なくとも、三人の書記が記載しています」


「つまり、誰か一人が記録を捏造したわけではない」


「その可能性は低いと思います」


「なら、母は百四十七年前に生きていた」


「そう考えるのが自然です」


「だが、俺は十二年前まで母と暮らしていた」


「はい」


「母は病気で死んだ。俺はそう聞かされていた」


オスカーは、何も言わなかった。


「……母が百四十七年前から生きていたのなら、俺の母は何者だ?」


ロウの問いに、オスカーは答えなかった。


答えられなかったのだ。


その沈黙が、かえって重かった。


「隊長」


オスカーは、別の書類を差し出した。


「これが、建設記録に付属していた管理者名簿です」


ロウは目を落とした。


名前が並んでいる。


技師。石工。兵士。測量士。封印管理官。


そして、その中に。


エリナ・テュユール――第四門管理補佐。


「第四門……」


ロウは顔を上げた。


「母は、第四の扉を知っていたのか」


「記録上は、そうなります」


「エドリック・ヴェインと接点は?」


「あります。エドリックは当時、第四門の調査担当でした」


「二人は一緒に仕事をしていた?」


「記録では、少なくとも三年間」


ロウは椅子に座り直した。


エドリック・ヴェイン。


百四十七年前に第四の扉を発見し、名前を失い、ベルン・ハルトという名を与えられた技師。


エリナ・テュユール。


同じ時代に第四門を管理し、死の記録に遺体がないと記された女。


そして、十二年前に死んだはずの母。


三つの点が、一本の線になりかけていた。


だが、線の先にあるものは見えない。


「……もう一つ、調べてくれ」


「何でしょう」


「俺の出生記録だ」


オスカーの手が止まった。


「出生記録なら、砦の現在の戸籍保管庫に……」


「違う。俺の母の墓に埋められていた記録だ」


「まだ墓を開けていませんよね?」


「そうだ」


「では、なぜ記録があると?」


「墓石に書いてあった」


オスカーは、しばらくロウを見つめた。


「……隊長」


「何だ」


「この砦には、あなたの出生記録が二つあります」


今度こそ、ロウは言葉を失った。


「二つ?」


「はい。一つは、あなたが生まれたときに作成された通常の記録。もう一つは、百四十七年前の建設記録に添付されていた記録です」


「見せろ」


オスカーは、二枚の書類を机に並べた。


一枚目には、ロウが知っている情報が記されていた。


出生地。母の名前。父の欄は空白。


十二歳まで暮らした村の名前。


そして、出生の日付。


二枚目は、古い紙だった。


百四十七年前の記録と同じ様式で、インクも古い。


だが、書かれている名前は。


ロウ・テュユール。


母の名前は。


エリナ・テュユール。


出生地は、黒門砦。


そして、日付は。


百四十七年前。


ロウは、二枚の記録を交互に見た。


同じ名前。


同じ母。


異なる時代。


「……俺は、二度生まれたのか?」


オスカーは答えなかった。


そのとき、記録室の扉が激しく叩かれた。


「隊長!」


ベルンの声だった。


「医務室で異常が起きています!」


ロウは立ち上がった。


「何があった」


「三人のうち、ハンスが自分の名前を思い出しました!」


「それは異常なのか?」


「名前だけではありません!」


ベルンは息を切らしていた。


「ハンスが、死んだ兄の顔を思い出したんです」


「兄の顔?」


「ええ。それから、こう言いました」


ベルンの顔が強張る。


「『兄は、隊長の中にいる。だが、隊長は兄ではない』と」


ロウは懐の出生記録を握りしめた。


「……行くぞ」


第四幕 兄の記憶を持つ男

医務室では、ミラがハンスの前に座っていた。


ハンスはベッドの上で両手を握りしめ、何かを思い出そうとしている。


ダレンとエルナは別室に移され、医務室の入口には二人の兵士が立っていた。


「何が起きた?」


ロウが尋ねると、ミラは疲れた顔を上げた。


「ハンスが兄の顔を思い出しました。ただし、思い出した直後から、別の記憶が抜け落ちています」


「どの記憶だ」


「自分がどこで育ったか。母親の名前。故郷の村の位置」


「名前を取り戻すたびに、別の記憶を失うのか」


「少なくとも、今のところは」


ミラは記録を見せた。


「ハンスが自分の名前を思い出した瞬間、脈拍が乱れました。意識は保たれていますが、その直後に幼少期の記憶が消えたようです」


