第四話「三つの名前
第一節 どちらを牢に入れるか
「隊長」
セラ・ヴォスが、剣の柄に手をかけたまま言った。
「命令をください」
地下通路には、三つの灯りがあった。
一つはロウの手にある携帯灯。
一つはセラの腰に吊るされた油灯。
そして最後の一つは、二人のベルンの背後、第三封印門の隙間から漏れてくる、青白い光だった。
その光は炎ではない。
揺れず、瞬かず、風にも影響されない。
石の隙間から染み出した月光のように、ただそこにある。
ロウは二人を見比べた。
左側に立つベルンは、右手の人差し指がわずかに曲がっている。十年前、訓練中に骨を折って以来、完全には伸びなくなった指だ。顔色は悪く、額には汗が浮かんでいる。それでも、その目には見慣れた臆病さと、臆病であることを恥じる意地があった。
右側に立つベルンは、指がまっすぐだった。
顔立ちは同じ。
声も同じ。
背丈もほとんど同じ。
だが、こちらは妙に落ち着いていた。息を乱していない。汗もない。地下の冷気にさらされているというのに、唇の色まで健康的だった。
「どちらを拘束しますか」
セラが重ねて尋ねた。
「両方、というわけにはいきません」
「なぜだ?」
「片方が偽物なら、逃走を防ぐために拘束する必要があります。でも、両方が偽物だった場合も、両方が本物だった場合も、話は変わります」
「両方が本物だった場合、か」
「はい。片方を不当に拘束すれば、もう片方が敵になるかもしれません」
「逆に、片方を自由にすれば、そいつが敵になるかもしれない」
「そういうことです」
ロウは鼻から息を吐いた。
「まったく。兵士を二人に増やす魔法があるなら、まず自分に使ってほしいものだ」
「冗談を言っている場合ですか、隊長」
「冗談でも言わなければ、頭がおかしくなる」
二人のベルンが、同時にロウを見た。
その動きが、あまりにも同じだった。
同じ角度で首を傾け、同じ瞬間に眉を寄せる。
まるで鏡の前に立っているようだった。
ただし、鏡ならば、こちらが動かなければ向こうも動かない。
目の前の二人は、ロウが息を吸う前から、次に何をするのか知っているような顔をしていた。
「隊長」
指の曲がったベルンが言った。
「そいつを信じないでください」
指のまっすぐなベルンが、すぐに続けた。
「隊長。そいつを信じないでください」
セラが目を細めた。
「……今、わざと同じことを言いましたね?」
「違います」
二人が答えた。
声が重なった。
「俺が先に言った」
「俺が先に言った」
今度は、わずかに違った。
指の曲がったベルンは、相手の言葉を聞いてから反論した。
指のまっすぐなベルンは、相手が反論することを予測していたように、すでに口を閉じていた。
ロウは携帯灯を持ち上げた。
「名前を聞こう」
「ベルン・ハルトです」
「ベルン・ハルトです」
「所属は?」
「黒門砦、第三警備班」
「黒門砦、第三警備班」
「階級は?」
「伍長」
「伍長」
「利き手は?」
「右手です」
「右手です」
「好きな食べ物は?」
二人が、初めて言葉を詰まらせた。
「……何です、それは」
曲がった指のベルンが言った。
「隊長、今はそんなことをしている場合では――」
「質問に答えろ」
ロウの声が低くなった。
曲がった指のベルンは唇を引き結んだ。
「塩漬け肉です。煮込みに入れたやつ」
まっすぐな指のベルンも答えた。
「塩漬け肉です。煮込みに入れたやつ」
「嫌いなものは?」
「甘すぎる酒」
「甘すぎる酒」
「休日に何をする?」
「寝ます」
「寝ます」
「なぜ兵士になった?」
今度は、曲がった指のベルンがすぐに答えた。
「食っていくためです」
まっすぐな指のベルンも、同じ答えを返した。
「食っていくためです」
ロウは黙った。
二人の答えは、どれもベルンらしかった。
いや、正確には――ベルンを知る者が、ベルンらしいと思う答えだった。
それが、ロウには気に入らなかった。
「セラ」
「はい」
「二人の間に立て。互いに見えないようにしろ」
「承知しました」
セラが二人の間へ進み出る。
曲がった指のベルンは不安げにセラを見た。まっすぐな指のベルンは、彼女の肩越しにロウを見ていた。
「お前たちは、俺のことを知っているな?」
「もちろんです、隊長」
「もちろんです、隊長」
「では、俺が次に何をするか当ててみろ」
二人は沈黙した。
ロウは携帯灯を左手に持ち替えた。
それから、右手をゆっくりと上げた。
指の曲がったベルンは、身構えた。
指のまっすぐなベルンは、目を伏せた。
「……右手を上げると思いました」
まっすぐな指のベルンが言った。
「でも、何のためかは分からなかった」
曲がった指のベルンは、答えなかった。
ロウは上げた右手を下ろした。
「お前は、俺が何をするか分かっていたのか?」
「いいえ」
「では、なぜ身構えた?」
「隊長は、尋問中に突然殴ることがあるので」
「俺は部下を殴らん」
「……一度だけ、殴られました」
「それは、お前が俺の食事に眠り薬を入れたときだ」
「申し訳ありませんでした」
「二度とするな」
「はい」
セラが、わずかに肩を震わせた。
笑ったのかもしれない。
ロウはまっすぐな指のベルンへ視線を戻した。
「お前は、なぜ目を伏せた?」
「隊長が、俺の顔を見ると思ったからです」
「なぜ?」
「……分かりません」
初めて、答えに詰まった。
ロウは、その沈黙を見逃さなかった。
「本物のベルンは、俺の顔を見て何を思う?」
「何を、って……」
曲がった指のベルンが眉をひそめた。
「隊長の顔を見て、何を思うかなんて。そんなこと、考えたこともありません」
「そうか」
「はい」
ロウは、まっすぐな指のベルンを見た。
「お前は?」
「……怖いと思います」
地下に、風が吹いた。
風など通らないはずの通路で、誰かが息を吐いたような音がした。
セラの手が、剣の柄を握り直す。
ロウは何も言わなかった。
まっすぐな指のベルンは、目をそらさなかった。
「隊長が怖い?」
「はい」
「俺は、お前を殺したことがあるのか」
「……あります」
曲がった指のベルンが顔を上げた。
「おい。何を言ってる」
まっすぐな指のベルンは、ロウだけを見ていた。
「俺は、隊長に殺されました」
「いつだ」
「まだです」
「ふざけるな」
「ふざけていません」
「では、説明しろ」
「説明できません」
「なぜ?」
まっすぐな指のベルンは、少しだけ口元を歪めた。
笑みではなかった。
泣き顔でもなかった。
