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衛兵は眠れない  作者: 神代シン
第一章 眠らない門番

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第二話「死体は嘘をつかない」

1 死体が戻ってきた朝

死体が戻ってきたのは、夜明けから三十分後だった。


黒門砦の東側、石造りの排水溝。その出口を塞ぐ鉄格子の前で、朝番の兵士が何かを見つけた。


最初は、獣の死骸だと思ったらしい。


黒い毛皮の塊が、泥と枯れ葉にまみれて引っかかっていた。排水溝は森から流れ込む雨水を外へ逃がすためのもので、普段から獣の骨や腐った枝が流れ着く。だから、見つけた兵士も、最初のうちは特に気に留めなかった。


だが、鉄格子の隙間から伸びていたものを見て、彼は悲鳴を上げた。


人間の手だった。


手首には、黒門砦の兵士が着用する革の識別帯。


指には、王国軍の支給品ではない、安物の銀の指輪。


そして、その指輪をロウは知っていた。


「……ベルン?」


名前を口にした瞬間、周囲の空気が変わった。


集まっていた兵士たちが顔を見合わせる。


誰かが小さく十字を切った。別の誰かは、鉄格子から目を背けた。


昨日、夜間警備中に行方不明になった兵士。


ベルン・ハルト。


二十七歳。既婚。故郷には母親と妹がいる。軍歴は八年。勤務態度は平凡。酒に強く、賭け事に弱い。口は悪いが、年下の兵士に食事を譲る程度の気遣いは持ち合わせていた。


少なくとも、ロウが昨日受け取った勤務記録には、そう書かれていた。


「触るな」


ロウの声に、兵士たちの動きが止まった。


「誰も死体に触れるな。鉄格子にも、排水溝の縁にもだ。ここにいた人間は全員、その場から動くな」


「しかし、隊長。もう死んでいるんですよ?」


若い兵士が言った。


「死んでいるからだ」


ロウは、泥の中に膝をついた。


「生きている人間は嘘をつく。怖ければ隠す。怒れば誇張する。金をもらえば話を変える。死んだ人間は、少なくとも自分の都合で証言を変えたりはしない」


手袋をはめる。


「だから、死体を黙らせるな。こいつが何を話しているのか、聞くまではな」


兵士たちの視線が、ロウに集まった。


それは尊敬ではなかった。


畏怖でもない。


もっと複雑で、もっと扱いにくい感情だった。


人間ではない血を引く男が、死体に語りかけている。


そう見えた者もいたのだろう。


ロウは気にしなかった。


気にしている余裕がなかった。


彼の鼻は、すでに異変を捉えていたからだ。


泥の匂い。


鉄錆の匂い。


腐った葉の匂い。


そして――血の匂い。


その最後のものが、妙だった。


「……おかしいな」


ロウは呟いた。


ベルンの身体から、血の匂いが薄い。


人間がこれだけ傷ついていれば、もっと濃い血臭が残るはずだった。


もちろん、排水溝の水で洗い流された可能性はある。死後に時間が経過すれば、匂いも変わる。


だが、それだけでは説明できない。


ロウは死体の周囲を見回した。


排水溝の内側には泥が積もっている。鉄格子の下部には、苔が生えていた。格子の一本には、何かが擦れたような傷がある。


その傷の上に、泥が薄くこびりついていた。


ロウは指先で、傷の位置を測った。


「死体を引きずり出した跡にしては、低すぎる」


「何です?」


「いや。まだ何も言うな」


彼は死体の顔を確かめた。


ベルンの目は閉じていた。


口は半開きで、唇の端に黒い汚れが付着している。頬には擦過傷。首元には、襟の内側に隠れるような暗い痕跡があった。


ロウは顔を近づけた。


首の傷は、左右対称ではなかった。


片側だけが深い。


そして、傷の周囲に小さな点状の痕が複数ある。


「噛み傷……?」


背後で誰かが息を呑んだ。


「魔物だ!」


兵士の一人が叫んだ。


「やっぱり魔物が入り込んでいるんだ! 門を越えたんだ! だから、あいつが――」


「黙れ」


ロウは顔も上げずに言った。


それだけで、兵士は口を閉じた。


「魔物の仕業だと決めるのは、調べ終わってからだ」


「ですが、首に傷が!」


「傷があることと、魔物が殺したことは別の話だ」


ロウはベルンの首元から視線を離さなかった。


「それに、もし魔物の仕業だったとしても、どんな魔物かは分からない。何のために殺したのかも分からない。どこから来て、どこへ行ったのかも分からない。分からないことだらけだ」


彼はようやく顔を上げた。


「分からないことを、分かったふりで埋めるな。それが一番、死人を増やす」


兵士たちは黙り込んだ。


その中で、一人だけ、妙な反応をした男がいた。


砦の衛生兵、ミラ・セイン。


彼女は死体を見ても怯えていなかった。


だが、首の傷を見た瞬間、ほんのわずかに眉を動かした。


ロウは見逃さなかった。


「ミラ」


「はい」


「検死を頼む」


「分かりました」


「毒物、窒息、失血。考えられるものは全部調べてくれ。首の傷は特に念入りに。傷の深さ、角度、周囲の皮膚の変色。魔物の咬傷に似ているなら、何に似ているのかも記録してくれ」


ミラは頷いた。


「ただし、ひとつお願いがあります」


「何だ?」


「検死の間、余計な人間を入れないでください。兵士も、将校も、あなたも」


「俺もか」


「ええ。死体は嘘をつかないかもしれませんが、生きている人間は、死体のそばで平気で嘘をつきますから」


ロウは、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「なるほど。覚えておこう」


「それと、もうひとつ」


ミラはベルンの手を見つめた。


「この人、昨夜のうちに亡くなったとは限りません」


ロウの表情が変わった。


「どういう意味だ?」


「まだ分かりません。ただ、死体の状態と体温、それから皮膚の硬直の具合を考えると……この人が亡くなった時刻は、昨夜の見回りよりも前だった可能性があります」


「前?」


「はい。少なくとも、あなたが聞いた行方不明の時刻と、死亡時刻が一致するとは限らない」


ロウは、鉄格子に目を戻した。


昨夜、ベルンは巡回中に姿を消した。


同僚の証言によれば、最後に姿を見たのは第二鐘の直後。


その後、彼の姿を見た者はいない。


だが。


もしベルンが、その時点ですでに死んでいたのなら。


昨夜の巡回で目撃された兵士は、いったい誰だったのか。


そして、誰が、ベルンの代わりに歩いていたのか。


ロウは立ち上がった。


「死体を運べ。検死室へ。担架を用意しろ。死体に触れるのはミラと、俺が指名する二人だけだ」


彼は集まった兵士たちを見回した。


「それから、昨夜の勤務記録を全部持ってこい。巡回表、交代時刻、門の開閉記録、食堂の出入り、武器庫の貸し出し記録。昨日の朝から今朝まで、全部だ」


「隊長」


声をかけたのは、砦の副官だった。


セラ・ヴォス。


三十代半ば。短く切った髪。無駄のない動き。人の話を聞く時、相手の顔ではなく手を見る癖がある。


彼女はロウが王都にいた頃の評判を知っていた。


半人半狼の血を引く異端。


王族に仕えた男。


命令に従わず、上官と衝突し、最後には王都を追われた男。


だが、彼女はその噂を鵜呑みにするほど愚かではなかった。


「勤務記録はすでに確認しました。昨夜の交代は、規定通りです。門も開いていません」


「それが本当なら、ずいぶん都合がいい」


「都合がいい?」


「門が開いていない。見張りは侵入者を見ていない。なのに兵士が消え、今度は死体になって戻ってきた。これほど都合のいい状況は、誰かが都合よく作ったと考えた方がいい」


セラは眉を寄せた。


「つまり、内部犯行だと?」


「まだ決めつけるな」


「あなたが今、そう言ったように聞こえましたが」


「内部犯行の可能性がある、と言ったんだ。砦の中に犯人がいるのか、砦の中にいる誰かが犯人を助けたのか、それとも俺たちが知らない侵入経路があるのか。今のところ、どれも消えていない」