「記憶が移動している?」


「可能性はあります。ですが、どこへ移動しているのかは分かりません」


ロウはハンスの前に座った。


「ハンス」


男が顔を上げる。


「俺が誰か分かるか」


「ロウ・テュユール隊長」


「自分の名前は」


「ハンス・メルツ」


「兄の名前は?」


ハンスは目を閉じた。


しばらくして、答えた。


「……ベルン・ハルト」


「それは、以前お前が持っていた名前か?」


「分かりません」


「兄の顔は覚えているか」


「はい」


「ベルンの顔か?」


ハンスは、ゆっくりと首を横に振った。


「違います」


「では、誰の顔だ」


「……隊長の顔です」


室内が静まり返った。


ベルンが、思わず一歩前に出る。


「俺の顔じゃないのか?」


ハンスはベルンを見た。


「あなたの顔ではありません。あなたの顔と似ている。でも、違う」


「何が違う」


「目が……もっと疲れていました」


ハンスは自分の胸を押さえた。


「いつも、何かを忘れようとしている目でした」


ロウは息を止めた。


「兄は、俺を見て何と言った?」


ハンスの表情が変わった。


恐怖ではない。


懐かしさだった。


「……お前は、ここに残れ」


その言葉を聞いた瞬間、ベルンが顔を歪めた。


「半年前……」


彼は呟いた。


「俺が地下で、自分と同じ顔の男に言われた言葉だ」


ハンスは首を横に振った。


「違います」


「何が違う!」


「あなたが聞いたのは、兄の声ではありません」


ベルンが黙った。


ハンスは、ロウを見つめた。


「兄は、その言葉を言ったあと、泣いていました」


「……泣いていた?」


「はい。兄は、俺を残したくなかったんです」


ハンスの声が震える。


「でも、俺を連れていくと、俺まで兄の名前を持ってしまう。そうなれば、俺が俺でなくなる。だから、兄は俺を残した」


ロウは、ゆっくりと尋ねた。


「その兄は、今どこにいる?」


ハンスはロウの胸を指さした。


「あなたの中です」


「……俺の中に、兄がいる?」


「はい」


「アベルのことか?」


ハンスは首を傾げた。


「アベル……?」


その名を聞いた瞬間、ハンスの顔から血の気が引いた。


「違う」


彼はベッドから身を起こした。


「違う、違う、違う……!」


ミラが肩を押さえる。


「ハンス、落ち着いて!」


「アベルは兄じゃない!」


ハンスはロウを見た。


「隊長! あなたの中にいるのは、兄だけじゃない!」


「何だと?」


「名前を持たなかった者たちです!」


ハンスの声が、医務室に響いた。


「兄は、あの扉を開いた。名前を返すために。けれど、名前を返された者の中には、戻る場所を失った者がいた!」


ロウは立ち上がった。


「戻る場所を失った?」


「名前を失った者は、名前を返されれば元に戻る。そう思っていた。でも、違ったんです!」


ハンスは頭を抱えた。


「名前を返されると、その名前を持っていた者の記憶が流れ込む! 記憶が混ざる! そして、どちらが本当の自分だったのか、分からなくなる!」


彼はロウを見つめた。


「兄は、それを止めようとしたんです」


「どうやって」


「……自分の名前を、あなたに渡した」


ロウの胸の奥で、何かが軋んだ。


「俺に?」


「はい」


「いつだ」


「分かりません。兄があなたに名前を渡したのか、それとも、あなたが兄の名前を受け取ったのか……」


ハンスは震える声で続けた。


「もう、誰にも分からないんです」


その瞬間、ロウの視界が歪んだ。


知らない景色が流れ込んでくる。


石造りの地下室。


白い壁。


四つの扉。


そして、若い男が一人。


その男はロウと同じ顔をしていた。


男は小さな子供を抱きしめていた。


子供の顔は見えない。


男が泣いていた。


「……ごめんな」


男は子供の額に触れた。


「お前を、ここに残していく」


その声は、ロウ自身の声だった。


だが、ロウはその記憶を知らない。


男が顔を上げる。


その目は、ハンスが言ったとおり、疲れ切っていた。


男はロウを見た。


いや、ロウの視界の向こうにいる誰かを見ていた。


そして、口を動かした。


――名前を返すな。


視界が戻った。


ロウは机に手をついていた。


ミラが駆け寄ってくる。


「隊長!」


「……大丈夫だ」


「大丈夫な顔ではありません」


