第1話:有能マネージャー、底辺の「眠れる姫」を見つける
「——織田、お前は自分が何様になったつもりだ?」
ガラス張りの向こうに広がる高層ビルの夜景を背景に、冷ややかな声が響いた。
業界最大手のVTuber運営企業『Live:CLOWN』。その役員室のフカフカした革張りのソファに深く腰掛けているのは、新規事業統括部長の男だ。
織田駆は、その冷徹な視線を真っ向から受け止めながら、手元のアナリティクス資料をトントンと机に叩いた。
「何様も何も、俺は彼女たちのマネージャーです。現場の声を届けるのが俺の仕事ですから。——もう一度言います。現在登録者50万人を突破した『天音ルナ』の中の人、彼女の精神的疲労は限界に達しています。ここ一ヶ月の配信中の呼吸の浅さ、SNSでの希死念慮を思わせる呟き、そして何より先日の収録での過呼吸。今すぐ、最低でも三ヶ月の活動休止と、メンタルケア専門医のカウンセリングを受けさせるべきです」
「バカバカしい」
部長は鼻で笑い、デスクに置かれたタブレットを指先で弾いた。画面には、右肩上がりに伸び続ける売上グラフが表示されている。
「天音ルナは今、我が社で最も勢いのあるコンテンツだ。来月には大手飲料メーカーとのコラボ案件、再来月には3Dソロライブが控えている。ここで休止? 損失がいくらになると思っている。それに、メンタルが壊れただと? そんな軟弱な人間を起用した覚えはない。代わりならいくらでもいる」
「……代わり、ですか」
駆の奥歯が、ギリ、と音を立てた。
彼女たちがどれほどの血の滲むような努力をして、毎日毎日、リスナーの心無い言葉やプレッシャーに晒されながら配信画面に向き合っているか。この男は何も分かっていない。ただ、アバターの裏側にいる少女を「売上を吐き出すパーツ」としか見ていないのだ。
「そうだ。代わりだ」
部長は傲慢に、しかし冷酷な事実を告げるように言った。
「VTuberというのは便利でね。器と名前さえ会社の所有物であれば、中身を挿げ替えるのは容易い。声が似ている声優志望のガキなんて、オーディションを打てば万単位で集まる。天音ルナの中身をすげ替えて、ちょっとした事故に見せかけて再スタートを切ればいい。お前も無駄な感傷を仕事に持ち込むな、織田」
駆の胸の中で、冷たく、けれど決定的な何かが弾けた。
大手の資金力、圧倒的な広報力。それらが、夢を追う女の子たちを使い捨てるために使われているのだとしたら。
自分のこの分析力も、企画力も、技術も、そんなゴミみたいなシステムの歯車として使われているのだとしたら。
「——そうですね。部長のおっしゃる通りです」
駆はすっと立ち上がり、胸のポケットから一枚の封筒を取り出した。
あらかじめ用意していた、白い封筒。
「お前、それは……」
「——じゃあ、俺が辞めます。俺、自分の仕事に誇りを持っていたんです。でも、人の心を使い捨てて作るエンタメなんて、反吐が出るほどくだらない」
「なっ……! 織田、自分が何を言っているか分かっているのか!? お前が抜ければ、次のプロジェクトの進行が——」
「知ったことじゃないです。お世話になりました」
最後まで引き止める声を背中で聞き流し、駆は一度も振り返ることなく、役員室の重厚な扉を閉めた。
これで、大手『Live:CLOWN』の最年少チーフマネージャー・織田駆は死んだ。
だが、後悔は微塵もなかった。
「……さて。自分の事務所、立ち上げますか」
夜風が、驚くほど心地よかった。
退職金と、これまでの貯蓄をはたいて借りたのは、駅から徒歩十五分の築三十年のボロアパートの一室だった。
四畳半の部屋に置いたのは、最新のハイスペックPCと、防音材を適当に貼り付けた簡易的な配信ブース。そして壁に掲げた、手書きの看板。
個人事務所『Vスタ』。
