第三話 もう一人のベルン
一 死者の朝食
「隊長。ベルンが食堂にいます」
報告に来た兵士は、寝不足の顔をしていた。
声が裏返っている。
息も乱れている。
それだけなら、夜通し警戒に当たっていた兵士が、朝になって疲労を訴えているだけに見えただろう。
だが、彼は食堂の入口で足を止め、ロウの顔を見た。
そして、もう一度言った。
「ベルンです。ベルン・ハルトが、食堂にいます」
ロウは、机の上に置いた報告書から目を上げた。
「……そうか」
「そうか、ではありません!」
兵士は思わず声を荒らげた。
すぐに口をつぐむ。
上官に対して、許される態度ではなかった。
しかし、ロウは咎めなかった。
「落ち着け。まず確認する。お前が見たのは、ベルンの死体ではないんだな?」
「はい。生きていました。自分で歩いて、食堂へ入っていきました」
「話したか?」
「はい」
「何を?」
「おはよう、と」
ロウは、しばらく兵士を見つめた。
「……おはよう?」
「はい」
「それだけか?」
「その後、朝食を頼んでいました。いつもの席に座って、パンとスープを受け取って……」
兵士の顔が、いっそう青くなった。
「隊長。あいつ、笑っていたんです」
ロウは立ち上がった。
「セラを呼べ。医務室にも連絡しろ。検死室の死体を、誰にも触らせるな」
「はっ!」
兵士が走り去る。
ロウは壁に掛けてあった外套を掴み、腰の剣を確かめた。
死者が蘇ったのか。
魔物が姿を変えたのか。
人間が変装しているのか。
あるいは、昨日まで死体だと思っていたものが、そもそもベルンではなかったのか。
どれも、現時点では否定できない。
ただし、ひとつだけ確かなことがある。
食堂にベルンがいるという報告だけで、ベルンが生きていると判断してはいけない。
昨日、ロウは兵士たちにそう教えた。
顔を見ただけでは、本人だと断定できない。
声を聞いただけでも、本人だと断定できない。
記録があるからといって、その記録が真実だとは限らない。
ならば、今回も同じだ。
ロウは廊下へ出た。
「案内しろ」
兵士は頷き、先を走った。
朝の黒門砦には、普段ならば見慣れた音が満ちている。
炊事場から聞こえる鍋の音。
鎧を着る音。
交代する衛兵たちの足音。
訓練場から響く号令。
だが、今朝は違った。
人の声が少ない。
兵士たちは、廊下の端に寄り、何かを囁き合っている。ロウの姿を見ると、口を閉じる者もいた。
情報が広がっている。
死体が蘇った。
魔物が人間に化けている。
砦の中には、死者の姿をした何かがいる。
どれも、事実を確認する前に人々が作り上げた答えだ。
ロウは、歩調を速めた。
噂が事実より先に走り出せば、捜査は難しくなる。
誰かが疑われる。
誰かが勝手に裁かれる。
そして、犯人は、その混乱を利用する。
食堂の入口には、兵士が二人立っていた。
その向こうから、食器の触れ合う音が聞こえる。
ロウは扉を押し開けた。
食堂には、三十人ほどの兵士がいた。
いつもならば、朝食を取る者たちの声で賑わう場所だ。
しかし、今は誰もまともに食事をしていなかった。
全員が、ひとつの卓を見つめている。
そこに、男が座っていた。
短く刈った髪。
頬に残る古い傷。
左の眉の上にある、小さな切り傷。
黒門砦の巡回兵、ベルン・ハルト。
彼は木の匙でスープをすくい、何の変哲もない朝食を取っていた。
そして、ロウに気づくと、気安い笑みを浮かべた。
「おはようございます、隊長」
ロウは答えなかった。
ベルンは首を傾げた。
「どうしました? そんな怖い顔をして」
声も同じだった。
語尾の癖も。
息継ぎの仕方も。
笑う時に鼻へ抜ける、少し掠れた音まで。
昨日、隔離室の中で魔物が真似た声より、はるかに自然だった。
ベルンは匙を置いた。
「昨夜はずいぶん大変だったそうですね。武器庫で魔物が見つかったとか。ヴァルター殿も拘束されたとか」
ロウの目が、わずかに細くなる。
「誰から聞いた?」
「みんな話していますよ」
「誰が最初に話した?」
「さあ。朝食を取りに来たら、みんなが噂していたんです」
「そうか」
ロウは卓へ近づいた。
ベルンの前には、パンが半分。
スープが一杯。
水差し。
それから、銀色の小さな匙が置かれていた。
「食事はうまいか?」
「ええ。いつも通りです」
「昨夜はどこにいた?」
ベルンは、すぐに答えた。
「巡回ですよ」
「どこを?」
「北側通路から東側排水溝の周辺です」
「誰と組んでいた?」
「一人です」
食堂の空気が凍りついた。
ロウは、ベルンを見たまま動かなかった。
昨夜、巡回の手順は変更されている。
単独行動は禁止。
移動は二人以上。
交代時には、互いの顔と合言葉を確認する。
それを命じたのは、ロウ自身だった。
しかし、ベルンは、その命令を知らない。
いや。
知っていて、無視した可能性もある。
「昨夜、単独巡回を命じられたのか?」
「いえ。いつもの巡回です」
「いつもの巡回?」
「はい。俺は夜間巡回兵ですから」
ベルンは笑った。
「隊長。俺、何かまずいことをしましたか?」
ロウは答えず、セラが来るのを待った。
彼女はすぐに到着した。
扉の前で食堂を見渡し、ベルンを見つけた瞬間、足を止める。
彼女の手が、剣の柄にかかった。
「……ベルン?」
「おはようございます、セラさん」
ベルンは笑顔を向けた。
「朝からずいぶん物騒な顔ですね」
セラの顔から、血の気が引いた。
「あなた……」
「はい?」
「あなたは、誰?」
ベルンは、きょとんとした。
「何を言っているんですか?」
「答えなさい」
セラの声が低くなる。
「あなたは、誰なの?」
食堂にいた兵士たちが、いっせいに立ち上がった。
椅子が床を擦る。
剣の鞘が鳴る。
ベルンは、その様子を見て、困ったように笑った。
「隊長。これは、どういうことです?」
ロウは、卓の前に立った。
「ベルン・ハルトは、死んでいる」
ベルンの笑顔が、消えた。
ほんの一瞬だった。
驚き。
困惑。
怒り。
あるいは、演技。
それらしい表情が浮かび、すぐに消えた。
「……冗談はやめてください」
「検死室に、お前の死体がある」
「何を言っているんですか」
「昨夜、東側排水溝で死体が見つかった。首に傷があり、血液の状態も異常だった。身元はベルン・ハルトと確認されている」
ベルンは、ゆっくりと立ち上がった。
「俺は、ここにいます」
「そうだな」
ロウは頷いた。
「だから、確かめる」
「何を?」
「お前が誰なのかを」
ロウはセラへ目を向けた。
「食堂を封鎖しろ。全員、外へ出るな。食器にも触るな。ベルンには、誰も近づけるな」
セラが即座に指示を出す。
兵士たちが扉を押さえた。
ベルンは、ロウを見つめた。
その目には、恐怖があった。
少なくとも、恐怖に見えるものが。
「隊長……」
彼は、ゆっくりと手を上げた。
「俺は、ベルンです」
ロウは剣を抜かなかった。
「それを、証明してみろ」
ベルンは口を開いた。
しかし、すぐには何も言わなかった。
そして、静かに答えた。
「……俺には、証明できません」
その言葉は、妙に正直だった。
ロウは、わずかに眉を動かした。
「なぜだ?」
ベルンは、自分の手を見た。
「俺が俺であることを、どうやって証明すればいいんですか?」
彼は顔を上げた。
「顔も、声も、名前も、俺のものです。俺の記憶だって、俺のものです。でも、もし、誰かが全部同じものを持っていたら……」
ベルンは、息を吐いた。
「俺には、何も証明できません」
誰も、答えられなかった。
ロウは、ベルンの顔を見つめていた。
この男が本物かどうかは、まだ分からない。
だが、少なくとも今の言葉は、捜査の核心を突いていた。
本人であることを証明するもの。
それは、顔か。
声か。
記憶か。
名前か。
あるいは、それらすべてなのか。
ロウは、静かに言った。
「……その通りだ」
ベルンが顔を上げる。
「だから、ひとつずつ調べる」
ロウはセラに向き直った。
「検死室へ行く。こいつも連れていく」
「死体と対面させるの?」
「そうだ」
セラは、ベルンを警戒しながら頷いた。
「兵士を増やすわ」
「頼む」
ロウはベルンを見た。
「歩けるか?」
「ええ」
「では、来い」
ベルンは、食堂の卓に視線を落とした。
半分残ったパン。
冷めかけたスープ。
それから、匙。
彼は少しだけ迷い、最後に水を一口飲んだ。
「……もったいないですね」
そう言って、立ち上がった。
誰も笑わなかった。
死者が朝食を食べていた。
その事実を、誰も冗談にできなかった。
二 検死室の二人
検死室の扉は、三重に施錠されていた。
外側の鍵を持っているのはミラ。
内側の鍵は、医務室の責任者が管理している。
そして、扉の前には、昨夜から交代で二人の兵士が立っていた。
ロウは到着すると、見張りの二人に尋ねた。
「昨夜から今まで、扉を開けた回数は?」
「四回です」
「理由は?」