「少し、記憶が流れ込んだだけだ」


「それを大丈夫とは言いません!」


ミラはロウの瞳を確認した。


「今のは、ハンスの記憶ですか?」


「分からない」


ロウは首を振った。


「俺の記憶かもしれない」


ベルンが、静かに尋ねた。


「隊長。今、何を見たんですか」


ロウはすぐには答えなかった。


そして、ようやく口を開いた。


「……俺と同じ顔の男が、子供を残していく場面だ」


「その子供は?」


「分からない」


ロウは自分の胸に手を置いた。


そこにいるはずのアベルは、何も言わなかった。


「だが、あの男は……俺の声で、名前を返すなと言っていた」


第五幕 墓を掘る者

夕方、ロウは再び北の墓地へ向かった。


今度はセラだけでなく、ミラとオスカーも同行している。


ベルンは砦に残り、名前を失った三人の監視を続けることになった。


「墓を開けるんですね」


ミラが確認した。


「そうだ」


「封印施設の一部である可能性があります。内部に何があるか分かりません」


「分からないから調べる」


「調べることと、開けることは別です」


「その通りだ」


ロウは墓石の前で足を止めた。


「だから、開ける前に確認する。石柱の配置、地面の沈み方、封印の状態。異常があれば中止する」


ミラは少し驚いたように彼を見た。


「……今日は、ずいぶん慎重ですね」


「昨日、セラに叱られた」


「それで?」


「叱られた内容が正しかった」


セラが横から口を挟む。


「記録しておきます。隊長が自分の非を認めた日として」


「やめろ」


「記録は大切ですから」


「オスカー、今の発言は記録するな」


「すでに記録しました」


「お前までか」


ほんの一瞬だけ、空気が緩んだ。


だが、墓石の前に立つと、誰も笑わなくなった。


ロウは石柱の刻印を一つずつ確認した。


四本の石柱。


それぞれに、違う名前が刻まれている。


一つ目は、エリナ・テュユール。


二つ目は、エドリック・ヴェイン。


三つ目は、ベルン・ハルト。


そして四つ目は、名前が削り取られていた。


「……四人?」


オスカーが呟いた。


「この墓地には、四人の名前が刻まれていたのか」


「墓地を囲んでいるのではない。ここを一つの場所として固定しているんだ」


ロウは石柱を見つめた。


「名前を持つ者を、ここに結びつけている」


「では、名前が削られている石柱は?」


ミラが尋ねた。


「固定する名前を失ったんだろう」


「それは、危険な状態ですか?」


「分からない」


ロウは墓石に向き直った。


「だが、これ以上、何も知らないままにはできない」


彼は墓石の周囲を調べた。


土は硬い。


しかし、墓石のすぐ下だけ、わずかに新しい土が混じっている。


百四十七年前の墓の土ではない。


誰かが最近、掘り返して埋め直した跡だ。


「……ここを掘った者がいる」


セラが周囲を警戒する。


「いつですか」


「分からない。だが、墓石の縁に新しい傷がある」


オスカーは記録を開いた。


「この墓が最後に確認されたのは、二十七年前です。管理記録には、墓石の補修も、埋葬品の確認もありません」


「二十七年前……」


ロウは考えた。


十二年前に母が死んだ。


だが、この墓が最後に確認されたのは、その十五年前。


つまり、母が死んだとされる時期よりも前から、この墓には何かが隠されていた。


「誰が掘ったかは後で調べる」


ロウは手袋をはめた。


「今は中を確認する」


ミラが頷いた。


四人で慎重に土を取り除く。


墓石の下には、棺があった。


黒い木材で作られ、金属の留め具で封じられている。


棺の蓋には、文字が刻まれていた。


エリナ・テュユール。


そして、その下に。


名前を返す者は、ここで眠る。


ロウはその文を見つめた。


「……名前を返す者」


オスカーが小さく息を呑む。


「第五話の記録にあった称号と同じです」


「そうだ」


ロウは棺の留め具に触れた。


冷たい。


まるで、氷のように。


「開けるぞ」


セラが剣を抜いた。


ミラは後方に下がり、オスカーは記録を取る準備をした。


ロウが留め具を外す。


一つ目。


二つ目。


三つ目。


最後の留め具が外れた瞬間、墓地の石柱が低く鳴った。


――ごうん。


地面が揺れる。


セラがロウの肩を掴んだ。


「隊長、離れて!」


だが、棺の蓋はすでに動いていた。


