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衛兵は眠れない  作者: 神代シン
第一章 眠らない門番

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第一話 黒門砦に狼が来る

第一節 首のない道標

 最初に異変に気づいたのは、馬だった。


 街道を進んでいた軍馬が、突然、足を止めた。


 蹄が凍った泥を踏み砕く音が途絶える。


 馬車の車輪が軋み、御者が手綱を引いた。荷台の木箱がぶつかり合い、積まれていた鉄製の食器が、かしゃん、と乾いた音を立てる。


「どうした?」


 御者の隣に座っていた兵士が尋ねた。


 馬は答えない。


 ただ、耳を後ろへ伏せ、鼻先を大きく震わせていた。


 街道の両脇には、冬枯れの森が広がっている。


 黒い幹。


 白い霜。


 葉を失った枝の隙間から、夕暮れの空が細く覗いていた。


 王都から北へ向かう街道は、ここから先で人間の領土を離れ、魔王領に近い辺境地帯へと入っていく。


 街道の先には、黒門砦がある。


 王国北方防衛線の最前線。


 魔王軍の先遣隊が人間の防衛網を探り、隙を見つければ侵入し、時には集落をひとつ丸ごと消し去るという、戦争の最前線だった。


 兵士は馬の首を撫でた。


「狼でもいるのか?」


 御者が鼻を鳴らす。


「狼なら、こんなところで止まらんさ。腹が減っていれば、馬の尻にだって噛みついてくる」


「じゃあ、何だ」


「知るか。俺に聞くな」


 兵士は腰の剣に手をかけた。


 森の奥を睨む。


 何も見えない。


 風もない。


 鳥の声すら聞こえなかった。


 それが、かえって不気味だった。


「おい。あれを見ろ」


 御者が顎をしゃくった。


 街道の脇に、古い道標が立っていた。


 石造りの柱。


 王国の紋章が刻まれ、その下には黒門砦までの距離を示す文字が刻まれている。


 だが、その上部が奇妙だった。


 石柱の頂点に据えられていたはずの、王冠を戴く獅子の彫像がなくなっている。


 壊れたのではない。


 落ちたのでもない。


 柱の上部が、切断されていた。


 切断面は、妙なほど滑らかだった。


「盗まれたのか?」


「石像を?」


「魔物の仕業じゃないか」


 兵士が呟いた瞬間、馬が後ずさった。


 蹄が石にぶつかる。


 兵士は舌打ちした。


「落ち着け!」


 手綱を引き、無理やり馬を前へ向かせる。


 そのときだった。


 彼は、道標の裏側に文字が刻まれていることに気づいた。


 古い苔を削ったような、白い傷。


 文字は、たった三つ。


 ――まだ、いる。


「何だ、これ」


 兵士は馬から降りた。


 指先で文字をなぞる。


 新しい傷だった。


 苔の下から覗く石肌は、白く乾いている。


 つい最近、刻まれたものだ。


「誰がこんなものを……」


 彼は言いかけて、口を閉じた。


 背後で、御者が息を呑んだからだ。


「おい」


 御者の声が、かすれていた。


「……今、誰かいたぞ」


 兵士は振り返った。


 街道の向こう。


 馬車の後方。


 夕暮れに沈む森の入口に、誰かが立っていた。


 黒い外套を着た人影だった。


 顔は見えない。


 身長は、兵士と同じくらい。


 その人物は、こちらを見ているようだった。


 兵士は剣を抜いた。


「誰だ!」


 返事はない。


「王国軍だ! 名を名乗れ!」


 人影は動かない。


 兵士が一歩踏み出した、その瞬間。


 人影は、首を傾けた。


 人間ならば、何かを考えるときにするような、ごく自然な仕草だった。


 それから、森の中へ歩いていった。


「待て!」


 兵士が駆け出す。


 だが、森の入口にたどり着いたときには、もう誰もいなかった。


 枝は揺れていない。


 雪も崩れていない。


 足跡すら、見つからなかった。


 まるで最初から、そこには何もいなかったかのように。


「……おい」


 背後から、御者の声がした。


「戻ろう。ここは、もう駄目だ」


「何を言っている。人影がいただろう」


「だからだ」


 御者は震えていた。


「あれは、人間じゃない」


 兵士は鼻で笑おうとした。


 だが、笑えなかった。


 彼はまだ、気づいていなかった。


 道標の文字。


 切断された獅子の首。


 森に消えた人影。


 その三つが、まったく別々の事件ではなかったことに。


 そして、この日を境に、黒門砦の夜警が一人ずつ消えていくことにも。


第二節 王都を追われた男

 ロウ・テュユールは、馬の背で眠っていた。


 正確には、眠ろうとしていた。


 馬の歩調に合わせて揺れる身体。


 鞍に伝わる振動。


 冷たい風が頬を撫で、外套の襟元から入り込む。


 目を閉じれば、王都の寝台よりはずっと劣悪だが、それでも眠れないことはない。


 少なくとも、普通の人間なら。


「……隊長」


 隣を走る兵士が声をかけてきた。


 ロウは目を閉じたまま答える。


「違う」


「何がです?」


「隊長じゃない」


「しかし、王都では――」


「王都では、だ」


 ロウは片目を開けた。


「今の俺は、辺境のしがない衛兵だ。元隊長と呼ばれるたびに、過去の栄光を思い出して泣かなきゃならんのか?」


「いえ、そういう意味では」


「なら、ロウでいい」


「それは……」


 兵士は困った顔をした。


 ロウは再び目を閉じる。


 それで会話は終わりだと思った。


「……本当に、あなたが黒門砦の警備隊長になるんですね」


 ロウは目を開けた。


「今、そう言っただろう」


「いや、しかし」


 兵士は言葉を選ぶように口を動かした。


「その……」


「言いたいことがあるなら言え」


「半分は、人間ではないと聞きました」


 風が吹いた。


 街道の両脇で、枯れ枝が擦れ合った。


 ロウは兵士を見た。


 若い男だった。


 二十歳を少し過ぎたくらいか。


 鎧は新しく、剣の柄には傷ひとつない。


 王都の兵士だろう。


 実戦経験は少ない。


 それでも、ここまでの道中で彼がロウに向けてきた視線には、露骨な恐怖も、あからさまな嫌悪もなかった。


 単純な好奇心。


