第2話:消えかけた「声」と、「歌」
送信ボタンを押した人差し指が、わずかに震えていた。
『はじめまして。突然のメッセージ、失礼いたします。私は個人VTuber事務所「Vスタ」を立ち上げました、織田駆と申します。先ほど、音無すずさんの配信を拝見させていただきました。結論から申し上げます。あなたの「声」、そして「歌」には、世界中の人々を魅了する圧倒的な才能があります。ぜひ一度、お話させていただけないでしょうか』
我ながら、深夜のテンションが混ざった、少し暑苦しい文面だとは思った。元大手『Live:CLOWN』のチーフマネージャーとしての肩書きは一切伏せている。今の自分は、怪しいボロアパートの、実績ゼロの代表に過ぎないのだから。
しかし、嘘偽りのない本心だった。
あの賛美歌のアカペラを聴いた瞬間、駆の脳裏には、彼女が数万、数十万のリスナーに囲まれ、その美しい歌声で世界を優しく包み込んでいる未来の景色が、ハッキリと、鮮明に見えていた。
「……返信、来るかな」
駆はマグカップに残った冷めたコーヒーを飲み干し、PCモニターを見つめ続けた。
同接三人。おそらく、他にスカウトの声をかけている事務所などないはずだ。だが、それだけに突然こんなメッセージが届いたら、警戒して無視される可能性も高い。
一分、三分、五分。
静まり返った四畳半の部屋に、時計の秒針の音だけがカチカチと響く。
画面をリロードした、その時だった。
画面の右上に、赤い通知マークが灯った。
『お、織田さん、でしょうか……? メッセージ、ありがとうございます。あの……私の配信を、見てくださっていたんですか……? 歌を褒めてもらえたの、初めてで、すごく、嬉しいです……。でも、私、本当に喋るのが下手で、事務所に入っても、何もできないと思います……。それに、もう今月で活動を辞めようと思っていて……』
文字の並びだけでも、彼女のおどおどとした、けれど丁寧な人柄が伝わってくるようだった。
そして同時に、「今月で辞める」という言葉に、駆は胸を締め付けられるような焦りを覚えた。
(やっぱり、限界だったんだ。こんな才能が、誰にも気づかれないまま、ネットの海の底へ沈んでいくなんて、絶対にあってはならない……!)
駆は猛然とキーボードを叩いた。
『諦めるのは、俺の話を聞いてからでも遅くありません。あなたが喋るのが苦手なのも、今の配信が伸び悩んでいるのも、すべて「売り方」の問題です。あなたには、あなたにしかできない、最高の輝き方があります。明日の午後、もしよろしければ、一度直接お会いできませんか? 決して怪しい者ではありません。お話だけでも、どうかお願いします』
しばらくの沈黙の後。
ぽつり、と短い返信が返ってきた。
『……わかりました。私でよければ、お話だけでも……』
駆は小さくガッツポーズをした。
「よし。……まずは第一関門突破、だな」
明日の対面に向けて、駆は一睡もすることなく、彼女の配信データをすべて集約した「プロデュース計画書」の作成に没頭し始めた。
翌日の午後二時。
駅前から少し離れた場所にある、昭和レトロな雰囲気を残す純喫茶。
ほの暗い店内には、落ち着いたジャズが流れ、琥珀色のコーヒーカップから白い湯気が立ち上っている。
駆は、入り口が最もよく見える奥のテーブル席に腰掛け、何度も腕時計を確認していた。
いくら元大手マネージャーとはいえ、実績ゼロの個人事務所の代表として、一人の女の子の人生を背負おうとしているのだ。胃がチリチリと痛むような緊張感があった。
カランコロン、とドアの鈴が優しく鳴った。
入ってきたのは、周囲の空気を一瞬で吸い込むような、独特の存在感を持った少女だった。
肩先で切り揃えられた、艶やかな黒髪。
オーバーサイズのベージュのダッフルコートに身を包み、萌え袖になった両手でしっかりとカバンを抱きしめている。
