第7話:圧倒的な実力差
「テメェ……今、なんつった?」
筐体のクリアパネル越しに、蓮の低く地を這うような声が響いた。
彼女はレバーから手を離すと、ゆっくりと上体を起こし、座ったまま駆を強烈に睨みつけてきた。その瞳に宿っているのは、お遊びのゲームの敵意ではない。自分の不可侵の領域に土足で踏み込まれた者の、本物の敵意だ。
「あかぎ蓮。さっきまで配信でリスナーと醜いレスバを繰り広げていた格ゲーVTuberの正体だろ」
駆はトランクコートの襟を少し正し、平然と言い放った。
ガタタンッ! と激しい音が店内に響く。
蓮が筐体の椅子を蹴立てて立ち上がり、そのまま対面側にある駆の席へと回り込んできたのだ。彼女は駆の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで顔を近づけてくる。深夜のゲーセンの薄暗い照明の中で、彼らの間に一触即発の火花が散った。
「テメェ、どこの回し者だ……!? さっきからアタシをつけてたのか? ストーカーなら今すぐその面、格ゲーの筐体に叩きつけてやるぞコラァ!」
周囲のゲーマーたちが、ただならぬ気配を察して一斉にこちらを買い見る。しかし、駆の心臓はミリ単位も動じなかった。大手時代、何万人もの熱狂的なファンや、時には過激なアンチの対応を経験してきた駆にとって、十九歳そこらの少女の威嚇など、可愛い猛獣の遠吠えに過ぎない。
「勘違いしないでくれ。俺は仕事帰りにフラッと立ち寄っただけだ。君がたまたまそこにいて、たまたまその口の悪さとジャージ姿、そして見事なレバー捌きで気づいただけだよ」
駆は自分の胸元に伸びていた蓮の細い指先を、すっとスマートにあしらった。
「ストーカーだと思うなら、今すぐ警察を呼べばいい。防犯カメラもある。だが、そんなことをすれば、君のその本名と『あかぎ蓮』の活動が紐づいてネットに晒されることになるが……それでもいいのか?」
「っ……!」
蓮は言葉を詰まらせ、忌々しそうに歯噛みした。
「アタシを脅す気か……?」
「まさか。俺は君をスカウトしに来たんだ。……ただ、今の君は頭に血が上っていて、大人のビジネスの話を聞ける状態じゃない」
駆は再び自分の席の椅子に深く腰掛け、目の前のコントローラーに手を置いた。画面の中では、すでにカウントダウンが始まっている。
「だから、君の得意なルールで話そう。——俺に勝てたら、君の好きにしていい。通報でも殴るでも、何でも受け入れよう」
「は?」
蓮は呆れたように片眉を上げた。
「アタシに『ブラレボ』で勝負を挑むって言ったのか? テメェ、アタシの連勝数が見えねえのかよ。アタシはこれでも最高ランクだぞ」
「ああ、知っている。だから、もし俺が勝ったら——大人しく俺の『話』を聞いてもらう」
駆の言葉に、蓮のプライドが完全に火を吹いた。彼女はフッと鼻で笑うと、乱暴に自分の席の椅子を引き寄せ、ドカリと座り直した。
「ハッ、上等だ。泣いて謝っても、絶対にコンボの手を緩めてやらねえからな、クソスーツ!」
『ROUND 1 —— FIGHT!』
アナウンスの絶叫とともに、運命の1コイン・バトルが幕を開けた。
蓮の使うキャラクターは、圧倒的な機動力と手数で相手をハメ殺す、超攻撃型の暗殺者『レイヴン』。対する駆が選んだのは、挙動が重く、一撃の破壊力だけが取り柄の重量級巨漢キャラ『アイアン・ゴリアテ』だ。
格ゲーにおいて、重量級キャラはスピードキャラの格好の「標的」である。
案の定、試合開始の直後から、蓮の『レイヴン』が目にも留まらぬ速さで画面を駆け巡り、駆のキャラクターを翻弄し始めた。