 そして、聞いてはいけないことを聞いてしまったという後悔。


「誰から聞いた?」


「……兵舎で」


「誰が言った?」


「それは……」


「言えないか」


 ロウは小さく息を吐いた。


「なら、仕方ない」


 彼は外套の襟を直した。


 左手の手袋が、風に煽られてわずかに浮いた。


 その隙間から覗いた指先には、人間よりも少し鋭い爪があった。


 兵士の視線が、そこへ落ちる。


 ロウは隠さなかった。


「半分は本当だ」


「……え?」


「俺の母親は人間じゃない。狼の血を引いている。父親は人間だ」


 兵士は黙った。


「だから、俺は人間でもあり、狼でもある。どちらの側から見ても、完全には仲間になれない」


 ロウは淡々と続けた。


「それで何か問題があるか?」


「いえ、俺は……」


「ないなら、その話は終わりだ」


 ロウは再び目を閉じた。


 兵士はしばらく黙っていたが、やがて気まずそうに馬を前へ進めた。


 ロウは耳を澄ませた。


 馬の蹄。


 革鎧の軋み。


 風に揺れる木々。


 遠くで鳴く鳥。


 それらの音が、意識の奥でひとつずつ形を持つ。


 人間の耳では聞き取れない音も、彼には聞こえる。


 人間の鼻では嗅ぎ分けられない匂いも、彼にはわかる。


 それは便利な能力だった。


 同時に、厄介な呪いでもあった。


 人間の街では、誰かが香水を変えただけで気づいてしまう。


 兵舎では、誰かが隠れて食べた菓子の匂いまでわかる。


 酒場では、怒り、恐怖、嘘、汗、血、古い傷口の膿まで、すべてが入り混じって押し寄せる。


 眠ることすら、簡単ではない。


 そして、狼の血が濃くなる夜には、さらに厄介なことが起きる。


 ロウは右手で胸元に触れた。


 そこには、小さな金属製の徽章が入っていた。


 王都衛兵隊の徽章。


 かつて彼が率いていた部隊のものだ。


 銀の盾に、王冠を戴く獅子。


 王の命を守り、王都の秩序を守る者の印。


 今では、ただの古い金属片にすぎない。


 三か月前。


 王宮の大広間で、ロウはこの徽章を返納した。


 国王の御前。


 大臣たちの列。


 王都衛兵隊の幹部。


 その全員が見守る中、彼は隊長の地位を剥奪された。


 理由は、明快だった。


 彼の血筋が公になったからだ。


 王国の法律では、狼の血を引く者が軍の要職に就くことを明確に禁じてはいなかった。


 しかし、王宮の警備を預かる立場となれば話は別だった。


 王の寝室。


 王族の居室。


 国家機密を扱う会議室。


 そこへ、人間ではない血を持つ者を置くべきではない。


 そう主張する者たちがいた。


 反対する者もいた。


 だが、反対する声は、王冠の前ではあまりにも小さかった。


 結局、ロウは地位を失った。


 部下の前で、徽章を返した。


 誰も、彼を庇わなかった。


 ただ一人、古参の副官が、最後まで目を逸らさなかった。


 その男も今では、別の部隊に移されている。


 ロウは思い出すのをやめた。


 過去は、どれほど嗅ぎ回っても匂いが変わらない。


 失ったものを取り戻す方法は、ひとつしかない。


 生きることだ。


 それも、ただ生き延びるのではない。


 自分が何者であるかを、他人に決めさせないこと。


「……隊長」


 先ほどの兵士が、再び声をかけてきた。


「今度は何だ」


「黒門砦には、どんな怪物が出るんですか?」


 ロウは、わずかに笑った。


「さあな」


「さあな、って……」


「怪物の種類を知りたいなら、魔王軍の記録を読め。現地の噂を知りたいなら、酒場の連中に聞け。生き残りたいなら、どちらも鵜呑みにするな」


「では、何を信じればいいんです?」


 ロウは答えた。


「死体だ」


 兵士は顔を強張らせた。


「死体は、嘘をつかない」


 ロウはそう言ってから、少しだけ言葉を足した。


「……ただし、死体を見ている人間は嘘をつく」


 兵士は、今度こそ黙った。


 ロウは目を閉じた。


 街道の先から、かすかに匂いが流れてきた。


 冷たい鉄。


 濡れた石。


 古い血。


 それから――


 狼の匂い。


 ロウの目が開いた。


 風向きが変わったのではない。


 馬の歩調が変わったわけでもない。


 ただ、匂いが近づいていた。


 森の奥から。


 黒門砦の方角から。


 ロウは手綱を引いた。


「止まれ」


 隊列が止まった。


「どうしました?」


 先頭の兵士が振り返る。


 ロウは馬から降りた。


 道の脇へ歩き、膝をつく。


 地面には、いくつもの蹄の跡があった。


 馬車の車輪の跡。


 兵士の靴跡。


 荷を運ぶ人間の足跡。


 どれも新しい。


 その中に、ひとつだけ奇妙な跡があった。


 細長い。


 爪がある。


 四本の指。


 狼の足跡に似ている。


 だが、狼のものではない。


 ロウは指先で地面に触れた。


 土は乾いていた。


 霜が薄く張っている。


 足跡の縁だけが、妙に深く沈んでいた。


 体重が重いのだ。


 しかし、歩幅は人間に近い。


 ロウは顔を上げた。


「この道を通ったのは、いつだ?」


 兵士が答えた。


「今朝です。補給隊が通りました」


「その前は?」


「三日前に、商人の一団が」


「それより前は?」


「……わかりません」


 ロウは立ち上がった。


 そして、森を見た。


 何も見えない。


 ただ、木々の間に、黒い影が連なっている。


 狼の血が、胸の奥で静かにざわめいた。


 ロウは鼻を鳴らした。


「……なるほど」


「何がです?」


「歓迎されているらしい」


 彼は馬に乗った。


「進め」


 隊列が動き出す。


 ロウは、もう一度だけ森を振り返った。


 枝の隙間。


 遠くの木立。


 そこに、何かが立っているように見えた。


 黒い外套。


 人間のような輪郭。


 そして、こちらを向いた顔。


 ロウは瞬きをした。


 影は消えていた。


 彼は小さく舌打ちした。


「……趣味の悪い出迎えだ」


 その言葉を聞いた者は、誰もいなかった。


第三節 黒門砦

 黒門砦は、山と森の境界に建っていた。


 王国北方の防衛線を構成する、最も古い砦のひとつ。


 北側には、魔王領へと続く広大な森林地帯が広がっている。