ロウは手袋についた泥を払った。


「だが、ひとつだけ確かなことがある」


「何でしょう」


「ベルンは、ただ消えたわけじゃない」


彼は排水溝の奥を見つめた。


「誰かが、こいつをここへ戻したんだ」


2 誰も見ていない巡回

黒門砦の会議室は、かつて兵站倉庫として使われていた建物の二階にある。


窓は小さく、壁は厚い。


暖炉はあるが、薪を節約するため、火は弱い。室内には湿った石の匂いと、古い羊皮紙の匂いが染みついていた。


長机の上に、昨夜の勤務記録が並べられた。


ロウ。


セラ。


記録係のオスカー・ベル。


そして、夜間警備を担当した兵士たち。


全員が揃ったわけではない。


ベルンの死体が発見されたことで、交代要員の一部は現場に残されている。砦の外周を警戒する兵士も必要だった。


それでも、事件に関係する人間は一通り集まっていた。


「まず、昨夜の巡回経路を確認する」


ロウは地図を広げた。


黒門砦は、北側に魔物の森、南側に人間の街道を抱える要塞だった。


中央に黒門。


東西に石壁。


東側には排水溝があり、西側には古い物資搬入口がある。ただし、西側搬入口は十年前の地滑りで埋まり、現在は石と鉄板で封鎖されている。


砦の内部には兵舎、食堂、武器庫、記録室、医務室、司令室、馬小屋。


そして、黒門の上部にある監視通路。


昨夜の巡回担当者は六人。


ベルンは、そのうちの一人だった。


「最初に確認したい。ベルンを最後に見たのは誰だ?」


沈黙。


兵士たちは互いの顔を見た。


やがて、一人の男が手を上げた。


「俺です」


背が高く、頬に古傷のある兵士だった。


「ハロルド・ケイン。昨夜はベルンと同じ区画を担当しました」


「どこで見た?」


「北側通路です。第二鐘が鳴った後、巡回の交代で」


「何をしていた?」


「ベルンは壁沿いを歩いていました。俺は監視通路から降りてきたところで、声をかけました。いつものように、軽口を叩いて……それから別れました」


「何時だ?」


「鐘が鳴ってすぐです」


「鐘が鳴った時刻を、どうやって確認した?」


ハロルドは言葉に詰まった。


「……鐘の音です」


「鐘は何時を示していた?」


「第二鐘です」


「それは答えになっていない」


ロウは冷たく言った。


「お前はベルンを見た時刻を、時計で確認したのか。それとも鐘の音を聞いたから、その時刻だと思ったのか」


ハロルドは唇を舐めた。


「鐘の音です」


「なら、お前が見たのは第二鐘の前かもしれないし、鐘が鳴っている最中かもしれない。あるいは、鐘が鳴り終わってからだ」


「ですが、隊長。鐘は正確です」


「鐘が正確かどうかは、今の問題じゃない。お前の記憶が正確かどうかだ」


ロウは記録係のオスカーに目を向けた。


「鐘の記録は?」


オスカーは眼鏡の位置を直した。


「昨夜の鐘は、記録上、規定時刻に鳴っています。ただし、鐘を鳴らす担当者は詰所の時計を参照しているため、時計自体に誤差があれば、鐘にも誤差が出ます」


「詰所の時計は、いつ調整した?」


「三日前です」


「誰が?」


「私です」


「調整に使った基準は?」


「司令室の時計です」


ロウは、しばらくオスカーを見つめた。


「その司令室の時計は、いつ調整した?」


「……先月です」


「誰が?」


「前任の記録係です」


「その前任者は?」


「半年前に王都へ戻りました」


「基準にした時計は?」


オスカーは黙った。


ロウは地図の上に指を置いた。


「こういうことだ。お前たちは『第二鐘の後』という言葉を使っているが、それは時刻を証明していない。証明しているのは、誰かが鐘を聞いたということだけだ」


彼はハロルドを見た。


「ベルンは、どんな様子だった?」


「普通でした」


「普通とは?」


「いつも通りです。疲れた顔で、腹が減ったとか、次の休暇はいつだとか……」


「何を言った?」


「覚えていません」


「何か変わったことは?」


「ありません」


「お前がベルンを見た時、そばに誰かいたか?」


「いません」


「武器は?」


「剣を持っていました」


「左手に何か持っていたか?」


「……分かりません」


「右手は?」


「分かりません」


「顔は見たか?」


「見ました」


「どれくらい?」


ハロルドは苛立ちを露わにした。


「隊長。俺はベルンを何年も知っています。顔を見れば分かります」


「そうか」


ロウはそれ以上、追及しなかった。


代わりに、記録用紙に何かを書きつけた。


ハロルドは不満そうだったが、口を閉じた。


次に口を開いたのは、別の兵士だった。


「俺もベルンを見ています」


若い兵士だった。


名前はトーマス・リード。


入隊して二年。北門の警備を担当していた。


「いつだ?」


「第三鐘の前です」


「どこで?」


「食堂の裏です」


「何をしていた?」


「ベルンが水を飲んでいました。俺が見回りから戻る途中で、向こうから歩いてきたんです」


「声はかけたか?」


「いいえ。遠かったので」


「顔は見たか?」


「はい」


「間違いなくベルンか?」


「間違いありません」


ロウはペンを置いた。


「ハロルドは、第二鐘の後に北側通路でベルンを見たと言った。お前は第三鐘の前に食堂裏で見たと言った」


「はい」


「その間、ベルンがどこを歩いていたか、知っている者は?」


誰も手を上げなかった。


「北側通路から食堂裏へ移動するには、砦の中央通路を通る必要がある。その途中で、誰もベルンを見ていないのか?」


「……はい」


「不自然だとは思わなかったか?」


トーマスは戸惑った。


「夜間は灯りが少ないですから。誰かとすれ違っても、気づかないことはあります」


「それはそうだ」


ロウは頷いた。


「だが、逆に言えば、顔を見たという証言も確実とは限らない。灯りが少ないなら、なおさらだ」


トーマスの顔が青ざめた。


「隊長、俺は嘘をついていません!」


「嘘をついていると言っているんじゃない。お前が見たものを、正確に言えと言っている」


ロウは、机の上の記録を一枚ずつ確認した。


「見たものと、そうだと思ったものは違う。見たものと、後から記憶に付け足したものも違う。そこを混ぜると、事件は簡単に迷宮入りする」


彼は顔を上げた。


「昨夜、ベルンを見たと言った者は、全員残れ。それ以外は持ち場に戻れ。ただし、昨夜の行動について聞き取りを受ける可能性がある。勝手に砦を出るな」


兵士たちが動き始めた。


だが、その中でオスカーだけが座ったままだった。


「何かあるのか、オスカー」


「ひとつ、気になることがあります」


「言ってみろ」


オスカーは記録用紙を一枚差し出した。


「昨夜の巡回記録には、ベルンの署名が三回あります」


「それがどうした?」


「三回とも、筆跡が違うのです」


会議室の空気が凍った。


ロウは紙を受け取った。


最初の署名は、巡回開始時。


二つ目は、北側通路の確認時。


三つ目は、巡回終了時。


どれも「ベルン・ハルト」と書かれている。


だが、最初の署名は右上がりで、文字がやや潰れていた。


二つ目は、文字が整いすぎている。


三つ目は、最初の署名に似ているが、最後の「ト」の払いが不自然に長い。


「筆跡鑑定ができるのか?」


「専門家ではありません。ただ、ベルンの署名は普段から記録室で見ています。少なくとも、二つ目の署名は本人のものではないように思います」


「誰が書いた?」


「分かりません」


「なぜ、今まで報告しなかった?」


オスカーは顔を伏せた。


「……昨日の夜、確認した時には気づきませんでした。今朝、事件を聞いてから記録を見直して、ようやく違和感に気づいたのです」


ロウは、署名を見比べた。


筆跡は、意図的に変えられている可能性があった。


同じ人物が、別人の筆跡を真似たのか。


あるいは、別人が、ベルンの署名を装ったのか。


もっと単純に、疲れた本人が書いたために違っているのか。


まだ断定できない。


だが、ひとつだけ確かなことがあった。


「ベルンは、少なくとも三回、記録上は巡回している」


ロウは言った。


「しかし、俺たちが確認できているのは、ベルンを見たという証言だけだ。本人がそこにいた証拠は、まだない」


セラが腕を組んだ。


「つまり、昨夜の巡回は、最初から偽装されていた可能性がある?」


「そうだ」


「でも、何のために?」


ロウは、署名の上に指を置いた。


「それを調べるのが、俺たちの仕事だ」


彼は会議室の扉へ向かった。


「セラ。昨夜、ベルンが使った寝台を調べろ。荷物、衣服、靴、手紙。何でもいい。誰かが持ち出そうとした形跡があれば、すぐに知らせてくれ」


「分かりました」


「オスカーは記録室を封鎖。昨日の勤務記録に触れた者を、全員記録しろ。過去一週間分の巡回記録も持ってきてくれ」


「承知しました」


「俺は排水溝へ戻る」


セラが顔を上げた。


「また死体ですか?」


「いや」


ロウは、わずかに目を細めた。


「死体が戻ってきた場所を調べる」


3 泥の中の足跡

排水溝は、人が通れるほど大きくはなかった。


少なくとも、正規の設計図を見る限りでは。


幅は約三十センチ。高さは四十センチほど。鉄格子の外側は急な斜面になっており、雨が降れば泥水が流れ込む。砦の内側から外側へ、水を逃がすための構造だった。


ロウは鉄格子の前にしゃがみ込み、地面を観察した。


死体が発見された場所には、複数の足跡が残っていた。


朝番の兵士たちのもの。


死体を発見して駆け寄った者のもの。


その後、ロウたちが到着してからついたもの。


だが、死体が運ばれてきた瞬間の痕跡は、すでに踏み荒らされている。


「……最悪だな」


彼は呟いた。


証拠保全という言葉が、この砦ではまだ馴染みのないものらしい。


人が死ねば、誰もが近寄る。


怖いもの見たさで覗き込む者。知人かどうか確かめる者。何か手がかりを探そうとする者。


そして、犯人がいるなら、証拠を消す者。


ロウは自分の足元を確認してから、排水溝の縁に細い木片を差し込んだ。


泥の深さを測る。


鉄格子の下には、乾いた泥が固まっている。


その上に、新しい泥が薄く重なっていた。


「水が流れた跡はある。だが、死体がここを通過したなら、もっと泥が削れているはずだ」


彼は格子の一本に手をかけた。


力を入れて揺らす。


動かない。


錆びついているが、固定はされている。


「格子を外して、死体を通した?」


後ろから声がした。


ミラだった。


「検死は?」


「まだ途中です。ですが、先に伝えておくべきことがあります」


彼女は布に包んだ小さな物体を見せた。


黒い、硬い欠片。


爪のようにも見える。


「ベルンの衣服から見つかりました。首元の裂けた部分に引っかかっていました」


ロウは、欠片を直接触らずに観察した。


「魔物の爪か?」


「可能性はあります。ただし、普通の獣の爪ではありません」


「どう違う?」


「表面が妙に滑らかです。先端には微細な溝がある。生物の爪というより、硬質な殻の破片に近い」


「殻?」


「昆虫の外骨格に似ています。もっとも、この大きさのものを持つ昆虫は、少なくとも王国領では確認されていません」


ロウは欠片を見つめた。


魔物の先遣隊。


人間の領域へ入り込み、情報を集め、必要ならば兵士を殺す存在。


この欠片が本当に魔物の一部なら、事件は単なる内部犯行では済まない。


だが、彼はすぐには結論を出さなかった。


「他に何か分かったか?」


「ベルンの肺には、水がほとんど入っていませんでした」


「溺死ではない?」


「少なくとも、排水溝の水に沈められて死んだわけではなさそうです」


「死因は?」


「首の傷が有力です。ただし、失血だけでは説明がつかない部分があります」


ミラは言葉を選んだ。


「彼の血液は、かなり失われています。けれど、死体の周囲に血が少なすぎる。傷から流れ出た血液が、どこへ行ったのか分かりません」


ロウは鉄格子を見た。


「血を抜かれた?」


「可能性はあります。ただし、刃物で切ったような傷は見当たりません。首の傷は、何かが皮膚を貫いて血管に達したものに見えます」


「毒は?」


「まだ確定できません。ですが、血液の凝固状態が少し妙です。通常の死後変化とは違うかもしれません」


「魔物の毒か」


「それも可能性のひとつです」


ミラは、ロウの顔を見た。


「あなたは、魔物についてどこまで知っているんですか?」


「人間が書いた報告書に載っている程度には」


「それでは、あまり知らないということですね」


「その通りだ」


ロウは、あっさりと認めた。


「王都では魔物の研究は軍の上層部と一部の学者が独占していた。俺は近衛の指揮官だったが、魔物の生態を研究する立場ではなかった」


「では、どうしてそんなに落ち着いているんです?」


「落ち着いているように見えるだけだ」


彼は鉄格子から手を離した。


「知らないものを前にして、知っているふりをするほど愚かじゃない。それに、怖がっても死体は生き返らない」


ミラはしばらく彼を見つめていた。


やがて、わずかに頷いた。


「もうひとつ。ベルンの手を調べたところ、爪の間から黒い繊維が出てきました」


「布か?」


「布に似ていますが、普通の織物とは違います。顕微鏡のような器具はないので、細部までは分かりません」


「ベルンが何かを掴んだ?」


「そう考えるのが自然です。ただし、彼が生きている間に掴んだのか、死後に何かが手に押し込まれたのかは分かりません」


ロウは息を吐いた。


「証拠が増えるほど、分からないことも増えていくな」


「それが検死です」


ミラは真顔で言った。


「死体は答えを教えてくれません。こちらが間違った質問をしなければ、嘘をつかないだけです」


ロウは彼女を見た。


先ほど、自分が言った言葉とよく似ていた。


だが、ミラの言葉には、現場を知る者の重みがあった。


彼女は死体を恐れていないのではない。


死体を、恐怖の対象として扱うことを拒んでいるのだ。


「ミラ」


「はい」


「ベルンの死体を、誰かが移動させた可能性は?」


「あります。むしろ、私はその可能性が高いと思っています」


「理由は?」


「首の傷から出たはずの血液が、現場にほとんど残っていないこと。そして、衣服の泥の付き方が不自然です」


「どう不自然なんだ?」


「死体が排水溝を通って流れてきたなら、背中や肩にもっと擦過傷ができるはずです。ですが、彼の背中にはほとんど傷がありません。泥も、背中より胸側に多く付着しています」


「つまり、仰向けに運ばれた?」


「その可能性があります。あるいは、死体を一度別の場所に置き、その後で泥を付着させた」


ロウは、鉄格子の隙間を覗き込んだ。


「排水溝を通って流れ着いたんじゃない。誰かが、ここへ置いた」


「はい」


「しかも、発見されるように」


ミラは答えなかった。


その沈黙が、答えだった。


ロウは立ち上がった。


「犯人は、死体を隠すつもりがなかった」


「そうですね」


「なら、これは証拠隠滅ではない。見せしめか、警告か……」


彼は言葉を切った。


死体を発見させること自体が目的なら、犯人は何かを伝えようとしている。


あるいは、何かを誤認させようとしている。


「ミラ。ベルンの衣服をもう一度調べてくれ。泥の付着箇所、裂け目、繊維。何かを運ばされた痕跡がないかも見てほしい」


「分かりました」


「それと、首の傷に似た症例が過去にないか、砦の記録を調べてくれ」


「魔物の記録ですか?」


「それもだ。だが、魔物に限るな。人間の傷害事件、獣害、原因不明の病死。何でもいい」


ミラは頷いた。


ロウは排水溝をもう一度見た。


鉄格子の隙間からは、暗い穴が見えるだけだった。


だが、彼にはひとつ、気になることがあった。


死体がここへ置かれたのなら、犯人はどうやって運んできたのか。


砦の東側は、朝番の兵士が定期的に巡回している。


死体を運ぶには、少なくとも二人が必要だったはずだ。


ベルンは成人男性で、装備を含めればかなりの重量になる。


それを誰にも見られずに運ぶ。


しかも、発見される時刻を計算して、排水溝の前に置く。


簡単なことではない。


そして、もうひとつ。


ロウは鉄格子の下にしゃがみ込み、泥の表面を見つめた。


死体が置かれた場所には、泥が盛り上がっている。


だが、その盛り上がりの向こう側に、妙な窪みがあった。


靴跡ではない。


膝をついた跡でもない。


まるで、細長い何かを地面に押しつけたような跡だった。


その跡は、鉄格子のすぐ内側から始まり、石壁の基部へ向かって続いている。


ロウは指先で、泥の形を確かめた。


「……これは何だ?」


ミラが覗き込む。


「何かを引きずった跡でしょうか」


「そう見える。だが、死体を引きずったなら、もっと幅があるはずだ」


「武器か、棒状の道具?」


「かもしれない」


ロウはその跡を辿った。


それは石壁の基部で途切れていた。


そこには、苔の生えた石が並んでいる。


見た目は普通の壁だった。


だが、一番下の石だけ、周囲よりもわずかに色が違っていた。


ロウは手袋を外し、石に触れた。


冷たい。


そして、ほんのわずかに湿っている。


「ミラ」


「はい」


「この壁、昨日も湿っていたと思うか?」


「さあ……。排水溝の近くですから、湿っていても不思議ではありません」


「そうだな」


ロウは石を押した。


動かない。


左右に揺らしても、何も起こらない。


ただの石。


ただの壁。


ただの排水溝。


そう考えれば、何もおかしくない。


しかし、彼の鼻は、石の隙間から漂う匂いを拾っていた。


湿った土。


古い鉄。


そして、微かに。


血の匂い。


ロウは石から手を離した。


「この場所を封鎖しろ」


「ここを?」


「排水溝だけじゃない。壁の周囲もだ。誰も近づけるな。調べるまでは触らせるな」


「分かりました」


ロウは、もう一度、石壁を見た。


死体が戻ってきた場所。


血の匂いがする壁。


そして、誰も知らない、細長い跡。


事件は、門の外から来たものではないのかもしれない。


砦の内部に、まだ誰も把握していない空間がある。


その可能性が、彼の頭の中で形を取り始めていた。


4 空席の寝台

ベルンの寝台は、兵舎の北棟、三列目の下段にあった。


軍隊の寝台は、どこも似たようなものだ。


木枠。薄い藁布団。毛布一枚。足元に置かれた小さな箱。私物をしまうための狭い棚。


違いがあるとすれば、そこに暮らす人間の癖が染みついていることくらいだった。


ベルンの寝台には、枕の下に丸めた布が挟まれていた。毛布の端は几帳面に折られているが、足元だけは雑に乱れている。箱の上には、飲みかけの水筒と、刃こぼれした小刀。


それから、木箱の側面に小さく刻まれた文字。


――エルナ。


おそらく、妻の名前だろう。


セラは、その文字を指でなぞった。


「……家族思いだったのね」


「そうなのか?」


背後から声がした。


振り返ると、ロウが入口に立っていた。


「少なくとも、名前を彫るくらいには」


「兵士は、故郷の人間を忘れないために物へ名前を刻むことがある。だが、忘れたくない相手がいることと、家族思いであることは別だ」


セラは目を細めた。


「あなた、死んだ人間に対してずいぶん厳しいのね」


「死んだ人間に優しくするのは簡単だ。もう反論してこないからな」


ロウは寝台の前にしゃがんだ。


「生きている人間を理解する方が難しい」


セラはしばらく彼を見ていたが、やがて調査の結果を伝えた。


「寝台は昨夜、使われています。ただし、いつ使われたかまでは分かりません。毛布には体温が残っていませんし、寝台の下に新しい足跡もありません」


「箱は?」


「中身は一通り確認しました。衣類、手紙、古い硬貨、針と糸。特に不審なものはありません」


「手紙を見せてくれ」


セラは小箱から折り畳まれた紙を取り出した。


紙は何度も開閉されたため、折り目が白くなっている。


ロウは受け取り、内容を確かめた。


短い手紙だった。


故郷にいる妻からのものらしい。冬が近づいていること。家の屋根を修理しなければならないこと。妹が町の仕立屋で働き始めたこと。そして、次の休暇には帰ってきてほしいという願い。


