第37話:研がれる爪
プレスリリースが世界を激震させ、SNSのトレンドが『Vスタ』の文字で埋め尽くされたあの日から、三日が経過した。
Vスタの新たな特訓拠点となっていたのは、港区にある『Minty Agency』本社の地下に新設された、最先端の防音配信スタジオだった。
防音壁で完全に遮音された室内には、最新のハイスペックPCと超低遅延のゲーミングモニター、そして神代弦が持ち込んだ解析用マルチディスプレイがズラリと並んでいる。ボロアパートの埃っぽさとは無縁の、白とシルバーを基調とした洗練された空間だ。
「……また遅れた。あと1フレームだ」
スタジオ内に、冷徹な声が響く。
プロ仕様のゲーミングチェアに腰掛け、アケコンを握りしめるあかぎ蓮の背後に立っていたのは、パイプ椅子に深く腰掛けたOUKAだった。
腕を組み、モニターのフレームデータを鋭い眼光で見つめるその姿は、かつて二つのタイトルを制覇した絶対王者の風格そのものだ。
「っ……! んだとコラ、今のは完璧に立ちガード挟んでから確定反撃叩き込んだろ!!」
蓮が額に汗を浮かべ、指先に巻き直したバンテージをきゅっと締め直しながら振り返って吠える。
「反撃のコマンド自体は合っている。だが、相手の足払いに対するガードの判定が1フレーム遅い。相手が『確認上手』のトッププロなら、あの1フレームの猶予で立ちガードを察知し、下段ではなく中段の崩しに切り替えてくる」
OUKAは手元のタブレットをトントンと指で叩き、弦が同期させたマルチディスプレイに録画スロー映像を映し出した。
「ほら見ろ。お前のキャラクターの腰が一瞬浮いている。感覚でキーを入力している証拠だ。『見届けてから押す』んじゃない。『相手のモーションの予備動作から判定を逆算して置く』んだ」
「くそが……っ! 画面のドット単位の動きなんか、いちいち意識してられるかよ!」
「意識するんじゃない。体に叩き込んで無意識に出せと言っている」
OUKAは冷たく言い放つと、容赦なく「もう一度だ」とトレーニングモードの再戦ボタンを押した。
スタジオのサブコン側では、みあと飛鳥がMinty Agencyのカフェスペースから持ってきた冷たいドリンクとタオルをトレーに乗せ、防音ガラス越しにハラハラした様子で見守っていた。
「……OUKAさん、すごく厳しいですね。蓮くん、昨日からほとんど寝てないのに……」
みあが小声で呟くと、ルナも心配そうに胸の前で手をぎゅっと握りしめる。
「うん……プレスリリースが出た直後に『EVO JAPAN』の運営から届いた、あの推薦出場。大会は今週末だもんね。詩織さんがこのスタジオを貸してくれて本当に良かったけど……準備期間がなさすぎて、蓮さんも余裕がないんだと思う……」
プレスリリースで世間を騒がせた直後、Vスタ宛てに届いた『EVOLUTION JAPAN 予選ブロックB』への招待状。
本来なら数ヶ月かけてキャラクターの対策を練り、コンディションを整えて臨むのがプロの世界だ。だが、与えられた猶予はわずか四日間。
「二人とも、飲み物ありがとな。……おい蓮、一旦休憩にしろ。根詰めすぎると指の反応が鈍る」
ガラスドアを開け、缶コーヒーを片手に持った駆が静かにスタジオへ入ってきた。
「……けっ、休憩なんか要らねぇよ! あと10回……いや100回やって、このすました顔の元王者にギャフンと言わせてやる!」
蓮がアケコンのボタンをバチンと強く叩く。
だが、その肩はわずかに落ちており、指先が疲労で小さく震えているのを、駆も見逃さなかった。
「蓮。お前の強みはなんだ?」
駆の静かな問いかけに、蓮はぴくりと反応し、振り向いた。
「ハッ……相手をねじ伏せる圧倒的な『野性』と『攻撃力』だろ」
「そうだ」と駆は頷く。「だがな、OUKAが教え込もうとしているのは、その野性を『確実に獲物に届かせるための鉄檻』だ。ただ暴れるだけの犬はプロのリングじゃ狩られる。鉄檻から解き放たれる一瞬の爆発力——それを手に入れるための特訓だ」
「……」
蓮は不機嫌そうに口を噤んだが、駆の言葉の意図を理解したのか、深く息を吐いてアケコンから手を離した。
「……どうぞ、蓮くん。冷たい麦茶です」
みあが差し出したグラスを、蓮は一気に喉へ流し込んだ。
「はぁーっ……! くそっ、頭が痛くなってくるぜ。このスタジオ、機材が凄すぎて言い訳もできねぇし……あの野郎、人間じゃねぇよ。フレームデータを頭の中に丸暗記してやがる」
「ふふ、でも蓮さん、昨日よりずっとOUKAさんの指示についていけてるよ?」
飛鳥が柔らかい笑顔でタオルを差し出す。
「そうですよ! 最初の日は『何言ってるかさっぱり分からん!』って叫んでアケコン投げそうになってたじゃないですか」
みあの言葉に、蓮は「ぶっ叩くぞみあ!」と顔を真っ赤にしたが、反論はしなかった。
スタジオの反対側では、OUKAが一人でPCの前に座り、静かに動画データを解析していた。そこへ弦が近寄り、新しいデータを画面に表示させる。
「OUKAさん。予選Bブロックで蓮くんと当たる可能性が高い注目のシード選手、3名の過去半年分の対戦データをまとめ終わったよ。このスタジオのサーバーなら、相手のコマンド入力の癖と画面端でのガード比率を即座に可視化できる」
「……助かる、神代。これで蓮の脳内に『相手の選択肢の確率』を叩き込める」
OUKAは静かにグラスの水を口にし、ちらりと蓮の方を見やった。
「あいつの反射神経と直感は、俺が過去に見てきたどの格ゲーマーよりも鋭い。だからこそ……感性だけに頼らせるのはもったいない。理論という武器を持たせれば、あいつは世界を獲れる」
滅多に人を褒めないOUKAの口から漏れたその言葉に、弦はメガネの奥の目を丸くし、嬉しそうに口角を上げた。
「……ふふ、それを直接あの子に言ってあげればいいのに」
「余計なことを言えば調子に乗る。……おい蓮、休憩終わりだ。次はシード選手の『画面端での暴れ癖』の対策に入るぞ」
「けっ! 言われなくても立ち上がってやらぁ! 見てろよOUKA、今度こそ1フレームの狂いもなく叩き潰してやる!」
防音スタジオの中に、打鍵音と熱い怒号が再び響き始める。
大会本番まで、あと二日。
最先端のスタジオで、狂犬の爪は着実にとぎ澄まされていた。