 南側には、補給路と小さな交易都市。


 東には険しい山脈。


 西には、かつて鉱山として栄えた廃村が点在していた。


 砦は、街道を塞ぐように建てられていた。


 外壁は黒い石で築かれ、門扉は鉄と木材を組み合わせた二重構造になっている。


 門の上には、弩砲と投石機。


 壁の内側には兵舎、武器庫、食堂、厩舎、医務室、倉庫、そして司令室。


 砦の中央には古い鐘楼が立っていた。


 鐘楼の時計は、十年以上前から止まっている。


 誰も修理しようとはしなかった。


 理由を尋ねると、古参の兵士たちは決まってこう答える。


 ――あの鐘は、夜に鳴らしてはいけない。


 ロウがそれを聞いたのは、砦に到着する三十分ほど前だった。


 先ほどの若い兵士が、道中で話してくれたのだ。


「迷信だろうな」


 ロウがそう言うと、兵士は首を横に振った。


「俺もそう思っていました。でも、ここに来る兵士は、みんな知っているんです」


「何を?」


「夜に鐘が鳴ると、誰かがいなくなるって」


 ロウは兵士を見た。


「誰が言い始めた?」


「わかりません」


「いつから?」


「それも……」


「つまり、誰も知らないわけだ」


 兵士は気まずそうに頷いた。


「はい」


「なら、今のところは迷信だ」


 ロウは言い切った。


「ただし、迷信だからといって無視していいわけじゃない。人間が信じていることには、それなりの理由がある。理由が事実とは限らないが、理由そのものが事件の手掛かりになることはある」


「……なるほど」


「感心するな。まだ何もわかっていない」


 ロウは馬を進めた。


 やがて、木々の隙間から砦が見えた。


 最初に見えたのは、壁だった。


 次に塔。


 最後に、黒い門。


 その巨大さは、遠目にもわかった。


 門の上には、王国の旗が掲げられている。


 風に煽られ、布が激しくはためいていた。


 旗に描かれているのは、王冠を戴く獅子。


 ロウはその紋章を見て、顔をしかめた。


「……まだ、あれを掲げているのか」


「王国の砦ですから」


「そうだな」


 彼はそれ以上、何も言わなかった。


 砦の門が開く。


 鉄の軋む音が、山肌に響いた。


 門の前には、十数人の兵士が並んでいた。


 中央に立つ男は、背が高く、肩幅が広い。


 年齢は四十代半ば。


 頬に古い傷が走り、右目の下には細い縫合痕が残っている。


 男はロウを見ると、敬礼した。


「黒門砦へようこそ。警備隊長の着任を歓迎します」


 ロウは馬から降りた。


「ロウ・テュユールだ。君は?」


「副長のガレス・ハルトです」


「隊長は?」


 ガレスの表情が、わずかに変わった。


「……前任者は、二週間前に王都へ召還されました」


「理由は?」


「書類上は、健康上の問題です」


「書類上は、か」


「はい」


 ロウはガレスの顔を見た。


 男の目は、まっすぐだった。


 だが、その視線の奥に、疲労が沈んでいる。


 睡眠不足。


 それだけではない。


 何かを警戒している。


 誰かを恐れている。


 あるいは、誰かを守ろうとしている。


 ロウは鼻を鳴らした。


「ずいぶんと賑やかな匂いがする砦だな」


 ガレスが眉をひそめた。


「……匂い、ですか?」


「人間の匂いだ」


「ここには人間しかおりませんが」


「そうか」


 ロウは、門の内側を見た。


 兵士たち。


 武器庫。


 荷車。


 石畳。


 古い木造の建物。


 そのすべてに、生活の匂いが染みついている。


 汗。


 革。


 鉄。


 煙。


 油。


 煮込み料理。


 馬糞。


 そして、血。


 血の匂いだけが、妙に新しかった。


 ロウは門を見上げた。


「ここで、誰か死んだな?」


 ガレスの顔から、表情が消えた。


 周囲の兵士たちが、互いに視線を交わす。


 誰も答えない。


 ロウは続けた。


「門の内側だ。おそらく、ここ数日のうち。血は拭き取られているが、石の隙間に残っている」


 ガレスは、しばらく黙っていた。


 やがて、低い声で言った。


「……よく、おわかりになりましたね」


「仕事柄だ」


「そうですか」


「誰だ?」


 ガレスは唇を引き結んだ。


「夜警の兵士です」


「名前は?」


「エドガー・ミルズ」


「どう死んだ?」


「転落死です」


「どこから?」


「東側の監視塔から」


 ロウは門を見上げた。


 東側の監視塔は、門の右手にそびえている。


 高さは二十メートルほど。


 塔の頂上には、見張り台が設けられていた。


「転落死か」


「はい」


「夜警が?」


「はい」


「勤務中に?」


「……はい」


 ロウは、ガレスを見た。


「それで、誰も不審に思わなかったのか?」


 ガレスは答えなかった。


 その沈黙が、答えだった。


第四節 歓迎の食卓

 着任初日の夕食は、歓迎会という名の尋問だった。


 食堂には、二十人ほどの兵士が集まっていた。


 長い木製の卓。


 壁に並ぶ武器。


 天井から吊るされたランプ。


 大鍋から立ち上る湯気。


 料理は、豆と根菜を煮込んだスープ、硬い黒パン、塩漬けの肉。


 王都の食堂に比べれば質素だが、辺境の砦としては十分だった。


 ロウは上座に座らされていた。


 その両隣には、副長のガレスと、医務室の責任者だという女性が座っている。


「ミラ・セインです」


 女性は、ロウに軽く頭を下げた。


 三十歳前後。


 髪は後ろでまとめ、袖を肘までまくっている。


 手には、薬草と消毒液の匂いが染みついていた。


「医師か?」


「一応。正式な軍医資格はありますが、ここでは怪我人の治療から出産、解剖、葬儀の手伝いまで、何でもやります」


「忙しそうだな」


「暇な砦よりは、ましです」


 ミラはスープを口に運んだ。


「ところで、あなたの鼻は本当に特別なのですか?」


 ロウは匙を止めた。


「何が?」


「匂いで嘘がわかるとか」


「わからない」


「そうですか」


「嘘をつくときに汗をかく人間はいる。恐怖で呼吸が変わる人間もいる。体臭が変化する場合もある。それを観察して推測することはできるが、匂いだけで嘘を見抜くことはできない」


