第3話:音無すずの実力
白雪みあとの契約書に判を押したその日から、駆は『Vスタ』のプロデューサーとして最初の仕事に取り掛かった。
それは、みあの自宅である小さなワンルームアパートの配信環境を、完全にリビルドすることだ。
「……あの、織田さん。男の人を、その、お部屋に入れたの……初めてで……。あまり片付いてなくて、ごめんなさい……」
「いや、急に押しかけてこちらこそすまない。でも、初配信の音質だけは絶対に妥協したくないんだ。機材のセッティングは力仕事もあるし、男手があった方が早いからね」
みあが恥ずかしそうにダッフルコートの袖で顔を半分隠しながら縮こまる中、駆は手際よく作業を進めた。
彼女が使っていた、ノイズまみれの数千円の安物マイクを撤去。代わりに、人間の耳では感知しにくい超微細な吐息まで拾い上げる、数十万円クラスの超高感度コンデンサーマイクを特製のショックマウントを介してデスクに設置する。
さらに、木造で壁の薄い彼女のアパートでも深夜に安心して声が出せるよう、そして外の生活音をマイクが拾わないように、デスクの周囲を囲う形で特製の卓上防音パネルを隙間なく組み立てていく。
「……すごいです、織田さん。自分の声が、ヘッドホンから全然違って聞こえます……」
テスト用のヘッドホンを耳に当てたみあが、驚いたように目を見開いた。
「そうだろう。みあちゃんの声は、中低音の倍音がものすごく豊かなんだ。これまでの設定は高音が強調されすぎて、その温かみが完全に死んでしまっていた。このマイクと、俺が施したイコライザーの設定なら、リスナーの耳元で直接囁かれているような、圧倒的な『近さ』を表現できる」
さらに駆は、みあの自宅PCの画面を覗き込み、Live2Dモデルのパラメータを自ら書き換えた。
これまでは動きが硬く、表情が乏しかったアバター。駆はみあの持つ「おどおどとした繊細な目線の揺れ」や「歌うときのわずかな眉の動き」がそのままキャラクターに反映されるよう、フェイストラッキングの感度を極限までチューニングした。
「よし、機材とアバターの設定は完了だ。あとは俺が事務所に戻って、リモートで最終調整をするよ」
「は、はい……! よろしくお願いします……!」
みあに優しく微笑みかけ、駆は彼女の部屋を後にした。
女の子の部屋の匂いの余韻を残しながら、駆は自分の事務所へと急いで戻る。
運命の再デビューとなる、深夜二時。
告知は、駆が『Live:CLOWN』時代に培ったプロフェッショナルのノウハウをフル活用し、SNSで「深夜、眠れないあなたへ」という一言とともに、みあの声を数秒だけ切り取った極上のASMR風動画を流しておいた。それが現在、ネットの暗がりにいる孤独なユーザーたちの間で、静かにリツイートを伸ばし始めている。
駆は事務所のデスクに座り、みあのPCとディスコードで音声ラインを繋いだ。
「準備はいいかい、みあちゃん。画面の向こうには俺がいるし、音量の調整や機材のトラブルは全部俺のPCからリモートでサポートする。いつものように、自分の部屋で一人で本を読んでいるつもりでいい。君のままでいればいいんだ」
回線の向こうから、みあの小さく、けれど芯のある声が返ってくる。
『……はい。織田さんが、繋がっていてくれるから……私、がんばります』
みあは深く息を吸い込み、自宅のPCから配信開始のボタンを押した。
世界が最も静まり返る時間帯に、新生『音無すず』の配信がスタートした。
配信が始まると同時に、画面に映し出されたのは、深く澄んだ星空の背景。
そして、古いランタンの光に照らされた、図書室の少女のイラストだ。
最初は、SNSの告知を見た数人のリスナーがぽつぽつと入ってきただけだった。だが、ヘッドホンから流れてきた「音」を聴いた瞬間、彼らのコメントを打つ手が止まった。
『……こんばんは。音無、すず、です。……今夜も、お疲れ様でした……』
その声は、これまでのみあの声とは完全に別物だった。
まるで、静まり返った寝室で、耳元にそっと唇を寄せられて囁かれたかのような、極上のウィスパーボイス。余計な環境ノイズが一切排除され、みあの声が持つ「癒やしの波長」だけが、リスナーの脳へと直接染み込んでいく。
コメント欄が、これまでにない速度で動き始めた。
『え、何この声……めちゃくちゃ音質良くない?』
『耳が幸せすぎるんだが……』
『鳥肌たった。何この超極上ASMR。音の立体感がヤバい』
みあは駆の指示通り、おどおどしながらも、静かに一冊の古い短編小説を読み始めた。
『「その夜、街はとても静かでした……。男は、小さな星をポケットに隠して……」』
彼女がページをめくる、かすかな紙の擦れる音。
言葉の合間に漏れる、小さくて優しい吐息。
それらすべてが、駆が仕込んだ最高峰の機材と調整によって、完璧な立体音響となってリスナーの脳を震わせる。
SNSでの事前告知の広がりもあり、同接は、十、五十、百、五百と、右肩上がりに伸びていった。
『眠る前にスマホいじってたけど、この配信から離れられない』
『脳がとろけそう。この子、今までどこに隠れてたんだ?』
駆は、裏方のPC画面でアナリティクスのグラフを見つめながら、拳を固く握りしめた。
(いける。俺の狙いは完全に当たっている。——そして、ここからが本番だ!)