内側から。


ゆっくりと。


誰かが、開けている。


ロウは後退した。


蓋が開いた。


中にあったのは、白い布。


その上に置かれていたのは、一冊の古い帳簿だった。


そして、その帳簿の上に。


小さな骨が一本、置かれていた。


人間の指の骨に似ている。


だが、異様なほど白く、表面には細かな文字が刻まれていた。


ロウは手を伸ばしかけて、止めた。


骨の文字が、ゆっくりと浮かび上がる。


ロウ・テュユール。


その下に、新たな文字が刻まれた。


出生:未完了。


ミラが声を失った。


「……出生、未完了?」


オスカーは帳簿を開いた。


最初のページには、こう記されていた。


名前を返す者の記録――補遺。


その下に、短い文章。


第一の名は、死によって返された。


第二の名は、誕生によって返された。


第三の名は、記憶によって返された。


第四の名は、まだ返されていない。


そして最後に。


第四の名が返されるとき、最初の名は消える。


ロウは帳簿を閉じた。


「……これが、名前を返すことの代償か」


セラが尋ねた。


「どういう意味です?」


ロウは、棺の中の骨を見つめた。


「名前を返すという行為は、失われたものを取り戻すだけじゃない」


「……」


「誰かが名前を取り戻せば、別の誰かが、その名前を失う可能性がある」


そのとき、棺の奥から声がした。


「……ロウ」


全員が凍りついた。


白い布が、内側から持ち上がる。


何もないはずの棺の中で、布が人間の肩の形を作った。


続いて、頭の形。


顔の輪郭。


髪の流れ。


そして、目。


そこにいたのは、ロウの母だった。


エリナ・テュユール。


十二年前に死んだはずの母親。


その顔は、ロウの記憶と寸分違わなかった。


「……母さん」


セラが叫ぶ。


「隊長、答えないで!」


だが、ロウは母を見つめていた。


母の顔には、安堵も、喜びもなかった。


ただ、ひどく疲れた表情が浮かんでいた。


「……大きくなったのね」


ロウの喉が詰まった。


その言葉を、彼は覚えている。


幼い頃、母がよく言っていた言葉だ。


背が伸びたとき。


剣を初めて握ったとき。


熱を出して寝込んだとき。


母はいつも、同じように笑った。


――大きくなったのね。


「母さん……本当に、母さんなのか?」


エリナは答えなかった。


代わりに、ロウの胸元を見た。


「……あの子は?」


ロウの身体が強張る。


「あの子?」


「……まだ、そこにいるの?」


ロウは答えられなかった。


エリナの目に、涙が浮かんだ。


「……お願い」


彼女は、両手を伸ばした。


「今度こそ、あの子を生まれさせてあげて」


ロウは動かなかった。


「……母さん。あの子は、誰なんだ?」


エリナの顔が歪んだ。


「……あなたよ」


その言葉と同時に、墓地の石柱がすべて砕けた。


第六幕 あなたは、まだ生まれていない

石柱が砕けた。


四つの石柱。


四つの名前。


そのすべてが、音もなく崩れ落ちた。


地面に散った破片の上を、黒い文字が這い回る。


文字は石から剥がれ、土の上を流れ、棺の底へ集まっていく。


まるで、石柱が壊れたことで、これまで閉じ込められていた何かが、帰る場所を求めているかのようだった。


セラがロウの前に立った。


「隊長、下がってください!」


ミラも、母の姿を凝視しながら叫ぶ。


「その人物は生きているんですか? それとも、記録が実体化しているんですか?」


「……分からない」


ロウは答えた。


母は棺の中に座っていた。


白い布を肩に掛け、両手を膝の上に置いている。


彼女の顔は、ロウの記憶にある母そのものだった。


しかし、違うところもある。


母は、十二年前に死んだときより若く見えた。


いや、違う。


ロウが幼い頃、最も鮮明に覚えている母の姿だった。


まだ彼が、自分の血筋を理由に人から遠ざけられる前。


まだ、父親のいないことを気にしていなかった頃。


まだ、母の手を握れば、世界の何もかもが大丈夫だと思えていた頃。


「……母さん」


ロウは、もう一度呼んだ。


エリナは彼を見つめた。


「……ごめんなさい」


「何がだ」


「……あなたに、嘘をついた」


ロウは唇を噛んだ。


「どの嘘だ」


母は答えなかった。


「病気で死んだという話か?」


沈黙。


「俺を産んだという話か?」


沈黙。