「一回目はミラ殿が検死のために。二回目は記録係が死亡時刻の資料を届けるために。三回目はミラ殿が再検査のために。四回目は、今朝、検死室内の器具を確認するためです」
「その四回とも、お前たちは扉の前にいたか?」
「はい。交代時も、前任者が残った状態で引き継ぎを行いました」
「扉を開けた者は、全員記録したか?」
「はい。こちらです」
兵士が差し出した記録を、ロウは受け取った。
名前。
時刻。
用件。
入室者。
退室者。
異常はない。
少なくとも、記録の上では。
「扉の内側から、何か音が聞こえたことは?」
「ありません」
「声は?」
「ありません」
「誰かが、中から出てきたことは?」
「ありません」
ロウは記録を返した。
「よし。これから中へ入る。誰も通すな。俺たちが出るまで、交代も待て」
「了解しました」
ミラが鍵を開ける。
鉄の錠が外れ、重い扉がゆっくりと開いた。
薬品の匂いが、廊下へ流れ出した。
検死室の中央には、石造りの台がある。
その上に、白い布を掛けられた死体が横たわっていた。
ミラは扉を閉め、鍵を掛けた。
「昨夜から、死体に異常はありません」
「誰かが触れたか?」
「私と、補助の衛生兵だけです。検死記録も残っています」
「補助の衛生兵を呼べるか?」
「すぐに」
ミラが扉を叩き、外の兵士へ伝言を頼む。
ロウは、ベルンを見た。
「近づけ」
ベルンは、台の前で足を止めた。
布に覆われた死体を見つめている。
その顔から、表情が消えていた。
「……本当に、俺なんですか?」
「それを確かめる」
ロウは、ミラに目配せした。
ミラが布をめくる。
現れたのは、ベルン・ハルトの顔だった。
頬の傷。
左眉の上の小さな切り傷。
鼻の付け根にある、昔の骨折の痕。
そして、顎の下に残る、丸い火傷の跡。
食堂に現れたベルンは、その顔を見つめた。
何も言わない。
やがて、彼は一歩近づいた。
「……この傷」
「何だ?」
ロウが尋ねた。
ベルンは、死体の左眉を指さした。
「この傷は、訓練場でついたものです。剣を振った時に、柄が当たった」
「いつだ?」
「三年前です」
「誰と訓練していた?」
「ハロルドです」
ロウはミラを見た。
「記録と一致するか?」
「調べます」
ミラは記録帳を開いた。
「三年前の訓練事故記録に、ベルン・ハルトの負傷があります。左眉の上、約二センチの裂傷。縫合は不要。担当者はハロルド・ケイン……一致しています」
ベルンは、目を閉じた。
「……俺です」
その声は、小さかった。
「これは、俺の身体です」
ロウは、すぐには答えなかった。
「身体だけなら、そうかもしれない」
「隊長」
「お前の顔が本物だからといって、お前が本物だとは限らない。逆に、死体がベルンの顔をしているからといって、それが本物のベルンだとも限らない」
ベルンは唇を噛んだ。
「……そうですね」
「だから、もう少し調べる」
ロウは死体の右手を持ち上げた。
手のひらに、古い傷がある。
親指の付け根から手首にかけて、細い線が走っていた。
「この傷は?」
ベルンは即座に答えた。
「子供の頃、割れた瓶で切りました。母の家の裏庭です」
「母親の名前は?」
「エルナ・ハルト」
「今も生きているか?」
「分かりません。十年以上、会っていません」
「最後に会ったのは?」
「王都を出る前です」
ロウは、彼の反応を観察した。
回答は自然だった。
迷いも少ない。
しかし、それは本人である証拠にはならない。
昨日、武器庫で見つかった魔物は、ハロルドの名前を呼んだ。
ベルンの声も真似た。
記憶の一部を読み取る能力があるのかもしれない。
あるいは、誰かから情報を得ているのかもしれない。
「ミラ。身体を調べてくれ」
「分かりました」
ミラは手袋を替え、死体の首元を確認した。
「傷は、やはり致命傷です。頸動脈付近に損傷があります。出血量は少ないですが、血液の凝固異常が認められます」
「黒い物質は?」
「採取済みです。ベルンの血液に混じっていたものと、魔物の体液は、性質が非常によく似ています。ただし、同一のものと断定するには、まだ検査が必要です」
ミラは死体の腕を持ち上げた。
「それから、ここを見てください」
手首の内側に、薄い痕があった。
円形の痕が、三つ。
まるで、何かを強く押し当てられたような跡だ。
「拘束痕か?」
ロウが尋ねた。
「その可能性があります。ですが、縄や鎖によるものとは形状が違います。もっと硬い、円形の器具を押し当てたように見えます」
ロウは、自分の手首を見た。
三つの円。
第三封門。
三つの封門。
まだ結びつけるには情報が足りない。
「食堂のベルンにも、同じ痕があるか確認する」
「待ってください」
ベルンが言った。
「俺の手首に、痕なんてありません」
ロウは彼を見た。
「見せてみろ」
ベルンは両腕を差し出した。
右手首。
左手首。
どちらにも、三つの円形の痕はなかった。
「……なるほど」
ロウは死体の手首を戻した。
「お前たちは、同じ身体ではない」
ベルンが顔を上げた。
「つまり……?」
「少なくとも、違いがある。死体の手首には三つの痕がある。お前にはない。どちらかが傷を負った後に変化した可能性もあるし、そもそも別の存在なのかもしれない」
「別の存在……」
ベルンは、死体を見た。
「俺は、魔物なんですか?」
「まだ分からない」
ロウは答えた。
「人間か魔物かを、見た目だけで決めるつもりはない」
彼はミラへ向き直った。
「身体の特徴を、全部記録してくれ。傷跡、骨格、歯、指紋に相当するものがあればそれも。生前の記録と照合する」
「分かりました」
ロウは、死体の顔をもう一度見た。
この死体が本物のベルンである可能性は高い。
だが、決定的ではない。
そして、食堂に現れた男も、自分がベルンだと信じているように見えた。
もし、彼が魔物なら。
人間の姿だけでなく、記憶まで真似ていることになる。
もし、彼が本物なら。
では、検死台の上に横たわっているのは誰なのか。
ロウは、死体の耳元に顔を近づけた。
「……お前は、何を見た?」
当然、返事はない。
死体は、何も語らない。
しかし、身体には痕跡が残る。
傷。
血液。
異物。
死ぬ直前に何が起きたのかを示す、消せない証拠。
ロウは立ち上がった。
「ベルン。お前にも聞きたいことがある」
食堂に現れた男が、顔を上げる。
「はい」
「お前は昨夜、どこで寝た?」
ベルンは、即答した。
「寝ていません」
「なぜ?」
「巡回に出ていましたから」
「一人で?」
「はい」
ロウは、目を細めた。
「昨夜、俺は全員に単独行動を禁止した」
「……いつですか?」
「昨夜だ」
ベルンは考え込んだ。
「俺は、その命令を聞いていません」
「どこにいた?」
「東側排水溝の近くです」
「誰が、お前をそこへ配置した?」
ベルンは口を開きかけ、止まった。
そして、ゆっくりと答えた。
「……覚えていません」
ロウは、その言葉を聞いて、ひとつの可能性を考えた。
この男は、何かを忘れている。
あるいは、何かを覚えていないように見せている。
どちらにせよ、重要な手掛かりだった。
「ミラ。検死を続けてくれ」
「はい」
ロウはベルンを連れ、検死室を出た。
扉が閉まり、三重の鍵が掛かる。
その音を聞きながら、彼は考えた。
死体のベルンと、生きているベルン。
二人の違いは、手首の痕だけではないはずだ。
そして、その違いこそが、事件を解く鍵になる。
三 ベルンを知る者
「本人だと思います」
最初にそう言ったのは、ハロルドだった。
彼は食堂から移された小部屋で、ロウとセラの前に座っていた。
机の上には、二つの椅子。
壁際には武装した兵士が二人。
窓は閉じられ、扉には外から鍵が掛けられている。
ベルンは隣室に隔離されていた。
「何を根拠に?」
ロウが尋ねた。
ハロルドは、額を押さえた。
「……一緒に働いてきたからです」
「それだけか?」
「それだけ、と言われれば、そうです。でも、あいつはベルンでした。顔も、声も、喋り方も……」
彼は言葉を切った。
「いや。すみません。それだけでは、証拠にならないんですよね」
「証拠にはならない。だが、無意味でもない」
ロウは、彼の表情を見た。
「お前は、ベルンと親しかったのか?」
「同じ巡回班でした。もう五年になります」
「ベルンが人に隠している癖や、本人しか知らないことはあるか?」
ハロルドは考えた。
「……あります」
「話してくれ」
「ベルンは、酒に弱いんです。酒場で一杯飲んだだけで顔が真っ赤になる。それを本人は隠しているつもりなんですが、全然隠せていない」
「それは、本人しか知らないことか?」
「いいえ。飲んだことのある人間なら知っています」
「他には?」
「右の靴紐を、必ず二重に結びます。昔、巡回中に靴紐がほどけて転び、魔物に追いかけられたことがある。それ以来です」
ロウは記録した。
「他には?」
ハロルドは、長く黙った。
やがて、ぽつりと言った。