それは、何かを諦めた人間の表情に似ていた。
「俺が説明すれば、隊長は俺を殺すからです」
ロウは、しばらく彼を見つめていた。
やがて、静かに言った。
「……セラ」
「はい」
「二人とも拘束する」
曲がった指のベルンが叫んだ。
「隊長! 俺は本物です!」
まっすぐな指のベルンは、抵抗しなかった。
ただ、ロウを見ていた。
「そうですか」
彼は呟いた。
「では、また会いましょう。隊長」
次の瞬間、第三封印門の青白い光が消えた。
地下が、真っ暗になった。
そして暗闇の中で、ロウは聞いた。
自分自身の声を。
「――ベルン・ハルトを拘束しろ」
それは、今ここにいるロウが発した命令ではなかった。
もっと低く、もっと疲れた声。
そして、何年も前からロウを知っている人間の声だった。
「……今のは」
セラが息を呑む。
「隊長の声、でしたよね?」
ロウは答えなかった。
闇の向こうで、何かが笑った。
ひどく懐かしい笑い声だった。
それが誰のものだったのか、ロウには分からなかった。
分からないはずだった。
なのに、彼はその笑い声を聞いた瞬間、ひとつの名前を思い出していた。
自分が生まれる前に、死んだはずの人間の名前を。
ベルン・ハルト。
第二節 名前を三度書いた男
闇が戻ったとき、二人のベルンはまだそこにいた。
少なくとも、ロウにはそう見えた。
携帯灯の火が再び灯るまでの時間は、ほんの数秒だったはずだ。だが、その短い暗闇のあいだに、誰かが歩いた気配があった。
靴底が石を擦る音。
金具が触れ合う音。
そして、耳元で囁く声。
――次は、お前の名前だ。
ロウは振り返った。
誰もいない。
「隊長?」
セラが呼びかける。
「……何でもない」
「何でもない顔には見えませんが」
「俺の顔に詳しくなったな」
「毎日見ていますから」
「気の毒に」
「本当に」
いつもの応酬だった。
そのはずなのに、セラの声は硬かった。
彼女は剣を抜いていない。だが、いつでも抜けるように柄へ手をかけたままだった。
理由は単純だ。
二人いたベルンが、一人になっていた。
右手の人差し指が曲がっているほうだけが、石壁の前に立っていた。
まっすぐな指のベルンは、影も残さず消えていた。
「……逃げられた?」
セラが周囲を見回す。
「いや」
ロウは床に視線を落とした。
足跡はある。
セラのもの。ロウのもの。曲がった指のベルンのもの。
そして、もう一人のベルンのもの。
しかし、その足跡は途中で途切れていた。
消えた地点に穴はない。
壁にも、床にも、天井にも、何かが通り抜けた痕跡はない。
まるで、その人間が最初から存在しなかったかのように。
「……隊長」
曲がった指のベルンが、震える声で言った。
「今の、見ましたか」
「見た」
「俺、あいつが消えるのを見たんです」
「俺もだ」
「違います」
ベルンは首を振った。
「俺が言っているのは、あいつが消える直前です」
ロウは彼を見た。
「何を見た?」
「……あいつが、笑ったんです」
「それがどうした」
「俺と、同じ顔で」
ベルンは、自分の頬に手を当てた。
「俺は、あんな顔で笑ったことがありません」
その言葉には、奇妙な確信があった。
自分の顔を、自分以上に知っている人間はいない。
そう信じている者の声だった。
ロウは曲がった指のベルンを見つめた。
「お前は、あいつを見たことがあるんだな。半年前だけじゃない」
ベルンの喉が動いた。
「……はい」
「どこで?」
「夢の中です」
セラが目を見開いた。
「夢?」
「半年前、地下の修繕に参加してからです。眠ると、あいつが出てくる。最初は顔だけでした。鏡に映るように、俺と同じ顔がこちらを見ている」
「それで?」
「何度も夢を見ているうちに、あいつが話すようになりました」
「何と言った」
ベルンは、少し考えてから答えた。
「『お前は、ここに残れ』」
「それは、半年前にも聞いた」
「はい。でも、夢の中では続きがあるんです」
「続き?」
「『お前が外へ出れば、名前が一つ足りなくなる』」
ロウは眉をひそめた。
「何の名前だ」
「分かりません」
「その夢を見始めたのはいつだ?」
「半年前です。最初は週に一度。それから三日に一度。最近は、眠るたびに」
「そのたびに、何かを忘れたか?」
ベルンは答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
「何を忘れた?」
「……分かりません」
「本当に?」
「本当にです。忘れたことは、忘れたあとでは思い出せません」
ロウは、その言葉を心の中で繰り返した。
忘れたことは、忘れたあとでは思い出せない。
当たり前の話だ。
しかし、この地下では、その当たり前こそが最も疑わしい。
三つの封印門。
記憶によって維持される鍵。
そして、存在しないはずの二人目。
ロウは、腰の革袋から記録用の小さな帳面を取り出した。
「セラ。地上へ戻る。ミラとオスカーを呼べ」
「オスカー記録官もですか?」
「名前を調べる必要がある」
「三人のベルン・ハルト、ですね」
「そうだ」
ロウは、消えた足跡の終点を見下ろした。
「それと、今夜から地下へ降りる兵士を増やす。見張りを交代制にして、必ず二人一組で行動させろ」
「分かりました」
「ただし、誰も第三封印門には近づけるな」
「……隊長は?」
「俺は近づく」
セラは露骨に嫌そうな顔をした。
「そう言うと思いました」
「なら、聞くな」
「命令ですので」
「便利な言葉だな」
「隊長ほどではありません」
彼女は先に歩き出した。
ロウはその背中を追いながら、ふと気づいた。
ベルンが、ついてこない。
振り返ると、彼は第三封印門の前に立ったまま、青白い光の消えた石扉を見つめていた。
「ベルン」
「……はい」
「行くぞ」
「隊長」
彼は、こちらを向かなかった。
「俺が、本物だったら」
「だったら?」
「……どうして、俺の名前は三つあるんでしょうか」
ロウは答えなかった。
答えられなかったのではない。
その問いを聞いた瞬間、彼の胸の奥で、何かが動いたからだ。
それは記憶だったのかもしれない。
あるいは、記憶になる前に押し潰された、何かの残骸だったのかもしれない。
ロウは自分の左手を見た。
手袋の下、掌の中央に、古い傷がある。
生まれたときからあったと聞かされている傷だ。
母は、それについて一度も説明しなかった。
ただ、幼いロウが理由を尋ねたとき、一度だけこう言った。
――それは、あなたのものじゃないの。