「では、普通の人間と大差ない?」


「普通の人間が、二十種類の血液の匂いを区別できるならな」


 ミラは匙を置いた。


「……それは、できないと思います」


「だろうな」


 彼女は興味深そうにロウを見た。


「あなた自身の血は、どんな匂いがするのですか?」


「血の匂いだ」


「質問に答えていません」


「自分の血を嗅いでいるときは、たいてい怪我をしている。そんなときに匂いを分析する趣味はない」


 ミラは、ふっと笑った。


「なるほど。噂ほど気難しい人ではなさそうですね」


「どんな噂を聞いた?」


「王都の衛兵隊長が、狼の血筋を理由に追放された。気に入らない上官を噛み殺した。王族の命令を無視した。人間の姿を保てなくなった。夜になると部下を襲う」


「最後の三つは、全部嘘だ」


「最初の二つは?」


「上官は噛んでいない。王族の命令を無視したこともない」


「……つまり、噛んでいないだけで、上官と何かあったのですね?」


 ロウはミラを見た。


 ミラは、平然とスープを飲んでいる。


「医者というのは、厄介な生き物だな」


「よく言われます」


「患者の傷だけ見ていればいいものを」


「傷の原因を知らなければ、同じ傷を繰り返しますから」


 ロウは、少しだけ笑った。


「気に入った」


「光栄です」


 そのとき、食堂の奥で笑い声が起きた。


 若い兵士が三人、酒杯を掲げている。


「本当に狼なんですか?」


 一人が、大声で言った。


「耳は? 尻尾は? 満月になると変身するんですか?」


 周囲の兵士たちが、ぎこちなく笑った。


 ガレスが立ち上がろうとした。


 ロウは手で制した。


「いい」


 彼は若い兵士たちを見た。


「質問はひとつずつにしろ。三つまとめて答えると、三倍面倒だ」


 兵士たちが顔を見合わせた。


「耳も尻尾も、必要がなければ出ない」


「本当ですか?」


「嘘だと思うなら、触ってみるか?」


 兵士の一人が、勢いよく首を横に振った。


「い、いえ!」


「満月で変身することもない」


「では、何で変身するんです?」


「服が破れたときだ」


 一瞬、食堂が静かになった。


 それから、誰かが吹き出した。


 笑いが広がる。


 若い兵士たちも、つられて笑った。


 空気が、わずかに緩んだ。


 ロウはパンをちぎった。


 だが、笑わなかった。


 笑い声の中に、ひとつだけ、笑っていない気配があった。


 食堂の入口。


 柱の影。


 ひとりの兵士が、こちらを見ていた。


 年齢は四十歳ほど。


 髪は短く、左頬に小さな火傷の跡がある。


 彼はロウと目が合うと、すぐに視線を逸らした。


「……あの男は?」


 ロウが尋ねた。


 ガレスが振り返る。


「ああ。オスカー・ベルです。記録係を務めています」


「記録係?」


「勤務表、補給台帳、兵士の配置、巡回記録。砦の書類は、ほとんど彼が管理しています」


「ずいぶんと重要な仕事だな」


「ええ。几帳面な男です」


 ロウはオスカーを見た。


 男は、食堂の隅で食事を受け取っていた。


 誰とも話さない。


 席にも座らない。


 壁際に立ち、スープを飲んでいる。


「嫌われているのか?」


 ロウが尋ねると、ガレスは困ったように笑った。


「そういうわけではありません。彼は、あまり人付き合いが得意ではないのです」


「そうか」


 ロウは、オスカーの手元を見た。


 右手に、包帯が巻かれていた。


 指先まで、きつく。


「怪我をしているな」


「先週、倉庫で手を切ったそうです」


「何で?」


「書類を整理していて、紙で切ったとか」


 ロウは、スープを口に運んだ。


 紙で切った傷にしては、包帯が厚い。


 そして。


 彼の鼻には、微かに血の匂いが届いていた。


 新しい血ではない。


 乾いた血。


 古い血。


 それに混じる、鉄と薬草の匂い。


 ロウは、何も言わなかった。


 まだ、何もわかっていない。


 疑うだけなら、誰にでもできる。


 証明することが、仕事だった。


第五節 眠らない砦

 夜半。


 ロウは、自室の寝台に腰掛けていた。


 部屋は狭かった。


 壁は石造り。


 窓は小さく、鉄格子がはめられている。


 机、椅子、寝台、衣装棚。


 家具は必要最低限。


 暖炉はあるが、薪は少ない。


 王都の隊長室とは比べものにならない。


 しかし、ロウにとっては十分だった。


 窓を開ける。


 冷たい空気が流れ込んだ。


 遠くで、兵士の足音が聞こえる。


 見張りの交代だ。


 甲冑の擦れる音。


 短い挨拶。


 門扉の軋み。


 そのすべてが、夜の静寂に溶けていく。


 ロウは目を閉じた。


 匂いを確かめる。


 食堂の煙。


 馬小屋の干し草。


 武器庫の油。


 兵士たちの汗。


 遠くの森から流れてくる湿った土の匂い。


 それから。


 血。


 ロウは目を開いた。


 血の匂いは、門の近くから漂っていた。


 夕食のときに嗅いだものと同じだ。


 ただし、今は濃い。


 風向きが変わったせいかもしれない。


 だが、匂いの中に、別のものが混じっていた。


 腐った木。


 濡れた獣毛。


 そして、冷たい石。


 ロウは立ち上がった。


 外套を羽織り、剣を腰に差す。


 扉を開けると、廊下に兵士が立っていた。


「どちらへ?」


 若い衛兵だった。


 ロウは答えた。


「散歩だ」


「夜間の外出は、許可が必要です」


「そうか。では、許可を出す」


「……誰にです?」


「俺に」


 兵士は困惑した。


 ロウは、真顔で付け加えた。


「新しい警備隊長が、自分の砦を歩くのに許可が必要なのか?」


「い、いえ。そういう意味では」


「なら、通してくれ」


 兵士は道を空けた。


 ロウは廊下を進んだ。


 階段を下りる。


 石畳の通路を抜ける。


 中庭には、夜警の兵士たちがいた。


 二人一組。


 槍を持ち、外壁の周囲を巡回している。


 ロウは、そのうちの一人に声をかけた。


「交代は何時だ?」


「午前二時です」


「今は?」


「一時半です」


「あと三十分か」


「はい」


「眠いか?」


 兵士は、苦笑した。


「そりゃあ、眠いですよ」


「眠るなよ」


「もちろんです」


「眠ったら死ぬぞ」


 兵士の笑顔が消えた。


 ロウは、軽く肩を叩いた。


「冗談だ」


 兵士は、笑うべきか迷っていた。


 ロウはそのまま歩き出した。


 砦の東側。


 監視塔の下。


 そこには、黒ずんだ石があった。


 転落死した兵士の血を拭き取った場所だ。


 ロウは膝をつき、石の隙間を調べた。


 乾いた血が、わずかに残っている。


 血の飛び散り方。


