第30話:狂犬の悩み
夜の冷たい風が、スタジオの裏口を抜けていく。
アケコンを両腕でぎゅっと抱きしめ、あかぎ蓮は前髪で目を隠したまま、静かに夜の街へ足を一歩踏み出そうとしていた。
「一人で帰る気か、蓮」
背後から届いた低く静かな声に、蓮の肩が跳ねた。
振り返ると、廊下の暗がりの中で影を纏った駆が立っていた。楽屋の熱狂からそっと抜け出し、最初から蓮の気配を追っていたかのように。
「……駆……」
蓮の声が微かに掠れる。
「別室の試合結果は見ていた。相手は世界大会を何連覇もしているプロの絶対王者だ。1HITも奪えず、パーフェクトでやられたな」
「……あはは、知ってんならわざわざ口に出すなよ……惨めだろ」
自嘲気味に歪む蓮の唇。だが、その瞳からボロポロと溢れ出す大粒の悔し涙を、もう隠すことはできなかった。
「悔しいんだよ……ッ! アタシが……アタシがどれだけ格ゲーに時間を注ぎ込んできたと思ってんだよ……! 毎日毎日、手足が痺れるまでコンボ練習して……立ち回り研究して……っ! なのに、かすり傷ひとつ負わせられねぇで……手も足も出ねぇで叩き潰されたんだよ……っ!!」
アケコンの天板にボタボタと涙の染みが広がっていく。
格ゲーライバーとして己のセンスと腕前だけに誇りを持っていた蓮のプライドが、完膚なきまでに砕け散った瞬間だった。
駆は泣きじゃくる蓮の前に静かに歩み寄ると、ポケットに手を突っ込んだまま冷徹に、けれどまっすぐ告げた。
「お前には、今ここで二つの道がある」
「……二つの……道……?」
「一つは『プロの世界』へ足を踏み入れたち向かう道だ。だが……プロになるということは、スポンサーの看板を背負い、結果だけを求められ、今までのように仲間と好き放題やる自由な配信者の時間を捨てることを意味する。血反吐を吐くような座学と練習に殺される日々だ」
駆の瞳が、暗闇の中で鋭く光る。
「もう一つは——このまま『Vスタ』のライバーとして、仲間たちと気楽に楽しく配信を続ける道だ。お前がそれを選ぶなら、俺もみあたちも誰も責めはしない。今日負けたことも、明日からの配信で『世界王者にわからせられたわー!』と笑い話のネタにして、リスナーと盛り上がればいい」
「……っ! ネタにして……笑う……!?」
蓮の胸が、激痛とともに締め付けられた。
「お前はどうしたい。自由な配信者のままでいるか、勝つためにすべてを捨てる修羅になるか」
プロの道を歩めば、今のVスタでの気楽で楽しい日常は二度と戻ってこないかもしれない。だが……あの敗北を「配信のネタ」にして笑って誤魔化すことなんて、アタシの魂が、プライドが、絶対に許さない。
(アタシは……どっちになりたいんだよ……っ!?)
葛藤に全身を震わせる蓮の肩に、駆の手がぽんと乗せられた。
「答えを今すぐ出す必要はない。……だが、もしお前が修羅の道を選ぶなら、俺がかつて世界を制した『伝説の元プロ』を指導者として手配してやる」
駆はそれだけ言い残すと、背を向けて静かに歩き出した。
同じ刻。街の喧騒から離れた静かなビルの一角。
重厚な防音扉の向こうに広がるのは、Vスタのボロアパートではなく——弦が個人で所有するプライベートスタジオだった。
「はい、ルナちゃん! こっちが僕の自慢のメインPCで、グラボは最新の二枚挿し! オーディオインターフェースは海外から直輸入したカスタム仕様で、マイクのプリアンプはね——」
「ちょっと弦さん! ルナさんが引いてますから! 機材のオタクトークは後にしてあげてください!」
「ええっ!? 引いてないよねルナちゃん!? ほら、このつまみの削り出しの金属感とかたまらないでしょ!?」
「ふふ……っ、うん、すごくカッコいいよ。弦さんの機材への愛がすごく伝わってくる」
手作りのパーティー料理が並ぶテーブルを囲み、賑やかな声が響く。
潜伏先から変装して秘密裏に駆けつけた天月ルナは、出されたタコ焼きを口に運びながら、目元を優しく緩めていた。
「美味しい……! これ、本当に弦さんが焼いたの?」
「ふふん、全自動の高級タコ焼き焼き器がね! でも生地の出汁の黄金比率は僕の特許だよ!」
「もう、弦さん威張りすぎです! ルナさん、こっちの唐揚げも食べてください! 駆さんが途中で買ってきてくれたやつなんですけど!」
みあが弾けるような笑顔で皿を差し出す。
Live:CLOWNにいた頃は、高級なケータリングが用意されていても、常に「数字」と「社長の監視」という重圧に押し潰されそうな冷たい空気しかなかった。
「すごいな……Vスタって……。こんなに温かい場所なんだね……」
ルナの目から、ぽろりと温かい涙が零れ落ちた。
「ルナさん……?」
「ううん、何でもないの。ただね……Live:CLOWNにいた時は、誰が味方で誰が敵かも分からなくて、ずっと一人で戦ってる気がしてて……。でも、ここにはこんなに笑い合える仲間がいるんだなって思ったら……すごく嬉しくて」
みあはルナの手をそっと包み込んだ。
「これからは、ここがルナさんの居場所です。私たちが……Vスタが、ルナさんのホームですから!」
「……うんっ! ありがとう、すずちゃん……ううん、みあちゃん!」
二人が見つめ合って笑い合ったその時、スタジオの重厚な防音扉が重々しく開いた。
「……ういーす。遅くなって悪りぃ」
アケコンを抱えた蓮が、少し目元を赤く腫らしながら入ってきた。
「あ、蓮ちゃん! お帰りなさーい!」
「蓮さん! 試合お疲れ様でした! ライブ、見ててくれましたか!?」
みあと弦がパッと弾けた笑顔で駆け寄ってくる。その純粋な温かさと歓迎の熱気が、蓮の胸にチクチクと鋭い痛みを刺す。
「……おう、見たぞ。凄かったじゃねぇか、二人とも。同接50万超えとか……Vスタも、ついに歴史動かしたな」
蓮はいつもの勝気な笑みを無理やり浮かべ、みあの頭を雑に撫でて見せた。
「蓮さん……? なんだかお顔、赤くないですか……?」
「あ? ああ、負けて悔しくて顔洗ってきただけだ! 気にするな!」
「え……でも」
「ハッ、相手が強かった! そんだけだ! ほら、今日はみあとルナのライブ大成功のお祝いだろ? アタシの負け話なんてどうでもいいんだよ!」
努めて明るく振る舞い、タコ焼きを口に放り込む蓮。
だが、その視線の先——機材の影で静かにグラスを傾けている駆と、ピタリと目が合った。
(プロの道か……このままの自由な配信者か……)
みあたちの無邪気で温かい笑顔。
ルナが居場所を見つけて心から笑っているこの最高の空間。
(この自由で気楽な『Vスタのあかぎ蓮』を捨てるのか……? でも……あの世界王者の顔面を叩き潰さなきゃ……アタシは一生、自分を許せねぇ……)
大好きな仲間たちとの居場所を守りたい気持ちと、胸の奥で黒く渦巻く「世界王者に勝ちたい」という狂暴な衝動。
相反する二つの感情の挟み撃ちに合いながら、あかぎ蓮の心は静かに、けれど確実に壊れていくほどの激しい葛藤へと呑み込まれていった。