その後、母は二度とその話をしなかった。
そしてロウも、聞かなくなった。
忘れたわけではない。
ただ、思い出さないようにしていただけだ。
「……戻るぞ、ベルン」
今度は、ベルンも歩き出した。
その右手の人差し指は、確かに曲がっていた。
だが、ロウはその指を見ながら、ひとつの疑問を抱いていた。
あの傷は、本当に十年前についたものなのだろうか。
第三節 記録官は三度、同じ名前を書いた
黒門砦の記録室は、昼でも薄暗い。
窓が小さいからではない。
壁が厚く、天井が低く、書棚が通路を狭めているからだ。
何十年も前の兵士名簿、通行記録、物資の受領書、裁判記録、死亡届、失踪者の報告書。
この砦に関わった人間の名前が、紙と革と木箱の中に詰め込まれている。
人間は死ぬ。
建物も朽ちる。
王朝も変わる。
だが、記録だけは残る。
――そう信じている人間が、ここにはいた。
「記録は嘘をつきません」
記録官オスカー・ベルは、いつもそう言っていた。
だからこそ、彼は記録官になった。
人の証言は変わる。
人の記憶は歪む。
人の顔は、化け物に真似されることさえある。
だが、正しい手順で作成され、保管された記録は違う。
誰が、いつ、どこで、何をしたのか。
その事実を、後世へ渡すためのもの。
それが記録だった。
その夜、オスカーは自分の信念を守るために、人生で初めて記録を燃やしたいと思った。
「……もう一度、お願いします」
彼は眼鏡を外し、布で拭いた。
「名前が三つ、あるんですね?」
「そうだ」
ロウは机の向こうに腰を下ろしていた。
ミラは壁際で腕を組み、セラは扉の前に立っている。ベルンは別室で待機させていた。
「ベルン・ハルトという名前が、記録上三度出てくる」
「はい」
「一つ目は、現役の兵士ベルン・ハルト。これは間違いないな?」
「ええ。入隊記録も、給与記録も、配属記録もあります。十年前の負傷報告書も残っています」
「二つ目は?」
オスカーは、机の上に一枚の古い紙を置いた。
「半年前の地下修繕に関する記録です。作業員名簿の一人として、ベルン・ハルトの名前が記載されています」
「エドリック・ヴェインではなかったのか?」
「その名前もあります。ただし、別の書類です」
ロウは顔を上げた。
「別の書類?」
「はい。修繕作業の責任者として、エドリック・ヴェインの名前が記載されています。しかし、現場で働いた作業員の名簿には、ベルン・ハルトの名前がある」
「つまり、エドリックとベルンは、同じ作業に参加していた?」
「記録上は、そうなります」
「だが、本人は半年前に地下で、自分と同じ顔の男を見たと言っている」
「……はい」
オスカーは眼鏡をかけ直した。
「私も、その話を聞いてから、もう一度調べました。エドリック・ヴェインの記録には不審な点があります」
「言ってみろ」
「彼は王都から派遣された技師という扱いになっています。ですが、派遣命令書がありません」
「作業員名簿には?」
「名前だけはあります。所属を示す欄は空白です」
「給与は?」
「支払い記録があります。ただし、受領者の署名がない」
「帰還記録は?」
「あります」
「到着記録は?」
「ありません」
ロウは黙って、机上の書類を見た。
行きの記録があり、帰りの記録がある。
だが、到着した記録がない。
人間が王都から黒門砦へ来て、作業をして、王都へ帰った。
そう記録されているのに、肝心の人間が、どこにもいない。
「……最初から、エドリック・ヴェインという人間が存在しなかった可能性は?」
ミラが尋ねた。
オスカーは即座に答えなかった。
「可能性だけなら、あります。ただ、彼の名前は王都の技師名簿にも存在しています」
「顔写真は?」
「ありません」
「家族は?」
「記録上、いません」
「住所は?」
「王都の住所が記載されていますが、その場所には十年前から別の人物が住んでいます」
セラが呆れたように言った。
「幽霊でも、もう少しまともな足跡を残しますよ」
「幽霊の記録を扱ったことはありませんので、比較はできません」
「そこは真面目に返さなくていいんです」
オスカーは、珍しく返事をしなかった。
彼の目は、三枚目の紙に向けられていた。
「……問題は、三つ目です」
ロウは、その紙を引き寄せた。
それは、古い出生記録だった。
紙の端は虫に食われ、インクは茶色く変色している。保管番号は現在の規則と異なり、少なくとも数十年前のものだ。
記載されているのは、名前、出生地、父母の名、出生日時、立会人。
その中に、一行だけ、奇妙な記載があった。
氏名:ベルン・ハルト。
出生予定日――記載なし。
出生地――記載なし。
父――記載なし。
母――記載なし。
立会人――記載なし。
ただし、備考欄には、明確な文章が残されていた。
この名は、まだ生まれていない者に与えられる。
名を先に記せば、記憶はその器を探す。
器が見つかるまで、名を持つ者を一人、地上に置くべからず。
ロウは、最後の一文を読み返した。
「……これは何だ」
「分かりません」
オスカーは答えた。
「この記録は、砦の正式な出生台帳ではありません。旧地下施設に関する文書群に紛れ込んでいました」
「いつ書かれた?」
「紙の年代測定は専門家に依頼しなければ確定できません。ただ、筆跡と用語から見て、少なくとも百年以上前のものです」
「百年以上前に、まだ生まれていないベルン・ハルトの名前が記録されていた?」
「そうなります」
「……何かの予言か?」
ミラが首を振った。
「予言なら、未来の出来事を記録したと考えられる。でも、これは違う」
彼女は紙の備考欄を指で示した。
「『名を先に記せば、記憶はその器を探す』。未来を言い当てる文章じゃない。何かを実行するための手順書に見える」
「手順書?」
「ええ。名前を先に用意する。次に記憶が器を探す。器が見つかるまで、名を持つ者を地上に置いてはいけない」
ミラは、しばらく考えた。
「この書き手は、人間を作ろうとしていたのかもしれない」
セラの手が、剣の柄を握った。
「人間を?」
「あるいは、人間の代わりになるものを」
ロウは紙から目を離さなかった。
その瞬間、奇妙な感覚がした。
自分は、この文章を知っている。
一度も読んだことがないはずなのに。
紙の質感も、文字の形も、備考欄の歪んだ線も、すべて初めて見るものだ。
それでも、文章の意味だけは知っていた。
名を先に記せば、記憶はその器を探す。
その言葉を、彼は幼い頃に聞いた気がした。