 石の擦れ。


 塔の壁に残る傷。


 彼は顔を上げた。


 監視塔の高さは二十メートル。


 ここから落ちれば、普通の人間なら助からない。


 だが、落ちた人間が必ず死ぬとは限らない。


 問題は、落ちた理由だ。


 足を滑らせたのか。


 誰かに押されたのか。


 自分で飛び降りたのか。


 あるいは。


 最初から、ここで死んだのではないのか。


 ロウは立ち上がった。


 塔の階段を上る。


 一段。


 二段。


 三段。


 石造りの階段は狭く、壁には古い苔が生えていた。


 途中に、小さな窓がある。


 そこから外を覗くと、森が見えた。


 夜の森。


 月明かりに照らされた木々。


 枝の間に、何かが揺れた。


 ロウは立ち止まった。


 目を凝らす。


 人影。


 黒い外套。


 森の中に立つ、細長い人影。


 こちらを見ている。


 ロウは窓を開けた。


 冷たい風が吹き込む。


「おい」


 声をかける。


 人影は動かない。


「聞こえているんだろう?」


 返事はない。


 ロウは鼻を鳴らした。


 匂いは、届かなかった。


 風向きのせいではない。


 森の匂いはする。


 土も、木も、獣も、すべて感じ取れる。


 だが、人影の匂いだけがない。


 ロウの背筋に、冷たいものが走った。


 彼は窓から身を乗り出した。


「……お前、何者だ」


 その瞬間。


 人影が、笑ったように見えた。


 顔は見えない。


 それでも、笑ったとわかった。


 次の瞬間、人影は木々の間へ滑り込んだ。


 走ったのではない。


 歩いたのでもない。


 ただ、そこから消えた。


 ロウは窓を閉めた。


 しばらく、動けなかった。


 やがて、彼は低く呟いた。


「……なるほど」


 今度は、笑っていなかった。


 あれは、ただの幻覚ではない。


 少なくとも、ロウにはそう思えた。


 彼は階段を上り、監視塔の頂上へ向かった。


 見張り台には、兵士が一人立っていた。


 若い男だった。


 弩を肩にかけ、森を見張っている。


「異常は?」


 ロウが尋ねると、兵士は振り返った。


「ありません」


「本当に?」


「はい」


「森の中に、誰か立っていなかったか?」


 兵士は眉をひそめた。


「誰も見ていません」


「いつからここにいる?」


「交代してから、二十分ほどです」


「その間、森から目を離したか?」


「いいえ」


「眠気は?」


「ありません」


 ロウは兵士を見た。


 嘘をついているようには見えない。


 呼吸は安定している。


 汗も少ない。


 視線も不自然ではない。


 だが、嘘をついていないことと、正しいことを言っていることは別だ。


「名前は?」


「トーマス・リードです」


「トーマス。明日から、夜警の配置を全部見直す」


「……何かあったのですか?」


「まだ、何もない」


 ロウは森を見た。


「だから、今のうちに調べる」


第六節 最初の違和感

 翌朝。


 ロウは、黒門砦の記録室にいた。


 部屋には、天井まで届く棚が並んでいる。


 棚には、分厚い帳簿、羊皮紙の束、地図、古い軍令がぎっしりと詰め込まれていた。


 窓は小さく、部屋の中は薄暗い。


 紙と埃の匂い。


 インクの匂い。


 革の匂い。


 それらが、長い年月をかけて部屋に染みついている。


 記録係のオスカー・ベルは、机に向かっていた。


「何をお探しですか?」


 ロウが入ってきても、彼は顔を上げなかった。


「夜警の勤務表だ」


「期間は?」


「過去三か月」


 オスカーの手が止まった。


 ほんの一瞬。


 だが、ロウは見逃さなかった。


「……三か月ですか」


「何か問題でも?」


「いえ。ただ、量が多いので」


「構わない。全部出してくれ」


 オスカーは立ち上がった。


 棚の奥から、帳簿を取り出す。


 一冊。


 二冊。


 三冊。


 やがて、机の上に十数冊の帳簿が積み上がった。


「こちらが勤務表です。こちらは巡回記録。こちらは交代時刻の記録。こちらが夜間の異常報告になります」


「助かる」


「ただし、異常報告は少ないです」


「少ない?」


「はい。ここ三か月で、正式な報告書が提出されたのは四件だけです」


「転落死は?」


「……一件です」


 ロウは、帳簿を開いた。


 転落死した兵士。


 エドガー・ミルズ。


 年齢二十七歳。


 勤務年数六年。


 家族はなし。


 前科なし。


 勤務態度は良好。


 死亡日時は、二週間前。


 死因は、高所からの転落による頭部損傷。


 状況は、監視塔の見張り台から転落。


 目撃者なし。


 遺書なし。


 事件性なし。


 ロウは、帳簿を閉じた。


「ずいぶん簡単な報告書だな」


「現場の状況から、事故と判断されました」


「誰が?」


「当時の隊長です」


「名前は?」


「バーナード・クロスです」


「今、どこにいる?」


「王都へ召還されました」


 ロウは、オスカーを見た。


「前任者も、転落死も、王都へ関係しているわけか」


「偶然だと思います」


「俺はまだ、何も言っていない」


 オスカーは口を閉じた。


 ロウは帳簿を開き直した。


 死亡当日の勤務表。


 エドガーは、午後十時から午前二時までの夜警だった。


 担当は東側監視塔。


 交代要員は、トーマス・リード。


 ロウは、記録を指でなぞった。


「トーマスは、二週間前からこの配置だったのか?」


「はい」


「その前は?」


「南側の巡回です」


「配置が変わった理由は?」


「通常の人員配置です」


「誰が決めた?」


「当時の隊長です」


 ロウは、何も言わずに次の帳簿を開いた。


 夜警の勤務表。


 その前の週。


 さらに前の週。


 彼は、同じ配置を探した。


 そして、見つけた。


 エドガー・ミルズ。


 東側監視塔。


 午後十時から午前二時。


 死亡する一週間前も、同じだった。


 さらに、その前の週も。


 その前も。


 ロウは顔を上げた。


「この兵士は、いつから東側監視塔を担当していた?」


 オスカーは、答えるまでに少し時間をかけた。


「……約二か月です」


「二か月間、同じ場所?」


「はい」


「他の兵士は?」


「通常は、数週間ごとに配置を変更します」


「なぜ彼だけ変わらなかった?」


「本人の希望だったと聞いています」


「本人の希望?」


「東側監視塔は、比較的静かな場所です。本人が希望すれば、配置を固定することもありました」


「誰が許可した?」


「前任の隊長です」


 ロウは、記録室の窓を見た。


 窓の向こうには、東側監視塔が見える。