朗読が終わり、画面のみあが、少しはにかむように微笑んだ。Live2Dのモデルは、彼女の実際の表情をなぞるように、愛らしく、儚げに目元を和らげる。
『……読んでいたら、少し、歌いたくなってしまいました。……最後の一曲、聴いて、眠ってくださいね……』
みあが静かに息を吸い込んだ。
今回は、アカペラではない。駆が知り合いの天才アレンジャーに頭を下げて用意してもらった、星のまたたきのような、極限まで音数を減らした美しいアコースティックピアノの伴奏が流れる。
みあは、そっと目を閉じ、そして歌い始めた。
「——♪ 〜〜〜 〜〜」
その瞬間、コメント欄が完全に静止した。
まるで世界中から音が消え去り、彼女の歌声だけが宇宙に満ちていくかのような感覚。
澄み切ったソプラノの歌声は、ピアノの旋律に乗って、切なく、けれど圧倒的な優しさでリスナーの鼓膜を満たしていく。
一音一音に込められた、彼女の繊細な感情。それは、かつて自分自身が暗闇の中で怯えていたからこそ出せる、傷ついた者にしか歌えない「魂の救済」のうただった。
静止していたコメント欄が一瞬ののち、凄まじい勢いで爆発した。
『待って、涙が出てきた……』
『なんだこれ、本物の歌姫だろ……!』
『鳥肌が全身から引かない。ヤバいものを見つけてしまった』
『こんなに心が震える歌、生まれて初めて聴いた』
同接のメーターは、ついに深夜二時半にして三千人を突破。
SNSのトレンドには、いつの間にか『#音無すず』のワードが急上昇していた。
『……ありがとうございました。……おやすみなさい、良い夢を』
歌い終わり、みあがいつものように蚊の鳴くような声でそう告げて、配信を終了した。
画面が暗転した、その瞬間。
ディスコードの向こうから、「……は、ふぅ……っ!」という、みあの激しい呼吸の音が聞こえてきた。
デスクの前で、胸を押さえながら肩で息を twoしているのだろう。
『織田、さん……私、わたし……!』
「みあちゃん、落ち着いて。自分のYouTubeの管理画面を見てごらん」
駆が静かに促すと、回線の向こうで小さくマウスをクリックする音がした。
そこには、配信終了後も一向に減らない、それどころか恐ろしい速度で跳ね上がり続けるチャンネル登録者数の増加メーターが表示されていた。
一晩で、登録者数は300人から、一気に1万人を突破していた。
「大成功だ、みあちゃん。君の『声』と『うた』が、ついに世界に見つかったんだよ」
『う、嘘みたいです……。私、ずっと、誰にも必要とされてないと思ってたから……。私の歌で、こんなにたくさんの人が喜んでくれて……っ』
回線の向こうで、みあが子供のようにぽろぽろと嬉し涙を流しているのが、その息遣いだけで分かった。
「君の歌には、その価値がある。俺が言った通りだっただろう?」
『はい……! 私、織田さんを信じて、本当によかったです……!』
その時、駆の手元にあるスマートフォンが、けたたましく震えた。
画面に表示されたのは、かつて駆を「代わりはいくらでもいる」と切り捨てた、『Live:CLOWN』の役員室直通の電話番号だった。
おそらく、夜中に突如としてトレンド入りし、一瞬で1万人以上のチャンネル登録者を叩き出した怪物新人『音無すず』の噂を嗅ぎつけ、かつ、その背後にいる「織田駆」の存在に気づいたのだろう。
駆は、画面をチラリと一瞥すると、迷わず親指でスワイプし、着信を拒否した。
「もう遅いんだよ、大手の皆さん」
駆は不敵に笑い、マイクに向かって優しく、しかし確信に満ちた声で告げた。
「さあ、みあちゃん。ここからがスタートだ。俺たちの『Vスタ』で、世界中を君のうたでひれ伏させよう」
『はい! 織田さん!』
それぞれの部屋から、ネットの回線を通じて固く結ばれた二人。
ボロアパートの一室から冷たい世界に向けて、二人の、そして『Vスタ』の革命の鐘が、今、深夜の静寂に高らかに鳴り響いた。