誰かの声で。
暗い部屋で。
自分の頭を撫でながら。
――ロウ。名前は、ただの呼び名じゃないのよ。
母の声だった。
――名前は、あなたをこの世界に結びつけるものなの。
ロウは、目を閉じた。
記憶はそこで途切れた。
続きがない。
いや、違う。
続きがあったはずなのに、その先だけが、綺麗に削り取られていた。
「隊長?」
セラが呼ぶ。
ロウは目を開けた。
「……オスカー」
「はい」
「この三つ目の記録は、誰が保管していた?」
「それが、分からないのです」
「分からない?」
「保管箱には番号がありました。しかし、その番号に対応する目録がありません。記録が箱に入れられた日付も、持ち込んだ人間の名前もない」
「箱だけが存在していた?」
「はい」
「中身を誰も知らなかったのか」
「少なくとも、現行の記録では」
オスカーは、震える手で別の紙を取り出した。
「隊長。もう一つ、お見せしたいものがあります」
それは、ベルンの入隊記録だった。
ロウは目を通し、眉を寄せた。
「……出生証明の番号がない」
「はい」
「身元保証人の署名もない」
「はい」
「なのに入隊できたのか?」
「通常なら、できません」
「では、誰が承認した?」
オスカーは、紙の下部を指さした。
そこには承認者の署名がある。
ロウはその文字を見た。
見覚えがあった。
見覚えがあるどころではない。
それは、王都の王立衛兵隊に所属していた頃、何度も目にした署名だった。
王立衛兵隊の名簿管理を統括していた人物。
ロウの異種族混血が発覚した際、彼の身分に関する調査を命じた人物。
そして、ロウが王都を去る直前、彼に一通の書類を渡した人物。
アルベルト・グレイヴ。
王立衛兵隊の元記録監。
「……こいつか」
ロウは呟いた。
「知っている方ですか?」
セラが尋ねる。
「王都にいた頃の上官だ。記録監だった」
「今は?」
「知らん。俺が王都を離れてから、何年も会っていない」
ミラが紙を覗き込んだ。
「この人物が、出生証明のないベルンを入隊させた?」
「そういうことになる」
「故意に?」
「それを調べるために、ここにいるんだろう」
ロウは紙を机に戻した。
そして、オスカーに告げた。
「ベルンの入隊記録を最初から調べ直せ。出生証明、身元保証、採用試験、配属履歴。関連する書類はすべて出せ」
「分かりました」
「それと、エドリック・ヴェインの記録もだ。王都の技師名簿と照合しろ。実在する人間なら、必ず誰かと接点がある」
「はい」
「最後に」
ロウは、三つ目の出生記録を指した。
「この記録を書いた人間を探せ」
オスカーは、ゆっくりとうなずいた。
「……探します」
「何か問題があるか?」
「いえ。ただ」
彼は、普段の彼らしくない目でロウを見た。
「隊長。記録を書いた人間が、すでに死んでいるとは限りません」
「どういう意味だ?」
「この文章は、百年以上前のものです。ですが、筆跡が……」
オスカーは、別の書類を机に並べた。
一枚は古い出生記録。
もう一枚は、半年前の地下修繕に関する作業報告書。
最後の一枚は、つい先日、ロウが自分で書いた事件報告書だった。
「……何をしている?」
「筆跡を比べています」
「誰の?」
オスカーは答えず、三枚の紙を横に並べた。
文字の形。
線の癖。
『ベルン』と書く際の、最後の一画の跳ね方。
『門』という字の内側にできる、わずかな歪み。
『記憶』という二文字の間隔。
古い出生記録と、半年前の作業報告書。
その二つの筆跡は、驚くほど似ていた。
だが、それだけではない。
ロウの事件報告書もまた、同じ癖を持っていた。
「……馬鹿な」
ロウは自分の報告書を手に取った。
「これは俺が書いたものだ」
「承知しています」
「古い記録を書いた覚えはない」
「それも承知しています」
「なら、何を言いたい?」
オスカーは、唇を湿らせた。
「三つの記録を書いた人間が、同一人物である可能性があります」
「俺と、百年以上前の記録官が同一人物だと?」
「いいえ」
オスカーは、はっきりと否定した。
「その結論には、まだ早いと思います」
「では、何だ」
「……隊長の筆跡が、百年以上前の筆跡に似ているのです」
部屋が静かになった。
ミラが、古い紙を手に取る。
「筆跡は、教育や書式で似ることもあるわ」
「もちろんです」
オスカーは頷いた。
「だから、これだけで同一人物だとは言えません。しかし、偶然で片づけるには、共通点が多すぎる」
彼は、ロウの報告書の最後の一行を指した。
そこには、こう書かれていた。
以上の事実を踏まえ、第三封印門への接近を禁止する。
古い出生記録の備考欄。
その最後の一文。
器が見つかるまで、名を持つ者を一人、地上に置くべからず。
二つの文章の筆跡は、似ている。
だが、ロウはもっと別のことに気づいていた。
古い出生記録の下部に、小さな文字が書き添えられている。
署名ではない。
保管番号でもない。
それは、記録の最後に記された、たった二文字だった。
「ロウ」
彼は、息を止めた。
「……これは」
ミラが顔を上げる。
「どうしたの?」
ロウは答えなかった。
百年以上前の記録に、自分の名前がある。
生まれる前の人間に与えられる名前。
まだ生まれていないベルン・ハルト。
そして、ロウ・テュユール。
二つの名前が、同じ紙に記されていた。
彼の脳裏に、あの声がよみがえった。
――次は、お前の名前だ。
ロウは立ち上がった。
「……ベルンを連れてこい」
セラが即座に扉へ向かった。
だが、その手が取っ手に触れる前に、外から激しい足音が聞こえてきた。
「隊長!」
衛兵が飛び込んできた。
顔面蒼白だった。
「報告します! 隔離室のベルン伍長が――」
「消えたのか?」
ロウは尋ねた。
衛兵は、首を振った。
「いいえ!」
彼は、息を切らしながら叫んだ。
「ベルン伍長が、二人に増えました!」
第四節 増えるのは、人間か。名前か。
隔離室の前には、十人以上の兵士が集まっていた。
その全員が、扉を見つめている。
誰も中へ入ろうとしない。
扉の向こうから、二つの声が聞こえていたからだ。
「俺は本物だ!」
「違う、俺が本物だ!」
「お前は半年前に死んだ!」
「お前こそ、半年前から俺のふりをしている!」
「隊長を呼べ!」
「隊長を呼ぶな!」
二つの声は、どちらもベルンのものだった。
ロウが到着すると、兵士たちが道を開けた。
「状況を報告しろ」
「はい、隊長!」
見張りの兵士が敬礼した。