蓮の座る側から、怒涛のような打鍵音が響く。正確無比なレバー捌き。彼女の指先は、まるで一つの精密機械のように寸分の狂いもなくコンボを刻んでいく。駆の『ゴリアテ』の体力が、面白いように削られていった。
「あははは! 威勢がいいのは口だけかよ! 触ることもできずに終わりだな!」
蓮が勝ち誇ったような声をあげる。周囲のギャラリーも「やっぱりあのジャージの勝ちか」「キャラ相性も最悪だしな」と囁き合った。
だが。画面を見つめる駆の瞳だけは、極限まで冷徹だった。
(右下、左下、ニュートラル、強パンチ。……なるほど、これが君の『手癖』か)
駆はただ、殴られていたわけではない。
かつて『Live:CLOWN』時代に、プロゲーマー部門の立ち上げとデータ分析のトップを務めていた駆の脳内には、世界中のトッププレイヤーのフレームデータと、ありとあらゆる戦術パターンが完璧に記憶されている。
蓮のプレイは確かに天才的だ。しかし、独学ゆえの「悪い癖」があった。
彼女はコンボを繋ぐ際、特定の連携の後に、必ず一瞬だけ「無意識のガードの甘さ」が生じる。さらに、家で叫べないストレスをゲームで発散しているせいか、攻めが単調で、一度火がつくと相手のカウンターを警戒しなくなる。
体力が残り1割。絶体絶命のその瞬間。
蓮の『レイヴン』が、フィニッシュを狙って大技の飛び込みを仕掛けてきた。
(——ここだ)
駆の指先が、この試合で初めて、電電石火の速度でレバーとボタンを叩いた。
スピーカーから重々しい破裂音が響く。
駆の『ゴリアテ』が放ったのは、発生が最も遅く、スカれば確実に入死する、無敵判定付きの超必殺技『ゴリアテ・バスター』。
蓮の飛び込みの着地の一フレーム。その、わずかな「隙」のピンポイントに、駆の一撃が完璧に突き刺さったのだ。
「え……っ!?」
蓮の驚愕の声。
画面の中の『レイヴン』の身体が大きく宙に浮き、そこから駆の、精密機械のような「重量級の最大ダメージコンボ」が始まった。無駄な動きは一切ない。一撃一撃が、蓮の体力をゴリゴリと消し飛ばしていく。
駆の打鍵音は、蓮のそれとは対照的に、驚くほど静かで、規則正しかった。
そして、画面が激しくフラッシュし、蓮の『レイヴン』の体力が、一瞬にして消滅した。
『K.O.!』
「う、嘘……アタシが、対空で落とされた……?」
蓮はレバーを握ったまま、信じられないものを見る目で画面を見つめていた。
ラウンドカウント、1対0。駆の先制だった。
「君のプレイは素晴らしい。だが、攻めがワンパターンだ」
クリアパネル越しに、駆の声が静かに響く。
「君は右側に追い詰められた時、必ず下段ガードを解いて暴れようとする。そして、大技を決めた後は、自分のコンボに酔ってこちらのゲージの溜まり具合を見ていない。……プロを目指すなら、基礎中の基礎だよ」
「テメェ……っ!!」
蓮の顔が、屈辱と怒りで真っ赤に染まった。
自分のすべてを見透かされたような恐怖。そして何より、絶対に負けるはずのない「素人風の男」に一枠を取られたプライドの崩壊。
「ふざけんな……! まぐれで1回勝ったくらいで調子に乗るなよ! 次で完全に分からせてやるッ!!」
『ROUND 2 —— FIGHT!』
獣のような咆哮とともに、蓮は狂ったようにボタンを叩き始めた。
怒りに任せた彼女の攻めは、先ほどよりも遥かに獰猛で、凶暴さを増していた。
だが、感情に任せて動く狂犬など、プロのデータの前ではただの木偶に過ぎない。
駆は冷然とレバーを握り直し、彼女の暴走をすべて受け流す体制に入った。
ここからが、本当の「分からせ」の時間だった。