「とはいえ、まずはタレントのスカウトから、だな……」
パイプ椅子に深く腰掛け、駆はモニターを見つめていた。
個人勢として活動しているものの、システムやノウハウが分からず、登録者数百人で燻っている「原石」を探す。それが現在の駆の日課だった。
深夜二時。
普通の人間なら眠りにつく時間帯に、駆は片っ端から配信プラットフォームの「同時視聴者数が一桁」の配信をチェックしていた。
「……ん?」
ふと、スクロールする手が止まる。
『音無すず【図書室の文学少女】』
サムネイルには、控えめで、少し古いデザインの Live2D モデル。暗めの茶髪を三つ編みにし、眼鏡をかけたおとなしそうな少女のアバターだ。
登録者数、352人。
同接は、わずか3人。
駆は迷えず、その配信をクリックした。
ヘッドホンから聞こえてきたのは、静まり返った環境音と、時折聞こえるキーボードを叩くカチャカチャという音。
「ええと……あ、初見さん、ありがとうございます……。ええと、こんばんは……。あの、今日は……最近読んだ本の、お話を、しようと思って……」
喋り方は、絶望的におどおどしていた。
声が小さく、マイクのゲイン調整も適切でないため、ボソボソとして聞き取りづらい。コメント欄は完全に沈黙しており、彼女もどう間を持たせていいか分からず、沈黙が十秒以上続くこともしばしばあった。
普通の視聴者なら、この時点でブラウザの「戻る」ボタンを押すだろう。退屈極まりない、いわゆる「お通夜配信」だ。
だが、駆の耳は、彼女の『声』の本質を見逃さなかった。
(なんだ、この声の「響き」は……!)
駆はヘッドホンの音量を少し上げた。
確かにボソボソと喋っている。滑舌も良くないし、コミュ障特有の自信のなさが声に出ている。
だが、その声の「波長」が、驚くほど心地いい。
まるで、雨の日の朝に聴く雨音のような。あるいは、深く静かな森の中で、木々の葉が擦れ合うような。聴く者の脳波を強制的にアルファ波へと導くような、天性の「癒やし」の響きを秘めていた。
(この子は、喋ろうとするからダメなんだ。無理に流行りの雑談配信をしようとして、自分の良さを殺してしまっている)
駆が分析を脳内で走らせていると、配信画面の少女が、小さく息を吸い込んだ。
「あの、そろそろ深夜の三時になるので……今日は、これで終わりにします。……最後に、一曲だけ、歌って終わりにしますね。伴奏とか、なくて、ごめなさい……」
そう言って、彼女はアカペラで歌い始めた。
それは、誰もが一度は耳にしたことがある、古い賛美歌だった。
その瞬間、駆の背筋に、ビリビリとした電流が走った。
「——♪ 〜〜〜 〜〜」
脳が、震えた。
先ほどまでのボソボソとしたコミュ障の喋り方が、嘘のように消え去っていた。
ヘッドホンを通して鼓膜に直接届くのは、極限まで澄み切った、神聖なソプラノの歌声。
まるで教会の大聖堂の真ん中で、一人きりで歌っているかのような、圧倒的な広がりと透明感。
一音一音に、彼女の繊細な感情がこれでもかと詰め込まれており、聴いているだけで涙がこぼれそうになるほどの表現力だった。
(鳥肌が、止まらない……。なんだ、この子は。歌った瞬間に、完全に別の『生命体』に化けたぞ……!)
歌が終わると同時に、画面の少女は「……ありがとうございました。おやすみなさい」と蚊の鳴くような声で言い、唐突に配信を終了した。
画面が暗転する。
駆は、興奮で激しく波打つ鼓動を抑えきれず、すぐにキーボードへ向かった。
震える手で、彼女のSNSのDM画面を開く。
「この才能を、深夜の同接3人で終わらせてたまるか。この子は、俺が、世界に見つけてみせる——!」
深夜の静寂にキーボードの打鍵音だけが響く中、駆は彼女の運命を、そして自分自身の運命を大きく変えることになる最初の一通を送信した。