「先ほど、隔離室の内部から争う声が聞こえました。確認のために扉を開けようとしたところ、内側から鍵がかかっていることに気づきました」
「内側から?」
「はい。こちらの鍵は、外側からしか操作できない構造です」
「……それで?」
「扉を破って中へ入ったところ、ベルン伍長が二人いました」
「どちらも?」
「どちらも、自分が本物だと主張しています」
ロウは扉を見た。
錠前には、破壊された跡がある。
内側から鍵をかけることはできない。
窓はない。
天井にも、床にも、隠し通路はない。
部屋の中には、寝台と椅子と水差しが一つずつ。
それだけだった。
「兵士たちを下がらせろ」
「しかし、隊長!」
「聞こえなかったか?」
兵士たちは渋々と後退した。
ロウは、セラとミラを伴って部屋に入った。
二人のベルンが、同時にこちらを向いた。
片方は、右手の人差し指が曲がっている。
もう片方は、まっすぐだ。
「……またか」
ロウは呟いた。
曲がった指のベルンが、必死の形相で訴えた。
「隊長! そいつは偽物です! 俺はここにいたんです! ずっと、この部屋に!」
まっすぐな指のベルンが、冷静に言った。
「嘘です。こいつが俺の記憶を奪って、俺の場所に入り込んだんです」
「どこから来た?」
「ここです」
「ここ、とは?」
「この部屋です」
「お前は、さっきまで地下にいたはずだ」
まっすぐな指のベルンは、首を傾けた。
「地下?」
「第三封印門の前だ」
「……知りません」
「俺とセラが、お前を見た」
「覚えていません」
ロウは、曲がった指のベルンへ向き直った。
「お前は?」
「俺は、ずっとここにいました」
「地下にいた記憶は?」
「ありません」
「第三封印門は?」
「見たこともありません」
「半年前のことは?」
ベルンは、顔を強張らせた。
「……覚えています」
「何を?」
「地下で、自分と同じ顔の男を見たことです」
「そいつが、目の前にいる男か?」
「……はい」
「では、こいつはお前の記憶を持っている?」
「分かりません」
「お前の記憶を奪ったと言ったな」
「はい」
「奪われたと、どうして分かる?」
ベルンは口を開いた。
そして、閉じた。
しばらくして、彼は言った。
「……分からないんです」
ロウは目を細めた。
「分からないことを、なぜ断言した?」
「……」
「ベルン」
「……はい」
「お前は、本当に自分が本物だと思っているのか?」
ベルンの顔から、血の気が引いた。
まっすぐな指のベルンが、静かに口を開いた。
「隊長。俺にも、同じことを聞いてください」
「なぜだ」
「俺も、自分が本物だと思っていますから」
「お前は、記憶がないと言っただろう」
「はい」
「なら、自分が本物だと判断する根拠は何だ?」
まっすぐな指のベルンは、少しだけ笑った。
「……名前です」
「名前?」
「俺の名前は、ベルン・ハルトです」
彼は、自分の胸に手を当てた。
「俺は、その名前を覚えています。だから、俺は俺です」
曲がった指のベルンが、声を荒らげた。
「そんなの、誰だって言える!」
「そうですね」
まっすぐな指のベルンは、否定しなかった。
「誰だって言えます」
「なら、何の証拠にもならない!」
「ええ」
彼は、穏やかに答えた。
「名前は、証拠にはならないんです」
その瞬間、ロウは理解した。
この二人は、同じ問題を抱えている。
自分が誰なのか。
自分が何をしたのか。
自分の記憶は、本当に自分のものなのか。
その答えを、自分自身で証明できない。
人間は、自分が自分であることを、当たり前のように信じている。
昨日の自分と今日の自分は同じ人間だ。
子供の頃の自分と今の自分は、同じ人生を生きてきた。
記憶がつながっているから。
身体がつながっているから。
周囲の人間が、自分を同じ名前で呼ぶから。
だが、記憶が奪われたら?
身体が複製されたら?
名前が、先に用意されていたら?
自分が本物だと、誰が証明してくれるのか。
ロウは、二人のベルンを見た。
「……ミラ」
「何?」
「二人の身体を調べてくれ」
「何を調べるの?」
「血液、歯、骨、傷跡。できる限り細かく。二人ともだ」
「分かった」
「セラは、二人の入隊前の記録を確認しろ。家族、出身地、幼少期の住所。どちらか一人でも、記録と矛盾することがあれば報告しろ」
「承知しました」
「オスカーには、俺の筆跡と古い記録の件を続けさせる」
「隊長は?」
セラが尋ねた。
ロウは、二人のベルンを見た。
「俺は、名前を調べる」
「名前?」
「ベルン・ハルトという名前が、いつから存在していたのか。それを調べる」
彼は、まっすぐな指のベルンに視線を向けた。
「お前は、自分の名前を覚えていると言ったな」
「はい」
「では、質問を変えよう」
ロウは、一歩近づいた。
「お前は、誰からその名前を与えられた?」
ベルンは答えなかった。
「父親か?」
沈黙。
「母親か?」
沈黙。
「それとも、軍の入隊手続きで?」
まっすぐな指のベルンは、目を伏せた。
「……分かりません」
「何も覚えていないのか?」
「名前だけは、覚えています」
「誰かに呼ばれた記憶は?」
「ありません」
「自分で名乗った記憶は?」
「ありません」
「では、お前はどうやって、自分がベルン・ハルトだと知った?」
ベルンは、ゆっくりと顔を上げた。
「……最初から、知っていたんです」
その答えに、曲がった指のベルンが息を呑んだ。
ロウは、まっすぐな指のベルンの顔を見つめた。
「最初から?」
「はい」
「生まれたときからか?」
「……分かりません」
「目を覚ましたときか?」
「……はい」
「どこで目を覚ました?」
「分かりません」
「いつ?」
「分かりません」
「誰かが、お前をそこへ連れていったのか?」
「分かりません」
「何も分からないのに、名前だけは分かるのか」
ベルンは、頷いた。
「はい」
そして、彼は言った。
「名前だけは、誰にも奪われなかったから」
その言葉を聞いた瞬間、曲がった指のベルンが、椅子から崩れ落ちた。
「……違う」
彼は頭を抱えた。
「違う、違う、違う……」
「ベルン?」
セラが近づこうとした。
「来るな!」
ベルンは叫んだ。
「俺は……俺は、あいつを知っている……!」
ロウが片手を上げ、セラを止めた。
「何を思い出した?」
「……あいつは」
ベルンは、まっすぐな指のベルンを見た。
その顔を見て、震えながら言った。
「……俺の兄です」
沈黙が落ちた。