最後には、こう書かれていた。


『あなたが帰ってきたら、もう兵隊なんか辞めてしまえばいいのに。私は、あなたが英雄になるより、ただ生きて帰ってきてくれる方が嬉しい』


ロウは紙を折り畳んだ。


「……いい手紙だな」


「ええ」


「いつ届いた?」


「封筒はありませんでした。手紙の末尾には、二週間前の日付があります」


「それ以前の手紙は?」


「ありませんでした」


ロウは木箱を調べた。


硬貨。


糸。


針。


小刀。


それから、箱の底に敷かれた古い布。


彼は布を持ち上げた。


その下に、薄い木片があった。


長さは手のひらほど。


片面には、細かな傷がいくつもついている。何かを削った跡のようにも見える。


「セラ、これは何だと思う?」


「……何かの部品でしょうか」


「そう見えるな」


ロウは木片を傾けた。


側面に、小さな金属片が埋め込まれていた。錆びているが、端には規則的な刻みがある。


鍵の一部。


あるいは、錠前の内部に使われる部品。


ロウは、砦の鍵を扱った経験があった。


王都の近衛時代、王族の居住区には特殊な錠前が使われていた。鍵を差し込んだだけでは開かないもの。決められた順番で内部の歯車を動かさなければ、閂が外れないもの。


この木片は、それに似ていた。


「オスカーを呼んでくれ」


「記録係を?」


「砦の鍵と、修理記録を調べてもらう。これが何の部品なのか、分かるかもしれない」


セラは頷き、兵士に指示を出した。


ロウはその間に、寝台の周囲を調べ続けた。


床板。


壁。


棚の裏。


毛布の縫い目。


そして、寝台の下。


そこに、何かが落ちていた。


黒い糸だった。


細く、短い。


ロウは手袋をはめたまま拾い上げた。


先ほどミラが見せた、ベルンの爪の間に残っていた黒い繊維。


よく似ている。


だが、同じものだと断定するには早い。


ロウは糸を紙に包み、懐へしまった。


「セラ」


「はい」


「ベルンは、昨夜、ここで寝ていたと思うか?」


「分かりません。ただ、寝台の状態を見る限り、長時間眠っていたようには見えません」


「そうだな」


ロウは寝台の枕を持ち上げた。


枕の下に挟まれた布。


それは、細長く折り畳まれた古い制服の袖だった。


ベルンのものではない。


袖口の形状が違う。布地も厚い。王国軍の一般兵が支給される制服ではなく、もう少し上級の階級章を取り付けるための縫い目が残っている。


そして、袖口の内側には、何かを剥がした跡があった。


階級章を縫いつけていた部分だ。


ロウは、しばらくその布を見つめた。


「セラ。ベルンは、ここに何を隠していた?」


「……分かりません」


「誰かの制服だ。少なくとも、ベルン自身のものではない」


セラの表情が引き締まった。


「砦の兵士のものですか?」


「その可能性が高い」


「誰のものか、調べます」


「頼む」


ロウは袖を畳み直した。


その時だった。


兵舎の入口から、慌ただしい足音が聞こえた。


「隊長!」


若い兵士が駆け込んできた。


「どうした?」


「記録室で問題が!」


「何があった?」


「巡回記録が……一部、なくなっています!」


ロウは顔を上げた。


「どの記録だ?」


「昨夜の分です! ベルンの巡回記録だけじゃありません。先週分の記録も、何枚か抜き取られています!」


セラが立ち上がった。


「記録室は封鎖したはずよ!」


「はい! ですが、封鎖する前に記録室へ出入りした者が何人かいて……その中に、昨夜の警備担当者もいました!」


ロウはゆっくりと息を吐いた。


犯人が記録を消そうとしている。


それは、何を意味するのか。


単に、自分の足跡を隠すためか。


それとも、記録に残っている何かを、誰かに知られたくないのか。


「誰が、最後に記録室へ入った?」


兵士は答えた。


「オスカー記録係です。ただし、彼が入った時には、すでに記録の一部がなくなっていたそうです」


「オスカーは今どこだ?」


「司令室にいます!」


ロウは寝台から離れた。


「セラ、ここを封鎖しろ。誰も入れるな。俺が戻るまで、制服も木片も動かすな」


「分かったわ」


ロウは兵舎を出た。


その足取りは、先ほどまでよりも速かった。


死体が見つかった。


巡回記録が改竄されている。


そして、ベルンの寝台には、別人の制服と、錠前の部品らしきものが隠されていた。


ばらばらだった証拠が、少しずつ繋がり始めている。


だが、繋がり始めた証拠ほど、危険なものはない。


人間は、自分が理解できないものよりも、自分が理解したつもりになったものを、しばしば恐れる。


ロウはそれを、王都で学んでいた。


だからこそ、彼は急いだ。


犯人が次に何をするか、まだ分からない。


だが、ひとつだけ確かなことがあった。


今、この砦のどこかで、誰かがロウよりも先に、真実へたどり着こうとしている。


そして、その誰かは、真実を知られるくらいなら、もう一人くらい殺すことをためらわないかもしれなかった。


5 消えた記録

記録室の扉には、封鎖のための木札が掛けられていた。


札は割られていない。


封蝋も残っている。


だが、扉の向こうでは、オスカーが机の上に大量の書類を広げていた。


彼はロウの姿を見るなり、立ち上がった。


「隊長。申し訳ありません。私がもっと早く気づいていれば……」


「謝罪は後でいい。なくなった記録を教えてくれ」


「昨夜の巡回記録が三枚。それから、先週の夜間警備記録が四枚。さらに、半年前の補修記録が一枚です」


「半年前の補修記録?」


ロウは、その言葉を繰り返した。


「何の補修だ?」


「東側の排水溝と、北側通路の壁面です。古い石壁の亀裂を修繕した記録だと思います」


ロウの脳裏に、排水溝の脇にあった石壁が浮かんだ。


湿った石。


血の匂い。


細長い跡。


「補修を担当したのは?」


「工兵隊です。ただ、作業の詳細は残っていません。費用と資材の記録だけです」


「作業員の名簿は?」


「別の帳簿にあるはずです」


「持ってきてくれ」


オスカーは棚へ向かい、古い帳簿を引き出した。


紙は黄ばんでいた。


半年前。


黒門砦に前任の守備隊長がいた頃。


作業員の名簿には、兵士と工兵の名前が並んでいた。


その中に、ベルン・ハルトの名前があった。


ロウは指を止めた。


「ベルンは工兵ではないな?」


「はい。通常は歩兵です」


「なぜ、補修作業に参加している?」


オスカーは記録を確認した。


「臨時の人員補充でしょう。砦の補修では、警備兵が資材の運搬を手伝うこともあります」


「他に、警備兵で参加した者は?」


「……セラ・ヴォス。ハロルド・ケイン。それから、当時の補給担当が二人」


ロウは名前を紙に書き写した。


セラ。


ハロルド。


ベルン。


この三人が、半年前の東側排水溝の補修に関わっていた。


偶然だろうか。


まだ、分からない。


「補修の内容は、どこまで記録されている?」


オスカーは帳簿をめくった。


「東側排水溝の詰まりを解消。石壁の亀裂を修繕。鉄格子の交換。以上です」


「鉄格子を交換した?」


「はい。古い格子が腐食していたため、新しいものに交換したとあります」


「古い格子は、どこへ?」


オスカーは黙った。


記録を見直す。


「……記載がありません」


「廃棄したのか?」


「通常なら、廃棄処分の記録が残るはずです」


ロウは帳簿を閉じた。


「その記録も、なくなった一枚に含まれている可能性があるな」


「はい……」


「オスカー。お前は、この砦の記録をどれくらい信用している?」


質問の意味が分からなかったのだろう。


オスカーは眼鏡を押し上げた。


「記録は、事実を残すためにあります。もちろん、記載漏れや誤記はありますが、基本的には……」


「基本的には?」


「……正確であるべきです」


「その通りだ」


ロウは頷いた。


「だが、記録を作るのは人間だ。人間は間違えるし、忘れるし、嘘をつく。だから、記録そのものを信じるんじゃない。記録と、現場と、人間の証言が一致するかどうかを確かめる」


オスカーは静かに聞いていた。


「この砦には、半年前に補修されたはずの排水溝がある。だが、その補修記録の一部が消えた。ベルンの署名には不自然なものがある。そして、ベルンの寝台からは錠前の部品らしきものが見つかった」


