第五話 名前を返す者
第一節 鐘楼の少年
四度目の鐘が鳴り終わったとき、黒門砦の兵士たちは一斉に武器を構えた。
誰も命令していない。
誰も合図を出していない。
それでも、三十七体の死体を囲んでいた兵士たちは、訓練で身につけた動きそのままに、槍を前へ向け、剣を抜き、盾を構えた。
恐怖に対して身体が先に反応したのだ。
人間は、理解できないものを前にすると、理解するより先に、それを殺す方法を探し始める。
ロウ・テュユールは、その光景を見ていた。
自分も剣を抜いている。
いつ抜いたのか、覚えていなかった。
正門の上。
鐘楼の縁に、少年が座っている。
裸足だった。
黒門砦の兵士が着るものとは違う、古びた白い服を着ていた。袖は長く、指先を覆い隠している。裾には泥も血もついていない。
髪は、ロウの幼い頃と同じ色。
目も、同じ色。
左の掌にある傷まで、同じだった。
「おはよう、兄さん」
少年は、もう一度そう言った。
ロウは少年を見上げたまま、動かなかった。
「……降りてこい」
「どうして?」
「話をする」
「ここでもできるよ」
「顔を見て話したい」
少年は、自分の頬に手を当てた。
「見えてるでしょう?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
「……」
少年は、楽しそうに笑った。
その笑い方が、ロウには気に入らなかった。
子供らしい笑顔だった。
無邪気で、何も恐れていない。
だが、ロウは知っている。
本当に何も恐れていない人間は、こんなふうに笑わない。
恐怖を知らないのではない。
恐怖を知っていて、それでも恐れる必要がないと確信しているのだ。
「名前を返しに来たと言ったな」
「うん」
「誰の名前を?」
「兄さんの」
「俺の名前は、ロウ・テュユールだ」
「それは、今の名前だよ」
少年は、鐘楼から足をぶら下げた。
「僕が返しに来たのは、兄さんが生まれる前に持っていた名前」
「……生まれる前?」
「うん」
「人間は、生まれる前に名前なんか持たない」
「人間はね」
少年は、あっさりと言った。
「でも、兄さんは違う」
ロウは、剣を握り直した。
「お前は何者だ」
「ベルン・ハルト」
「何人目の?」
少年は指を折った。
「一人目は、地上に置かれた人。二人目は、地下で名前を覚えた人。三人目は、まだ生まれていない人。四人目は、兄さんが忘れた人」
「それは昨日も聞いた」
「じゃあ、五人目」
少年は、もう一本指を折った。
「五人目は、兄さんが今から殺す人」
ロウの剣先が、わずかに動いた。
「……誰を殺す?」
「僕」
少年は自分を指さした。
「兄さんは、僕を殺すんだよ」
「なぜだ」
「そうしないと、名前が返せないから」
「名前を返すために、人を殺す必要があるのか?」
「人じゃないよ」
少年は笑った。
「僕は、まだ生まれていないんだから」
その瞬間、ロウは理解した。
理解したくなかったが、理解してしまった。
この少年は、命を盾にしているのではない。
自分が生きているか死んでいるかという、もっと根本的な問題そのものを、盾にしている。
生まれていない者。
死んだ者。
名前だけが存在する者。
そういう存在を、人間はどう扱えばいいのか。
剣で斬れば死ぬのか。
牢に入れれば逃げられないのか。
名前を呼べば、そこに存在するのか。
「……降りてこい」
ロウは、もう一度言った。
少年は少し考えた。
それから、鐘楼の縁に立ち上がった。
「分かった」
彼は両腕を広げた。
「じゃあ、迎えに来て」
次の瞬間、少年は鐘楼から身を投げた。
「――っ!」
兵士たちが叫んだ。
ロウは走った。
地面に激突する。
そう思った。
だが、少年は落ちなかった。
鐘楼から地面までの距離、その途中で、少年の身体がふっと消えた。
次に姿を現したのは、正門前に並ぶ死体の列の中央だった。
少年は、ロウと同じ顔をした死体の胸に腰掛けていた。
「ここだよ」
兵士たちが、一斉に槍を向ける。
「動くな!」
「両手を上げろ!」
「名前を名乗れ!」
少年は、きょとんとした。
「名前?」
彼は、周囲の兵士を見回した。
「君たちは、名前を持ってるの?」
「何を言っている!」
「名前があるなら、呼んでみて」
兵士の一人が、怒鳴った。
「俺はダレン・コルだ!」
別の兵士も続けた。
「ハンス・メルツ!」
「エルナ・ヴァイス!」
少年は、一人ひとりの顔を見た。
そして、口を開いた。
「ダレン・コル」
ダレンがびくりとした。
「ハンス・メルツ」
ハンスが一歩下がった。
「エルナ・ヴァイス」
エルナの手から、槍が落ちた。
少年は、首を傾げた。
「……あれ?」
それから、不思議そうに呟いた。
「みんな、同じ顔だ」
ロウは、駆け寄ろうとした。
だが、その前に、異変が起きた。
ダレンが自分の顔を触った。
ハンスも、エルナも。
兵士たちが、一斉に自分の頬や額に手を当てている。
「……どうした?」
ロウが尋ねた。
誰も答えなかった。
ダレンが、震える声で言った。
「隊長……」
「何だ」
「俺……俺の顔が……」
彼は、近くにいた兵士を見た。
「……あいつと、同じ顔に見えるんです」
周囲がざわめいた。
「何を言っている?」
「俺もだ……」
「おい、誰か鏡を持ってこい!」
「待て、俺の顔を見ろ! 俺は俺だ!」
兵士たちの声が重なった。
そして、少年が笑った。
「名前を返すって、こういうことなんだよ」
ロウは、剣を構えた。
「やめろ」
「何を?」
「兵士たちに何をした」
「何もしてないよ」
少年は首を傾げた。
「僕は、名前を呼んだだけ」
「それだけで、こんなことが起きるはずがない」
「そうだね」
少年は、素直に頷いた。
「名前を呼んだだけじゃ、何も起きないよ」
彼は、ロウの顔を見た。
「でも、名前を返すときは別なんだ」
「……返す?」
「うん」
少年は、死体の胸から降りた。
「だって、みんな、自分の名前を持っていないんだから」
ロウは、少年の前に立った。
「お前の名前は、ベルン・ハルトだと言ったな」
「うん」
「なら、なぜ他人の名前を奪う」
「奪ってないよ」
少年は、初めて不満そうな顔をした。
「返してるんだ」
「誰に?」
「本当の持ち主に」
「……」
少年は、ロウの胸元を指さした。
「兄さん。自分の名前が、誰のものか知ってる?」
ロウは答えなかった。
「ロウ・テュユール」
少年は、ゆっくりとその名前を口にした。
「それは、誰が決めた名前?」
「母だ」
「本当に?」
「……」
「母さんは、兄さんをその名前で呼んだ。だけど、母さんが兄さんに名前を与えたとは限らないよ」
「何が言いたい」
「名前はね、与えるものじゃないんだ」
少年は、ロウの目を見た。
「見つけるものなんだよ」
ロウは、少年の襟首をつかもうとした。
だが、少年は一歩も動かず、ロウの手を見つめた。
「……触れないよ」
「試してみるか」
「ううん。兄さんは、僕に触れられない」
「なぜだ」
「だって、兄さんは僕を覚えていないから」
少年は、悲しそうに微笑んだ。
「覚えていない人には、触れられないんだよ」
ロウは手を伸ばした。
少年の襟に触れた。
布の感触があった。
指先に、確かな重みがあった。
少年は驚いたように目を見開いた。
「……あれ?」
ロウは、少年の襟をつかんだまま、低く言った。
「触れたぞ」
少年は、しばらく黙っていた。
そして、初めて。
本当に初めて、恐怖を浮かべた。
「……どうして?」
ロウは答えなかった。
自分にも分からなかったからだ。
ただ、一つだけ分かったことがある。
この少年は、ロウに触れられることを想定していなかった。
つまり、少年の言葉は嘘だった。
少なくとも、すべてが真実ではない。
「……お前は、何を隠している?」
少年は答えなかった。
ロウは、襟をつかむ手に力を込めた。
「答えろ」
少年は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳に、涙が浮かんでいた。
「……兄さん」
声が震えていた。
「僕、ずっと……ずっと、待ってたんだよ」
ロウは、少年の顔を見た。
「……何を?」
少年は、泣きながら笑った。
「僕の名前を、呼んでくれるのを」
そして、彼は口を開いた。
ロウが知らないはずの名前を。
母が一度も口にしなかった名前を。
ロウ自身が、記憶の底から消し去っていた名前を。
「――アベル」
その瞬間、ロウの手から力が抜けた。
少年の襟が、指の間をすり抜ける。
彼は、後退した。
「……アベル?」
ロウは、その名前を繰り返した。
何かが、胸の奥で軋んだ。
痛みではない。
もっと深いところにある、失われたものが戻ってくる感覚だった。
少年は、泣いていた。
「……そうだよ」
彼は頷いた。
「僕は、アベル」
そして、ロウを見上げて言った。
「兄さんが、僕にくれた名前だよ」
第二節 名前を呼ばれた兵士
「全員、砦の中へ戻れ!」
ロウの怒声が、正門前に響いた。
「負傷者を確認しろ! 武器を持ったまま走るな! 倒れた兵士を一人にするな! 互いの名前を確認し合え!」
命令を受けた兵士たちが、ようやく動き始めた。
だが、その動きは普段とは違っていた。
二人一組で互いの肩をつかみ、顔を確かめ、名前を叫び合っている。
「ダレン・コル!」
「ハンス・メルツ!」
「エルナ・ヴァイス!」
「もう一度!」
「ダレン・コル!」
「俺はハンス・メルツだ!」
「なら、俺は誰だ!」
「知らねえよ! 自分で名乗れ!」
怒鳴り声の中に、笑い声が混じった。
恐怖を押し隠すための笑いだった。
自分が誰なのか分からなくなる。
そんな事態は、普通なら笑い話にもならない。
それでも、兵士たちは互いに声をかけ合っていた。
名前を呼ぶ。
返事をする。
返事をした相手の肩をつかむ。
それを繰り返すことで、自分たちがまだここにいるのだと確かめようとしていた。
ロウは、その光景を見ていた。
そして、少年――アベルを見た。
「お前も来い」
「どこへ?」
「砦の中だ」
「僕を閉じ込めるの?」
「必要ならな」
「閉じ込めても、意味はないよ」
「意味があるかどうかは、俺が決める」
アベルは、少しだけ笑った。
「……そういうところ、変わらないね」
「俺を知っているような口を利くな」
「知ってるよ」
「俺は、お前を知らない」
「うん」
アベルは頷いた。
「だから、悲しいんだ」
その答えが、ロウには気に入らなかった。
怒鳴りつけてやりたかった。
自分が知らないものを知っていると主張する人間。
自分が覚えていないことを、さも当然のように語る人間。
そういう相手は、尋問官にとって最も厄介だ。
嘘をついているのか。
本当に信じているのか。