うつむきがちに、怯えたような視線で店内を伺うその姿は、VTuber『音無すず』のモデルそのもの、いや——現実の彼女は、イラスト以上に、息を呑むほど儚げで、可憐な美少女だった。
「……あ」
駆と目が合った瞬間、少女の身体がビクッと小さく跳ねた。
おずおずと、一歩一歩、まるで壊れ物を運ぶような足取りで、彼女は駆のテーブルへと近づいてくる。
「あの……織田、さん……ですか?」
「はい、織田です。白雪みあさん、ですね。お忙しい中、来てくれてありがとうございます。どうぞ、座ってください」
駆が穏やかな笑顔で促すと、みあは「は、はい、失礼します……!」と、ペコペコと何度も頭を下げながら、対面のソファにちょこんと腰掛けた。
その指先は、カバンの持ち手を白くなるほど強く握りしめている。緊張のあまり、呼吸が少し浅くなっているのが見て取れた。
「……あの、お飲み物、何がいいですか? ここのココア、すごく美味しいですよ」
「あ、じゃ、じゃあ……ココアで……お願いします……」
注文を終え、少しだけ場が落ち着いたのを見計らい、駆はゆっくりと切り出した。
「まずは、突然の不躾なスカウトに応じてくれて、本当にありがとうございます。驚かせてしまいましたよね」
「い、いえ……! そんなことないです……。ただ、私、昨日メッセージをいただいた時、すごく、びっくりして……。本当に、私のあの、お通夜みたいな配信を見てくださる人が、いるんだって……」
みあは自嘲気味に、少し寂しそうに微笑んだ。
「お通夜なんて、そんなことはない。俺は本当に感動したんです。特に、最後の賛美歌の歌声は、今でも耳に残っています」
「う、嬉し、いです……。でも」
みあは再び、視線を自分の膝の上に落とした。
「やっぱり……私、VTuberには向いてないんです。学校でも、昔からクラスの端っこにいるようなコミュ障で、友達もいなくて。……自分を変えたくて、勇気を出してVTuberを始めてみたんですけど……」
ぽつり、ぽつりと、みあは胸の奥に溜まっていた澱を吐き出すように語り始めた。
「みんなみたいに、面白くて、テンポのいいお喋りもできない。コメントが来ても、どう返していいか分からなくて、沈黙しちゃって。リスナーさんからも『退屈な配信』『声が小さくて聞こえない』って言われて……。昨日も、同接は三人だけで、そのうち一人は織田さんだったんですよね。……私、もう、限界なんです。自分には、人を惹きつける価値なんて、何もないんだなって……」
彼女の瞳から、ぽろりと、諦めの色がこぼれ落ちる。
その姿は、かつて駆が『Live:CLOWN』で見てきた、システムに押し潰され、自己否定の螺旋に囚われていったライバーたちの姿と痛いほどに重なった。
大手は、彼女のような「不器用な原石」をすくい上げようとはしない。
ただ「今、売れるテンプレ」を押し付け、それができなければ「代わりはいくらでもいる」と切り捨てる。
(そんなくだらない世界、俺が変えてやる。彼女のこの綺麗な声を、絶対に濁らせてたまるか)
「みあちゃん。顔を上げて、俺の目を見てほしい」
駆は、静かだが、心の底から響くような力強い声で言った。
みあがビクッとして、濡れた長い睫毛を揺らしながら、ゆっくりと顔を上げる。その不安げな黒い瞳を、駆は真っ直ぐに見つめ返した。
「君が向いていないんじゃない。君の『活かし方』を、周りの大人が、そして君自身が知らなかっただけだ」
「……え?」
「君は、無理に今風の雑談配信をする必要はない。みんなみたいにテンションを上げて、大声で笑う必要もないんだ。……君の最大の武器は、その『声』の波長そのものなんだから」
駆はカバンからノートPCを取り出し、液晶画面をみあに向けた。
そこには、駆が昨夜一徹で作り上げた、綿密なプロデュースシートが映し出されていた。