「……妹がいます」
「妹?」
「はい。ベルンには、妹が一人います。名前はリーナ。今は王都で働いているはずです」
「ベルンから、妹の話を聞いたことは?」
「何度も。仕送りをしていると話していました。妹が結婚する時には、休暇を取って帰るつもりだと」
ロウは頷いた。
「その妹に連絡を取れるか?」
「伝令を出せば、王都の兵舎経由で探せると思います。ただ、返事には時間がかかります」
「今すぐ手配しろ」
「はい」
ハロルドが立ち上がりかける。
「待て」
ロウは彼を止めた。
「ベルンの妹がいることを、他に誰が知っている?」
「巡回班の仲間と、何人かの兵士です」
「名前を挙げてくれ」
ハロルドは、知っている者の名を一人ずつ挙げた。
ロウは、そのすべてを記録した。
「もうひとつ聞く。ベルンは、半年前の補修作業に関わっていたな?」
「はい」
「地下通路について、何か話していたか?」
ハロルドの顔が曇った。
「……一度だけ、妙なことを言っていました」
「どんなことだ?」
「『砦の下にも、門がある』と」
ロウはペンを止めた。
「詳しく話せ」
「半年前、補修作業が終わった後です。ベルンが酒場で、そんなことを言ったんです。地下に、古い門がある。そこには鍵穴が三つある、と」
「なぜ、その時に報告しなかった?」
ハロルドは、顔を伏せた。
「……冗談だと思ったんです」
「それで?」
「ベルンは、笑っていました。でも、次の日に聞いたら、そんな話はしていないと言った。俺も、酒のせいで聞き間違えたのかと思いました」
ロウは、机の上に指を置いた。
鍵穴が三つ。
三つの封門。
地下にある門。
そして、ロウの血で開くという謎の紙。
「その時、ベルンは何か持っていたか?」
「……銀色の金具を持っていました」
「どんな金具だ?」
「指くらいの長さで、先が尖っていました。変わった形をしていて、俺が何だと聞いたら、ベルンは『鍵の一部だ』と言いました」
ロウは、オスカーから受け取った図面を思い出した。
封門用金具。
ベルンの寝台に残されていた木片。
そこに埋め込まれた金属片。
「その金具を、どこで手に入れたと言っていた?」
「地下で拾った、と」
ハロルドは顔を上げた。
「隊長。俺は、あいつが何かを見つけたのだと思います。地下通路の中で、何かを……」
「それを知った者が、ベルンを殺した可能性がある」
「……はい」
ロウは、椅子から立ち上がった。
「ハロルド。ベルンと最後に会ったのはいつだ?」
「三日前です」
「その時、様子は変わっていたか?」
ハロルドは、迷った。
「……変わっていました」
「どのように?」
「何かを怖がっているようでした。背後を気にして、何度も振り返っていました。俺がどうしたのかと聞いても、何でもないと答えるだけで」
「それを、誰かに話したか?」
「いいえ」
「なぜ?」
ハロルドは、苦しそうに笑った。
「……隊長。俺は、あいつのことを知っているつもりでした。でも、あいつが何を考えていたのか、何も分かっていなかった」
ロウは、しばらく彼を見つめた。
「それは、今からでも調べられる」
「はい」
「ベルンが最後に立ち寄った場所、話した相手、持っていたもの。全部洗い出せ。記憶だけでなく、記録も調べろ」
「分かりました」
ハロルドが部屋を出ていった。
セラは、腕を組んだままロウを見た。
「どう思う?」
「何についてだ?」
「食堂のベルンよ。本人だと思う?」
ロウは、すぐには答えなかった。
「本人である可能性はある」
「でも、死体がある」
「ああ」
「なら、あれは何なの?」
ロウは机の上の記録をまとめた。
「それを、これから調べる」
セラは眉をひそめた。
「あなた、昨日からそればかりね」
「それ以外に、何ができる?」
「……確かに」
彼女は息を吐いた。
「でも、ひとつ気になることがある」
「何だ?」
「食堂のベルンは、検死室の死体を見ても、あまり驚かなかった」
ロウは顔を上げた。
「驚いていたように見えたが」
「最初はね。でも、死体を見た後、彼は自分の身体を確認したでしょう。手首を見て、傷を確かめていた。まるで、自分と死体の違いを知っていたかのように」
ロウは、黙った。
確かに。
ベルンは、死体の手首に三つの円形の痕があることを見た。
そして、自分にはないと即座に答えた。
それは、単なる反応だったのか。
それとも、何かを知っていたからこその行動だったのか。
「……セラ」
「何?」
「食堂のベルンが朝食を取った時、誰が給仕した?」
「食堂係のマルタよ」
「呼んでくれ」
セラは、すぐに扉へ向かった。
ロウは、机に残ったベルンの記録を見つめた。
本人を知っている者たちの証言。
本人しか知らないはずの記憶。
そして、身体に残された痕跡。
そのどれもが、ひとつの答えを示しているように見える。
しかし、答えを急いではいけない。
人間は、自分が信じたい答えを選ぶ。
ロウは、その危険をよく知っていた。
自分の血筋を理由に王都を追われた時も、誰もが「人狼の血を持つ者は危険だ」という結論を先に決めていた。
彼が何をしたのか。
何を考えているのか。
何を守ろうとしていたのか。
誰も、調べようとはしなかった。
だからこそ、ロウは決めていた。
証拠より先に、判決を下さない。
たとえ相手が魔物であっても。
たとえ相手が、死者の姿をしていても。
四 朝食を運んだ女
食堂係のマルタは、五十歳を少し過ぎた女性だった。
砦に勤めて十五年。
兵士たちの食事を作り、配膳し、時には怪我人のために粥を煮る。
戦場から戻った兵士が食事を残せば、何も言わずに下げる。
食事を取れないほど落ち込んでいる者がいれば、余ったパンをそっと置いていく。
兵士たちからの信頼は厚かった。
そのマルタが、ロウの前で落ち着かない様子を見せていた。
「隊長。私、何か悪いことをしましたか?」
「まだ何も聞いていない」
ロウは、椅子を勧めた。
「今朝、ベルンに朝食を出したそうだな?」
「はい。いつものように」
「何を出した?」
「パンとスープです。本人が頼んだので」
「ベルンは、普段から同じものを頼むのか?」
「そうですね。朝はだいたい同じです」
「パンは何切れ?」
「二切れです」
「スープは?」
「豆と根菜のスープです。今朝はそれでした」
ロウは頷いた。
「食事を出した時、何か変わったことはあったか?」
マルタは、少し考えた。
「……ひとつだけ」
「何だ?」
「ベルンは、塩を使いませんでした」
「塩?」
「はい。あの子は、昔からスープに塩を足すんです。薄味が嫌いだと言って。今朝も、いつものように塩壺を置いたんですが……」
「使わなかった?」
「ええ。私は不思議に思って、体調が悪いのかと聞きました。そしたら、あの子は笑って、『今日はこのままでいい』と言ったんです」
ロウは、その言葉を記録した。
「他には?」
「パンを食べる時、端から食べていました」
「それは普通ではないのか?」
「いえ。ベルンは、いつも真ん中から割るんです。硬いところが嫌いだから、柔らかい部分を先に食べるんですよ」
ロウは、顔を上げた。
「そのことを知っている人間は?」
「食堂にいる者なら、何人かは知っていると思います。長く勤めている者は、みんな見ていますから」
「ベルンは、今朝、何か質問をしたか?」
「質問?」
「食堂の場所、食事の種類、兵士の名前。何でもいい」
マルタは、思い出すように目を伏せた。
「……そういえば、ひとつ聞かれました」
「何を?」
「『今日は何日だ』と」
ロウの手が止まった。
「日付を?」
「はい。私は、昨日と同じ日だと答えました。あの子は、少し考えてから、『そうか』と言っていました」
「なぜ日付を尋ねたと思う?」
「分かりません。寝ぼけていたのかもしれませんね」
ロウは、ペンを置いた。
食堂に現れたベルンは、砦の噂を知っていた。
朝食の種類も知っていた。
兵士たちの顔も知っていた。
だが、塩を使わない。
パンを真ん中から割らない。
日付を尋ねる。
それらは、細かな違いだった。
ひとつひとつなら、体調や気分の変化で説明できる。
だが、複数の違いが重なれば、無視できない。
「マルタ。ベルンが食事をしている間、何か変なことはなかったか?」
彼女は迷った。
「……あの子、パンを食べている時、ずっと自分の手を見ていたんです」
「手を?」
「ええ。右手を開いたり閉じたりして。それから、指先をじっと見ていました」
ロウは、検死室の死体を思い出した。
指先。
手首の三つの痕。
そして、食堂のベルンには、その痕がなかった。
「分かった。ありがとう」
マルタは立ち上がった。
だが、扉へ向かう前に、振り返った。
「隊長」
「何だ?」
「……あの子は、本当にベルンじゃないんでしょうか」
ロウは、答えを急がなかった。
「まだ分からない」
「でも、あの子は私に、いつも通り挨拶してくれました。私の名前も覚えていました。昔、私が熱を出して休んだ時に、食事を運んでくれたことも……」