その区別がつかない。
ロウは、アベルの肩をつかんだ。
今度も、触れることができた。
少年の身体には、確かな温度があった。
人間の子供と変わらない体温。
骨格も、筋肉も、皮膚の感触もある。
それなのに、ロウの目には、少年の輪郭が時折ぶれて見えた。
人間の姿の向こうに、別の何かが重なっている。
細長い腕。
余分な指。
顔のない頭部。
それらが一瞬だけ浮かび、すぐに消える。
「……お前は、人間なのか?」
ロウは尋ねた。
アベルは少し考えた。
「兄さんは?」
「質問しているのは俺だ」
「僕も質問してるんだよ」
少年は、ロウの手を見た。
「兄さんは、人間なの?」
ロウの指が止まった。
人間と人狼の混血。
その事実が露見したことで、ロウは王都の衛兵隊から外され、黒門砦へ送られた。
彼は自分の種族を隠していたわけではない。
ただ、必要以上に語らなかった。
人間として生きてきた。
人間の言葉を話し、人間の法に従い、人間の兵士を指揮してきた。
そして、人狼としての感覚を使い、人狼としての身体能力を利用し、人間にはできないことを成し遂げてきた。
それでも、彼は人間であると考えていた。
少なくとも、そう考えることを、自分に許していた。
「……俺はロウ・テュユールだ」
ロウは答えた。
アベルは、少しだけ目を細めた。
「うん」
「それが俺の答えだ」
「……そうだね」
少年は、それ以上追及しなかった。
そのことが、かえってロウを苛立たせた。
「お前は何者だ?」
「アベル」
「それは名前だ」
「うん」
「種族を聞いている」
アベルは、しばらく考えていた。
そして、真面目な顔で答えた。
「……まだ、決まってない」
「何だと?」
「僕は、まだ生まれていないから」
彼は自分の胸に手を当てた。
「僕が何になるかは、兄さんが決めるんだよ」
ロウは、アベルを睨みつけた。
「俺に何をさせたい?」
「名前を呼んでほしい」
「さっき呼んだ」
「違うよ」
アベルは首を振った。
「さっきのは、名前を思い出しただけ」
「何が違う?」
「思い出すことと、認めることは違うから」
ロウは黙った。
アベルは続けた。
「兄さんが僕をアベルだと認めてくれたら、僕は生まれることができる」
「……認めなかったら?」
「僕は生まれられない」
「それで終わりか?」
「ううん」
少年の声が、わずかに低くなった。
「僕が生まれられなかったら、兄さんが僕になる」
ロウの表情が変わった。
「……どういう意味だ」
「そのままの意味だよ」
「説明しろ」
「兄さんは、僕の名前を忘れている。だから、僕が生まれる場所を持っていない。でも、僕の名前は消えていない」
アベルは、ロウの胸に指を当てた。
「名前は、器を探すんだよ」
「……」
「僕の器がなければ、次に近い器を使う」
「それが、俺だと?」
「うん」
アベルは頷いた。
「兄さんは、僕の兄さんだから」
「血のつながりがあるとでも言うのか」
「……血だけなら、違うかもしれない」
「何?」
「でも、僕たちは同じ場所から来たんだ」
少年は、自分の左手を開いた。
掌には、ロウと同じ傷がある。
「同じ日に、同じ名前をもらった」
「俺の名前はロウだ」
「今はね」
アベルは、悲しそうに笑った。
「でも、兄さんは昔、僕に名前をくれた」
「……」
「それで、僕が生まれた」
ロウは、少年の言葉を吟味した。
矛盾している。
生まれる前に名前をもらう。
名前をもらって生まれたのに、まだ生まれていない。
同じ日に、同じ名前をもらった。
その一方で、名前はアベル。
名前を与えたのはロウ。
そして、その名前を忘れたのもロウ。
筋が通らない。
だが、筋が通らないことと、嘘であることは同じではない。
ロウは、そういう人間を何度も見てきた。
自分の言葉が矛盾していると気づいていない容疑者。
本当のことを話しているのに、記憶が欠けているせいで説明できない目撃者。
そして、事実を隠すために、意図的に真実の一部だけを語る者。
「……アベル」
ロウは、少年の名前を呼んだ。
アベルの瞳が揺れた。
「お前は、なぜ俺を兄と呼ぶ?」
「兄さんだから」
「それは理由じゃない」
「……」
「俺とお前の関係を説明しろ」
アベルは、初めて困った顔をした。
「……難しいね」
「簡単に答えろとは言っていない」
「うん」
少年は、正門の外を見た。
黒門砦の向こうには、荒野が広がっている。
さらにその向こうに、魔王領がある。
人間の地図には、境界線が引かれている。
ここから先は人間の領土。
そこから先は魔王の領土。
だが、ロウは知っていた。
地図の線ほど、世界は単純ではない。
魔物は人間の領土へ入り込む。
人間は魔王領へ踏み込む。
商人は国境を越え、難民は追われ、兵士は命令によって境界を踏み越える。
境界とは、世界そのものに刻まれた線ではない。
誰かが決め、誰かが守り、誰かが破ることで維持されるものだ。
「……兄さん」
アベルが言った。
「もし、兄さんが人間でも人狼でもなかったら、どうする?」
「俺は俺だ」
「じゃあ、もし、兄さんが生まれる前に、別の名前を持っていたら?」
「今の名前を使う」
「その名前を、誰かが返してほしいと言ったら?」
「断る」
「どうして?」
「今の俺を作ったのは、過去だけじゃないからだ」
ロウは、少年を見た。
「俺が誰かを決めるのは、俺自身の過去だけではない。今まで何をしてきたか、誰を守り、誰を傷つけ、何を選んできたか。それも俺を作っている」
アベルは黙っていた。
「お前が本当に俺の兄弟だったとしても、それだけで俺の人生を決めることはできない」
ロウは、言葉を区切った。
「俺が覚えていない過去を理由に、今の俺を奪おうとするなら――俺は、お前を敵とみなす」
アベルは、しばらくロウを見つめていた。
そして、静かに言った。
「……そうだね」
彼は微笑んだ。
「それでいいんだよ、兄さん」
その言葉が、ロウには不気味だった。
まるで、答えを試されていたかのようだった。
少年は、ロウの手を取った。
「でも、一つだけお願いしていい?」
「何だ」
「今日、死んだ人たちの名前を、ちゃんと調べてあげて」
ロウは、正門前に並ぶ死体を振り返った。
「……あいつらは、ベルン・ハルトだと言ったな」
「うん」
「三十六体のベルンと、俺の顔をした死体。あれは何だ」
「名前を返してもらうのを待っている人たち」
「誰に?」
アベルは、ロウを見た。
「兄さんに」
ロウは眉をひそめた。
「俺は、あいつらを知らない」
「うん」
「名前も、死んだ理由も分からない」
「うん」
「なら、どうやって返せばいい?」
アベルは、少しだけ考えた。
そして、答えた。
「……死んだ理由を調べるんだよ」
「それだけか?」
「それだけじゃない」
少年は、正門の向こうを見つめた。
「その人が、どうして生きていたのかも」
第三節 死体は三十七体、死者は三十六人
ミラは、三十七体の死体を前にして、珍しく言葉を失っていた。
死体の検査は、彼女の仕事だ。
どれほど異常な状態でも、どれほど凄惨な姿でも、まずは観察し、分類し、記録する。
恐怖は後回し。
嫌悪も後回し。
目の前の事実を理解することが、最初にすべきことだった。
だが、今回ばかりは、事実そのものが彼女の理解を拒んでいた。
「……ロウ」
ミラは、手袋を外した。
「この死体たちは、同じ人間ではないわ」
「顔は同じだ」
「顔だけよ」
彼女は、一体目の死体を指した。
「この人は、骨格からして別人。二体目も、三体目も。体格も、骨の太さも、歯の摩耗具合も違う。年齢も違うし、生活習慣も違う」
「つまり?」
「それぞれ別の人間が、同じ顔をしている」
「変身型の魔物か?」
「可能性はある。でも、死体の内部まで変化している。少なくとも、外見を変えるだけの能力では説明できない」
ミラは、検査記録をめくった。
「三十七体のうち、三十六体には、異なる死因がある。窒息、出血、感染症、熱傷、落下、栄養失調……。死亡した年代も違う。古いものは百年以上前。新しいものは、数時間前」
「最後の一体は?」
ミラは、ロウと同じ顔をした死体を見た。
「死因が分からない」
「傷は?」
「外傷はない。臓器も、今のところ異常は見つからない。ただ……」
彼女は、死体の左手を持ち上げた。
掌の中央に、古い傷がある。
ロウと同じ位置。
同じ形。
「この傷、あなたのものとよく似ているわね」
「……そうだな」
「あなたの傷は、いつできたの?」
「生まれたときからあったと聞いている」
「誰に?」
「母だ」
「母親は、傷の理由を説明した?」
ロウは、答えなかった。
ミラは、その沈黙を見て、追及をやめた。
「……分かった。今は、死体の話をしましょう」
彼女は、死体の手首を指さした。
「この人物の血管には、奇妙な痕跡がある。通常の血液が流れていた痕跡とは違う」
「血液がなかったのか?」
「そうではないわ。血液はある。でも、血液が身体を巡った痕跡が、途中で途切れている」
「心臓が止まっていた?」
「それなら、全身に同じような変化が出るはず。でも、この死体は違う」
ミラは、しばらく考えてから言った。
「……この身体は、何かを運ぶために作られたのかもしれない」
「何を?」
「記憶」
ロウは、彼女を見た。
ミラは、自分の言葉を吟味するように、ゆっくりと続けた。
「仮に、この世界に、記憶を保存するための生物学的な仕組みがあるとする。脳だけではなく、血液や神経、骨格まで含めて、記憶を保持するための仕組みが」
「そんなものがあるのか?」
「知らないわ。少なくとも、人間にはない」
「では、魔物には?」
「……それも、知らない」
ミラは、正直に答えた。
「でも、この死体たちが、ただの死体ではないことは確かよ。少なくとも、普通の生物として扱うべきではない」
ロウは、三十七体の死体を見回した。
「アベルは、こいつらが名前を返してもらうのを待っていると言った」
「名前を返す?」
「そうだ」
「誰に?」
「俺に」
ミラは、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「……それは、あなたが彼らを知っているという意味ではないわね」
「どういうことだ?」
「あなたが彼らを知っている必要がない、ということよ」
彼女は、死体の一つを指した。
「この人たちは、同じ顔をしている。でも、同じ人間ではない。名前も、死因も、時代も違う。それなのに、全員がベルン・ハルトという名前を持っている」
「……」
「もし、彼らの共通点が名前だけなら、名前を返すというのは、彼らを個人として識別することなのかもしれない」
ロウは眉をひそめた。
「つまり、ベルン・ハルトという一つの名前に、何十人もの人間が押し込められている?」