ロウは机の上に、先ほどの情報を書き並べた。


「これらが全部、無関係だと考えることもできる。だが、今は無関係だと決めつける理由もない」


彼はオスカーを見た。


「お前に頼みたいことがある」


「何でしょう」


「消えた記録の内容を、可能な限り復元してくれ。控えが残っていないか、資材の出納帳に同じ情報がないか、前任者の記録に写しがないか。どこかに、必ず痕跡があるはずだ」


「承知しました」


「それと、今後は記録室への出入りを一人ずつ記録する。鍵は俺とセラ、それからお前だけが持つ。合鍵があるなら、全部提出させろ」


オスカーは頷いた。


だが、ロウが扉へ向かおうとした時、彼はふと思い出したように口を開いた。


「隊長。ひとつだけ、妙なことがあります」


「何だ?」


「昨夜の記録が消えたのは、ベルンの巡回記録だけではありません。先週の記録も、同じ巡回区画のものが抜き取られています」


「同じ区画?」


「はい。北側通路と、東側排水溝付近です」


ロウは足を止めた。


「つまり、犯人はベルンが消えた夜だけでなく、それ以前の巡回記録も隠したがっている」


「そう考えられます」


「なら、事件は昨夜始まったわけじゃない」


ロウは振り返った。


「この砦では、少なくとも一週間前から何かが起きていたんだ」


その時、記録室の外から、鐘の音が聞こえた。


昼の鐘。


兵士たちが食堂へ向かう時刻だった。


いつもなら、食堂からは皿の音と、兵士たちの雑談が聞こえてくる。


だが、その日は違った。


鐘が鳴り終わる前に、砦の中庭から悲鳴が上がった。


ロウは扉を開けた。


「今度は何だ!」


走ってきた兵士が、息を切らして答えた。


「隊長! 武器庫で……!」


「武器庫で?」


「人が倒れています!」


ロウの顔から、表情が消えた。


「生きているのか?」


兵士は、一瞬だけ躊躇した。


その躊躇が、答えだった。


「……分かりません」


ロウは走り出した。


6 武器庫の死体

武器庫の扉は、開いていた。


普段なら、武器庫は二重に施錠されている。外側の扉には通常の錠前、内側には軍の管理者しか開けられない閂がある。


武器庫の鍵を持っているのは、武器管理係と守備隊長だけ。


もちろん、例外はある。


緊急時には、複数の将校が立ち会うことで扉を破ることが認められている。


だが、今は緊急事態ではなかった。


少なくとも、ロウが聞いた限りでは。


「誰が扉を開けた?」


彼は、入口に集まった兵士たちに尋ねた。


「分かりません。昼の鐘が鳴った後、武器管理係が中を確認しようとしたところ、扉が開いていたそうです」


「武器管理係は?」


「中にいます」


ロウは剣の柄に手を置き、慎重に中へ入った。


武器庫には、槍、剣、弓、矢筒、盾、予備の鎧が並んでいた。


壁際には、魔物との戦闘に使う銀の刃物や、特殊な拘束具も保管されている。


そして、中央の通路に、一人の男が倒れていた。


武器管理係の副官。


ダン・ビール。


四十歳前後。屈強な体格。無愛想で、仕事に厳しい男だった。


彼は仰向けに倒れ、片手を胸に置いていた。


胸当ては着けていない。


制服の胸元が、黒く濡れている。


ロウは周囲を確認した。


血の匂い。


だが、ベルンの死体を見た時と同じく、血臭が薄い。


「誰も入るな」


彼は兵士たちを制止した。


「ミラを呼べ。セラもだ。武器庫の鍵を持っている者は全員、ここへ集めろ」


「隊長!」


武器管理係が、奥から出てきた。


中年の男で、顔面蒼白になっている。


「私は何もしていません! 昼の鐘が鳴ったので、武器の数を確認しようとして、それで……」


「名前は?」


「ガレス・ノルンです。武器管理係を務めています」


「いつ扉が開いていることに気づいた?」


「ほんの少し前です。食堂へ行く前に、在庫の確認をしようとしたんです。鍵を差し込む前から、扉が開いていました」


「普段、最後に扉を閉めるのは誰だ?」


「私です。昨夜も、就寝前に確認しました」


「その時、鍵は掛かっていた?」


「はい。確かに」


「鍵を閉めた後、誰かが開けた可能性は?」


「それは……」


ガレスは口を閉じた。


ロウは彼の手を見た。


右手の指先に、黒い汚れが付いている。


煤のようなもの。


あるいは、乾いた泥。


「その手はどうした?」


ガレスは自分の手を見下ろした。


「え?」


「指先が汚れている」


「武器の手入れをしていたので……」


「いつ?」


「今朝です」


「どの武器を?」


「剣です。錆が出ているものがあったので、油を塗りました」


ロウはガレスの目を見た。


「その剣はどこだ?」


「……ここにはありません」


「なぜ?」


「油を塗った後、所定の場所へ戻しました」


「その剣を見せてくれ」


ガレスは、返事をしなかった。


ロウは声を強めた。


「ガレス。剣を見せろ」


「……分かりました」


彼は武器庫の奥へ向かった。


ロウはその背中を見送った。


歩き方が不自然だった。


右足を庇っている。


怪我か。


それとも、何かを隠しているのか。


ロウが考えている間に、セラが到着した。


「状況は?」


「武器管理係のダン・ビールが倒れている。死因はまだ分からない。武器庫の扉は開いていた。鍵を持つ者を全員集めてくれ」


「分かったわ」


「それと、武器の数を確認してくれ。特に、銀の刃物と拘束具。何かがなくなっているかもしれない」


セラは兵士に指示を出した。


その直後、ミラが到着した。


彼女は死体のそばに膝をつき、胸元を確認した。


「……これは」


「何か分かったか?」


「胸に傷があります。ですが、出血が少なすぎます」


「ベルンと同じか?」


「似ています。ただし、傷の位置が違う。ベルンは首、こちらは胸です」


ミラは衣服を慎重に開いた。


胸の中央に、小さな穴があった。


まるで、細い針を深く突き刺したような傷。


周囲の皮膚には、わずかな黒ずみが広がっている。


「毒か?」


「可能性があります。ただ、これほど小さな傷で命を奪うには、心臓か大きな血管に達している必要があります」


「達しているのか?」


「今のところ、そう見えます」


ミラはダンの手を取った。


指は硬くなり始めていた。


「死亡時刻は、昼の鐘より前でしょう。おそらく、かなり短時間で亡くなっています」


ロウは武器庫を見回した。


「ベルンの死体と、同じ犯人だと思うか?」


「まだ分かりません」


ミラは首を振った。


「傷の形状は違います。ですが、血液の状態には共通点があるように見えます」


「共通点?」


「通常の出血よりも、血液が少ない。傷の周囲に、黒い変色がある。もし同じ毒物が使われているなら、犯人は同じ手段を使い分けているのかもしれません」


ロウは死体を見つめた。


ベルンは首を傷つけられた。


ダンは胸を刺された。


殺し方は違う。


だが、血の状態は似ている。


犯人が同じなら、なぜ殺し方を変えたのか。


ベルンの死体は、発見されるように排水溝へ置かれた。


ダンの死体は、武器庫の中央に放置されている。


こちらも、隠すつもりはないらしい。


むしろ、見つけさせたかったのかもしれない。


ロウは、ダンの右手を見た。


指先に、何かが握られている。


小さな紙片だった。


ロウはミラに目配せした。


彼女が頷き、ピンセットを使って紙片を取り出す。


そこには、乱れた文字で、短い言葉が書かれていた。


『三つ目を開けるな』


セラが息を呑んだ。


「三つ目……?」


ロウは紙片を受け取った。


文字は震えている。


ダンが書いたものなのか。


犯人が残したものなのか。


それとも、誰かを脅すために用意されたものなのか。


「武器庫の中を調べろ」


ロウは言った。


「壁、床、棚の裏。隠し扉がないか、全部確認しろ」


セラが眉を寄せた。


「隠し扉?」


「半年前の補修記録が消えている。東側排水溝には、妙な痕跡がある。そして、今度は武器庫で『三つ目を開けるな』という紙が見つかった」


ロウは、紙片を握り締めた。


「これは、単なる殺人事件じゃない。誰かが、砦の中にある何かを探している」


彼はダンの死体を見下ろした。


「そして、そいつは、それを見つけるために人を殺している」


その瞬間。


武器庫の奥で、金属音が鳴った。


全員が振り向いた。


棚の向こう側。


何かが、床を引っかくような音。


そして、低い、湿った呼吸音。


ロウは剣を抜いた。


「全員、下がれ!」


棚の隙間から、黒いものが動いた。


人間の腕に似ていた。


だが、関節の曲がる向きがおかしい。


指が長すぎる。


爪は、黒い殻のように硬質だった。


それは棚の影から姿を現すと、ロウを見た。


目があった。


ひとつではない。


顔の側面に、複数の小さな眼が並んでいた。


魔物。


間違いなく、魔物だった。


兵士の一人が叫んだ。


「魔物だあああっ!」


魔物は、その声に反応した。


次の瞬間、棚を蹴って跳び上がった。


速い。


人間の動きではない。


ロウは一歩踏み込み、剣を横薙ぎに振るった。


刃が、魔物の腕を捉える。


硬い感触。


火花が散った。


魔物は甲高い声を上げ、壁を蹴って反対側へ跳んだ。


「弓を構えろ! 扉を塞げ! 逃がすな!」


セラの命令が飛ぶ。


だが、魔物は逃げなかった。


棚の上に張りつき、複数の眼で、兵士たちを見比べている。


その視線が、一人の兵士に止まった。


ハロルド・ケイン。


昨夜、ベルンを見たと証言した男。


魔物は、彼に向かって首を傾げた。


そして。


人間の声で、こう言った。


「……ベルン?」


ハロルドの顔から、血の気が引いた。


魔物は、もう一度言った。


今度は、ベルンの声だった。


「おい、ハロルド。どうして、俺を見捨てた?」


7 魔物は誰の声で鳴く

誰も動けなかった。


魔物の口から発せられた声は、ベルンのものだった。


間違えようがない。


聞き覚えのある声。


兵舎で愚痴を言い、食堂で笑い、夜番の交代で同僚に声をかける、あの男の声。


だが、その声を出しているものは、ベルンではない。


黒い外殻。


長い指。


不自然な関節。


顔の側面に並ぶ小さな眼。


魔物は棚の上で身を縮めた。


「……どうして、俺を見捨てた?」


ハロルドが震えた。


「違う……」


魔物は、彼の声を真似た。


「俺は見たんだ。お前が、扉を開けるところを」


ハロルドは後ずさった。


「違う! 俺は何もしていない!」


「お前が、鍵を渡した」


「やめろ!」


「お前が、俺を――」


「黙れ!」


ハロルドが叫び、剣を抜いた。


その瞬間、ロウは理解した。


この魔物は、ただ声を真似ているのではない。


ハロルドの反応を見ている。


何を言えば、どんな反応をするのか。


どの言葉で、相手が怯えるのか。


それを確かめている。


「ハロルド! 剣を下ろせ!」


ロウの声は届かなかった。


ハロルドは魔物へ向かって踏み込んだ。


魔物は棚から飛び降りる。


剣が空を切った。


魔物の長い腕が、ハロルドの肩を掴んだ。


硬い爪が、制服を裂く。


「ぐあっ!」


ロウは横から剣を突き出した。


刃が魔物の脇腹を捉える。


今度は、硬い外殻を抜けた。


黒い液体が飛び散る。


魔物は甲高い悲鳴を上げ、ハロルドを放した。


「今だ!」


セラの号令と同時に、二人の兵士が槍を突き出す。


魔物は身体をひねり、槍を避けた。


だが、その動きには一瞬の遅れがあった。


傷のせいだ。


ロウは踏み込んだ。


剣を上段から振り下ろす。


魔物は腕を交差させ、刃を受け止めた。


金属音。


火花。


ロウは力を込めた。


人間の腕なら、折れていたはずだ。


だが、魔物の外殻は刃を受け止めている。


「……硬いな」


ロウが呟いた瞬間、魔物のもう一本の腕が伸びた。


爪が、彼の頬をかすめる。


熱い痛み。


皮膚が裂けた。


血が一筋、頬を伝った。


兵士たちが息を呑む。


ロウは後退しなかった。


むしろ、魔物の懐へ踏み込んだ。


長い腕は、近距離では扱いにくい。


人間と同じ関節の動きではないが、力を発揮するためには、ある程度の空間が必要だ。


ロウはその隙間を見つけた。


剣を返し、魔物の脇腹の傷へ刃を押し込む。


魔物が身をよじった。


黒い液体が噴き出す。


今度は、はっきりと悲鳴を上げた。


ロウは剣を引き抜き、足払いをかけた。


魔物の身体が崩れる。


その首元へ、セラの槍が突き込まれた。


刃が外殻の隙間を貫く。


魔物は床へ倒れた。


それでも、すぐには動きを止めなかった。


長い指が床を掻く。


複数の眼が、ばらばらに動く。


口が開いた。


「……ロウ」


今度は、ロウ自身の声だった。


自分の声。


自分が言った覚えのない言葉。


「……お前は、どちら側だ?」


ロウは動きを止めた。


ほんの一瞬。


その隙を、魔物は逃さなかった。


身体を捻り、床を這うようにして棚の下へ潜り込む。


「逃がすな!」


セラが叫ぶ。


兵士たちが槍を突き出した。


だが、魔物は棚の裏へ消えた。


次の瞬間、武器庫の奥で木が割れる音がした。


ロウは走った。


棚の裏には、壁がある。


本来なら、そこから先へ進めるはずがない。


だが、壁の下部に、人間一人が通れるほどの隙間が開いていた。


石壁の一部が、内側から押し開かれている。


その奥には、暗い通路が続いていた。


「……こんな場所が」


セラが呟いた。


ロウは、通路の奥を見た。


暗闇の向こうから、冷たい風が吹いてくる。


湿った土の匂い。


古い鉄の匂い。


そして、血の匂い。


排水溝で嗅いだものと同じだった。


「灯りを持ってこい。槍と盾を用意しろ。負傷者は?」


「ハロルドが肩を負傷しています。ほかに軽傷が二名!」


「ミラ、負傷者を頼む。魔物の死体も調べてくれ。まだ生きている可能性がある。触る時は慎重にな」


「分かりました」


ロウは、通路の入口に立った。


その時、背後からハロルドの声がした。


「隊長……」


ロウは振り返った。


ハロルドは壁に寄りかかり、肩を押さえていた。


顔は青ざめている。


だが、彼が怯えているのは、魔物に襲われたことだけではなさそうだった。


「何だ?」


ハロルドは、唇を震わせた。


「……あいつは、俺の声も真似ました」


「そうだな」


「でも、ベルンの声で言ったことは……」


彼は言葉を切った。


ロウは、じっと彼を見た。


「何だ?」


「俺しか知らないことです」


武器庫の空気が、再び凍った。


ハロルドは続けた。


「ベルンと俺は、半年前……あの排水溝の補修作業に参加しました」


「知っている」


「その時、俺たちは……」


彼は周囲を見た。


兵士たちが聞いている。


セラも、オスカーも、武器管理係のガレスも。


ハロルドは一度、目を閉じた。


「……隊長。二人きりで話をさせてください」


ロウは、彼の顔を見つめた。


「分かった」


そして、通路の奥をもう一度見た。


魔物は逃げた。


だが、ロウには分かっていた。


あれは、単なる侵入者ではない。


砦の構造を知っている。


兵士たちの声を知っている。


そして、誰かの罪を知っている。


問題は、魔物がどこまで知っているのかではなかった。


誰が、魔物にそれを教えたのか。


8 半年前の夜

ハロルドは、武器庫の隣にある小さな倉庫で、ロウと向き合った。


倉庫には木箱が積まれ、壁には古い工具が掛けられていた。窓はない。扉の隙間から、廊下の灯りが細く差し込んでいる。


ロウは扉を閉めた。


「話せ」


ハロルドは、肩の傷を押さえながら椅子に座った。


「半年前、排水溝の補修作業があったのは、知っていますよね」


「ああ」


「その時、俺とベルンは、東側の壁の近くで作業をしていました。古い格子を外して、新しいものに交換するためです」


「記録には、そうある」


「でも、記録にないことがあります」


ハロルドは、しばらく黙っていた。


「……壁の奥に、空間があったんです」


ロウは表情を変えなかった。


「どれくらいの大きさだ?」


「最初は、ほんの隙間でした。石が一つ、外れかけていたんです。補修のために石を動かしたら、その奥が空洞になっていた」


「誰が気づいた?」


「ベルンです。彼が、壁の中から風が吹いてくると言い出した。俺は信じませんでした。でも、手を近づけたら、本当に風があった」


「それで?」


「俺たちは、上官に報告しました」


「誰に?」


ハロルドは、目を伏せた。


「当時の補修責任者です。名前は……」


彼は、言い淀んだ。


「今も、この砦にいるのか?」


「……はい」


ロウは、続きを促さなかった。


沈黙の中で、ハロルドはやがて口を開いた。


「補修責任者は、壁の隙間を見て、俺たちに口止めしました。『古い石組みの空洞だ。崩落の危険があるから、勝手に触るな』と。それから、工兵隊に命じて、隙間を塞がせたんです」