マルタの目が潤んだ。
「もし、あれが魔物だったら。あの子のことを全部知っていたら。私は、何を信じればいいんでしょう」
ロウは静かに言った。
「……今は、信じなくていい」
マルタが顔を上げた。
「信じるかどうかを決めるのは、調査が終わってからでいい。今は、自分が見たことを、そのまま話してくれればいい」
彼は、少しだけ声を和らげた。
「人を信じることと、疑問を持たないことは違う。大切な相手だからこそ、分からないことを分からないままにしない。それでいい」
マルタは、ゆっくりと頷いた。
部屋を出ていく彼女を見送りながら、ロウは考えた。
食堂のベルンは、ベルンの記憶を持っている。
しかし、日常の細かな習慣には、いくつもの違いがある。
それは、記憶の欠落なのか。
身体の違いなのか。
それとも、別の存在がベルンを演じているからなのか。
ロウは記録を閉じた。
その時、扉の外から、慌ただしい足音が聞こえた。
「隊長!」
入ってきたのは、オスカーだった。
「ベルンの巡回記録を調べていたところ、妙なものが見つかりました」
「何だ?」
オスカーは、数枚の紙を机に広げた。
「半年前から、ベルンの署名に変化があるんです」
「変化?」
「筆跡そのものは似ています。ただ、ある時期を境に、署名の最後に付ける小さな線が消えています」
ロウは紙を見比べた。
古い記録には、名前の末尾に短い線がある。
新しい記録には、それがない。
「いつからだ?」
「半年前です。地下通路の補修作業が終わった頃から」
ロウは顔を上げた。
「……半年前」
「はい。さらに、古い記録には、ベルンが右手で署名したという注記があります。しかし、最近の記録には、左手で書いたような筆圧の偏りがあるものが混じっています」
「ベルンは左利きなのか?」
「いいえ。記録上も、本人の証言でも、右利きです」
ロウは、紙を並べ直した。
半年前。
地下通路。
ベルンの変化。
そして、死体の手首に残された三つの痕。
「オスカー。半年前に、ベルンの身に何か起きたのかもしれない」
「私もそう思います」
「当時の医療記録を調べてくれ。負傷、病気、行方不明、何でもいい。ベルンが一時的に勤務を離れた時期がないか、確認してほしい」
「承知しました」
オスカーは記録をまとめた。
「それから、もうひとつ」
「まだあるのか?」
「はい。食堂に現れたベルンは、今朝、記録室にも来ていたようです」
ロウの顔が変わった。
「何をしに?」
「記録係の証言によれば、古い補修記録を閲覧しようとしていたそうです」
「見せたのか?」
「いいえ。閲覧許可がなかったため、断ったそうです」
「その時、何を言った?」
オスカーは、記録係の報告を読み上げた。
「『第三封門の資料は、どこにある』と尋ねたそうです」
部屋が静まり返った。
食堂に現れたベルンは、第三封門のことを知っている。
しかも、資料を探している。
ロウは椅子から立ち上がった。
「……セラを呼んでくれ」
「何か分かったのですか?」
「まだだ」
ロウは剣の柄に手を置いた。
「だが、あいつは、ただ朝食を食べに来ただけではない」
五 本人しか知らない記憶
ベルンを隔離している部屋は、かつて懲罰を受ける兵士が使っていた小部屋だった。
窓は小さく、扉は厚い。
室内には机と椅子がひとつずつあり、壁には何も掛けられていない。
食堂のベルンは、椅子に座っていた。
両手を机の上に置き、指を組んでいる。
ロウが入ると、彼は顔を上げた。
「隊長。いつまで、ここに閉じ込めておくつもりですか?」
「調査が終わるまでだ」
「俺が何かしたという証拠は?」
「まだない」
「なら、出してください」
「それも、まだできない」
ベルンは苛立ったように息を吐いた。
「……俺は、何もしていないんです」
「それを確かめるために、質問をする」
ロウは向かいの椅子に座った。
「半年前、地下通路の補修作業に関わったか?」
ベルンは、すぐに答えた。
「はい」
「何をした?」
「東側排水溝の補修です。壁のひび割れを確認して、石材を運びました」
「地下通路を見つけたか?」
「……はい」
「誰と一緒だった?」
「ヴァルター殿、ガレス、工兵の二人。それから、ハロルドもいました」
「地下へ入ったか?」
ベルンは、わずかに沈黙した。
「……はい」
「何を見た?」
「古い通路です。砦の下を通って、西側搬入口へ繋がっていました」
「第三封門を見たか?」
「はい」
「その先に何があった?」
ベルンは、目を伏せた。
「……覚えていません」
ロウは、彼を見つめた。
「覚えていない?」
「はい」
「地下へ入ったことは覚えている。第三封門を見たことも覚えている。だが、その先は覚えていない?」
「そうです」
「なぜだ?」
ベルンは、ゆっくりと首を振った。
「分かりません。あの時、地下で何かが起きたんです。俺たちは、何かを見た。でも、その後のことが……」
彼は額を押さえた。
「頭の中に、穴が空いているみたいなんです」
ロウは、何も言わずに待った。
ベルンは目を閉じた。
「……暗い通路。壁に刻まれた文字。冷たい空気。誰かの声。そして、金属が擦れる音」
彼の指が、震え始めた。
「誰かが、俺の名前を呼んでいました」
「誰の声だ?」
「分かりません」
「男か、女か?」
「……男です」
「聞き覚えは?」
ベルンは、苦しそうに息を吐いた。
「あります」
「誰だ?」
「……俺の声です」
ロウは、黙った。
ベルンは目を開いた。
「自分の声が、地下から聞こえたんです。俺は、そこに立っていた。なのに、俺の声が、向こうから聞こえた」
「何と言っていた?」
「……『こっちへ来い』」
ロウは、記録を取った。
「お前は、向かったのか?」
「分かりません」
「本当に覚えていないのか?」
「はい」
ベルンは、必死に首を振った。
「隊長。俺は、何かを忘れているんです。自分でも、それが分かる。でも、思い出そうとすると、頭が痛くなる」
彼は両手で顔を覆った。
「俺は、ベルンです。少なくとも、そう思っています。自分の名前も、妹のことも、ハロルドのことも覚えている。マルタさんのことも、食堂の場所も、巡回の手順も」
ベルンは顔を上げた。
「でも、もし、俺の記憶が本物だと証明できないなら……俺は、誰なんですか?」
ロウは、彼の問いを受け止めた。
すぐに答えを与えることはできない。
人間の記憶は、完全ではない。
記憶は失われる。
歪む。
誰かの言葉によって、別の意味を持つこともある。
だが、記憶が不完全だからといって、その人間が存在しなかったことにはならない。
「ベルン」
ロウは、静かに呼びかけた。
「お前が何者なのか、俺はまだ知らない」
ベルンは、目を伏せた。
「……はい」
「だが、お前が今、何を考えているかは聞くことができる。何を覚えているかも調べられる。何をしたかも、証拠を探せる」
ロウは、机の上に手を置いた。
「お前の正体を、俺が勝手に決めるつもりはない」
ベルンは、しばらくロウを見つめた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとうございます」
「礼を言うのは早い。まだ質問は終わっていない」
ロウは記録をめくった。
「半年前の補修作業が終わった後、お前の身体に変化はあったか?」
ベルンは、少し考えた。
「……ありました」
「何だ?」
「味が変わりました」
「味?」
「食べ物の味です。以前は塩気の強いものが好きでした。でも、あの日から、塩を舐めると苦く感じるようになった」
ロウは、マルタの証言を思い出した。
塩を使わなかった。
パンを真ん中から割らなかった。
「他には?」
「指先が、冷たくなりました。冬でもないのに、手が冷える。時々、心臓が止まったような感じがすることもあります」
「医師には診てもらったか?」
「はい。でも、異常はないと言われました」
「その医師は誰だ?」
「……前任の医務官です。今は王都に戻っています」
ロウは、その名を記録した。
「半年前から、身体が変わった。記憶の一部が欠けている。食べ物の味が変わり、指先が冷たくなった」
彼は、ゆっくりと言った。
「お前が本物のベルンだとしても、半年前に何かが起きたことは確かだ」
ベルンは頷いた。
「俺も、そう思います」
「では、もうひとつ。今朝、記録室へ行ったな?」
ベルンの表情が変わった。
「……はい」
「第三封門の資料を探していたそうだな」
「はい」
「なぜ?」
ベルンは、唇を引き結んだ。
「……思い出したかったからです」
「何を?」
「第三封門の向こうに、何があるのか」
ロウは彼を見た。
「お前は、向こうに何があるか知っているのか?」
ベルンは、ゆっくりと首を振った。
「知りません。でも、そこへ行かなければならない気がするんです」
「誰に言われた?」
「誰にも」
「地下の声か?」