「あるいは、何十人もの人間が、一つの名前を使っている」
ミラは、死体の顔を見た。
「どちらにしても、名前だけでは個人を特定できない。だから、彼らが誰だったのかを調べる必要がある」
ロウは、アベルの言葉を思い出した。
――その人が、どうして生きていたのかも。
「……オスカーを呼んでくれ」
「記録官?」
「死亡者名簿を照合する。三十七体の死体に、名前以外の情報があるか調べる」
「分かった」
ミラは立ち上がった。
そのとき、死体の列の端から、小さな音がした。
かすかな、乾いた音。
指先が、石畳を叩いている。
ミラは振り返った。
「……今、動いた?」
ロウは剣を抜いた。
死体の一つが、ゆっくりと腕を持ち上げた。
顔は、ベルン・ハルト。
しかし、その目は閉じたままだった。
死体は、口を開いた。
そして、かすれた声で言った。
「……名前を」
ミラが息を呑む。
死体の口が、もう一度動いた。
「……名前を、返してくれ」
ロウは、剣を構えたまま、死体に近づいた。
「お前は誰だ」
死体は、目を閉じたまま答えた。
「……ベルン・ハルト」
「それは、お前の名前か?」
「……違う」
ロウの目が細くなった。
「では、誰の名前だ」
死体は、しばらく沈黙した。
そして、言った。
「……俺が、殺した人間の名前だ」
ロウは剣先を下げなかった。
「何をした?」
「……名前を、奪った」
「誰から?」
「……俺の兄から」
その言葉を聞いた瞬間、死体の目が開いた。
瞳は、真っ黒だった。
「……兄さん」
死体は、ロウを見つめた。
「……やっと、見つけた」
ミラが叫んだ。
「ロウ、離れて!」
だが、死体は襲いかかってこなかった。
ただ、ロウを見つめていた。
「……俺の名前を、返してくれ」
ロウは、剣を構えたまま尋ねた。
「お前の名前は何だ」
死体は、口を開いた。
だが、声が出なかった。
喉が動く。
唇が震える。
それでも、声は出ない。
まるで、その名前だけが、身体の中から消えてしまったかのように。
ロウは、死体の目を見た。
そして、気づいた。
その目には、恐怖があった。
自分が誰なのか分からない恐怖。
自分が何をしたのか分からない恐怖。
そして、自分の罪を認めるための名前さえ、失ってしまった者の恐怖。
「……名前が、分からないのか」
死体は、ゆっくりと頷いた。
ロウは、剣を下ろした。
「分かった」
彼は、静かに言った。
「なら、まずはお前が何をしたのか、調べる」
死体の瞳が揺れた。
「……俺を、殺さないのか」
「お前は、もう死んでいる」
「……」
「それに、罪があるかどうかも、まだ分からない」
ロウは、死体の顔を見た。
「名前がないからといって、罪が消えるわけじゃない。だが、名前がないからといって、罪があるとも限らない」
死体は、長いあいだロウを見つめていた。
やがて、その目から、一筋の黒い液体が流れた。
涙だった。
黒い涙が、頬を伝い、顎から落ちた。
床に触れた瞬間、液体は小さな文字へと変わった。
アベル。
ロウの心臓が、強く打った。
「……今のは」
ミラが、床に膝をついた。
彼女は黒い文字に触れようとしたが、指先が触れる直前、文字は崩れて消えた。
死体は、静かに目を閉じた。
そして、二度と動かなかった。
ロウは、その場に立ち尽くした。
アベル。
少年の名前。
彼が、ロウの兄弟だと主張する名前。
そして、死体が自分の名前を取り戻すために、最後に残した文字。
ロウは、ひとつの可能性を考えた。
この死体たちは、ベルン・ハルトという名前を持っていたのではない。
ベルン・ハルトという名前によって、本当の名前を奪われていたのではないか。
もしそうなら、名前を返すとは。
名前を与えることではない。
名前を呼ぶことでもない。
その人が、誰であったのかを、取り戻すことだ。
だが、問題は残っている。
なぜ、ベルン・ハルトなのか。
なぜ、何十人もの人間が、同じ名前を持つのか。
そして、なぜアベルは、ロウを兄と呼ぶのか。
ロウは、死体の列を見つめた。
三十六体のベルン・ハルト。
一体のロウ・テュユール。
彼らは、何を待っているのだろう。
答えは、まだ見えなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
この砦では、死者の数を数えても意味がない。
数えるべきなのは、名前だ。
そして、その名前を失った者たちが、何をしたのか。
それを調べなければならない。
第四節 記録にない兄弟
オスカーは、死亡者名簿を三度読み直した。
一度目は、記録官として。
二度目は、事件の調査者として。
三度目は、名前を失った人間の立場から。
「……おかしい」
彼は呟いた。
ロウは、机の向こうで腕を組んでいた。
「何がだ」
「死亡者名簿に記録されているベルン・ハルトのうち、三十六人は、それぞれ別の人物として記載されています」
「だが、顔は同じだった」
「はい。ですが、記録上の出身地も、職業も、死亡時期も違います。中には、同じ年代に生きていた者もいます」
「同じ名前の人間が、同じ時代に複数存在すること自体は、珍しくない」
「その通りです。しかし、彼らには共通点があります」
オスカーは、別の紙を差し出した。
「全員、出生記録がありません」
ロウは紙を受け取った。
「全員?」
「はい。出生地が記載されている者もいますが、その土地の出生台帳には名前がありません。家族の名前がある者もいますが、親族の記録をたどると、必ずどこかで途切れます」
「身元を偽装した可能性は?」
「あります。ただし、偽装したとすれば、複数の時代にわたって同じ名前を使い続けたことになります」
「誰が、そんなことをする?」
「分かりません」
オスカーは、次の紙を取り出した。
「そして、もう一つ」
そこには、ベルン・ハルトの死亡記録が年代順に並べられていた。
最古の記録は百四十七年前。
最新の記録は半年前。
その間に、三十六件の死亡記録がある。
しかし、奇妙なことに。
死亡記録の間隔は、一定ではなかった。
十年ほど空いているところもあれば、一年に三件も記録されているところもある。
そして、そのすべての記録には、死亡時刻とは別に、もう一つの日付が記されていた。
「……何だ、この日付は?」
ロウが尋ねた。
「名前が記録された日付です」
オスカーは答えた。
「死亡日とは別に、名前が台帳へ登録された日付がある。通常なら、死亡届を受理した日付と大きく離れることはありません。しかし、この記録では違います」
彼は、古い記録を指した。
「最初のベルン・ハルトは、死亡する百二十年前に名前が登録されています」
ロウは眉をひそめた。
「百二十年前?」
「はい。死亡したのは百四十七年前。名前が登録されたのは、その二十七年後です」
「死んだ後に、名前が登録された?」
「そうなります」
「他の記録は?」
「同じ傾向があります。死亡した後に名前が登録された者。生まれる前に名前が登録された者。死亡記録よりも先に、名前だけが台帳に記されている者」
オスカーは、声を落とした。
「この名簿は、死んだ人間を記録しているのではないのかもしれません」
「では、何を記録している?」
「……名前が、どこに移ったのか」
ロウは、沈黙した。
オスカーは続けた。
「名前が登録された日付と、死亡日が一致しないのは、記録官が間違えたからではない。名前が、人間の生死とは別に動いているのではないでしょうか」
「名前が移動する?」
「はい」
「人間から人間へ?」
「あるいは、死者から生者へ」
ロウは、古い記録の一つを手に取った。
百二十年前に名前が登録され、百四十七年前に死亡したベルン・ハルト。
その記録の備考欄には、短い文章があった。
兄の名を継承。本人の同意なし。
ロウは、次の記録を開いた。
兄の名を継承。本人の同意なし。
さらに次の記録。
兄の名を継承。本人の同意なし。
三十六件のうち、二十九件に同じ記述があった。
兄の名を継承。
本人の同意なし。
「……兄弟なのか?」
ロウが呟いた。
オスカーは、首を振った。
「記録上は、そうなっています。ただし、兄弟の名前は、どの記録にもありません」
「ベルン・ハルトの兄が、ベルン・ハルトだった?」
「そう考えることもできます」
「だが、同じ名前なら、兄と弟を区別できない」
「だから、名前が継承されたのではないでしょうか」
オスカーは、古い記録を指した。
「兄が死ぬと、弟が兄の名前を受け継ぐ。弟が死ぬと、その弟がまた名前を受け継ぐ。そうすれば、記録上は、同じ名前が何度も生まれ、何度も死んだことになります」
ロウは、しばらく考えた。
「……それだけなら、単なる家名の継承だ」
「はい」
「だが、こいつらは同じ顔をしている」
「そうです」
「しかも、記憶を失っている」
「……はい」
「なら、名前だけを継承していたわけではない」
オスカーは、黙って頷いた。
ロウは、机の上に並べられた記録を見つめた。
兄の名を継承。
本人の同意なし。
それは、家名を継いだという意味ではないのかもしれない。
兄の人生を継いだ。
兄の記憶を継いだ。
兄の罪を継いだ。
兄が死んだとき、弟がその名前を受け継ぎ、兄として生きる。
そして、弟が死ねば、次の誰かが兄になる。
もしそうなら、彼らは何を恐れていたのだろう。
死ぬことか。
忘れられることか。
それとも、自分が自分でなくなることか。
「……オスカー」
「はい」
「この名簿を書いた人間は、誰だ?」
「分かりません」
「署名は?」
「ありません」
「筆跡は?」
「複数の筆跡が混在しています。ただし、同じ筆跡が何十年も続いている箇所もあります」
「……同じ人間が、何十年も記録を書き続けた?」
「その可能性もあります」
ロウは、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「いや」
彼は、帳簿を閉じた。
「同じ人間とは限らない」
オスカーが顔を上げる。
「どういう意味ですか?」
ロウは、古い死亡記録を指した。
「この名簿は、死んだ人間を記録している。だが、名前が移動しているなら、記録を書いた人間も、同じ名前を受け継いでいた可能性がある」
「……記録官も、名前を?」
「そうだ。ベルン・ハルトという名前を持つ者が、死んだ人間の記録を続けていたのかもしれない」
オスカーの顔が、青ざめた。
「では、この記録を書いた人物は……」
「ベルン・ハルトだ」
ロウは答えた。
「死んだベルンが、次のベルンの記録を書いた。あるいは、生きているベルンが、死んだベルンの記録を書いた」
彼は、帳簿の表紙を見た。