まっすぐな指のベルンが、目を見開いた。
「違う」
彼は即座に否定した。
「俺に兄はいない」
「いる!」
「いない!」
「お前は、俺の兄だ!」
「俺は、お前と同じ日に生まれた!」
その言葉に、ロウは顔を上げた。
「……同じ日に?」
まっすぐな指のベルンは、言ってしまったことに気づいたように口を閉じた。
ロウは逃がさなかった。
「お前は、何を知っている?」
「……何も」
「今、同じ日に生まれたと言ったな」
「……」
「お前は、自分がいつ生まれたのか分からないと言ったはずだ」
まっすぐな指のベルンは、動かなかった。
ロウは、静かに続けた。
「それとも、お前は――」
彼の脳裏に、古い出生記録の文章がよみがえる。
まだ生まれていない者。
名を先に記す。
記憶はその器を探す。
そして、三つの名前。
ロウは、最後の問いを口にした。
「お前たちは、同じ人間の兄弟なのか。それとも、一人の人間を二人に分けたものなのか?」
二人のベルンは、同時に顔を上げた。
そして、まったく同じ声で答えた。
「――どちらでもありません」
その瞬間、隔離室の壁に、細い亀裂が走った。
石壁の内側から、何かが叩いている。
一度。
二度。
三度。
その音に合わせて、壁に文字が浮かび上がった。
血のような赤い色で。
ベルン・ハルト。
ベルン・ハルト。
ベルン・ハルト。
三つの名前。
三つとも、同じ筆跡だった。
そして、最後の名前の下に、もう一つの名前が浮かび上がった。
ロウ・テュユール。
ロウは、息を呑んだ。
セラが剣を抜いた。
ミラは、壁から一歩退いた。
誰も、何も言わなかった。
やがて、壁の向こうから声が聞こえた。
それは、少年の声だった。
まだ幼く、かすれていて、泣いているような声。
「……おかえり、ロウ」
ロウの全身が凍りついた。
その声を、彼は知っていた。
知っているはずがなかった。
だが、その声が続けた言葉を聞いた瞬間、彼は自分の記憶の底に、封じられた扉があることを理解した。
「……ずっと、待ってたよ」
壁の向こうで、少年が笑った。
「兄さん」
第五節 生まれる前の証言
「全員、退室!」
ロウの声が、隔離室を震わせた。
「セラ、兵士を下がらせろ! ミラ、二人を連れて地上へ戻れ!」
「隊長はどうするんです!」
「俺は残る!」
「却下です!」
セラが即座に言い返した。
「命令です!」
「隊長の命令を聞いている場合ではありません!」
「今は俺が隊長だ!」
「今は私が隊長を連れて帰る側です!」
「そんな役職はない!」
「今作りました!」
ミラが二人の間に割って入った。
「言い争いはあと! 壁の向こうに何がいるか分からない。ここにいる全員が、未知の現象にさらされているのよ!」
彼女は二人のベルンを見た。
「あなたたちもよ。立って。歩ける?」
曲がった指のベルンは、青ざめた顔で頷いた。
まっすぐな指のベルンは、壁を見つめたまま動かなかった。
「……お前は来ないのか?」
ロウが尋ねた。
「俺は、ここにいなければなりません」
「なぜだ」
「……そう決まっているからです」
「誰が決めた?」
ベルンは、壁を見つめて答えた。
「……俺です」
「お前が?」
「はい」
「いつ決めた?」
「……覚えていません」
ロウは、剣の柄に手をかけた。
「ふざけるのも大概にしろ」
「ふざけていません」
ベルンは振り返った。
「隊長。俺は、あなたを待っていたんです」
「何のために?」
「あなたが、俺を殺しに来るのを」
「……さっきも同じことを言ったな」
「はい」
「俺がお前を殺したことがあるのか?」
「あります」
「いつだ?」
「まだです」
「それは答えになっていない」
「……すみません」
ベルンは、悲しそうに微笑んだ。
「でも、隊長。あなたが俺を殺さなければ、俺は世界を壊します」
その言葉を聞いて、ロウは剣を抜いた。
「……理由を言え」
「言えません」
「なら、今ここで斬る」
「それでいいんです」
「何?」
「隊長が俺を殺してくれれば、少なくとも一つの名前は消えます」
ベルンは、自分の胸に手を当てた。
「……それが、必要なんです」
壁の向こうから、再び音がした。
今度は叩く音ではない。
爪で石を引っ掻くような音だった。
ゆっくりと。
執拗に。
何かが、壁の向こう側からこちらへ進んでいる。
ロウは剣を構えた。
「セラ。ミラを連れて行け」
「隊長!」
「命令だ」
セラは唇を噛んだ。
そして、ミラの腕をつかんだ。
「……必ず戻ってきてください」
「努力する」
「努力ではなく、約束してください」
ロウは一瞬だけ、彼女を見た。
「……戻る」
セラはそれ以上何も言わず、ミラと二人のベルンを連れて部屋を出た。
扉が閉まる。
部屋には、ロウと、まっすぐな指のベルンだけが残った。
壁の亀裂が広がっていく。
石の粉が床に落ちる。
そして、亀裂の向こうから、白い指が一本、姿を現した。
人間の指だった。
だが、指の関節が一つ多い。
皮膚は紙のように薄く、爪は透明だった。
その指が、ゆっくりと壁をつかんだ。
続いて、もう一本。
そして、手のひら。
壁の向こうから現れたのは、人間の手だった。
手首には、古い傷がある。
掌の中央には、ロウと同じ位置に、同じ形の傷があった。
ロウは息を止めた。
「……お前は、誰だ」
壁の向こうから、少年が答えた。
「……ベルン・ハルト」
「三人目のベルンか?」
「違うよ」
少年の声は、楽しげだった。
「僕は、四人目」
ロウは、剣を握る手に力を込めた。
「……四人目?」
「うん」
壁の向こうで、何かが笑った。
「だって、兄さんがいるでしょう?」
ロウは、一歩も動けなかった。
少年は続けた。
「一人目は、地上に置かれた人」
「……」
「二人目は、地下で名前を覚えた人」
「……」
「三人目は、まだ生まれていない人」
壁の亀裂が、さらに広がる。
「そして四人目は――」
少年は、壁の向こうから顔を出した。
それは、ロウの幼い頃の顔だった。
十歳にも満たない少年の顔。
金色がかった瞳。
人間よりもわずかに尖った耳。
そして、左の掌にある古い傷。
ロウが、自分の顔を見た。
自分の子供時代の顔を。
「――兄さんが、忘れた人」
少年は微笑んだ。
「やっと、会えたね」
ロウは、剣を振り上げた。
だが、斬れなかった。
その顔を知っていたからではない。
少年の顔が、自分に似ていたからでもない。
少年が、次に口にした言葉のせいだった。
「母さんが言ってたよ」
少年は、無邪気に笑った。
