第38話:画面越しの敵意
大会前夜。
Minty Agencyの地下スタジオで繰り広げられた地獄の特訓は、深夜2時にようやく幕を閉じた。
OUKAから最後の指線チェックを受けた蓮の指先は、皮膚が擦り切れ、バンテージがうっすらと赤く滲んでいた。
「……今日はここまでだ。これ以上触れば、明日の本番で指の反応速度が0.05秒落ちる。帰って寝ろ」
OUKAが冷たく告げ、タブレットの画面を消す。
蓮はプロ仕様のゲーミングチェアに深々と沈み込んだまま、天井のLEDライトを睨みつけるように見上げていた。荒い息を吐き出しながら、バンテージの巻かれた自分の小さな手を見つめる。
「……OUKA」
「なんだ」
「……明日、アタシが負けたらどうすんだよ」
珍しく、弱音とも取れる言葉が蓮の口から漏れた。
サブコンで見守っていたみあと飛鳥がハッと息を呑み、防音スタジオの空気が一瞬で緊張に包まれる。
プレスリリースの熱狂。大手代理店のバックアップ。プロチームとの提携。
そして、自分ひとりのために用意された最先端の超高速専用回線と練習環境。
背負うものが大きくなればなるほど、その重圧は少女の細い肩に重くのしかかっていた。
だが、OUKAは表情ひとつ変えず、淡々と冷えたペットボトルのキャップを開けた。
「負けたらお前はただの『口だけの雑魚VTuber』として一生ネットで叩かれる。俺の指導実績にも泥がつく。……それだけだ」
「……チッ、ハッ!」
蓮はガラ悪く唇を噛み切るように歪めると、ガバッと勢いよく立ち上がった。
「言われなくても分かってんだよ! てめぇの面に泥なんか塗ってやるかよ……! 明日は目の前の雑魚ども、全員アタシが血祭りに上げてやっから吐くまで見てろよ!」
アケコンを抱えてスタジオを出ていく蓮の背中を、駆け寄ってきた駆が静かに見送る。
「……いいプレッシャーだ。あの重さを呑み込んで吐き出すのが、プロってやつだからな」
翌日、午後15時。Minty Agency地下・防音配信スタジオ。
格ゲー界最高峰の大型イベント『EVO JAPAN』のオンライン予選が、全国一斉に開幕した。
スタジオ内には、神代弦が調整した超低遅延の専用サーバー回線と、公式大会用PC。
そして、画面の向こう側の公式配信YouTubeチャンネルには、数十万人の同時接続視聴者が殺到していた。
実況チャット欄は、すさまじい速度で流れていく。
『Vスタのあかぎ蓮、マジでオンライン予選にエントリーしてて草』
『どうせ話題作りだろ。プロの予選だぞ?』
『VTuberの女がプロシーン荒らそうとすんなよ』
『はいはい初戦敗退乙』
画面越しに突きつけられるのは、長年泥をすする思いで格ゲーシーンを支えてきた古参ゲーマーやアンチたちの「話題作りにプロの予選を使うな」という、冷ややかで重苦しい敵意だった。
「……あぁん? 画面の向こうでガタガタうるせぇハエどもだな……」
蓮がヘッドセットを装着しながら不快そうに前髪をかき上げると、背後に立つOUKAがポケットに手を突っ込んだまま静かに告げた。
「言ったはずだ。お前は今、ネットの9割の人間から嫌われている。『ただのVTuberの女』がプロの枠をひとつ奪ったと思われているからな」
「……ハッ! 最高じゃねぇの」
蓮は華奢な指の関節をポキポキと鳴らし、狂暴なヤンキーそのものの笑みを浮かべた。
「温く応援されるより、アタシを舐めきったドブネズミどもを絶望のどん底に叩き落とす方が、100億倍ゾクゾクすんだよ!」
「……その意気だ。マインドだけは合格点をやろう」
防音ガラスの向こう側、サブコンで見守るすずとルナが、祈るように胸の前で手を握りしめていた。
「コメント欄、すごく荒れてます……。みんな蓮さんのこと、酷い言い方して……」
みあが身を縮こまらせると、飛鳥が力強く頷いた。
「大丈夫だよ、みあちゃん。画面の向こうの人たちは知らないだけだから。蓮さんが……この数日間、どれだけの努力をしてきたのかを」
その時、大会専用Discordから重厚なシステムアナウンスが響いた。
『——EVO JAPAN オンライン予選Bブロック、第1試合! あかぎ蓮 VS GOUKI! マッチング完了。試合を開始してください』
対戦相手のGOUKIは、数々の大会で実績を残してきた堅実なベテランプロゲーマーだ。
GOUKIは自身の個人配信で、「へっ、VTuberの女がプロの真似事かよ。サクッと荒らし回って大恥かかせてやりますよ」とカメラに向かってニヤニヤと笑っていた。
相手の挑発的な空気を画面越しに察知しながら、蓮はゲーミングチェアに深々と腰掛けた。
膝の上に重厚なアケコンを置き、一瞬だけ目を閉じる。
脳裏に浮かぶのは、このスタジオでOUKAから嫌というほど叩き込まれたフレームの数字と、1フレームの妥協も許さない【理】の記憶。
目を開けた時、蓮の瞳から「迷い」は完全に消え去り、獲物を噛み殺す狂犬の鋭い眼光だけが宿っていた。
「……おい、OUKA」
背後に立つOUKAに、蓮は振り向くこともせずガンを飛ばすように言い放った。
「100点どころか120点出してやっから、目ぇ皿にしてアタシの足元舐めてな!」
「フン……せいぜい口だけにならないことだな」
『ROUND 1 —— FIGHT!』
画面に赤と白の文字が躍り出た瞬間、オンラインの海を舞台にした狂犬の初陣が、ついに火蓋を切った。