「この名簿は、誰かが自分の死を記録するために作ったものなのかもしれない」
オスカーは、しばらく黙っていた。
そして、震える声で言った。
「……隊長」
「何だ」
「この名簿の最後に、もう一つ名前があります」
ロウは顔を上げた。
オスカーは、帳簿を開いた。
最後のページ。
そこには、ベルン・ハルトではない名前が記されていた。
ロウ・テュユール。
死亡日――未定。
死亡場所――第三封印門。
死因――名前の返還。
ロウは、その文字を見つめた。
「……いつ記録された?」
「今朝です」
「誰が書いた?」
オスカーは、首を振った。
「分かりません」
「誰も記録室に入っていないはずだ」
「はい。鍵は私が管理しています」
「なら、誰が書いた?」
オスカーは、顔を上げた。
「……隊長」
彼は、恐る恐る尋ねた。
「今朝、第三封印門へ行かれましたか?」
「行っていない」
「地下へ降りられましたか?」
「昨夜以降、行っていない」
「……では」
オスカーは、最後のページを指した。
「この記録は、隊長が地下へ行く前に、すでに書かれていたのかもしれません」
ロウは、記録を見つめた。
死亡日――未定。
死亡場所――第三封印門。
死因――名前の返還。
まだ起きていない死が、記録されている。
百年以上前の出生記録に、まだ生まれていない人間の名前が記されていたのと同じように。
「……オスカー」
「はい」
「この記録は、燃やすな」
「え?」
「誰にも見せるな。ただし、隠すな。正式な保管記録として封印しろ」
「しかし、隊長の死亡記録が――」
「俺はまだ生きている」
ロウは、はっきりと言った。
「だから、この記録が間違っていることを証明する」
第五節 名前を持たない少女
正午を過ぎた頃、黒門砦の外から一人の少女がやって来た。
年齢は、十歳前後。
薄い外套を羽織り、裸足で歩いていた。
手には、小さな木箱を持っている。
兵士たちは、彼女を見つけるとすぐに取り囲んだ。
「止まれ!」
「身分を証明しろ!」
「名前を名乗れ!」
少女は、立ち止まった。
兵士たちを見回し、首を傾げた。
「……名前?」
「そうだ! 名前を言え!」
少女は、少し考えた。
そして、答えた。
「ありません」
兵士たちの間に、ざわめきが広がった。
「名前がないだと?」
「どこの村から来た!」
「保護者はどうした!」
少女は、木箱を抱きしめた。
「……名前は、返しました」
その言葉を聞いた兵士が、顔色を変えた。
「隊長を呼べ!」
数分後、ロウが正門へやって来た。
少女は、彼を見るなり、安心したように笑った。
「……見つけた」
ロウは、少女を見つめた。
「俺を知っているのか?」
「はい」
「どこで会った?」
「……まだ、会っていません」
ロウは眉をひそめた。
「またそれか」
少女は、困ったように笑った。
「すみません。でも、本当なんです」
彼女は、木箱を差し出した。
「これを、返しに来ました」
「何だ?」
「名前です」
ロウは、木箱を受け取らなかった。
「……誰の名前だ」
少女は、箱の蓋を開けた。
中には、小さな木札が一枚入っていた。
古びた木札。
表面には、黒い文字が刻まれている。
ベルン・ハルト。
その下には、別の文字があった。
アベル。
さらに、その下に。
ロウ・テュユール。
三つの名前。
木札の裏には、短い文章が刻まれていた。
一つ目は、身体に与える。
二つ目は、記憶に与える。
三つ目は、世界に与える。
だが、名前を持つ者が四人になったとき、
一人は必ず、名前を失う。
ロウは、木札を見つめた。
「……これはどこで手に入れた?」
「地下です」
「第三封印門の向こうか?」
少女は頷いた。
「はい」
「どうやって入った?」
「……道があったから」
「誰が案内した?」
「誰も」
「いつからそこにいた?」
少女は、しばらく考えた。
「……ずっと」
「ずっと?」
「はい。ずっと、そこにいました」
ロウは、少女の顔を観察した。
肌に傷はない。
衣服は古びているが、泥も血もついていない。
足の裏には、石畳を歩いた痕跡がない。
それなのに、少女の外套には、地下の石壁に付着する黒い粉がついていた。
「名前はないと言ったな」
「はい」
「以前はあったのか?」
少女は頷いた。
「はい」
「何という名前だった?」
「……忘れました」
「誰が奪った?」
少女は、木札を見つめた。
「……私です」
「自分で?」
「はい」
ロウは、少女の目を見た。
「なぜだ」
少女は、少しだけ微笑んだ。
「……誰かが、名前を持たなければいけなかったから」
その答えを聞いた瞬間、ロウは、三つの封印門の記録を思い出した。
第一の門は、外からの侵入を防ぐ。
第二の門は、内側から何かが流れ出るのを防ぐ。
第三の門は、境界そのものを固定する。
そして、鍵は金属ではなく、記憶によって維持される。
名前を持つ者が四人になったとき、一人は必ず名前を失う。
少女は、木札を差し出した。
「……これを、返してください」
「誰に?」
「本当の持ち主に」
「それは誰だ?」
少女は、ロウを見た。
「……あなたです」
ロウは、木札を受け取った。
触れた瞬間、掌の傷が熱を持った。
彼は反射的に手を離そうとした。
だが、木札は掌に張りついたように離れなかった。
木の表面に刻まれた文字が、ゆっくりと変化していく。
ベルン・ハルト。
アベル。
ロウ・テュユール。
三つの名前が、溶けるように混ざり合った。
そして、最後に残った文字は。
――テュユール。
ロウは、息を呑んだ。
自分の姓。
母から受け継いだ名前。
王都の記録にも、黒門砦の記録にも、確かに存在する名前。
だが、なぜか、その文字を見た瞬間。
彼は、自分がその名前を初めて聞いた日のことを思い出した。
幼い頃。
母が、彼を抱きしめていた。
彼女は、泣いていた。
そして、彼の耳元で囁いた。
――ごめんなさい。
――あなたに、あの子の名前を返してあげられなかった。
ロウは、木札を握りしめた。
「……あの子は、誰だ」
少女は、答えなかった。
ただ、悲しそうに微笑んでいた。
その顔を見て、ロウは気づいた。
少女は、名前を失ったのではない。
名前を返したのだ。
誰かのために。
そして、その誰かが誰なのかを、彼女は知っている。
「……お前の名前を、返した相手は誰だ?」
少女は、ゆっくりと顔を上げた。
「……あなたのお母さんです」
ロウの世界が、音を失った。
第六節 母が残したもの
ロウの母は、彼が十二歳のときに死んだ。
病死だった。
少なくとも、ロウはそう聞かされていた。
人狼の血を引く彼は、幼い頃から身体が丈夫だった。多少の怪我なら一晩で治ったし、流行り病にかかっても、同年代の子供より早く回復した。
母は、そんなロウを心配していた。
怪我をすると、必要以上に傷を確かめた。
熱を出すと、夜通し寝ずに看病した。
そして、時折、何かを恐れるように、ロウの左手を見つめていた。
掌にある傷。
生まれたときからあったという傷。
ロウは、母がその傷を怖がっているのだと思っていた。
人狼の血が混じっているから。
自分が普通の人間ではないから。
だから、母は自分の身体を恐れているのだと。
だが、違ったのかもしれない。
母が恐れていたのは、傷そのものではなかった。
その傷が、何かを思い出させるからだった。
「……お前は、母を知っているのか?」
ロウは、少女に尋ねた。
少女は頷いた。
「はい」
「どこで会った?」
「……ずっと昔」
「いつだ」
「あなたが生まれる前です」
ロウは、拳を握りしめた。
「俺の母は、人間だった」
「はい」
「名前はエリナ・テュユール。父は人狼で、母は人間だった。俺が生まれたとき、父はすでに死んでいた」
少女は、静かに聞いていた。
「母は俺を育てた。十二歳のときに病気で死んだ。それが、俺の知っている母だ」
「……はい」
「お前が知っている母は、いつの母だ?」
少女は、答えなかった。
ロウは、声を荒らげた。
「答えろ!」
少女は肩を震わせた。
それでも、逃げなかった。
「……あなたのお母さんは」
彼女は、ゆっくりと口を開いた。
「あなたが生まれる前に、一人の子供を産みました」
ロウは、動けなかった。
「その子供は、名前を持っていませんでした」
少女は続けた。
「だから、お母さんは名前を与えました。あなたが生まれる前に、あなたが生まれる場所を用意するために」
「……何を言っている?」
「お母さんは、二人の子供を産もうとしていたんです」
ロウは、少女を見つめた。
「俺に、兄弟はいない」
「はい」
「母は、俺を一人で育てた」
「はい」
「兄弟がいたなら、俺は知っている」
少女は、首を振った。
「……知っていたら、あなたは生まれられなかったから」
その言葉が、胸に突き刺さった。
ロウは、息を吐いた。
「……母は、俺に何をした?」
少女は、目を伏せた。
「……あなたを守ったんです」
「何から?」
「名前から」
ロウは、意味が分からなかった。
「名前が、何だというんだ」
少女は、木札を見た。
「名前は、その人を世界に結びつけるものです。でも、名前が強すぎると、その人を世界に縛りつけてしまうことがある」
「……」
「あなたのお母さんは、二人の子供を同時に生むことができませんでした」
「なぜだ」
「一人の名前が、二人の身体を求めていたからです」
ロウは、三つの名前を思い出した。
ベルン・ハルト。
アベル。
ロウ・テュユール。
「……一つの名前が、二人の身体を求めていた?」
少女は頷いた。
「はい。だから、お母さんは、一人の子供に名前を与え、もう一人の子供から名前を取り上げたんです」
ロウの喉が、ひどく乾いた。
「……誰から?」
少女は、彼の左手を見た。
掌の傷。
「……あなたからです」
ロウは、目を見開いた。
「俺の名前を、奪った?」
「はい」
「母が?」
「……はい」
「俺の名前を奪って、別の子供に与えたのか?」
少女は、首を振った。
「違います」
「なら、何だ」
「あなたの名前を奪ったのではありません」
少女は、ロウを見上げた。
「あなたの名前を、二つに分けたんです」
その瞬間、ロウの頭の中に、何かが流れ込んだ。
白い部屋。
石の床。
冷たい空気。
母の泣き声。
そして、小さな子供の手。
自分の手と、同じ傷を持つ手。
二人の子供が、向かい合って座っている。
片方は泣いている。
もう片方は、笑っている。
母が、二人の間に膝をついている。
彼女の手には、小さな木札があった。
そこには、二つの名前が刻まれている。
一つは、ロウ。
もう一つは、アベル。
母は、泣きながら言った。
――ごめんなさい。
――あなたたちは、二人とも生まれることができない。
子供たちは、母を見上げた。
――どうして?