ベルンは顔を上げた。
「……聞いたんですか?」
「地下から、お前の声が聞こえたという話は聞いた」
ベルンは、青ざめた。
「隊長。もし、地下から俺の声が聞こえたのなら……」
彼は、机の縁を強く握った。
「そこにいるのは、俺かもしれません」
ロウは動かなかった。
「どういう意味だ?」
ベルンは、震える声で答えた。
「半年前、俺は第三封門の前に立っていました。そこで、自分の声を聞いた。『こっちへ来い』と」
彼は、顔を上げた。
「でも、もし、あの声が俺の声だったのなら……俺は、あの時、向こう側にいたのかもしれない」
「お前は、ここにいる」
「はい」
「なら、向こう側にいるのは誰だ?」
ベルンは答えなかった。
ロウは、椅子から立ち上がった。
「……分かった。調査を続ける」
彼は扉へ向かった。
「隊長」
ベルンが呼び止める。
ロウは振り返った。
「もし、俺が本物じゃなかったら」
ベルンは、目を逸らさずに言った。
「俺を、殺しますか?」
ロウは、少しだけ考えた。
「お前が誰かを殺したのなら、その責任は問う」
ベルンは黙っていた。
「だが、何者か分からないというだけで、殺すつもりはない」
ロウは扉を開けた。
「……自分が何者か分からないことは、罪じゃない」
そして、部屋を出た。
背後で、扉が閉じられる。
鍵が掛かる。
ロウは廊下を歩きながら、考えていた。
半年前、ベルンは第三封門の前に立っていた。
そこで、自分の声を聞いた。
そして、その後、身体に変化が起きた。
もし、食堂に現れた男が本物のベルンなら。
では、検死台に横たわる死体は、誰なのか。
もし、検死台の死体が本物のベルンなら。
では、食堂にいる男は、どこから来たのか。
答えは、まだ見えない。
だが、ひとつだけ分かることがあった。
ベルンは、半年前から変わっていた。
そして、その変化は、第三封門と無関係ではない。
六 死体の歯
「隊長、ひとつ訂正があります」
ミラがロウを呼び止めたのは、昼を過ぎた頃だった。
検死室の前では、見張りの兵士たちが交代の準備をしていた。扉は施錠されたまま。内側から異常はない。
ミラは記録帳を抱えていた。
「ベルンの死体について、追加で分かったことがあります」
「何だ?」
「歯です」
ロウは眉を動かした。
「歯?」
「はい。右下の奥歯に、古い治療痕があります。金属を詰めた跡です」
「食堂に現れたベルンにもあるのか?」
「本人は、同じ場所に治療痕があると言っています。確認したところ、確かにありました」
ロウは腕を組んだ。
「同じ傷がある。それなら、死体もベルン本人の可能性が高いんじゃないか?」
「そう考えるのが自然です。ですが、問題は、その金属です」
ミラは小さな容器を取り出した。
中には、黒ずんだ銀色の粒が入っていた。
「死体の歯に詰められていた金属を、ほんの少しだけ採取しました。銀に似ていますが、通常の銀とは違う成分が混じっています」
「魔物の体液か?」
「いいえ。金属そのものです。人間の歯科治療に使うものとしては、かなり珍しい」
「誰が治療した?」
「ベルン本人の記録によると、半年前に砦の医務室で治療を受けています」
ロウは、記録帳を受け取った。
日付は、半年前。
地下通路の補修作業が終わった直後だった。
「……治療を担当した医師は?」
「前任の医務官です。すでに王都へ戻っています」
「記録は残っているか?」
「それが、奇妙なんです」
ミラは別の紙を差し出した。
「ベルンの治療記録には、右下の奥歯を治療したとあります。ですが、使った材料が記録されていません。通常なら、治療に使った金属の種類や量を記録するはずです」
「記録の抜けか?」
「その可能性もあります。でも、ほかの患者の記録には、同じような抜けがありません」
ロウは紙を見つめた。
半年前。
地下通路の発見。
ベルンの身体の変化。
治療記録の欠落。
そして、死体の歯に詰められた、通常とは違う金属。
「ミラ。食堂のベルンの歯も調べたい」
「本人の同意が必要です」
「分かっている。無理に押さえつけるつもりはない」
「それなら、私から説明します」
ミラは、少し考えてから言った。
「ただ、隊長。もうひとつ確認したいことがあります」
「何だ?」
「死体の血液です。昨夜、ベルンの血液を採取しておきました。食堂のベルンからも採取できれば、比較できます」
「血液型か?」
「それだけではありません。血液の凝固、色、反応、細胞の形状。通常の検査で分かる範囲を比較します」
ロウは頷いた。
「頼む」
ミラは記録帳を抱え直した。
「ただし、結果が一致しても、同一人物だと断定できるわけではありません。逆に違いがあっても、それだけで別人とは言い切れない」
「分かっている」
「……隊長は、ずいぶん慎重ですね」
「死体が二つあって、ベルンが一人いる。慎重にならない理由がない」
ミラは、わずかに笑った。
「確かに」
二人は検死室へ入った。
ミラは、死体の口元を確認し、記録を取った。
ロウはその横で、食堂のベルンを呼ぶ準備をしていた。
だが、ミラが死体の顎を持ち上げた瞬間、動きを止めた。
「……待ってください」
「どうした?」
ミラは、死体の口元をじっと見ていた。
「この歯……」
「何か違うのか?」
「歯の形状が、左右で違います」
「治療のせいか?」
「いいえ。歯そのものの形です。右側の奥歯は、人間の歯に近い。でも、左側の奥歯は……」
彼女は、小さな器具で唇を開いた。
ロウは覗き込んだ。
歯が並んでいる。
だが、その一部が、わずかに尖っていた。
犬歯に似ているが、位置が違う。
表面は、普通の歯より滑らかだった。
「……人間の歯ではないのか?」
「少なくとも、通常の人間の歯とは異なります」
ミラは記録した。
「食堂のベルンも、同じ特徴を持っているかもしれません」
ロウは、死体から目を離さなかった。
もし、死体が人間ではないなら。
この死体は、ベルンの姿をした魔物なのか。
あるいは、半年前に何かが起きた結果、ベルンの身体そのものが変わったのか。
そして、食堂のベルンは、死体とは別の存在なのか。
ロウは、静かに息を吐いた。
「……まだ足りない」
ミラが顔を上げた。
「何がですか?」
「証拠だ。違いが見つかっても、その違いが何を意味するのか分からない」
彼は死体を見た。
「死体は嘘をつかない。だが、俺たちが死体の言葉を読み違えることはある」
ミラは頷いた。
「では、次は生きている方を調べましょう」
「そうだな」
ロウは扉へ向かった。
しかし、部屋を出る直前、もう一度だけ振り返った。
検死台の上に横たわるベルン。
閉じた目。
動かない唇。
その顔は、何も語らない。
だが、もしこの死体が魔物なら。
ベルンの顔を真似た理由があるはずだ。
誰かを騙すためか。
何かを隠すためか。
それとも、第三封門を開くためか。
ロウは、扉を閉めた。
答えを得るには、まだ早い。
七 同じ血、違う傷
食堂に現れたベルンは、血液検査を拒まなかった。
「俺が本物だと証明できるなら、いくらでも調べてください」
そう言って、彼は腕を差し出した。
ミラは細い針で血を採取し、すぐに止血した。
ベルンは顔色ひとつ変えなかった。
「痛くないのか?」
ロウが尋ねる。
「これくらい、何ともありませんよ」
「昔からか?」
「……ええ。たぶん」
その答えに、ロウは目を留めた。
「たぶん?」
ベルンは、自分の腕を見た。
「すみません。昔のことが、少し曖昧なんです」
「半年前からか?」
「そうだと思います」
「半年前に、何かを忘れた?」
「はい」
ベルンは、静かに答えた。
「でも、何を忘れたのかが分からないんです」
ミラが採取した血液を検査用の皿に移した。
まず、色を確認する。
次に、凝固の速度。
それから、試薬を加えて反応を見る。
検査はすぐには終わらなかった。
ロウは、その間、ベルンと向かい合っていた。
「ひとつ、聞きたいことがある」
「何でしょう?」
「半年前の補修作業で、誰かが死んだか?」
ベルンは、動きを止めた。
「……分かりません」
「誰かが行方不明になったか?」
「……分かりません」
「地下通路へ入った人間のうち、戻ってこなかった者は?」
ベルンは、目を閉じた。
長い沈黙が続く。
やがて、彼は口を開いた。
「……一人、いたような気がします」
「誰だ?」
「名前が……」
ベルンは額を押さえた。
「思い出せません」
ロウは、彼を急かさなかった。
ベルンは苦しそうに息を吐いた。
「でも、そいつは、俺の隣にいたんです。地下へ入った時、俺の隣に立っていた」
「どんな人間だった?」
「男です。工兵だったと思います。背が高くて、右足を少し引きずっていた」
ロウは、ガレスの歩き方を思い出した。
だが、ガレスが行方不明になったわけではない。
ほかの工兵については、まだ確認が必要だ。
「顔は?」
「……分かりません」
「声は?」
「分かりません」