「それとも、俺が十二歳になるまで、一緒に暮らしていたという話か?」


母の目から、涙が落ちた。


「……全部よ」


ロウは息を吸った。


胸の奥で、何かが崩れそうになった。


それでも、彼は問い続けた。


「俺は誰なんだ」


母は首を横に振った。


「……あなたは、ロウ・テュユール」


「名前を聞いているんじゃない」


「……それでも、あなたはロウ・テュユールよ」


「俺の出生記録が百四十七年前に存在している。母さんの名前も、同じ時代の記録にある。墓には俺の出生記録が埋められていて、棺には俺の名前が刻まれていた」


ロウは一歩近づいた。


「俺は十二年前に生まれたのか。それとも百四十七年前に生まれたのか」


母は、ゆっくりと顔を伏せた。


「……どちらも、本当よ」


セラが声を上げた。


「そんなことがあるはずありません!」


「……あるの」


「人間は百四十七年も同じ姿で生きられない!」


「……人間なら、そうね」


その一言で、墓地の空気が変わった。


ロウは母を見つめた。


「母さんは、人間じゃないのか」


エリナは目を閉じた。


「……私は、何度も死んだの」


彼女の声は、ひどく静かだった。


「死ぬたびに、名前を返した。名前を返すたびに、私は私ではなくなっていった。それでも、私は生きていた」


「どういう意味だ」


「……名前は、あなたが思っているほど単純なものではないの」


母は胸に手を置いた。


「名前は、その人を呼ぶためのもの。けれど、この世界では、名前はその人を世界につなぎ留めるものでもある」


ロウは、第四の扉のことを思い出した。


名前を返す者の記録。


ベルン・ハルトという名を持った三十六人。


名前を受け継ぐ者と、名前を失う者。


そして、第四の扉が問いかけた言葉。


――名前を持つ者は、誰か。


「名前を返すたびに、別の人間として生まれ直したのか」


母は頷いた。


「……そうよ」


「なら、今ここにいる母さんは、何人目の母さんなんだ」


エリナは答えなかった。


答えられないのか。


答えたくないのか。


その違いさえ、ロウには分からなかった。


「……私は、あなたの母親よ」


母は、懇願するように言った。


「それだけは、信じて」


ロウは目を閉じた。


信じたい。


その気持ちは、確かにあった。


この声を疑いたくない。


この顔を疑いたくない。


十二歳までの記憶を、全部偽物だったことにしたくない。


しかし、母を信じることと、母の言葉をすべて真実だと認めることは違う。


「……母さん」


ロウは目を開けた。


「俺は、母さんを信じたい」


エリナの表情が緩んだ。


だが、ロウは続けた。


「だからこそ、全部教えてくれ」


母の顔から、表情が消えた。


「俺が何者なのか。母さんが何者なのか。アベルが誰なのか」


ロウは、自分の胸に手を当てた。


「そして、どうして俺の中にいるのか」


その瞬間。


ロウの胸の奥から、声がした。


『……兄さん』


アベルだった。


『母さんに、全部話してもらうの?』


「……アベル?」


『母さんは、全部を知っているわけじゃないよ』


ロウは目を見開いた。


『母さんだって、忘れているんだ』


エリナが顔を上げた。


「……アベル」


その名を聞いた瞬間、彼女の身体が震えた。


『母さん』


アベルの声は、今までになく幼かった。


『僕、もうすぐ生まれるよ』


エリナは両手で顔を覆った。


「……ごめんなさい」


彼女は泣いていた。


「……ごめんなさい、アベル」


ロウは母と、胸の内側にいる弟の間で、視線を行き来させた。


「……二人とも、何を隠している?」


母は答えなかった。


アベルも、答えなかった。


代わりに、棺の底にあった帳簿が勝手に開いた。


ページがめくれる。


一枚。


二枚。


三枚。


そして、最後のページで止まった。


そこには、たった一行だけ書かれていた。


ロウ・テュユールは、まだ出生していない。


ロウは、ゆっくりとその文字を読んだ。


「……俺は、ここにいる」


誰に言うでもなく、呟いた。


「俺は生きている。俺はロウ・テュユールだ」


その言葉に、帳簿の文字が揺れた。


ロウ・テュユールは、まだ出生していない。


「俺は、ここにいる!」


ロウが叫ぶ。


帳簿の文字が、一瞬だけ消えた。


そして、別の文字が浮かび上がる。


本人の申告を確認。