母は答えた。
――あなたたちは、一人の名前から生まれたから。
ロウは、頭を押さえた。
「……やめろ」
少女は、何もしていない。
ただ、そこに立っているだけだ。
それなのに、記憶が流れ込んでくる。
知らないはずの記憶。
自分が生まれる前の記憶。
母が、自分を産む前の記憶。
そして、もう一人の子供の記憶。
「……やめろ!」
ロウは、壁に手をついた。
視界が揺れる。
呼吸が乱れる。
左手の掌が、焼けるように熱い。
少女は、彼のそばに駆け寄った。
「大丈夫ですか!」
「……触るな!」
ロウは、彼女を振り払った。
少女は床に倒れた。
それでも、木札を離さなかった。
ロウは、荒い息を吐いた。
「……お前は、何者だ」
少女は、ゆっくりと立ち上がった。
「……名前を返す者です」
「それは役目だ。お前自身の名前は何だ」
少女は、答えなかった。
ロウは、彼女を睨みつけた。
「名前を失ったと言ったな。母に返したと言ったな。なら、お前は誰なんだ」
少女は、しばらく黙っていた。
そして、ようやく答えた。
「……私は、あなたのお母さんが最後に呼んだ名前です」
ロウの心臓が、強く打った。
「……何?」
「あなたのお母さんは、死ぬ前に、私の名前を呼びました」
少女は、静かに微笑んだ。
「だから、私はここに来たんです」
ロウは、彼女を見つめた。
「……母は、何と言った?」
少女は、目を閉じた。
そして、母の声を真似るように、ゆっくりと言った。
「――あの子たちを、どうか、許してあげて」
ロウは、動けなかった。
「――私が、選んでしまったから」
少女の声が震えた。
「――私が、一人を生かすために、もう一人を忘れたから」
彼女は目を開けた。
その瞳には、涙が浮かんでいた。
「……あなたのお母さんは、あなたを愛していました」
ロウは、何も言わなかった。
「でも、もう一人の子供も、愛していたんです」
少女は、ロウを見た。
「そして、その子供を救うために、あなたの名前を分けた」
ロウの脳裏に、幼い頃の母の顔が浮かんだ。
彼女は、いつもロウを抱きしめていた。
優しく、強く。
まるで、誰かに奪われることを恐れるように。
「……母は」
ロウは、ようやく声を出した。
「母は、俺に何を望んでいた?」
少女は、すぐには答えなかった。
やがて、静かに言った。
「……あなたが、自分で選ぶことです」
第七節 返された名前
夕暮れが近づいていた。
黒門砦の正門は、依然として閉じられている。
三十七体の死体は、ミラの指示で一体ずつ検査され、記録された。
兵士たちは交代で休息を取り、互いの名前を確認し合っている。
そして、名前を持たない少女は、砦の小さな部屋に保護された。
ロウは、少女と二人きりで話をすることにした。
部屋には机と椅子が二脚。
窓は小さく、外から中を覗くことはできない。
扉の外には、セラが立っている。
少女は、椅子に座っていた。
木箱は、机の上に置かれている。
ロウは、向かいに腰を下ろした。
「……いくつか質問がある」
「はい」
「お前は、俺の母が死ぬ前に呼んだ名前だと言ったな」
「はい」
「それは、どういう意味だ?」
少女は、少し考えた。
「……名前は、人が誰かを呼ぶためのものです。でも、呼ばれた名前が、必ずしも人間のものとは限りません」
「具体的に説明しろ」
「たとえば、あなたのお母さんが、誰かを呼んだとします。その人が、もう死んでいたら?」
「死者を呼んでも、返事はない」
「普通は、そうです」
少女は頷いた。
「でも、名前が残っていれば、返事ができることがあります」
「……名前が残る?」
「はい。記憶の中に。記録の中に。あるいは、誰かの身体の中に」
ロウは、掌の傷を見た。
「……俺の中に、母が呼んだ名前が残っているのか?」
「はい」
「それが、アベルか?」
少女は、頷かなかった。
否定もしなかった。
「……アベルは、あなたのお母さんが呼んだ名前です」
「それだけか?」
「いいえ」
少女は、ゆっくりと顔を上げた。
「アベルは、あなたが呼んだ名前でもあります」
ロウは、目を閉じた。
頭の中に、あの白い部屋が浮かんだ。
二人の子供。
母の涙。
木札。
そして、自分の声。
――アベル。
自分は、その名前を呼んだことがある。
覚えていないだけで。
「……俺は、何をした?」
ロウは尋ねた。
少女は、静かに答えた。
「あなたは、アベルに名前を与えました」
「なぜ?」
「……アベルが、名前を欲しがったからです」
「それで、何が起きた?」
「アベルは、生まれることができました」
「……」
「でも、その代わりに、あなたは自分の名前の一部を失った」
ロウは、少女を見た。
「俺の名前は、ロウ・テュユールだ」
「はい」
「それが、失われた名前の一部なのか?」
「……違います」
少女は首を振った。
「ロウ・テュユールは、あなたが生きてきた時間の中で、あなた自身が選び続けてきた名前です」
「なら、失った名前とは何だ?」
少女は、木札を開いた。
三つの名前が刻まれている。
ベルン・ハルト。
アベル。
ロウ・テュユール。
「……この三つの名前は、もともと一つでした」
ロウは、息を止めた。
「一つの名前が、三つに分かれた?」
「はい」
「なぜ?」
「一つの名前に、三つの役割があったからです」
少女は、木札の文字を指でなぞった。
「一つ目は、身体を持つための名前」
「……ベルン・ハルトか?」
「はい」
「二つ目は?」
「記憶を持つための名前」
「アベル?」
「はい」
「三つ目は?」
少女は、ロウを見た。
「世界に存在するための名前」
ロウは、自分の胸に手を当てた。
「……ロウ・テュユール」
少女は頷いた。
「はい」
「それなら、三つの名前は、それぞれ別の人間に与えられたということか?」
「……最初は、そうでした」
「最初は?」
少女は、窓の外を見た。
夕陽が、城壁の向こうに沈みかけている。
「名前が分かれたとき、三つの役割は別々の器に宿りました。身体を持つ者。記憶を持つ者。世界に存在する者」
「それが、ベルンとアベルと俺か」
「はい」
「だが、俺はロウ・テュユールとして生きてきた。ベルンはベルン・ハルトとして生きている。アベルは……」
ロウは言葉を切った。
「……アベルは、まだ生まれていないと言った」
「はい」
「なら、記憶を持つ者が、なぜ生まれていない?」
少女は、静かに答えた。
「……記憶は、身体がなくても残るからです」
「……」
「アベルは、あなたが忘れた記憶の中にいます。あなたが思い出さない限り、アベルは生まれることができない」
ロウは、木札を見つめた。
「……それなら、俺がアベルを思い出せば、アベルは生まれるのか?」
「はい」
「そうすれば、名前は元に戻る?」
少女は、首を振った。
「……いいえ」
ロウは顔を上げた。
「なぜだ」
「三つの名前が、一つに戻るわけではありません」
「……」
「一つの名前が三つに分かれたとき、それぞれの名前は、別々の人生を持つようになりました」
少女は、木札を閉じた。
「ベルンには、ベルンの人生があります。アベルには、アベルの人生があります。そして、あなたには、あなたの人生がある」
「なら、何のために名前を返す?」
少女は、ロウを見た。
「……誰かが、自分の人生を選べるようにするためです」
その答えを聞いた瞬間、ロウは理解した。
名前を返すとは、元に戻すことではない。
一つにまとめることでもない。
失われたものを、ただ取り戻すことでもない。
それは、名前を奪われた者が、自分の人生を選べるようにすることだ。
ベルンが、ベルンとして生きるのか。
アベルが、アベルとして生まれるのか。
ロウが、ロウ・テュユールとして生き続けるのか。
その選択を、誰かが代わりに決めてはならない。
たとえ、その誰かが母親であっても。
たとえ、その誰かが、自分自身であっても。
「……お前の名前は?」
ロウは、少女に尋ねた。
少女は、少しだけ驚いた顔をした。
「……ありません」
「本当に?」
「はい」
「名前を返したと言ったな」
「はい」
「誰に返した?」
少女は、木札を見た。
「……あなたのお母さんに」
「なぜ?」
「あなたのお母さんが、最後に私を呼んだからです」
ロウは、少女の顔を見た。
「それなら、お前は母の名前を持っているのか?」
少女は、首を振った。
「いいえ」
「では、何を持っている?」
少女は、しばらく考えた。
そして、答えた。
「……約束です」
「約束?」
「あなたのお母さんは、私に言いました」
少女は、ゆっくりと目を閉じた。
「――もし、あの子が自分の名前を思い出せたら、どうか、あの子に選ばせてあげて」
ロウは、何も言わなかった。
「――あの子が、誰かを救うために自分を犠牲にするのではなく」
少女の声が震えた。
「――自分が生きるために、誰かと一緒に生きる道を選べるように」
ロウは、息を吐いた。
母は、自分に何かを隠していた。
自分の名前を分けた。
別の子供の存在を忘れさせた。
そして、その罪を抱えたまま死んだ。
それでも、最後に願ったのは、ロウが誰かを救うために自分を犠牲にすることではなかった。
自分自身の人生を選ぶこと。
誰かを救うことと、自分を失うことを、同じ意味にしないこと。
ロウは、立ち上がった。
「……分かった」
少女は顔を上げた。
「分かったんですか?」
「いや」
ロウは、正直に答えた。
「何も分かっていない」
少女は、目を丸くした。
「……でも」
ロウは、木札を手に取った。
「分からないことを理由に、誰かの名前を奪うわけにはいかない」
彼は、少女を見た。
「お前の名前を、取り戻す方法を探す」
少女は、しばらく彼を見つめていた。
そして、泣きながら笑った。
「……ありがとうございます」
ロウは、扉へ向かった。
その背中に、少女が声をかけた。
「隊長」
ロウは足を止めた。
「……何だ」
少女は、ゆっくりと尋ねた。
「もし、アベルが生まれたら」
「……」
「あなたは、アベルを弟として迎えてくれますか?」
ロウは、しばらく黙っていた。
やがて、答えた。
「……そいつが、俺の弟になりたいならな」
少女は、静かに頷いた。
「……そうですか」
ロウは、扉を開けた。
外では、セラが待っていた。
「隊長」
「何だ」
「……顔色が悪いです」
「一晩寝ていないからな」
「それだけですか?」
ロウは、答えなかった。
セラは、それ以上追及しなかった。
ただ、彼の横に並んだ。
「……次は、どこへ?」
ロウは、地下へ続く階段を見た。
三つの封印門。
そして、その奥にある、記録には存在しない四つ目の扉。
「……地下だ」
彼は答えた。
「名前を返しに行く」
第八節 第四の扉を開ける条件
「反対です」
セラ・ヴォスは、ロウが地下へ降りると告げた瞬間、そう言った。
即答だった。
ロウは彼女を見た。
「理由を聞こう」
「隊長が地下へ行くたびに、事件が悪化しているからです」
「それは俺のせいではない」
「隊長が関わる前から悪化していたとしても、関わったあとにさらに悪化しているのは事実です」
「……お前、俺を励ます気はないのか?」
「ありません」
「そうか」
「あります。生きて帰ってきてください」
ロウは、少しだけ目を細めた。
セラは真剣だった。
いつものように命令へ反論しているのではない。ロウが何をしようとしているのか、その危険性を理解したうえで止めようとしている。
だからこそ、ロウは彼女に嘘をつきたくなかった。
「俺が行かなければ、次に誰かが名前を失う」
「その根拠は?」