「これを見てほしい」
画面には、音無すずのアバターの横に、いくつかのキーワードが並んでいる。
【真夜中の静寂】【ASMR朗読】【アコースティック歌枠】。
「普通のVTuberは、ゴールデンタイムと呼ばれる夜八時から十一時の間に配信をする。でも、君の戦場はそこじゃない。ターゲットは、一日の終わりに疲れ果て、孤独を感じている『真夜中』のリスナーだ」
「真夜中……?」
「そうだ。二十三時~深夜、人々は騒がしいゲーム実況や、テンションの高い雑談なんて求めていない。求めているのは、傷ついた心をそっと癒やしてくれる、静かな場所だ。君のあの、ささやくような、極上のシルクのように鼓膜に染み渡る声は、深夜の静寂の中でこそ、最も美しく響く」
駆は画面をスクロールさせ、具体的な配信構成を指し示した。
「無理に喋らなくていい。ただ、君の好きな小説を、君のその声で優しく朗読するんだ。そして配信の最後に、君のあの圧倒的なソプラノで、子守唄のように一曲だけ歌う。……これだけでいい」
みあは、ゴクリと息を呑んだ。
画面に並ぶ言葉の一つ一つが、彼女がこれまで「欠点」だと思い込んでいた「ボソボソとした喋り方」や「小さな声」を、すべて『最強の武器』として定義し直していた。
「サムネイルのデザインも、もっと君の声の透明感が伝わるような、深い夜をイメージしたものに俺が作り直す。Live2Dの感度も、君の繊細な吐息を細かく拾えるように、俺がパラメータを調整し直す。君が歌うためのアコースティックの伴奏だって、俺が用意する。配信環境の構築からメンタルケアまで、君のサポートは、俺が死ぬ気で全部やる」
「……どうして、そこまで……」
みあの声が、小さく震えていた。
出会ったばかりの、実績もない弱小事務所の男。
けれど、彼の瞳には、これっぽっちの濁りも、下心も、打算もなかった。ただ純粋に、自分の「声」を信じ、自分の未来を自分以上に真剣に考えてくれている。
「言ったはずだ。君の才能に、俺が惚れ込んだからだよ」
駆は、テーブル越しに、みあの震える手の上に、自分の手をそっと重ねた。
驚くほど冷たくなっていた彼女の手。けれど、駆の手のひらから伝わる熱が、彼女の皮膚を通して、凍りついていた心へとゆっくりと溶け出していく。
「俺が立ち上げた『Vスタ』は、大手の『Live:CLOWN』みたいな看板も、資金力もない。だけど、君を数字の道具として使い捨てるようなことは、絶対にしない。君が歌いたい時に歌い、君の声を愛してくれるリスナーに、最高の声を届ける。そのための場所は、俺が命懸けで作る」
みあの黒い瞳が、潤んでいく。
これまで「お前には価値がない」と、世間から、そして自分自身から突きつけられてきた暗闇の中に、眩しいほどの光が差し込んでいた。
「みあちゃん。……俺と契約して、一緒に世界を見返さないか? 君を、世界一愛される歌姫にしてみせる」
その真っ直ぐな言葉は、みあの胸の奥底に眠っていた、小さな、けれど消えかけていた『歌いたい』という情熱の火種に、一気に薪をくべた。
みあは、重ねられた駆の手を、その細い指先でぎゅっと握り返した。
あふれ出た涙が、彼女の頬を静かに伝い落ちる。
けれど、その表情には、もう「諦め」は一ミリもなかった。
「……わたし……」
みあは、赤くなった顔を伏せながらも、確かに、力強い意志を込めて、駆の瞳を見つめ返した。
「わたし、歌いたいです……。織田さんの、つくる場所で……もう一度だけ、がんばってみたいです……!」
「——ありがとう。よろしく、みあちゃん」
駆は、優しく、けれどこれ以上ないほど固く、彼女の手を握りしめた。
ボロアパートの一室から始まる、弱小事務所『Vスタ』。
その最初の「眠れる姫」が、今、最強の裏方の手によって、目覚めの産声を上げた瞬間だった。