「名前は?」
ベルンは、目を閉じた。
「……分かりません」
ロウは、静かに言った。
「分かった。無理に思い出そうとしなくていい」
ベルンは、申し訳なさそうに顔を上げた。
「隊長。俺は、何かを忘れているんです。大事なことを」
「その可能性はある」
「それが、誰かを殺したことだったら?」
ロウは、彼を見つめた。
「その時は、その事実を調べる」
「……俺を、裁きますか?」
「何が起きたかによる」
ロウは答えた。
「忘れているから無罪だとも、忘れているから有罪だとも言えない。何が起きたのか、何をしたのか、それを調べる」
ベルンは、ゆっくりと頷いた。
その時、ミラが顔を上げた。
「結果が出ました」
ロウは彼女のそばへ行った。
ミラは二枚の記録を並べた。
一枚は死体から採取した血液。
もう一枚は、食堂のベルンから採取した血液。
「まず、色と凝固の速度が違います。死体の血液は、通常の人間より凝固が遅い。食堂のベルンの血液は、凝固の速度こそ正常に近いですが、酸化した時の色が異なります」
「つまり?」
「両者は、完全には一致しません」
ロウは、記録を見つめた。
「血液型は?」
「同じです。ただし、それだけでは同一人物の証明になりません」
「同じ血液型で、異なる血液の性質を持つことはあるのか?」
「あります。病気や薬物、体内に入った異物などで変化することもあります。ですが、今回の違いは、通常の変化として説明するには大きい」
ミラは、言葉を選んだ。
「食堂のベルンと、検死台のベルンは、少なくとも同じ状態の身体ではありません」
ロウは頷いた。
「分かった」
彼は、ベルンを見た。
「お前は、半年前から身体が変わったと言ったな」
「はい」
「血液も、その時に変わった可能性がある」
ベルンは、ゆっくりと自分の手を見た。
「……俺は、人間じゃないんでしょうか」
「それは、まだ分からない」
ロウは、はっきりと言った。
「血液が違うからといって、人間ではないとは限らない。人間と魔物の境界を、血液の色だけで決めるつもりはない」
ベルンは、少しだけ表情を和らげた。
だが、ミラは続けた。
「ただし、死体の方は、通常の人間とは異なる特徴が複数あります。歯の形状、血液の性質、手首の痕。それに、傷口から採取された黒い物質」
ロウは、机の上の記録を見た。
「死体が魔物である可能性は?」
「あります」
「ベルンの姿を真似た魔物か?」
「それも、可能性のひとつです」
ロウは、黙った。
ようやく、ひとつの答えに近づいた。
検死台の死体は、ベルン本人ではない可能性がある。
だが、それだけでは事件は解決しない。
なぜ、魔物はベルンの姿を真似たのか。
なぜ、ベルンの死体として発見される必要があったのか。
そして、食堂に現れた男は、本当にベルンなのか。
ロウは、ベルンを見た。
「お前に、もうひとつ頼みがある」
「何でしょう?」
「検死室の死体を、もう一度見てほしい」
ベルンの顔が強張った。
「……俺が?」
「ああ。お前自身の身体と、死体の違いを確認したい」
ベルンは、しばらく考えた。
そして、頷いた。
「分かりました」
ロウは立ち上がった。
「ミラ。検死室へ」
三人は、再び検死室へ向かった。
扉の前で鍵が開けられる。
中へ入る。
白い布。
石造りの台。
そして、死体。
ベルンは、ゆっくりと近づいた。
死体の顔を見つめる。
その表情は、恐怖というより、悲しみに近かった。
「……俺の顔だ」
彼は呟いた。
「俺の顔なのに、俺じゃない」
ロウは、何も言わなかった。
ベルンは死体の手を見た。
手首の三つの痕。
指先の形。
爪の色。
それから、死体の右手を持ち上げた。
「……これ」
「何だ?」
ロウが尋ねる。
ベルンは、死体の人差し指を見つめていた。
「この指……」
彼は、自分の右手を広げた。
人差し指の第一関節。
そこに、薄い傷がある。
しかし、死体の指には、同じ傷がない。
「俺は、十年前に、この指を折ったんです」
ベルンは、静かに話し始めた。
「巡回訓練の時、石段から落ちて。骨がずれて、医務官に戻してもらった。それから、少しだけ曲がっている」
彼は死体の指を示した。
「でも、この死体の指は、まっすぐです」
ロウは、息を止めた。
ベルンは、顔を上げた。
「……隊長。この死体は、俺じゃありません」
その言葉は、確信に満ちていた。
「俺の顔をしています。俺の歯も、俺の傷も、似ている。でも、これは俺じゃない」
彼は死体を見つめた。
「こいつは、俺の姿を真似た何かです」
ロウは、ゆっくりと頷いた。
「……その可能性は高い」
ミラが、死体の手を再び確認した。
「確かに、古い骨折の痕がありません。生前の記録とも一致しない」
ロウは、死体から一歩離れた。
ようやく、核心に触れた。
検死台の死体は、ベルン本人ではない。
ベルンの姿をした、別の存在。
つまり、死体は「ベルンの死体」ではなかったのだ。
では、なぜ誰も気づかなかったのか。
顔が同じだったから。
傷跡が似ていたから。
記録がそう示していたから。
そして、誰も、ベルンの指が少し曲がっていることを覚えていなかったから。
ロウは、静かに息を吐いた。
「……死体は嘘をつかない」
彼は、死体を見つめた。
「だが、俺たちは、死体が誰なのかを間違えた」
八 名前のない死体
「死体の身元を、最初から調べ直す必要がある」
ロウは検死台の前で言った。
「ベルンだという前提を捨てる。顔が似ているからベルンだと判断した。その判断が間違いだったのなら、すべての記録を見直さなければならない」
ミラは頷いた。
「歯の治療痕も、眉の傷も、顎の火傷も、似せることは可能かもしれません。ですが、骨格まで完全に一致しているわけではない」
「では、何を調べる?」
「骨盤と肋骨の形状、古い骨折の有無、それから手指の骨格です。人間と魔物では、見た目が似ていても、内部構造が異なる場合があります」
「頼む」
ミラは検死を再開した。
ロウは、ベルンを部屋の隅へ連れていった。
「お前は、この死体を見たことがあるか?」
「ありません」
「顔にも、心当たりはない?」
「……ありません」
ベルンは死体を見つめた。
「でも、こいつは、俺の姿を知っていたんだと思います」
「なぜ、そう思う?」
「傷の位置です。俺の顔にある傷と、ほとんど同じところに傷がある。偶然ではないと思います」
「お前が地下で会ったのか?」
「分かりません」
ベルンは、首を振った。
「ただ、半年前に地下へ入った時、俺は自分と同じ顔を見たような気がするんです」
ロウは彼を見た。
「……何だと?」
ベルンは、苦しそうに額を押さえた。
「はっきりとは覚えていません。暗闇の中で、誰かが立っていた。俺と同じ顔をしていた。でも、そいつは、俺より少しだけ背が高かった」
「声は?」
「……俺の声でした」
ロウは、言葉を失った。
ベルンは続けた。
「そいつは、俺を見て笑っていました。そして、こう言ったんです」
彼は目を閉じた。
「『お前は、ここに残れ』」
ロウの背筋に、冷たいものが走った。
第三封門の奥。
自分と同じ顔をした何か。
地下から聞こえる声。
ベルンの記憶の欠落。
そして、ベルンの姿をした死体。
それらは、別々の謎ではないのかもしれない。
「ベルン。お前は、その時、何をした?」
「……逃げました」
「どこへ?」
「分かりません。気づいたら、排水溝の近くにいました」
「いつのことだ?」
「半年前です」
ロウは、記録を取り出した。
半年前の補修作業。
地下通路を発見した日。
その後、ベルンの身体に変化が起きた。
では、その時、ベルンは何かと入れ替わったのか。
あるいは、何かを地下へ残してきたのか。
ロウは、死体を見た。
「……ミラ。何か分かったか?」
ミラは、手袋を替えながら答えた。
「この死体の骨格には、通常の人間には見られない特徴があります」
「どんな特徴だ?」
「肋骨の一部が、左右で対称ではありません。骨の表面に、成長した後から形が変わったような痕跡がある。さらに、背骨の下部に、余分な骨の突起があります」
「人間ではない?」
「少なくとも、普通の人間ではありません」
ミラは、記録帳を開いた。
「それから、指先の皮膚にも異常があります。人間の皮膚より厚く、表面の模様が一定ではない。指紋に相当するものを調べようとしましたが、同じ模様が繰り返されていません」
ロウは、死体を見た。
「つまり、こいつは、人間の姿を真似た魔物である可能性が高い」
「はい」
「では、なぜベルンの姿を真似た?」
ミラは答えなかった。
ロウは、考えを巡らせた。
魔物がベルンの姿を真似たのなら、ベルンを知っていたことになる。
ベルンの記憶を読んだのか。
ベルンの血液を取り込んだのか。
あるいは、ベルン自身が何らかの形で魔物と関係しているのか。
その答えは、まだ出ていない。
だが、死体の身元がベルンではないと分かったことで、ひとつの可能性が消えた。