「報告書には?」


「書かれていません」


「なぜ黙っていた?」


ハロルドは顔を上げた。


「命令だったからです」


その答えは、あまりにもありふれていた。


そして、あまりにも危険だった。


「ベルンも、同じ理由で黙っていたのか?」


「最初は、そうでした。ですが、作業が終わった後、ベルンは気にしていました。壁の奥から、何か音がしたと言っていたんです」


「何の音だ?」


「分かりません。金属が擦れるような音。あるいは、誰かが歩いているような音だったと」


「それを、誰かに話したのか?」


「俺にだけです」


「それから?」


ハロルドは、両手を握り締めた。


「二週間前、ベルンが俺に相談してきました」


「何を?」


「東側の排水溝で、何かを見たと言うんです」


「何を見た?」


「人影です。壁の向こうから、誰かが出てきたと」


ロウは、身を乗り出した。


「人間か?」


「分かりません。ベルンは、人間に見えたと言っていました。でも、動き方がおかしかったと。壁の隙間から、身体を折り畳むようにして出てきたそうです」


「それを見たのは、いつだ?」


「夜間巡回中です。先週のことだったと思います」


ロウは、オスカーの言葉を思い出した。


先週の夜間警備記録。


北側通路と東側排水溝付近の記録が、抜き取られていた。


「ベルンは、そのことを誰かに報告したのか?」


「分かりません。俺は、報告しろと言いました。ですが、ベルンは……」


「何と言った?」


ハロルドは、唇を噛んだ。


「『あれは人間じゃない。だが、魔物とも限らない』と」


ロウは黙って聞いていた。


「俺は、疲れて幻を見たんだろうと言いました。魔物の森が近いから、気が張っているんだろうと。そう言って、まともに取り合わなかった」


「それで、今朝、ベルンの死体が見つかった」


「……はい」


ハロルドの声が、かすれた。


「俺が、ちゃんと話を聞いていれば……」


「お前がベルンを殺したのか?」


「違います!」


ハロルドは即座に否定した。


「俺は殺していません! あいつが死ぬなんて、思ってもいなかった!」


ロウは、彼を見つめた。


嘘をついている可能性はある。


だが、今の反応だけで判断することはできない。


恐怖を覚えている者は、真実を話していても似たような反応をする。


「ハロルド」


「……はい」


「半年前、壁の空洞を見つけた時、お前たちは本当に、補修責任者にだけ報告したのか?」


ハロルドは顔を上げた。


「どういう意味です?」


「ほかに誰かいたんじゃないか?」


「……」


「その場にいた人間を、全員思い出せ」


ハロルドは目を閉じた。


記憶を探るように、眉間に皺を寄せる。


「俺と、ベルン。補修責任者。それから工兵が二人……」


「名前は?」


「一人は、もう砦にいません。もう一人は……」


彼は言葉を切った。


「誰だ?」


「……ガレス・ノルンです」


武器管理係。


先ほど、武器庫で発見されたダン・ビールの第一発見者。


そして、今朝、武器の手入れをしていたと話した男。


ロウは、ゆっくりと立ち上がった。


「ハロルド。今の話は、まだ誰にもするな」


「ですが……」


「お前が真実を話しているなら、黙っていたことも含めて、後で責任を問う。だが、今は事件を解決することが先だ」


彼は扉に手をかけた。


「それから、ひとつ聞く」


「何でしょう」


「さっきの魔物は、ベルンの声で、お前にこう言った。『どうして、俺を見捨てた』と」


ハロルドの顔が強張った。


「はい……」


「お前は、何を見捨てた?」


ハロルドは答えなかった。


その沈黙が、今までのどの証言よりも雄弁だった。


ロウは扉を開けた。


「答えは、後で聞く」


廊下へ出る直前、彼は振り返った。


「だが、覚えておけ。魔物が人間の声を真似られるなら、俺たちが聞いた言葉は証拠にならない。お前が聞いたベルンの声も、ベルン本人の言葉とは限らない」


ハロルドは、顔を上げた。


「……どういうことです?」


「魔物が、お前を動揺させるために、何かを言った可能性があるということだ」


ロウは、廊下の向こうを見た。


「真実を知っているから、真実を語ったとは限らない。嘘をつくために、真実を使うことだってできる」


彼は扉を閉めた。


ハロルドは、一人残された倉庫の中で、震える手を見つめていた。


その手には、血が付いていた。


魔物のものではない。


彼自身の傷から流れた血でもない。


半年前。


壁の奥に何かを見つけた夜。


彼が、誰にも言わなかったものの血だった。


9 鍵を持つ者

武器庫にいた魔物は、死んでいなかった。


ミラが確認した時には、すでに動きを止めていたが、首の付け根に近い部分がかすかに脈打っていたという。


兵士たちは、念のために魔物を拘束した。


手足を鉄鎖で固定し、口元を金属製の拘束具で覆い、武器庫とは別の石造りの部屋へ運び込む。部屋はかつて、感染症の疑いがある兵士を隔離するために使われていた場所だった。