「今朝、三十七体の死体が現れた。ベルンの名前を持つ死者たちだ。さらに、俺の死亡記録まで作られていた」
「はい」
「そして、あの少女は、俺が地下へ行かなければ名前を返せないと言った」
「それは、少女の証言です。事実とは限りません」
「その通りだ」
ロウは頷いた。
「だから、確かめる」
「……隊長」
「俺は、あの少女を信じたわけじゃない。アベルを弟だと認めたわけでもない。母が何をしたのか、何を守ろうとしたのかも分かっていない」
彼は、腰の剣を確かめた。
「だが、分からないからといって、何もせずにいるわけにはいかない」
セラは唇を噛んだ。
「では、私も行きます」
「駄目だ」
「どうしてですか?」
「地上の指揮を任せたい」
「他の人間に任せてください」
「他の人間では駄目だ」
ロウは、セラを見た。
「この砦で、俺が最も信用している人間はお前だ」
セラが黙った。
「だから、お前には地上を守ってほしい。俺が戻らなかった場合も、砦が機能するようにしておいてくれ」
「……戻らなかった場合、ですか」
「ああ」
「それを聞いて、私が納得するとでも?」
「納得しなくていい。命令だ」
セラは、しばらくロウを睨みつけていた。
やがて、深いため息をついた。
「……本当に、嫌な隊長ですね」
「知っている」
「自分が何を背負っているのか、少しは考えてください」
「考えている」
「なら、どうしていつも一人で背負おうとするんですか」
ロウは答えなかった。
セラは、それを見て、もう一度ため息をついた。
「……分かりました。地上を守ります」
「助かる」
「ただし、条件があります」
「何だ」
「定時連絡をすること。連絡が途絶えた場合、私が迎えに行きます」
「……」
「拒否権はありません」
ロウは、口元をわずかに緩めた。
「分かった」
「本当ですね?」
「ああ」
「約束ですよ」
「……約束だ」
セラは、ようやく一歩退いた。
「では、行ってらっしゃいませ、隊長」
ロウは頷き、地下への階段を降り始めた。
その背中を見送りながら、セラは小さく呟いた。
「……今度こそ、帰ってきてください」
ロウは振り返らなかった。
振り返れば、約束の意味を考えてしまうからだ。
約束とは、守ると決めることだ。
必ず守れると保証することではない。
それでも、彼は約束した。
生きて帰ると。
今度は、誰かを救うために自分を捨てるのではなく。
自分も生きて帰るために。
第三封印門の前には、オスカーが待っていた。
「隊長」
彼は、厚い書類の束を抱えていた。
「これを持っていってください」
「何だ?」
「旧地下施設の記録です。死亡者名簿、出生記録、修繕記録。それから、三つの封印門に関する断片的な資料をまとめました」
ロウは書類を受け取った。
「よく集めたな」
「記録官ですので」
オスカーは、少しだけ胸を張った。
「記録を整理することが、私の仕事です」
「その仕事で、何人の人間が助かる?」
オスカーは、目を瞬いた。
「……分かりません」
「そうか」
「ですが、記録がなければ、助けられたかどうかも分かりません」
ロウは、彼を見た。
オスカーは、真面目な顔で続けた。
「誰かが死んだことを記録する。誰かが生きていたことを記録する。誰かが何をしたのかを記録する。それが、私の仕事です」
「……」
「もし、記録そのものが間違っているのなら、正しい記録を残さなければなりません」
ロウは、書類を革袋にしまった。
「その意気だ」
「隊長」
「何だ」
「……記録には、隊長の死亡日が記載されています」
「知っている」
「死因は、名前の返還」
「知っている」
「場所は、第三封印門」
「それも知っている」
オスカーは、少しだけ声を落とした。
「なら、どうか、気をつけてください」
ロウは頷いた。
「その記録が間違っていることを、証明してくる」
そう言って、彼は第三封印門の前に立った。
門は閉じている。
青白い光は消えていた。
その表面には、古い文字が刻まれている。
第一の門は、外からの侵入を防ぐ。
第二の門は、内側から何かが流れ出るのを防ぐ。
第三の門は、境界そのものを固定する。
ロウは、三つ目の門に手を当てた。
掌の傷が、わずかに熱を持った。
門の表面に、文字が浮かび上がる。
名を示せ。
ロウは、息を吐いた。
「ロウ・テュユール」
何も起きない。
もう一度、名乗った。
「ロウ・テュユール。黒門砦の衛兵隊長だ」
門は、沈黙していた。
ロウは、古い記録を思い出した。
鍵は、金属ではなく、記憶によって維持される。
名前を呼ぶだけでは足りない。
自分が誰なのかを、記憶によって示さなければならない。
ロウは目を閉じた。
自分が生きてきた時間を思い出す。
幼い頃、母と過ごした日々。
剣を握った日。
初めて人を守った日。
王都の衛兵隊に入った日。
混血であることが明らかになり、居場所を失った日。
そして、この黒門砦へ来た日。
名前を呼んでくれた人々。
ロウと呼んだ者。
隊長と呼んだ者。
化け物と呼んだ者。
それでも、彼はここにいる。
それが、ロウ・テュユールという人間の生きてきた時間だった。
門の文字が、ゆっくりと変化した。
名を示した。
記憶を示せ。
ロウは、さらに深く記憶を探った。
母の顔。
母の声。
母の手。
そして、幼い頃に見た、もう一人の子供。
――アベル。
その名前を思い出した瞬間、門が震えた。
石が軋む。
青白い光が、扉の隙間から漏れ出した。
記憶を示した。
器を示せ。
ロウは目を開けた。
「……器?」
その瞬間、背後から声がした。
「隊長」
振り返ると、ベルンが立っていた。
曲がった指のベルン。
彼は、疲れ切った顔をしていた。
「……どうしてここにいる?」
「俺も、行かなければならないと思ったんです」
「誰の命令だ?」
「誰の命令でもありません」
ベルンは、自分の右手を見た。
「……俺が、行きたいと思ったんです」
ロウは、しばらく彼を見つめた。
「お前は、何を知っている?」
「分かりません」
「……」
「でも、俺が行かなければ、何かが終わらない気がするんです」
ロウは、ベルンの目を見た。
そこには、恐怖があった。
だが、逃げようとする恐怖ではない。
自分が何者なのか分からないまま、それでも前へ進もうとする人間の恐怖だった。
ロウは、手を差し出した。
「来い」
ベルンは、その手を見た。
そして、ゆっくりと握った。
二人の掌が触れた瞬間、第三封印門が開いた。
石の扉が、重い音を立てて左右に動く。
その向こうには、暗い通路が続いていた。
さらに奥に、四つ目の扉がある。
その扉には、三つの名前が刻まれていた。
ベルン・ハルト。
アベル。
ロウ・テュユール。
そして、その下に、もう一つ。
まだ刻まれていない空白があった。
ロウは、その空白を見つめた。
「……これは何だ?」
ベルンは、震える声で答えた。
「……次の名前です」
「誰の?」
ベルンは、ロウを見た。
「……俺たちの、次の名前です」
第九節 名前を返す者の正体
四つ目の扉の前には、誰もいなかった。
いや、正確には、誰も人間の姿をしていなかった。
扉の両脇には、石像が立っている。
一体は、兵士の姿。
もう一体は、子供の姿。
どちらも、顔がない。
顔があるはずの場所には、平らな石の面があるだけだった。
ロウは、石像を観察した。
「……守護像か?」
ベルンは首を振った。
「分かりません」
「なら、近づくな」
「はい」
ロウは扉に近づいた。
三つの名前が刻まれている。
その文字は、第三封印門に刻まれていたものと同じだった。
ただし、ここでは名前の配置が違う。
ベルン・ハルト。
アベル。
ロウ・テュユール。
三つの名前は、円を描くように並んでいた。
そして、その中心に、空白がある。
ロウは、その空白に触れた。
掌の傷が、再び熱を持った。
扉の表面に、文字が浮かび上がる。
名前を返す者よ。
何を返す。
ロウは、しばらく考えた。
「……奪われた名前だ」
文字が変わる。
誰が奪った。
「分からない」
誰に返す。
「……持ち主に」
持ち主とは誰だ。
ロウは、答えられなかった。
持ち主とは誰なのか。
名前を最初に持った者か。
その名前で生きてきた者か。
名前を与えた者か。
それとも、名前を呼ばれることで、その存在を認められた者か。
ロウは、ゆっくりと息を吐いた。
「……名前を持っている者が、必ずしも持ち主とは限らない」
扉が震えた。
ならば、誰が持ち主を決める。
ロウは、ベルンを見た。
「本人だ」
文字が、静かに光った。
本人とは誰だ。
「……自分が誰なのかを、自分で選ぶ者だ」
扉の奥から、低い音が響いた。
石像の顔のない頭部が、わずかに動いた。
ベルンが後退する。
「隊長……」
ロウは、扉を見つめていた。
文字が、ゆっくりと変化していく。
名を返す者よ。
お前は、誰の名前を返す。
ロウは、答えた。
「ベルン・ハルト」
扉が光った。
「アベル」
さらに光が強くなる。
「ロウ・テュユール」
その瞬間、扉全体が震えた。
だが、開かない。
文字が浮かび上がる。
それは、三つの名である。
四つ目を示せ。
ロウは、目を閉じた。
四つ目の名前。
アベルが言った、五人目の話。
三つの名前。
そして、まだ刻まれていない空白。
四つ目の名前が必要なのだ。
だが、その名前は誰のものなのか。
ベルンのものか。
アベルのものか。
ロウのものか。
それとも、三人の誰でもない、別の誰かのものなのか。
ロウは、掌の傷を見た。
その傷は、幼い頃から存在していた。
母は、傷について説明しなかった。
ただ一度だけ、こう言った。
――それは、あなたのものじゃないの。
ロウは、その言葉を思い出した。
「……この傷の持ち主は誰だ?」
扉は、答えなかった。
ロウは、もう一度尋ねた。
「この傷は、誰のものだ?」
今度は、文字が浮かび上がった。
アベル。
ロウは、息を呑んだ。
「……俺の傷は、アベルのものだったのか」
文字が変わる。
傷は、名前を失った者の記憶である。
記憶は、身体を探す。
身体は、名前を探す。
名前は、世界を探す。
ロウは、ゆっくりと手を握った。
アベルの傷。
アベルの記憶。
アベルの名前。
それらが、自分の身体の中に残っている。
ならば、自分はアベルなのか。
いや、違う。
ロウはロウだ。
自分の人生を生きてきた。
自分の選択を重ねてきた。
自分が誰かを決めるのは、過去だけではない。
それでも、自分の中に、アベルの記憶がある。
その事実は、否定できない。
ロウは、扉に向かって言った。
「……四つ目の名前は、まだない」
扉が震えた。
「俺は、誰かの名前を奪ってまで、ここを開けるつもりはない」
文字が光る。
名を返す者よ。
お前は、選ばないのか。
ロウは、答えた。
「選ぶ」
彼は、ベルンを見た。
「だが、俺一人では選ばない」
ベルンが目を見開いた。
「……隊長?」
「名前を返すのは、俺の役目ではない。名前を返してほしい者が、自分で選ぶことだ」
ロウは、扉に向き直った。
「ベルン・ハルト。お前は、自分の名前を返してほしいか?」
ベルンは、震えていた。
しばらくして、彼は頷いた。
「……はい」
「アベル。お前は、自分の名前を返してほしいか?」
答えはなかった。
だが、扉の向こうから、少年の声が聞こえた。
「……うん」
ロウは、続けた。
「ロウ・テュユール。俺は、自分の名前を返してほしいか?」
自分自身への問いだった。
ロウは、しばらく黙っていた。
やがて、答えた。
「……俺は、今の名前を捨てるつもりはない」
扉が、静かに光った。