ベルンは、少なくとも、この死体によって殺されたとは限らない。
そして、今、食堂に現れた男が、本物のベルンである可能性も残っている。
「……セラを呼んでくれ」
ロウが言った。
「それから、ハロルドとオスカーも。半年前の補修作業について、もう一度、証言を取り直す」
ミラは頷いた。
ロウは、検死室の扉へ向かった。
その時、背後からベルンの声がした。
「隊長」
振り返る。
ベルンは、死体を見つめていた。
「……俺は、こいつを知っている気がします」
「顔を見たことがあるのか?」
「いいえ」
「声を聞いたことがある?」
「……いいえ」
ベルンは、ゆっくりと顔を上げた。
「でも、こいつが俺の姿をしているのを見て、分かったんです」
「何が?」
ベルンは、唇を震わせた。
「こいつは、俺の代わりになろうとしていたんじゃない」
ロウは、黙って彼を見つめた。
「……俺が、こいつの代わりになったんです」
その言葉に、ミラの手が止まった。
ロウは、ゆっくりと問い返した。
「どういう意味だ?」
ベルンは、自分の胸に手を当てた。
「半年前、地下通路で何かが起きた。俺は、何かと入れ替わった。あるいは、何かを置いてきた。俺は、それを忘れている」
彼は、死体を見つめた。
「でも、もし、こいつが俺の姿を真似ているのなら……」
ベルンの声が、かすかに震えた。
「俺は、こいつと同じものを、どこかに残してきたのかもしれません」
ロウは、すぐには答えなかった。
ベルンの言葉は、推測にすぎない。
しかし、彼が抱えている記憶の欠落は、確かに何かを示していた。
半年前。
地下通路。
第三封門。
そして、もう一人のベルン。
ロウは、ベルンの肩に手を置いた。
「……それを確かめる」
ベルンは、頷いた。
「はい」
「だが、地下へ行くのは、準備が整ってからだ。今は、勝手に動くな」
「分かっています」
「本当に?」
ベルンは、苦笑した。
「……努力します」
ロウは、ため息をついた。
「努力ではなく、約束しろ」
「分かりました。約束します」
その返事を聞いて、ロウはようやく扉へ向かった。
検死室を出る直前、ミラが呼び止めた。
「隊長」
「何だ?」
「この死体は、ベルンの姿を真似ています。ですが、ひとつだけ、真似られなかったものがあるかもしれません」
「何だ?」
ミラは、死体の手首を指さした。
三つの円形の痕。
「これです。皮膚の表面にある傷ではありません。骨の内側にも、同じ位置に変化がある。まるで、何かを身体の内側から押し当てられたような痕です」
ロウは、死体を見た。
「第三封門と関係がある?」
「分かりません。ただ、この痕は、死体が生前に何か特殊な処置を受けていた可能性を示しています」
ロウは頷いた。
「記録に残してくれ」
彼は、扉を閉めた。
検死室の中には、死体が残された。
ベルンの顔をした、名前のない死体。
その死体は、何も語らない。
だが、その手首には、三つの痕が刻まれていた。
まるで、三つの扉を通り抜けた証のように。
九 第三封門の記録
夕刻。
ロウ、セラ、オスカー、ハロルドの四人は、記録室に集まっていた。
机の上には、半年前の補修記録が並んでいる。
作業員名簿。
資材の搬入記録。
医務室の診療記録。
そして、第三封門の資料。
本来なら、第三封門の資料は機密扱いで、通常の記録室には保管されていないはずだった。
だが、オスカーが古い目録を調べたところ、十数年前に作成された文書の中に、封門についての記述が見つかった。
「ここです」
オスカーが、一枚の紙を指さした。
「黒門砦の地下構造について、現在の設計図とは異なる記述があります。砦の建設当初、地下には三つの封門が設けられていたようです」
セラが眉をひそめた。
「何を封じるための門なの?」
「記録には、明確に書かれていません。ただ、『境界を維持するための設備』とあります」
ロウは、紙を受け取った。
「境界?」
「はい。人間の領域と、魔物の領域。その境界を維持するために、三つの封門を設けたと」
ハロルドが顔を上げた。
「なら、地下通路は、砦の防衛設備だったのか?」
「その可能性はあります」
オスカーは、別の紙を広げた。
「ですが、封門は通常の防衛設備とは違います。扉を閉じれば侵入を防げる、というものではないようです」
ロウは、記述を読み上げた。
「『第一封門は、外からの侵入を防ぐ。第二封門は、内からの流出を防ぐ。第三封門は、境界そのものを固定する』」
セラが顔をしかめた。
「何を言っているのか、よく分からないわね」
「俺もだ」
ロウは、続きを読んだ。
「『三つの封門は、ひとつの仕組みとして機能する。第一を開けば第二が閉じ、第二を開けば第三が閉じる。第三を開く場合、第一と第二の封鎖を確認せよ』」
「つまり、第三封門を開けると、ほかの二つがどうなるか分からないということ?」
「そう考えるのが自然だ」
ロウは、地図を広げた。
「地下通路は、砦の下を通っている。東側排水溝から西側搬入口へ繋がる。途中に三つの小部屋がある。おそらく、そのどこかに封門がある」
オスカーが頷いた。
「はい。ただ、現在の設計図には、その場所が記されていません」
「なぜ消された?」
「分かりません。ですが、十数年前の記録には、封門の維持管理について書かれた文書が残っています」
彼は、もう一枚の紙を差し出した。
そこには、短い文章があった。
『封門の管理者は、血統によって選ばれる。鍵は金属ではなく、記憶によって保たれる。』
ロウは、眉を寄せた。
「血統?」
セラが彼を見た。
「……あなたのこと?」
「まだ分からない」
ロウは、紙を机に置いた。
『鍵は金属ではなく、記憶によって保たれる。』
第三封門の鍵は、お前の血で開く。
記録室に置かれていた紙。
地下から聞こえた声。
自分の名前を呼ぶ何か。
そして、血統によって選ばれる管理者。
偶然と考えるには、符合するものが多すぎた。
ハロルドが、低い声で言った。
「隊長。もし、封門が血統で開くのなら……ベルンの身体に起きた変化も、関係しているんじゃないですか?」
「可能性はある」
ロウは答えた。
「ベルンは、半年前に地下へ入った。その後、身体に変化が起きた。死体には、三つの痕があった。何かの処置を受けた可能性がある」
「なら、地下で何かに触れたのかもしれない」
セラが言った。
「封門の仕組みが、ベルンの身体を変えた?」
「あるいは、封門の向こうにいた何かが、ベルンを変えた」
ロウは、地図を見つめた。
「だが、まだ仮説だ。証拠が足りない」
オスカーが、静かに口を開いた。
「隊長。もうひとつ、気になる記録があります」
「何だ?」
「半年前の補修作業に参加した人間のうち、一人だけ、作業後の記録がありません」
「誰だ?」
オスカーは名簿を見た。
「工兵の、エドリック・ヴェインです」
ハロルドが顔を上げた。
「……エドリック?」
「知っているのか?」
ロウが尋ねた。
「はい。背が高くて、右足を少し引きずっていました」
ベルンの証言と一致する。
地下で見た、名前を思い出せない男。
右足を引きずる工兵。
「エドリックは、今どこにいる?」
オスカーは、記録をめくった。
「作業の三日後に、王都へ戻ったと記録されています。しかし、王都の受領記録には、彼が到着したという記載がありません」
「……つまり、行方不明か」
「はい。ですが、失踪届は出されていません」
セラが顔をしかめた。
「なぜ、そんなことが起きるの?」
「記録が意図的に消された可能性があります」
ロウは、名簿の名前を指でなぞった。
エドリック・ヴェイン。
半年前、地下通路に入った工兵。
右足を引きずる男。
そして、作業後の記録が消えている。
「オスカー。エドリックの家族や知人を調べてくれ。王都にいるなら、伝令を出す。もし、戻っていないのなら、失踪した時期を確認する」
「承知しました」
ロウはハロルドを見た。
「ベルンが言っていたのは、エドリックかもしれない」
「……はい」
ハロルドは、唇を噛んだ。
「俺は、あいつと一緒に働いていました。ですが、作業が終わった後、会っていない。戻ったと聞いて、それ以上は気にしなかった」
「誰から聞いた?」
「……覚えていません」
ロウは頷いた。
「それも調べる必要がある」
彼は立ち上がった。
「今夜、地下へ入る準備をする。ただし、まだ第三封門には近づかない。まず、通路の構造を確認する。安全な範囲で調査し、封門の位置を特定する」
セラは、すぐに反対した。
「危険よ。地下には、名前を呼ぶ何かがいる」
「だから、準備をする」
「準備をしても、危険なものは危険よ」
「分かっている」
ロウは、彼女を見た。
「だが、地下に答えがある。ベルンの変化も、死体の正体も、エドリックの失踪も、第三封門も。全部が地下へ繋がっている」
セラは、しばらく彼を見つめた。
やがて、ため息をついた。
「……分かった。ただし、私も行く」