 塔の上には、今日も兵士が立っている。


 森を見張っている。


 何も起きていないように見える。


 だが、何も起きていないことと、何も起こせないことは違う。


「……もうひとつ聞きたい」


 ロウはオスカーに向き直った。


「ここ三か月で、夜警が行方不明になったことはあるか?」


 オスカーは、目を伏せた。


 その沈黙は、昨日のガレスの沈黙と似ていた。


「正式な記録はありません」


「正式な記録は、か」


「はい」


「では、非公式には?」


 オスカーは、包帯を巻いた右手を握りしめた。


「……その質問には、答えられません」


 ロウは、彼を見つめた。


 記録係が、記録について答えられない。


 それだけで、十分に不自然だった。


「わかった」


 ロウは帳簿を閉じた。


「なら、別の人間に聞こう」


 部屋を出ようとしたとき、オスカーが口を開いた。


「隊長」


 ロウは振り返った。


「何だ?」


「……この砦では、夜に一人で歩かないほうがいい」


「なぜだ?」


 オスカーは、答えなかった。


 ただ、机の上に積み上がった帳簿を見つめていた。


 ロウは、彼の手を見た。


 包帯の隙間から、黒い糸のようなものが覗いていた。


 血管ではない。


 縫合糸でもない。


 それは、皮膚の下で、ゆっくりと動いていた。


 ロウは、目を細めた。


 オスカーは気づいていない。


 あるいは。


 気づいていて、隠しているのか。


 ロウは何も言わず、部屋を出た。


 廊下を歩きながら、彼は考えた。


 転落死。


 固定された配置。


 記録の欠落。


 夜間の行方不明者。


 匂いのない人影。


 そして、オスカーの手。


 まだ、つながらない。


 だが、ひとつだけ確かなことがあった。


 黒門砦では、誰かが何かを隠している。


 その何かは、ただの不正ではない。


 もっと奇妙で、もっと危険なものだ。


 ロウは窓の外を見た。


 東側監視塔の頂上。


 そこに立つ兵士が、こちらを見ていた。


 トーマス・リード。


 昨夜、森には誰もいなかったと証言した兵士。


 彼は、ロウを見つめたまま、動かなかった。


 やがて。


 ゆっくりと右手を上げた。


 敬礼ではなかった。


 指を一本ずつ折り曲げるような、不自然な動き。


 まるで、何かの数を数えているようだった。


 ロウは、その手を見つめた。


 一。


 二。


 三。


 四。


 五。


 トーマスの指が、すべて折り曲げられた。


 次の瞬間、彼は塔の陰へ消えた。


 ロウは、ゆっくりと息を吐いた。


「……なるほど」


 今度こそ、確信に近いものがあった。


 この砦では、何かが起きている。


 そして、それはすでに、彼の存在に気づいている。


第七節 門番の仕事

 昼過ぎ。


 ロウは、砦の外壁を歩いていた。


 兵士たちは、それぞれの持ち場で仕事をしている。


 弩砲の点検。


 武器の手入れ。


 食料の運搬。


 巡回路の確認。


 どれも、戦争の最前線では欠かせない仕事だった。


 ロウは、その様子を黙って見ていた。


 黒門砦は、決して弱い砦ではない。


 壁は厚く、門は頑丈で、兵士の数も十分にいる。


 だが、砦の防衛というものは、壁の高さだけでは決まらない。


 門が閉まっていても、鍵を持つ者が裏切れば意味がない。


 見張りがいても、見張りが眠れば意味がない。


 命令が整っていても、命令を出す者が事実を知らなければ意味がない。


 そして、敵が人間の姿をしているなら。


 どこからが敵で、どこまでが味方なのか。


 それを判断すること自体が、戦いになる。


「隊長」


 声をかけてきたのは、ガレスだった。


「午後の巡回について、ご相談があります」


「聞こう」


「東側の巡回を増やすべきかと」


「理由は?」


「……転落死があった場所です」


「それだけか?」


「それだけではありません」


 ガレスは、周囲を確認してから声を落とした。


「ここ一か月、東側の夜警から異常な報告が上がっています」


「どんな報告だ?」


「誰かが歩いている音がする。塔の下に人影が見える。門の向こうから、名前を呼ばれる」


「名前を?」


「はい」


「誰が呼ばれる?」


「報告した本人の名前です」


 ロウは足を止めた。


「声の主は?」


「わかりません。森から聞こえることもあれば、壁の向こうから聞こえることもあるそうです」


「姿を見た者は?」


「何人かいます」


「全員、同じ姿か?」


「……いいえ」


 ロウは、ガレスを見た。


「違うのか」


「ある者は、兵士を見たと言います。ある者は、子供を見たと言います。ある者は、死んだ家族が立っていたと」


「死んだ家族?」


「はい」


「その兵士の家族は、本当に死んでいるのか?」


「調べました。少なくとも、本人の話では」


「なるほど」


 ロウは、壁の外を見た。


 森は静かだった。


 風が吹き、木々が揺れる。


 それだけだ。


「なぜ報告書に上がっていない?」


 ガレスは口を閉じた。


「……最初は、迷信だと思われていました」


「最初は?」


「次第に、報告する者が減りました」


「なぜ?」


「笑われるからです」


 ロウは、何も言わなかった。


 恐怖を笑われること。


 異常を訴えても信じてもらえないこと。


 その経験は、人間を沈黙させる。


 そして、沈黙は、怪物にとって都合がいい。


「わかった」


 ロウは言った。


「今夜から、東側の巡回を二倍にする。二人一組を厳守。単独行動は禁止。異常を見つけたら、相手が誰であろうと合図を出せ」


「承知しました」


「それと、夜警の配置を見直す。固定配置は廃止だ」


 ガレスは、少しだけ躊躇した。


「……隊長。それは、反発があるかもしれません」


「なぜ?」


「夜警の配置を変えると、困る者がいるのです」


「誰が?」


「それは……」


「また、それか」


 ロウは、深く息を吐いた。


「ガレス。俺は、君を疑っているわけじゃない」


 ガレスが顔を上げた。


「だが、君が知っていることを隠せば、俺は君を疑わなければならなくなる」


「……」


「俺は、君たちの事情を知らない。誰が何を恐れているのかも、何を守ろうとしているのかも知らない。だからこそ、教えてほしい」


 ロウは、ガレスを見つめた。


「俺は、ここを守るために来た。王都から追い出された人間の厄介払いでも、狼の血を引く者の隔離場所でも構わない。だが、部下が理由もなく死ぬことを許すつもりはない」


 ガレスは、しばらく黙っていた。


 やがて、敬礼した。


「……わかりました」


 その声には、先ほどまでとは違う響きがあった。