出生記録との不一致。


照合を開始します。


ミラが後ずさった。


「……これは、いったい何なんですか」


オスカーは、震える手で記録を書き留めようとしていた。


しかし、ペン先からインクが出ない。


彼が自分の名前を呟く。


「……オスカー・ベル」


その声が、少しだけ掠れた。


「オスカー・ベル……」


もう一度。


「……私は、オスカー・ベル」


彼は何度も自分の名前を繰り返した。


セラが彼の肩を掴む。


「オスカー!」


「……名前を、忘れそうになりました」


オスカーは顔を青ざめさせた。


「自分の名前を、書こうとしたんです。ですが、文字が出てこなかった」


ロウは帳簿を閉じた。


「全員、墓から離れろ!」


その瞬間、母の姿が揺らいだ。


身体が透けていく。


「……ロウ」


「母さん!」


「……お願い。あの子を、殺さないで」


「アベルのことか!」


「……違う」


母は、最後の力を振り絞るように首を横に振った。


「……あなたが、あなた自身を殺さないで」


その言葉を残し、母の姿が消えた。


棺の中には、白い布と帳簿だけが残った。


そして、骨も消えていた。


ロウはしばらく、何も言えなかった。


母は消えた。


答えは得られなかった。


それでも、一つだけ分かったことがある。


母は、アベルを生まれさせることを恐れているのではない。


母は、ロウがアベルを拒絶することを恐れている。


そして、それ以上に。


ロウが自分自身を、アベルのために犠牲にすることを恐れている。


ロウは、胸に手を当てた。


「……アベル」


返事はなかった。


「聞こえているんだろう」


沈黙。


「俺は、お前を殺さない」


胸の奥で、かすかな気配が動いた。


「だが、お前を生まれさせるために、俺が消えなければならないというなら……」


ロウは言葉を切った。


それは、まだ答えを出してはいけない問いだった。


「その答えを、俺はお前と一緒に探す」


しばらくして、アベルが囁いた。


『……うん』


たった一言。


だが、その声は、初めてロウの胸の内側からではなく、隣にいる誰かの声のように聞こえた。


第七幕 死体のない死亡確認

墓地から戻ったロウたちは、帳簿と棺の記録を持ち帰った。


ミラは、ロウの記憶に異常がないかを調べた。セラは墓地の周囲を封鎖するための兵士を手配し、オスカーは帳簿の内容を書き写した。


しかし、最も奇妙なことが起きたのは、日が暮れてからだった。


ロウが記録室に戻ると、机の上に一通の書類が置かれていた。


差出人の欄は空白。


宛先は、ロウ・テュユール。


封はされていない。


書類には、砦の公印が押されていた。


「……誰が持ってきた?」


オスカーが答える。


「誰も見ていません。私が戻ったときには、すでに机の上にありました」


ロウは書類を開いた。


中には、死亡証明書が一枚。


対象者の名前は。


エリナ・テュユール。


死亡日時は、十二年前。


死亡場所は、ロウが幼少期を過ごした村。


死因は、病死。


遺体の確認者は、村の医師。


そして、備考欄にはこう書かれていた。


遺体の引き渡しは完了。埋葬先は黒門砦北墓地。


ロウは書類を見つめた。


「……偽造だ」


「その可能性が高いですね」


オスカーは頷いた。


「ただし、公印は本物です」


「公印を使える人間が偽造したか、記録そのものが改変されたか」


「はい」


ロウは死亡証明書を裏返した。


裏面に、小さな文字があった。


死亡確認:なし。


遺体:なし。


名前:返還済み。


母の死亡記録と、まったく同じ文言。


その下に、さらに一行。


死亡証明書の発行者:ロウ・テュユール。


ロウは、書類を机に置いた。


「……俺が?」


「記録上は、そうなっています」


「十二年前の俺は、まだ子供だ」


「はい」


「死亡証明書を発行できるはずがない」


「はい」


ロウは、オスカーを見た。


「俺の名前を使った誰かがいる」


「そう考えるのが自然です」


「だが、俺の名前は百四十七年前にも存在している」


オスカーは、ゆっくりと頷いた。


「……つまり、百四十七年前のロウ・テュユールが発行した可能性もある、ということですか」


「あるいは、百四十七年前のロウが、十二年前のロウの名前を使ったのかもしれない」


ロウは椅子に深く腰を下ろした。