窓はない。


扉は厚い。


壁の四隅には、鉄環が埋め込まれている。


生きた魔物を閉じ込めるために作られた部屋ではなかったが、今のところ、砦の中で最も頑丈な場所だった。


ロウは、部屋の外に立つ兵士へ命じた。


「交代で見張れ。一人では立つな。必ず二人で組め。中から声が聞こえても、返事をするな」


「声が?」


「さっきの魔物は、人間の声を真似た。何を言われても、扉を開けるな。俺かセラの命令があっても、本人だと確認できるまでは開けるな」


兵士は緊張した面持ちで頷いた。


「確認とは、どうすれば?」


「合言葉を決める」


ロウは周囲を見た。


「今から俺とセラだけが知る言葉を決める。誰かが扉を開けろと言ったら、その言葉を聞け。間違えたら、開けるな」


「分かりました」


「それから、見張りの交代時刻を紙に書け。口頭だけで済ませるな。交代する時は、前の見張りがその場にいることを確認してからだ」


ロウは一度、言葉を切った。


「前の見張りがいない場合は、交代しようとするな。警報を鳴らせ」


「了解しました!」


兵士が背筋を伸ばす。


ロウはその顔を見て、付け加えた。


「怖いのは分かる。だが、怖い時ほど、手順を守れ。勇気を出して扉を開ける必要はない。扉を開けないことが、お前の仕事だ」


兵士は今度こそ、はっきりと頷いた。


ロウは廊下へ戻った。


セラが待っていた。


「武器庫の調査結果よ」


彼女は手元の紙を差し出した。


「銀の刃物が一本、なくなっている。ほかの武器は、数が合っているわ。拘束具は全部ある。けれど、鍵の記録に問題があった」


「どういう問題だ?」


「武器庫の鍵は、管理係のガレスと守備隊長が持っている。ところが、予備鍵の存在が記録されていないの」


「予備鍵はないのか?」


「ガレスは、ないと言っているわ。でも、錠前の修理記録には、予備鍵を二本作ったと書いてある」


ロウは紙を受け取った。


記録の日付は、四か月前。


作成者は、当時の工兵隊。


「一本は、管理係に渡された。もう一本は?」


「受領者の欄が空白よ」


「その記録も、消えていないのか?」


「残っていたわ。記録の一部は抜き取られているけれど、全部ではない。犯人が何を消したいのか、まだ分からない」


ロウは紙を折り畳んだ。


「鍵を持つ者を全員集めろ」


「もう集めてある。ガレス、武器庫の補助管理係、それから私とあなた。あとは前任の守備隊長だけれど、王都へ戻っているわ」


「予備鍵の受領者が空欄なら、鍵を持っている者は、その四人に限らない」


「そういうことね」


「ガレスは今どこだ?」


「武器庫の外で待機させているわ」


「連れてきてくれ」


セラは頷き、兵士に合図した。


ほどなくして、ガレスが部屋へ入ってきた。


武器管理係の制服は、整っていた。


襟元の留め具も、腰の帯も、規定通り。


ただ、右足を庇う歩き方だけは、隠せていなかった。


「座れ」


ロウが言うと、ガレスは椅子に腰を下ろした。


「ガレス。四か月前、武器庫の予備鍵を作った記録がある」


「……はい」


「二本作られた。一本はお前が受け取った。もう一本は、受領者が記録されていない」


「そうですか」


「お前は、もう一本がどこへ行ったか知っているか?」


ガレスは顔を上げた。


「知りません」


即答だった。


ロウは頷いた。


「分かった」


ガレスの肩から、ほんのわずかに力が抜けた。


だが、ロウは続けた。


「では、武器庫の鍵が開いていた理由を調べるために、お前の持ち物を確認させてくれ」


ガレスの顔が固まった。


「私の持ち物を?」


「ああ。鍵、工具、記録、何でもいい。事件の調査だ」


「……それは、私を疑っているということですか」


「この砦で起きた殺人事件について、鍵を管理する立場の人間に確認を求めている。それだけだ」


「私は、ダンを殺していません」


「まだ、誰もお前を犯人だとは言っていない」


ガレスは唇を引き結んだ。


ロウはセラに目を向けた。


「調べてくれ」


セラが立ち上がり、ガレスの持ち物を机に並べた。


財布。


小さなナイフ。


糸と針。


鍵束。


それから、布に包まれた工具。


どれも、武器管理係が持っていて不自然なものではなかった。


だが、鍵束の中に一本だけ、形状の違う鍵があった。


通常の武器庫の鍵より細く、歯の刻みが複雑だった。


「これは?」


セラが尋ねた。


ガレスは鍵を見つめた。


「……工具箱の鍵です」


「工具箱はどこにある?」


「武器庫の奥です」


「見せてもらうわ」


「待ってください!」


ガレスが声を上げた。


セラの手が止まった。


ロウは、ガレスを見つめた。


「どうした?」


「その鍵は、工具箱の鍵ではありません」


ガレスは、観念したように目を閉じた。


「……古い保管庫の鍵です」


「どこの保管庫だ?」


「西側の物資搬入口の近くに、昔使われていた小部屋があります。今は封鎖されているはずですが、そこにあった保管庫の鍵です」


ロウの目が細くなった。


西側の物資搬入口。


十年前の地滑りで埋まり、封鎖された場所。


東側の排水溝とは、砦の反対側だ。


「その鍵を、なぜお前が持っている?」


「以前、武器の保管場所を整理した時に、見つけたんです。捨てるわけにもいかず、預かっていました」


「報告は?」


「……していません」


「なぜ?」


ガレスは、答えなかった。


ロウは椅子から立ち上がった。


「ガレス。お前は今、殺人事件の捜査中に、封鎖区域の鍵を隠し持っていたことが分かった。しかも、半年前の排水溝補修にも関わっている」


「私は何もしていません!」


「なら、説明してくれ」


ガレスは震える手を握り締めた。


「……私は、あの場所を開けていません」


「誰も、開けたかどうかは聞いていない」


ロウは静かに言った。


「なぜ、その鍵を隠していた?」


ガレスの喉が動いた。


彼はセラを見た。


次に、ロウを見た。


そして、ようやく口を開いた。


「……あの場所には、死体があるんです」


沈黙が落ちた。


セラが息を呑む。


ロウは、微動だにしなかった。


「誰の死体だ?」


ガレスは、首を振った。


「分かりません。私は、顔を見ていない」


「いつ見た?」


「四か月前です」


ロウは、机に手を置いた。


「四か月前。武器庫の予備鍵が作られた時期と近いな」


ガレスは答えなかった。


「その死体は、何人だ?」


「……一人です」


「どんな状態だった?」


ガレスは目を伏せた。


「人間のように見えました。でも……」


「でも?」


「胸が、ありませんでした」


ロウの表情が変わった。


「胸がない?」


「胸の部分が、内側からえぐられたようになっていたんです。骨も、肉も……。それなのに、血がほとんどなかった」


ベルンの死体。


ダンの死体。


血の少ない傷。


そして、黒い外殻を持つ魔物。


ロウの中で、いくつもの情報が結びつき始めた。


「その死体を、誰かに報告したか?」


「いいえ」


「なぜ黙っていた?」


ガレスは、声を絞り出した。


「……命令されたからです」


「誰に?」


ガレスは、顔を上げた。


「当時の補修責任者です」


「名前を言え」


ガレスは、唇を震わせた。


そして、ひとつの名前を口にした。


「……ヴァルター・グレイです」


ロウは、その名を知っていた。


黒門砦の補修責任者。


現在は、砦の兵站管理を担当する上級士官。


半年前の排水溝補修に立ち会い、記録の一部を作成した人物。


そして――。


「今、どこにいる?」


セラが尋ねた。


ガレスは答えた。


「……東棟です。兵站管理室にいるはずです」


ロウは、鍵を手に取った。


「セラ。兵站管理室へ行く」


「逮捕するの?」


「話を聞く」


「もし、逃げようとしたら?」


ロウは、鍵を握り締めた。


「その時は、逃がすな」


10 ヴァルター・グレイ

兵站管理室には、誰もいなかった。


机の上には、書類が積まれている。


壁には、砦の食料備蓄量と武器の消費量を記した表が掛けられていた。


窓の外では、兵士たちが荷車を押している。


一見すれば、何の変哲もない昼の光景だった。


だが、机の上の書類は、妙に整っていた。


使いかけの羽根ペン。


蓋の開いたインク瓶。


乾きかけた蝋。


そして、湯気の立つ茶杯。


つい先ほどまで、誰かがここにいた。


「逃げた?」


セラが部屋を見回した。


「まだ分からない」


ロウは机に近づいた。


茶杯に触れる。


温かい。


「外へ出たなら、そう遠くには行っていない」


彼は窓の外を見た。


兵站管理室は東棟の二階にある。


窓から外へ出ることはできない。


廊下には階段が一本。


そこを通らなければ、部屋から出られない。


「階段を見張れ。誰かが通ったか、確認するんだ」


セラは兵士に指示を出した。


ロウは机の書類を調べた。


兵站記録。


食料の出納。


武器の補充。


補修資材の購入。


どれも、通常の業務書類だった。


だが、書類の一番下に、一枚だけ、違う紙が挟まっていた。


薄い羊皮紙。


表面に、古い地図が描かれている。


黒門砦の平面図だった。


現在の設計図とは違う。


壁の位置。


排水溝の経路。


封鎖された搬入口。


そして、現在の地図には存在しない、細い通路。


ロウは、その地図を広げた。


通路は、東側排水溝から始まり、砦の地下を通って、西側の物資搬入口へと続いている。


途中には、三つの小部屋が描かれていた。


ひとつ目は、現在の武器庫の真下。


ふたつ目は、兵舎の地下。


そして、三つ目。


司令室の真下に位置していた。


地図の端には、古い文字で、短い注釈が書かれている。


『第三封門、開放厳禁』


ロウは、息を止めた。


三つ目を開けるな。


ダンの手に残されていた紙片。


そして、この地図。


偶然ではない。


「セラ」


「何?」


「この地図は、現在の設計図にはない通路を示している」


セラが覗き込んだ。


「地下通路……?」


「そうだ。東側排水溝から西側搬入口まで、砦の地下を通っている」


「そんなものがあったなんて、聞いたこともないわ」


「俺もだ」


ロウは地図を裏返した。


裏面には、別の文字があった。


『三つの封門は、互いに連動する。第一封門を開けば第二封門が閉じ、第二封門を開けば第三封門が閉じる。三つ目を開ける場合、第一と第二の封鎖を確認せよ』


セラは顔をしかめた。


「何のための仕掛けなの?」


「分からない」


「砦の防衛設備?」


「そうかもしれない。だが、これだけ古い地図にしか載っていないとなると、現在の軍が把握していない施設かもしれない」


ロウは、地図を折り畳んだ。


「ヴァルターは、これを持っていた」


「彼が地下通路を使っていたなら、魔物を砦の中へ入れることもできるわね」


「可能性はある」


「なら、やはり彼が犯人?」


「まだ決めつけるな」


ロウは窓の外を見た。


「犯人なら、わざわざ地図を机に置いたまま逃げるだろうか」


セラは黙った。


「この地図を見つけさせたかったのかもしれない。あるいは、誰かが地図を置いて、俺たちをヴァルターへ誘導したのかもしれない」


「誰が、そんなことを?」


「それを調べる」


ロウは地図を懐へしまった。


その時、廊下から足音がした。


兵士が駆け込んでくる。


「隊長! ヴァルター・グレイを見つけました!」


「どこだ?」


「西棟の階段です。地下へ降りようとしていました!」


ロウは、すぐに扉へ向かった。


「地下へ降りたのか?」


「いいえ。こちらに気づくと、走って逃げました!」


「どこへ向かった?」


「西側の物資搬入口です!」


ロウは剣を抜いた。


「追え!」


彼は階段を駆け下りた。


西側の物資搬入口。


十年前の地滑りで埋まり、封鎖されたはずの場所。


そこへ、兵站管理を担当する上級士官が向かっている。


つまり。


ヴァルターは、地下通路の存在を知っている。


そして、その通路を使おうとしている。


ロウは走りながら、胸の奥に嫌な予感を覚えていた。


彼らが見つけた地図。


ベルンの死体。


ダンの死体。


黒い外殻の魔物。


これらが、ひとつの線で繋がっているのだとしたら。


ヴァルターが逃げ込もうとしている場所には、事件の核心がある。


そして、その核心は、今も誰かを殺し続けている。


11 封鎖された搬入口

西側の物資搬入口は、砦の中でも特に古い区域だった。


石壁は厚く、天井は低い。


床には、十年前の地滑りで崩れた石材が積まれている。通路の先は、土砂と岩で塞がれているはずだった。


だが、ロウが到着した時、封鎖区域の扉は開いていた。


扉の前には、兵士が二人倒れている。


どちらも気を失っていた。


血は流れていない。


呼吸もある。


「ミラを呼べ!」


ロウは叫んだ。


「二人を医務室へ運べ! それから、誰もこの区域へ入れるな!」


セラが兵士たちを指揮する。


ロウは扉の向こうへ踏み込んだ。


内部には、崩れた石材が積まれている。


その一部が、明らかに動かされていた。


土砂の向こうに、細い隙間が開いている。


そこから、冷たい風が吹いていた。


「ヴァルター!」


ロウが叫んだ。


返事はない。


「ヴァルター・グレイ! いるなら出てこい!」


暗闇の向こうで、何かが動いた。


ロウは剣を構えた。


次の瞬間、黒い影が飛び出した。


人間だった。


ヴァルター・グレイ。


四十代後半。細身で、髪に白いものが混じっている。普段は兵站管理室で帳簿を確認している男だ。


彼はロウを見るなり、足を止めた。


「……隊長」


「どこへ行くつもりだ?」


「私は、何もしていません」


「まだ何も聞いていない」


ヴァルターは口を閉じた。


「半年前、東側排水溝の補修を担当したな」


「はい」


「壁の奥に空洞があることを知っていたか?」


「……知りません」


ロウは、彼を見つめた。


「ガレスは、四か月前に封鎖区域で死体を見たと言っている。その死体を隠すよう命じたのは、お前だそうだ」


ヴァルターの顔が青ざめた。


「ガレスが……?」


「否定するのか?」


ヴァルターは、首を振った。


「私は、彼に何も命じていません」


「では、なぜ逃げた?」


「逃げたのではありません。ここへ来る必要があっただけです」


「何のために?」


ヴァルターは答えなかった。


ロウは一歩近づいた。


「お前が何を隠しているのか、俺はまだ知らない。だが、ベルン・ハルトが死んだ。ダン・ビールも死んだ。武器庫には魔物が侵入していた。そして、半年前の補修記録が消えている」


彼は地図を取り出した。


「この地下通路は何だ?」


ヴァルターは地図を見た瞬間、目を見開いた。


その反応だけで、十分だった。


彼は知っている。


地図の意味も。


地下通路の存在も。


そして、第三封門のことも。


「……それを、どこで?」


「兵站管理室だ」


「誰かが、私を陥れようとしている」


「誰が?」


「分かりません!」


ヴァルターは叫んだ。


「ですが、これは危険なものです! あなたは、何も知らずに触れてはいけない!」


ロウの目が細くなった。


「何が危険なんだ?」


ヴァルターは周囲を見た。


セラたちの足音が近づいてくる。


彼は、ロウへ一歩近づいた。


「……隊長。ここでは話せません」


「なぜ?」


「地下に、何かがいるんです」


ロウは剣を構えたまま、彼を見た。


「魔物か?」


「分かりません」


「人間か?」


「……分かりません」


「お前は、何を知っている?」


ヴァルターは唇を震わせた。


「半年前、私たちは地下通路を見つけました。排水溝の補修をしていた時、石壁の奥に空間があることが分かったんです」


「それは聞いた」


「ですが、空間は、東側排水溝だけではありませんでした。砦の地下には、古い通路が張り巡らされていた。西側搬入口へ続く通路も、そのひとつです」


「なぜ、報告しなかった?」


「報告しました」


ロウは眉を動かした。


「誰に?」


「前任の守備隊長です。それから、王都にも」


「王都から、何と返答があった?」


ヴァルターは、目を伏せた。


「……調査を中止し、通路を封鎖せよ、と」


「理由は?」


「分かりません。命令書には、機密事項としか書かれていませんでした」


「それで、通路を封鎖したのか?」


「はい。ですが……」


彼は、喉を鳴らした。


「封鎖した後も、地下から音が聞こえたんです」


ロウは、暗闇の奥を見た。


「どんな音だ?」


「歩く音。金属が擦れる音。それから……」


ヴァルターの声が小さくなった。


「人間の声です」


ロウは剣を下げなかった。


「何と言っていた?」


「……名前を呼ぶんです」


「誰の?」


「地下通路に入った人間の名前を」


ヴァルターは、ロウを見た。


「ベルンも、ダンも、地下へ入ったことがあります」


その言葉に、ロウの背筋が冷えた。


「何のために?」


「ベルンは、半年前の補修作業で地下の入口を見つけた後、何度か様子を見に行ったようです。ダンは、武器庫の管理をしていたので、地下通路の一部が武器庫の真下にあることを知っていました」


「二人は、何を見た?」


「分かりません。私が知っているのは、二人が地下から戻ってきた後、ひどく怯えていたことだけです」


ロウは、ヴァルターを見つめた。


「お前は、地下へ入ったことがあるのか?」


「……一度だけ」


「何を見た?」


ヴァルターは答えなかった。


その代わり、暗闇の奥を見た。


「隊長。ここから先へ進んではいけません」


「なぜだ?」


「封門が、開いているかもしれないからです」


「第三封門か」


ヴァルターの顔が強張った。


「……その言葉を、誰から聞きました?」


「ダンの死体が握っていた紙に書かれていた」


ヴァルターは、目を閉じた。


「……遅かった」


その瞬間。


暗闇の奥から、声が聞こえた。


「ヴァルター」


低い声だった。


人間の声。


しかし、声の響きが妙に遠い。


まるで、長い管を通して聞こえてくるようだった。


ヴァルターは、顔を真っ青にした。


「……来た」


「何が来た?」


ロウが尋ねる。


ヴァルターは答えなかった。


声が、もう一度響いた。


「ヴァルター・グレイ」


今度は、はっきりと名前を呼んだ。


「扉を開けろ」


ヴァルターは後ずさった。


「違う……」


「扉を開けろ」


声は、同じ調子で繰り返した。


「第三封門を開けろ」


ロウは剣を握り直した。


地下通路の奥。


暗闇の向こう。


そこに何かがいる。


そして、それは封門を開けろと言っている。


ロウは、ヴァルターの腕を掴んだ。


「戻るぞ」


「ですが……」


「今は戻る。お前から聞くべきことが、まだ山ほどある」


彼はセラへ叫んだ。


「封鎖区域を閉じろ! 誰も地下へ入れるな!」


兵士たちが動き始めた。


だが、その瞬間。


暗闇の奥で、金属が大きく軋んだ。


重い扉が、動く音。


それから、地面を這うような振動が伝わってきた。


ロウは足を止めた。


ヴァルターが震える声で呟く。


「……第三封門が、開いてしまった」


12 第三封門

揺れは、数秒で収まった。


だが、その短い時間で、砦の空気は変わっていた。


地下から吹き上がる風に、湿った土の匂いが混じる。


それだけではない。


鉄錆。


腐った肉。


そして、何かを焦がしたような、鼻を刺す臭気。


ロウは反射的に鼻を覆った。


人間なら、ただ不快な臭いとして感じるだけかもしれない。


だが、彼の嗅覚は、それをいくつもの成分に分けて捉えていた。


古い血。


新しい血。


動物の体液。


そして、人間の汗。


地下には、長い間、何かがいた。


しかも、最近まで。


「全員、下がれ!」


ロウは命じた。


「扉が開いたなら、閉じればいいのでは?」


兵士の一人が叫んだ。


「どの扉を、どうやって閉じる?」


「それは……」


「構造も、仕組みも分からない。中に何がいるかも分からない。そんな状態で突っ込めば、こちらが閉じ込められるだけだ」


ロウはヴァルターを振り返った。


「第三封門は、どこにある?」


「……地下通路の最奥です」


「どうやって開く?」


「分かりません。私が見た時は、すでに閉じていました」


「誰が開けた?」


「分かりません!」


ヴァルターは頭を抱えた。


「私は、開けていない! 誓って、開けていません!」


ロウは、彼の顔を見た。


嘘かもしれない。


だが、彼が本当に知らない可能性もある。


「半年前、地下通路を見つけた時、第三封門は閉じていたのか?」


「はい」


「その奥を見たか?」


「見ていません」


「なぜ?」


ヴァルターは、苦しそうに答えた。


「封門の表面に、文字が刻まれていたんです。古い文字でしたが、意味は分かりました」


「何と書かれていた?」


「……『生者の名を持ち込むな』」


ロウは、黙った。


生者の名。


人間の名前。


ベルン。


ダン。


そして、今、ヴァルターの名前を呼んだ声。


「地下の声は、人間の名前を知っている」


ロウは呟いた。


「それだけではない。地下へ入った者の名前を呼ぶ」


セラが顔を上げた。


「魔物が、記憶を読むの?」


「分からない。声を真似る魔物は、さっき見た。だが、あれが名前を知っていた理由は、まだ分からない」


ロウは、暗闇の奥を見た。


「もしかすると、地下の何かは、俺たちが思っているよりも、ずっと長く砦の中にいる」


彼は兵士たちへ命じた。


「西側搬入口を封鎖しろ。東側排水溝も同様だ。地下通路に繋がる可能性のある場所を、すべて洗い出せ。壁に穴がないか、床に隠し扉がないか、排水設備に異常がないか。見つけても、勝手に開けるな」