「できる限り、協力します」


「できる限りでは困る」


 ロウは歩き出した。


「全部だ」


 ガレスは、その背中を見つめた。


 それから、小さく笑った。


「……本当に、噂とは違う方だ」


「何か言ったか?」


「いえ。何も」


 ロウは振り返らなかった。


 彼は、門へ向かって歩いていた。


 黒門砦の正門。


 人間の領土と、魔王領を隔てる境界。


 その門の前に立ち、ロウは鉄扉を見上げた。


 扉には、無数の傷があった。


 剣で斬りつけた跡。


 弩の矢が刺さった跡。


 火で焼かれた跡。


 何度も修復され、何度も破壊されてきた歴史が刻まれている。


 ロウは、扉に手を触れた。


 冷たい。


 鉄の匂い。


 古い血の匂い。


 それから。


 ほんのわずかに、甘い匂いがした。


 花のような。


 腐った果実のような。


 人間の血にはない匂い。


 ロウは手を離した。


「……ここにもいるのか」


 誰に向けた言葉でもなかった。


 だが、門の向こうから。


 何かが、応えたような気がした。


 ――いる。


 ロウは顔を上げた。


 門は閉じている。


 閂も、鎖も、封印も、すべて正常だ。


 門番もいる。


 見張りもいる。


 それでも。


 門の向こうにいるはずの何かが、門のこちら側にもいる。


 その事実だけが、妙にはっきりと感じられた。


第八節 最初の夜

 夜。


 黒門砦の鐘楼が、月明かりの下に立っていた。


 止まった時計。


 閉ざされた窓。


 黒ずんだ石壁。


 誰も使わなくなった鐘。


 その下で、夜警の兵士たちが巡回を始めた。


 二人一組。


 東側に四組。


 南側に二組。


 西側に二組。


 正門に三組。


 ロウは司令室の窓から、その様子を見ていた。


「……今夜は、何も起きないかもしれないな」


 背後で、ガレスが言った。


「それなら、それでいい」


 ロウは答えた。


「事件が起きないことを祈るのは、警備隊長の仕事ですから」


「違う」


 ロウは窓から目を離さなかった。


「事件が起きても、誰も死なないようにするのが仕事だ」


 ガレスは黙った。


 ロウは机の上に広げた地図を見た。


 砦の見取り図。


 監視塔。


 門。


 兵舎。


 倉庫。


 巡回路。


 そのすべてに、赤い印をつけていた。


 転落死した兵士の位置。


 異常な声が聞こえた場所。


 人影が目撃された場所。


 記録が欠落している区域。


 赤い印は、東側に集中していた。


 だが、それだけではない。


 正門の近くにも、ひとつ。


 記録室の近くにも、ひとつ。


 そして、鐘楼の真下にも。


「……妙だな」


 ロウは呟いた。


「何がです?」


「事件の場所が、巡回路と一致していない」


「どういう意味でしょう?」


「怪物が人間を襲うなら、普通は人目につかない場所を選ぶ。だが、ここでは違う。人目につく場所で目撃されているのに、誰も姿を確認できていない」


「つまり?」


「目撃者のほうが、何かを見誤っているかもしれない」


 ロウは地図を指でなぞった。


「あるいは、怪物が見せたいものを見せている」


 ガレスの顔が強張った。


「幻覚、でしょうか」


「可能性のひとつだ」


「そんな能力を持つ怪物がいるのですか?」


「いる」


 ロウは短く答えた。


「だが、幻覚を見せる能力にも限界がある。距離、対象、時間、条件。どんな能力にも、必ず制約がある」


「その制約を見つければ、対処できると?」


「そうだ」


 ロウは窓の外を見た。


 東側監視塔。


 その頂上に、兵士が二人立っている。


 ひとりは、トーマス・リード。


 もうひとりは、ロウがまだ名前を知らない兵士だった。


 二人は、森を見張っていた。


 何も起きていない。


 少なくとも、外から見れば。


 ロウは時計を見た。


 午前一時四十分。


 交代まで、あと二十分。


 そのとき。


 鐘楼のほうから、音がした。


 かすかな音。


 金属が擦れるような音。


 ロウは顔を上げた。


 ガレスも、音に気づいたようだった。


「……今のは?」


 ロウは答えなかった。


 もう一度、音がした。


 ぎい。


 ぎい。


 古い鐘楼の内部で、何かが動いている。


 風ではない。


 窓は閉じている。


 鐘は、十年以上も使われていない。


 それなのに。


 鐘楼の上から、何かが擦れる音が聞こえてくる。


 ロウは剣を手に取った。


「ガレス」


「はい」


「今夜、鐘楼の鍵は誰が持っている?」


「……私です」


「開けられるか?」


「もちろんです」


「案内しろ」


 二人は司令室を飛び出した。


 階段を駆け下りる。


 廊下を走る。


 中庭を横切る。


 鐘楼の前に着いたとき、音は止んでいた。


 扉には、古い錠前がついている。


 ガレスが鍵を差し込んだ。


 回らない。


「……おかしい」


「どうした?」


「鍵が、合いません」


「そんなはずはないだろう」


「この鍵は、私が管理しています。間違えるはずが……」


 ロウは、扉に手を触れた。


 鉄の匂い。


 古い木。


 埃。


 そして。


 甘い匂い。


 門で嗅いだものと同じだ。


 ロウは、ゆっくりと息を吸った。


「……下がれ」


「隊長?」


「下がれと言った」


 ガレスが後ろへ退く。


 ロウは、扉の隙間に鼻を近づけた。


 中から、何かが聞こえた。


 声。


 人間の声。


 低く、かすれた声。


 まるで、長い間使われていなかった喉で、無理やり言葉を発しているような声だった。


 ――ロウ。


 ロウの身体が、硬直した。


 その声は、彼の名前を呼んだ。


 ――ロウ・テュユール。


 ガレスが息を呑む。


「……誰だ?」


 ロウは扉を睨んだ。


 返事はない。


 代わりに、鐘楼の内部から。


 かすかな笑い声が聞こえた。


 人間の笑い声ではなかった。


 獣の唸り声でもない。


 そのどちらにも似ていて、どちらでもない。


 ロウは剣を抜いた。


「……出てこい」


 沈黙。


「聞こえているんだろう?」


 沈黙。


「俺の名前を知っているなら、俺が誰なのかも知っているはずだ」


 ロウは、低い声で言った。


「なら、覚えておけ」


 剣の切っ先を、扉に向ける。


「俺は、逃げない」


 その瞬間。


 鐘楼の中で、何かが動いた。


 扉の向こう側。


 すぐ近く。


 木の床を、裸足で歩くような音がした。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 そして、扉の向こうで止まった。