「だが、俺の中にあるものを、なかったことにするつもりもない」
彼は、掌の傷を開いた。
「アベルの記憶が俺の中にあるなら、それを知る。ベルンの名前が誰かを傷つけているなら、その理由を調べる。そして、誰かが自分の名前を取り戻したいなら、その選択を手伝う」
ロウは、扉に向かって言った。
「それが、俺の答えだ」
長い沈黙があった。
そして。
四つ目の扉が、ゆっくりと開いた。
その向こうには、部屋があった。
壁も、床も、天井も、すべて白い。
中央には、石の台がある。
その上に、一冊の本が置かれていた。
本の表紙には、何も書かれていない。
ロウは、部屋に足を踏み入れた。
ベルンが続く。
扉は、二人が中へ入ると、静かに閉じた。
本の前に立つと、表紙に文字が浮かび上がった。
名前を返す者の記録。
ロウは、本を開いた。
最初のページには、こう書かれていた。
この記録を読む者へ。
名前を返す者は、名前を与える者ではない。
名前を返す者は、名前を持つ者でもない。
名前を返す者とは、名前を失った者が、自分で選ぶことを許す者である。
そして、最初に名前を失った者は――
その先は、破り取られていた。
ロウは、次のページを開いた。
そこには、三つの名前が記されていた。
ベルン・ハルト。
アベル。
ロウ・テュユール。
そして、その下に。
四つ目の名前は、まだ生まれていない。
ロウは、ページをめくった。
次のページには、死亡者名簿と同じ名前が並んでいた。
三十六人のベルン・ハルト。
その一人ひとりに、名前が記されている。
本当の名前。
出生地。
生きていた時代。
何をして生きたのか。
誰を愛し、誰を憎み、誰を傷つけたのか。
そして、どうして死んだのか。
ロウは、一つ目の名前を読んだ。
「……エドリック・ヴェイン」
ベルンが、息を呑んだ。
「……エドリック?」
ロウは、記録を読み進めた。
エドリック・ヴェイン。
王都の技師。
百四十七年前、黒門砦の地下施設の修繕に参加。
彼は、第三封印門の向こうに存在する四つ目の扉を発見した。
そして、扉を開くために、自分の名前を差し出した。
その結果、彼はベルン・ハルトという名前を与えられた。
だが、名前を与えられたことで、彼の記憶は失われた。
彼は、自分が誰だったのかを忘れた。
それでも、最後に一つだけ覚えていたことがある。
自分には、弟がいた。
ロウは、次のページを開いた。
そこには、別の名前が記されていた。
ベルン・ハルト。
出生地:不明。
生年月日:不明。
死亡日:半年前。
死因:名前の継承。
備考。
兄の名を継承。本人の同意なし。
継承者は、兄の記憶を受け継ぐ。
兄は、継承者の記憶を失う。
どちらが兄で、どちらが弟なのか。
その問いに答えられる者は、いない。
ロウは、本を閉じた。
「……これは、何だ」
ベルンは、首を振った。
「……分かりません」
「お前は、半年前に地下で何を見た?」
ベルンは、長いあいだ黙っていた。
そして、ようやく答えた。
「……俺は、兄を見たんです」
「エドリック・ヴェインか?」
「……分かりません」
「名前を継承したベルンか?」
「……分かりません」
ベルンは、自分の顔を覆った。
「……でも、あいつは、俺に言ったんです」
「何と?」
「……『お前は、ここに残れ』」
ロウは、黙って聞いていた。
「それから、俺は……」
ベルンの声が震えた。
「……自分が誰なのか、分からなくなったんです」
彼は、ゆっくりと顔を上げた。
「俺は、ベルン・ハルトです。そう信じています。でも、俺が本当にベルン・ハルトなのか、それとも、誰かの名前を継承しただけなのか……」
彼は、ロウを見た。
「……隊長。俺は、誰なんでしょうか」
ロウは、答えた。
「それを決めるのは、お前だ」
ベルンは、目を見開いた。
「……俺が?」
「ああ」
ロウは、本を机に置いた。
「お前が何を覚えているのか。何をしてきたのか。何を選ぶのか。それを調べる。だが、最後に自分が誰なのかを決めるのは、お前自身だ」
ベルンは、長いあいだロウを見つめていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……分かりました」
その瞬間、部屋の奥から声がした。
「……ありがとう、兄さん」
ロウは振り返った。
白い部屋の壁に、少年の姿が浮かび上がっていた。
アベルだった。
彼は、ロウを見て笑った。
「やっと、僕のことを考えてくれたね」
ロウは、少年を見つめた。
「……お前は、何を望んでいる?」
アベルは、少し考えた。
そして、答えた。
「……生まれたい」
「生まれて、何をする?」
「分からない」
「誰かを救うのか?」
「分からない」
「誰かを殺すのか?」
「……分からない」
アベルは、少しだけ笑った。
「だって、僕はまだ、生まれていないんだもの」
ロウは、頷いた。
「……そうか」
「うん」
「なら、生まれてから考えろ」
アベルは、目を見開いた。
「……え?」
「生まれたあと、何をするかは、お前が決めろ。俺が決めることじゃない」
ロウは、少年を見た。
「ただし、誰かを傷つけたなら、その責任は取れ。誰かを救いたいなら、自分の命だけで解決しようとするな。誰かと一緒に生きる方法を考えろ」
アベルは、しばらく黙っていた。
そして、泣きながら笑った。
「……うん」
彼の姿が、ゆっくりと薄れていく。
「……ありがとう、兄さん」
最後に、彼は言った。
「……僕、もう少しだけ、待ってみる」
そして、消えた。
白い部屋に、静寂が戻った。
ロウは、長いあいだ、その場所に立っていた。
やがて、彼は本を閉じた。
「……帰るぞ、ベルン」
「はい、隊長」
二人は、四つ目の扉を後にした。
その背後で、本の表紙に、ゆっくりと新しい文字が浮かび上がった。
名前を返す者。
その下に、もう一行。
ロウ・テュユール。
そして、そのさらに下に。
次の記録者。
第十節 死者は、まだ死んでいない
地上へ戻ったロウを待っていたのは、セラの怒鳴り声だった。
「遅いです!」
「……ただいま」
「ただいまではありません!」
セラは、ロウの肩をつかんだ。
「定時連絡をすると約束しましたよね!」
「……したな」
「何時間、連絡がなかったと思っているんですか!」
「……すまん」
「謝れば済むと思っているんですか!」
「思っていない」
「では、どうして!」
「……地下で、少し厄介な記録を見つけた」
セラは、言葉を失った。
ロウは、彼女の顔を見た。
「……悪かった」
その言葉は、いつもの軽い謝罪ではなかった。
セラは、しばらく彼を見つめていた。
やがて、肩から手を離した。
「……次は、必ず連絡してください」
「ああ」
「約束です」
「約束だ」
セラは、ようやく息を吐いた。
「……それで、何が分かったんですか?」
ロウは、地下で見つけた記録について説明した。
ベルン・ハルトという名前が、何度も継承されていたこと。
その名前を持つ者たちは、兄の名を継承し、兄の記憶を受け継いでいたこと。
そして、アベルという少年が、まだ生まれていない存在であること。
セラは、黙って聞いていた。
最後まで聞き終えると、彼女はゆっくりと口を開いた。
「……つまり、隊長には、弟がいるかもしれない」
「そうだ」
「その弟は、まだ生まれていない」
「そうだ」
「そして、その弟を生まれさせるには、隊長の記憶が必要になる」
「……その可能性がある」
セラは、しばらく黙っていた。
そして、尋ねた。
「……隊長は、どうしたいんですか?」
ロウは、すぐには答えなかった。
弟。
その言葉が、まだ自分の中で形になっていない。
アベルが本当に弟なのか。
それとも、母が自分の名前を分けて作った、別の存在なのか。
彼には分からない。
だが、一つだけ確かなことがある。
アベルは、生まれたいと言った。
それだけだ。
「……生まれたいなら、生まれさせる方法を探す」
ロウは答えた。
「ただし、誰かを犠牲にする方法なら、別の道を探す」
セラは、頷いた。
「……そうですか」
彼女は、少しだけ微笑んだ。
「隊長らしいですね」
「そうか?」
「ええ。面倒なことを、もっと面倒にするところが」
「褒めているのか?」
「半分は」
ロウは、小さく息を吐いた。
そのとき、ミラが駆け込んできた。
「ロウ!」
「どうした?」
「死体の一つが消えたわ!」
ロウの表情が変わった。
「どの死体だ?」
「一番新しいもの。半年前に死亡したと記録されていたベルン・ハルトよ」
「……どこから?」
「検査室から。見張りは二人いたけれど、誰も出入りを確認していない」
ロウは、すぐに歩き出した。
「現場へ案内しろ」
検査室に着くと、死体を置いていた台が空になっていた。
床には、黒い液体が一筋残っている。
壁には、文字が刻まれていた。
名前を返すな。
ロウは、その文字を見つめた。
「……誰が書いた?」
ミラは、首を振った。
「分からない。見張りの証言では、最後に死体を見たとき、何もなかったそうよ」
ロウは、壁に手を当てた。
文字は、まだ湿っていた。
黒い液体が、指先につく。
その液体は、ゆっくりと文字を変えた。
名前を返せば、世界が一つ消える。
ロウは、手を離した。
「……ミラ」
「何?」
「三十七体の死体は、すべて検査したか?」
「いいえ。まだ半分ほどよ」
「残りも、すぐに調べろ。特に、名前以外の記録がない死体を優先してくれ」
「分かった」
ロウは、壁の文字を見た。
名前を返すな。
名前を返せば、世界が一つ消える。
アベルは、名前を返してほしいと言った。
少女も、名前を返す者だと名乗った。
だが、誰かは、名前を返すことを恐れている。
名前を返すことで、誰かが救われる。
その一方で、誰かが消える。
ならば、名前を返すことは、正しいことなのか。
それとも、誰かの人生を奪う行為なのか。
ロウは、壁から手を離した。
「……セラ」
「はい」
「砦の記録をすべて保全しろ。死亡者名簿も、出生記録も、入隊記録も。誰にも廃棄させるな」
「分かりました」
「それと、名前を失った者がいないか確認してくれ」
セラは頷いた。
「……隊長」
「何だ」
「名前を失った人間は、どうやって見つけるんですか?」
ロウは、少しだけ考えた。
そして、答えた。
「……自分の名前を呼ばれたとき、返事ができない人間を探せ」
第十一節 返事をしない者
その夜、黒門砦では、全兵士の点呼が行われた。
名前を呼ばれた兵士は、必ず返事をする。
返事をした者は、顔と身分証を照合する。
返事をしなかった者は、個別に事情を確認する。
簡単な手順だった。
だが、最初の点呼で、三人の兵士が返事をしなかった。
一人目は、ダレン・コル。
彼は、自分の名前を呼ばれたとき、ただ不思議そうに周囲を見回した。
「……俺ですか?」
「そうだ。ダレン・コル」
「……それは、俺の名前ですか?」
点呼係は、顔をしかめた。
「何を言っている。お前の名前だろう」
ダレンは、自分の胸に手を当てた。
「……分かりません」
二人目は、エルナ・ヴァイス。
彼女は、自分の名前を呼ばれると、泣き始めた。
「……違う」
「エルナ?」
「……それは、私の名前じゃない」
「何を言っているんだ?」
彼女は、首を振った。
「……私の名前は、別にあるの」
「なら、言ってみろ」
エルナは口を開いた。
だが、声が出なかった。
三人目は、ハンス・メルツ。
彼は、自分の名前を呼ばれた瞬間、笑い出した。
「……やっと、来たか」
「ハンス?」
「……遅かったな」