「了解!」


「それから、武器庫の魔物を見張っている兵士を増やせ。あれが地下の何かと関係しているなら、他にも侵入している可能性がある」


ロウはセラへ目を向けた。


「セラ。ヴァルターを拘束してくれ」


「分かったわ」


ヴァルターは抵抗しなかった。


ただ、連行される直前、ロウの腕を掴んだ。


「隊長」


「何だ?」


「……ベルンとダンを殺したのは、私ではありません」


「それは、これから調べる」


「信じてください」


ロウは、彼の手を見た。


指先が震えている。


恐怖。


罪悪感。


あるいは、両方。


「ヴァルター。お前が何を隠しているのか、俺はまだ知らない。だが、ひとつだけ覚えておけ」


ロウは、彼の手を外した。


「お前が黙っていたことで、誰かが死んだのなら、その責任から逃げることはできない」


ヴァルターは、何も言わなかった。


兵士たちが彼を連れていく。


ロウは、地下通路の入口に残った。


暗闇は、何も答えない。


ただ、冷たい風だけが吹き続けていた。


そして、彼の耳に、もう一度声が届いた。


今度は、はっきりと聞こえた。


「……ロウ・テュユール」


自分の名前。


地下の奥から、自分の名前が呼ばれた。


ロウは、動かなかった。


声は続けた。


「お前の名前は、ここにある」


その言葉を聞いた瞬間、ロウの脳裏に、王都の記憶がよみがえった。


幼い頃。


誰も教えてくれなかった出生の秘密。


母親の顔を見たことがないこと。


父親について、王宮の記録に何も残っていないこと。


そして、近衛隊の指揮官に任命された後、突然、自分の血筋が問題にされたこと。


人間と人狼。


どちらの側にも完全には属さない血。


彼は、それを理由に王都を追われた。


だが、もし。


自分の名前が、ここにあるのなら。


この砦の地下に、自分の名前が記録されているのなら。


それは、何を意味するのか。


ロウは剣を握り直した。


「……お前は、誰だ?」


暗闇の奥から、返事があった。


「お前が、忘れたものだ」


その声は、今度はベルンの声でも、ダンの声でもなかった。


もっと古い。


もっと深い。


まるで、石壁そのものが言葉を発しているような声だった。


「お前が、捨てられた理由だ」


ロウは、暗闇を睨みつけた。


その瞬間、地下から風が吹き上がり、通路の入口に置かれていた松明が一斉に揺れた。


炎が、青白く変わる。


そして、暗闇の中に、一瞬だけ。


人間の顔が浮かび上がった。


ロウと、同じ顔だった。


13 死体の証言

夜になっても、黒門砦は眠らなかった。


武器庫で魔物が見つかり、兵站管理室の上級士官が拘束され、封鎖された地下通路の奥で、正体不明の声が人間の名前を呼んでいる。


そんな状況で、眠れる兵士がいるはずもなかった。


ロウは司令室に戻り、長机の上に証拠を並べた。


ベルンの巡回記録。


筆跡の違う署名。


黒い繊維。


爪の間に残っていた黒い欠片。


ダンの死体から見つかった紙片。


『三つ目を開けるな』


地下通路の古い地図。


そして、武器庫から発見された魔物の外殻の一部。


ミラは、検死の結果をまとめた報告書を差し出した。


「二人の死因について、現時点で分かっていることを整理しました」


ロウは報告書を受け取った。


「聞かせてくれ」


「まず、ベルン・ハルト。首の傷は、細い器具か、硬質の突起によって生じた可能性があります。傷口からは、黒い物質が微量に検出されました」


「魔物の体液か?」


「可能性はあります。ただし、武器庫で見つかった魔物の体液と同一かどうかは、まだ確認できていません」


「毒物の可能性は?」


「あります。ベルンの血液は、通常よりも凝固が遅く、体内に残っていた血液量も少ない。何らかの物質が、血液の働きを阻害した可能性があります」


「ダンは?」


「胸部の傷は、心臓付近に達していました。こちらも、傷口に黒い物質が残っています。血液の状態も、ベルンとよく似ています」


ロウは報告書を机に置いた。


「つまり、二人とも、同じような物質によって血液を失った可能性がある」


「はい」


「武器庫の魔物が、その物質を持っていたか?」


「まだ調査中です。ただ、魔物の外殻には、微細な溝があります。その溝に、黒い液体が付着していました」


ミラは小さな容器を取り出した。


中には、黒い液体が少量だけ入っていた。


「魔物の体内から採取したものです。血液に似ていますが、人間の血液とは違います。凝固の仕方も、色の変化も異なる」


「これが、ベルンとダンの体内に入った?」


「そう考えると、説明できる部分はあります。ただし、断定はできません」


ロウは容器を見つめた。


「魔物が、二人を殺したのか?」


「それも、まだ分かりません」


ミラは首を振った。


「傷をつけたのが魔物だとしても、実際に命を奪ったのが誰なのかは、別の問題です。魔物を利用した人間がいるかもしれない。魔物の体液を武器に塗った人間がいるかもしれない。あるいは、二人の死体に、後から魔物の痕跡を付けたのかもしれません」


ロウは、ゆっくりと頷いた。


「いい答えだ」


「答えではありません。可能性を並べただけです」


「事件を解くには、その可能性を一つずつ消していく必要がある」


彼は机の上の証拠を見た。


「ミラ。二人の死亡時刻を、もう一度比較してくれ」


「ベルンは、昨夜より前に死亡していた可能性があります。ダンは、今日の昼より前。どちらも、正確な時刻は分かりません」


「それでもいい。可能な限り、範囲を絞ってくれ」


「分かりました」


ミラは報告書を回収し、部屋を出ていった。


ロウは、証拠を並べ直した。


ベルンは、半年前の補修作業に参加していた。


その時、地下通路を発見した。


ダンも、武器庫の管理を通じて地下通路の存在を知っていた。


二人は地下へ入ったことがある。


そして、二人とも、血液を失ったような死体となって発見された。


さらに、二人の死体には、共通する黒い物質が残されていた。


これは偶然ではない。


少なくとも、二人が同じ何かに関わっていた可能性は高い。


問題は、その何かが何なのか。


そして、なぜ二人が殺されなければならなかったのか。


ロウは、ベルンの手から見つかった黒い繊維を取り出した。


それを、魔物の外殻の欠片の隣に置く。


繊維は、外殻に引っかかるように絡んでいた。


だが、繊維の端には、細い金属片が付着している。


ロウは、拡大して確認できる道具を探した。


その時、扉が開いた。


オスカーだった。


「隊長。半年前の補修記録について、分かったことがあります」


「何だ?」


「補修作業に使われた資材の中に、通常の石材とは別のものが含まれていました」


「別のもの?」


「黒い金属です。記録には『封門用金具』と書かれています」


ロウは顔を上げた。


「封門?」


「はい。通常の扉や格子に使う金具とは異なり、特定の形状に加工されたものです。補修作業の際、三組が搬入されたとあります」


「三組……」


第三封門。


三つの封門は、互いに連動する。


第一封門を開けば第二封門が閉じ、第二封門を開けば第三封門が閉じる。


そして、第三封門を開く場合、第一と第二の封鎖を確認しろ。


ロウは地図を取り出した。


「オスカー。この金具の形状は分かるか?」


「資材の図面が残っていました」


オスカーは、別の紙を差し出した。


そこには、複雑な形状の金属片が描かれていた。


長さは指ほど。


先端は鋭く、側面に細かな刻みがある。


ロウは、息を呑んだ。


ベルンの寝台から見つかった木片。


そこに埋め込まれていた金属片。


形状が、図面と一致していた。


「……これか」


オスカーが顔を上げた。


「何か、見つかったのですか?」


ロウは、木片を取り出して見せた。


「ベルンの寝台から見つかった。おそらく、封門用金具の一部だ」


オスカーは目を見開いた。


「なぜ、彼がそんなものを……」


「それを調べる必要がある」


ロウは、木片を机に置いた。


「オスカー。半年前の補修作業に関わった人間を、もう一度、全員洗い出してくれ。作業員だけじゃない。資材を運んだ者、記録を作成した者、補修を命じた者。誰が何を知っていたのか、分かる限り調べてほしい」


「承知しました」


オスカーは部屋を出ようとした。


だが、扉の前で足を止めた。


「隊長」


「何だ?」


「……ベルンの記録について、もうひとつ分かったことがあります」


ロウは顔を上げた。


「言ってくれ」


オスカーは、慎重に言葉を選んだ。


「昨夜の巡回記録には、ベルンの署名が三回ありました。ですが、その三回とも、同じ筆記具で書かれたものではありません」


「インクが違うのか?」


「はい。最初の署名は、通常の黒インク。二つ目は、少し青みがかったインク。三つ目は、黒に見えますが、乾いた後の色が違います」


「何を意味する?」


「別の場所で書かれた可能性があります。あるいは、別の人間が、それぞれ違う筆記具で書いたのかもしれません」


ロウは、机の上の記録を見つめた。


三つの署名。


三つの筆記具。


三つの場所。


あるいは、三人の人間。


「……オスカー」


「はい」


「ベルンは、本当に昨夜、巡回していたと思うか?」


オスカーは、しばらく考えてから答えた。


「記録上は、そうなっています」


「記録ではなく、お前自身の考えを聞いている」


オスカーは眼鏡を外し、布で拭いた。


「……私は、昨夜のベルンが、どこにいたのか分からなくなりました」


ロウは、静かに頷いた。


「それでいい」


彼は椅子から立ち上がった。


「分からないことを、分からないと言えるのは、重要なことだ」


ロウは、机の上の証拠を見回した。


「だが、俺たちは、そろそろひとつの答えに近づいている」


オスカーが顔を上げた。


「どのような答えでしょうか?」


ロウは、三つの署名を指で叩いた。


「ベルンは、昨夜、巡回していなかった可能性が高い」


彼は、ゆっくりと言葉を続けた。


「誰かがベルンの名前を使って、巡回記録を作った。そして、その誰かは、ベルンが死んでいることを知っていた。だからこそ、死体が発見されるまで、ベルンが生きているように見せかける必要があった」


オスカーは息を呑んだ。


「では、昨夜ベルンを見たという兵士たちは……」


「本当にベルンを見たとは限らない」


ロウは答えた。


「似た人間を見たのかもしれない。暗闇で顔を誤認したのかもしれない。あるいは、魔物がベルンの姿を真似ていたのかもしれない」


彼は窓の外を見た。


夜が迫っている。


砦の門が閉じられ、見張りが配置される。


いつもなら、これで一日の仕事は終わりだ。


だが、今夜は違う。


「オスカー。昨夜、ベルンを見たと証言した者を全員、司令室へ集めてくれ」


「今からですか?」


「今からだ」


ロウは剣を腰に戻した。


「今夜、もう一度、同じことが起きるかもしれない」


彼は、静かに言った。


「だから、今夜は俺たちが先に待つ」


14 最後に見た男

夜の司令室に、七人の兵士が集められた。


ハロルド・ケイン。


トーマス・リード。


北側通路を担当していた二人。


食堂の裏でベルンを見たという兵士。


そして、昨夜の交代記録に署名した三人。


全員が、ロウの前に並んでいた。


セラは壁際に立ち、扉の前には武装した兵士が二人配置されている。


窓には鎧戸が下ろされ、室内には三本の蝋燭だけが灯っていた。


ロウは机の上に、ベルンの肖像画を置いた。


兵士たちは、その絵を見て戸惑った。


「隊長。これは……」


「ベルン・ハルトの顔を覚えているか、確認したい」


ロウは一人ずつ顔を見た。


「まず、昨夜ベルンを見たという者は、いつ、どこで、どのように見たのか、もう一度話してくれ」


最初に口を開いたのは、ハロルドだった。


「第二鐘の後、北側通路で見ました。俺が監視通路から降りてきたところで、ベルンが歩いていたんです」


「顔は?」


「見ました」


「灯りは?」


「壁の燭台がありました」


「距離は?」


「……三歩か四歩ほどです」


「声は聞いたか?」


「はい。軽口を叩きました」


「何と言った?」


ハロルドは考え込んだ。


「……『まだ起きているのか』と、俺が言ったと思います」


「ベルンは何と答えた?」


「……覚えていません」


ロウは頷いた。


「次。トーマス」


トーマスは、緊張した面持ちで前へ出た。


「第三鐘の前、食堂裏でベルンを見ました。水筒を持って、歩いていました」


「顔は?」


「見ました」


「距離は?」


「十歩くらいです」


「灯りは?」


「食堂の窓から漏れていました」


「ベルンは何をしていた?」


「水を飲んでいました」


「お前は、なぜベルンだと分かった?」


トーマスは口を開きかけ、閉じた。


「……顔が、似ていたからです」


「似ていた?」


「いえ、ベルン本人だと思いました。でも、よく考えると、顔をはっきり見たわけではありません。横顔でしたし、距離もありました」


ロウは、彼の言葉を記録した。


「次」


他の兵士たちも、順番に証言した。


だが、結果は同じだった。


ベルンを見たという者は、誰もが「顔を見た」と言った。


しかし、どんな表情をしていたのか。


何を話したのか。


どちらの手に武器を持っていたのか。


歩き方に癖があったのか。


そうした細かな質問をすると、誰も確かな答えを返せなかった。


「おかしいと思わないか?」


ロウは、全員に向けて言った。


「お前たちは、ベルンを見たと言っている。だが、誰もベルンの様子を正確に説明できない」


「夜間ですから……」


一人が言った。


「灯りも少なかったですし」


「そうだ。だから、顔を見たという証言だけでは、本人だと断定できない」


ロウは肖像画を指した。


「人間は、見たいものを見る。いつも見ている人間だと思えば、細かいところを確認しなくなる。似た顔、似た体格、似た制服。それだけで、脳が勝手に本人だと判断してしまうことがある」


