第41話:静かな熱
「……動けよ、蓮」
OUKAの冷ややかな声が、静まり返った防音スタジオに落ちた。
だが、蓮はアケコンに額を擦り付けたまま、指一本動かそうとしない。
膝の上のアケコンには、ポタポタと流れ落ちた汗と涙の大きなシミが広がっていた。
指先がピクリとも動かない。脳の奥が焼けるように熱く、喉の奥が引きちぎれるほど痛い。
負けた悔しさなのか、己の爪の甘さへの惨めさなのか、あるいは全身の全細胞を使い果たした疲労のせいなのか——己の中で渦巻く感情の正体すら分からず、蓮はただ荒い吐息を殺し、動かない身体を置き去りにして静寂の中に沈み込んでいた。
「れ、蓮さん……大丈夫……? あ、あのね、すっごく……すっごく惜しかったよ……!」
防音ガラスのドアを押し開けて飛び込んできたみあが、今にも泣き出しそうな顔でしどろもどろに声をかける。
「そうだよ蓮さん! あ、あの、相手は世界1位なんだし! それに、あの……コマンドが滑っただけで、実力は絶対蓮ちゃんの方が——あ、ううん! 慰めとかじゃなくてね!?」
後ろから続いて入ってきた飛鳥も、両手をパタパタと焦らせながら支離滅裂な言葉を重ねた。いつも冷静な二人が、あまりの衝撃と激闘の余韻に動揺を隠せず、かけるべき言葉を見失ってしどろもどろになっている。
そんな二人の声すら、今の蓮の耳には遠い水底のノイズのようにしか響かない。
その時、スタジオのメインモニターから予選トーナメント勝者への【オンラインインタビュー】が流れ始めた。
『——いやー! 最高に刺激的な試合でした! 見事予選ウィナーズを突破しました、世界のトッププレイヤー、VULCAN選手です! おめでとうございます!』
実況のテンションの高い声に続いて、スピーカーからノイズ混じりのボイスチャット音声が響き渡る。
オンラインのため顔こそ映らないものの、マイク越しに伝わってきたのは、どこか軽やかで、若干チャラつきを感じさせる爽やかな青年の声だった。
『あはは、ありがとーございます! いやー……マジで死ぬかと思った! 画面の前で久しぶりに心臓バクバク言わせちゃいましたよ』
『凄まじい死闘でしたね! 最後の最後、あかぎ蓮選手の猛攻を凌ぎ切った瞬間は痺れました!』
『あれね、僕の実力で勝ったんじゃないんですよ。最後、彼女が技を出す瞬間にほんの一瞬だけコマンドが抜けたでしょ? あれ、汗で滑ったんじゃないかなぁ。運が良かっただけです、本当に』
VULCANは軽快なトーンで笑いながら、しかしその言葉の裏に隠しきれない異様な「熱」を孕ませて語り続ける。
『前回の『REIGN』の時はさ、正直ただの可愛いVTuberちゃんだと思って甘く見てたんですよ。でもさ……今日の彼女、何? 完全に僕を殺しに来てたでしょ。あのガードの精度、フレームの切り詰め方、そして土壇場で見せた野生の嗅覚……ゾクゾクしちゃったな』
インタビューアーが「おおっと!?」と声を上げる中、VULCANは興奮を隠すことなく一気に言葉を畳み掛けた。
『決定しました。僕、あかぎ蓮ちゃんを正式に自分の【生涯のライバル】に認定します! っていうかさ、あんな死闘演じさせられたら、もう運命の人って言ってもいいでしょ! 負けたの悔しいだろ蓮ちゃん? 頼むからルーザーズ勝ち上がってきてよ! 本戦のステージで、もう一回僕と地獄の殴り合いしようよ!』
画面の向こうで無邪気に、そして圧倒的な強者の余裕を持って放たれた「愛の告白」とも取れる宣戦布告。
「な……ッ!? らい、ライバル……!? う、運命の人って……なに言ってるんですかあの人ーっ!?」
みあが顔を真っ赤にして叫べば、飛鳥も「は、破廉恥です……! 試合のあとにそんなこと言うなんて……っ」とワタワタと画面を指さしてパニックになっている。
だが、インタビューの音声が切れたその瞬間。
ピクッ、と蓮の指先が跳ねた。
アケコンに落ちた涙と汗が、体温でじわじわと乾いていく。
「……あぁん?」
押し殺したような、低く掠れた声が防音スタジオの床を這った。
みあと飛鳥がハッと息を呑み、しどろもどろな言葉をピタリと止める。
ゆっくりと、血の滲むような力でアケコンを押し上げ、蓮は顔を上げた。
髪は汗で額にへばりつき、目は真っ赤に腫れ上がり、悔しさと怒りで顔面をぐしゃぐしゃに歪ませている。だがその瞳の奥には、敗北の絶望など微塵もなく、ドロドロとした狂暴な殺意の炎が渦巻いていた。
「誰が……運命の人だ……気安く呼んでんじゃねぇぞ、あのクソチャラ男がぁッ……!!」
みっともなく涙を拭い、ガタッと激しい音を立てて椅子から立ち上がる。膝がガクガクと震えていたが、蓮はそれを力任せに踏みつけ、己の足で仁王立ちしてみせた。
「ライバルだぁ……? 上等じゃねぇか……っ! 運命だかなんだか知らねぇが、最高のドブネズミじゃねぇかよ……!!」
アケコンを力任せに握り締め、爪が割れるほど強く握り拳を作る。
「OUKA! ルーザーズの試合、次いつだ!!」
「……15分後だ」
「吐き気がするほど十分だ……ッ!」
蓮はモニターに映るルーザーズトーナメント表を、血走った眼光で睨みつけた。
「待ってろよヴァルカン……! ルーザーズ全勝して、本戦のステージでお前のそのヘラヘラしたツラ、汗も流せねぇくらいドロドロにすり潰して殺してやるからな……ッ!!」