彼は、点呼係の肩をつかんだ。
「……俺の名前を、返してくれるのか?」
点呼係は、慌てて彼を引き離した。
三人は、別々の部屋に隔離された。
ミラが検査を行い、オスカーが記録を調べた。
結果は、さらに奇妙だった。
三人とも、出生記録が存在する。
入隊記録もある。
家族の名前も、故郷の記録も、幼少期の証言も残っている。
だが、三人とも、自分の名前を自分のものだと認識できなくなっていた。
それだけではない。
彼らの記録には、共通点があった。
三人とも、過去に一度、名前を変更していた。
ダレン・コルは、幼い頃、別の名前で呼ばれていた。
エルナ・ヴァイスは、出生時の名前と現在の名前が異なっていた。
ハンス・メルツは、入隊時に姓を変更していた。
それ自体は、珍しいことではない。
だが、彼らが変更前に持っていた名前は、すべて同じだった。
ベルン・ハルト。
ロウは、三人の記録を机に並べた。
「……ベルン・ハルトという名前は、人間の間を移動しているのか?」
オスカーは、慎重に答えた。
「その可能性があります。ただし、名前が移動したのか、記憶が移動したのか、あるいは両方なのかは分かりません」
「名前を変更した者が、ベルン・ハルトの記憶を持っていた?」
「はい。三人の証言によれば、名前を変更する前の記憶は、ほとんど残っていないそうです」
ミラが、検査記録を机に置いた。
「身体には異常がないわ。脳にも、目立った損傷はない。でも、記憶を呼び出すときに、何かが妨害しているような反応がある」
「妨害?」
「ええ。彼らは、自分の名前を思い出そうとすると、強い恐怖を感じる。まるで、その名前を思い出すこと自体が危険だと、身体が判断しているみたいに」
ロウは、三人の顔を思い浮かべた。
ダレン。
エルナ。
ハンス。
いずれも、黒門砦で働いてきた兵士だ。
彼らは、名前を持っている。
人生を持っている。
仲間がいる。
家族がいる。
それなのに、名前を自分のものだと感じられなくなっている。
「……名前を返すな、か」
ロウは呟いた。
壁に刻まれた言葉。
名前を返せば、世界が一つ消える。
もし、名前を返すことによって、三人の人生が消えてしまうのなら。
それは、救いではない。
ロウは、セラを呼んだ。
「三人を、同じ部屋に集めてくれ」
「同じ部屋に?」
「ああ。ただし、互いに触れさせるな。距離を取らせて、会話だけさせる」
「分かりました」
三人が連れてこられた。
ダレンは、不安そうに周囲を見ている。
エルナは、泣き腫らした目を伏せていた。
ハンスは、落ち着かない様子で指を動かしている。
ロウは、三人の前に立った。
「お前たちは、自分の名前を失ったと言ったな」
三人が頷いた。
「では、名前を失う前に、何を覚えている?」
ダレンが答えた。
「……母の顔です」
エルナが答えた。
「……家の窓から見えた木」
ハンスが答えた。
「……兄の声です」
ロウは、三人を見た。
「その記憶は、本当にお前たちのものか?」
ダレンは、顔を上げた。
「……分かりません」
エルナは、首を振った。
「……分からない」
ハンスは、少しだけ笑った。
「……でも、俺は、その記憶を大切にしたい」
ロウは頷いた。
「それでいい」
三人は、彼を見た。
「名前が誰のものだったのか。誰が最初に持っていたのか。それを調べる必要はある。だが、今のお前たちが生きてきた時間まで、否定する必要はない」
ロウは、一人ひとりの顔を見た。
「ダレン・コル。お前は、自分の名前を捨てたいか?」
ダレンは、しばらく考えた。
そして、首を振った。
「……いいえ」
「エルナ・ヴァイス。お前は?」
彼女は、涙を拭った。
「……私は、まだ分からない。でも、今の名前で呼ばれると、少し安心します」
「ハンス・メルツ。お前は?」
ハンスは、ゆっくりと答えた。
「……俺は、兄の名前を返したい」
ロウは、彼を見た。
「兄の名前?」
ハンスは頷いた。
「……俺には、兄がいたんです」
「名前は?」
ハンスは、口を開いた。
そして、言った。
「……ベルン・ハルト」
部屋の空気が変わった。
ダレンが顔を上げた。
エルナが息を呑んだ。
ハンスは、自分の手を見つめていた。
「……俺は、兄の名前を継いだんです」
ロウは、静かに尋ねた。
「誰に言われた?」
「……兄に」
「兄は、いつ死んだ?」
「……分かりません」
「兄の顔は覚えているか?」
ハンスは、首を振った。
「……覚えていません」
「声は?」
「……覚えています」
「何と言っていた?」
ハンスは、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと答えた。
「……『お前は、ここに残れ』」
ロウの背筋が冷たくなった。
半年前、ベルンが地下で聞いた言葉。
そして、何度も夢の中で聞いた言葉。
「……その兄は、どこにいる?」
ハンスは、顔を上げた。
「……隊長の中です」
ロウは、息を止めた。
ハンスは、泣きながら笑った。
「……俺の兄は、隊長の中にいるんです」
第十二節 四つ目の名前
夜が更けた頃、ロウは一人で記録室にいた。
机の上には、三十六人のベルン・ハルトの記録が並んでいる。
その隣には、ダレン・コル、エルナ・ヴァイス、ハンス・メルツの記録。
そして、ロウ自身の死亡記録。
名前は、単なる呼び名ではない。
誰かが、その人間を認識するためのもの。
誰かが、その人間を記録するためのもの。
そして、その人間自身が、自分を自分だと認識するためのもの。
もし、名前が別の人間に移動したら。
もし、記憶が別の身体に宿ったら。
もし、名前と記憶が、身体から切り離されたら。
そのとき、人間は何をもって自分を自分だと証明するのか。
ロウは、窓の外を見た。
黒門砦の灯りが、暗闇の中に点々と浮かんでいる。
その向こうには、魔王領がある。
人間と魔物の境界。
そして、その境界の地下には、三つの封印門と、記録にない四つ目の扉が眠っている。
ロウは、古い出生記録を手に取った。
ベルン・ハルト。
まだ生まれていない人間。
その名前の下には、ロウの名前が記されている。
ロウ・テュユール。
そして、その隣には、アベル。
三つの名前。
一つの起源。
だが、三つの名前が同じ存在を意味するとは限らない。
ベルンには、ベルンの人生がある。
ロウには、ロウの人生がある。
そして、アベルには、まだ生まれていない人生がある。
その人生を、誰かが勝手に決めてはならない。
ロウは、記録の最後のページを開いた。
そこには、まだ何も書かれていない空白があった。
四つ目の名前を書くための空白。
ロウは、羽ペンを取った。
そして、しばらく考えた。
名前を書くことは、簡単だ。
文字を並べればいい。
紙の上に記せばいい。
だが、その名前を誰かに与えることは、簡単ではない。
名前を与えられた者は、その名前によって世界に結びつけられる。
同時に、その名前によって、何かに縛られるかもしれない。
ロウは、羽ペンを置いた。
四つ目の名前は、まだ書かない。
書くべきではない。
それを決めるのは、自分ではないからだ。
そのとき、記録室の扉が開いた。
オスカーが立っていた。
「隊長」
「どうした?」
「……最後の記録が見つかりました」
「最後?」
オスカーは、一冊の薄い帳簿を差し出した。
それは、黒門砦の建設記録だった。
表紙には、古い文字で題名が書かれている。
『境界管理施設・建設報告書』
ロウは、ページをめくった。
建設責任者。
技術者。
作業員。
資材の搬入記録。
そして、施設の設計者。
その名前を見た瞬間、ロウは動きを止めた。
エリナ・テュユール。
母の名前だった。
ロウは、ゆっくりと顔を上げた。
「……どうして、母の名前がここにある?」
オスカーは、首を振った。
「分かりません。ただ、記録によれば、彼女は百年以上前に、この施設の設計に関わっています」
「……百年以上前?」
「はい」
ロウは、もう一度、記録を見た。
建設年代は、百四十七年前。
ベルン・ハルトの最古の死亡記録と、同じ年だった。
「……母は、何歳だった?」
「記録上の年齢は、ありません」
「出生記録は?」
「ありません」
「死亡記録は?」
オスカーは、ゆっくりと答えた。
「……あります」
彼は、別の紙を差し出した。
そこには、エリナ・テュユールの死亡記録が記されていた。
死亡日。
死亡場所。
死因。
そして、備考欄。
死亡確認:なし。
遺体:なし。
名前:返還済み。
ロウは、その記録を見つめた。
母は、十二歳のときに病死した。
少なくとも、彼はそう聞かされていた。
だが、百四十七年前の記録にも、母の名前がある。
彼女は、何者だったのか。
なぜ、黒門砦の地下施設を設計したのか。
なぜ、ベルン・ハルトという名前が何度も死んでいるのか。
そして、なぜ、母はロウの名前を分けたのか。
ロウは、記録を閉じた。
「……オスカー」
「はい」
「この記録は、誰にも見せるな」
「承知しました」
「ただし、調査は続けろ。エリナ・テュユールの名前が記された記録を、すべて集めるんだ」
「分かりました」
オスカーが去ったあと、ロウは一人で記録室に残った。
机の上には、四つ目の名前を書くための空白がある。
彼は、その空白を見つめた。
そして、ゆっくりと羽ペンを取った。
今度は、名前ではなく、短い文章を書いた。
名前を返す前に、その人が誰だったのかを調べる。
名前を返したあと、その人が何を選ぶのかを見届ける。
そして、名前を返すことによって誰かが失われるなら、その理由を明らかにする。
それが、俺の仕事だ。
ロウ・テュユール。
黒門砦の衛兵隊長。
人間と人狼の血を引く者。
名前を返す者。
彼は、羽ペンを置いた。
その瞬間、記録室の奥から、かすかな音がした。
紙をめくる音。
ロウは振り返った。
誰もいない。
だが、机の上の死亡者名簿が、勝手に開いていた。
最後のページ。
そこには、新しい名前が記されていた。
エリナ・テュユール。
死亡日――未定。
死亡場所――黒門砦。
死因――名前の返還。
そして、その下に。
次の記録者:ロウ・テュユール。
ロウは、長いあいだ、その文字を見つめていた。
やがて、静かに帳簿を閉じた。
「……母さん」
その名前を呼んだ瞬間、掌の傷が熱を持った。
記録室の壁の向こうから、声が聞こえた。
懐かしい声だった。
優しく、少し疲れていて、それでも確かに自分を愛していた人の声。
「……ロウ」
彼は、息を止めた。
「……あなたは、まだ、名前を返さなくていいのよ」
ロウは、立ち上がった。
「……母さんなのか?」
返事はなかった。
ただ、壁の向こうから、もう一度、声がした。
「……あの子を、殺さないで」
ロウは、拳を握りしめた。
「……誰を?」
長い沈黙。
そして、母の声が答えた。
「……あなた自身を」
その瞬間、記録室の灯りが消えた。
暗闇の中で、ロウは一人、立ち尽くしていた。
彼はまだ知らない。
母が百年以上前から生きていた理由も。
名前を返すことで、誰が失われるのかも。
そして、四つ目の名前が何を意味するのかも。
ただ一つ、確かなことがある。
名前を返すことは、誰かを救うことかもしれない。
だが、名前を返すことで、別の誰かが失われるのなら。
その選択を、簡単に正義と呼ぶことはできない。
ロウは、暗闇の中で、自分の左手を握った。
掌の傷は、まだ熱を持っていた。
そして、その傷の奥で。
誰かが、静かに囁いた。
「……兄さん」
アベルの声だった。
「……僕、もうすぐ生まれるよ」