彼は、兵士たちを見回した。


「では、ここで質問を変える」


ロウは、肖像画を伏せた。


「昨夜、ベルンを見た時、お前たちは何を確認した?」


誰も答えなかった。


「顔か。声か。歩き方か。服装か。それとも、単に、そこにいた男がベルンだと思っただけか」


ハロルドが、ゆっくりと顔を上げた。


「……隊長。あいつは、俺の名前を呼びました」


「魔物がか?」


「はい。武器庫で、ベルンの声を真似た魔物が、俺の名前を呼んだんです」


「それがどうした?」


「もし、あいつがベルンの声を真似られるなら……昨夜、俺が聞いた声も、ベルン本人の声ではなかったかもしれません」


ロウは頷いた。


「その通りだ」


ハロルドの顔が歪んだ。


「俺は……あいつが生きていると思っていた」


「お前だけじゃない」


ロウは、兵士たちを見た。


「この砦の誰もが、ベルンが生きていると思っていた。記録に名前があり、目撃証言があり、交代の時刻も記録されていた。だから、誰も疑わなかった」


彼は机の上に、三枚の記録を並べた。


「だが、記録は人間が作る。目撃証言は、人間が見たものを人間が説明する。そして、魔物は人間の声を真似ることができる」


ロウは、三枚の署名を指で示した。


「この三つの記録は、同じ人物が書いたものではない可能性が高い。そして、署名に使われた筆記具も違う」


「つまり、誰かがベルンになりすまして、記録を書いたということですか?」


トーマスが尋ねた。


「その可能性が高い」


「ですが、誰が?」


ロウは答えなかった。


代わりに、別の質問をした。


「昨夜、ベルンの姿を見た者の中で、ベルンに直接触れた者はいるか?」


沈黙。


誰も手を上げなかった。


「肩を叩いた者は? 腕を掴んだ者は? 手渡しで何かを受け取った者は?」


やはり、誰もいなかった。


「つまり、お前たちは、ベルンを見たが、ベルンが本当にそこにいたかどうかは確かめていない」


ロウは、窓の鎧戸を見た。


「犯人は、そのことを利用した」


彼は兵士たちに向き直った。


「ベルンの死体が見つかったのは、今朝だ。だが、死亡時刻は昨夜より前だった可能性がある。誰かがベルンを殺し、その後、ベルンが生きているように見せかけた。記録を作り、目撃者の記憶を利用し、死体を発見されるまでの時間を稼いだ」


セラが、低い声で尋ねた。


「何のために?」


ロウは、机の上に置かれた地図を見た。


「地下通路を使うためだ」


兵士たちが顔を見合わせた。


「犯人は、ベルンの死を隠したかった。ベルンが生きているように見せかければ、巡回が正常に行われていると、誰もが信じる。その間に、犯人は地下通路を移動できる」


ロウは、地図の上を指でなぞった。


「そして、東側排水溝から西側搬入口へ。あるいは、武器庫の下から、別の場所へ。誰にも見られずに砦の中を移動できる」


「でも、それなら……」


トーマスが言った。


「犯人は、なぜベルンの死体をわざわざ排水溝に置いたんですか? 隠したいなら、見つからない場所に捨てればいい」


「いい質問だ」


ロウは頷いた。


「死体を見つけさせること自体が、目的だったからだ」


彼は、全員を見回した。


「ベルンの死体が見つかれば、砦は混乱する。兵士たちは警戒を強める。将校は調査に追われる。見張りの配置が変わり、巡回経路が変わる。つまり、犯人は、砦の防衛体制を変えさせることができる」


「では、犯人は……」


「砦の中にいる」


ロウは言った。


「そして、砦の構造を知っている。地下通路を知っている。巡回記録を操作できる。あるいは、操作した者に近づける立場にいる」


彼は、ハロルドを見た。


「ハロルド。半年前の補修作業に参加した者は、お前とベルン、ガレス、ヴァルター。それ以外にもいたな?」


「はい。工兵が二人いました」


「そのうち一人は、今も砦にいるか?」


「……分かりません」


ロウはセラを見た。


「補修作業に関わった者を、全員調べてくれ。今も砦にいる者、王都へ戻った者、死亡した者。全員だ」


「分かったわ」


ロウは、再び兵士たちへ向き直った。


「今夜から、見張りの手順を変える。目撃した相手を、顔だけで確認するな。声だけでも確認するな。交代時には、互いに決められた質問をし、返答を確認しろ。記録は一人で作るな。二人で確認し、片方が署名したら、もう片方も署名する」


「合言葉だけでは駄目なのですか?」


一人が尋ねた。


「合言葉は役に立つ。だが、相手が合言葉を知っている可能性もある。重要なのは、ひとつの情報だけで本人だと判断しないことだ」


ロウは、言葉を切った。


「それから、今夜は誰も一人で行動するな。用があっても、必ず二人以上で移動しろ。誰かが一人で歩いていたら、声をかける前に、まず周囲を確認しろ」


彼は、ゆっくりと息を吐いた。


「この砦には、俺たちの声を使い、俺たちの顔を利用し、俺たちの記憶に入り込むものがいるかもしれない」


兵士たちの顔に、恐怖が浮かんだ。


ロウは、それを否定しなかった。


「怖がるな、とは言わない。だが、怖いからといって、見たものを全部魔物のせいにするな。人間の嘘と、魔物の嘘は、同じように人を殺す」


彼は扉へ向かった。


「今夜、誰かがベルンの姿で現れても、すぐに剣を抜くな。まず確認しろ。逆に、誰かがベルンではないと主張しても、それだけで信用するな」


ロウは振り返った。


「俺たちが探しているのは、魔物だけじゃない。誰が何を知り、何を隠し、何をしたのか。その事実だ」


そして、扉を開けた。


「解散。持ち場へ戻れ」


兵士たちは、一人ずつ部屋を出ていった。


最後に残ったのは、ハロルドだった。


彼は、ロウの前に立った。


「隊長」


「何だ?」


「……俺は、ベルンに謝ることができません」


ロウは、彼を見た。


「そうだな」


「俺が、あいつの話を聞かなかった。あいつが見たものを、まともに調べようとしなかった」


ハロルドの目が赤くなった。


「もし、あの時、俺が一緒に地下へ行っていたら……」


「死んでいたかもしれない」


ロウは、はっきりと言った。


ハロルドは顔を上げた。


「お前が地下へ行っていれば、ベルンと一緒に殺されていた可能性もある。あるいは、二人とも逃げられたかもしれない。今となっては、分からない」


ロウは、彼の肩に手を置いた。


「後悔は、死者を生き返らせない。だが、次に同じことが起きた時、同じ間違いをしないために使うことはできる」


ハロルドは、しばらく黙っていた。


やがて、深く頭を下げた。


「……はい」


彼が部屋を出ていく。


ロウは、窓の鎧戸を見つめた。


夜の向こうには、魔物の森が広がっている。


そして、その下には、砦の誰も知らなかった地下通路がある。


黒門砦は、外からの侵入を防ぐために作られた。


だが、もし敵が最初から内部に潜んでいたのなら。


門を守るだけでは、何も守れない。


15 最後の証言者

夜半。


ロウは、武器庫で発見された魔物の様子を確認するため、隔離室へ向かった。


扉の前には、二人の兵士が立っている。


「異常は?」


「ありません。中から声も聞こえていません」


「見張りの交代は?」


「規定通りです。交代の際は、互いの顔と合言葉を確認しました」


「よし」


ロウは扉を開ける前に、内側の音を聞いた。


何も聞こえない。


彼は兵士たちへ合図し、扉を開けた。


魔物は、鉄鎖に拘束されたまま横たわっていた。


黒い外殻には、乾いた血のような液体が付着している。脇腹には、ロウがつけた傷があった。首元には、セラの槍が貫いた痕跡。


ミラが、部屋の隅で記録を取っていた。


「どうだ?」


ロウが尋ねると、彼女は顔を上げた。


「生きています。意識があるかどうかは分かりませんが、呼吸に似た動きは続いています」


「話しかけたか?」


「いいえ。あなたの指示通り、返事はしていません」


「何かを真似たか?」


「今のところは」


ロウは魔物に近づいた。


複数の眼が、閉じている。


口元には拘束具。


長い指は鉄鎖で固定されていた。


彼は、その外殻を観察した。


硬い。


人間の剣で簡単に切れるものではない。


だが、関節の隙間は柔らかい。


傷を負わせた時も、外殻の隙間に刃を押し込んだことで、ようやくダメージを与えられた。


「ミラ。こいつの体液と、ベルンたちの傷口に残っていた物質は、同じものだと思うか?」


「現時点では、かなり似ています。ただし、同じ個体のものかどうかまでは分かりません」


「こいつがベルンとダンを殺した可能性は?」


「あります。ですが、私は、この魔物が二人を殺したと断定することには反対です」


「なぜ?」


ミラは、魔物の傷を指し示した。


「この魔物の腕には、古い傷があります。武器で切られたような痕です。しかも、傷の周囲には、黒い繊維が絡みついていました」


ロウは顔を近づけた。


確かに、外殻の隙間に、細い黒い繊維が残っている。


ベルンの爪の間から見つかったものと、よく似ていた。


「つまり、ベルンは、この魔物と争った可能性がある」


「はい。あるいは、魔物を拘束しようとしたのかもしれません」


「それなら、ベルンは地下でこの魔物に遭遇し、戦った」


ロウは、考えを整理するように呟いた。


「だが、死体には血が少なかった。魔物の体液が、血液の働きを阻害した可能性がある。ベルンは首を傷つけられ、ダンは胸を刺された。二人とも、同じ魔物に襲われたのかもしれない」


ミラは、首を振った。


「それは、ひとつの仮説です。ですが、もうひとつ、考えるべきことがあります」


「何だ?」


「この魔物は、なぜ武器庫にいたのでしょうか?」


ロウは、答えなかった。


「地下通路から侵入したとしても、武器庫へ入る必要はありません。逃げるためなら、もっと安全な場所を選べたはずです」


「誰かを探していた?」


「そうかもしれません。あるいは、何かを探していた」


ロウは、魔物の身体を見た。


外殻の隙間。


傷。


黒い繊維。


そして、長い指。


「武器庫から、銀の刃物が一本なくなっている」


ミラは顔を上げた。


「それを、この魔物が持ち出した可能性がありますね」


「だが、魔物は何のために銀の刃物を必要とする?」


「分かりません」


ロウは、しばらく考えた。


その時、魔物の指が動いた。


ほんのわずかに。


鉄鎖が鳴る。


ミラが息を呑んだ。


ロウは剣の柄に手を置いた。


魔物の眼が、ゆっくりと開いた。


複数の小さな眼が、別々の方向を向く。


そして、そのうちのひとつが、ロウを見た。


口元の拘束具が、かすかに動いた。


「……ロウ」


自分の声だった。


ロウは動かなかった。


「……お前の名前は、ここにある」


魔物は、再び同じ言葉を繰り返した。


「お前が、忘れたものだ」


ミラが、低い声で尋ねた。


「隊長。これが、地下の声と同じものだと思いますか?」


「分からない」


ロウは答えた。


「だが、こいつが地下の何かを知っている可能性はある」


彼は、魔物の眼を見つめた。


「お前は、誰だ?」


魔物は答えなかった。


ただ、拘束具の奥で、何かを噛むような音がした。


そして。


「……三つ目を開けるな」


ロウは、息を止めた。


ダンの死体が握っていた紙片。


『三つ目を開けるな』


魔物は、その言葉を知っていた。


だが、それが何を意味するのか。


なぜ、ダンがその言葉を残したのか。


まだ、何も分からない。


ロウは、魔物から一歩離れた。


「ミラ。こいつの意識があるなら、明日、もう一度調べる。今は刺激するな」


「分かりました」


彼は扉へ向かった。


その時、魔物が再び声を発した。


今度は、ベルンの声だった。


「……隊長」


ロウは足を止めた。


「……死体は、嘘をつかない」


その言葉は、ベルンのものだった。


少なくとも、声は。


だが、その後に続いた言葉は、誰も聞いたことのないものだった。


「……嘘をつくのは、死体を見た人間だ」


ロウは振り返った。


魔物は、眼を閉じていた。


もう、何も話さない。


ロウは、しばらくその場に立っていた。


死体は嘘をつかない。


しかし、死体を見た人間は、誤解する。


誤認する。


あるいは、都合のいい意味を与える。


それは、ロウ自身が、今日一日で何度も目にしたことだった。


ベルンは死んでいた。


それでも、砦の兵士たちは、彼が巡回していると思っていた。


記録があったから。


目撃証言があったから。


いつも通りに見えたから。


彼らは、見たものを信じた。


だが、見たものが真実とは限らなかった。


ロウは、隔離室を出た。


扉が閉じられる。


鉄の閂が落ちる。


その音を聞きながら、彼は考えていた。


魔物は、何を知っているのか。


地下の声は、なぜ自分の名前を知っているのか。


そして、ベルンは死ぬ前に、何を見たのか。


その答えは、まだ地下にある。


だが、ロウはもう、ひとつのことを理解していた。


この砦で起きた事件は、魔物が人間を襲ったというだけの話ではない。


人間が何かを隠し、その隠し事を守るために、別の人間を犠牲にしてきた。


魔物は、その隙間に入り込んだ。


そして、誰かがその魔物を利用している。


ロウは、夜の廊下を歩きながら、静かに呟いた。


「……死体は嘘をつかない」


その言葉を、もう一度、自分に言い聞かせる。


「嘘をつくのは、生きている人間だ」


だが、彼は知らなかった。


その夜、砦の記録室では、誰も入っていないはずの机の上に、一枚の紙が置かれていたことを。


紙には、古い筆跡で、こう書かれていた。


『ロウ・テュユール。第三封門の鍵は、お前の血で開く』

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