「どちらにしても、同じ名前を持つ別の人間がいるのか、それとも一人の人間が複数の時代に記録されているのか。それを確かめなければならない」


「隊長」


オスカーが言った。


「もう一つ、気になる点があります」


「何だ」


「死亡証明書の発行番号です」


彼は番号を指さした。


「これは、十二年前のものではありません」


「……どういうことだ」


「この番号体系は、百四十七年前のものです」


ロウは書類を手に取った。


古い番号体系。


百四十七年前の公印。


十二年前の死亡日時。


そして、自分の名前。


まるで、時間そのものが、記録の上で重なり合っている。


「……母の墓にあった帳簿は?」


「保管庫にあります」


「持ってきてくれ」


オスカーが帳簿を持ってくる。


ロウは最後のページを開いた。


ロウ・テュユールは、まだ出生していない。


その文字の下に、新たな一文が追加されていた。


死亡確認:なし。


遺体:なし。


名前:返還済み。


ロウは帳簿を閉じた。


そして、初めてはっきりと理解した。


これは、母の死だけの問題ではない。


自分の出生だけの問題でもない。


誰かが、ロウ・テュユールという名前を、世界の記録から切り離そうとしている。


あるいは。


ロウ・テュユールという名前が、世界の記録に存在すること自体が、何かにとって都合が悪いのだ。


「……隊長」


オスカーが呼びかけた。


「どうしますか」


ロウは窓の外を見た。


黒門砦の門は閉じている。


兵士たちは配置についている。


夜は、いつも通りに訪れようとしていた。


だが、ロウには分かっていた。


この砦で起きている事件は、外から侵入してきた魔物を見つければ終わるような事件ではない。


砦そのものが、名前を持つ者たちを記録し、管理し、時には別の名前に置き換えている。


そして、その仕組みは百四十七年前から存在している。


「まず、死亡証明書の発行者を調べる」


ロウは言った。


「百四十七年前の記録と、十二年前の記録。両方を照合する」


「承知しました」


「それから、ベルン・ハルトという名前を持っていた三人を、別々に保護する。名前を思い出したからといって、元の生活に戻れるとは限らない」


「分かりました」


「最後に……」


ロウは一瞬、言葉を止めた。


「俺の出生記録を、誰にも書き換えさせるな」


オスカーは、真剣な表情で頷いた。


「必ず守ります」


そのとき、記録室の扉が開いた。


ベルンが立っていた。


「隊長。ハンスが、また話したいと言っています」


「何を?」


「兄のことです」


ロウは立ち上がった。


「分かった。すぐ行く」


ベルンは、少し迷ってから言った。


「……隊長」


「何だ」


「ハンスが、こう言っていました」


ベルンは、唇を湿らせた。


「『兄は、隊長の中にいる。でも、隊長が兄を受け入れたら、隊長ではなくなる』と」


ロウは、ゆっくりと目を閉じた。


「……そうか」


「隊長は、どうするつもりですか」


ロウは答えた。


「俺は俺のままでいる」


ベルンが、静かに頷いた。


「それができるなら……」


「できるかどうかは、まだ分からない」


ロウは扉へ向かった。


「だが、誰かに決めてもらうつもりはない」


彼は、廊下へ出た。


胸の奥で、アベルが小さく笑った気がした。


『……兄さんらしいね』


ロウは歩きながら、心の中で答えた。


(そうか?)


『うん』


(なら、お前も覚えておけ)


『何を?』


(俺が俺でいることと、お前が生まれること。その二つを、最初からどちらか一つしか選べないものだと決めつけるな)


しばらく沈黙があった。


やがて、アベルが囁いた。


『……うん。覚えておく』


ロウは歩みを止めなかった。


母の死は、まだ解けていない。


自分の出生も、分からないままだ。


それでも、ひとつだけ決めたことがある。


誰かの名前を守るために、別の誰かの名前を奪う。


そんな世界の仕組みを、当然のものとして受け入れるつもりはなかった。


その仕組みを作った者が人間であろうと、魔物であろうと、神であろうと。


そして、それが自分自身であろうと。


ロウ・テュユールは、まだ答えを知らない。


だからこそ、調べる。


疑う。


話を聞く。


そして、自分で決める。


黒門砦の夜は、今日も眠らない。

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