「もちろんだ」
「それから、勝手に先へ進まないこと」
「分かっている」
「本当に?」
ロウは、少しだけ笑った。
「努力する」
「努力じゃなくて約束しなさい」
その言葉に、ハロルドが思わず笑った。
ほんの一瞬。
だが、その笑い声は、張り詰めた空気をわずかに和らげた。
ロウは、記録をまとめた。
第三封門。
血統によって選ばれる管理者。
記憶によって保たれる鍵。
そして、半年前に消えた工兵。
事件は、少しずつ形を見せ始めていた。
だが、まだ大きな謎が残っている。
ベルンの姿をした死体は、誰なのか。
そして、食堂に現れたベルンは、本当にベルンなのか。
その答えは、地下へ入れば分かるかもしれない。
しかし、ロウはまだ知らなかった。
第三封門の資料が、記録室から消えたことを。
誰かが、彼らの調査を見ている。
そして、その誰かは、ロウが地下へ向かうことを望んでいた。
十 鍵のない扉
夜の九時。
ロウは、地下調査の準備を終えた。
松明が六本。
予備の油。
鉄製の杭。
縄。
簡易地図。
それから、ミラが用意した小瓶が三つ。
魔物の体液に反応する薬品と、血液を検査するための試薬、そして、万が一に備えた鎮静剤だった。
「これで全部か?」
ロウが尋ねると、セラが荷物を確認した。
「ええ。武器も問題ないわ。ハロルドたちも、いつでも出られる」
「地下へ入る前に、検死室をもう一度確認する」
セラは顔を上げた。
「死体?」
「ああ。あの死体は、今回の事件を解く重要な証拠だ。地下へ入る前に、状態を確認しておきたい」
「ミラは?」
「先に検死室へ向かっている」
二人は廊下を進んだ。
夜の砦は、静まり返っていた。
見張りの兵士たちは二人一組で巡回し、交代時には互いの顔と合言葉を確認している。通路の角には追加の灯りが置かれ、地下へ繋がる可能性のある場所には、封鎖を示す印が付けられていた。
昨日までとは違う。
誰もが、何かを疑っている。
だが、疑うことと、正しく見抜くことは同じではない。
ロウは、検死室の前で足を止めた。
扉の前には、二人の兵士がいた。
「異常は?」
「ありません。入室者もいません」
「交代は?」
「規定通りです」
「よし。開けてくれ」
兵士が鍵を取り出した。
一本目。
二本目。
三本目。
重い扉が開く。
ロウは、室内へ入った。
そして、足を止めた。
石造りの台。
白い布。
器具を並べた机。
壁際に置かれた薬品。
そこに、ミラが立っていた。
だが。
死体がなかった。
ロウは、数秒間、動けなかった。
「……ミラ」
彼女は振り返った。
顔が青ざめている。
「隊長。私が来た時には、すでに……」
「死体はどこへ行った?」
「分かりません。最後に確認した時は、確かに台の上にありました。検死記録を書き終えて、器具を片付けるために、ほんの数分、隣室へ移動したんです」
「その間、誰かが入ったのか?」
「いいえ。扉は閉じていました。鍵も、外から施錠されたままです」
ロウは、扉を見た。
三重の鍵。
見張りの兵士。
誰も入っていないという証言。
それなのに、死体だけが消えている。
「窓は?」
「ありません」
「隠し扉は?」
「調べました。ありません」
「床下は?」
「確認しましたが、何も」
ロウは、部屋を見回した。
床に血痕はない。
器具が倒された形跡もない。
布だけが、石造りの台の上に残されている。
まるで、死体が自分で立ち上がり、歩いて出ていったかのようだった。
「……セラ。外の見張りを呼べ」
セラが扉の外へ出た。
ロウは、台の上の布を調べた。
布の中央に、黒い染みがある。
死体の傷口から滲み出たものだろう。
しかし、染みの端に、別のものが付着していた。
細い黒い繊維。
ロウは指先で触れず、器具を使って採取した。
ベルンの爪の間に残っていたものと、よく似ている。
「ミラ。この繊維を調べてくれ」
「分かりました」
「それから、死体が消える直前に何があったか、もう一度確認してくれ。誰が、いつ、どこにいたのか。記録を全部洗い直す」
ミラは頷いた。
その時、廊下から兵士が駆け込んできた。
「隊長!」
「どうした?」
「ベルンがいません!」
ロウの顔が変わった。
「……どのベルンだ?」
兵士は、言葉に詰まった。
「隔離室にいたベルンです。部屋を確認したところ、扉は施錠されていましたが、中には誰もいませんでした」
ロウは、ゆっくりと息を吐いた。
死体が消えた。
隔離されていたベルンも消えた。
どちらも、施錠された部屋から。
偶然ではない。
「セラ!」
彼は廊下へ向かって叫んだ。
「砦を封鎖しろ! 全門を閉じろ! 誰も外へ出すな!」
兵士たちが走り出す。
警鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
砦のあちこちから、怒号が響いた。
ロウは、検死室を飛び出した。
「最後にベルンを見たのはいつだ?」
「一刻ほど前です!」
「誰が見た?」
「見張りの兵士です!」
「そいつを呼べ!」
「はっ!」
ロウは走りながら考えた。
隔離室の扉は施錠されていた。
検死室の扉も施錠されていた。
どちらも、外から鍵を開けなければ入れない。
だが、死体も、ベルンも消えた。
ならば、可能性は三つ。
ひとつ。誰かが鍵を持ち、二つの部屋を開けた。
ふたつ。鍵を使わずに出入りできる通路がある。
みっつ。
そもそも、彼らは部屋の中にいたのではない。
ロウは足を止めた。
「……まさか」
彼は、廊下の壁を見た。
黒門砦の地下には、古い通路がある。
東側排水溝から西側搬入口へ。
武器庫の下を通り、兵舎の地下を抜け、司令室の真下へ。
現在の設計図にはない、古い通路。
そして、三つの封門。
もし、その通路が検死室の下にも繋がっているのなら。
死体は、床下から運び出されたのかもしれない。
隔離室も、同じだ。
ロウは壁を叩いた。
硬い石の音。
しかし、場所によって、響きが違う。
彼は耳を近づけた。
もう一度、叩く。
空洞の音がした。
「……ここだ」
セラが駆け寄ってきた。
「何が分かったの?」
「この壁の向こうに空間がある」
「地下通路?」
「可能性は高い」
ロウは、壁の継ぎ目を探した。
石材の一部に、細い溝がある。
そこへ指を差し込む。
何かが動いた。
石壁の一部が、わずかに沈み込む。
低い音が響いた。
壁の向こうで、古い機構が動き始める。
そして、石壁が横へずれた。
暗闇が現れた。
冷たい風が吹き出す。
湿った土。
錆びた金属。
そして、血の匂い。
ロウは剣を抜いた。
「……全員、下がれ」
セラが兵士たちを下がらせる。
ロウは、松明を掲げた。
通路の先に、足跡があった。
ひとつではない。
複数の足跡。
人間のもの。
そして、人間とは違う、長い指のような痕跡。
その奥から、声が聞こえた。
「……隊長」
ベルンの声だった。
ロウは、暗闇を見つめた。
「ベルンか?」
返事はない。
代わりに、別の声が聞こえた。
今度は、ロウ自身の声だった。
「……こっちへ来い」
セラが、ロウの腕を掴んだ。
「行っては駄目」
「ああ」
ロウは、剣を構え直した。
「分かっている」
だが、暗闇の奥から、さらに声が響いた。
「ロウ・テュユール」
今度は、はっきりと自分の名前を呼んだ。
「第三封門の鍵は、お前の血で開く」
ロウは、松明を掲げた。
その光の向こうに、誰かが立っていた。
ベルンだった。
いや。
ベルンの姿をした、何かだった。
その顔には、食堂で見た笑みが浮かんでいる。
そして、その背後には、もう一人。
同じ顔のベルンが立っていた。
二人のベルン。
同じ顔。
同じ声。
同じ制服。
ただし、一人は右手の指が少し曲がっている。
もう一人の指は、まっすぐだった。
曲がった指のベルンが、ロウを見た。
「隊長。助けてください」
まっすぐな指のベルンが、笑った。
「隊長。そいつは偽物です」
二人が、同時に言った。
「俺が、本物です」
ロウは、剣を握り締めた。
死体は、もういない。
隔離室にいたベルンも、いない。
そして、地下には、二人のベルンがいる。
どちらも、自分こそが本物だと言っている。
ロウは、二人を見比べた。
そして、静かに言った。
「……分かった」
二人のベルンが、同時に顔を上げた。
「なら、ひとつだけ答えろ」
ロウは、一歩も動かずに尋ねた。
「半年前、第三封門の前で、お前たちは何を見た?」
二人は、同時に口を開いた。
だが、答えは違った。
曲がった指のベルンは、震える声で言った。
「……自分と同じ顔の男です」
まっすぐな指のベルンは、笑みを浮かべたまま答えた。
「……お前です、隊長」
ロウの背筋に、冷たいものが走った。
二人のうち、どちらが本物なのか。
その答えは、まだ分からない。
だが、少なくとも。
第三封門の向こうには、ロウ自身を知る何かがいる。
そして、その何かは、彼が地下へ来ることを待っていた。