「兄さんは、僕を殺してから生まれるんだって」
ロウの剣が、震えた。
母の顔が浮かぶ。
幼い頃の家。
暖炉の火。
窓の外に降る雪。
そして、母が何かを抱きしめて泣いていた夜。
ロウは、その記憶を知らなかった。
知らないはずだった。
だが、その夜のことだけは、身体が覚えていた。
自分の小さな手が、誰かの手を握っていたこと。
冷たくなっていく指。
そして、誰かが囁いた言葉。
――ごめんね。
誰に謝ったのか。
誰が死んだのか。
ロウには分からなかった。
分からないまま、彼は生きてきた。
少年が、壁の向こうから手を伸ばした。
「ねえ、兄さん」
その指先が、ロウの掌に触れる。
「……僕の名前、覚えてる?」
ロウは、答えられなかった。
少年は、悲しそうに目を伏せた。
「そっか」
そして、彼は言った。
「じゃあ、僕はもう一度、生まれなきゃいけないね」
次の瞬間、壁が崩れた。
石片が飛び散り、粉塵が舞い上がる。
ロウは腕で顔を庇い、後退した。
だが、少年の姿は消えていた。
壁の向こうには、通路があった。
狭く、暗く、どこまでも続いているように見える通路。
その奥に、三つ目の封印門があった。
いや。
正確には、三つ目の封印門のさらに奥に、もう一つの扉があった。
記録には存在しない、四つ目の扉。
その表面には、古い文字が刻まれていた。
ロウには読めない文字だった。
だが、扉の中央に刻まれた一文だけは、なぜか理解できた。
第一の名は、世界を閉じる。
第二の名は、記憶を開く。
第三の名は、器を満たす。
そして、その下に。
第四の名は、世界を選ぶ。
ロウは、崩れた壁の前に立ち尽くした。
彼はまだ知らない。
三つのベルン・ハルトが何者なのか。
なぜ自分の名前が百年以上前の記録に残されているのか。
なぜ、母は自分の掌の傷について口を閉ざしたのか。
そして、なぜ自分は、あの少年の顔を見た瞬間に――
「兄さん」と呼ばれることを、懐かしいと感じたのか。
第六節 死者の名前を数える
翌朝。
黒門砦の鐘が、いつもより一時間早く鳴った。
緊急招集の鐘だった。
兵士たちは武装し、砦の門は閉鎖された。通行人は全員、宿泊施設と検問所に分けて待機させられた。
地下施設への立ち入りは全面禁止。
記録室は封鎖。
隔離室の周囲には二重の警備線が敷かれ、関係者以外の立ち入りが禁じられた。
そのすべてを、ロウは自分の命令で実施した。
彼は一睡もしていなかった。
夜明けまでのあいだ、ミラは二人のベルンを調べ続けた。
その結果、二人の身体は、驚くほどよく似ていることが分かった。
血液型は一致。
歯の形も、骨格も、身長も、体重も、ほとんど同じ。
しかし、細部には違いがあった。
曲がった指のベルンには、十年前の骨折による古い損傷がある。
まっすぐな指のベルンには、その痕跡がない。
一方で、まっすぐな指のベルンの血液には、通常の人間には見られない微量の物質が含まれていた。
ミラは、それを「未分類の生体反応」と呼んだ。
魔物の血液に似ている。
しかし、魔物そのものとも言い切れない。
「結論から言うと」
朝食にも手をつけず、ミラは報告した。
「二人は、同じ身体を複製した存在ではないかと思う」
ロウは顔を上げた。
「複製?」
「完全な複製ではないわ。指の傷も違うし、血液の反応も違う。でも、骨格や歯列、遺伝的な特徴が、偶然では説明できないほど一致している」
「魔物の能力か?」
「可能性はある。でも、普通の変身能力とは違う」
「何が違う?」
ミラは、二枚の検査記録を机に置いた。
「一般的な変身型の魔物は、外見を真似ることができても、身体の内部まで完全に一致させるわけではない。少なくとも、私が知る限りではね」
「なら、これは何だ」
「……記憶を材料にして、身体を作っているのかもしれない」
ロウは黙った。
ミラは続けた。
「曲がった指のベルンには、十年前の骨折の記憶がある。だから、その記憶に対応する傷が身体に存在する」
「もう一人は?」
「同じ記憶を持っていない。だから、傷もない」
「つまり、記憶が違うから身体も違う?」
「そう。少なくとも、その可能性がある」
ロウは、机の上の書類を見つめた。
記憶が身体を作る。
名前が器を探す。
そして、記録には、まだ生まれていない人間の名前が存在する。
「……ミラ」
「何?」
「記憶を失った人間は、どこまで同じ人間でいられる?」
ミラは、すぐには答えなかった。
医師としてなら、いくつかの説明ができる。
記憶を失っても身体は同じだ。
性格は変化するかもしれないが、すべてが失われるわけではない。
だが、今ここでロウが尋ねているのは、医学的な話だけではない。
「……難しい質問ね」
ミラは椅子に腰を下ろした。
「記憶がなくても、その人の身体は残る。周囲の人間が覚えていれば、その人が生きてきた証拠も残る。でも、本人が自分の過去をまったく覚えていないとしたら……」
彼女は言葉を探した。
「その人が、自分を自分だと思えるかどうかは、本人にしか分からない」
「本人にも分からない場合は?」
「……それでも、生きていることは変わらないわ」
ロウは顔を上げた。
ミラは、彼をまっすぐに見ていた。
「自分が誰か分からなくなったからといって、その人が存在しなくなるわけじゃない。過去を証明できないからといって、現在まで否定されるわけでもない」
彼女は、少しだけ声を落とした。
「それだけは、間違えないで」
ロウは答えなかった。
その言葉は、ベルンたちに向けられたものだったのか。
それとも、ロウ自身に向けられたものだったのか。
彼女は説明しなかった。
ロウも尋ねなかった。
そのとき、記録室の扉が開いた。
オスカーが、青ざめた顔で立っていた。
「隊長」
「何だ」
「……三つの名前について、追加の記録が見つかりました」
彼は机に一冊の帳簿を置いた。
分厚い革表紙。
背表紙には、古い文字で題名が記されている。
『黒門砦・死亡者名簿』
「死亡者名簿?」
「はい。現行の名簿ではありません。旧地下施設の保管庫にあったものです」
ロウは、帳簿を開いた。
最初のページには、古い年代が記されている。
百年以上前。
その次のページも。
さらに次のページも。
そこには、黒門砦の建設以前から、この土地で死んだ人間たちの名前が並んでいた。
兵士。
技師。
旅人。
囚人。
身元不明者。
記録には、死亡日時、死因、発見場所、埋葬先が記されている。
そして、その中に。
ベルン・ハルトという名前があった。