 ロウは、呼吸を止めた。


 扉の向こう側に、何かが立っている。


 その存在が、はっきりと感じられた。


 匂いはない。


 呼吸もない。


 体温もない。


 それでも、そこにいる。


 そして。


 扉の向こうから、声がした。


 ――おかえり。


 ロウの指が、剣の柄を強く握った。


 その言葉を、彼は知っていた。


 いや。


 正確には、知っているはずがなかった。


 それは、幼い頃に一度だけ聞いた言葉だった。


 母親が、夜の森から帰ってきた彼に向けて言った言葉。


 彼の記憶の中にしか存在しないはずの言葉。


 その言葉を。


 誰かが、鐘楼の向こう側から口にした。


 ロウは、ゆっくりと顔を上げた。


「……お前は、誰だ」


 返事はなかった。


 次の瞬間。


 鐘が鳴った。


 ごおん。


 砦全体を震わせる、重い音。


 十年以上、止まっていたはずの鐘が。


 誰も触れていないはずの鐘が。


 夜の黒門砦に、その音を響かせた。


 兵士たちが、各所で足を止めた。


 見張りが振り返った。


 眠っていた者たちが、飛び起きた。


 そして、東側監視塔の頂上で。


 ひとりの兵士が、手すりを越えた。


 トーマス・リードだった。


 彼は、何の躊躇もなく、空中へ身を投げた。


 誰も、叫ぶことができなかった。


 身体が落ちていく。


 夜の闇を切り裂いて。


 石畳へ向かって。


 ロウが振り返ったときには、もう遅かった。


 鈍い音がした。


 それから。


 静寂。


 鐘の余韻だけが、砦の壁に反響していた。


 ロウは走った。


 鐘楼の扉から離れ、東側監視塔へ向かう。


 兵士たちが集まり始めていた。


 誰かが叫んでいる。


 誰かが祈っている。


 誰かが、泣いている。


 石畳の上に、トーマスが横たわっていた。


 首が、不自然な方向に曲がっている。


 血が広がっていた。


 ロウは膝をついた。


 トーマスの顔を見た。


 目は開いていた。


 口元には、微かな笑みが残っていた。


 まるで、何かを見て安心したかのような。


 ロウは、彼の首に指を当てた。


 脈はない。


 死亡している。


 だが、ロウが確かめたかったのは、それではなかった。


 彼は、トーマスの身体に鼻を近づけた。


 血の匂い。


 汗。


 恐怖。


 死の匂い。


 それらに混じって、微かに残るものがあった。


 甘い匂い。


 腐った果実のような匂い。


 鐘楼の中から漂ってきたものと、同じだった。


 ロウは顔を上げた。


 監視塔の頂上。


 そこには、もう誰もいなかった。


 トーマスと一緒に見張りをしていた兵士の姿も、消えていた。


「……おい」


 ロウは、周囲の兵士たちを見た。


「もう一人はどこだ?」


 誰も答えなかった。


「トーマスと一緒にいた兵士は、どこへ行った?」


 兵士たちが、互いに顔を見合わせる。


 やがて、一人が震える声で答えた。


「……誰のことですか?」


 ロウは、動きを止めた。


「何?」


「トーマスは、一人で見張りをしていました」


 別の兵士が言った。


「交代要員は、まだ来ていません」


「……嘘をつくな」


 ロウの声が、低くなった。


「俺は、二人いるのを見た」


「いえ、しかし……」


「塔の上に、二人いた!」


 ロウの怒声が、砦に響いた。


 兵士たちは、凍りついた。


 ロウは、もう一度、トーマスの死体を見た。


 それから、監視塔を見上げた。


 塔の頂上には、何もない。


 手すり。


 見張り台。


 弩。


 そして、夜の森。


 彼は、ゆっくりと立ち上がった。


 最初の夜。


 最初の死者。


 最初の鐘。


 そして、誰も認めない二人目の兵士。


 ロウは、剣を鞘に戻した。


 その顔には、怒りも、恐怖もなかった。


 ただ、冷たい決意があった。


「……ガレス」


 副長が駆け寄ってきた。


「はい!」


「砦の門を閉じろ」


「すでに閉じています」


「二重に封鎖しろ。誰も出すな。誰も入れるな。夜警の配置を全部確認しろ。今、ここにいる人間の名前を、一人ずつ読み上げろ」


「承知しました!」


「それから、医務室を開け。トーマスの遺体を運ぶな。誰も触るな」


「しかし、遺体の処置を――」


「誰も触るなと言った!」


 ガレスは敬礼した。


 兵士たちが動き始める。


 ロウは、トーマスの死体を見下ろした。


 彼の手は、固く握りしめられていた。


 ロウは、ゆっくりとその手を開いた。


 掌の中に、小さなものがあった。


 黒い石。


 爪の先ほどの大きさ。


 表面には、奇妙な模様が刻まれている。


 ロウはそれを拾い上げた。


 冷たい。


 石の匂い。


 それから、甘い匂い。


 彼は、石をポケットにしまった。


 そして、誰にも聞こえない声で呟いた。


「……お前は、何を見た?」


 答える者はいなかった。


 その夜、黒門砦の兵士たちは、誰も眠れなかった。


 そして翌朝。


 記録係のオスカー・ベルが、姿を消した。


 彼の部屋には、血の跡も、争った形跡もなかった。


 ただ、机の上に、一枚の紙が残されていた。


 そこには、たった一行だけ、文字が書かれていた。


 ――門は、最初から閉じていなかった。


 ロウ・テュユールは、その紙を見つめた。


 それから、ゆっくりと顔を上げた。


 黒門砦の門は、閉じている。


 閂も、鎖も、封印も、すべて正常だ。


 誰も、出入りしていない。


 それなのに。


 誰かが、砦の中へ入り込んでいる。


 あるいは。


 最初から、ここにいたのか。


 ロウは、窓の外を見た。


 森の向こう。


 魔王領へと続く、暗い森林地帯。


 その奥で、何かが動いたように見えた。


 彼は、目を細めた。


「……いいだろう」


 ロウは、紙を折り畳んだ。


「まずは、お前の正体から暴いてやる」


 それが、黒門砦で始まる、最初の事件だった。


 そして、ロウ・テュユールが、自分自身の血に隠された秘密と向き合うことになる、長い夜の始まりでもあった。

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