一度ではない。
何十回も。
「……何だ、これは」
ロウはページをめくった。
ベルン・ハルト。
死亡原因:落下。
ベルン・ハルト。
死亡原因:高熱。
ベルン・ハルト。
死亡原因:行方不明。
ベルン・ハルト。
死亡原因:記録なし。
年代は、ばらばらだった。
百年前の記録もあれば、八十年前の記録もある。
五十年前。
三十年前。
十年前。
そして、半年前。
最後の記録には、こう書かれていた。
ベルン・ハルト。
死亡確認:なし。
遺体:なし。
死亡者として記録する理由:本人が死亡したと証言したため。
ロウは、帳簿を閉じた。
「……誰が、こんな記録を作った?」
オスカーは首を振った。
「分かりません。ただ、死亡者名簿には、もう一つ奇妙な点があります」
「まだあるのか」
「はい」
彼は、帳簿の最後のページを開いた。
そこには、名前の一覧ではなく、短い文章が記されていた。
死者の数を数えるな。
名前の数を数えよ。
死者が増えたのではない。
一つの名が、何度も死んだのだ。
ロウは、紙面を見つめた。
「……一つの名前が、何度も死んだ?」
「はい」
オスカーは頷いた。
「私は、この記録が何を意味するのか分かりません。ただ、ベルン・ハルトという名前が、複数の人間に使われていたのではなく……」
彼は、言葉を切った。
「同じ名前を持つ何かが、何度も死んでいたのではないかと」
そのとき、砦の外から悲鳴が聞こえた。
一つではない。
何人もの人間が、一斉に叫んでいる。
ロウは立ち上がった。
「何事だ!」
廊下を駆けてきた兵士が、扉の前で膝をついた。
「隊長! 正門前に……」
「報告しろ!」
兵士は、顔を上げた。
「死体が、並んでいます!」
「誰の死体だ?」
「……ベルン・ハルトです」
ロウの背筋に、冷たいものが走った。
「何体だ」
兵士は、震える声で答えた。
「……三十七体です」
第七節 名前のない死体
正門前には、三十七体の死体が並んでいた。
すべて、ベルン・ハルトの顔をしていた。
若いものもいれば、老いたものもいる。
髪の長さも違えば、身につけている衣服も違う。
古い時代の兵士の制服を着た死体。
旅人の外套を着た死体。
技師の作業服を着た死体。
そして、現代の黒門砦の制服を着た死体。
だが、どの顔も同じだった。
ベルン・ハルト。
黒門砦の伍長。
あの、いつも食堂の隅で塩漬け肉の煮込みを食べている兵士。
彼と同じ顔が、三十七体。
その光景を前に、兵士たちは誰も近づこうとしなかった。
ロウは、ゆっくりと死体の列を歩いた。
一体目。
首に縄の痕がある。
二体目。
胸に剣傷がある。
三体目。
皮膚が黒ずみ、全身が乾燥している。
四体目。
顔の半分が焼け焦げている。
五体目。
右手の人差し指が曲がっている。
ロウは、足を止めた。
その死体は、ベルンと同じ傷を持っていた。
十年前の骨折による、指の変形。
だが、その死体の衣服は、現代のものではない。
黒門砦が現在の形になる以前の、古い兵士の制服だった。
「……ミラ」
彼女はすでに、死体の列のそばにいた。
「調べているわ」
「どうだ?」
「全部、死体よ」
「そんなことは見れば分かる」
「そうね。でも、言っておかないと、あなたが何かとんでもないことを言い出しそうだから」
ロウは返事をしなかった。
ミラは、一体目の死体の腕を持ち上げた。
「体温はない。脈もない。死後硬直の状態から考えると、死亡時刻は一様ではないわ。数時間前のものもあれば、何十年も前のものもある」
「なのに、今ここに並んでいる」
「そう」
「誰が運んだ?」
「分からない」
「どこから?」
「分からない」
ロウは、周囲を見回した。
正門は夜通し閉じられていた。
見張りもいた。
門の周囲には、死体を運び込めるほどの隙間はない。
城壁の上にも、誰も侵入した形跡はない。
それでも、三十七体の死体が、門の前に並んでいる。
しかも、すべて同じ顔で。
「……これは、見せるためだな」
ロウは呟いた。
「誰かに、何かを伝えたい」
「誰に?」
ミラが尋ねた。
ロウは答えなかった。
彼には分かっていた。
この死体は、砦の兵士たちを脅すためのものではない。
王都への警告でもない。
これは、彼に向けられたものだ。
なぜなら、三十七体の死体の中に、一つだけ、他とは違うものがあったからだ。
一番奥。
正門の真正面。
他の死体よりも、わずかに新しい衣服を着た男。
その顔は、ベルンではなかった。
ロウだった。
三十七体目の死体は、ロウ・テュユールの顔をしていた。
そして、その死体の胸には、短い文章が刻まれていた。
お前の名前は、四つ目だ。
ロウは、死体の前に膝をついた。
顔を覗き込む。
自分と同じ鼻。
同じ口。
同じ傷。
そして、左の掌にある、古い傷。
「……俺が死んだのか」
誰にともなく、呟いた。
「いいえ」
背後から声がした。
振り返ると、ベルンが立っていた。
曲がった指のベルン。
彼は、死体を見ていた。
「隊長は、まだ死んでいません」
「……なら、これは誰だ」
ベルンは、しばらく黙っていた。
やがて、彼は言った。
「……あなたが、まだ生まれていなかった頃の死体です」
ロウは、ゆっくりと立ち上がった。
「説明しろ」
「……できません」
「またそれか」
「すみません」
ベルンは、死体の顔を見つめた。
「でも、一つだけ分かることがあります」
「何だ」
「この死体は、あなたのものではありません」
「俺と同じ顔をしている」
「はい」
「同じ傷もある」
「はい」
「それでも違うと?」
ベルンは頷いた。
「……その人は、あなたの名前を持っていません」
ロウは、死体の胸に刻まれた文字を見た。
お前の名前は、四つ目だ。
「では、こいつの名前は何だ?」
ベルンは、答えた。
「……それは」
彼の声が震えた。
「それは、俺が忘れた名前です」
その瞬間、正門の鐘が鳴った。
誰も鳴らしていないはずの鐘が。
一度。
二度。
三度。
その音を聞いた兵士たちが、一斉に振り返った。
鐘楼の上に、人影が立っていた。
少年だった。
ロウの幼い頃の顔をした少年。
彼は、鐘の縁に腰掛け、こちらを見下ろしていた。
そして、手を振った。
「おはよう、兄さん」
少年は笑った。
「今日は、名前を返しに来たんだ」
鐘が、四度目の音を鳴らした。
その音は、砦の外へ響いていった。
魔王領の奥深くまで。
そして、遠い地下で眠る何かが、その音に応えるように、ゆっくりと目を開いた。




